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「六義園」と名付け 「むくさのその」と呼ばせた (続)
 
2015年7月23日 16時58分の記事



画像:六義園にて 7.15
この日 藤代峠-山は工事中で入れなかった




       。



『六義園』1981 森守 著
東京公園協会監修・東京公園文庫 19



《むくさのその》より

元禄八年(1695)四月二十二日 吉保は加賀藩前田家の下屋敷だった駒込の地約四万五八六二坪(約15万1300平方メートル)を幕府より拝領

そこに六義園をつくった

いわゆる「元禄文化」の真只中にあって彼好みの文芸趣味的発想から

下屋敷を「別荘庭園として利用することを考えた



(その構想は)
江戸時代特有の「廻遊式築山泉水庭園」だが

「小石川後楽園」のような儒教的精神思想による作庭構想とは趣を異にする

(平安時代にみられる「寝殿造の庭」や 室町時代の「書院造の庭」 禅宗の影響を受けた「枯山水の庭」などとも趣を異にしたもの)



本郷台地の一隅四万余坪の広大な土地に 池を掘り 山を築き 流れを見せて

紀州和歌の浦の景勝を あるいは『万葉集』や『古今集』から名勝を選び

園内に八十八境を写しだした



「六義園」と名付け 「むくさのその」と呼ばせ
館も「六義館」と書いて「むくさのたち」と称した



「六義」(りくぎ)
六義とは 詩道の根本を構成する六つの「体」のこと


 賦(ふ) 感想をそのまま述べたもの
 比(ひ) 例をとって感想を述べたもの
 興(こう) 外物にふれて感想を述べたもの
 風(ふう) 民間に行われる歌謡
 雅(が) 朝廷でうたわれる雅正の詞藻
 頌(しょう) 宗廟頌徳の詞藻


以上は 詩経大序にいう六種の分類で

それが和歌になると
「そえ歌(諷歌)」「かぞえ歌(数え歌)」
「なずらえ歌(準歌)」「たとえ歌(譬歌)」
「ただごと歌(徒言歌)」「いわい歌(祝歌)」

の六体となり

紀貫之が前の詩の六体を転用して
古今集の序において述べたものと言われている(『広辞苑』より)




《六義園の構想と作庭》より

作庭については いつから開始されたという記録はないが おおかたの見方は 駒込の地拝領の年からと考えられており

完成は 元禄十五年(1702)十月二十一日とされている(楽只堂年録』『松蔭日記』)


吉保が この地に造園の想を練り 工を起こし 費用も惜しまず

延々七年有半の歳月をかけて
「江戸屈指の宏壮幽雅な大庭園」を作りだした


その八年におよぶ間の世相は めまぐるしく変わる


すなわち「元禄泰平」の言葉がしめすように、天下泰平の名のもとに幕府をはじめ市民生活は、浪費が進み、貨幣改鋳が行われ、元禄九年(1696)六月には、江戸を中心とする大震災が起こり、市民生活を圧迫した。一方、幕府は、元禄十年から三ヵ月にわたる御陵の修復事業を手がけ、同十一年には上野寛永寺に根本中堂の造営(吉保造営総奉行となる)を手がけている。飛んで元禄十四年(1701)三月十四日には、殿中「松の廊下」の刃傷事件などがあり、他方、吉保領地の川越では、七、八月の二度にわたる大風水害に見舞われたり、翌元禄十五年には、綱吉の実母桂昌院に、従一位の、ご沙汰があるなど、いろいろな事件がつづいた。吉保にとっても、政務多忙の毎日であって、ほとんど城中にあり、私邸に帰ることがなかったという。


そのようななか 吉保は 自ら駒込の地に出向いて作庭の指揮監督をしたわけではなかった


「駒ごめの山ざとは、いとひろからなる所をしめて、山水のたより、おかしきわたりなるを、年月さるべき家居つくりしめ、庭などもになくおもしろきさまにもよほし給ふ。御みづからは、御いとまなくてをはせず、家人日々に行かよひて、さるかたのつくり出べきさま、絵にかきて奉りつるを、あけくれ御らんじいれて、とかくおきてさせ給ふほどに、さいへどおぼつかならず。世中にはかゝることれいのみゝとくて何くれ石、うへ木やうのものいさゝかも心あるかたちしたるは、皆此御れうにとて奉りつ。日ごとに車あまた引つれてたくましきをのこら、道もさりあへず、かしこにはこびわたす。さるは忍びたるさまにおぼしかまへたれど、いかめしきひゞきになりてつかうまつりのゝしる」
『松蔭日記』の一節

この日記からわかるように

城中にいる吉保は 毎日の出来具合を心配しながら
連絡係に 一一図面を見て指図し作庭したようで

造園材料などはたくさんの人から奇岩珍樹の寄付を受けて ゆっくりしたテンポで工事が進められた



完成当時の「むくさのその」の状況を記した
『楽只堂年録』第百八巻
元禄十五年壬午十月二十一日の項

すなわち 世に言われる「六義園の記」



【六義園の記】
従四位下行左近衛権少将兼美濃守源朝臣吉保撰

道は人によりてひろまる事、国のいにしおしへすでにしかれき、さかひは名をもて伝ふ、大和歌のふるきならはしまたおなし。この故に根をこゝろのつちによすれとも、かならず三の聖のつちかへ植しおしへをかかりて、枝葉しけりさかりなることを得たりあとを口の石ふみにとゝひとももし八雲のひかりあまねきまほかにあらさらましかは、いかてか山川とともに長く久しかるへき。吉保さひわいにやすく平らかなる御世にむまれて、おふけなくゆたかにあつきうつくしをかふむる。ふくろに治まる梓弓、やなきのいとなみしけき政のいさおしなれるにいたり、ときもりを待て鳥か啼く東の都治まる代の声たのしひをともにす。爰におほやけよりまかてぬるいとま、家にまとゐするゆふはへに、あるは花鳥のいろねをもて遊ひ、あるは風月の光と影とにさまよふ。五もし七もしの言の葉、やうやくにしてかたみにみちもゝさと千さとのみものもへを出る事をまたすなりぬ。つゐに駒籠のはなれ館につきて、いささかに和歌の浦のすくれたる名所をうつす。それいもの山せの山のまろかれたるあり、ときはかきはのうこきなきあり、朝日夕日は山辺柿本のふかきあちはひをふくめり。山を見浦をなかむる。かれと是との妙なることはさをかよはせり。山と松とは、あたらしきとふるきとあひありて、きわまりなき也。泉と石とは心と言はとのおなしくいてゝふたつなき也。玉をひろふも、藻をとるも、ひとしく紀氏のなかれを汲み、梅の雲も桜のなみも、ともになかき秋のかとにありけり。あるは藤原の昔をさゝかにの道にたつね、あるはならの葉のいにしへを千鳥のあとにみる。のりのおしへのもしあることは、吾道のひろくおほふなり。から歌の詞あることは、わかめくみの偏くいいたるなり。春夏秋冬のおもしろき、おほきに備わり、松竹鶴亀のめつらしき、ことことくまつたし。やそちやつのさかいのあらましは、述ふけれとも、草々の有様の委しき言葉、何としてか尽さまし。元の名を聞いては、その所を彼国にしらしむるとうたかわれ。今のかまへを見ては、その古を此ふみにかうかへたることをあきらかにせまし。あゝうちは則大和歌なり、こゝにあそへるものは、此道にあそへるなり。園は是むくさなり、こゝにさとれる人は、このことはりをさとれるなり。今此事のおこり、あにたゝ君のめくみををまのあたりにほこるのみならんや、神の跡の代にたれまく思ふ故、心のたねをふんての林によせて、くちのみを文のそのふにむすふといふことしかなり。



【六義園八十八境】より 一部抜粋

(現存するものは半数以下のようす-記入者)

遊藝門(ゆきのもん/無)
 論語にいはく、みちに志す、特により、仁により、芸に遊ぶ、といへり。朱子の説にも、道は当然の理、芸者道の所寓といへれは、道と芸と二つなし。此園に遊ぶ人は皆道の遊ひにして、治れる世を楽しむ音を三十一字につらなるへし。

詩源石(しげんせき/無)
 詩源石は言葉の源なり。杜子美か詩に、詩源流三峡水と云へる文字なり。心泉の出る源なれは、詩はふるく心は新しくと言ことをも思ひ出て。

心橋(こゝろのはし/無)
 心の泉の橋なれは名つけぬ。また心の泉を汲、言葉の林にあそひ、和歌の浦のしらぬ汐路にあこかれ、六義園の草々に心よせて、大和言の葉の水上にさかのふるも、皆心を橋にかくるより、あゆみを始るならし。

出汐湊(でしおのみなと/有)
 和歌の浦に月の出汐のさすまゝによるなくたつの声はさひしき

霞渟坂(かすぬまのさか/無)
 藤代の三坂をこへて見わたさは霞もやらぬ吹あけのはま

藤代峠(ふじしろとうげ/有)
 紀国にあり。四方を見おろす景地とかや、歌には藤代の三坂と読り。

不知汐路(しらぬしおじ/有)
 和歌のうらしらぬ汐路にこき出て身にあまるまて月を見る哉
船の行方のしれぬやうに覚ゆれは。

蛛道(ささかにのみち/有)
 我せこの御歌にもとつく。蛛の糸のほゝ細き事に用ふれは、道の名とせり。又歌の道のたへせぬことによせて読たる歌もあれは。

藤里(ふじのさと/無)
 藤の棚近きわたりなれは名付し。衣通姫は藤原の里におわせしよし、日本紀に見ゆ。歌にも、
 たのむかな我藤原都よりあとたれそむる玉つしま姫


「八十八の数は、八の数を十一合せたり。八は八雲に叶へり、惣して吾朝にて八の数をおほき事に用ゆ。十は数の極、一は数の始なり。八十八は八雲の道その至極に至り、終わりてはまた始り、春夏秋冬の廻りてやまさるごとく、窮もなくやむ事もなく、天地とともに長久なるこゝろなるへし」



【戦後の六義園】より

戦争による被害は都内全域におよんだが
六義園に関しては建物の被害はあったものの
園全部が破壊されるようなことはなかった


終戦の翌年に当る昭和二十一年(1946)の管理日誌をみると、二月二十八日、進駐の米軍一名が初めて通訳同行で、園内家屋調査に来ており、八月二十五日の夜八時頃、米軍将兵がジープ二台で園内に入り、中門の車止をはずし、園内一周をした事が記録されている。そしてこの年は、園内荒廃・世相混沌、庭園の鑑賞などという状況ではなく、翌年の六月三十日まで臨時休園が続いた。そして七月一日に再開するのだが、その日の記録は、「臨時休園ナリシガ本日ヨリ開園セシモ降雨ノ為入園者少シ、六名」と記してあり、どうみても庭園鑑賞に来た人たちとは思えない。

このような状態も、昭和二十五年(1950)になると大分変り、園内整備に力がそそがれた。一月には心泉亭再建工事の着手を皮切りに、熱海ノ茶屋(現、吹上の茶屋)の修理が行われ、三月二十一日には、錦鯉を、長野県から購入し池に放流している。現在も見られる錦鯉はその時のものである。そして同月二十二日からは戦争罹災者の仮埋葬地の改葬事業が行われ、同月二十五日をもって終了している。この六義園内の埋葬者は、身元のわかっている方々ばかりでそれぞれ改葬後は遺族に引き取られた。

さてこの年四月に入ると、改装なった熱海ノ茶屋に公園協会経営の売店が開業し、吹上の浜には、先に放流した錦鯉鑑賞のため桟橋(木製)がつくられ、「鯉来い橋」と名付けられた。来園者はこの桟橋から鯉に「えさ」を与え楽しんだものである。その後二年ほどして、この「鯉来い橋」は文化指定の観点から好ましからざる施設として取りはずされた。




「吹上の茶屋消失」
終戦の年 当時の「熱海ノ茶屋」が破壊され
戦後復旧し「吹上の茶屋」と改名

この茶屋が 屋根の一部を残し ほとんど全焼に近い火災にあった

「昭和三十一年(1956)十一月二十九日、午後四時十五分出火、同五時鎮火、出火原因不明」

茶亭は池のほとりにあるが 来園婦人の通報時
付近に職員がおらず消火までに時間を要した

園内のため消防車は現場に近寄ることができず
バケツ消火

消防署の原因調査では
来園者のタバコの不始末と推定された

付近の古松も消失

現在の茶屋は 昭和三十四年二月十三日に再建したもの




「池水、井戸水に変わる」

昭和四十三年(1968)に至り千川上水からの給水がストップした

駒込から巣鴨 板橋と通ずる水路が 中仙道の地下に埋没されており

同じ道路の地下を通る地下鉄(都営三田線)工事が開始されたため

その結果ただちに井戸が掘られ 以後井戸水によってまかなわれることとなった

代替施設の井戸は昭和四十六年に完成

(昭和五十四年度の井戸動力電気料は月平均十一万五千円だった)




「入園料の無料化と再有料化」

昭和四十五年になり 「福祉国家」「福祉行政」が叫ばれ 公立の施設は可能な限り無料開放の処置がとられた

昭和四十七年(1972)四月一日
庭園も無料公開実施

しかし 昭和十三年以来 有料が初めて無料で公開されたため

来園者の数は増加したものの庭園鑑賞のマナーが悪かった

その結果 庭園の荒廃が目立ち 昭和五十四年(1979)四月一日 再度有料に戻った

大人二百円 小人百円ただし六十五才以上および小学生以下(子供の付き添なしは入園不可)は無料というもの

ちなみに四十七年以前の入園料は
大人五十円 小人三十円だった



「蓬莱島の崩壊」

昭和五十一年五月の連休中 時期外れの台風のような強烈な風雨が六義園一帯をおそった

小島-蓬莱島(多分 岩崎家時代に作られたと推定される)が傾き 小松が池に落ちていた…

(早速復旧工事が行われた)



『六義園』1981 森守 著
東京公園協会監修・東京公園文庫 19
。。。。。。。。。。。。。。。





藤代峠といえば もれなくついてくるのでは?



「藤白坂を下ると、やがて有間皇子の歌碑がひっそりと立つ小さな塚に出る」

・有間皇子歌碑
藤白神社の南西、藤白坂の入口にあり、皇子はこの地で殺されたと伝えられる。



。。。。。。。。。。。。。。。



「極」の(数の)定義はあるようす

「道」半ばで酔いしれたまま 停滞



シワ    寄せに寄せながらも
寄せて固めるが如く また覆いをかけて

「窮」をみず



「さひわいにやすく平らかなる御世」などは


いまもなお アラワレル寸劇で見られるシーン

いまだ 聞かれる台詞 哉


       。


昨夜 共感・共有ポイント


悪しき習慣などは無視したい が 尊重 敬意 などをもって

…そのように接していると 勘違いされる(つけあがられる)


ムズカシイコト だ




そうやってツクラレタ (面)





(呟きの一部は 次の頁 下方に移動)


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