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集められ 一隅にみちて
 
2017年1月29日 19時15分の記事

『小石川植物園』1981 川上幸男


…あらゆる研究者・技術者を総動員しておこなうだけの国家事業的価値…

農園芸をはじめとして、食糧資源はもちろんのこと鉱工業資源のもとになる植物で未知のものはたくさんあろうし、医薬用資源の開発だけでも大変な仕事である。

資源植物の開発で人類に貢献している植物園は世界中にも数多くある

一国にとどまるものではない。数ヵ国にも、あるいは世界に広くその影響が及ぶものと考えるべきである。 4


沿革 より

白山本園/総面積16万1588平方メートル
(通称)「小石川植物園」は 古くは徳川幕府直轄の薬園
日本の薬園は中国の漢薬の影響を受けて発達

徳川時代にはいり 江戸では官園として 江戸の南(現在の麻布4の橋付近)と北(大塚護国寺のあるところ)に薬園を設け
それぞれ「南薬園」「北薬園」と称した

天和元年(1681)北薬園の場所に護国寺を建てるため 薬草を南薬園に移し 一部を白山御殿の跡地に植えた

それが現在小石川植物園のあるところである

「白山御殿」
五代将軍綱吉の幼時 松平徳松と呼んだ頃 白山の地に居邸を造り そう呼んだ

正徳元年(1711)麻布薬園も小石川に移され 薬園として整備された

徳川時代には、現在の小石川植物園の中央より二分して、南側を岡田利左衛門(世襲)が、北側を芥川小野寺(オノジ)(世襲)が管理し、その境界あたりに施薬院(養生所)を設け、町民のための医療と、町医者の研究の場所としていた。現在、園の台地中央にある井戸は、当時、養生所で使用していたものである。また、ここより下る斜面の道路を「ナベワリ坂」といい、病人が往来するので「病人坂」ともよんだという。この養生所内の一部とナベワリ坂の下に、青木昆陽(文蔵)が享保二十年(1735)に甘藷を試作して成功した試作跡がある。これが、関東地方ではじめてサツマイモを栽培したところである。現在、サツマイモ形の石でつくった記念碑のあるあたりが、養生所内の試作地跡である。 6


分園 日光市花石町

明治三十五年(1902)十一月 日光/仏岩に2600坪の地を得 寒地植物研究のため植物園を開設

(狭いため)明治四十二年六月 蓮花石の元松平伯の別荘9584坪を得て現在に移り
数回の官有地の所管換 民有地の買収などがあり 2万1562坪に達し

昭和二十五年十一月二十一日に 旧田母沢御用邸の一部1万45坪が大蔵省より所管換となり
現在の 10万4306平方メートル(3万1608坪となっている 8


植物概観 より

承応三年(1654)八月 幕府が現在の植物園の地を館林侯(綱吉)に賜り 下屋敷とした時からはじまり
以来、三百十有余年に至る今日まで国内はもとより世界各地より集められた植物が、今では東京都内の一隅であるこのコーナーにみちみちている。

将軍吉宗は幕府採薬使を諸国に派遣し 多くの有用薬草類を小石川をはじめ各地の薬草園にもたらし

中国・朝鮮より入れられた薬草・薬木も枚挙にいとまがない…それらが現存する唯一の国立の植物園といえる

明治に至り 欧米各国はもちろん 熱帯・亜熱帯の地域より導入された園芸植物・野生植物の大半は 小石川を経由して伝播された

現在 国内にひろがっている植物の源が小石川であるということも歴史的な事実 9


鉢場

温室周辺のレンガ棚を含めて、主として鉢植えものが栽培されている場所である。ここには、古くからある日本サクラソウ(二百余品種)をはじめカンアオイ(三十余種、イワヒバ(十七品種)、ギボウシ(十八種)、サツキ(二百余品種)、それに外国産草本類(数百鉢)が所せましと置いてある。また、宮内庁より移管された鉢を中心とする盆栽が、立派な支那鉢に植えられて約三十鉢ある。さらにその東側にはファイロンハウスがあり、ツツジ科、ツバキ科を中心とする鉢物が栽培されている。


精子発見のイチョウ

園の中央にそびえるイチョウは、幹廻り4.92メートル、高さ26メートルの大木である。

御薬園当時は岡田利左衛門の屋敷内にあった
明治元年(1868)御薬園が幕府から朝廷に移管され
伐採した樹木は関係者の所有するところとなり
切るために 鋸目が入れられた

そのイチョウは雌木で 明治二十九年(1896) 平瀬作五郎が木の若い種子から精子を発見
その研究は顕花植物で最初の精子発見として世界の学界の注目の的となった

この木の下にある生垣は、イチョウの枝先にとまった小鳥たちの糞の中の木の種が芽ばえて育ったもので面白い。エノキ・コブシ・トウネズミモチ・ミズキなどの自然生垣である。 12

なお、イチョウの根を保護するために囲われたイヌツゲの生垣は、昭和三十一年に筆者が挿木し育成したものである。 13


メンデルのブドウ

遺伝学の祖ヨハン・グレゴール・メンデルが実験に供したブドウの分株がある。これは大正二年(1913)、三好博士が欧州視察の途次、チェコスロバキア(当時はオーストリア)のブリュンにメンデルの遺跡を訪ねたさい、その旧実験園にあったものの分譲を約束して帰国し、その翌年同地のドクトル・ブルカートから送り届けられたもので、以前は精子発見のイチョウの付近に植えてあったが、今は温室に向かって右側の芝地わきにある。  13


ニュートンのリンゴ

ニュートンが万有引力を発見する端緒となったといわれるリンゴの木の分株で、学士院長柴田雄次博士がイギリスより持ちかえったものを昭和四十年四月十日に来園、栽培委託された。その株は最近まで隔離栽培されていたが、健全な小苗ができたので焼却された。その小苗はメンデルのブドウのそばに植えられてある。 14


(精子発見の大イチョウ より)

昭和三十一年に当時の園長であった小倉謙博士(植物形態学)が記念に碑を建てたが昭和五十年十二月の『理学部広報』に大イチョウについて述べられている

… 東京大学創立のころ、植物学はじめ理学部の各教室(当時教場といった)が神田錦町にあり明治十八(1885)に本郷元富士町の医学部内外のところに移り、やがて構内の地側に移ったが、植物学教室だけが植物園に移され(明治三十年、1877)、本郷の理学部二号館に移るまで(昭和九年、1934)、永い間ここに居を構え、植物の実験や研究に利することが多かった。問題のイチョウは教室の近くにあり、学生は毎日これを眺めていたが、精子発見は教室がここに移る少し前のことであった。
  画工として雇われた平瀬作五郎は植物の画などを描く傍ら、やがて助手となって研究にも携わり、このイチョウの雌花の胚珠の受粉から授精にいたる経過を知るため胚珠の薄片を切って内部の微細構造を観察しているうちに、花粉管内に楕円体状のものの1側に螺旋状の帯に細い繊毛の生えているのに気付き、これを精子(当時精虫といった)と考え、その旨を明治二十九年(1896)四月二十五日東京植物学会例会で発表した。これに力を得てその年の秋に生の薄片の中に繊毛を動かしている精子を確認し、九月二十六日に同会例会で講演し、植物学雑誌十月号にこれを掲載した。この年こそイチョウ精子発見の時に当る。彼はさらに研究を続けて受粉から授精にいたる過程をつきとめて、それを理科大学紀要に記載した(1895、1898)。その間彼の先輩や同輩は心よく彼の仕事を援け、また相次いで生きた精子を確認した(三好、池野、藤井、三宅)。東京では受粉が四月末から五月初めに、授精が九月末から十月半ばに行われることが明らかにされた。… 39、40


.......................................


大型のススキに似た植物
「南米のパンパ草原に野生するパンパスグラス」

「秋なると白い大きな穂がみごと」で 「乾薬場跡には紫穂の株があり珍しい」 11


「白」の近く ‥みつめることが多い それは何色だろうか




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