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守山聖真氏の小冊子 【一】の弐
 
2014年5月5日 11時13分の記事




2014年5月5日 11時13分


『板橋地方史前文化概説』(昭和三十二年)



<第一章 人類の發現と板橋地方の地層> より


「関東ローム層の生成は箱根以西の山地等に見られる赤褐色の焼土の層とは異なった関東特有のものでこの地方に見られる冬期の霜柱の成因に深い関係があります。此のローム層は所謂火山灰の堆積であって、此の火山灰を降らせた火山は学者に依って異説がありますが、一般にはローム層の生成には三段階があって、下層即ち早期のものは熱海火山帯の噴火のため__即ち今外輪山の一部として残っている初島と熱海の町、伊豆山等の抱く噴火口の噴出灰、中部即ち中期のものは愛鷹火山帯の噴出灰、上部即ち最後期のものは富士火山帯の産物と云はれております。そうして生成過程に就ては風成層、河成層、海成層等の諸説もありますが、これは生因が一つだけではなく、この三つが随時随処に働いて出来たものでありましょう。即ち乾いて軽くなった場合には風に依って吹きとばされ、吹きだまりは厚くなり、飛ばされたところは全然なくなり、又河や海に堆積した場合は潮流や河流に依っていろ〻に運ばれて高低が出来たものと推定されます。関東ローム層の出来始めた数十万年前も以前は浅い海又は湖沼であって、それが漸次隆起して現在の赤土の丘陵地を形成したなどということも充分に首肯されると思います。

 関東ローム層の成立は前述の如く第一次に熱海火山帯の大爆発、第二次に愛鷹火山帯の大爆発、第三次に富士火山帯の大噴火と三回に亘り関東一円に厚い赤土の層を作る灰を降らせたのでありますから、熱海火山帯にしても、愛鷹火山帯にしても、また富士火山帯にしても数時に亘り、然も長年月に亘って爆発と噴煙を継続したものでありましょう。私達が現在でも山林や畑の下から発掘する砂利__俗に山砂利と称しておるものは川砂利__即ち多摩川やその他の川床で採集されるものと色沢が異なって如何にも一度火に焼かれたような外貌を呈しておるのがあります。これも火山の大爆発と噴煙に関係があるのではないでしょうか。こうした素人的の考えよりすると太古の火山の爆発と噴煙降灰は広範囲に、言語に絶する凄絶な有様で行はれたのでしょう。此の火山灰の堆積した当時の関東地方は今の黒潮の流れている太平洋のように深い海ではなく、もう相当に隆起して浅くなっていたであらうし、或は秩父山塊、箱根山塊等は現在の姿になっていたかも知れません。たゞ降灰の積った処は低濕地や浅い海や湖沼であったらうと想像されるのであります。現在の状況から考えますと板橋や志村や前野等は今の地表下二三十尺の処が地表或は海面湖面等になっていたものであることは発掘に依って推定されますが、此の地表になっていた岡地もあったとすれば水中に繁殖生息する魚類貝類の外に両棲類__更に高等なる哺乳類も生活していたものとも思考されますが、哺乳類中最も進化した人類も既に此の土地に生活していなかったでしょうか。だが我が国に於いては未だ第四紀層中よりは人類生活を立証する遺物が発見されておりません。然し発見されていないにしても人類が関東ローム層生成中に生息していなかったとは断言出来ないと思います。何故なれば現代の人々が地層を発掘したところは実に広い地表に比すればほんの粟粒ほどの一少部分に過ぎないのでありますから、得た収穫もまだ充分とは云えないのは勿論であります。」



昭和24年9月21日の毎日新聞の記事が紹介されています

<旧石器の、群馬県で発見、明大杉原助教授、十万年前と推定>という見出しで


記事の終わりは・・? 
おそらくそこか そちらあたり^^ 同化されておられるようす



「「明治大学考古学研究室によって原始人の手で作られた旧石器らしいものが検出されたが、それは群馬県桐生市外笠懸村字岩宿にある岩宿小丘で地もとのアマチュア考古学者がこゝで集めた石削りの中から珍しい形のものがあるのを同教室の杉原荘介助教授が発見し、更に現地試掘をしたところ、関東ローム層の下部から旧石器時代特有の形をした横刄形、尖刄形の石器十数箇を始め、粘板岩製握槌形石器も発見した。これと同時に出土地点が関東ローム層下部であるという事実を確認するために東京大学地質学教室助教授多田文男氏が現地を確認、遺物包含層を岩宿地層と命名したというのであります。その後この発掘物に対する学的価値はどうなったか知りませんが、こうした石器時代に属すると思はれる遺物は日本全国に百箇所も発見されておると伝えられておりまして、縄文式文化の前に無土器文化のあったということを唱える学者もありますが、此の外に明石原人とか、秩父三峰山麓洞穴内に発見された旧石器時代のものらしい頭蓋骨の化石とか、杉原助教授の板橋茂呂町の関東ローム層中に含有されていた小石片の発見とか、時々学会界を賑はす報道がありますが、まだ確実に旧石器時代人の遺物として確認されていないようすであります。前記昭和二十二年五月十二日の毎日新聞に載った「原始人の化石か」という見出しの記事は甚だ興味がありますので、次に紹介することに致しましょう。

 その記事の大要は次のようなものであります。今から4四十万年前の大昔わが国に人類が生存していたかどうかの問題は考古学界の大きな問題となっているが、埼玉県秩父科学界の人々がこのほど奥秩父(秩父郡大滝村)三峰神社山麓の洞窟内から発見した化石から原始人類の生存説が有力となり、学界に話題をなげている。現場は三峰山北走尾根の端にある半月型洞窟で、発見された石器類も欧州旧石器時代のものと似ているというのであります。同遺跡から発掘されたものを綜合してみると

△骨などはほとんど化石していること
△化石頭蓋骨は縫合線が単純であることから直立猿人程度のものとみられること
△化石人第三臼歯などはひどく大きく現在人のものとは著しく違っていること

等で、この発見は世界の考古学界に貴重な資料を提供するものと見られる。

と云うのでありますが、これに対して東京大学人類学教室須田助教授は「日本に原始人類は住んでいなかったらうというのが学界の定説となっているが、発見された人骨の犬歯が現代人のより大きく、頭蓋骨も幾分厚い点は原始人類の要素を持っているものと思はれる」といっておりました。然しその後此の人骨のことも立消えになったようですから、原始人類のものではなかったかも知れませんが、こうして日本人の誰もがこういう問題に興味を持って注意して行けば意外の大発見もないとは云はれないと思います。そうして無土器文化時代という一つの文化を確立出来ないとは云はれないかも知れません。

 此でもう一つ、前紀毎日新聞の報道の後に日本最古の人骨として紹介されたものゝあることを述べておきましょう。それは「科学朝日」昭和二十四年八月号に掲載された記事で、明治大学の杉原荘介氏、岡本勇氏、芹沢長介しの三氏連盟で発表されたものであります。発掘場所は横須賀市若松町四五番地所在の平坂貝塚であって、ローム層上部に一体分の遺骨を昭和二十四年六月に発掘し、後藤守一教授、長谷部言人博士も参加しており、その研究を東京大学人類学教室に委託し、鈴木尚博士がこれを復原調査して、縄文式早期のものと思はれると云っておられます。推定年代五千年以前と云っておりますが、これは直良信夫氏の明石原人よりは確実な学者の確認した日本最古の人骨でありましょうか。然しこれからすると縄文式早期が編年的に繰下って来るようにも思はれます。」






(2000年 旧石器捏造事件)





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