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守山聖真氏の小冊子 【一】の壱
 
2014年4月30日 10時59分の記事





2014年4月30日 10時59分




『板橋地方史前文化概説』(昭和三十二年)



<第一章 人類の發現と板橋地方の地層> より



「悠久無量却、広袤無限大のこの宇宙__此の間の神秘の扉を開かんとして人類の努力は幾千年も続きましたが、その成果はまだ大海の中に一粟粒ほどの金を拾得したのにも当っていないかも知れません。でも人類が此の地球上に存在する限りは宇宙の神秘に対する挑戦は何時までも続くことでしょう。そうして今後幾千年経ち、幾万年が過ぎたら此の宇宙全体に張りめぐらされた神秘の帳が開かれるかも知れませんが、此の神秘の扉を開くために私達は先ず脚下の闡明よりして始めなければならないと思います。

 私達は現在の未知の事象に対して挑戦すると同時に、過去に於ての人類の業蹟に就ても知らなければならない数々のことがあります。日本の歴史は僅かに二千年に過ぎない、此の二千年の間に私達の先人達は多くの記録を文書を以て、或は美術の形を以て、建築の姿を仮りて残してくれました。そうしてこうしたものは諸外国に比べると比較的によく保存されて私達の前に現存しております。それでも尚、有史以後に於て先人の行ったことで判らないことが沢山あるのには驚きます。一例を挙げて云へば、仏教渡来以後、至るところに沢山の仏寺が建立されて広大なる規模の下に経営されました。これは勿論有史以後のものであり、文字の伝承されたのちのものであります。然るにこれが廃絶に帰して、現在では礎石を残しておるにすぎないものが幾らも数えられます。然も此の有史以後、文字伝承以後のこうした皇室・皇族或は中央地方の豪族の大規模の事業も現在では誰が建てたか、何時建てられたか、何年維持経営されて何時如何なる事情で廃絶したか、判然しない有様であります。私の郷里に大寺という字名のところがあり、そうしてそこの神社の門前に此の大寺の礎石と思はれる直径一間に垂んとする石が一箇ころがっていますが、此の大寺という字名よりして、又残っている礎石よりして其処に相当大きな寺があったものと思考されますが、それが何時頃建立されて何時頃廃絶したかは杳として中央の記録は勿論、地方の口碑伝説にも残っておらず、字名と礎石以外には知るよしもありません。在々所々に大規模に経営された古墳の如きもそうであります。こうした日本人の過去の不詳の事業を知らんとするのは宇宙の神秘を知らんとするよりも困難であり、或は不可能に属するかも知れません。何故ならば、これもある程度限度があると思いますが、宇宙の神秘は人間のたゆまざる努力に依って少しづつでも開かれて行きますが、過去の事業で記録・口碑・伝説の殞滅したものは全く手の施しようがないからであります。

 私達は私達の現在のため、はたまた未来のために私達の先人の歩んで来た道を知らなければなりません。有史以後の事は欠けておる部分があるにしても、よく保存された記録や遺物に依ってある程度私達の前に公開されております。有史以前の先住民族に関しても遺物の発掘に依って大分明かになって来ました。」

(略)

「我が板橋地方には先住民族の多くの住居址が発見され、また遺物も発掘されました。遺物の中には極早期の稲荷台式縄文土器や、極末期の金石併用期に入ってからのものと考証されている前野町式土器が出ておるので、先住民族の板橋地方に於ける生活は六十七千年以上の長きに亘ったものと思考されます。そうして南から北上した日本人が此の土地に定住するようになってから忽然と彼等は此の土地から姿を沒したのではなく、恐らくは新しく来た私達日本人の祖先の中に吸収されてその血はやはり私達の血の中に伝はっておるのではないでしょうか。これから追々解説して参りますが、こうした問題はまだ学者の間でもはっきりしていないし、またローム層__洪積層中に保存されておるという旧石器時代のものが確かに我が国に存在するか、また板橋地方の洪積層中にも発見出来るか。これも未解決であるし、又興味津々たる將来の課題でもあります。・・・(略)・・・」

「其処で前述の如くまづ第一にとりあげることは洪積層と沖積層という原始人類にも、先住民族にも、現在の私達にも関係のある地層のことであります。関東地方には関東ローム層といはれておる赤土の層がありますが、これは一二尺位から厚いところでは二丈三丈以上の層をなしております。此の赤土の層を地質学上で関東ローム層と云っておりますが、この層は太古に関東地方に想像もつかないような大噴火が何十回と繰り返され、それがまた何千年或は何万年と継続して噴出した灰が堆積して出来たものだと云はれます。この赤土の層の上に縄文式や弥生式の土器を使用した先住民族が住居を構えておりました。だが地球の歴史は私達の思慮を絶したほどに悠久であって、此の赤土の層の下に海のあった時代が確認されております。前野町などでも現在の地表より二三十尺も掘り下げると海の痕跡があり、そこからは砂岩になりかけた砂の層や、カキ・アカガイ・ホタテガイ等の貝殻を含んだ砂層が認められます、この海の時代は少なくとも数万年、或は十数万年前であったと地質学者は説いております。」

「今から四十年ほど前に常楽院の庭に井戸を掘ったことがあります。その深さは現在の地表より約三十尺位でありましたが、その時夥しい貝殻と真菰の根株かと思はれる草の根の塊が掘り出されました。貝殻はアサリ、ハマグリ、カキ等が見られ、シジミの殻もあったように記憶しております。これで此の地表下は何万年か前には海であり、海であったところがまた湖沼となったのではないかと推測されます。この地下の海域は湖沼の痕跡のあったところの上に泥鉄鉱層が出来、砂利層が出来、粘土層が出来、そうして更にその上に沖積層即ち耕土である黒土の層が出来てきたというのが概略の地層構成でこの状態は板橋・志村等だけでなく広く武蔵野全体に亘っておるのではないでしょうか。埼玉県の狭山湖或は多摩湖の附近も一面の赤土の露出を見ますし、西武園の遊園地の中に土を切取った跡等は赤土層と粘土層との構成状態をはっきりと示しております。京王線で新宿から八王子の方へ向って行きますと、途中には起伏はありますが広々とした赤土の露出を認めます。千葉県木更津市請西の長楽寺の上の丘陵の如きも赤土許りで、これから矢那・高倉方面に延びた丘も、また桜井方面から遠く八重原・大貫方面もずっとローム層を以て成り立っております。私は木更津中学校に三年在学しましたが、長楽寺の裏山の丘陵からは東京湾が見おろせる景勝の地ですが、冬期に出来る霜柱は五寸位の高さに持ちがって誠に奇観であったことを記憶しております。植木で名高い埼玉県安行等も赤土層が露出しており、鹿沼土で有名な栃木県鹿沼方面もそうした土の層であると思います。此の武蔵野の地層構成に就ては後に鳥井竜蔵博士が飛鳥山に於て調査されたものを紹介しますが、此の海や湖沼を何万年か前に埋めつくした赤土の層は二丈、三丈という厚いところもあり、或はまた全然なくて砂利層・砂層等の非常に厚く、そうして美しい層理を現はした中台や蓮根の蓮花寺の前の高台の如きところもあります。此の砂利層或は砂層は水中にあって成立したものと思考されるので、これ等の層理を示したところは確実に太古の海洋時代のものであったものでしょう。」





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