このブログのトップへ こんにちは、ゲストさん  - ログイン  - ヘルプ  - このブログを閉じる 
くる天
最近の記事
05/04 22:35 放射線
05/01 12:15 地のひ
04/22 12:12 「御田(みた)」「御薗(みその)」
04/15 21:13 清戸道にて
03/30 08:38 つまみ簪
03/11 14:52 歯ごたえ
03/04 15:03 屯倉・名代など
01/27 15:08 境地とは
01/11 15:11 植線
01/02 18:43 家紋
フリースペース

注:文中の「?」は、疑問符を表す場合と、ローマ数字が反映されていないケース(携帯電話からの送付分)による表れがあります。


* * * * * 



2021.9.12



RSS
プロフィール
ka-on さん
和音
ポップアップリンク
ブログ内検索

盛土 崖縁のドラマ
 
2017年8月27日 9時0分の記事



記入時(27)に ふと思い出しまして  6.7 7:52撮影の・・ 
この画像上部に写っているのが平川橋なのかも 右上がパレスサイドビルで


6月の初旬でしたか
業務開始時刻が1時間早まったことで すれ違う人々も変わり

そのあたりの門から敷地内に入る職員は
皆自転車に乗っていることに気づきました


2011年の2月末?頃には 二の丸庭園に


「鳥瞰」ということで (鳥のようにも)
そのあたりの位置関係を平たく眺められ

また 具体的な 記憶の呼び起こしなども 可能 (画像 P81、82)


・・ ・・ ・・ ・・


デジタル鳥瞰『江戸の崖 東京の崖』2012 芳賀ひらく

第6章 崖縁の城・盛土の城 ――江戸城――

「江戸以前」の城館は、武蔵野台地東端、日比谷入江を見下ろす崖の上におかれていた。近世江戸城造営の巨大な地形改変は、タイムカプセルのように古い地形を地中に封じ込めていた。

近世初期の巨大な地形改造

江戸城の三の丸、二の丸は、江戸初期に土盛された階段状の造成地。日本橋川は本郷台からつづく微高地を開削して東流。古代から中世までの武蔵国の国府は府中であり、この地は武蔵国の東端、下総を睥睨する崖縁だった 82


太田道灌の城

竹橋駅から東京国立近代美術館前の紀伊国坂を西に上がって約300メートル、平川濠ひらかわぼりと乾濠いぬいぼり(三日月濠)をへだてる北桔橋きたはねばしを渡って皇居警察署員がチェックする城門をくぐり、入園票をもらうと、目の前はもう江戸城天守閣跡。残された白茶色の巨大な石垣(高さ18メートル、標高29.59メートル)が圧倒的ボリュームを誇っています。

左手は宮内庁書陵部や楽部の建物
そのまま進めば大奥跡や「忠臣蔵」で知られる松の大廊下跡

標高20m 南北600m 東西200mほどの細長いその台地の南端に位置しているのは富士見櫓ふじみやぐら(江戸城唯一の三重櫓)

明暦大火で焼失した天守閣に代わって 江戸城のシンボルとされた建物

この富士見櫓の地は、現在の江戸城完成に先立つこと180年前の長禄元(1457)年に、関東管領上杉氏の一族、扇谷おうぎがやつ上杉家の家宰だった太田資長すけなが道灌どうかんがつくった城の「静勝軒じょうしょうけん」があった場所といわれています。「静勝」とは中国の兵書『蔚繚子』の「兵は静を以て勝ち、国は専を以て勝つ」に根拠をおく道灌用兵の要諦モットーらしく、静勝軒とはその「燕室えんしつ」つまり宴署やすらぎどころに付けられた名称でした。

(「道灌の私楼とでもいうべき」)
「静勝軒」の東や南の面には 当時の京都や鎌倉の僧たちの詩文を彫りこんだ 大きな板(詩板)が吊りさげられていたという
写し伝えられた「奇題江戸城静勝軒並序」(蕭庵龍統)や「静勝軒銘詩並序」(漆桶万里)など

そこには道灌への賛と
江戸城が「塁の高さ十余丈、懸崕峭立」「翠壁丹崖屹然として以て高く峙そばだつ」
「懸崖千万仞」「江戸城高くして攀づべからず」「左盤右紆して聿ついに其の塁に升る」
と記されていた

「白髪三千丈」式の表現は、クライアントである道灌のための作文でしょうが、青緑色(翠)の壁に赤土(丹)の崖と形容される「翠壁丹崖」の句には、関東ローム層の台地端を簡潔に言いあらわしたものとして、注目されます。

関東ローム層を主体とした赤土の急斜面
そこに侵入着床した先駆植物 マツ類の緑の対比

しかし道灌築城のときから二世紀を経ずして、大規模な土木工事を重ねできあがった日本最大の城郭は、まったくの異貌。三の丸から二の丸、本丸と次第に積み上がった構造は、かつて川や谷が注ぐ入り江と赤土の崖が色彩の対比をなしてそこにあったとは容易に気づかせない、「平城ひらじろ」(平地に築いた城)の構えに変容していたのです。 86


「山城」だった江戸城

道灌伝説ばかりが残されていて 「江戸」の地の選定に
主家扇谷上杉の意向がどれほど働いているのか わからない

その台地の端は
平安時代末期 桓武平氏の一族秩父重綱の四男重継が相続した土地

その一族は、秩父から荒川(当時は入間川)を通して江戸湾まで支配下においていたのですね。重継が後の江戸城本丸あたりに居館をかまえ江戸太郎と称したことも、今日ではよく知られています。

しかし、浮沈の激しい争乱の時代、江戸氏は自ら衰退のゆえか、道灌に追われたためかわからないけれど、江戸の地と名前を放棄して、本拠地を喜多見(世田谷)に転じてしまうのです。 86

戦国時代半ばまでは 城や城館は「山城やまじろ」が基本
要衝を睥睨し 守るに堅固な地形がえらばれた

(道灌の城も崖淵に位置していた)そのことは 道灌がつくったもうひとつの城 赤羽根の稲付城跡地(静勝寺)に立ってみるとよくわかる

道灌時代の城と江戸初期に完成した城の規模の落差に驚くかもしれませんね。

そのあたりの実際を『新編千代田区史』(通史編、平成10年、千代田区発行)224ページの「中世の江戸城内の地形復原」図でみてみましょう。図の左上から伸びる(A)の部分は、現在の九段坂上から北の丸公園、そして、皇居東御苑に至る細長い台地です。現在の平川濠とその西南の乾濠に隔てられ、南南東につき出したこの舌状台地の先端部分(皇居東御苑西半部)こそ、「江戸館」や「道灌江戸城」の、そして後の「徳川江戸城」の「本丸」でした。

江戸城とその周辺の痕跡は 現代のデジタル標高地形図にも表れ
微妙な標高差を反映している 88

(P87 図3 江戸城とその周辺の微地形 は 江戸城周辺の標高差をもとに「平川」「小石川」「日比谷入江」の形を推測して描き入れたもの)

有楽町・日比谷付近は標高2m 丸の内1丁目付近は同3m
「縄文海進ピーク時」は海の波は台地の裾を洗っていた

地表の凹部としては、江戸期の日比谷入江も平川の谷も一体で、つまりは海面が130メートルも低下していた時代に刻まれた一本の谷だったのでしょう。その谷を、縄文海進ピーク時には「海」がさかのぼり、江戸川橋付近までが入江でした(松田磐余『江戸・東京地形散歩 増補改訂版』150ページ)。海進のピークをすぎて入江は後退したとはいえ江戸氏の館や道灌の城が、「海食崖」の崖縁に立っていたことは間違いないのです。

だから道灌の「築城」時代、城の足元はまだ赤い侵食面を見せていて、腐葉土の不要な植物が多少進入していた程度のまだ「新鮮な崖」だったのです。 89


「江戸以前」の崖っぷち

竹橋駅から皇居東御苑に入るには 平川門口が便利

寛永年間の銘のある擬宝珠ぎぼしを横目に見ながら平川橋を渡り 天神濠を左に見て梅林坂下に出る
標高9mのその地点を右に上がると書陵部の建物で 標高18〜20m
坂下との高低差は10mになる

書陵部のほうに上がらず 梅林坂下から楽部のほうへ向きを変え110mほど進み
汐見坂下に出る そこより先は南北120mほどの「白鳥濠」の水面が石垣を写している

現在私たちが、道灌時代の「前プレ江戸の崖っぷち」をしのぶことができる場所といえば、白鳥濠に屹立し、かつて東方に海を見下ろした関東ローム層の崖を被覆してほぼ南北に連なるこの石垣を、第一に挙げなければならないでしょう。石垣の奥行幅は、約10メートル(2500分の1東京地形図29-17「皇居」より計測)です。高低差を10メートルとみると、10対10の「10割勾配(水平と垂直の長さが同じ値)」となりますから、つまりこの石垣は傾斜角45度の立派な崖。石垣の石積は今日でも美しく手入れされ、維持されています。

けれど その崖下 白鳥濠畔の標高は8.5m

かつての日比谷入江に至近の低湿地で標高ゼロに近いはずが、この値と現在の地形で判断するかぎり台地の続きで、本丸跡より1段低い段丘面にすぎません。

標高がこれほど高いのには訳がありました。徳川時代の江戸城は、三の丸から本丸まで一帯を平均10メートルほど嵩上げ、つまり盛土もりどした巨大地業の上に成立していたのです。

(それを示す)『新編千代田区史』通史編に掲載されている「江戸城内での地層断面想定図」(92ページ 図5)の断面図をみると 台地の沖積層だけでなく台地端の本丸立地面にも盛土して城地を築いていることが判る

盛土の主体は、千鳥ヶ淵の谷を隔てて隣接する高位段丘(吹上地区)のローム層と推定されていますから、吹上台を切り崩したのですね。結局、白鳥濠にそそり立つ石垣は、盛土地業の土留め施設なのでした。つまり本来の「汐見坂」と台地の崖は、この石垣の下にひっそりと眠っているのです。 93


盛土の崖


(高度なテクノロジーと重機器を擁する現代と比較しても)
「江戸時代初期は、日本の土木史上稀にみる画期でした」

城地 大小の運河 上水の開削 埋立
加えて 利根川東遷などの巨大工事は「夜を日についで」進められた

こうした土木事業の「元手」の一部は 幕府により接収され、慶長から寛永年間の間に産出量のピークに達した 石見の「銀」だったのです。

「江戸城内での地層断面想定図」から 盛り土部分を取り除いた形が原地形だったと考えることは可能で 

江戸期以前の地形は 沖積地から10メートルほどのび上がった丘状の台地の先端部で 隣接の吹上地区は そこからさらに高い段丘

そうであるとすると「寄題江戸城静勝軒並序」や「静勝軒銘詩並序」などの
「峻険な山城のごとき表現」は「結構割り引いて読まなければならない」

例えば「塁の高さ十余丈、懸崕峭立」の「十余丈」を文字通りとして計算すれば、一丈は一〇尺、一尺は曲尺かねじゃくの30.3センチだから30メートルあまりとなる。崖高30メートルであれば確かに大崖おおがけだけれども、実際は10メートルほど。話半分ではなく三分の一といったところです。絵画と並び漢字文化の本家からひきついだ表現は「誇張」がお約束でしたし、当時の人々の常識では山城が基本だったとみれば、わからないこともない。
 
しかしながら 30.3メートルあらため10メートルでも 崖は立派な崖
(「本丸」跡の地形は堡塁としては たしかに適切な地形だったのだ)


切土の城・盛土の城

図「江戸城内での地層断面想定図」P91の三つの断面図を見較べると…生じる疑問

・「本丸」にあたる部分には 本来武蔵野台地を覆っているはずの関東ローム層や渋谷粘土層が存在しない
・(3つ目の断面図の)右手の沖積層のみが大地端の斜面に這いあがり その上端はおよそ標高8mほどのところに達しているように見える

これらの原因が、台地の形成時期の差ないしは台地端の地形侵食といった自然にあるのか、人為つまり江戸氏や太田氏、もしくはその後江城主となった北条氏、あるいは徳川氏の築城工事に関わる点なのか、わからないけれど、もし後者であるとすると、江戸時代以降の江戸城は盛土に、前代までの江戸城は切土の上に建設された、という対照がうかび上がってくるのです。

江戸城敷地の嵩上げ工事と平行して 
日比谷入江の埋め立てと平川流路の付け替え工事が進行していた

やがて 平川は神田川と日本橋川に変貌
日比谷入江とともに地図上から消滅

江戸城は自然の河水や海波による侵食から完全に遮断されることに

しかし、近世江戸城の厖大な盛土や石垣などの土木事業は、タイムカプセルのように古い地形を保存していたのです。 
94『江戸の崖 東京の崖』


・・ ・・ ・・ ・・

同書P95のコラムに「鈴木理生まさお氏」登場

muon内「鈴木理生」検索  4つ
http://katation.exblog.jp/25581582/
http://katation.exblog.jp/24246685/
http://katation.exblog.jp/24246649/
http://katation.exblog.jp/24237039/


・・ ・・ ・・ ・・


同『江戸の崖 東京の崖』 コラム 平川の流路より

『千代田区史』上巻(昭和35年刊/『新編千代田区史』の旧版に当たる)P232に
「第一図 古代・中世の江戸図」が掲載されている

都市研究家の鈴木理生氏はこの図を自著『江戸と江戸城 家康入城まで』(昭和50年刊)の見返しに掲げたうえで、この図は「編纂委員杉山博と筆者の合作になる図」で、これほど「江戸および江戸城関係者に多数引用された図はほかにはあるまい」とし、しかし「補正しなければならない点がある」と書いている(133ページ)。杉山博氏は中世史家、鈴木理生氏は『千代田区史』編纂室主任で、『千代田区史』のなかでは鈴木昌雄という名で登場している。

旧版の補正しなければならない点が そのまま引き継がれている
「江戸館をとりまく自然(想像図)」(『新・歩いて見よう東京』五百沢智也)

五百沢氏の図は 新しい知見に照らし いくつか訂正すべきところがある
 
そのひとつは、「江戸の母なる川」ともいうべき「平川」の流路。小石川と合流しつつ流れ下ったそれは、そのまま日比谷入江に注ぐべきところを、江戸館(江戸城)の北から東に向かい、江戸前島の付け根を横切って、隅田川に注ぐように描かれている。

今日では、平川の「東遷」は家康入府後のこととみられ、また赤坂の「溜池」も同時期以降に、上水源として貯水池されたことが定説になっている。

これらを無視あるいは知らずに「江戸以前」を「推定」した地図や絵図は少なくないのである。 95
デジタル鳥瞰『江戸の崖 東京の崖』2012 芳賀ひらく


コラム 「清正がつくった」石垣と崖 96-97と続き 
「切り崩された山の行方――神田山――」 98〜 というつながり


・・ ・・ ・・ ・・
(〜9.3) また 機会をみて?


【PR】電話相談システム開発ならイーステム



このブログへのチップ   0pts.   [チップとは]

[このブログのチップを見る]
[チップをあげる]

このブログの評価
評価はまだありません。

[このブログの評価を見る]
[この記事を評価する]

◆この記事へのコメント
コメントはありません。
Copyright (c) 2006 KURUTEN All right reserved