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2021.9.12



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  • 2022年 人類の移動や様相 2013年 先住民族 図がない 2500年前の青銅器に描かれている 彼らは天地をつなぐものとして柱を作りました
    2023年1月10日 19時54分
     
  • 加工は12.21/16:50頃   一枚め:2018/11/23午後1:20:16撮影   二枚め:2018/11/23午後1:15:55撮影 ※ 2020.8.17 追記 その後 館蔵『殷周の青銅器』を手に入れております 饕餮 誰もが 知っている(筈) 中国(日本)の 繊細 かつ 強靭な (加工)技術 似て(もいない)非なる何かも ふたつの「国」に限らず  何処にでも 根津美術館で「考古」と分類された物たちには その括りでの書物があるのだそうで(所望) 収蔵されているわけですから「そのうちには‥」 とのことですが 絶版のよう(2018/12月の時点) ‥ということで それらだけが掲載されている 薄いものを もとめることとなりまして なにしろ選択肢が無くて 一鋳(一括鋳造) 分鋳(分割鋳造) (『ふたつの双羊尊』より) 【中国殷時代の動物形青銅器について】より 動物文様を 単なる装飾ではなく 「神を具現化したもの、あるいは神に通じる存在」 と考えたのは 青銅器研究者の林巳奈夫(1925〜2006) 「文様としてあらわされた動物には、渦文様など様々な神をあらわすマークが付された」 「体表を写実的にあらわすのでなく、例えば虎では縞模様を表現表現するかわりに、空想上の怪獣や龍などをあらわし、そこに渦文様を表現する。」 異なる動物の間で文様表現が共通する例もあり 「たとえば、双羊尊で体毛を小さな鱗を無数に並べてあらわしているが、これは同じ時期の鳥の羽毛表現と同じである。このような体毛表現の画一性は、この時期の典型的な特徴といえよう。」 動物形文様は 器の表面に平面的に表現されたが 器そのものを立体的に象った動物形の青銅器も製作され 「とくに現在の湖北省、湖南省といった揚子江中流域で多く確認されている。泉屋博古館所蔵の虎卣(こゆう)も湖南省寧郷で発見されたという伝承をもつ。これらは華北の鄭州や安陽にあった殷都の青銅器にはみられない造形で、いわゆる華中型青銅器(中国では南方型青銅器と称する場合がある)を代表するものといえよう」 その動物形青銅器の表面には 「怪獣の顔面文様や龍形文様などが配され」 それら体表には様々な「渦文様が組み込まれており」 さらに「主文様の隙間に渦巻地文が充填されている」 そのような文様表現は 「黄河流域の青銅器と共通する特徴」 4/廣川守 【大英博物館所蔵 双羊尊の製作】より 古代中国の青銅器は、その起原が黄河流域か、あるいは揚子江流域であるのかに関わらず、いずれも「合わせ型鋳造法」で製作されている。 大映博物館が所蔵する双羊尊は 「合わせ型鋳造法で製作されており」 河南省・安陽の青銅器製作と同じ 器の外型はふたつのパーツからできており、それらは少なくとも2組の部分型を組み合わせて形成されたものである。2組とは、胴体の1組、そして脚部の1組である。胴体は、両端の羊頭部の中央を垂直に走るバリが胸部につながっていることから、ここで二分されていたことがわかる。細部の型を作った可能性もあるが、それらは最終段階でふたつの外型に接合されたのだろう。また4本の脚の型は、脚の中心が一線をなすように、胴体の型に繋ぎ合わされており、接合部分に生じる水平の線痕は、外型に繋ぎ合わせる際に注意深く取り除かれている。 青銅は 錫11.6% 鉛4.8% を含む 銅の合金 配合比は「紀元前1000年代後半の中国青銅器に共通」 「銅に含まれた錫は、熔解温度を下げ、硬度を増し、発色を良くする。鉛は、複雑な鋳型の細部までいきわたるよう、流動性を高める」 大英博物館の双羊尊は、熔湯を流し込む際に発生するガスによってできる鬆(凹みや孔)が饕餮文中の瓶型状の角の上端に1箇所だけあるのを除けば、ほぼ完璧といっていいほどの高い鋳造技術で製作されている。器形は、先に述べたように、頭部を含めた本体が1回の鋳造で作られているが、角の部分だけは別鋳である。X線写真や金属の成分分析は、頭部と胴体の銅合金は同一成分であるが、4本の角は成分が異なっており、この部分が分鋳法で本体に接続されたことを示している。 「羊は口を開けている」 口内の奥には青銅の壁が設けられ、背後の部分との仕切りになっている。器に入れた液体が漏れ出ることを防ぐためであろう。 さらに、X線写真によってわかることは、内型の表面に大量のスペーサーがおかれていることである。このことは、安陽から発見される同時代の青銅器と著しく異なる。この大量なスペーサーの使用は、それが鋳造に必要であったかどうかということよりも、この手法が揚子江流域で製作された青銅器に共通する特徴であることに注目すべきである*2。すなわち双羊尊の鋳造技法に関する研究は、その製作地が、河南省安陽ではなく、おそらく揚子江流域であることを裏づけることになる。 12/チュアンユ・ワン(王全玉) *2 Su,Rungyu.“Study of Casting Technology of Shang Bronzes from Xin'gan Dayangzhou.”In Selected Essays by Rongyu Su,edited by R.Su,Shanghai:Shanhai People's Publishing House,2012,63-116. 【揚子江をめぐる謎_古代青銅器・儀礼・自然の地_】 中国青銅時代の湖南省は好奇心をそそるテーマであるが、その実態はほとんど解明されていないため、この地から発見されたこれら青銅器は、まさしく中国考古学の謎を秘めた作品である。 湖南省では「偶然に、青銅器が1点、あるいは小さなグループとなってばらばらの場所から発見されることが多い」 「誰がつくったのか?」 「なぜそれらは埋められたのか?」 「製作者に何が起こったのだろうか?」 といった謎は「まだ解明されていない」 16/サーシャ・プリーヴァ(裴嚴華) 【二つの双羊尊_根津美術館所蔵品と大英博物館所蔵品の比較_】 泉屋博古館およびパリのチェルヌスキー美術館の 虎ゆう 根津美術館と大英博物館に所蔵されている 双羊尊 前者の虎ゆう は ほとんど双子の如く類似する 2例の双羊尊は いくつか異なる点が存在している   いずれも2体の羊が背中合わせになり   背中に広口の壺を担いだような格好 羊は頭部に大きな角を有し、顔面には殷時代後期(殷墟期)に特有の渦状文様を沈線(凹線)でほどこす。羊の首から胴体さらに足にかけては、小さな鱗状文様で体毛を表現する。背中から伸びる壺には、獣面文様があらわされている。 2点の双羊尊は その獣面文様の表現が大きく異なる 両者の違い 大英博物館所蔵品の獣面が、角と眼以外をすべて細い沈線で表現しているのに対して、根津美術館所蔵品の獣面は、角、眼、口などを強調するために、その隙間に非常に細い渦文を地文様として隙間なく充填している。 20/廣川守 『ふたつの双羊尊__根津美術館と大英博物館の名品__』 根津美術館学芸部/2015 目次 Contents はじめに Introduction 関連遺跡地図 Map of Related Sites 中国殷時代の動物形青銅器について/廣川守 Animal-Shaped Shang Dynasty Bronzes 大英博物館所蔵 双羊尊の製作/チュアンユ・ワン(王全玉) Fabrication of the British Museum's Ram Zun Vessel/Quanyu WANG 揚子江をめぐる謎_古代青銅器・儀礼・自然の地_/サーシャ・プリーヴァ(裴嚴華)  Mysteries of the Yangtze River:Ancient Bonzes,Ritual,and Natural Places/Sascha PRIEWE   二つの双羊尊_根津美術館所蔵品と大英博物館所蔵品の比較_/廣川守 Two Double-Ram Zun:A Comparison of the British Museum and the Nezu Museum Vessels/HIROKAWA Mamoru 作品データ Date on the Two Zun 図版 Plates (4頁 凡例より 一部) ※ 時代および区分について 「殷」は別に「商」とも呼ばれている。実際の歴史書の中でも例えば司馬遷の『史記』では「殷」を用いているが、戦国期に編纂された『書』では「商」を用いており、現在まで「殷」と「商」とが併用されている。本書では「殷」に統一している。 また殷の年代については、これまで様々な説が出されていて、研究者の考えが一致していない。大まかな流れとして、大型建築(宮殿址など)が発見された遺跡の年代によって、二里岡頭期→二里岡期→殷墟期という年代観があたえられているが、近年、中国では二里頭期を夏王朝の時代、二里岡期と殷墟期を殷王朝の時代とする研究者が多くなっている。日本、ヨーロッパおよび北米では夏王朝を定説として認めるに至っておらず「二里頭文化」と称する場合が多い。本書では殷王朝の年代区分として、殷時代前期(二里岡期、紀元前16世紀〜前14世紀)、後期(殷墟期、紀元前14世紀〜前11世紀)の2時期に区分することにする。 ※ wine の表記について この時代の酒については数種が確認されている。本書の英文テキストおよび挿図キャプションに記した“wine”は、ワインだけでなく、米や粟から作る醸造酒を含めたアルコール飲料の総称として用いる。 私の個人的関連頁 http://blog.kuruten.jp/ecru/419972 (http://ka-on.hateblo.jp/entry/2018/12/21/111627) (等 他) ふたつの双羊尊 2015年1月10日(土)〜2月22日(日) 「動物礼賛」 http://www.nezu-muse.or.jp/sp/exhibition/past2015_n01.html 左が 大英博物館のもの 緑青(ろくしょう) とは、銅が酸化することで生成される青緑色の錆である。銅青(どうせい)や銅銹(どうしゅう) ともいう。銅合金の着色に使用されたり、銅板の表面に皮膜を作り内部の腐食を防ぐ効果や抗菌力がある。 Wikipedia さびる ろう 饕餮
    2018年12月21日 14時9分
     
  • 2014.8.6…甲斐小泉・平山郁夫シルクロード美術館脇〜 徒歩で 小淵沢に向かいましたとき の 湧水場 muon さんぶいち 2014.8.10 「三分一 さんぶいち 湧水 (6日撮影分)」 と同じ画像ですか 角いのは消去傾向なのですが 不思議なことに 先日携帯内整理をしたときに この画像は残しまして・・ (使っていないのも数枚あったかと思うのですが なにゆえか) 美術館あたりでも撮影はしたと思いますが のこっておりません 部分的数字が同じようですが 「年毎」にギャップは埋まらない方向ですか (映画やドラマの)エンディング(仕立て)に慣れすぎ とか そのようなものが どこに?    あるのは日常(の段差) **** オリエントとはラテン語で「日の出」「東方の地」という意味 古代オリエント博物館は2013年に設立35周年を迎えた …当館は「展示」と共に「研究」をもう一方の柱としていますが、博物館の設立準備時および開館直後に行っていた、シリア・アラブ共和国ユーフラテス河畔での発掘調査はその原点といえ、開館当時の研究員の多くがこの調査に参加していました。発掘の出土品の一部は、シリア政府の許可を得て日本に持ち帰られ、当館の一部として現在も活用しされています… 2013年 夏の特別展 “発掘 ユーフラテス ―文明を育んだ河と人々―” 古代オリエント博物館 パンフレット より 古代メソポタミア文明を育んだ ユーフラテス河 (ティグリス河) 「シュメール人」は その大河を「ブラヌン」と呼んでいたが 淵源はさらにさかのぼる 直接の語源は原義不明のアッカド語「プラットゥ」に由来し アラビア語やトルコ語の「(アル=)フラート」 ギリシア語の「エウフラテス」を経て 現在の名称 ユーフラテス河はトルコのアナトリア高原に源を発し、シリア砂漠を貫流して、イラク南部の広漠とした沖積低地まで、実に2700kmを流れる中近東有数の大河である。そのため、それぞれの流域によって険峻な山岳地帯から平原地帯まで周辺環境や地形は移り変わり、多様性をみせている。 1 中〜上流域では1960年代以降、大規模ダムの建設ラッシュが始まった結果、河をめぐる景観は一変してしまった。古代人が残した遺跡の多くが水没しただけでなく、昔ながらの河辺の風景がみられなくなった場所も数多くある。 一方、現在のイラク南部にあたる下流域では、ユーフラテスは頻繁に流れを変えていたことが知られている。河水に生存を左右されていた古代都市や集落も河の流れの変遷と運命をともにしていった。 古来、ユーフラテス河では多様な文明や文化が接触し、ヒトや物資、思想が交錯する大動脈として古代オリエント世界に生きる人々の歴史を動かしてきた。ときには東西の大帝国の境界になることもあったが、いつの時代においても豊かな文化を育み、メソポタミア文明の中心にあったのがユーフラテスであった。古代オリエント博物館がこの河のほとりで遺跡調査に乗り出したのも、そうした河の魅力に惹かれたからにほかならない。 2 ●発掘の始まり (古代オリエント博物館初代館長の江上波夫は、日本における古代オリエント学の創始者として知られている) 発掘のきっかけは、1970年代ユーフラテス河中流にダムを造る計画がシリアでおこり、沿岸の遺跡が水没する前に調査して研究に寄与しようというユネスコのキャンペーンであった。シリア在住の獣医師折田魏朗からの提案を廣瀬一隆が仲介し、さまざまな経緯の結果、日本隊も参加することになった。ダム完成後のため、ダム湖上流にあるユーフラテス河東岸でもっとも水没が遅れる19号遺跡と20号遺跡のエリアの発掘を担当することとし、1974〜1980年に調査を行った。 シリア考古学調査団の団長は江上波夫(当時上智大学教授)、調査隊長は増田精一(当時筑波大学教授)、調査主任は岩崎卓也(当時筑波大学助手)で、隊員は東京教育大学大学院生、上智大学大学院生、早稲田大学、福岡市教育委員会、その他が参加した。最初の発掘費用はアラビア石油株式会社の寄付を受け、その後は古代オリエント博物館が費用を捻出した。 現場へはシリアの首都ダマスカスから北上して、ホムス、ハマを過ぎ、シリア第2の都市アレッポに到着。アレッポ博物館に挨拶し機材を運び出しトラックに積み込んで、東にひた走りに走る。途中から舗装していない道の土ぼこりまみれになって、滔々と流れるユーフラテス河に到着。しばし、これがユーフラテスかと感慨にひたる。渡る人々や、ロバ、車が集まれば対岸に渡る、エンジン付き筏のようなフェリーで河を渡り、やや南下すると遺跡があるルメイラ村、ミショルフェ村に着く。マッチ箱のような四角い家がまばらに散在する寒村であった。 19号遺跡…ミショルフェ村 (前期青銅器時代の墓 ヘレニズム時代の神殿遺跡 ローマ時代の要塞-テル・ミショルフェ ローマ時代の墓 ストーンサークルなどが出土) その北 20号遺跡…ルメイラ村 (テル・ルメイラ 前期青銅器時代の墓 ローマ〜ビザンツ時代の墓 など) 4 大河ユーフラテスは 流通ルートとして 情報 物資 人を運び 水資源として 人々の生活の中心にあったと思われる (19号遺跡 20号遺跡跡周辺からは さまざまな時代のさまざまなタイプの墓が発見されており)常に多様な人々が河辺に暮らしていたことがわかる) しかし、我々の発掘からは人々が河川交通にどの程度関っていたのかどうかのデータは出ておらず、河で漁猟をしていたのかどうかの証拠も少ない。 ユネスコの呼びかけに応じたタブカ・ダム地域で外国隊は遺跡調査を終え、データが集積されつつある。 世界各国が参加し 発掘オリンピックのようであった (19号遺跡-テル・ミショルフェ 20号遺跡-テル・ルメイラ は水没を免れている) タブカ・ダムのさらに上流に1980年代にはティシュリン・ダムを築き、ここでも水没遺跡発掘が行われた。ユーフラテス河沿いの遺跡は次々に明らかにされ、人々の営みが明らかにされつつある。 5 …〈さまざまな土偶たち〉より 西方のオロンテス川流域を中心に分布している女性裸像は 女性としての乳房や下腹部の表現が強調され また腰も大きく張り出し 背面は平坦で板状…多くが自立できない ユーフラテス河中流域の人物形土製品は 端部が広がる円柱状をした脚部をもつ…自立できる それらの相違点は用途の違いに起因するだろう… 19 (壮大な感じの調査資料など…6〜21) (ユーフラテス河事件簿 ―ハンムラビ王時代の史料から― 22) ●後期青銅器時代 前1595/1531年、中央アナトリアに本拠をもつ新興ヒッタイト帝国の王ムルシリ1世は、ユーフラテス河を下って長駆バビロンを攻撃し、バビロン第一王朝を滅ぼした。ヒッタイトの都ハットゥッシャからバビロンまでは1000km以上もあり、馬が牽引する戦車が使用されていたとはいえ、当時異例な長征をムルシリが決行した理由は定かではない。いずれにせよヒッタイト軍はバビロンを略奪したのみで本国へ引き揚げていった。権力の真空地帯となったメソポタミアは、カッシート人の支配するところとなったが、エジプト王トトメス1世や3世はユーフラテス河まで遠征し、ナイル河とは逆に北から南へ流れる「さかさ河」に驚いている。 ヒッタイト帝国は前14世紀後半のシュッピルリウマ1世の治世に再興し、再びレヴァント北部を支配下に収め、ユーフラテス河西岸にあるカルケミシュ市に息子の一人を副王として置き、レヴァント支配の拠点とした。ユーフラテス河中流の都市国家エマルなど北レヴァントの都市・部族国家は、自治を許されながらもカルケミシュ副王の監督を受けた。前1274年、レヴァントの支配をめぐってヒッタイトとエジプトの間で和平条約が締結された。その頃北メソポタミアではアッシリアが勢力を強めていた。 前1200年頃、ヒッタイト帝国は突然姿を消し、エマル市なども同時期に滅亡したが、その詳しい経緯は不明である。 …〈都市国家エマル〉  テル・ルメイラから南へおよそ40km、ユーフラテス河西南岸に位置するテル・メスケネは、中期から後期青銅器時代にかけて栄えた都市国家エマルの遺跡である。ユーフラテス河の河岸に突き出した面積30haほどの丘陵上に都市が営まれていたが、東半分は後世のローマ時代の都市遺跡バルバリッソスの下に埋もれている。ダム建設に伴い、1972年から76年までフランス隊による緊急発掘調査が行われ、神殿地区や市街地が発見され、楔形文字で書かれた800点ほどの粘土板文書が出土した。現在遺跡は大部分がダム湖に水没しているが、残った部分では1990年代以降シリア隊やドイツ隊による調査が行われた。  粘土板文書は現地語であるセム系のアッカド語のほか、ヒッタイト語やフルリ語で書かれたものもある。この都市には王がいたが、内政では各部族を代表する長老の会議が強い影響力を持ったことが、解読の結果わかっている。宗教や公文書以外にも、婚姻、不動産売買、遺言、養子縁組などの文書が残っており、青銅器時代のセム系社会のさまざまな側面を映し出す貴重な史料となっている。… 23 (●アッシリア対ウラルトゥ ―鉄器時代のユーフラテス河流域 24、5 ●アケメネス朝ペルシア帝国 26 ●ヘレニズム時代 27 ローマ帝国の東方 28) …〈砦に残された大金〉より  ミショルフェの砦壁と部屋壁に挟まれた部屋から壺が並んで発見された 2つの壺には銅錆(緑青)で塊となったコインがそれぞれ165枚 133枚入っていた カラカラ(在位211-217年)帝からトラヤヌス・デキウス(在位249-251年)帝治世にローマ属州シリアが発行した4ドラクマ銀貨  29 (●東ローマ-ビザンツ 帝国 30) ●その後のユーフラテス河 7世紀 オリエント世界全域にイスラーム教が広がり イスラーム大帝国成立 下流域にはバスラ港が築かれ、アラブ人やペルシア人の商人が大洋へ出帆する一大貿易港となった。シンドバードの貿易譚でも知られるように、ここからインドやアフリカはもちろん、東南アジアや中国まで海のシルクロードがつながった。また、一大窯業都市として名を馳せた中流域の都市ラッカは、アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードの居城が置かれ事実上の帝都となった。 11世紀末には、上流域やや東のエデッサ(現シャンルウルファ)を中心に十字軍国家が築かれたこともあった。 オスマン朝時代になると、近代ヨーロッパの植民地主義のもと列強による東方進出が進んだ。それとともに探検家P・デッラ・ヴァッレやC・ニーブールらが先駆的な探検旅行をおこない、西欧にオリエント世界の実情を紹介している。19世紀には聖書に記されたアッシリアの古蹟を発掘したA・H・レヤード、ユーフラテス河を航行探検したF・R・チェスニーやW・F・エインズワースらがあらわれ、本格的な学術調査が相次いではじまった。 日本人として初めてユーフラテスを目の当たりにしたのは、ペルシアへの外交使節団であった吉田正春の一行であろう。1880(明治13)年、テヘランに向かう途上バグダード近郊の河畔に達している。 20世紀初頭、イギリス人女性考古学者G・ベルはユーフラテス河沿いにバグダードまで下る探検をおこなった。約70年後に我々が発掘することになるルメイラ付近もこのとき彼女は通過したらしい。また当時、上流域のカルケミシュ遺跡発掘調査が活発になったのは、20世紀後半になってからである。トルコやシリアを中心として、灌漑ダム建設に伴う水没遺跡の緊急調査が相次いだためである。この結果、数多くの遺跡が湖水に沈んだが、同時に流域の歴史観が大きく塗り替えられることになった。 そして21世紀現在、ユーフラテス河に暮らした人々が残した遺跡や文化財の多くが、相次ぐ戦乱や紛争による破壊、盗掘、また開発計画に伴う破壊や水没の危機に瀕している。このような深刻な状況のなか、ユーフラテス河流域一帯に眠る遺跡を人類共通の偉大な遺産としていかに保護活用していくのか、今我々に問われているといえよう。 31 …〈辻邦生、小説の取材旅行〉  学習院大学教授も務めたフランス文学者・小説家の辻邦生(1925〜99)の作品に、長篇『時の扉』(1976年2月〜77年2月、毎日新聞に連載)がある。恋愛小説であるが、その後半の主要な舞台として、シリアでの日本隊の発掘現場が登場する。この発掘現場のモデルになったのは、古代オリエント博物館によるシリア発掘調査であった。  その経緯については『時の扉』のあとがきに詳しい。1975年の第一次シリア調査に参加した廣瀬一隆が、辻の代表的な歴史小説作品『背教者ユリアヌス』(1972年)を読み、辻に手紙を出してシリアに招いた。これがきっかけで、辻は1976年3月にシリアを旅行し、ミショルフェ村の発掘現場やルメイラ村の日本隊調査予定地などを訪れた。『時の扉』は辻にとって初の新聞連載小説であったが、古代オリエント博物館理事も務めた小説家井上靖から新聞小説に関するアドバイスも受け、全300回の連載を書ききった。  リアルな発掘作業の様子や発掘をめぐる人間群像、そして2013年現在進行中のシリア内戦の底流となっている、危ういバランスの上に成り立っていた政情の不安などの描写は、廣瀬夫妻との交流や、シリア旅行で得られた見聞に基づいている。… …〈平山郁夫、スケッチの旅〉  日本画家で文化勲章受賞者、そして東京藝術大学学長や古代オリエント博物館理事を歴任し、その生涯を芸術と世界の文化財保護に捧げた平山郁夫(1930〜2009)は、玄奘三蔵の足跡を求めて、シルクロード沿いに(敦煌・楼蘭をはじめ)勢力的にスケッチ旅行を行い、ウズベキスタンのダルヴェルジン・テパまで来ている。西アジアにもスケッチ旅行をし、ユーフラテス河流域へも数度にわたって足をのばしている。… 32 “発掘 ユーフラテス ―文明を育んだ河と人々―” 古代オリエント博物館 パンフレット ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ The scales fall from one's eyes. 眼から鱗・・ ハランは「道」を意味する …続き(8.5分) なぜウロコでなければならなかったのか? など 気になるところですが・・ 免疫? そういった何かがあれなときに 傷が治りにくいのはあれですが  持ち直してからのほうがよくない というのも あれ (そちらの前に?) ナパーム…1968 ソウルの南での件など  「瞼を欠いた灰白色の目には瞳がなかった」あたりのことですとか 昨日からパラパラしている 選挙パンフレット(原書2014) ・・にしては膨大な量の 「困難な選択 下」を 少し予定
    2016年8月6日 12時22分
     
  • The Story of Stone 『淮南子』では次のように断言されている。 禹は石から生まれた〔禹生於石〕。 高誘(2世紀)はこの箇所に注をつけている。 禹の母である脩己は石に感応して[妊娠し]出産した。禹は母の胸を破って出てきた〔禹母脩己感石而生。禹折胸而出〕。 『論衡』では、禹の母は実を飲み込んで妊娠したと書かれている〔禹母呑   而生禹〕。『潜夫論』には禹の誕生についてやや異なる記述があり、禹の母が妊娠したのは流星を見たことによる。『史記』は二つのテーマを組み合わせている。 父の 〔魚へんに系〕 の妻であった脩己は流星が昴を貫くのを見て、夢で心に感ずるものがあった。神珠と蓮の実を飲み込んだ。胸が避けて禹を生んだ。 ここで注目すべきなのは、流星が石の意味―地上に落ちた隕石―を含んでいることである。また、禹の異常な誕生というテーマが現れて禹の英雄神話が完成したのは、漢代中期以前であると推定することもできる。古代の思考体系において、禹の神的な生みの親が人間としての母のかたちを取っていないことは明らかである。それは卵のモチーフのさまざまな変種―真珠、蓮の実、流星、あるいは石そのもの―のかたちを取った超人間的な要素となって現れている。 禹の誕生神話において重要な役割を果たす神的な力は、洪水制圧という手ごわい仕事をめぐる伝説において、玉(ぎょく)という媒体を通しても表現される。禹はあるときには黒い玉を、あるときには玉のふだ〔玉簡〕を、神々から贈られたという。 『水経注』に言う、「禹が西方の さんずいに兆 水まで行くと、背の高い人がいてその人から黒い玉を受けとった。この人はおそらく神[長乗]であろう〔水経注云、禹西至 水之上、見長人受黒玉。疑即此神〕。 黒い玉は、このテクストでは特に何かのきっかけになるモチーフではないようだ。もっともありそうなのは、禹がみごとに任務を果たした報酬として舜帝あるいは天が与えた玉と同一のものだということである。 92 「陽は熱気と乾燥とを生み出すので、過剰になった場合には強制的にエネルギーを減少させ、冷気と湿気を生み出す陰が機能するようにしなければならない。この逆もまた然りである」 100 最初の字書『説文解字』の玉の定義は 今日でも有効 玉を五つの美徳をもつ美しい石の一種である ・うるおいとつやがあり、「仁」の特徴をもつ。 ・外側を観察すれば、この石を理解する人にはその内側が明らかになるという点で、「義」の性質に似ている。 ・その音が伸びやかで遠くまで届くことは「智」の性質に似ている。 ・折れても完全性を失わず、自己を守る性質の内在を表すことは、「勇」の性質に似ている。 ・完全な状態で瑕がないことは、「潔」の性質に類する。 182 「一方は汚染され 他方は清らか」「泥や汚れの隠喩」 「荒々しさによって絶えず侵害されているという強い意識から」「象徴的な浄化行為として口をすすぐ」 198 (李贄の)「童心」の隠喩はその単純な表現のうちに 長い中国の文化史と思想史においてずっと延期されてきたイデオロギー転覆の種を含んでいる 李贄の概念枠組みにおいて「童心」「真心」「本心」が同じモチーフの変種であるのは、興味深いことである。この三つの概念は相互に交換可能であるのみならず、一つ一つが李贄が真人の特徴と考える理想の心の重要な一面を表している。純真なもの、原初のものといった範疇は、従来それらに対する価値概念―洗練されたもの、人為的なもの、派生的なもの―に従属していた。しかし今や新しい審美観や道徳観にとっての特権的な参照点となって、不干渉に賛同し、模倣や修養といった儒教原理を批判するのである。この精神的自由のユートピアでは、作為や偽りは敗北し、いつまでも変わらない単純さが、文字の世界だけでなく人間行動の世界においても居場所を獲得する。 215 (…)もしもある人が〔仮〕であれば、その人が行うすべてのことは偽りである。そこで、偽りの言葉を偽りの人に言えば、偽りの人は喜ぶ。偽りの出来事を偽りの人に話せば、偽りの人は喜ぶ。偽りの文で偽りの人と語れば、偽りの人は喜ぶ。偽りでない行いはないのだから、喜ばないものはない。 『童心説』 215 差異の関係に劣らず類似性の関係こそが 石と玉とを意味深い対義的熟語として結びつけている 228 真実と虚偽はひっくり返り、玉と石は混ざりあう[真偽顛倒、玉石混 ]。 『抱朴子』 玉と石のパラドックス 229 宝玉の真のアイデンティティは何なのか―玉か それとも石か 230 宝玉のアイデンティティを問うことは…(『紅楼夢』の)石の言説と玉の言説のあいだ 道徳的言説と形而上学的言説のあいだの固定された境界線を破壊する 232 アイデンティティ ―「己」(自己)― の探求は、中国の伝統においては例外的な現象である。儒教と仏教のいずれにおいても、「己」は欲と同一視されて、社会道徳的な秩序にとっても精神的な悟りの追求にとっても有害とされた。『論語』では孔子が「克己」(自分を抑えること)を命じ、ブッダは涅槃に入るために自己を滅却するようにと説く。道徳と宗教のちがいはあるが、自己修養の実践も宗教的禁欲の実践も、救いの前提条件として自己アイデンティティの消滅を強調するのである。中国文化には、自己を抑制する儀礼や自己に苦行を課す儀礼がたくさんある。一方、自己と他者の区別や、比類のない存在としての自己の登場は、荘子の哲学的伝統に属している。ただしこの伝統は、文化史において散発的に現れては、「全体性」「集団性」「均質性」という儒教の三者同盟に対して戦いを挑むにすぎない。集団組織は、均質で全体化されているだけでなく、異質なものが浸透してもびくともしない抵抗力を具えているようである。 232 悟空のアイデンティティの探求が、破壊的な自己の不気味な登場をもたらし、自己が固定された中心から絶えず分散し始めるまさにそのとき、語り手は、自動的に繰り広げられてきた夢の言説を急に中断して解説を始める。その解説は、悟空の夢の自律性も、悟空が無力なまま陥る分裂状態も、魔物が無敵の主人公をだまして罠にかけるために準備していたプロットにすぎないものとして片づけてしまう。 234 そもそもの始まりから 石が全体化図式の余剰かつ残り物として登場することは興味深い 石の悲嘆は果たしてその言葉どおり たんに屈辱感によるものなのだろうか…それどころか 石が内部に溶けこめなかったのは 全体化する社会の一員となることの「拒否」に他ならないと主張することも可能だろう 235 仮が真となるとき真もまた仮、 無が有となるところ有もまた無。 237 石と玉は 一枚のコインの両面 238 「矛盾によって引き起こされる発展への内的衝動」こそが 主体のアイデンティティ探求を動機づけ、主体は何段階もの精神的危機をくぐり抜けてゆくことになる 241 『石の物語』2015 Jing Wangジン・ワン 廣瀬玲子訳 28表に 古代中国の大洪水伝説についての記事
    2016年7月18日 10時27分
     

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