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良知 自律
 
2016年7月18日 10時27分の記事

The Story of Stone


『淮南子』では次のように断言されている。

禹は石から生まれた〔禹生於石〕。

高誘(2世紀)はこの箇所に注をつけている。

禹の母である脩己は石に感応して[妊娠し]出産した。禹は母の胸を破って出てきた〔禹母脩己感石而生。禹折胸而出〕。

『論衡』では、禹の母は実を飲み込んで妊娠したと書かれている〔禹母呑   而生禹〕。『潜夫論』には禹の誕生についてやや異なる記述があり、禹の母が妊娠したのは流星を見たことによる。『史記』は二つのテーマを組み合わせている。

父の 〔魚へんに系〕 の妻であった脩己は流星が昴を貫くのを見て、夢で心に感ずるものがあった。神珠と蓮の実を飲み込んだ。胸が避けて禹を生んだ。

ここで注目すべきなのは、流星が石の意味―地上に落ちた隕石―を含んでいることである。また、禹の異常な誕生というテーマが現れて禹の英雄神話が完成したのは、漢代中期以前であると推定することもできる。古代の思考体系において、禹の神的な生みの親が人間としての母のかたちを取っていないことは明らかである。それは卵のモチーフのさまざまな変種―真珠、蓮の実、流星、あるいは石そのもの―のかたちを取った超人間的な要素となって現れている。

禹の誕生神話において重要な役割を果たす神的な力は、洪水制圧という手ごわい仕事をめぐる伝説において、玉(ぎょく)という媒体を通しても表現される。禹はあるときには黒い玉を、あるときには玉のふだ〔玉簡〕を、神々から贈られたという。

『水経注』に言う、「禹が西方の さんずいに兆 水まで行くと、背の高い人がいてその人から黒い玉を受けとった。この人はおそらく神[長乗]であろう〔水経注云、禹西至 水之上、見長人受黒玉。疑即此神〕。

黒い玉は、このテクストでは特に何かのきっかけになるモチーフではないようだ。もっともありそうなのは、禹がみごとに任務を果たした報酬として舜帝あるいは天が与えた玉と同一のものだということである。
92


「陽は熱気と乾燥とを生み出すので、過剰になった場合には強制的にエネルギーを減少させ、冷気と湿気を生み出す陰が機能するようにしなければならない。この逆もまた然りである」
100


最初の字書『説文解字』の玉の定義は 今日でも有効

玉を五つの美徳をもつ美しい石の一種である
・うるおいとつやがあり、「仁」の特徴をもつ。
・外側を観察すれば、この石を理解する人にはその内側が明らかになるという点で、「義」の性質に似ている。
・その音が伸びやかで遠くまで届くことは「智」の性質に似ている。
・折れても完全性を失わず、自己を守る性質の内在を表すことは、「勇」の性質に似ている。
・完全な状態で瑕がないことは、「潔」の性質に類する。
182


「一方は汚染され 他方は清らか」「泥や汚れの隠喩」
「荒々しさによって絶えず侵害されているという強い意識から」「象徴的な浄化行為として口をすすぐ」
198



(李贄の)「童心」の隠喩はその単純な表現のうちに 長い中国の文化史と思想史においてずっと延期されてきたイデオロギー転覆の種を含んでいる

李贄の概念枠組みにおいて「童心」「真心」「本心」が同じモチーフの変種であるのは、興味深いことである。この三つの概念は相互に交換可能であるのみならず、一つ一つが李贄が真人の特徴と考える理想の心の重要な一面を表している。純真なもの、原初のものといった範疇は、従来それらに対する価値概念―洗練されたもの、人為的なもの、派生的なもの―に従属していた。しかし今や新しい審美観や道徳観にとっての特権的な参照点となって、不干渉に賛同し、模倣や修養といった儒教原理を批判するのである。この精神的自由のユートピアでは、作為や偽りは敗北し、いつまでも変わらない単純さが、文字の世界だけでなく人間行動の世界においても居場所を獲得する。
215

(…)もしもある人が〔仮〕であれば、その人が行うすべてのことは偽りである。そこで、偽りの言葉を偽りの人に言えば、偽りの人は喜ぶ。偽りの出来事を偽りの人に話せば、偽りの人は喜ぶ。偽りの文で偽りの人と語れば、偽りの人は喜ぶ。偽りでない行いはないのだから、喜ばないものはない。
『童心説』 215



差異の関係に劣らず類似性の関係こそが 石と玉とを意味深い対義的熟語として結びつけている 228

真実と虚偽はひっくり返り、玉と石は混ざりあう[真偽顛倒、玉石混 ]。
『抱朴子』

玉と石のパラドックス 229


宝玉の真のアイデンティティは何なのか―玉か それとも石か 230


宝玉のアイデンティティを問うことは…(『紅楼夢』の)石の言説と玉の言説のあいだ 道徳的言説と形而上学的言説のあいだの固定された境界線を破壊する
232


アイデンティティ ―「己」(自己)― の探求は、中国の伝統においては例外的な現象である。儒教と仏教のいずれにおいても、「己」は欲と同一視されて、社会道徳的な秩序にとっても精神的な悟りの追求にとっても有害とされた。『論語』では孔子が「克己」(自分を抑えること)を命じ、ブッダは涅槃に入るために自己を滅却するようにと説く。道徳と宗教のちがいはあるが、自己修養の実践も宗教的禁欲の実践も、救いの前提条件として自己アイデンティティの消滅を強調するのである。中国文化には、自己を抑制する儀礼や自己に苦行を課す儀礼がたくさんある。一方、自己と他者の区別や、比類のない存在としての自己の登場は、荘子の哲学的伝統に属している。ただしこの伝統は、文化史において散発的に現れては、「全体性」「集団性」「均質性」という儒教の三者同盟に対して戦いを挑むにすぎない。集団組織は、均質で全体化されているだけでなく、異質なものが浸透してもびくともしない抵抗力を具えているようである。
232


悟空のアイデンティティの探求が、破壊的な自己の不気味な登場をもたらし、自己が固定された中心から絶えず分散し始めるまさにそのとき、語り手は、自動的に繰り広げられてきた夢の言説を急に中断して解説を始める。その解説は、悟空の夢の自律性も、悟空が無力なまま陥る分裂状態も、魔物が無敵の主人公をだまして罠にかけるために準備していたプロットにすぎないものとして片づけてしまう。 234


そもそもの始まりから 石が全体化図式の余剰かつ残り物として登場することは興味深い

石の悲嘆は果たしてその言葉どおり たんに屈辱感によるものなのだろうか…それどころか 石が内部に溶けこめなかったのは 全体化する社会の一員となることの「拒否」に他ならないと主張することも可能だろう
235


仮が真となるとき真もまた仮、
無が有となるところ有もまた無。
237


石と玉は 一枚のコインの両面 238


「矛盾によって引き起こされる発展への内的衝動」こそが 主体のアイデンティティ探求を動機づけ、主体は何段階もの精神的危機をくぐり抜けてゆくことになる
241

『石の物語』2015 Jing Wangジン・ワン 廣瀬玲子訳






28表に





古代中国の大洪水伝説についての記事

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かつて、地滑りによる自然のダムがあった積石峡。現在の水位より上にある黄色がかった堆積物は、ダムが一時的に作り出したせき止め湖の跡だ。(PHOTOGRAPH BY WU QINGLONG)

http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/080800048/
解説:黄河に古代の大洪水跡、伝説の王朝が実在?
「ノアの大洪水に相当するほど重要」と研究者、中国最古の夏王朝の裏づけか
2016.08.09

・・・中国で紀元前1920年ごろに発生した地震の犠牲者たち。この地震で地滑りが発生し、黄河がせき止められた。数カ月後、せき止め湖の決壊で起こった大洪水は、中国の年代記に書かれた洪水と同じものなのかもしれない。・・・

8月4日、科学誌「サイエンス」に掲載されたある研究結果が、中国屈指の重要な伝説を地質学的に裏付けるかもしれない。

 4000年近く前、中国の奥地で地滑りが起こり、岩や土砂が黄河の峡谷に流れ込んだ。崩れ落ちた土砂は高さ200メートルにもなる巨大な自然のダムとなり、数カ月にわたって川をせき止めた。やがてダムが決壊すると水が一気に流れ下り、周辺の地域に押し寄せて大洪水を引き起こした。これが「サイエンス」で報告された筋書きだが、この洪水が、中国史を大きく動かした可能性がある。幻と言われる中国最古の王朝、夏王朝は、大洪水をきっかけに成立したと言われてきたからだ。(参考記事:「ミシシッピ文化、カホキアは洪水で衰退」)

「この洪水は、西洋で言えばノアの大洪水に相当するほど重要です」と話すのは、この研究を主導した北京大学の呉慶龍氏だ。

 伝説によると、古代の中国は湿った土地がどこまでも広がり、住めるようにするのに何十年もかかった。それが成し遂げられたのは、禹(ウ)という英雄の力が大きい。この功績によって禹は政治的権力を得て、夏王朝を起こした。

 だが、夏王朝の実在をめぐっては激しい論争が続いている。その存在については、数世紀後に書かれた物語が根拠となっており、考古学的な裏付けのある文献が夏王朝と具体的に結び付けられたことはなかった。

 新たに確認された洪水の跡が伝説の大洪水だとすれば、夏王朝の存在に関して興味深い証拠が得られたことになる。まず、この洪水が発生したのは紀元前1920年ごろと推定され、中国史における重要な画期と一致する。青銅器時代と二里頭文化の始まりで、この時期が夏王朝にあたると考える考古学者もいる。

 論文の共著者で国立台湾大学のデビッド・コーエン氏は、「大洪水が実際に起きていたとすれば、夏王朝も実在した可能性が高いと言えます。洪水は夏王朝の成立に切り離せない事柄ですから」と話す。

黄河の水位が一気に40メートル上昇

 呉氏にとって、この発見は9年間の長旅に区切りをつけるものとなった。黄河上流の渓谷、積石峡を調査していた呉氏が洪水の痕跡を初めて見つけたのは2007年のことだ。

 現地調査とグーグルアースの写真から、峡谷に湖の跡に残るような黄色がかった堆積物があるのが確認された。つまり、過去のある時点でこの川がせき止められていたことになる。

 次いで呉氏は、25キロほど下流にある喇家(らつか)遺跡を調査。地震で破壊された洞窟群がある場所だ。この遺跡から出た人骨を放射性炭素により年代測定したところ、洞窟は約3900年前に破壊されたことが判明した。

 喇家遺跡には、周辺の土砂とは違う特徴的な黒い砂がこびりついていた。呉氏は、この黒い砂は地震から1年以内に喇家に流れ込んだに違いないと指摘する。分析の結果、この土砂は上流、ちょうど積石峡のあたりから流れてきたことが分かった。

 間もなく、呉氏は有力な証拠を見つけた。地滑りによって積石峡に押し寄せた、天然ダムの残骸だ。この発見は2009年に発表されたが、その後、自然のダムが想定よりはるかに大きかったと分かった。一帯をあらためて調査すると、幅800メートル、奥行き1300メートル、高さ200メートルという巨大なダムの痕跡が見つかった。

 論文の共著者で、米パデュー大学の地質学者ダリル・グレンジャー氏は、「米国のフーバーダムや中国の三峡ダムに匹敵する大きさです」と話す。「それほどのダムが決壊したと想像してみてください」(参考記事:「洪水の中国、三峡ダム:放水」)

 研究チームが再計算したところ、9カ月間せき止められていた川の水が数時間のうちに放出され、ピーク時には、1秒間にオリンピックサイズのプール160杯分の水が川を流れ下ったという数値がはじき出された。

 このとき、喇家では水位が土手より最大で40メートルも高くなった。これにより、数百キロ離れた低地では黄河の川筋も変わってしまい、土地が湿った状態が何年も続く原因になったのかもしれない。(参考記事:「「東洋のグランド・キャニオン」、ダム計画を変更へ」)

 今回発生が確認された洪水と下流への影響が空前の規模であったことを考えると、これが伝説の大洪水のことだと呉氏は主張する。「夏王朝と大洪水、そして治水は、中国で2500年以上にわたって事実とされてきました」と呉氏。「今回の研究で、大洪水に関して科学的な証拠が示されました。これは、夏王朝に関する他の文献にも信頼性があることを意味します」

歴史が先か、神話が先か

 しかし今回確認された洪水は、夏王朝の実在をめぐる論争に終止符を打つ発見とまではならないようだ。なかには、この論争は決して決着しないとする専門家もいる。

・・・喇家遺跡の人骨住人たちの命を奪った地震は、地滑りによって自然のダムをも作り出した可能性がある。(PHOTOGRAPH BY CAI LINHAI)・・・

 米ダートマス大学で古代中国を研究するサラ・アラン氏は、今回の研究には関わっていないが、「中国の成り立ちを理解するのに、今回確認された証拠が有益であると認識するのは大切です」と話す。一方で「彼らは、修正や改変があるにせよ、大洪水伝説には歴史的事実が含まれていることを前提としています。私は、伝説は必ずしも事実ではないと思います」と語る。

 アラン氏や他の研究者たちは、大洪水の伝説を「後に現れた王朝が、支配を正当化するために利用した創造神話」と理解するのが最も適切だと論じる。この見解を説いた著書の中で、アラン氏は「殷王朝(商とも呼ばれる)は、太陽の末裔とされる王たちが夏王朝と戦った、と自らを神話化した。さらに、続く周王朝は、この物語を歴史的な先例として、殷の征服を正当化した」と記している。

 アラン氏は呉氏らが洪水の発生を実証したことは賞賛しつつも、夏王朝の史実性は夏時代の文献が現れなければ確定しないと指摘している。今回確認された洪水の痕跡だけでは解決できない問題だ。

「彼らは洪水について、歴史が神話になったのだと主張しますが」とアラン氏は言う。「私は、神話が歴史になったのだと考えます」

文=Michael Greshko/訳=高野夏美






古代中国の大洪水伝説、地質学で論証
2016年08月06日(Sat)  BBC News
ジョナサン・ウェブ科学担当記者

中国最古の王朝、夏の成立につながったとされる、伝説の黄河の大洪水が実際に起きていたことを示す地質学の研究論文が5日、米科学誌サイエンス電子版に掲載された。

夏王朝の始祖、禹は川岸の浚渫(しゅんせつ)や水路の変更で黄河の治水に成功したとされる。

大洪水の科学的な証拠はこれまで見つかっていなかった。

研究チームによると、紀元前1900年頃、地震によって起きた土砂崩れで、山峡を通る黄河が半年から9カ月の間せき止められた。その後、ダムのように水をせき止めていた土砂が崩れ、16立方キロに及ぶ水が下流の低地帯に流れ込んだ。

こうした出来事が実際にあったと示す証拠は、現在の青海省にある、黄河がせき止められた場所の沈殿物や、何キロも離れた下流まで流れた堆積物の調査で発見された。

論文の主執筆者、南京師範大学・地理科学部の呉慶竜教授は、2007年に現地を調査した際、ダムになっていた場所の堆積物を偶然見つけたと話す。「それで、25キロ下流にある先史時代に住民に放棄された喇家村を連想することにつながった。しかし当時ずっと、この破滅的な洪水の証拠が何であるべきか、全く分からなかった」。

世界最古の麺が見つかった場所として知られる喇家遺跡は、中国のポンペイとも言われ、洞窟住居や多くの文化遺跡は大規模な地震によって地下に埋まっていた。

呉氏は、「2008年7月に突然、喇家遺跡で考古学者が発掘したいわゆる黒砂が、実は我々が調べていた突発的な洪水の堆積物なのではないかと思いついた」と語る。

「その後行った調査で推測が正しいことが裏付けられ、突発的な洪水による堆積物は最大20メートルの厚みがあり、黄河から最大50メートル高いことが示され、前例のない、破滅的な洪水だったことが示唆された」

呉教授と研究チームは論文で、喇家村を破壊したのと同じ地震がおそらく、川の上流をせき止めた土砂崩れを起こしていたと指摘している。その後1年経たないうちに、大きな被害をもたらす洪水が起きたという。

論文の共同執筆者である米パデュー大学のダリル・グレンジャー教授は、「洪水は現在の川の水面より38メートル高いところにまで達した」と語った。「過去1万年で地球上で起きた最も大規模な洪水のひとつだ」。

洪水堆積物から喇家遺跡に残る地震による犠牲者の骨まで使った炭素年代測定により、大洪水が起きたのは紀元前1922年とみられることが分かった。「誤差は28年くらい」(グレンジャー教授)だという。

禹が夏王朝をうちたてるきっかけになったのが実際に大洪水だったとすれば、夏王朝の始まりは大洪水から数十年以内とみられ、紀元前1900年前後になる。

その場合、従来の説よりも200〜300年歴史を下ることになる。しかし、歴史資料で禹の治世を裏付けるのは容易ではない。1000年余り口述で伝えられた後、歴史書に登場するのは紀元前1000年前後からだからだ。

一方で、紀元前1900年あたりで夏王朝が始まったとすれば、石器時代から青銅器時代の移行期と一致することになる。考古学者らはすでに、黄河流域の発掘品で存在が知られる初期青銅器時代の二里頭文化と夏王朝の関連性を指摘していた。

論文のもうひとりの共同執筆者である台湾大学のデイビッド・コーエン教授は、今回の論文について、さまざまな証拠が絡んだ注目すべき研究だと話す。

「とても大きな突発的洪水の地質学的証拠そのものが信じがたく素晴らしいが、加えて、とても、とても正確な時期が特定できる喇家村の破壊と同時に起きたという一致だ。その上、これほどまでの規模の洪水が、黄河流域の青銅器時代の始まりと洪水の伝説両方の時期と一致している。ただただ驚くべき話だ。さまざまなアプローチの研究がつながった。ただただすごい幸運だ」

米ワシントン大学で地形学を研究するデイビッド・モンゴメリー教授は、岩石から得られる情報と古代の神話や伝説の関連に関心を持ってきた。今回の研究には関わっていないが、論文の論評を書いている。

モンゴメリー教授によると、世界に残る洪水伝説の中でも、禹の伝説は変わっているという。「生き残ろうとする話ではない。基本的に洪水した土地から水を流し出すという、治水技術の話だ」。

モンゴメリー教授は、黄河流域の山峡の大洪水に説得力があるのは、特に、遠く離れた下流で川岸を破壊し、流れを変える洪水だったと語られるからだという。

川の氾濫(はんらん)との戦いが禹の伝説の中心になっているが、モンゴメリー教授は、このような洪水の対策はまさに何十年もかかると指摘する。

「先史時代の出来事の出どころを証明するのは非常に難しい。しかし、研究チームはとても面白い論証を提出した。地質学者が今後も、いろいろと反論し、調査し、議論をし続けることになるだろう。それが我々がすることだからだ」

モンゴメリー教授は、純粋に地質学的な面で、洪水の証拠を見つけたのは、大きな、興味をそそる発見だと指摘した上で、「しかし、中国の洪水伝説の源を説明するという文化的な連関は、無視するにはあまりにも興味深い」と語った。

(英語記事 Rocks tell story of China's great flood)

提供元:http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-36994836




中国・伝説の大洪水、初の証拠を発見 文明史書き換えか
2016年08月05日 06:34 発信地:マイアミ/米国


中国・重慶の湖広会館に展示される禹王の像を清掃する作業員(2015年11月1日撮影)。(c)AFP/STEPHANE DE SAKUTIN

【8月5日 AFP】中国の黄河(Yellow River)で4000年前に大洪水が起きたことを示す初めての証拠を発見したとの研究結果が4日、発表された。この大洪水は、夏(Xia)王朝とその後の中国文明の誕生につながったとされる。

 米科学誌サイエンス(Science)に発表された研究結果によると、大洪水が発生したのはこれまで考えられてきたよりも数百年遅い紀元前1920年。これは、禹(Yu)王による夏王朝樹立の時期が通説よりも遅かったことを意味し、この発見により歴史が書き換えられる可能性がある。

 禹王はこの大洪水で、水の流れを元の水路に導くために必要なしゅんせつ工事を指揮し、治水の才能を発揮した人物として名声を得た。研究を主導した南京師範大学(Nanjing Normal University)地理科学部の呉慶竜(Wu Qinglong)教授によると、禹王は秩序の回復を果たしたことにより「中国初の王朝である夏朝を樹立する聖なる権能を手にした」という。

 禹王の物語は儒教に基づく統治制度の基礎となったが、近年では洪水が実際に起こったことを疑問視する学者も現れ、王朝国家体制を正当化するための作り話にすぎなかったのではないかと指摘していた。

 地質学者からなる研究チームは、青海(Qinghai)省の黄河に沿って調査を行い、土砂崩れによってできた天然ダムの名残や、せき止め湖や突発的洪水で生まれた堆積物を調べた。

 論文を共同執筆した米パデュー大学(Purdue University)地球大気惑星科学部のダリル・グレンジャー(Darryl Granger)教授が電話記者会見で語ったところによると、調査の結果、過去1万年間に発生したことが分かっている中でも最大級の大洪水があったことが示された。その際の水位は、現在の黄河よりも38メートル高い位置まで上昇したという。

 これほどの大洪水が起きると、岩屑(岩石の破片)などの堆積物が攪拌(かくはん)され、古い土壌と新しい土壌が混ざるため、研究チームは堆積物ではなく、大洪水の原因となったとされる地震の犠牲者の骨から大洪水が発生した年代を測定した。

 研究チームによると、この地震により発生した土砂崩れが、川をせき止めて天然ダムを形成。これが後に決壊し、大洪水が発生した。研究チームは、地震で崩壊した建物のがれきの中から見つかった3人の子どもの骨に対し、放射性炭素年代測定を実施。その結果、3人が紀元前1920年に死亡したことが分かった。同地域ではちょうどこの時期、大きな文化革新が起きたという。(c)AFP/Kerry SHERIDAN


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