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僕は、アメリカ空軍の士官学校の、1冊の教科書を見たことがあるのですが、なんと、33章すべてに渡ってUFOについて教えていました。(3)
[森羅万象]
2024年6月3日 7時11分の記事



(2022/2/11)



『大江戸奇怪草子』
忘れられた神々
花房孝典  天夢人  2021/6/16



<文明開化>
・江戸時代というと、なにやら遠い昔のような気がしますが、実は、今からおよそ百五十年ほど前の、長い歴史の流れの中では、ほんの昨日のような時代です。また1868年の明治維新によって、一挙に江戸が消滅してしまった訳もありません。続く明治の時代にも、文明開化といえ、市井の生活には、確実に江戸文化の面影が色濃く残っていました。

・志ん生師は明治23(1890)年の生まれですから、少なくとも明治の中頃までは、東京の夜は闇に覆い尽くされ、その中には、狐や狸に騙されたという、今考えれば、信じられないような話も多く含まれていますが、それは、当時の一般常識を超越した現象を、自ら納得させるために、狐狸に、その原因を帰結させた結果であり、このような超常現象に対する人間の対応は、現在でもあまり変わっていません。
 また、現実の恐怖感が、逆に畏怖の対象となることもあります。本文にあるように、江戸時代、疱瘡(ほうそう)(天然痘)は最悪の疫病であり、死亡率の大変高い、まさに死に至る病でした。

<狸の書>
・文化二 、三(1805,6)年のことです。
 下総香取(現在の千葉県香取郡)大貫村、藤堂家の本陣に詰める何某という家に、書をよくするという、不思議な能力を持つ狸が棲んでいました。その狐は、普段はその家の天井に棲んでおり、狸の書を求める人は、自身でその家を訪ね、天井に向かって丁寧に頼みますと、その家の主人は心得て、紙と筆を火で清め、さらに筆に墨を含ませて揃えますと、不思議や紙と筆は自然に天井へ上ってみますと、必ず紙に字が書いてありました。
 
・狸は、ときおり天井から下りてきて、主人に近づいてくることもよくありましたので、同藩の人はもちろん、近在の里人たちもその狸の姿をときおり目にしたということです。

・宴会の当日、主人は客に向かって、「本日は、趣向というほどでもございませんが、皆様ご存知の狸殿に、何か技を披露するように頼んであります。彼が果たして皆様を驚かすことができますかどうか、どうぞ楽しみにしていてください」
 と言いましたので、宴会に集まった人々は、それは近頃稀な珍しい趣向と、その話を肴に、不思議の起こるのを今や遅しと待っていました。
 ちょうど申の刻(午後4時)思しき頃、座敷の庭先に突然堤が現れ、そこに一宇の寺院が建ちました。その近くには、さまざまな商人たちが葦簀(よしず)張りの店を聞き、またある者は筵(むしろ)を敷いてくさぐさの商品を並べて賑々しく客を呼んでいます。また、それらの商品を目当ての客たちが群集して、その喧騒さは表現のしようがありません。その中にも、(ひさし)に茹蛸(ゆでだこ)を数多く吊した店が鮮やかに目に栄えます。この景色は、近隣の町に六の日に立つ六才市だろうと、人々は怪しみ驚いて打ち眺めていましたが、庭先の市の景色は次第に薄れ、ついには消えてしまいました。
 この日以来、狸の評判は近隣に喧伝され、書を求める人々が陣屋に殺到し、病気をはじめ、あらゆる願いに御利益ありとの噂も立ち、まさに門前市をなすといった状態になり、その風聞は遠く江戸まで達し、公の耳に入りましたので、そのまま放置できず、さっそく役人を派遣してことの次第を調査することになりました。
 調査の結果、山師のように人を騙すわけでもなく、かつ、陣屋の番士の家で起こったことでもあり、取りあげて咎めるまでもないということになりましたが、蕃士のほうでも、世間を騒がせたことに対して深く反省し、信頼できる人の紹介がなければ、書も出さず、まして狸と引き合わすようなことを絶えてなくなったということです。

<狐の証文>
・八王子千人頭(現在の東京都八王子市近辺に住んで、土地の警護に当たった千人同心の頭領)を勤める山本銕次郎(てつじろう)という人物は、私の友人、川尻甚五郎の親類に当たります。その山本銕次郎の妻について、一つの奇談があります。
 銕次郎の妻は、荻生惣七(おぎゅうそうしち)という人の娘で、甚五郎の祖父が媒酌人となり、山本家に嫁いで来ました。ところがこの嫁に新婚早々狐が憑き、さまざまにあらぬことを口走り、異常な行動をとるようになりましたので、銕次郎は、狐に対し、「いかなる理由で、呼び迎えた妻に憑くという不埒なことをするのか。そのようなことをして、いったいなんの利益があるのか」と、諄々と道理を諭します。

・「証文があったとしても、事情を知らない人は怪しいことと思うであろう。狐が書いたという何か証拠があるのか………。そうだ、人間の世界では印鑑が手元にないときは、代わりに爪印というものをするものだ」
 と言い聞かせますと、狐は、手に墨を付けて証文に押しました。そこには、何やら獣の足跡のような形が押されていたそうです。

<天狗に雇われた少年>
・江戸神田鍋町(現在の東京都千代田区)の小間物屋(日用品、装飾品を商う店)に、当時14、5歳になる丁稚(商家や職人の家で働く少年)がいましたが、正月の15日に、銭湯へ行くと言って手拭いなどを持って店を出ました。
 しばらくして、裏口にたたずんでいる人間がいますので、誰かと尋ねると、銭湯に行ったはずの丁稚でした。丁稚は、股引、草鞋がけの旅姿で、藁苞(わらづと)を下げた杖をついていました。
 その店の主人は、物知りでしたので、驚くようすもなく、まず草履を逃がせ、足を濯ぐようにと言いますと、「かしこまりました」と返事をして、足を洗いました。丁稚は、足を洗うと台所へ行き、藁苞を開いてから野老(ところ)(山芋の一種。正月の縁起物とする)を取り出し、「お土産でございます」と言って、主人の前に並べました。主人は、「ところで、お前は今朝、どこから来たのか」と問いますと、「私は、秩父(埼玉県西部)の山中を今朝発ちました。長々とお留守をしてご迷惑をおかえしました」と言いましたので、さらに、「お前は、いつ、ここを出たのか」と尋ねますと、「昨年の12月13日、煤払いの日の夜に御山へ行き、昨日までそこにいて、毎日お客様のために給仕をしておりましたが、そこでは、さまざまな珍しい物をいただきました。お客様は、すべて御出家でございました。ところが、昨日呼ばれまして、『明日は江戸に帰してやろう、土産用の野老を掘りなさい』と言われましたので、この野老を掘って参りました」と答えました。
 その家のだれもが、丁稚が出ていったことに気づきませんでしたが、その代わりとして、先ほど銭湯へ行った者は、いったい何であったのか、きっと何者かが丁稚に化けていたに違いないと、あとになって気づきました。
 その後、丁稚に怪しいことは二度と起こりませんでした。

<不思議な山伏>
・寛政九(1797)年七月下旬のことです。
 麹町(現在の東京都千代田区麹町)三丁目に住む旗本、日下部(くさかべ)権左衛門の家来、何某が自室で休んでいますと、夜更けて、彼の名を呼び、激しく戸を叩く者がいました。彼は、「このような時刻に私を呼ぶ、あなたはいったい誰ですか」と声をかけましたが、返事はなく、さらに名を呼び続けますので気味悪くなり、息を潜めて物も言わずにじっとしていますと、しばらくして静かになりました。夜着をかけて寝ようとしますと、再び激しく戸を叩き、彼の名を呼ぶ声が聞こえました。
 そのまま、息を殺してじっとしていますと、戸締りのしてある戸をどうして通ったのか、一人の男がすっと部屋に入ってきました。恐る恐る見ると、いかにも恐ろし気な大男の山伏(修験者)でしたので、男は脇差を引き寄せて、いきなり斬り付けると、山伏の姿は消えてなくなりました。

・その夕方、この男は、座敷の戸を閉めに行くといって、そのまま行方不明になってしまいました。

・それから5日後、男の在所から、彼が国元に帰っている旨の報せが届きました。国元からの書状によると、彼は、その日の夕方、座敷の戸を閉め、机の算盤に向かったことまでは覚えていますが、その後の記憶はなく、相州鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)の山中に捨てられているのを、土地の人に発見され、その人たちの世話で、そこから国元へ送られたということです。

・また、次のような不思議な話もあります。
 麻布白銀町(現在の東京都港区)に、大御番七番目を勤める石川源之丞という武士が住んでいました。
 源之丞には一人の娘がいましたが、その娘が13歳のとき、ふと庭に出て、そのまま行方知れずになってしまいました。

・ところが、その翌日、木挽町(現在の東京都中央区)から、お嬢様をお預かりしていますとの報せが届きましたので、さっそく家来の者を迎えにやり、屋敷に連れ帰りました。娘が落ち着いたところで、事情を尋ねますと、「見知らぬ人に連れられて、面白いところを方々見物して歩きました」と答えました。

<魔魅(まみ)>
・小日向(こびなた)(現在の東京都文京区)に住む旗本の次男が、いずこへ去ったか突然行方知れずになりました。

・いよいよ当日がやってきましたので、心待ちにしていた祖母は供を一人連れて浅草観音へ出かけました。念仏堂へ行ってしばらく待っていますと、果たして次男が現れ、さまざまに話をしましたが、やがて、「まことに申し訳ありませんが、これ以上私を尋ねるのはやめにしてください。私は、前にも申し上げたとおり、何不自由なく暮らしておりますので………」と言い残してその場を立ち去りました。そのとき念仏堂には、次男の連れらしき老僧などが一緒に座っていました。それらの人々も次男といっしょに念仏堂を出て行きました。祖母は慌ててあとを追いましたが、次男たちの姿は人混みに紛れ、すぐに見えなくなってしまいました。このことは、供に連れた小者も確かに見届けています。後々、これは天狗というものの仕業であろうと評判になりました。私の親しい知人から聞いた話です。

<空から降ってきた男>
・文化七(1810)年七月二十日の夜、浅草南馬道竹門の近くに、25、6歳の男が突然空から降り下ってきました。男は足袋はだし、その他は下帯もつけぬ真裸で、そのままぼんやりと佇んでおりました。
 銭湯の帰りに、その不可思議な現象の一部始終を見ていた近所の若者が驚いて逃げようとした途端、男はその場に倒れ伏してしまいました。それを見て、若者は急いで事の次第を町役人に知らせまた。

・人々が見守る中、空から天下った訳を尋ねました。
 すると男は、「私は京都油小路二条上ル、安井御門跡(皇族や貴族が継承する寺院)の家来、伊藤内膳の倅の安次郎と申す者でございます」と語り、
「ところで、ここは、いったい何という所でございましょうか」と尋ねました。人々が、江戸の浅草だと答えますと、男はおおいに驚いて涙を流しました。人々は、さらに詳しく事の経緯を尋ねますと、男は涙ながらに次のように物語りました。
「本月十八日の朝四つ時(午前10時)頃、私は、友人の嘉右衛門という者と、家僕の小兵衛を伴い、愛宕山に参詣いたしました。其の日は大層暑く、参詣の後、私は衣服を脱いで涼んでおりました。当時の私の着物は、四つ花菱の紋のついた花色染め(薄藍色。別名はなだ色)の帷子(かたびら)(単の着物)に黒の絽(ろ)(極薄の絹織物)の羽織、それに大小二刀を帯びておりました。涼風を受けて心地よく涼んでおりますと、そこへ一人の老僧がやって参り、私に、面白い物を見せるから従い来るようにと申しました。
 私は、老僧に操られるように付き従ったような気がしますが、それ以降の記憶はまったくございません。気がつきましたら、こちらにご厄介になっておりました……」

<天狗になった男>
・享保年間(1716年から1736年)の話です。
 信州松本(現在の長野県松本市)の藩中に知行二百石で物頭を勤める菅野五郎太夫という武士がいました。

・その夜、夜半と思しき頃、何者か、三、四十人に及ぶ人がその部屋にやってきた気配がし、足音なども聞こえましたが、話し声は一切聞こえず、明け方頃にはひっそりとなりました。
 そのうち、夜も白々と明けてきましたので、家の者が恐る恐る襖を開けて部屋の中を覗いてみますと、部屋の中にはだれもおらず、半切桶の中の赤飯は一粒残らずなくなっていました。

・「旦那様がおみえになりません」と叫んだので、一同ははっと気づき、慌てて辺りを捜しましたが知れず、そのまま行方知れずとなってしまいました。

・さて、翌年の正月のことです。五郎太夫が消えた座敷の間に、誰が置いたとも知れず、一通の書状が置いてあるのがみつかりました。不思議に思った息子が開いてみますと、明らかに五郎太夫の筆跡で、「私は、今、愛宕山に住んでいる。現在の名前は宍戸シセンである」とあり、追伸のようにして下に、「二四日には、絶対に酒を飲んではならぬ」と書いてありましたが、その後は、菅野家には格別妖しいことも起こらなかったとのことです。

<怪僧>
・越後の国蒲原郡滝谷村にある慈光寺は、村落から山林の中を行くことおよそ一里(約4キロメートル)、千年は経たかと思われる杉や松が鬱蒼と生い茂る、まさに仙郷を思わせる幽玄の寺院です。
 元弘年間(1331年から1334年)、楠正五郎(楠正行の子)が出家して亡くなったのがこの寺で、いまだに祖父に当たる楠木正成の鎧、直筆の書簡などを寺宝として秘蔵しています。
 ある年の六月半ば、寺僧が皆托鉢に出て、小坊主が一人で留守番をしていますと、髪を長く伸ばした旅僧がやってきました。旅僧はしばらく休むと、小坊主に向かい、「今日は、祇園の祭礼の日だが、お前は行ってみたいか」と尋ねました。小坊主は、「見たいとは存じますが、そのようなことは不可能です」と答えますと、旅僧は、そのまま小坊主を連れて立ち去りました。すると、突然周りには数千の人々が群集し、囃子の音、さまざまな音曲がにぎやかに鳴り響き、鉾に飾られた錦の織物など、目にまばゆく、小坊主は時の経つのも忘れ、呆然と祭りを眺めていました。
 夕刻になって、旅僧は近くの菓子舗へ行って千菓子を一箱買い求め、小坊主に渡して、「帰るぞ」と一言言った途端、小坊主は寺の門前に立っており、旅僧はいずれかへ消え去ってしまいました。
 この話を聞いた寺僧たちはおおいに怪しみ、菓子の箱を調べてみますと、京都二条通りにある有名な菓子舗の物だとわかりましたので、きっと天狗の仕業に違いないと噂しました。

<怪僧再説>
・寛政年間(1789年から1801年)のことです。
 越後の国中蒲生郡大田村に住む農夫某に、12歳になる娘がいました。
 ある日、家人と連れ立って燕の町(現在の新潟県燕市)に祭礼見物に行きましたが、途中で家人とはぐれてしまいましたので、方々尋ね歩いていると、顔の赤い僧が来まして、さまざまに親切にしてくれるので、娘は家人のことも忘れ、一緒に祭礼を見物して歩きました。
 この僧は、娘が食べ物のことを思うと、直ちに茶店へ連れて行って好きな物を食べさせ、また、町で少女が欲しいと思う物があると、櫛でも簪でも思うままに与えましたが、一向に代金を払ったようすもなく、店の人もそれを咎めたりはしませんでした。
 娘は僧に送られ家に帰りましたが、その日以来、娘が心に望むことがあると、すべて叶うようになりました。遠くにある物を取ろうと思えば、その物が飛んできて娘の前に届きます。

・また、その年の秋、村松山喜多河谷村でも似たような怪事が起こりました。
  同村の裕福な農家某の家で、近村から子守り娘を一人雇い入れました。
 ある日、娘は、子守り仲間の娘数人と村外れの茶店の辺りへ行きました。仲間の娘たちは茶店で柿を買って食べましたが、娘はお金がないので買うことができず、仲間の食べるのを羨ましそうに眺めていました。
 そこで顔が赤く、まるで老猿のような、白衣を身にまとった僧が通りかかり、娘に、「柿が欲しいのか」と聞きましたので、娘が思わずうなずきますと、茶店から柿が5、6個飛んできて、娘の袂に入りました。
 その日以来、娘の望む物は、なんでも飛んできて娘の懐に入るようになりましたので、主人はひどく怪しみ、娘を親元に帰そうとしますと、家中の家財道具が勝手に飛び交って、家の中にいることができません。そこで、娘をいたわり、上座に据えて謝りますと、即座に止みました。

・いずれの話も、天狗の仕業に違いないと評判になりました。

<美濃の弥次郎>
・美濃の国(現在の岐阜県)に弥次郎と呼ばれる年を経た老狐がいました。
 弥次郎は、ときおり、出家の姿で寺院に現れ、昔語りなどをしました。その中でも、京都柴野大徳寺真珠庵の一休禅師の話をすることが大好きでした。
 当時、一休禅師は、あまねく世に知られた徳の高い僧でしたが、また、さまざまな寄行が喧伝されていましたので、弥次郎は、それが疑わしく、自ら試してみようと京都へ出かけました。
 そのころ、大徳寺の門前に住む女性が婿取りをしましたが、母子、夫婦の折り合いが悪く、ついに婿を離縁したばかりでしたので、弥次郎は、その女性に化けて一休禅師のもとに行き、
「夫は去り、母親も私を責めてなりません。そんな訳で、私は家を出て参りました。どうか今晩はお寺に泊めてください」と願いました。禅師は「あなたが、寺の門前に住んでいるので、近所のよしみで今まではお会いもしましたが、家を出られるならば、いくら知り合いでも寺に若い女性を泊めることはできません」と、きっぱりと断りました。

・女は、つまり弥次郎狐は、もともと一休禅師を試しに来たのですから、夜更けてこっそりと禅師の床に忍び入り、さまざまに戯れかけました。そのとき禅師は、女を跳ね除け、「この不届き者」と一喝して、枕元にあった扇のような物で弥次郎狐の背をしたたか叩き付けました。「たかが扇と思ったが、その痛さは耐え難く骨身に応え、まさに失神しそうになりました。一休禅師は、私の知っている限り、最も徳の高い人でした」と、しみじみ語って座を降りるのが常でした。この弥次郎狐は、今もなお存命だと聞いています。

<天狗隠し>
・寛政七(1795)年二月二十一日のことです。
 青蓮院(しょうれんいん)(京都市東山区栗田口にある門跡寺院)の19歳になる寺侍が、朝早く門を出て、たちまち行方知れずになってしまいました。同僚たちが思い思いに捜索しましたが、その行方は、ようとして知れませんでした。
 ところが二十四日の朝、くだんの寺侍が、門前に姿を現しましたので、とにかく中に呼び入れましたが、ほとんど夢中で、人心地がありませんでした。

・「朝、門前に立っていますと、突然、宙に浮いたような気分になり、夢ともなく現ともなく時を過ごしますと、ややあって、『下を見よ。ここは尾張名古屋の城下である』という声が聞こえました。それからしばらく宙を飛び、駿河の富士山の頂で休息をとりました。そのとき、急に母親のことを思い出し、『私が消えてしまったので、母上は、さぞお嘆きでありましょう』と、私を誘い連れてきた者に言いますと、その者は、『その方、母のことを、それほどに思うならば、帰してやろう』と言いましたが、その後のことは、まったく覚えていません」と答えました。
「その、誘い連れ去った者というのは、いかなるようすであった」と尋ねますと、
「その者の姿形は定かでありません。物を言うときには、傍らに誰かいるような気がしました」と答えましたので、皆々は、「それこそ天狗という者であろう」と語り合いました。

<善導寺の狸>
・讃岐高松(現在の神奈川県高松市)に有名な善導寺という禅宗の古刹があります。この寺に納所(寺院の出納を司る役職)を勤める若い僧がいました。
 かの僧は、たいそう律儀で篤実な性格の持ち主でしたので、住職の信頼も篤く、善導寺全体の帳簿を任されていました。もちろん僧侶ですので、算盤勘定は不得意の方でしたが、もとより律儀で行き届いた性格ですので、過去の帳簿に一厘たりとも合わぬ部分はありませんでした。
 ところが、文化三(1806)年の締めくくりの帳簿で、どういう訳か金子二十両の不足が生じてしまいましたが、もともと清廉潔白の僧ですから、そのことを日夜悩み続け、何度も繰り返し計算し直しましたが、どうしてもその原因はわかりません。
「このように帳簿に穴をあけてしまったのは、すべて自分の不徳のいたすところ。いかなる申し訳も立つものではない。また、どのように言い訳しても、すべて自分の恥となる。この上は、死んで申し聞きをいたそう」と思い詰め、金子不足の経緯を書置として認め、座禅を組みながら、「今晩こそ死のう」と心に決めた途端、表で、「しばらくお待ちなさい」という声が聞こえました。

・「怖がらなくとも結構です。私は、すでにお聞き及びだとは思いますが、この禅林の裏山に歳古く棲む狸です。あなたは、なぜそのように悩み患い、死のうとなさるのですか」と問いかけました。

・翌々日の夜、僧が改めて帳簿の計算をしていると、狸がやってきて僧の前に二十両の金子を並べました。僧は、「約束は違えず、このように金子を整えていただいて喜びに堪えません」そこで、「これは、どのような小判なのでしょうか」と尋ねますと、狸は「これは長曽我部家没落のとき(長曽我部家は土佐の豪族。長曽我部盛親の代に、関ヶ原の戦いで石田三成に加担し、国を没収される。長宗我部とも書く)、土佐(現在の高知県)との国境の、人を寄せ付けぬ深山幽谷に、金銀資材などを隠し捨てた中の一部であり、今は、誰の持ち物でもありません。その場所は、大変険しく、我々でさえ容易には近づくことができませんが、やっとの思いで数を揃えることができました」と答えました。

・それを聞いた往時はたいそう驚き、「永年の帳簿の中で、少々不足が起こったとしても、それは、その訳を話してくれれば済むこと、夢にも死のうなどと考えるべきではない」と諭し、かの僧の実直さに改めて感嘆しました。

<虚ろ舟の蛮女>
・享和三(1803)年 二月二十二の午の刻(正午)頃のことです。当時、幕府寄合席を勤めていた小笠原越中中守(石高四千石)の知行地、常陸(現在の茨城県)の「はらやどりの浜」という海岸沖の波間に、舟のようなものが見え隠れするのを、土地の漁師たちが多くの小船を出して、浜辺に引き上げました。
 その舟様の乗り物をよくよく見ると、形は香合(こうごう)(香を入れるための蓋つきの容器)のように丸く、差し渡しは三間あまり(約5.4メートル)、上部はガラス張りで障子のごとく、継ぎ目はチャン(松脂)で塗り固められており、また、海上の岩礁などに当たっても打ち砕けないように、底部は鉄板を筋のように張ってありました。ガラス張りの上部から覗いてみますと、その中には、異様な風俗の女性が一人乗っておりました。
 女性の顔色は桃色で、髪も眉も赤毛でしたが、背にたれる豊かな長髪は白色の、たぶんつけ髪で、獣の毛か、より糸かは定かではありません。
 もとより言葉はまったく通じませんので、どこから来たのか尋ねる術もありません。

・村人たちの詮議は続き、結論として、このような出来事を公に訴えると、さまざまに経費もかかり、また無駄な時間もかかるので、かの言い伝えのように、女性を船に乗せ、再び海に流すことに決定いたし、不思議な虚ろ舟は再び沖に流されました。

<不思議な客>
・文化二(1805)年の春のことです。
 本郷信光寺店に古庵長屋という、道に面して片側だけに家の連なるところがあります。私の親類の山本氏もその辺りに住んでいますので、私もよく見知った街並です。
 この片側町に、三河屋という古い質屋があります。この店に、歳頃五十余歳になる下働きの雇い人がいましたが、長い間まじめに勤め上げ、一点の私心もありませんので、主人も重い信頼をおいていました。
 そのころ、この辺り一番で、三河屋のすぐ隣家まで燃えるという大きな火災が起こりましたが、それ以前に、かの雇い人は、
「近々、この辺りに火災が起こります」と言っていました。それを聞いて、仲間の人々は嘲笑って聞き流していましたが、その言葉どおり火災が起こりました。さらに、彼は、「ただし火災が起こっても、類焼の難を免れますので、道具類などを持ち出す必要はありません」とも言っていましたが、果たして隣家まで燃えて鎮火しましたので、かの雇い人の言葉が、不思議にも的中したことが評判となりました。
 その噂を耳にした火付盗賊改方の戸川大学は、火付けの疑いもあるとして、雇い人を捕らえて厳しく追及しましたが、もとよりそのような事実はなく、間もなく放免になって、再び三河屋に戻ってきました。
 その雇い人は、堂々店の二階で寝ていましたが、ときどき夜更けに話し声が聞こえるので、主が、「夜遅く、いったい誰と話しているのか」と尋ねたことがありましたが、雇い人は口を固く閉ざして答えませんでした。また、夜中の話し声は、それ以降もしばしば聞こえることもあったので、主は再び厳しく問い詰めますと、雇い人は、ようように重い口を開き、「誰と申されても、所も名前もわかりません。ただ山伏のような姿をした人がやってきまして、さまざまな話をしてくれます。その人は、『お前がもっと若ければ、いっしょに伴って諸国を見せて回るのだが、すでに老境に入っているので連れて行けないのが残念だ』と言って、そのかわりに、さまざまな諸国の面白い話をしてくれたりします。この間の火災のことも、実は、その人から聞きました」と答えました。

<呼び出し山>
・上野寛永寺の楽人(雅楽の演奏者)を務めていた東儀右兵衛という人に、6歳になる一人息子がいました。この息子は大変聡明で、両親は目の中に入れても痛くないというほどかわいがっていました。
 文化十一(1814)年、初午(二月最初の午の日)の日に、息子の姿が見えなくなり、そのまま行方知らずとなってしまいました。

・両親は深く嘆き、息子が帰ってくるならば、いかなる方法も試してみようと相談していた矢先、ある人が、
「八王子(現在の東京都八王子市)に、俗に呼び出し山と呼ばれている山があります。この山へ行って、ひたすら祈念すれば、このような神隠しに遭った人の消息がわかるといわれています」と勧めましたので、両親はさっそくその山へ行き、息子の名前を呼び続けましたが、なんの応えも返ってきませんでした。
 その夜、八王子の旅宿に泊ったところ、右兵衛の夢枕に一人の老人が現れ、「お前の息子に別条はないので安心せよ。来る何日に、お前の家の近くで老僧か、あるいは山伏に会うはずだから、そのとき、その人に詳しく尋ねてみよ」と言いました。思わず隣に寝ていた妻を起こして夢の内容を話しますと、不思議なことに、妻もまた同じ夢を見たと話しましたので、これこそ呼び出し山の霊験と、二人で心待ちにその日を待ちました。
 いよいよその日に至り、二人が表を見ていますと、果たして一人の老僧が通りかかりましたのであわてて呼び止め、訳を話して息子のことを尋ねますと、老僧は、「その老人の言われたとおり、息子に別条はない。しかし、まだ四、五日はかかると思う。何日には帰ってくるだろう」
と言って、去って行きましたが、果たして、老僧の言った日に無事帰って来たそうです。この呼び出し山は、高尾山だといわれています。

<牛鬼>
・出雲の国(現在の島根県)に、「牛鬼」という怪事があります。
 山陰などの、谷川の水が流れて、その上に橋がかかっているような場所で、雨が降り続いて湿気が多いときには、その橋の辺りで牛鬼に遭うことがあります。
 そのような日に、橋近くへ行きますと、なにやら白く光る物が無数に
浮かんでおり、それがひらひらと、まるで蝶のように飛び交います。
 そのまま橋を渡ろうとすると、それらの飛び物が体にまとわりつき、最後にはひしと取り付いてしまいます。衣類に付いた部分は、まるで銀箔を押したように光り輝きます。それらは、手で払おうとしても絶対に取れません。
 驚いて、橋を駆け抜け、近くの家に駆け込んで、家人に、「どうすればいいのでしょうか」と尋ねますと、「ははあ、牛鬼に遭われましたね。それを取り去るには方法があります」と言って、囲炉裏に多くの薪をくべ、体を炙るように言いますので、そのとおりにすると、いつともなしにすべて消えてしまいました。まことに怪しいことです。

<魍魎(もうりょう)>
・御勘定方(幕府 財務関係を司る役人)を勤めた柴田何某という人物が、幕命で美濃の国(現在の岐阜県)へ御普請(工事)御用で出張したときの話です。出張に先立って柴田氏は美濃へ伴うために一人の家来を雇い入れました。この家来は、まことに忠実に仕え、柴田氏はじゅうぶんに満足していました。
 ところが、美濃への道中の途中、ある旅館に泊まったとき、夜中過ぎにかの家来が夢ともなく柴田氏の前に来て、
「実は、私は人間ではありません。皆様方の言われる魍魎という類の者なのです。本日、よんどころない事情ができましたので、まことにも申し訳ありませんが、これにてお暇をいただきます」と言いますので、柴田氏は、「よんどころない事情とあれば、暇を出すことは吝(やぶさか)でないが、その理由を述べてもらいたい」と質しました。家来は、「お尋ねなので申し上げます。我々の仲間には、それぞれ順番に人間の亡骸を取る役目がございます。ちょうど明日、その順番が私に回ってまいり、この村から一里ほど下にある農家の誰某の亡骸を取りに行かなければなりません」と言うと、かき消すように姿を消してしまいました。
「ああ、妙な夢を見たものだ」と、心にもかけず、そのまま眠りに就き、翌朝、起きてみると、かの家来の姿はなく行方知れずとなってしまいましたので。もしやと思って宿の者に聞いてみると、「確かに下の村の、誰某の家の母親が亡くなりました。それについて不思議な話がございます。今朝早く、野辺の送りをしましたところ、途中の野道で突然黒雲が立ち込め、棺を覆ってしばらくして消えましたが、そのとき、中の亡骸も消えてなくなったそうでございます」と言いましたので、柴田氏はおおいに驚いたということです。
 日本には、葬列を襲って人の亡骸を取るという妖怪に関する話が多く残っていますが、それらの怪をなす妖怪を火車と呼んでいます。

<働き者の狐>
・加賀藩の御留守居役(おるすいやく)(江戸時代、大名家の江戸藩邸で幕府と藩の連絡、また他藩との連絡を務めた役職)に、出淵忠左衛門という人物がいました。
 文化六(1809)年の冬のある夜、忠左衛門の夢に一匹の狐が出てきました。狐は、忠左衛門の前に行儀よく跪ずき、
「私は、本郷四丁目、糀屋裏の祠にまつられた稲荷の息子でございます。お恥ずかしい話ですが、親との折り合いが悪く、若気の至りで親元を飛び出してしまい、住むところもない始末でございます。つきましては、まことに申し上げにくい御願いでございますが、しばらくの間、お宅に働く下女の体を拝借したいと存じます。友の狐に間に立ってもらい、両親に詫びを入れていますので、ほどなく帰参がかなうかと思われます。
 そしてその間、決して下女の方を悩ませもいたしませんし、ご奉公も欠かしません。何卒、この願いお聞き届けくださるよう、伏してお頼み申し上げます」と申しました。忠左衛門は不憫に思い、「決して人を悩ませないと約束するならば、許してやろう」と答えると、狐はたいそう喜び、何度も頭を下げた………と思ったところで目が覚めました。

・なんとも不思議な夢を見たものだ思いながら忠左衛門が手水を使っている横を、件の下女が挨拶して通りましたが、普段と何ら様子は変わりません。ところが、ちょうど昼時分から、その下女が突然、目覚しく働き始めました。
 水を汲み、薪を割り、米を磨ぎ、飯を炊き、心得のないはずの針仕事まで器用にこなします。それ以来、この下女は、毎日、一人で五人分の仕事をこなし、主人の外出に際しては、たとえ空が晴れていようとも、何時頃には雨が降るからと雨具を持たせ、また、今日は何時頃来客があると述べて、ひとつも間違うことはありませんでした。
 その他、あらゆる事に関して下女の予言は的中しました。

<餓鬼>
・伊勢から伊賀へ抜ける街道(三重県内)で、私の後ろから一人の男が急いできて、「私は大坂の者ですが、今ここへくる道筋で餓鬼に取り憑かれ、飢餓感でこれ以上一歩も進めず難渋しています。御無心ながら、何か食べ物を頂戴できないでしょうか」と言いました。なんと不思議なことを言う人だと思いながら、「旅行中で食べ物の蓄えはありませんが、切り昆布なら少し持っています」と答えますと、「それで結構です」と言うので、与えますと直ちに食べてしまいました。私は、「餓鬼が取り憑くというのは、どういうことなのですか」と問いますと、男は、「目には見えませんが、街道筋のところどころで、餓死した人の霊や怨念が現れます。その怨念が餓鬼となって、道行く人に取り憑くのです。餓鬼に取り憑かれますと、突然飢えがきて、体力がなくなり、歩くこともできなくなります。私は、過去に何度もそのような経験をしたことがあります」と答えました。この男は、薬種商人で、常に諸国を旅行して歩いている人でした。
 その後、播州国分のある寺院の僧に、そのことを尋ねますと、「私も、若い頃、伊予(現在の愛媛県)で餓鬼に取り憑かれたことがあります。食事の際に出た飯の一部を取りおいて、それを紙に包んで懐に入れ、餓鬼に憑かれたかれたときのために貯えておきます」と答えました。なんとも不思議な話です。




<あの世を覗く>
・後に、同僚が、「いったい、死地に向かうというのはどんな気持ちであった」と尋ねますと、次のように語ったと言います。

 とにかく患いついたときは、ただただ苦しくて、無我夢中でしたが、しばらくすると、突然広い原に出ましたので、とにかく先へ行こうと眺めてみますと道が二筋見えました。一つは上り道、一つは下り道です。さらによく眺めてみると、下り道は大変道が悪そうなので、私は上り道を選んで歩き始めました。すると、後ろから人の来るような気配がするので、振り向いてみると、以前、私が好きだった本郷辺りの町人の娘でした。驚いて声をかけると娘も気づき、互いに一人では心細いので、いっしょに連れ立って行こうということになりました。ところが、その娘は下り道のほうへ行くと言うので、結局は別れて、私は上り道を進んでいきました。しばらくすると、向こうから真っ赤な衣を着けた御出家が参られ、「お前は、どこからどこへ向かっているのか」と聞きますので、逆に、「私は死んだののでしょうか」と御出家に尋ねますと、「お前には、なにが心残りはないか」とさらに聞かれましたので、「特別に心残りということもありませんが、故郷には両親が健在で、久しくお目にかかっていませんので、できることならば、もう一度お目にかかりたいと思います」と答えたところ、「それならば帰してやろう」とおっしゃり、突然、後戻りするかと思った瞬間、なにらや湯水のようなものが喉を通り、気がついたら蘇生していました。
 これは当時、その男の療治をしたという針医者の話です。

<帰ってきた娘>
・神田明神からお茶の水へ出るところに船宿がありました。この船宿の主人夫婦に一人の娘がいましたが、2、3歳の頃から筆を執って書を書くこと、まるで大人のようで、両親は寵愛やむことなく、慈しみました。

・ところが、文化三(1806)年に大流行した疱瘡にかかり、両親の手厚い看護の甲斐もなく、娘は6歳で身まかってしまいました。今際の際に、母親が狂気のように泣き叫ぶのを見て、娘はか細い声で、「ご心配には及びません。いずれ、神田から来てお目にかかりますから」と言いますので、母親はうつつ心に、「その約束、必ず守って」と言いましたが、そのときには、娘の息はすでに絶えていました。両親は娘を手厚く葬り、毎日嘆き悲しんでいました。
 その頃、神田にその娘と同じ歳頃の娘がいましたが、どういう訳かしきりに、「両国へ行きたい」と言いますので、両親が両国へ連れて行きますと、船宿の主の家に入り、両親に向かって、「もう家には帰りません。こちらのお宅に置いてください」と言いますので、船宿夫婦も、娘の両親も驚き、「これはどういう訳か」と尋ねますと、娘は傍らにあった筆を執って、見事な書を認めました。その娘は、今まで字を書いたことなどなく、一同はその不思議さに驚きました。神田の両親は、娘を連れ帰ろうとしましたが、「私はこの家の娘です。他に帰る家はありません」と言って承知しませんので、仕方なく、神田の両親は娘を両国に置いて帰ったそうです。

<生まれ変わり奇談>
・娘は、まず介抱の礼を述べ、続いて、「実は、私は悪人によって誘拐され、大阪へ連れて行かれるところでしたが、さまざまに手だてをして、監視の目を盗んで逃げ出して参りました。今朝からずっと歩きつづけたため、身も心も疲れ果て、思わずここで気を失ってしまいました。そこをあなた様に介抱していただき、お礼の言葉もございません。つきましては、お慈悲をもちまして、私を家までお送りいただけませんでしょうか」と懇願しました。
 善八は不憫に思い、娘の家を尋ねますと伊勢の津の紺屋(染物屋)だと申します。善八は急ぐ旅でもなく、伊勢参りの途路にもあたりますので、快く送ることを承知し、追手が気になるので、直ちに駕籠に乗せ、急いで娘の家へ連れて帰りました。

・とりわけ当の娘はなにやら別れがたく思い、両親に、お礼のために一度江戸までうかがいたいと頼みますと、両親も、ここ1、2年のうちに父親同道で江戸に下ることを承知しましたので、娘はやっと得心し、善八に向かって、「この度は、思いがけずあなた様に危急を救っていただき、また手厚い介抱を受けましたのは、きっと前の世からの深い縁に結ばれているものと思います。あなた様のご恩を忘れないため、あなた様のお持ちのいかなる品でも一品私にお与えください。私は、それをあなた様だと思って朝夕、後世を念じます」と言いましたので、善八も、
「旅先のことで、何も持ってはいませんが、いつも肌身はなさぬお守りの中に、日ごろから信心してください」と言って娘に手渡しました。

・善八の家では、留守中に息子の嫁に長男が生まれ、帰宅した日がちょうど七夜に当たるというので、二つの喜びが重なりました。
 善八の妻は、出生した初孫が生まれて以来泣き続けで、さらにどういう訳か、左の手をしっかり握りしめて開かないことを善八に語りました。
 それはいかなることかと、善八が赤ん坊を膝の上に抱き上げますと、今まで泣き続けていたのが即座に泣き止み、善八が手を差し伸べますと簡単に左の手のひらを開きました。その手のひらに、なにやら握られているようなので取り上げて見てみると、それはまさしく浅草の観音様の御像に他なりません。
 それを見て、人々はその不思議に驚きましたが、善八は、その御像は、確かに伊勢の津の娘にやった御像なので、たいそう訝しく思い、家の者を集めて、伊勢の娘についての一部始終を話し聞かせ、さらに、伊勢に飛脚をやって娘の安否を問い合わせました。
 6月の15日に伊勢から返書が届きましたので、さっそく開封して読んでみますと、かの娘は、善八が出立して間もなく患いつき、5月の末に空しくなったとの知らせでした。善八はまことに不思議に思い、この  赤ん坊は男の子だが、まさにあの娘の生まれ変わりに違いない。この子を授かったのは観音様の大悲のおかげと、前にも増して深く信仰に精進しました。
 この話は、嫁を診察した清水の医師、福富主水老人の直話です。 

<因果応報>
・ある家中に、岩間勘左衛門という武士がいました。
 その息子の八十郎と六十郎という者は、二人ながら博打に溺れ、夜更けて、自宅で妻や娘まで交えて賭博にふけるということが主人筋に聞こえましたので、甚左衛門は切腹、二人の息子は、千住小塚原で首を刎ねられました。この勘左衛門が切腹の場に臨み、検視の役人に、「しばらくお待ちください」と声を掛け、次のような懺悔話を始めました。

 私がまだ若年の頃、ある商い聖(ひじり)と懇意になり、たがいに行き来し、ときには私の部屋へ来て泊っていくようなこともありました。
 ある日、聖が金子三百両余りを持ってきて、「この度の商いはおおいに儲けました。近いうちに京に上ります」と言いました。その夜も彼は私の部屋に泊まりましたが、そのとき、ふと、この男を殺して金を奪い取り、思うように遣ったら、どれほど気分がよいだろうと思いました。しかし、親しい友であり、出家でもあるので、どうしたらよかろうかと思うと眠られもせず、さまざまに思いめぐらしているうちに悪心が勝り、明け方に聖を殺し、死体を深く隠し隠しました。
 その後、その金を使っても、何の祟りも何もなく、運もついてきましたので、よくぞ、やったものだとさえ思うようになりました。
 やがて妻を迎え、八十郎が生まれました、初めて顔を見たとき、赤ん坊の顔が、かの聖とうりふたつなので、もしやと思い、かの聖の腰に大きな黒子(ほくろ)があったのを思い出し、赤ん坊の腰を調べてみますと、果たして、まったく同じ位置に黒子がありました。

<二十年>
・江州八幡(現在の滋賀県近江八幡市)は、近江では最も豪華な町として知られています。
 寛延から宝暦年間(1751年から1764年)、この町に、松前屋市兵衛という裕福な商人がいました。
 この市兵衛、妻を迎えてしばらくした頃、ある日突然行方不明になってしまいました。家内中、上を下への大騒動で、もともと裕福な家なので、金銀を惜しみなく使い、手を尽くして捜しましたが、結局その行方は知れませんでした。

・市兵衛が消え失せたときの状況は、次のようなものでした。その夜、「厠へ行きたい」と言って、市兵衛は下働きの女性に明かりを持たせて厠へ入りました。女性は明かりを掲げて厠の外で待っていましたが、いつまでたっても市兵衛は出てきません。

・さて、その日からちょうど20年目にあたる日の夜のことです。厠で突然人を呼ぶ声がしますので、人々が行って戸を開けますと、そこには、市兵衛が消え失せたときとまったく同じ衣装で座っていました。
 人々はおおいに驚き、さまざまに事情を問い質しましたが、何も答えず、ただ「空腹だ」と言いますので、さっそく食事をとらせました。
 不思議なことにしばらくすると、着ていた衣服は一瞬のうちに埃のごとく散り失せて、裸になってしまいました。驚いた家人は、さっそく着物を着せ、薬などを飲ませましたが、昔のことは何1つ覚えていなかったそうです。
 その後、市兵衛は病気や痛み止めの呪いのようなことをして暮らしたそうです。これは、私のもとに来るや八幡出身の眼科医から聞いた話です。


<●●インターネット情報から●●>
ウェッブサイト「日本文化の入り口マガジン」から引用しました。


2020.04.09
<信長も!家康も!芭蕉も!ニッポンのBLの歴史は奥が深いぞ!>

Aimu Ishimaru

「男色(なんしょく/だんしょく)」という言葉を聞いたことがありますか?いわゆる、「BL」のことです。最近では、LGBTの権利について議論され、性的マイノリティーの問題として取り上げられることも多くなりました。こうみると、最近出てきた概念のように思われますが、実は「男色」は開国前の日本では普通に行われてきたことであり、「マイノリティー」でもなんでもなかったのです!

<男色の発展と衰退>
日本において「男色」は古代から存在していました。鎌倉時代以前の男色の記録は特権階級の方々のものばかりですが室町時代以降は庶民のものも多くなっています。とはいっても、庶民の記録がないのは、あまりに自然のことであったからと考えられており、庶民の間で男色がタブー視されていたわけではありません。以上のことを踏まえると、当時の日本人にとって「男色」が、どれだけ当たり前のものであったか容易(たやす)く想像できるでしょう。
男色のはじまり

では、日本の男色文化はいつ始まったのでしょうか?江戸時代前期に井原西鶴が記した、浮世絵草紙『男色大鏡』には、当時男神とされていた天照大神が日千麿命(ひのちまろのみこと)を衆道(男色の意)に基づいて愛していたと記載されています。
さらに、井原西鶴は伊耶那岐命(イザナギノミコト)と女神・伊耶那美命(イザナミノミコト)の夫婦の神様が誕生するまでは、男神ばかりだったので男色を楽しまれていたと主張しています。井原西鶴の言葉を信じるとすると、なんと日本の男色の歴史は神代の時にすでに始まっていたというのです!

男色に関する最古の記述は720(養老4)年成立の『日本書紀』にあります。小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)の関係が発端となった「阿豆那比(あずなひ)の罪」に関する物語がそれです。「祝」とは神主のことを指しており、このふたりの神主が男色の仲にあったと言われています。
というのも、彼らは「善友(うるわしきとも)」つまり性的行為アリの親友だったと書かれているからです。今でいう「セフレ」のような関係とも言えます。小竹祝が病気で亡くなったのを嘆いた天野祝が後を追い、生前の希望通り二人を合葬したところ、神様がそれを天津罪(あまつつみ)と考え昼間でも暗くしてしまったそうです。

天津罪とは、国津罪(くにつつみ)とともに神道における罪で、特に農耕や祭祀を妨害する行為を指します。「阿豆那比」の意味は分かっておらず、神様がふたりの男色を咎めたと言われることもありますが、ふたりを別々に埋葬し直したところ昼が戻ってきたと書かれていることからもこれは「神主を合葬する」という行為が儀式的によくないことだったのでしょう。
「阿豆那比の罪」の物語は一般的に日本における男色文化のはじまりと位置付けられています。
寺院や宮中で流行した男色
『日本書記』以降にも『万葉集』や『伊勢物語』、『源氏物語』など誰もが知る数々の有名書物に男色についての記載があり、男色が当たり前のように流行していたことがわかります。

僧侶の男色といえば、空海が日本に持ち込んだと言われることがあります。しかし、平安時代初期の空海の帰国以前から男色の記述があったことをみるとこれは単なる俗説でしょう。一方で、僧侶と稚児(剃髪前の少年修行僧)の間の男色が流行したのは、空海の影響であると言われています。
奈良時代の僧侶は『四分律』という仏教の経典をよく読んでいました。僧侶の罪を記しているこの経典には、性行為を戒める「婬戒(いんかい)」について書かれています。ここでは、異性・同性に関わらずあらゆる性行為が禁止されています。
しかし、仏教ではどちらかといえば女性との性行為を嫌う性質の方が強く、徐々に男色を許す文化が発展していきました。稚児との性行為を、稚児を神格化する儀式「稚児灌頂(ちごかんじょう)」とするという荒技で性行為を禁止する仏教において男色を正当化する“立派な”言い訳まで作ったのです。
僧侶と稚児の関係は、勅撰和歌集『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』でも詠まれており、天皇の命令で編成された和歌集にも載せられるほど、彼らの関係は当たり前で許容されたものでした。また、宮中においても、貴族が美しい稚児を側に置き、枕をともにすることは決して珍しいことではありませんでした。

<精神的な繋がりを重んじた武士の男色文化「衆道」>
武士が勢力を増していくと、貴族や僧侶との交流の中で武家社会にも男色は浸透していきました。室町幕府を率い、南北朝を統一した足利義満は、貴族や僧侶から男色を含むあらゆる文化を積極的に取り入れ、のちに流行する武士特有の男色文化「衆道」の礎となったと言われています。

「衆道」は、主君と小姓(こしょう:将軍のそばに仕えた者)の間での男色の契りのことです。肉体的だけでなく精神的な結びつきを特に重視しました。男色は絶対服従の関係・絆を築く一種の儀式という認識もあったのでしょう。「衆道」の予兆は、源平合戦のあった平安時代末期にもすでにありましたが、衆道文化が花開くのは戦国時代です。

多くの武士たちが妻子を残し戦に出かけた当時、女性のいない環境の中で男性を性的対象として見ることが多くなるのは想像に難くないでしょう。「桂男の術」いわゆるスパイ任務を遂行する際、美少年の色仕掛けにまんまと嵌って殺された武将も多かったとか。

<外国人が驚いた!庶民も受け入れた日本における男色の風習>
室町時代には、庶民の男色についての記述も見られるようになりました。庶民階級が楽しんだ能楽「手猿楽」では、美女が主役の「女房猿楽」とともに美少年を使った「稚児猿楽」が生まれ、酒席で多くの人を楽しませ一夜をともに過ごすこともあったとか。
宣教師フランシスコ・ザビエルは、一神教と一夫一妻制、そして男色の罪を日本人に説明することの難しさを本国への手紙で嘆いています。「僧侶がしていることなのだからいいだろう」と一般の人は考えていたのです。
江戸時代においても、男色は女性を愛するのと同じように普通に扱われていました。江戸時代には、若衆歌舞伎が舞台後酒宴にお伴した先で売春行為を始めたことから、陰間と呼ばれる男娼が登場しました。彼らは、僧侶や武士だけでなく農民や職人などの多くの庶民も相手にしていたのです。
江戸時代に来日した朝鮮通信使・申維翰(しんゆはん)は、著書『海游録』で男娼の色気は時に女性を上回ると綴っています。

<欧米の影響でタブーとなった男色>
日本では仏教や神道に男色を禁じる戒律がないことから、男色は当たり前のように流行していましたが、キリスト教では男色は罪とされています。そのため、明治維新とともに西欧文明が取り入れられると日本でも男色は徐々にタブー視されるようになります。

明治時代でも、当初は女性に溺れるよりは男色の方が良いと言われ「ストイックさ」を追求する学生の間で流行するなど男色文化は色濃く残っていました。しかし、1873(明治6)年になると男性同士の性行為を罪とする「鶏姦(けいかん)罪」が規定されました。

西洋の列強国に追いつくことを目標としていた当時の日本では、欧米諸国でタブーとされる男色を容認したままにしておくわけにはいかなかったのです。「鶏姦罪」は1882(明治15)年にはなくなり、法律上で男色が禁止されることはなくなりましたが、明治後期には男色を悪とする考えも強まっていったのです。

大正時代に入ると、西洋的な考え方はさらに浸透し、ついに日本で当たり前であったはずの男色は「病気」として扱われるようにまでなってしまいました。
あの人もこの人も男色を楽しんだ
さて、西洋文化の影響で一度はタブーとなった男色ですが、最近では欧米諸国におけるイデオロギーの変化もあり、日本でも同性愛者と呼ばれる人たちの存在が再度容認されるようになってきました。同性愛者と公言している有名人の方も増えています。
実は、日本人の多くが知るような過去の偉人にも男色を好んだ方がたくさんいます。何人かここでご紹介しましょう!

<藤原摂関家の代表格、藤原頼通・頼長>
父・藤原道長の後を継ぎ、摂関政治の最盛期を謳歌した藤原頼通。鎌倉時代に成立した日本最古の舞楽書である『教訓抄』には別荘の宇治平等院で仏教行事を行った際、雅楽の舞を披露した峯丸(みねまる)という美少年に心を奪われた様子が書かれています。さらに、鎌倉初期の説話集である『古事談』にも、家来であった源長季(ながすえ)は頼通の男色の相手であったと記されています。

保元の乱で受けた傷が原因で亡くなった頼長も男色の趣味があり、7人もの貴族と男色関係にあったそうです。当時の貴族は日記を残す風習がありました。頼長は宮中儀式などの一般的な事柄だけでなく自身のプライベートについても赤裸々に綴っています。

頼長の男色遍歴について詳細に書かれているのは、頼長の日記『台記』です。この日記を読むと、頼長が男色で感じた快感や少年たちに恋い焦がれていた様子がわかります。「倶(とも)に精を漏らす」つまり「一緒に射精する」ことの喜びを綴るなど、直接的な表現には驚かされます。
織田信長も徳川家康もみーんな男色を楽しんだ
漫画の題材となることも多い有名戦国武将には、男色を楽しんだ方がたくさんいます。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の狂歌からも分かるように過激で強引なイメージの強い織田信長は、秘書的な役割も負った森蘭丸と関係があったのではないかと言われており、前田利家との関係も噂されています。ちなみに、次男の信雄も美少年の処刑をやめさせ重用するほど男色に入れ込んでいたようです。『勢州軍記』には、兄・信孝がそんな信雄の様子を皮肉る様子が書かれています。

武田信玄は、思いびとのに弥七郎という小姓に手を出したことがばれ、釈明する手紙を送っています。甲斐の虎と呼ばれた勇ましい姿からは想像もつきません。

また、独眼竜・伊達政宗も恋人の小姓に当てた恋文を残しています。政宗は男色を誇りにし、少年と契りを交わすたびに自分の体に傷をつけその証にするといったかなりの変人だったようです。

戦国時代の乱を制し、見事天下人となった徳川家康にも男色のエピソードがあります。家康は本来年上の女性を好んでいましたが、『甲陽軍鑑』によるとそんな家康も忠臣の一人である井伊直政の美しさに魅了され関係を持ったそうです。

家康の後を継いだ秀忠や次男の秀康、十男の頼宣など家康の息子たちも男色の世界に魅入られていました。江戸幕府を発展させていった3代将軍家光や5代将軍綱吉もまた、男色を好んでいたそうです。

<俳句家・松尾芭蕉は男性の恋人と旅>
松尾芭蕉は、弟子と一緒に旅に出ることが多く、その弟子のふたりと恋仲だったと言われています。『奥の細道』は有名ですが、『笈の小文』という紀行文をご存知でしょうか?この紀行文には、杜国(とこく)と越人(えつじん)というふたりの愛弟子との旅行について記載されています。

越人との旅では「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」といったロマンチックな句を詠んでおり、杜国と一緒にいるときも「草の枕のつれづれ二人語り慰みて」とふたりの関係が分かるような句を詠んでいます。愛する人との旅行を楽しんでいる様が思い浮かびますね。
国や地域によって考え方は違うといいますが、時代によっても考え方はかなり違っています。同じ日本でも、当たり前だったことがタブー視されるようになったり、逆になったりすることがあります。日本における意外な男色の歴史を知ると、なんだか「当たり前」とは何か考えさせられますね。

(2019/12/16)


『男色の日本史』
なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか
ゲイリー・P・リューブ   作品社   2014/8/29



<このテーマについて世界で最も引用率の高い基本文献となっている>
・かつて日本には、古代ギリシャと並ぶ“男色文化"が栄えていた。平安の宮廷人たちが、密かにくり広げた夜伽。寺院での僧侶たちによる稚児との愛欲の生活。戦国武将たちに連れ添った、森蘭丸などの小姓たち。そして江戸時代に入ると、役者・若衆・女形たちによる売色が隆盛し、陰間茶屋では女性も交えた3人以上の男女が入り乱れて欲望のかぎりを尽くしていた。
本書は、初めて日本男色文化を“通史"としてまとめた「男色の日本史」あり、さらに世界の同性愛文化と比較しながら、なぜ日本には世界有数の同性愛文化が栄えたのかを分析した、世界初の「日本男色論」である。本書によって、日本の華麗なる男色文化が世界に知らしめられた。

<日本には、古代ギリシャと肩を並べる華麗なる同性愛文化が存在した>
・「かつて我が国日本の男性のほとんどが、同性との性的快楽を、当然のごとく欲していた。今では驚くべきその事実を、さまざまな史料を駆使して論証してみせたのが、本書である。〔……〕日本の男性同性愛史に関する、世界で初めての本格的にして包括的な研究書として、各界から高い評価を受けている。この著作によって、日本には、古代ギリシャと肩を並べる華麗なる同性愛文化が存在したことが、世界中に明らかにされたのだと言っても過言ではないだろう……」。

<なぜ日本には、古代ギリシャとならぶ同性愛文化が花開いたのか>
<ほぼすべての男性が、同性愛の快楽に陶酔していた江戸社会>
・徳川時代(1603〜1868年)の日本社会を研究する者にとって、この二世紀半に渡って全盛期を迎えた、男性同性愛が、少なくとも都市においては非常にありふれた行為だったことは周知の事実である。男性間のセックスは、知識階層に広く容認されていただけでなく、大衆美術や文学では積極的に褒め称えられていた。同性愛行為は、武家屋敷・寺院・歌舞伎小屋とつながりのある男色小屋などで組織的に行われていた。実際、この行為は、文化の主流をなす特徴となっていたのである。
 
・近代日本語においては、男性間のセックスに関連する語彙が非常に豊かなことを見れば、この行為に対して、社会がどれほど寛容だったかがわかる。豊富な一次史料、二次資料を読めば、いたるところで「男性間のエロス(男色)」をほぼめかす言葉に出会う――「若衆道」(多くは縮めて「若道」、あるいは「衆道」、「男道」、「美道」、「秘道」。これらはすべて、特定の慣習に従った男性間のセックスを婉曲に表現した言葉である。
 こうした言葉が出てくるのは、あって当然と思われるような文献(性生活史、風俗史、売春の歴史、性愛版画集など)の中だけではない。地方史、美術史、大衆演劇研究、伝記、日記、法令、個人の遺書、医学論文、大衆文学、紀行文、滑稽文、川柳など、じつにさまざまな文献に登場する。この事実は、徳川時代の日本では、男性同性愛が例外的なものではなかったということを確証している。むしろこれは、社会生活の制度に組み込まれた、非常にはっきりとした中心的な要素だったのである。

・古代ギリシャを研究する際に、同性愛の性質について議論せずには、その美学、エロス、詩、道徳、政治でさえも理解できないのと同じように、徳川時代を研究する際に、その時代における男性側の性関係の特殊な成り立ちを理解しなければ、社会と文化の多くの側面を把握することはできない。それにもかかわらず、また、日本におけるジェンダーとセクシュアリティの問題に取り組む研究者が増えているにもかかわらず、同性愛の伝統を本格的に研究した人は、これまでほとんどいなかった。
 研究の対象として、ためらいがあるのは理解できる。近年になって「同性愛研究」という分野ができてはいるが、同性愛という主題は、日本においても、西洋においても、いまだに議論を呼ぶ問題であることに変わりはない。同性愛者ではない研究者も、同性愛の研究者とレッテルを貼られたくない研究者も、このテーマを避けるだろう。このテーマを持ち出しただけで、いまだに同性愛嫌悪の雰囲気のある学問の世界で、自分のセクシュアリティを疑われかねないと恐れるからである。その問題を別にしても、日本の題材は難しいことが多い。

<なぜこのテーマに取り組んだのか>
・私としても、この地雷原に足を踏み入れるのに、ためらいがなかったわけではない。私は徳川時代の日本を専門とする社会史の研究者として研究を続けてきたので、徳川時代の文献にあたることも、当時の性行動の特徴について何らかの結論を引き出すことも可能だった。とはいっても、これまでの研究では、別の時代、別の社会の歴史学者が出版した、膨大な量の同性愛についての文献を読まなくてはならないこともなかったし、心理学、人類学、社会学や文学の文献については言うまでもない。徳川時代の男性同性愛についての、世界で初めての徹底的な調査をするにあたって、私もこうした文献を読むようになった。しかしながら、私はまず第一に歴史家として日本史の研究者に向けて本書を著わしたのであって、性の歴史の権威として書いているのではない。

・この研究を思い立ったのは、江戸の町における使用人、商店の奉公人、日雇い労働者といったテーマの博士論文の調査をしているときである。そのときには、性行動についてよりも、初期の資本主義の方に関心を持っていた。しかし、階級間の関係、中でも江戸の町特有の雇用主と使用人の関係を研究していると、とくに武家屋敷などで雇用主と使用人間の性的関係に関する記述に何度も遭遇し、さまざまな情報を目にして強い印象を受けることになった。たとえば、18世紀中頃の江戸には、男色茶屋が並ぶ町が少なくとも14あり、その時代の男性同性愛に関係する文献は600近くもあることがわかった。さらに、15人の徳川将軍のうち、少なくとも7人は男性同性愛の関係があり、それが詳しく記述されていることも分かった。

・読み進むにつれ、男性同性愛行動は、江戸の社会でありふれていただけではなく、標準的なことだったと確信するようになった。文献の中では、少なくとも都市の男性は、たいてい他の男性との性的関係に向かう傾向があり、そのような関係は広く受け入れられていたと表現されている。とくに文学では、少年や女形役者に対する男性の情熱を率直に認めている。江戸社会のほとんどの男性に、女性に対する性的興味がなかったと言うつもりはない。むしろ、結婚も含めた異性愛関係は男性間の性行動と両立できるもので、補完するものだとさえ見なされていたらしい。中には、もっぱら男性だけという関係も見うけられるが、江戸社会では両性傾向が普通の状態だったようだ。

・このような仮説は、まったく新しいものではなかったが、研究題材として取り上げるだけの価値はある。その結果、執筆されたのが本書である。私の議論は、ほとんど男性同性愛に限られている。それでもこのテーマ自体を、性の社会構造という幅広いテーマから切り離すことはできないし、だからこそ全般的な女性の性的経験からも切り離すことはできない。そういうわけで、徳川時代の女性同性愛にも触れることになるが、この主題はまた別の研究テーマとなるにふさわしいと考えている。

・第1章では、日本の考え方や慣行に影響を与えた古代中国の男性同性愛の最も古い記述を考察し、古代および中世の仏教寺院と武士の男性同性愛慣行の出現について述べる。このような慣行は、僧侶と武士の社会に女性がいなかったという理由が主として挙げられる。
 第2章では、徳川幕府の確立と共に起こった大きな社会変化が、男色茶屋や歌舞伎小屋を中心とする町人独特の新しい男性同性愛文化の出現に、いかに寄与したかを論じる。男性同性愛の大衆化は、徳川時代初期の江戸に女性が少なかったことも一因だが、都市の性別人口の均衡がとれるようになってからも根強く残っていた。
 第3章では、男性同性愛慣行の特徴を挙げ、男性同性愛だけだった男性たちが存在した形跡もあるにはあるが、両性愛者の方が一般的だったことを述べる。また、男性同士の関係における階級や身分、年齢などの役割について考察する。
 第4章では、社会全体が寛容なのに、なぜ男性同性愛に対して相反する感情が存在したのかに注目しながら、それに対する一般的な態度を検証する。ここで、法律や幕府の公文書に映し出された支配階級の考え方も考察する。
 男性同性愛の慣行、女性の地位、両性具有に魅了される徳川時代、そして異性間の恋愛、これらの関係については、第5章で検証する。そこでは、日本と他国での男性同性愛慣行の比較も行なう。
 終章では、私の主張を手短に述べ、日本近代の開国に伴う男性同性愛の衰退について考察する。

<同性愛嫌悪の雰囲気>
・数年前に、あるアイヴィー・リーグの大学で開かれたパーティで、徳川時代の男色についての本を書いていると何気なく口にしたことがある。すると1週間もたたないうちにある同僚から電話がかかってきて「破廉恥」呼ばわりされた、その同僚は、パーティに出席していた有名な日本の学者から私の発言を聞いたとたんに、「でも、彼は結婚しているのに!」と叫んだそうだ。80年代半ば頃には、私が「徳川時代の同性愛に関する本を書くべきだ」と言ったときに、別の同僚が「そんなことをしたらキャリアはおしまいだ」と答えたことがある。

<男色と日本の社会・文化構造>
・このような本を書いていると、性行動の歴史を論じるには、伝統的な英語の語彙では不十分だと絶えず思い知らされる。かろうじて1世紀ほど存在する「同性愛」という言葉自体も、そもそもは、最初は自分と同じ性別の人間に性的欲望を示すようになるという心理的状態を表わす言葉だった。しかし歴史的にさまざまな状況で、異性愛性交を好んだり喜んだりする男性も、他の男性とのセックスに興味を向けていた。それは儀式のため(古代オリエントの宗教的な男性売春)であったり、女性がいないため(17世紀のカリブの海賊たちの間で行なわれた)であったり、(これといった同性愛嫌悪の文化がない中で)ただ単に男性間のセックスが肉体的に可能で、ひょっとすると快楽的だったからでもある。同じ動機が今日にも存在する。

・このような状況での「同性愛」の根底にあるのは、必ずしも一つではない性的欲望の形である。一部の社会では、オーラルセックスやアナルセックスのような特別な行為をしたいという望みや、特別な年齢や民族、体つきの相手とセックスしたいという男性の望みは、相手の性別と同じくらいに重要かもしれない。だからこそ歴史学者は、男性同性愛を歴史と無関係な心理的状態としてではなく、行動、すなわち異なる文脈にあればまったく違う性的欲望を意味するかもしれない一連の行為としてとらえなくてはならない。
 ジークムント・フロイトは、「性衝動」や本能を、性的対象とは無関係の力だと考えた。近代の男性同性愛(性対象倒錯)の形を、文化的に固有の言葉(男性の母親に対する幼少期の固着に続いて起きる母親との自己同一化と自己愛)で説明しようとした。それでも彼は、「すべての男性は同性愛的な対象を選ぶ可能性がある」と記してもいる。男性間のセックスは、古代(ヨーロッパ)文化の中では、「重要な役割を果たす慣行だった」と述べこのテーマを歴史的な文脈において研究すれば、「病理学的特質」は、「人類学的特質とは切り離される」だろうと示唆した。つまり、ある文化で病気や異常とされるものは、他の文化の中ではそのような異常ではなく、それどころか支配的な文化によって生みだされ、奨励されてきたものかもしれないと示唆しているのである。そうはいっても、現代の「性対象倒錯」に対して、古代文化の中で同性愛が病気とは見なされていなかったことを引き合いに出して価値中立的な「人類学的」アプローチをしたわけではなく、フロイトとその弟子たちは、性対象倒錯は、治療されるべき心理的状態だと主張していた。
 
・同性愛の欲望を病理学的なものと見なさなかったジャック・ラカンのような新フロイト派でさえ、エディプス・コンプレックスに言及することによって、同性愛を個人の成長における普遍的な段階だと考えた。しかし、フランスの反精神医学運動の理論家ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、エディプス・コンプレックス自体が、近代資本主義社会に特有なもので、その根底には家父長制度があると強調している。フロイトの時代以来、私たちは過去と現在の社会における同性愛行動について多くのことを学んできた。また、性的衝動は、社会やルールの変化に応じて変化するということをさらにはっきり理解するようにもなった。モーリス・ゴドリエが書いたように、「性意識が社会を悩ますのではなく、身体の性意識を悩ましているのが社会なのだ」。
 
・もう一つ付け加えると、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによれば、「意識によって人生が決定されるのではなく、人生によって意識が決定される」のである。人間の「真の人生の過程」を研究すれば、「その人生の過程がその人の観念にどのように反映されていくかを実証することができる」。家族や階級、身分といった社会構造は性的感情を形作り、あらゆる階級社会で、性的感情と行動について、どんな態度と分析が表現され、奨励されるべきかを決定するのは支配階級である。だから、どんな時代の男性間セックスの研究でも、階級に縛られた社会構造、そして支配階級のイデオロギーが、どのように特別な形の性的欲求を奨励し、どのように性的行動に影響を与えたのかを調査しなくてはならない。対象となる過去の社会での同性愛行動の特殊な構造が持つ意味を説明し、デイヴィッド・ハルプリンが心理についての歴史的社会学と呼んだものの出現に貢献する必要がある。

<明治以後の日本社会と男色>
<日本で古代ギリシャとならぶ男色文化が栄えた理由>
・日本における男色を研究するに当たっては、並外れて豊富な文献を参照することができた。古代ギリシャ・ローマの社会を除いては、男性同性愛がこれほど詳しく記録されている社会はほとんどない。江戸の町人文化には、遊女を名士扱いしたり、廓と文化的洗練を結びつけたり、世界一精妙な性愛芸術を生み出すほど開放的な性愛観があった。第一次資料の豊富さは、単にそれを反映していただけではないかという議論もあるかもしれない。しかし、伝記に表われる情報や大衆文学の中で男色と女色を比較する際の論調は、徳川時代の日本では他の社会よりもずっと当然のように男性同性愛行動について語られてきたばかりではなく、その事実がずっとありふれていたことを強く示唆している。

・どうしてこのようになったのだろう。さまざまな要素が結びついて男色の伝統を生み出し、その独特の慣習やタブーを作り上げた。このテーマを検討するために、中国との関係、宗教と哲学の動向、伝承、女性の地位、僧侶の禁欲生活、封建制度、主従関係、都市の人口動態といったばらばらの要素を考慮しなくてはならなかった。明らかに、男性同性愛行為の広がりと独特の役割構造を支え育てる日本特有の要素の混じり方があったのである。しかし、徳川時代の日本に男色が栄えた理由を思い切ってまとめるとすれば以下の三点を指摘しなくてはならない。
1. 支配階級(僧侶と武士)にあった男性間性行為の伝統は、江戸幕府の支配体制ができるはるか以前に確立されていた。
2. こうした初期の伝統は、僧院や戦陣に女性がいなかったことを反映する「状況に応じた」ものだったとは言え、徳川時代の慣習は、女性が(少ないこともあったが)存在した都市環境で発達したものである。
3. それまでの、支配階級の男性同性愛伝統は、町人が異性間の関係を保ちながらも男性同士のセックスを容認し、欲望し、体験する気持ちを助長した。

・手短に言えば、男色は主に伴侶となる女性の欠乏を補うために生まれたが、ある時点でその文化が男性の欲望構造に大きな影響を持つようになり、その結果、必ずしも女性の欠乏がなくても存続し続けることになった。実際、それは徳川時代の各都市で、女性の遊郭が栄えるのと同じほどの繁栄をし続けたのである。徳川時代の男色は、概して、女色とのどちらかを選ぶというようなものではなく、両立可能だった。徳川時代には、ほとんどの男性の性意識は“両性愛”だったのである。
 こうした性意識は、儒教思想と封建社会に特有の序列を反映する形で構築された。

・これまで見てきたように、学者によっては、年齢に応じた役割を持つ同性愛を成人が少年に精液を与える古代の成人儀式に、ジェンダーの役割を模倣する同性愛を異性装のシャーマンの伝統に結びつけることもあった。最も古い日本の文献は男性間セックスについて何も語っていないが、上記の二つの慣習が先史時代の日本で融合し、仏教の禁欲生活が導入される以前の日本に残っていたということは考えられる。
 日本語と古代文化は、東南アジアと北東アジアの要素の融合を示している。メラネシアから中国南部に至る東南アジアでは、年齢に応じた役割を持つ男性間関係が一般的だった。北東アジアでは、異性装のシャーマンの慣習が広がっていた。年齢の問題と異性装あるいは両性具有の役者に惹きつけられることとを同時に反映している点で、日本の男色はこうした古代の同性愛原型を融合させているように思える。

<本質主義と社会構築主義の論争>
・同性愛を歴史的な文脈で読み解こうとする学者の間で起きた論争の中で、最も中心的で実り多かった対立は、「本質主義者」対立「社会構築主義者」のものだった。本質主義者は同性愛者は常に存在したと主張し、他方は現代の同性愛文化は特定の社会変化の結果として現われたものだと主張している。この二つの見方はまったく両立しないものではない。最近の医学的・生物学的研究は、本質主義者の支持する仮説、つまり遺伝的あるいは生物学的要素が性的欲望の性質に影響を与える可能性にある程度の裏づけを与えている。それでも、たとえ究極的には生物学的原因が違いを生み出し、2パーセント、あるいは5パーセント、10パーセントの人が同性愛の携行を持って生まれてくるとしても、そうした人々がその欲望に基づいて行動する意欲と能力、またその表われ方は社会によってまったく異なる概念によって条件付けられるという圧倒的な証拠に直面するのである。さらにはまた、残りの90〜98パーセントの人間が、さまざまな社会において、視床下部神経の大きさやX染色体が運ぶ情報によっては説明のつかない理由で性欲を感じたり性行動をとったりするという事実も考慮する必要があるだろう。
 
・こうした現実を理解するには、社会経済的要素を探らなくてはならない。最近多数の研究によって、デイヴィッド・ハルブリンが言ったように、「性的欲望は(社会的に)構築され、大量生産され、生きている人間の集団のさまざまな構成員の間に配分される」ことが証明されている。こうした欲望が時代につれて、なぜ、どのように変化するかを理解するには、「セクシュアリティ」(すべての人間に共通していて、生まれつき持っているが、文明によってさまざまに抑圧されてきたものとしての性)の歴史を作るのではなく、「心理についてのまったく新しい歴史的社会学を定義し洗練させなければならない」のである。

・本書は、その歴史社会学に寄与するものである。私は工業化以前の日本における同性愛慣行のいくつか、とりわけ徳川期の町人による男色慣行を生み出した「社会関係の根本構造における大きな変化」を突き止めようと試みた。仏教の禁欲主義の広がり、とくに9世紀初めの天台宗と真言宗の広がり、封建主義と理想化された主従関係の高まり、そして、活気ある町人社会が、封建権力に服従して支配層の風俗を受け入れ、徳川時代の初めの頃から享楽主義を助長した。
 いつの時代にも、理由はどうあれ男色の欲望を感じそれに基づいて行動する男たちがいた可能性を認めなくてはならない。文献に出てくる「女嫌い」への言及は、町人社会にもそういう人たちがいたことを明らかにしているし、女性を欲しようとしてもそれができない人がいたことも示している。だが、それよりはるかに多い男性が、快楽があり、都合よく、禁止されてもいないし不道徳と見なされてもいないうえ、当時の権力関係の性質から影響を受けていたからこそ男色を営んでいたのである。

<遺伝的あるいは生物学的要素が>
・同性愛男性19人、異性愛男性16人、異性愛女性6人の脳の解剖に基づいて、サイモン・ルヴェイは、性行動を始めとする本能的行動をつかさどる視床下部にあるニューロンのいくつかが、異性愛の男性のものは同性愛の男性の2倍の大きさがあることを突き止めた。ディーン・H・ハマーは44組の同性愛兄弟を研究し、そのうち33組の兄弟がX染色体の先端に同じ遺伝子を持っていることを発見した。少なくとも一部の同性愛男性では、遺伝子の影響による視床下部の縮小があるのではないかとハマーは示唆している。また、生育環境の異なる叔父/伯父やいとこも含めて、親戚に同性愛者がいる確率は同性愛の男性の方が異性愛の男性よりも3倍も大きいこともわかった。一方、リチャード・ビラードの研究では、同性愛の男性が同性愛の兄弟を持っている確率は異性愛の男性の5倍になることや、一卵性双生児は離れ離れに育てられても、よく似た性的指向を持つことが発見されている。

<明治以後における男色文化の変化と形象>
・現代日本は、ほとんどの西洋社会より同性愛恐怖が少ないと言ってもいいだろう。マンガから小説に至る現代大衆文学は、役割分担のある同性愛行為が男性にとってありふれた経験であるという前提を反映している。たとえば、大江健三郎の1964年の小説、『個人的な体験』では、ある男の女性の恋人は、「あなたは、弟の年齢の連中から好意をもたれるタイプだと思うんだけど、そういう男の子と一緒に寝たことはないの」とさりげなく尋ねる、彼女がこの問題を持ち出したのは、恋人の性格や行動に特異なものを感じたからではなく、アナルセックスをしたいので、以前にやったことがあるかどうかを知りたかったからに過ぎない。恋人の過去の同性愛体験の可能性を当然視した寛容な態度は、現代日本でさほど珍しいことではない。
 しかし現代日本は、徳川時代の都市生活者のような両性愛の社会ではない。現代では、西鶴の登場人物である源五兵衛の言葉「男色、女色のへだてはなきもの」と同じことを言う日本人はほとんどいないだろう。日本で一般的な見方は、同性愛行為はノーマルではなく、そういう性向のある人は少なくとも親族や同僚にはたくみに自分の性向を隠すべきだというものである。ゲイを明らかにしている人々は決まって差別にあう。たとえば、あるゲイ・レズビアン団体のメンバーは東京都青少年センターの宿泊を拒否された。
 男性間セックスへの態度は、過去百余年間でこのように劇的に変化した。その変化の原因は、主に日本が1859年以来世界システムの仲間入りをしたことにある。日本の支配層に、西洋国家の敬意を勝ち取り、不平等条約を覆すために、西洋の知識を吸収しなくてはならないという合意ができあがった。

・そうした「知識」の中には、それまで知られていなかった「不合理さ」もあった。たとえば、陽物信仰の男根は恥ずべきもので破壊すべきであるとか、同性愛恐怖といった概念である。18世紀半ばに安藤昌益(1703〜1762年)は、同性愛への不寛容を含めてオランダの性習俗を好意的に迎える発言をした。蘭学者の森島中良(1756〜1809年)は、1787年に、オランダでは「人倫に背くをもって」男色が厳しく禁止され、「犯せし人」は火あぶり、「犯される少年」は海に沈められたと書いた。19世紀後半には、日本の支配層は同性愛(すでに男色という言葉ではない)は「自然に反する」という見解を持つようになり、中にはこれを犯罪とすべきだと主張する人もいた。進歩的な新聞、『萬朝方報』の編集者は、東京の学生に同性愛が蔓延していることを暴露し、1899年には英字週刊誌の『eastern World』が、「未来の法律家、役人、教師」たちが「獣のような」「自然に反する」「恥ずべき」「不潔な」慣行に染まることに反対する記事を載せた。その記事は、男性間の性行為は「文明化された国々では犯罪として罰せられる」と論じた。そして、日本の刑法に、男性同性愛行為に最長10年の重懲役刑を科すドイツ刑法175条のような条項を加えるべきだと主張した。
 このように、日本の男色が衰退した大きな原因は西洋文化の影響だったのである。しかし、この衰退は同時に、男性同性愛を発達させた封建制度の崩壊を反映しているのも確かだ。ここまで見てきたように、日本では同性愛関係にある二人のどちらの役割も、さげすまれることがなかった。

・確かに、徳川時代を思わせる「兄弟の契り」や指切りや暴力的な争いを伴い、役割構造を持つ同性愛という意味での男色は、明治時代の学校や軍隊で生き延び、栄えさえした。その時代には、「稚児」や「少年」という言葉は年長の学生の関心を惹きつける男子学生を指して使われていた。1901年に出版された東京の学校案内は、学習の助けと引き換えに男色関係をせまられることがあると警告し、作家の森鴎外は、1909年の小説『ヰタ・セクスアリス』で上級生から強姦されそうになった経験を書いている。
しかし、男色の世界はもはや、調査報道記者や道徳改革家によって、ときたま光を当てられるだけのひそかな地下世界になっていた。新渡戸稲造のような教育者は「同性的欲情」を原始的で暴力的な衝動だと見なし、精神を教化することによって根絶すべきものだとした。

・男色は、急速に大衆文化の中央舞台から追われた。同性愛の欲望はもはや、文学や演劇、美術によって褒め称えられることはなくなった。むしろ、過去の「悪習」であり近代西洋の前では国家の恥であるとして反対された。「男色好き」は、奇妙な心理的障害を持つ「男性同性愛者」というドイツの概念に取って代わられた。徳川時代のように男性間の性的欲望を生み出しやすい環境ではなくなったのである。男性がこうした欲望を体験し、それに基づいて行動することがしづらくなった。ここに見られる性に関する態度と行動の変化は、同性愛は特定の社会的変化の結果として現われたものだとする社会構築仮説を、このうえなく説明している。

<あるゲイ・レズビアン団体の宿泊拒否>
・動くゲイとレズビアンレズビアンの会(アカー)は1991年にこの宿泊拒否に関連して東京都を訴えた。これは、センターに宿泊していたサッカーチームのメンバーによるゲイの若者への嫌がらせに端を発している。嫌がらせにあった被害者がセンター職員に苦情を申し立てると、センター側は団体の性的指向を問題にしてその後の使用を拒否した。

<世界初の日本男性同性愛史についての包括的な研究書 (松原國師)>
・著者のゲイリー・P・リュープは、ハワイ大学で文学修士、ミシガン大学で博士号を取得し、現在はマサチューセッツ州のタフツ大学で日本史の教授をつとめるアメリカ人の研究者である。専攻は、徳川時代における性(ジャンダー)、身分・階層、労働者の研究であり、ほかに仏教の世界史ならびに近代以前の西洋と仏教との文化交流の分野にも携わっている。



『職場のLGBT読本』
柳澤正和、村木直紀、後藤純一   実務教育出版 2015/7/22



<LGBTを知っていますか?>
・LGBTは、Lesbian(レズビアン)、 Gay(ゲイ)、Bisexual (バイセクシュアル)、transgender(トランスジェンダー)の頭文字をとった、性的マイノリティ(少数者)を表す総称です。

・欧米ではアーティストからスポーツ選手、企業経営者や政治家に至るまでさまざまな職業の方が、カミングアウト(LGBTであることを公にする行為)をする例が増えています。みなさんもオリンピックで水泳の金メダルをとったイアン・ソープ選手や、アップルCEOのティム・クック、そして2015年にグラミー賞を獲得したサム・スミスなどのカミングアウトのニュースをご覧になられたかもしれません。

<日本でのLGBT事情は?>
・調査によると人口の5%〜7%強(電通総研2012年、2015年)はLGBTだといわれます。13人〜20人に1人です。日本の苗字で多い「佐藤」「鈴木」「高橋」「田中」さんは、合計600万人いるといわれますが、LGBTの推定人口はその数に匹敵する規模というわけです。

・本書が、おそらく日本で初めての、「ビジネス書・人事」の欄に置かれるLGBTの本になると思います。

<LGBT人口はどれくらい?>
・性的少数者(性的マイノリティ)と言うぐらいですから、ストレートに比べたら少ないのでしょうが、実際にはどれくらいいるのでしょうか。人口の3%〜10%というデータを目にしたことがあるのかもしれませんが、これほどの幅が生まれるのはなぜなのでしょう。それは、LGBT人口の統計というのは、さまざまな意味で正確な数値を出すことが困難になっているからです。

・アメリカではその後、何度も同性愛人口についての調査が行われてきました。最近の2003年の調査があり、性的に活発なアメリカ国民男性の4.9%が18歳以降に同性との性的行為を持ったことがあると回答しました。

・イギリスでは、財務省などがシビル・ユニオン制定の影響を調べるため、2005年に行った調査によると、イギリスにいるレズビアン、ゲイの数は360万人で、国民の約6%が同性愛でした。

<古代ギリシアからルネサンス期>
・自然界にももともとたくさんあるように、人間界にも古来から同性愛はありました。よく知られているのは古代ギリシアです。プラトンは『饗宴』のなかで少年愛を美と結びつけて賛美しています。ポリス(都市)では、年長者が庇護者として少年を愛することが称揚され、それは少年を立派な市民に育て上げるという教育的な意味ももっていました。

・しかし、キリスト教が誕生し、同性愛を退廃とみなす中世の暗黒時代へと入っていきます。聖書の「ソドムの市」の記述から同性愛は「ソドミー」と呼ばれ、火あぶりなどの刑が科せられることもありました。

・『ホモセクシャルの世界史』を著した海野弘氏は同書で「キリスト教がホモフォビアを作ったのではなく、キリスト教が生んだ抗争がホモフォビアを助長したのかもしれない」と述べています。

・ルネサンス期はネオプラトニズムの影響で同性愛に寛容なムードが広まる一方で、取り締まりも行われました。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロといった芸術家たちの同性愛は広く知られるところです。
 イギリスでは、エリザベス朝時代のクリストファー・マーロウやシェイクスピア、17世紀のフィリップ1世(オルレアン公)、ジェームズ1世、ウィリアム3世の同性愛が有名です。18世紀には産業革命を背景に、今日のゲイバーの原型である「モリー・ハウス」が誕生し、庶民も同性愛や異性装を謳歌するようになったことが知られています。

<近代から現代>
・近代になると、家父長制と資本主義、ナショナリズムが結びつき、一夫一婦制が定着し、ジャーナリズムの発展とともに国家と大衆が同性愛者を非難・弾圧するようになり、ホモフォビア(同性愛嫌悪)が蔓延します。

・19世紀末、オスカー・ワイルドが同性愛のかどで逮捕・投獄され、フランスではヴェルレーヌがランボーとの恋の終幕に拳銃を発砲し、逮捕されました。20世紀初頭には、ドイツで皇帝ヴィルヘルム2世の閣僚や側近が同性愛者として糾弾される一大スキャンダル、「オイレンブルク事件」が起こりました。第1次世界大戦の遠因ともなる、国家を揺るがすような事件でした。イギリスでは、経済学者のケインズ、作家のヴァージニア・ウルフやE・M・フォスターらの同性愛者・両性愛者が中心となったブルームズベリー・グループが活動し、パリではディアギレフやニジンスキー(ともに同性愛者)のバレエ団バレエ・リュスがセンセーションを巻き起こしました。
 女性に目を向けると、「ロマンチックな友情」と呼ばれて称賛された女性同士の友愛が19世紀に頂点を迎え、経済的自立を果たした中産階級の女性たちは共に暮らしはじめます(アメリカ東海岸では「ボストンマリッジ」と呼ばれます)。1920年代にはニューヨークなどにレズビアンコミュニティが誕生します。

・しかし、精神科医による同性愛者や異性装者というカテゴライズは、のちにそうした人々が異常だとか病気であると見なされることにもつながりました。そしてナチスは性科学研究所を破壊し、何万人もの同性愛者を収容所で虐殺……歴史上類を見ない悲劇が起こったのです。

・第2次世界大戦が終わり、男女平等や公民権運動が進んでもなお、依然として同性愛は違法であり、第2次世界大戦の英雄であったアラン・チューリングが同性愛のかどで逮捕され、ホルモン治療を強制され、自殺に追い込まれるという悲劇も起こりました

<LGBTの日本史>
・日本は欧米に比べ、LGBTに寛容な国だといわれてきましたが、おそらくその理由には、日本人が異性装、ことに女装が大好きだからということもあるでしょう。三橋順子氏は著書『女装と日本人』(講談社刊、2008年)において、ヤマトタケルの女装を端緒に、古代日本の女装した巫人(シャーマン)、王朝時代の稚児、中世の持者、江戸時代の陰間………と現代まで連綿と続く女装の系譜を検証しながら、日本文化の基層に「性を重ねた双性的な特性が、一般の男性や女性とは異なる特異なパワーの源泉になるという考え方=双性原理」があると述べています。

<「男色」大国だった日本>
・そのことも深く関係しますが、かつて日本は世界に冠たる「男色」大国でした。有史以来、日本の歩みは男色とともにあり、日本の歴史は男色文化に左右されながら、時にはそれが原動力となって動いてきました。
 古代の豪族からはじまり、空海が唐から男色文化を持ち帰って以来、稚児を愛するライフスタイルが爆発的な広がりを見せ(稚児は「観世音菩薩の生まれかわり」として崇拝され、僧侶の間では男色は神聖な儀式でした)、僧侶から公家、貴族、そして武士にも伝播しました。室町時代には喝食(かつしき)と呼ばれる美少年がもてはやされ(足利義満と世阿弥が有名)、戦国時代には武将が小姓を寵愛し(織田信長と森蘭丸をはじめ、ほとんどの武将が小姓を抱えていました)、やがて「衆道」へと至ります。「衆道」は念者と若衆の愛と忠節によって成立する崇高な男の契りであり、ちょうど古代ギリシアのように、少年を庇護し、立派な武士に育て上げる(軍の団結を強化する)意味合いももっていました。

・日本の男色は、政治をも大きく動かし、独自の文化を花咲かせ、日本的美意識とあいまって「宗道」と呼ばれる武士の人生哲学となり、江戸時代には若衆歌舞伎という一大娯楽産業(そして色子、陰間という売色のシステム)も誕生しました。この時代、色道の極みは男色と女色の二道を知ることだと言われ、陰間茶屋が栄えました。陰間の中には女形を目指して女装した者もいました。稚児などもそうですが、美少年はしばしば女装もしており、男色は現代とは異なり、疑似異性愛的なものでした。日本の男色史は女装史と不可分なものだったのです。

<明治以降〜現代>
・明治維新以後も「衆道」の名残りが薩摩藩などを中心に見られ、大正時代まで続きました。しかし、明治政府は、江戸以前の男色の文化を封建的な江戸の奇習、西南日本の悪習(それに影響された学生の悪習)、「文明」に対する「野蛮」として周縁化しました。富国強兵・殖産興業の国策の下、どんどん同性愛者は生きづらくなり、戦時中は「非国民」と呼ばれ、弾圧されました。
 
・戦後、待ってましたとばかりに同性愛者や女装者が活動をはじめますが、三島由紀夫の「禁色」に描かれているように、まだアンダーグラウンドなものであり続け(歴史の教科書も男色を隠蔽し続け)、ほとんどの同性愛者は偽装結婚を余儀なくされました。それでも、女装したママのゲイバーやブルーボーイのショークラブ、二丁目のゲイバー街ができ、丸山明宏(美輪明宏)のようなタレントが登場し、ニューハーフやミスターレディがメディアを賑わせるようになり、というかたちで次第に世間に浸透していきました。(その後もカルーセル麻紀、おすぎとピーコ、ピーターらをはじめ、現在のマツコ・デラックスに至るまで、数多くのオネエタレントが活躍してきました)。

<同性愛の世界地図>
・西欧や北米、中南米、オセアニアでは同性婚または同性パートナー法が認められている国もありますが、中東やアフリカ、東欧では、まだ同性愛者を弾圧する国がたくさんあります。近年、この二極化が進みつつある一方で、日本をはじめとする東アジア・東南アジアでは、ひどい差別もないが保護する制度もない、という状況が続いています。

・同性愛が違法となっている国(国外追放や終身刑、死刑などの極刑に処せられる可能性がある)
イラン、サウジアラビア、イエメン、スーダン、ナイジェリア、モーリタニア、ソマリア。

<日本アイ・ビー・エム株式会社>
・1950年代には米国企業としてもいち早く、個人の尊重、機会の均等をコーポレートポリシーとして宣言し、すでに80年代にはLGBTにも注目し、差別禁止規定のなかに「性的指向」「性自認」という文言を入れています。ダイバーシティ施策の一環でLGBTへの特化ではなく、人種の違いや障がい、女性と同様に尊重するものでした。
 マイノリティの従業員の定着、意識向上を考え、ロールモデルをいかに輩出していくか、平等な福利厚生、継続性、LGBT市場の開拓やブランディング、賛同してくれる仲間の企業をつくる、といったことに取り組んでいます。客観的な調査機関のサーベイ(調査)にも積極的に応じて、差別のない職場環境の整備と維持を心がけています。

<さまざまな企業の取り組みを知ろう>
・そこに風穴を開け、いち早くLGBTへの働きかけを行ったのが、今はなきリーマン・ブラザーズ証券でした。2004年に入社したヘイデン・マヤヤスさんが、社内でLBGLN(リーマン・ブラザーズ・ゲイ・アンド・レズビアン・ネットワーク)という当事者ネットワークを立ち上げ、LGBTの従業員同士で親交を深め、同性カップルの結婚を祝福したり、識者を招いて講演会を催したりしていました。そして「多様な人材を抱えることができれば顧客提案の幅も広がる」との考えから、2006年3月には早稲田大学など7大学のLGBTサークルに声をかけ、社内のLGBT支援システムをアピールし、優秀な人材の確保に乗り出しました(2008年以降、リーマン・ブラザーズ証券の取り組みは、野村證券へと受け継がれていきます)。

<ゴールドマン・サックス証券株式会社>
・ゴールドマン・サックスは、多くのLGBTが活躍している世界有数の金融機関です。イギリスでは「LGBTが働きやすい会社トップ100」の6位に選ばれています。

・日本法人では2005年に社内LGBTネットワークが設立されました。

<野村証券株式会社>
・2008年9月にリーマン・ブラザーズ証券が破綻したあと、野村證券がリーマン・ブラザーズの欧州とアジア拠点の部門を継承した際に、ダイバーシティ&インクルージョンのコンセプトとともにLGBTネットワークが野村證券に引き継がれることになりました。



『世界を見る目が変わる50の事実』
ジェシカ・ウィリアムズ  草思社 2005/4/28



<70カ国以上で同性愛は違法、9カ国で死刑になる>
・同性愛が死刑の対象になる国が9カ国ある。モーリタニア、スーダン、アフガニスタン、パキスタン、チェチェン共和国、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE),そしてイエメンである。

・1979年のイランにおけるイスラム革命以来、4000人以上の同性愛者が処刑されたと推計されている。

・世界で70カ国以上がレズビアン、ゲイ、同性愛者、あるいは性倒錯者を差別する法律を有している。

・社会においては同性愛は「病気」として扱われ、ゲイやレズビアンは精神医療による「治療」を強いられてきた。

・しかし、多くの国々で事態は変わりつつある。2003年6月、米最高裁判所は、同性カップルの性的行為を禁じるテキサス州法に違憲判決を下した。この判決は、テキサスだけでなく、他の13州における類似の法律を一挙に無効にすることになった。

・さらに同性愛のカップルも異性愛のカップルと同じように子供を育て、家族の絆を持ち、結婚に関する判断を下すことができるとした。これらは米国憲法に保障された権利と確認したのである。

・米国市民自由連合はこの判決を「LGBT(レズビアン、ゲイ、両性愛者、性倒錯者)にとって、これまでで最も有意義な判例」と呼んだ。

・国際人権団体も同性愛を公言する人々の保護を求める働きかけで注目を集めており、おそらくはそれがまた保護手段になっているだろう。



『妖怪の理 妖怪の檻』
京極夏彦    角川書店  2007/9



<柳田國男の妖怪談義を巡って>
・現在、“妖怪”を語る時には必ずといっていい程引き合いに出されてしまう柳田國男も、最初から「妖怪」という言葉を使用していたわけではありません。
 例えば、有名な『妖怪談義』(1956/修道社)に収録されている論文の中で一番古い「天狗の話」が書かれたのは明治42年(1909)のことなのですが(それは井上圓了が活躍していた時代です)、その中に「妖怪」の2文字を見出すことはできません。のみならず初期、中期の論文において柳田は、天狗は天狗と記し、大太法師は大太法師と記すだけです。柳田國男がそうしたモノの総称として「妖怪」という言葉を頻繁に使い始めるのは、大正も半ばを過ぎてからのことなのです。
 ただ、柳田國男はその学問の創成期から民俗の諸層に立ち現れる“怪しいモノゴト”に深い興味を示してはいました。
 柳田はまた、それを怪しいと感じる人間の心の在りようを研究することに学問的意義を見出してもいたようです。加えて、柳田が比較的早い時期に「妖怪」という言葉を“述語”として採用しようとしていたこともまた、事実ではあります。

・そして柳田以外の民俗学者達が「妖怪」という言葉を術語として頻繁に使い出すのは柳田が昭和11年(1936)雑誌『日本評論』(日本評論社)に論文「妖怪談義」を発表して後のことと思われるのです。

・また当時流行し始めていた心霊研究、さらには海外のスピリチュアリズムなども、柳田の視野には収まっていたはずです。
 ならば、日本民俗学を学問として確固たるものにするために、そうしたある意味いかがわしさを含んだ学問と一線を画する必要が、柳田には確実にあったはずなのです。民俗の中の“怪しいモノゴト”を扱うにあたって、さらにはそれを“妖怪”と名づけるにあたって――「妖怪」という言葉を術語として使うために、柳田國男は、井上、江馬、藤澤、そして心霊科学、そのどれとも異なった道を模索せざるを得なかったのでしょう。

<『古今妖魅考』は平田篤胤が記した書物で、天狗に関する多くの記述がある>
・柳田が“妖怪”と“幽霊”を明確に区別したがったのは、過去(文献)だけを研究対象とした江馬のスタイルと決別するという主張の現れだったのではないでしょうか。それはまた、民俗学を近代的な学問――科学とするための一種の方便として捉えることも可能です。

<黎明期の民俗学を巡って>
・柳田は全国各地の習俗や言語など“民俗”に関わる事象をくまなく調査し(必ずしも自らが全国を巡ったわけではないのですが)、蒐集・蓄積した膨大なデータを様々な形で纏め、世に問うています。しかし、纏められた資料や論考を俯瞰した時、“性”と“差別”に関わる記述が驚く程に少ないということに気づくはずです。まったく触れられていないというわけではないのですが、それにしても扱われている情報は僅かで、扱い方も常に淡泊です。
 これは、それらの情報が蒐集の網から漏れた故に生じた“不備”ではありません。
 それはむしろ、意図的に“取捨選択”がなされた結果であるものと思われます。“性”や“差別”に関わる情報は、なにがしかの基準によって選り分けられ、隠蔽されてしまったようなのです。
 但し、その選別作業がどの段階で行われたのかは定かではありません。

・柳田の許に届く前、例えば蒐集の段階で捨てられてしまったという可能性も、もちろんあるでしょう。しかし、たとえそうであったのだとしても、何らかの基準なり指針を示したのが柳田であったことは想像に難くありません。
 柳田は“夜這い”などの性に関する習俗や、取り上げること自体があからさまな差別の誘因となり得る事象などに対しては極力言及しない――という方針を持っていたようです。これは柳田個人の(そうしたものを好まない)性質・信条に因るものだという見方もあるようですが、それを踏まえた上での、一種の“戦略”であったと捉えられることも多いようです。
 立ち上げ間もない民俗学を守るための――学問の一分野として成立させるための――それは学問的“戦略”だというのです。つまり民俗学が卑俗なものとして受け取られることを虞れたあまり、誤解を受けそうなテーマを緊急避難的に遠ざけた――ということになるのでしょうか。

・ただ、柳田國男が意図的に「妖怪」なる言葉を民俗学用語として採用し、ある程度積極的に使用したことは明らかな事実ですし、その結果として現在私たちが知る“妖怪”という概念が形成されたことも事実でしょう。

・性的習俗・差別的文化の取り扱い方が、柳田の学問的“戦略”であったのだとしても、また、単に柳田の個人的な嗜好の発露であったのだとしても、柳田がなにがしかの基準を以て蒐集した情報を取捨選択していた(あるいはさせていた)という事実に変わりはありません。

 そうした事実がある以上、ここでまず問題にしなければいけないのは、その“基準”そのものでしょう。
 それでは、その基準と果たしてどのようなものだったのかを考えてみましょう。

・筆者はその基準を、取り敢えず“通俗性の有無”と要約することができるだろうと考えています。
 通俗とは、“下品”であり“幼稚”であり“下劣”である――学問的でない――と言い換えることもできるでしょう。柳田國男は高名な学者であり、官僚でもあり、インテリゲンチャのホワイトカラーであり、現在でも、およそ通俗とはかけ離れた印象を以て受け入れられている人物です。柳田が通俗を厭うたというもの言いは、いかにももっともらしく聞こえることでしょう。しかし、それはあくまで“印象”に過ぎません。

・風俗史学が“下品”で“幼稚”だなどと述べているわけではありません。前述のとおり、風俗史学は(民俗学とは以て非なるものではありますが)きちんとした理念や体系を持つ、れっきとした学問です。
 ただ、明治期から昭和初期にかけて、風俗研究の名を借りた通俗的な言説が一種のブームとなっていたこともまた、紛れもない事実なのです。

・もちろん、性であれ差別であれ、研究者は決して下世話な興味本位でそれらを俎上に並べたわけではありません。風俗史学の内部では、それらはいずれも学問的な研究対象として、真面目に取り扱われています。しかし、研究者がどれだけ真摯な姿勢でそれらと向き合っていようとも、そうした対象を扱うという行為自体が、好奇=通俗の視線に晒される要因となるのだとしたら――通俗化を回避することは難しいといわざるを得ません。
 戦後のカストリ誌などで好んで扱われたネタの多く(猟奇趣味、犯罪心理、性愛記事、秘境探検記事など――)は、そうした“風俗研究ネタ”の直接的な焼き直しです。

・風俗史学が「過去のモノゴトを現代に紹介する」学問だとするなら、民俗学は「過去を知ることで現代を知る」学問です。風俗史学が「特定の場所や時代を研究する」ことに終始するのに対し、民俗学は「古層を探ることで現在を理解する」ためになされる学問なのです。
 実際、柳田以降もその二つは時に混同され、集合離散を繰り返すこととなります。

・柳田が“性”や“差別”を禁じ手としたのは、そうした手本があったからなのでしょう。それが柳田の個人的な嗜好であったのだとしても、学問の卑俗化を防ぐための戦略であったのだとしても――柳田の視野に風俗研究が収められていたことは疑いのないことのように思えます。

・柳田國男は、どういうわけか「妖怪」という言葉だけは捨て去ることをしませんでした。それどころか、柳田は晩年に至って「妖怪」という言葉に拘泥し始めるのです。先に挙げた基準が正しいものであるならば、「妖怪」は真っ先に捨てられていて然るべき言葉であったのでしょう。

<明治の雑誌をなどを巡って>
・明治30年代に入ると、圓了の著作以外の場でも「妖怪」という言葉が使用されるようになります。

・明治政府は圓了以上に迷信や旧弊を弾圧しました。明治期には、まじないや因習を禁止した政府令がいくつも出されています。反体制という場所に立って眺めるならば、圓了も明治政府も同じことをしているように見えたはずです。

・合理を前面に打ち出した圓了の場合、現象の背後には何もありません。「起こり得るか/起こり得ないか」の二者択一で、非合理なものは「起こらない」「ない」というのが圓了の立場です。
 平井の場合は多少違っています。神霊(心霊とは微妙に違う概念です)の有効性を信じる者にとっては、すべての事象はなにがしかの「意志の結果」なのです。「起こり得ないこと」であっても「起こるべきこと」は「起こる」ということになるでしょう。

・二人の違いとは、現象の背後にある“モノ”を想定しているかいないか、ということです。
 平井の文中にそうした“超越者”に対する記述はいっさいありません。しかし、先に述べたように、平井が後に心霊研究の方面に手を伸ばす人物であることは事実です。平井金三にとって大切だったのは、「何が起きているか」「それは起こり得ることなのか」ではなく、「何故起きたのか」、あるいは「何が起こしたのか」だったのではないでしょうか。
 健全な“妖怪”=“神仏”が「在る」のであれば、不健全な“妖怪”もまた「在る」ということになります。

・天狗の話も河童の話も、フォークロアや寓話としてではなく「本当にあったこと」として語られているわけです。
 現代に置き換えるなら「私は宇宙人に遭った」「自殺者の霊がトンネルに現れた」というのと同じ文脈で天狗や河童が語られているわけです。天狗も河童も実在するモノゴトとして、要するに“オカルト全般”として扱われているということ――即ち井上圓了の引いた枠組みの中で語られているということ――になるでしょう。

・圓了の仕事によって、“妖怪”の名の下にそれまで乖離していたいくつかの事象が統合・整理されたことは間違いないでしょう。それは、後にオカルトなる便利な言葉が一般化したために、超能力やUFO、心霊現象やUMAなど、本来無関係であるはずのものごとがひと括りにされ、新たな体系が編まれた事情と酷似してもいます。

<郷土研究の社告を巡って>
・その当時「妖怪」という言葉は、通俗の場においてこそ“化け物”というニュアンスを帯びつつあったものの、学問の場において、また枠組みとしては(結果的に)圓了の独壇場だったといえるでしょう。しかし柳田は(たぶん敢えて)この枠組みから外れた使い方をしてみせます。

・民俗学は(というよりも柳田國男は)もちろん近代的学問を目指しはしたのでしょうが、決して前近代を否定する立場をとっていたわけではありません。民俗学にとって前近代は否定するものでも肯定するものでもなく、近代を知るための“研究材料”だったのです。

・たしかに圓了といえば迷信否定――今でいうならオカルト否定派の急先鋒です。心霊研究とはおよそ馴染まないように思えます。しかし、繰り返し述べている通り、圓了が厳しく糾弾したのは“前近代”なのです。
 心霊科学という言葉からも判る通り、心霊研究は、“科学的”な発想をその根底に持っています。

<再び柳田と民俗学を巡って>
・明治末から柳田が抱えていた「山人」という大きな研究テーマ――『後狩詞記』(1909/自費出版)や『遠野物語』(1910/聚精堂)などを生み出す原動力ともなり、南方熊楠との、いわゆる「山人問答」を通じて明確化したテーマ――に、柳田はここで終止符を打ちます。そして研究対象を平地人=常民へと移して行くのです。
 そうした様々な変遷の中、柳田は「妖怪」という言葉とは距離を置き続けます。と――いうよりも、柳田は、「妖怪」という言葉をまったくといっていい程使っていないのです。

・昭和9年(1934)、柳田は現在もなお“妖怪”研究の基本文献のひとつとされる『一目小僧その他』(小山書店)を上梓します。
 一つ目小僧、目一つ五郎、隠れ里、橋姫、ダイダラボッチと――論文中で扱われているのはいずれも(現在の感覚では)紛う方なき“妖怪”ばかりですが、やはり「妖怪」という言葉は一切使用されません。

・金城は、最初に挙げた「マジムン」を「妖怪変化の総称」としています。続く「ユーリー」は、マジムンと同義であるとしながらも(那覇では)「人間の死霊」に限定する呼称であると述べています。

<様々なコトバを巡った後に>
・柳田は、“妖怪”に対する自らの指針を正当化するために、まず“幽霊”を“お化け”のカテゴリから切り離さなければならなかったのではないか――。
 そのような観点から柳田の仕事を見直した時、“妖怪”と“幽霊”に関する柳田の定義も、かなり脆弱な論拠の上に成立している限定的な言説として捉え直されてしまいます。
 柳田の定義は概ね次のように要約されて、広く人口に膾炙されてしま
います。

幽霊は人に憑くが妖怪は場所に出る。

幽霊は深夜に出るが妖怪は薄暮に現れる。
この二点は“妖怪”と“幽霊”の決定的な差異として様々な場面で引用されています。

・人に取り憑くモノは“幽霊”ばかりではありません。狸も狐も、鬼も天狗も河童も、わけの判らないモノだって人に憑きます。“憑き物”を外しても、個人につきまとう“幽霊”以外のモノはいます。一方で同じ場所に出続ける“幽霊”もたくさんいます。そうした“幽霊”は不特定多数に祟ることもあります。昨今の言葉でいうなら“地縛霊”ということになるでしょうか。柳田の定義を押し通すなら、“地縛霊”は“幽霊”ではなくなってしまいます。
 また、出現時間に関しても同じことがいえるでしょう。深夜に訪れる恐ろしいモノが、すべて“幽霊”かといえば、そんなことはありません。夕暮れに目撃される“幽霊”も多くあるでしょう。それは今にかぎらず、過去にも多くあったのです。
 定義から漏れるものは認めない、という態度もあるのでしょうが、そうするとかなり無理をして分類し直さなければならなくなります。

・ただ、生涯を「妖怪学」に捧げた井上圓了と違い、柳田國男の“妖怪”研究は、その膨大な仕事のうちの、ほんの一部にしか過ぎません。しかし、割合としては少ないまでも、柳田にとって“妖怪”が一種「特別な」研究対象であったことは疑いようがありません。



『遠野物語拾遺   retold』
柳田國男 × 京極夏彦  角川学芸出版 2014/6/10



(171)
この鍛冶屋の権蔵は川狩り巧者であった。夏になると本職の鍛冶仕事にはまるで身が入らなくなる。魚釣りに夢中になってしまうのである。
ある時。
権蔵は山の方の川に岩魚釣りに行った。編籠に一杯釣ったので切り上げ、権蔵は村に向かって山路を戻って来た。
 村の入り口を示す塚のある辺りまで来ると、草叢の中に小坊主が立っている。はて誰だろうと思って見ると、小坊主はするすると大きくなって、雲を突く程に背の高い入道になった。権蔵は腰を抜かして家に逃げ帰ったという。

(87)
綾織村砂子沢の多左衛門どんの家には座敷童衆がいる。この座敷童衆は元お姫様である。これがいなくなったら家が貧乏になった。

(136)
遠野の豪家である村兵家の先祖は、貧しい人であった。ある時。その人が愛宕山下の鍋ヶ坂という処を通り掛かると、藪の中から、「背負って行け、背負って行け」と、叫ぶ声がする。

いったい何があるのかと立ち寄って見てみると、仏像が一体あるのであった。その人は言われる通りそれを背負って持ち帰り、愛宕山の上に祀った。それからその人は富貴を手に入れ、家はめきめきと栄えて、後裔は豪家となったのである。

(88)
その遠野町の村兵の家には、御蔵ボッコというものがいた。籾殻などを散らしておくと、翌朝。そちこちに小さな児の足跡が残されているのを見ることが出来たという。後に、それはいなくなった。それから家運が少しずつ傾くようになったそうである。

(89)
砂子沢の沢田という家にも、御蔵ボッコがいたという。人の目に見えるものではなかったようだが、ある時姿を見ることがあった。赤塗りの手桶などを提げていたという。見えるようになったら、竈が左前になったそうである。

(90)
同じ綾織村の、字大久保にある沢某の家にも蔵ボッコがいた。時々、糸車を回す音などがしたという。

(91)
附馬牛村のいずれかの集落にある某の家のこととして伝わる話である。先代の当主の頃、その家に一人の六十六部がやって来て泊まった。
しかし、来たところは見ているが、出て行く姿を見た者がいない。
そういう噂である。それ以来その家が栄えたとかいう話は聞いていない。ただ、貧しかったということもないようである。

 近頃になって、この家に幼い女児が顕れた。十になるかならぬかくらいの齢で、紅い振袖を着て、紅い扇子を持っていたという。女児は踊りを踊り乍らその家から出て来て、下窪という家に入った。
これも噂である。しかしそれ以降、このニ家はケェッチャになったと村の者は謂う。ケェッチャとはあべこべ、裏表というような意味であるから、貧富の差が逆転したというような意味なのだろう。

 その下窪の家に近所の娘が急な用で行った折、神棚の下に座敷童衆が蹲っているのを見て吃驚し、逃げ戻って来たという話もある。

 そういう話があるのだから、下窪の家は裕福になったということなのだろう。

(93)
遠野一日市にある作平という家は裕福である。しかし、元々暮らし向きが豊かだった訳ではない。この家には栄え始めた契機があると謂う。
 ある時、土蔵に仕舞ってあった大釜が突然鳴り出した。家の者は勿論、近所の者も皆驚いて見に行ったそうである。音は止むどころか段々に強くなり、小一時間も鳴り続けたと謂う。
 その日から家運が上昇した。作平の家では山名という面工を頼み、釜が鳴っているところの絵を描いて貰い、これを釜鳴神と称して祀ることにしたそうである。今から二十年くらい前のことである。

(94)
土淵村山口にある内川口某という家は、今から十年程前に瓦解した。家屋も一時空き家になっていた。寄り付く者もいないから、当然人気も全くない。しかし誰も住んでいない筈のその家の奥座敷に、夜になると幽かな火が燈る。そして、誰の声かはわからないが、低い声で経を誦むのが聞こえる。往来のすぐ近くの家であったので、耳にする者も多かった。近所の若い者などが聞き付け、またかと思って立ち寄ってみると、読経も止み、燈火も消えている。同じようなことは栃内和野の菊池家でも起こった。
菊池家も絶え、その後に空き家から経が聞こえたりしたそうである。

(92)
遠野新町にある大久保某の家の二階の床の間の前で、夜な夜な女が現れ髪を梳いているという評判が立った。
 近所の両川某という人がそれを疑い、そんなことがあるものかと言って大久保家に乗り込み、夜を待った。
 夜になると、噂通りに見知らぬ女が髪を梳いている。女はじろりと両川氏を見た。その顔が何とも言えず物凄かったのだと両川氏は語った。
明治になってからの話である。

(162)
佐々木喜善君の友人に田尻正一郎という人がいる。その田尻氏が、7,8歳くらいの頃。村の薬師神社の夜籠りの日だったそうである。
夜遅くに田尻少年は父親と一緒に畑中の細い道を通り、家路を急いでいた。すると、向こうから一人の男が歩いて来るのに出会した。シゲ草がすっかり取れていて、骨ばかりになった向笠を被った男であった。

 一本道である。擦れ違うために田尻少年は足を止め、道を開けようとした。すると男は、少年が道を避けるより先に畑の中に片脚を踏み入れ、体を斜めにして道を譲ってくれた。
 通り過ぎてから田尻少年は父に、今の人は誰だろうと尋いた。父は妙な顔をして誰も通った者はないと答えた。そして、「俺はお前が急に立ち止まるから、どうしたのかと思っていたところだが」と言ったという。

(163)
先年、土淵村の村内で葬式があった。その夜。権蔵という男が、村の者4,5人と連れ立って歩いていた。不幸のあった家まで念仏を唱えに行く途中のことである。突然、権蔵があっと叫んで道端を流れていた小川を飛び越えた。他の者は驚いて、いったいどうしたんだと尋ねた。
権蔵は、「今、俺は黒いものに突き飛ばされたんだ。俺を突き飛ばしたアレは、いったい誰なんだ」と答えた。他の者の眼には何も見えていなかったのである。

(137)
つい、近頃の話だと謂う。ある夜。遠野町の某という男が、寺ばかりが連なっている町を歩いていた。墓地を通り抜けようとすると、向こうから不思議な女が歩いて来るのに出逢った。男が何故不思議と感じたのかはわからない。しかし近付いて能く見ると、それはつい先日死んだ、同じ町の者であった。

 男は驚いて立ち止まった。死んだ女はつかつかと男に近づき、「これを持って行け」と言って汚い小袋を一つ、男に手渡した。恐る恐る受け取って見ると、何か小重たいものである。しかし、怖さは増すばかりであったから、男は袋を持ったまま一目散に家に逃げ帰った。
 家に戻り、人心地付いてから袋を開けてみると、中には銀貨銅貨取り混ぜた多量の銭が入っていた。その金は幾ら使っても減らない。
貧乏人だった男が急に裕福になったのはそのお蔭だと噂されている。
これは、俗に幽霊金と謂い、昔からままあるものである。
一文でもいいから袋の中に銭を残しておくと、一夜のうちに元通りいっぱいになっているのである。



『遠野のザシキワラシとオシラサマ』
(佐々木喜善) (宝文館出版) 1988/4



<奥州のザシキワラシの話>
<子供の時の記憶>
・私達は、幼少の時分、よく祖父母から炉辺話に、ザシキワラシの事を聞かせられたものである。そのザシキワラシとはどんなものかと言えば、赤顔垂髪(さげがみ)の、およそ5、6歳の子供で、土地の豪家や由緒のある旧家の奥座敷などに出るものだということであった。そのものがおるうちは家の富貴繁昌が続き、もしおらなくなると家運の傾く前兆だとも言われていたという。私達は、初めはその話を只の恐怖を持って聞いていたものであるけれども、齢がやや長けてくると、一般にこの種のものに対していだくような、いわゆる妖怪変化という心持ではなく、何かしらそのものの本来が私達の一生の運不運と関係があるので、畏敬の念さえ払うようになったのである。世間でもまたこの通りとか、何処の何某の家にそのものがおるといえば、他では羨望に表した、多少の畏服を感じ、また本元でも吉端として、ひそかに保護待遇に意を用い、決して他の妖異におけるがごとく、駆除の祈祷や退散の禁呪などは求めぬのである。


<●●インターネット情報から●●>
<ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)から>

夜這い(よばい)とは、夜中に性交を目的に他人の寝ている場所を訪れる日本の風習。
語源は、男性が女性に呼びかけ、求婚すること(呼ばう)であると言われる。
古くは、759年に成立した『万葉集』巻12に「他国に よばひに行きて 大刀が緒も いまだ解かねば さ夜そ明けにける」と歌われており、大正時代まで農漁村中心に各地で行われていた習俗。戦後、高度成長期直前まで、各地の農漁村に残っているところがあった。明治維新の近代化や農漁村への電灯の普及などにより明治以降は衰退する傾向にあった。このため、明治、大正の頃まで盛んだったのは、山深い山間部の村落中心であった。

多くの場合男性が女性のもとへ通うものだが、女性が通う風習を持つ地域もあった。

婚、嫁、結婚などの字を古くは「よばふ」「よばひ」と呼んだ。これは「呼ぶ」の再活用形で「つまどい」「つままぎ」などの語と共に求婚のために男が女のもとに通うことを意味した。昔の婚姻は結婚後も男が女のもとに通うのが普通であり、このことも「よばい」と言われた[要出典]。

古代日本の夫婦関係は妻問い婚であり、男女はそれぞれに住んでいて妻の元へ夫が通ってゆく形態であった。結婚というのは、家族に隠れてこっそりと夜這いを行うのではなく、堂々と通えるようになることを意味した。そもそも各地の共同体(ムラ)においては一夫一婦制と言う概念も希薄で、重婚、夜這いは当たり前であった。

かつての農村では、「村の娘と後家は若衆のもの」という村落内の娘の共有意識を示す言葉が聞かれることがあった。近代化以前の農村には若者組があり、村落内における婚姻の規制や承認を行い、夜這いに関しても一定のルールを設けていた。ルールには未通女や人妻の取り扱いなどがあり、この辺りの細かい点は地域によって差がみられた。下川耿史によれば、夜這いが盛んになったのは南北朝時代から鎌倉時代にかけての中世であり、村落共同体の若者組は、風流と呼ばれる華やかな祭りのリーダーだったという。

江戸など都市部では、村落と違う形に発達していった。これが、夜這いの衰退に繋がったと考えられるとする見方がある。1876年(明治9年)、現在の新潟県(相川県)で、夜這いを禁止する法律ができた。1938年(昭和13年)に起きた津山事件について、大阪毎日新聞が「山奥にいまなお残されている非常にルーズな男女関係の因習」と報じ、サンデー毎日が「娯楽に恵まれない山村特有の『男女関係』」と報じるなど、夜這いは否定的に見られるようになっていった。

津山事件(つやまじけん)または津山三十人殺し(つやまさんじゅうにんごろし)は、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。犯人の姓名を取って都井睦雄事件ともいう。津山市など近隣地域では「加茂の三十人殺し」と呼ばれている(または死者の数に尾ひれがつき水増しされ「三十二人殺し」「三十三人殺し」また「三十六人殺し」とも呼ばれる事がある)

2時間足らずで28名が即死し、5名が重軽傷を負う(そのうち12時間後までに2名が死亡)という、犠牲者数がオウム真理教事件(27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件である。 事件は犯人の逮捕にはいたらず、現場から逃走した犯人の自殺で幕を閉じた。

津山事件は、そのセンセーショナルな事件の内容から、小説・ドラマ・ゲームなど多くの作品で扱われたり、題材・モデルとされている。

<『八つ墓村』 横溝正史、角川文庫、1971年 >
・冒頭部で語られる村人32人殺し事件は、本事件がモデルとなっている(小説は事件の後日談の形を取っており、本事件そのものが全体のモデルになっているわけではない。また、犯人の境遇はまったく違う設定である)。

<『丑三つの村』 西村望、毎日新聞社、1981年(徳間文庫、1984年 ISBN 4195675936)> 本事件を題材にしたノンフィクション小説。

1983年に監督・田中登、主演・古尾谷雅人で映画化された。封切り前に映倫が「全編が残虐で非道的」と判断、18歳未満の観覧を禁止する成人映画に指定された。

<「負の暗示」『神かくし』所収山岸凉子、秋田文庫、1998年 ISBN 4253172466 >本事件を漫画化した作品。

『八つ墓村』(やつはかむら)は、横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の一つ。

本作を原作とした映画が3本、テレビドラマが6作品、漫画が5作品、舞台が1作品ある(2014年3月現在)。9度の映像化は横溝作品の中で最多である(次いで『犬神家の一族』が映画3本、ドラマ5本)。

1977年の映画化の際、キャッチコピーとしてテレビCMなどで頻繁に流された「祟りじゃ〜っ! 八つ墓の祟りじゃ〜っ!」という登場人物のセリフは流行語にもなった。

花街(花町とも書く)(かがい、はなまち)とは、芸妓屋、遊女屋が集まっている区域を指す名称である。花柳(かりゅう)という別称もある。売春防止法(1957年施行)までは多くの花街に芸妓と娼妓の両方がいたが、今日花街と呼ばれている地域は芸妓遊びのできる店を中心に形成される区域である。なお、料理屋・待合茶屋・芸者屋(置屋)がまとめて「三業」と称されるため、花街のことを「三業地」ともいい、地域により茶屋と置屋で「二業地」と呼ぶ。



『文藝春秋』 平成27年3月特別号
『戦後70年の疲労 今こそ「第4の矢」が必要だ』
牛尾治朗 茂木友三郎 佐々木毅



<財界、官界、学界、労働界の有志が緊急提言>
・「日本アカデメイア」の92人が3年間討議を重ねた日本の未来。その議論が3人の提言となって結実した。

・この国は、戦後の日本社会に対する必要以上の幻想、つまり「余剰幻想」から抜け出せずにいるように思えるのです。
 少子化による人口減少、膨大な財政赤字、持続可能性が憂慮される社会保障制度――いずれも、ここまで事態が深刻化したのは、新しい時代にふさわしい思考に切り替えられなかった日本人の「余剰幻想」の産物にほかなりません。

・少子高齢化によって、高度成長時代にデザインされた社会を大幅に見直さなければ、社会保障全体の維持が覚束ないことは、ずいぶん昔から明らかでした。すでに、社会保障給付額は14年には115兆円にまで膨らみ、25年には149兆円になるとされています。

<「人を説得する政治」へ>
・この政治不信の根底には、「大事なことを本音で語る政治家は少ない」という有権者の悲痛な叫びがある。

・このままでは日本は壊れてしまう。そのことに国民は気付いています。従って一刻も早く民主制を作り変えなければなりません。「人を説得する政治」を実現して、シルバーデモクラシーからヤングデモクラシーへというように日本の新しい長期ビジョンを打ち立てなくてはならないのです。

<制度疲労を乗り越える「三つの提言」>
<この難局を乗り切るため、2030年の日本の自画像を描く>
<提言1 戦後の生き方・働き方はもう古い>
・日本の会社員は戦後70年もの間、一斉採用、終身雇用、そして定年制という、いわば20世紀型の仕組みのなかにあり続けて来ました。この画一的な働き方が制度疲労を起こし、日本人の幸福を奪っていると考え、これまで当たり前だと思ってきた「定年」という固定観念の見直しを提言します。

・年金生活という言葉を死語にし、若い時代から最低70歳、75歳くらいまでは健康でいきいきと働く。そして、社会に対して死ぬまで価値を生み出し続けていく。私たちの提案は、働き方にとどまらず、日本人の生き方の幅を広げる提案でもあります。

<若者、女性が社会の主役に>
・人口減少の抜本的な対策は、直ちに各界が始めねばなりませんが、簡単に解決できる問題ではありません。

<提言2 情報革命で本気の歳出削減を>
・税と社会保障、そしてその先にある財政再建をどうやって成し遂げるかは喫緊の課題です。毎年、社会保障給付額が2兆円から3兆円増えるといわれる現状では、今のシステムは早晩、行き詰まることが目に見えています。今の水準を維持し続けることはもはやできません。

・私たちは、その点を改善する前提として、税と社会保障の透明性を高めること、そのためにIT技術をフル活用することを提言します。日本の徴税システムはまだ抜け穴だらけといわれています。

・実は、そのために有効な制度が動き出そうとしています。国民全員に税と社会保障の共通番号を割り当てるマイナンバー制度が16年1月から本格導入されるのです。

<ビッグデータ活用で生活者本位の医療を>
・さまざまなデータを電子化して蓄積すれば、ビッグデータの活用によって、さらなる歳出削減の可能性が広がります。

<提言3 政治の時間軸を立て直す>
・政党のガバナンスも根本から見直すべき時期に来ています。例えば、バラバラに規定された今の政党の姿を統一的な政党法制に置き換えることや、現在の政党助成制度の見直しも検討すべきです。

<霞ヶ関の整理を>
・その結果、総理大臣、官房長官とその周辺が内閣官房と内閣府の仕事に忙殺される事態となっています。内閣官房と内閣府には、ありとあらゆる業務が乱立しています。

・内閣官房・内閣府の肥大化の問題に限らず、省庁の制度疲労は多くの官僚の指摘するところでもありました。機能不全に陥っている省庁については再々編も検討されてしかるべきです。

<「見えないもの」の価値を見直す>
・いま日本社会の「品位ある」存続可能性が問われています。国民の中に眠っている潜在力を最大限引き出す時期にきているのです。その意味で、国民の本当の意識の転換なしには、成し遂げられるものではありません。「パンとサーカス」にたとえられる民主政の根源的問題と向き合い、1人ひとりが受け身的な統治客体意識と決別しなければなりません。

<日本アカデメイア「長期ビジョン研究会 報告書」主な提言>
<日本力>
・(目標)次世代の生き抜く力を高め、選択の自由を最大にする社会を。文化の特質を軸に総合力としての「日本力」を構想。

70、75歳までいきいきと働ける多様な労働の場を拡大。年金受給開始年齢引き上げ。

社会保障・税の抜本改革を行う。負担と給付のバランスを見直し、持続性を高める。

基礎科学分野の人材育成を強化。産官学で科学技術力を結集して生産性を高める。

農業を6次産業化・知識集約化し、食文化、食産業をグローバル展開。

伝統的観光資源と先端的文化表現などの革新的観光資源を開拓し、海外に発信。

<国際問題>
・(目標)東アジア地域に「安定を提供する日本」。米国と協力、豪・印・アセアンと連携し、中国に呼びかけ、普遍的価値を共有する開かれた「多次元的国際秩序」をめざす。

日本独自の柔軟な価値観外交を展開。価値観を押し付けるのではなく、民主主義や人権、法の支配等の普遍的価値を辛抱強く説く「ファシリテイター」を担う。

国内外の歴史的資料のアーカイブを創設。中高等教育で近現代史の歴史教育を充実。

課題先進国として医療・福祉・介護問題を解決したモデル国として貢献。

対外発信を強化。政府に知的情報発信戦略の中心となる機関を設置。

IT技術を活用し日本語遠隔教育を無料提供。日本の放送コンテンツを世界に発信。

<価値創造経済モデルの構築>
・(目標)日本の経済社会に日常的なイノベーションを喚起・誘発する価値創造経済をつくる。その中核は個別企業の価値創造。

資源や労働力などの制約、高齢化など社会的課題のある分野のイノベーションに挑む。

ロボット産業の国際競争力強化。サービス産業等広範な分野で活用し生産性向上。

国際競争に打ち勝つ産官学の体制を整備。国際的に整合した知的財産権制度を確立。

過当競争防止のため、競争に敗れた企業は退場し、経営資源を解放。

誰でもイノベーションを起こす「ユビキタス・イノベーション社会」に企業風土を転換。

<社会構造>
・(目標)重層的な信頼社会の構築をめざす。各分野で担い手となる中核人材を育成。戦後の生き方・働き方を見直し、人口減少に立ち向かう。

小中高の各段階で過疎地等で合宿型の長期共同生活学習を実現。

大学は理系、文系などの2分法から脱却。意欲あるすべての大学生が外国に留学。

生涯にわたって複数の学位取得が可能な社会人向け大学・大学院教育を充実。

年間有給休暇100%取得、50%時間外割増賃金率など労働条件をグローバル化。

地方で「準市民」を創設。一定の施策で「ふるさと投票制度」を検討。

<統治構造>
・(目標)政党政治の危機克服に向けて、合理的決定と主権者意識の確立を両立させるデモクラシーの構築をめざす。

各庁設置法を廃止。閣外大臣制の導入。国会審議を計画化し党首討論を定期開催。

衆議院選挙における惜敗率を廃止。定数是正自動化制を導入。

参議院は憲法改正を視野に半数改選制廃止や法案採決儀要件の緩和等を検討。

政党法制を検討。政党交付金の配分を得票比率中心に改め、政権交代基盤を安定化。

18歳選挙権を早期実現。主権者としての政治教育を促進。立候補支援制充実。



『江戸の怪奇譚』
氏家幹人    講談社 2005/12



<神隠し>
<美少年はさらわれやすい>
・もちろん江戸時代に子どもが拉致誘拐されたのは、飫肥藩のようなケースだけではありません。上野寛永寺で楽人を務める東儀右兵衛の六歳になる倅(せがれ)が突然姿を消したのは、文化11年(1814)の初午の日でした。とても賢い子で寵愛していただけに両親の心配はひとかたならず、鉦や太鼓を叩いて方々を捜し回りましたが、見つかりません。そんな折、八王子の「呼出し山」で祈願すれば神隠しになった者はきっと帰ってくると教えてくれる人があり、藁をもつかむ気持ちで右兵衛は「呼出し山」へ出かけ、わが子の名を呼びました。

・倅は直ちにあらわれなかったものの、夜の夢に老翁があらわれ、何月何日に汝の家の近くで老僧か山伏に出会うだろうから、その者に尋ねてみよと告げられたとか、指定の日に老僧に会った右兵衛は、「ずいぶん別条なし」(心配ご無用)数日後の何日に戻ってくると言われ、はたしてその日、倅は無事に帰宅したということです。右は根岸鎮衛『耳嚢』(みみぶくろ)収録の一話。

・大正15年(1926)に刊行された柳田國男『山の人生』に「八王子の近くにも呼ばはり山といふ山があって、時々迷子の親などが、登って呼び叫ぶ声を聴くといふ話もあった」と見える「呼ばはり山」と同じでしょうか。「呼出し」にしろ「呼ばはり」にしろ、注目すべきは、神隠しや迷い子を捜す”聖地”が成立していたという事実です。行方不明者捜索の聖地を必要するほど、神隠しの犠牲者が多かったのでしょう。

・日常的な出来事だった子どもの神隠し。それは江戸時代にかぎらず明治以降も続きました。再び柳田國男の著述を引用すると。大正四年(1915)に『郷土研究』に掲載された「山男の家庭」という文章で、柳田は「加賀の金沢の按摩」が次のように話したと記しています。
「この土地も大きに開けました。十年ほど前迄は冬の夜更に町を歩いて、迷子の 〈 誰それと呼ぶ声と、これに伴なふ寂しい鉦の声を聞かぬ晩はありませなんだ」
 明治の末、20世紀に入っても、金沢では冬の晩には必ずと言っていいほど迷子捜しの悲しげな声が聞こえたというのです。眼が不自由なぶん、聴覚が研ぎ澄まされた「按摩」の話だけに、なおさら信憑性に富んでいるではありませんか。

・『山の人生』にはまた、「関東では一般に、まひ子の く 何松やいと繰返すのが普通であったが上方辺では「かやせ、もどせ」と、稍(やや)ゆるりとした悲しい声で唱へてあるいた」とか、鉦太古の叩き方はどこもほぼ同じで「コンコンチキチコンチキチの囃子」だったとも書かれています。迷子捜しは、関東と上方で呼び声が異なり、鉦や太鼓の囃子は全国ほぼ共通という意味でしょうか。迷子捜しの作法が固定化するほど、神隠しは日本人の生活に深く根ざしていました。そして「神隠しの被害は普通に人一代の記憶のうちに、3回か5回かは必ず聴く所」とも。それは民俗慣行のひとつと言えるほど身近な出来事でした。

<血を抜き、油を取る>
・日本全国ですくなくとも明治の末まで頻繁に起きていた神隠し、犯人は誰だ。再び『山の人生』をひもとくと、次のようなくだりに眼が止まりました。

「東京のやうな繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにして居る。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。又は隠し婆さんに連れて行かれると謂って、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいて居て夏の夕方などに、児を喚ぶ女の金切声をよく聴くのは、夕飯以外に一つには此畏怖もあったのだ」

・繁華な東京でも、子どもたちは常に神隠しの危険にさらされていて、犯人は「鬼」や「隠し婆さん」と言われているというのです。もちろん狐や狸の仕業ではないかと疑われ、地方によっては「隠し神さん」「隠れ座頭」等の名も挙がっていたとか。
「隠し婆さん」は古くは「子取尼」と呼ばれ、「小児を盗んで殺すのを職業にして居た」女性だと柳田は言う。 

<空飛ぶ天狗>
・神隠しの犯人はほかにもいました。『視聴草』には、天明元年(1781)の夏ごろから翌年にかけて、奥州会津から象潟(現・秋田県)までの広い地域で、15歳以下の少年少女を多数連れ去った「怪獣」の肖像が載っています。会津の塔の沢温泉で小児病の湯治に来ていた大勢の子どもが失踪したのも」この怪獣の仕業。会津磐梯山に潜んでいたところを松前三平という猟師に大筒で撃ちとめられたそうですが、その姿はご覧の通り。さて、一体何者だったのでしょう。

(ブログ注;「長髪長尾のミニ怪獣(はたして児童集団拉致の犯人か)」の図絵とは、グレイの異類混血のようなイメージです)。

 狐狸、隠し婆さん、鬼、怪獣・・・。でも神隠しと言えば、主役はなんといっても天狗でした。

・文化三年(1806)には、美濃国郡上郡のある村で、14、5歳の重五郎という少年が風呂に入っている最中に天狗にさらわれましたし、平戸藩老公(前藩主)松浦静山の本所の屋敷に奉公していた下男にも、天狗に拉致された経験者がいました。文政八年(1825)に53歳になっていた源左衛門という名のこの下男、7歳の祝いに故郷上総国の氏神に詣でた際に山伏(天狗)に連れ去られたというのです。8年後に家に帰ってきましたが、不思議や、7歳のときの着物に微塵も損傷がなかったとか。

・18歳になると、再び以前の山伏があらわれて、「迎に来れり。伴ひ行べし」(迎えに来た。さあ一緒に行こう)。帯のようなもので山伏の背に結いつけられ、風のような音を聞くうちに越中立山へ。その後、貴船、鞍馬ほか諸国の霊山を廻って天狗たちに剣術や兵法を学ぶなど不思議な体験を積んだ源左衛門は、19歳の年すなわち寛政三年(1791)に、天狗の世界を去る証状(証明書)と兵法の巻物や脇差を授けられて、人界に戻されたのでした。

・嘘のような話。さすがに静山公も当初は半信半疑でしたが、やがて信じる気持ちに傾き、結局のところ、「何かにも天地間、この傾き妖魔の一界あると覚ゆ」と天狗の世界の存在を認めています。天狗の神隠しの事例は、虚と自信を持って否定するにはあまりに多く、ポピュラーだったからでしょう。

・江戸大塚町の石崎平右衛門は、若いころ筑波山の天狗に数年仕えたのち、日光山の天狗に十露盤(そろばん)占いの法を伝授されましたし、池之端の正慶寺に奉公していた14歳の童子は、文化11年(1814)に天狗に伴われ、なんと「万里の長城」を上空から眺めるという稀有な体験をしています。神田鍛冶町の天狗庄五郎が「天狗」の異名を取ったのも、若い頃天狗に誘われて2、3年姿を消していたからにほかなりません。

・ほかに天狗甚右衛門の異名で呼ばれていた者もいました。彼もまた数年間の神隠しを経て戻ってきたのだとか。

・ところで静山は、讃岐国高松藩の世子が幼いころ矢の倉(現・中央区)の屋敷の庭で凧揚げをしていたとき目撃した不思議な光景についても記していました。はるか上空を頭を下にした女性が泣き叫びながら飛んで行くのを見たというのです。同じ光景は家来たちにも目撃されており、幼児の幻覚や思い込みではなかったようですが・・・・のちに世子は、あれは天狗が女をさらって空を飛んでいたのだと思うと幕府の坊主衆に語っています。

・はたして主な犯人は”空飛ぶ天狗”だったのでしょうか。もちろん、柳田も天狗による神隠しの例をいくつも挙げていますが、天狗説は「冤罪」と退けています。ならば誰が?柳田の推測では、古くから神隠しを頻繁に起こしてきた元区は、大和朝廷に排斥され山中に隠れ住んでいた人々の末裔。「神武東征」以前に日本に住んでいた先住民の子孫が、江戸はもちろん明治以降も山中に住み、「生殖の願」や孤独生活のさびしさから黄昏に人里にやって来て「美しい少年少女」を拉致したというのです。

<天狗の情郎>
・天狗か、先住民の末裔か、それとも悪質な修験者の犯行か。犯人の詮索はともかく、注目すべきは、柳田が神隠しの原因のひとつとして性的欲求を挙げた点でしょう。同様の指摘は江戸時代の随筆にも見え、『黒甜瑣語』(1795年序)には、当時神隠しになった少年や男たちが「天狗の情郎」と呼ばれていたと書かれています。「情郎」は通常「陰間」(かげま)と書いて、男色をひさぐ少年の意。江戸時代の人々は、神隠しの犠牲者はすなわち邪な性的欲求の犠牲者であると暗黙のうちに了解していたのです。

<はては宇宙から眺めた「国土」(地球)の姿まで、多彩な内容を克明かつ饒舌に披瀝した寅吉少年>
・性犯罪としての天狗の神隠し。とはいえそこには、現代のケースのように天狗=性犯罪者、少年=犠牲者と単純に割り切れない面もありました。

・介護や師弟関係が性愛と不可分だった時代、天狗の神隠しにも、われわれの常識では計り知れない面があったに違いありません。



『天国の真実』
マシューブック1 マシューが教えてくれる天国の生活
スザン・ワード   ナチュラル・スピリット  2006/10/10



<パートナーシップ>
(スザン)同性愛のパートナーは、両者が望めばニルヴァーナ(涅槃・天国)でもそのつながりを継続できるの?

(マシュー)そうだよ。同性愛というのは地球ではよく理解されていない。言ってみれば、同性愛は体や物理的側面というよりも、霊の進化の一段階であって、他の身体的あるいは霊的発達段階と比べてとがめられるものでも崇められるものではない。

・それに僕たちは一回きりの人格でなく、類魂だということを忘れてはならない。どの類魂もおそらく肉体、あるいは肉体なしで男性、女性、そして、両性具有の存在として何千回も転生している。

・もし直前の過去世の地球の人生で同性愛者だったら、ここにも同じ状態でやってくる。ここでは体が性的行為をする造りにはなっていないから、同性愛の精神的な側面だけがついてくる。

・地球で猛烈に同性愛を糾弾している人たちというのは、直前の過去世で同性愛者の人格を経験した魂たちなんだ。

(スザン)同性愛は今、地球の歴史上、かってないほど増えているのかしら?

(マシュー)いや、でも有史以来、今はずいぶん人口が増えているから、割合は同じでも数にすれば、増えていることになるね。歴史上、様々な分野で尊敬されている著名なマスターたちは多くが同性愛者だ。

<ニルヴァーナ評議会>
(マシュー)
・たいていの場合、評議員たちは地球に何度も転生しているが、必ずしも地球での経験だけに留まるわけではない。

・評議員は男女、そして、両性具有の魂たちの代表だ。それには素晴らしい知恵や知識を持って新たに加わるものもいるし、また霊的進化からいえば、ニルヴァーナを数段超えているのに、あえてこの領域に留まることを選んだマスターたち、また必要に応じて請願されるグレート・マスターたちがいる。グレート・マスターは住人でもなければ体も持たない。彼らの強力なエネルギーは、この太陽系一帯からリラ、シリウス、プレアデスといった地球文明の発展に緊密に関連する星系に瞬間的に移動できるんだ。


(2015/9/29)



『宇宙人の魂を持つ人々』 【アセンション版】
数百万の眠れるワンダラー&ウォークインが一挙にライトワーカーになる!
 (スコット・マンデルカー) (徳間書店)  2008/6



・「次元転移」「次元超越」こそがあなた方はワンダラーとウォークインに与えられた宇宙のヴィジョンそのものなのです!

・物質本位の<第3霊性密度>から、愛・調和にあふれた精神本位の<第4霊性密度>へ――この移転だけが絶望を希望に変える逆転エネルギーを生み出す!!

<ティモシーの場合――新しき霊魂が自分の肉体に入り込んで人生すべてが好転>
・南西部に住んでいるティモシーは、世界平和運動に深く関係するカウンセラー兼ネットワークの幹事兼教育者だ。彼は病院運営と企業経営の長い経験があって、ある副大統領の選挙運動を一手に引き受けたこともある。彼が長年にわたって社会に積極的にかかわってきた人物であることはまちがいない。
 
・ところが、ティモシーは心のうちでは自分がETウォークインだと思っていて、1985年には人生の全体が一変するような奇跡的な変容を遂げた。その当時、彼は心身や金銭や対人関係の大きな難題を突きつけられていて、にっちもさっちもいかなくなった気がした。なにかにつけて、すっかり希望を失っていた。しかし一連の事件を通じて、新しい霊魂が自分の肉体に入り込んで(文字どおりウォークインして)、31年間慣れ親しんだ魂と入れ替わったように感じた。ジョーディとザラディアの2人のワンダラーの話とはちがって、ティモシーは天上の助けを求めたりはしなかった――それは空から降る恵みの雨のように、なんの造作もなくやってきたのである。

<結論――2013年までには、人類とETの交流関係の事実が広く受け入れられる>
・それでも地球人の科学で宇宙と霊魂進化のすべてがわかるとは誰も言えない。幽体離脱をしたとか、臨死体験をしたとか、人間以外の知性とコンタクトしたと主張する人々の超常体験はどうなのか?どれもこれも、たんなる幻覚でなんなく片づけられるのか?ざっくばらんに言って、こうした軽率な否定はすこぶるおとなげない。

・ごく近い将来、UFOを鼻先で笑う人々やUFO否定論者たちは少数派になって、必死で新知識を呑み込み、長いこと否定してきた人間以外のET生命の一目瞭然の現実を理解しようとすることだろう。

<地球に1億人のETソウル――今後数年で数百万の眠れるワンダラーが目覚める>
・最初の拙著『宇宙人の魂をもつ人々』(徳間書店1997年刊)では、アメリカ在住のワンダラーやウォークインやETソウルを自任する人たちの個人的な世界を探究した。そのなかであらゆる階級を代表する25人が、地球上に生きながら、地球出身ではないと知っている気持ちを縷々説明してくれた。そして最終章では、私もまた彼らと同じ地球外生物であるという事実を含めて、私自身の話をした。私も自分もワンダラーだと思っている。これは「どこか別の場所からやってきた」霊魂で、ほかの数百万の非地球出身者たちと同じように、この地球を援助することを使命とする。前著刊行後の数年の間に世間の風潮が大きく変わったことを物語るように、前著では自伝的な話は目立たぬよう巻末の付録2に置いてあったが、本書では著者自身が(なんと!)ETソウルであることを、公然と明かすつもりだ。

・地球上のET社会の構成者は――各国の“光の活動家”の大多数と精神求道者を自任する多くの人々を含めて――1億人にのぼると、私は信じている。私の仕事の大部分はこの特定の社会集団を支援してきたとはいえ、これは仕事の出発点と――本書執筆の足がかりになったにすぎない。ETであるかどうかはまったく問題ではない。

<第6霊性密度にいる超霊魂RAの教えとは何か>
・ここで先に進む前に、(私の主要情報源である)『RA文書』の素性に少し触れておくほうがいいだろう。

・RAグループは、代々地球人類の成長を助けた主要ETグループのひとつと考えられる。もともとRAグループは金星からやってきたが、現在では<第6霊性密度>にいるとされる。これは「もはや光を求めず、逆に光明となっている」合一化された存在者の状態をいう。この状態は高次自我の自覚的な意識に呼応するもので、人体の霊的エネルギー中枢における第6のチャクラと関係があるとされる。

<地球人類の60人に1人と推計――宇宙人の魂をもつウォークイン&ワンダラーとは>
・ETソウルを説明する場合、私はウォークインやワンダラーという単語をよく使う(ワンダラーのグループはスターピープルやスターボーンやスターチルドレンとも呼ばれる)。両者とも高次元の生まれで、人生の目的も共通しているが、人間の姿に生まれる仕方がちがうのだ。

・【ウォークイン】この用語は次元間・惑星間の<霊魂交換>のプロセスを表わすとともに、このプロセスを経験する個々人のことも指す。このプロセスでは古いET文明、すなわち天使文明出身の霊魂(もしくはずっと進化した地球出身の霊魂)が、ある人間の自発的に明け渡された肉体と人格意識に入り込んで、人類と地球をさらによくするために奉仕する。おもしろいことに、ウォークインのなかには自分のことをETソウルとは思わず、人類と地球の向上にまったく関心のない者もいる。しかし私の見るところでは、いわゆるウォークインのほとんどは実際はワンダラーで、生粋のウォークインは、世間が思うよりもはるかにまれのようだ。

・【ワンダラー】この詩的用語は、ジョージ・ハント・ウィリアムソンをはじめとする1950年代のUFO接触者が用いたもので、次元間・惑星間の<霊魂移転>を表わす――この場合、高次のETソウルは通常どおりに(赤ちゃんなどの形で)受肉するが、合意のうえでETの素性ばかりか、人類と地球の進化を助けるという目的まで記憶から消し去る。こうした宇宙規模の霊魂のさすらいのプロセスは、地球上で人類の経験が始まって以来生じたもので、宇宙全体に共通していて、経験豊富な霊魂が、困難な状況にある多くの世界を自由に放浪するという基本的な<奉仕の理法>を表わす。

<ポジティブな連邦とネガティブなオリオンETグループが行ってきた人類への協力>

★地球に根づいた霊魂たちは、主として3つの供給源の出身者だ。火星(その文明は自滅)、マルデク(その惑星は自滅)、それ以外の3D種族(第4霊性密度の“刈り入れ”に乗り遅れた霊魂たち)である。

★人類進化の過去5万年間で、第4霊性密度に入る資格を得たのは、たかだか150人だけ。
★(ポジティブな)<連邦>と(ネガティブな)<オリオンETグループ>の両グループは、積極的に人類に協力してきた。両グループが努力を続けたにもかかわらず、人類の大部分は相変わらず高次元生命の現実には気づかず、おおむね関心がない。これはひどい精神的鈍感さを物語る。
★人類の不調和の結果、寿命はどんどん短くなって、レムリア早期には900歳(当時はそれがノーマルとされた)だったのに、アトランティス時代には35歳にまで低下した。それでも現代科学では80歳ですばらしいとされる!
★人類の霊魂体験には、いくつかの近時代文明(マルデク、火星、レムリア、アトランティス)の壊滅が含まれる。戦争と苦難は常態化した。
★ヤハウェの物語と古代ヘブライ人、憎悪と近代ユダヤ人、その結果としての何千年にもわたる中東紛争は、ネガティブなオリオンETグループの大きな影響と固く結びついている。
★<連邦>とオリオン第4霊性密度ETグループは、何世紀にもわたって精神界における本格的ハルマゲドンに携わってきたが、物質本位の3D種族の苦難の多くは、この相殺する「天上戦争」のおかげで回避されてきた。「天上にあるように地上も」とよくいうように、地球上の戦争は宇宙の両極性と連動しているのだ!
★近代の始まり、18世紀は西暦2010〜2013年の“刈り入れ”に向けてワンダラーたちが大量に流入してきた時期と一致する。したがって今日は愛と光明の呼び声と必要がいまだかつてなかったほど大きい。
 これが「ソル3すなわち太陽系第3惑星上の光と影のサーガ」のあらすじである。

・次の年表は、『全一者の理法』主要4巻からまとめ上げた詳細な説明である。

<《解説》地球とETの関係概略史――人類以前の文明から2013年の地球変動完了まで>

A−人類以前の文明
70万5000年前――大規模なマルデク戦争(マルデク霊魂たちに形而上アストラル界の「恐怖のしこり」が生じる)。
60万年前――<連邦>による内的3D面でのマルデク人たちの霊性ヒーリング。
50万年前――3Dマルデク(現在の小惑星帯)の破壊、地球への霊魂移転(ビッグフット)。
★地球には2D生命(鉱物界、植物界、動物界)しかない。地球土着の3D人間集団はない。
★最後になって最高次の2D動物グループが2足動物になり、しだいに3Dのホモ・サピエンスになる。

B−初期人類文明(7万5000〜2万5000年前)
7万5000年前――火星文明/大気の究極の破壊、火星人の地球への霊魂移転。
★人類文明/地球人3D生命始まり。50%火星人、25%地球人、25%それ以外の3D。
★<連邦/ヤハウェ>による火星霊魂援助(感覚鋭敏化/精神強化の遺伝子クローニング)。
★光による隔離遮断、地球周辺で強化される(ヤハウェ事項)。人間の寿命はほぼ900歳。
6万年前――オリオン・グループの影響(a)テレパシーによるコンタクト(b)中米/太平洋オセアナでの帯電石材構造物(ナスカでの試みは未遂に終わってネガティブ作用は及ばず)
5万8000年前――<連邦>による初期レムリア/文明支援(長期コンタクト)。
5万3000年前――レムリア文明の確立(原始グループ精神、霊性進化)。
★その後、地球テクトニック・プレートの再調整と大洪水で破壊される。生存者⇒ロシア、北米/南米(現在の先住民グループ。デネブ星系の2D惑星の出身)。
5万年前――3D大周期ーの終わり/“刈り入れ”はなし。寿命700歳。
4万6000年前――地球上のマルデク霊魂たちからの魂の呼び声⇔<連邦>による支援(愛/光が送られる)
3万1000年前――アトランティス文明が発達を始める(緩慢な成長、農業、集合体)。
★アトランティス人から教導の要請⇔<連邦>からテレパシー情報が送られる。寿命70〜140歳。
2万5000年前――3D大周期=の終わり/“刈り入れ”なし。寿命35〜100歳(人口最大34万5000人)
★南米グループ(高齢種族。人口150人。寿命900歳)。全員4D超で“刈り入れ”可能だが、全員3Dにとどまる。

C−後期人類文明(1万8000〜2300年前)
1万8000年前――RAがエジプト人たちとコンタクト(「水晶動力式の釣鐘型宇宙船」)。UFO目撃のみ。
1万5000年前――アトランティス社会における急速かつ強力な技術発展。
1万3000年前――<連邦>からアトランティスに情報/支援(ピラミッド、ヒーリング)。寿命はかなり縮まる。
★ネガティブ分極化に知的エネルギーがはじめて使われる(遺伝的優位性のためにクローニング)。
1万1000年前――RAがエジプト人たちとコンタクト(着陸、教導のため直接遭遇)。意味が誤り伝えられる。
★アトランティスで最初の大戦、人口の40%前後が死亡、一部は北アフリカに移住。
1万821年前――核/水晶エネルギー戦争によるアトランティスの究極的崩壊。文明が終わる。
★チベットとペルーとトルコの3か所の安全な山岳地帯に移住(秘儀派のルーツ)
9600年前――最後の地球変動とアトランティス陸塊の沈没(戦争の直接結果)。
8500年前――RAが来訪/帰還し、地球の精神各界に入り込んで、大ピラミッドの思念建造を始める。
7500年前――<連邦>が南米を支援(アマゾン着陸/教導、ピラミッド/秘密都市)。
6000〜4500年前――ギザの大ピラミッド完成(思念により瞬時に出現)。イクナートンとコンタクト。以後のピラミッド群が地球産の物質で建造される。
3600〜3300年前――中東にオリオンの大影響。ヤハウェのポジティブ行動が誤って伝わる。
★<連邦/ヤハウェ>による生殖/遺伝子介入。アナク・グループの身体強化される。
★ヤハウェが愛/光を送る。テレパシーによるコンタクト。UFO思念体が現われて、探究を促す。
★オリオンがアナクの介入をゆがめ(ヘブライ人エリート集団を確立)。ヤハウェに代わって、もしくはヤハウェと共同で、ヘブライ人たちとテレパシーでコンタクト(呼びかけに答えて、ネガティブ哲学を送る)。
炎の雲としてUFOを見せる。
★オリオンによる“深刻な侵入”に対応して、光による隔離遮断が地球周辺で強化される。
★地球の4D精神界で“ハルマゲドンの激烈な部分”が始まる。オリオン対<連邦>。
3000年前――オリオン・グループが地球の3D天空を離れる。<連邦>が南米の支援/コンタクトを完了する。
★光によるハルマゲドン4D“思念戦争”が継続/激化する(<連邦>対オリオン)。
2600年前――ギリシアの叫び声。<連邦>の支援で4D超哲学(ヘラクレイトス、ターレス、ペリクレス)へと結びつく。
2300年前――<連邦>がエジプトのみを支援(テレパシーによるコンタクト、愛/光)。

D−近現代(西暦1700〜2013年)
〜1784年――“刈り入れ”可能な3Dソウルとワンダラーたちの流入増加と<連邦>からの支援増加。
★おおむねテレパシーによる支援、愛/光が送られる。UFO着陸計画や直接コンタクトによる教導なし。
★ポジティブ思考の自由意志哲学(自主独立、自由、正義、民主主義、人権)発達。
〜1945年――<連邦>UFO思念体の出現が増す。核時代と一致する。
〜1950年――ワンダラーたちの流入が増し、4Dの「二重体をもつ」子供たちが“刈り入れ”を支援する。
2010〜2013年――地球の3D“刈り入れ”。惑星的ロゴス/地表の人類文明が完全に4D超になる。
★地球変動が完了して、4D超の人類だけになる。銀河ETソウルの補充的流入/支援。

<銀河系宇宙全域のET種族から成る<惑星連邦>による地球サポート>
<<連邦>には約500の惑星意識複合体を含め53の文明が参加している>
・今日では世界中の何千人もが、“アシュタール司令部”(コンタクティーや研究家グループによる1950年代の造語で、彼らは“アシュタール”という名のリーダーに率いられた博愛的なETたちの連合体と交信していると主張した)の存在を信じたり、チャネリングによるコンタクトをしている。

・『RA文書』には“不二一元の<造物主>に仕える<連邦政府>”――この名称はとても魅力的とはいかないが、<宇宙の同胞>や<アシュタール司令部>と同種の宇宙組織を指す――に関する大量の情報が盛り込まれている。

・「この<連邦>にはほぼ53の文明が参加していて、それには約500の惑星意識複合体が含まれる。[<連邦>には]あなた自身の惑星の出身者も含まれる。あなた[自身]の次元を超えて高次元に到達した出身者たちだ……それに、あなたの太陽系内の惑星生物と……それ以外の諸銀河[諸星系]出身の惑星生物も含まれる。構成メンバーは一様ではないが、全員が<全一者の理法>に則った奉仕によって結ばれた真の<連邦>である」

・「あなたの空にはいつでも15種もの<連邦>生物がいる。ほかの生物たちは思念を通じてあなたの求めに応じる……彼らの目的は単純そのものだ。あなたの惑星の生物たちが無限を意識して……神秘や未知に気づくようにするためだ」

・「いちばん効果的なコンタクト手段は、あなたがこの空間/時間[すなわちチャネリング・セッション]で経験するものだ。自由意志の侵害ははなはだ望ましくない。したがって<ワンダラー>である生物体たちは……思念投射のみにさらされるが、これがいわゆる『接近遭遇』であり、<連邦>とワンダラーたちとの出会いとなる……覚醒感を起こさせるのがこの種のコンタクトの達成目標で……コンタクトの結果、希望、友情、他者に対する意図的奉仕というポジティブな感覚が生まれたら、それが<連邦>とコンタクトした明確なしるしである」

<UFO目撃とETコンタクトの背後にET<連邦>の壮大な進化プランが隠されている>
・これは刺激的な言明で、その意味合いは測り知れないほど大きい。明らかにこのような連邦組織の存在は容易ならざる問題で、さまざまな星系出身の数十の種族が連帯して、数百の惑星に対し共同で責任を持つ。大衆向けのETチャネリング情報本の大部分で描かれてきたようなお気楽な話ではすまない、きわめて重大な問題だということがわかる。



『宇宙人の魂を持つ人々』 
覚醒したET人格ウォークインとさまよえる魂ワンダラー
(スコット・マンデルカー)(徳間書店)   1997/6



<RAグループ>
・もともとRAグループは金星からやってきたが、現在では<第6霊性密度>にいるとされる。これは「もはや光を求めず、逆に光明となっている」合一化された存在者の状態をいう。この情報チアは高次自我の自覚的な意識に呼応するもので、人体の霊的エネルギー中枢における第6のチャクラと関係があるとされる。このグループの真の名称は、地球にやってくる前にどう名乗っていたにせよ、おそらく、「RA」ではなさそうだ。この名称を選んだのは、単一の創造神としてエジプト人の崇める太陽神を擬人化した名前を名乗ることで、エジプト人との一体感を象徴するためにほかならなかったのだろう。

<ウォーク・イン、ワンダラー>
<“魂”だけが、いわば“意識体”として地球に移動してきている>

・現在、この地球上にはかれこれ1億人もの“非地球出身者”―平たく言えば、“宇宙人”著者の用語に従えば、“ETソウル(本書では「ET人格」などとしている”が地球をいい方向に導くためにやって来て住んでいる。

・もちろん、博士の言う“ETソウル”は生身の肉体を持った異星人が地球に密かに移住してきているという意味ではない。高次の星や次元の世界から“魂”だけが、いわば“意識体”として地球に移動してきているというのだ。

・同じ分野の研究家によってはこれまで“スターピープル”“スターボーン”“スターシード”などと呼びならわしてきた存在で、ほとんど同義としてよいだろう。

・マンデルカー博士によれば、そのETソウルにも大別して2種類あるという。一方は異星から転生した魂が地球人の肉体に宿って誕生する場合、他方は途中で地球人の肉体に入り込んでいい意味での人格転換が起こる場合で、博士は前者を“ワンダラー”、後者を“ウォークイン”と名づけている。

・地球に来ているETソウル1億人のうち、95%がワンダラー、残り5%がウォークインだという。ただし、自分がETソウルだと自覚している者は、全体のわずか15%にも満たないそうだ。

・Walked-in(ウォークイン) 次元間―惑星間の魂の転移を表す叙述的な用語。人類とこの惑星に奉仕するために、もっと進化したETや天使の文明から(あるいはもっと偉大な霊的進化をした、地球生まれ)の存在か、自発的に明け渡されたある人間の体―人格意識に入っていること。現象的に断片交換や魂の組みひものプロセスに匹敵する。

・ワンダラー(Wanderer) 次元間―惑星間の魂の転移を表す叙述的な用語。もっと進化したET文明からの存在が誕生時に自発的にアイデンティティーや起源の記憶を失って、人の姿になること。目的は通常、人類とその惑星に奉仕するためだが、自分の利益しか追求しないワンダラーもいる。



『天国の真実』
マシューブック1 マシューが教えてくれる天国の生活
スザン・ワード   ナチュラル・スピリット  2006/10/10



<アカシック・レコード、ライフ・プリント>
・アカシック・レコードは、永遠の全き存在である創造主の宇宙のありとあらゆる出来事の信頼できる完全な記録を含んでいる。

・ライフ・プリントは指紋と同じように一人ひとり独特でなおいっそう変更の余地がない魂の記録であり、それらはアカシック・レコードの中の別個のファイル。

・これまでの銀河宇宙戦争の一部は、この記録を破壊するか、あるいは誰か訪問者が記録を操作できるように新たな記録システムを作り支配してきたことにある。アシュター(銀河連合の総司令官と呼ばれる存在)は、この記録を運営、保護する勢力を指揮する大霊。

<音楽>
(マシュー)あらゆる芸術の中で、ここでは音楽が一番重要だ。

・つまり音楽は僕らの存在そのものにとって決定的に重要なんだ。この領域は音楽の周波数によって縁どられている。振動、特に弦楽器の振動は、この全領域を一定のトーンに保つのに必要なんだよ。

・地球ではラジオ局が電波に乗せて音楽を流すだろう。同じようにここでは僕たち一人ひとりが独自のラジオ波、ラジオ局、そして、チャンネルの役目を果たしているんだ。

・ここには地上すべてのオーケストラを組み合わせたよりももっとたくさんの弦楽器と演奏家それに大勢のマスターハープ奏者がいる。

・地球の音楽が僕たちの音楽にとても似ていると言った方がいい、地球で書かれる前にまず天国で完成されるんだ。作曲家は、それをインスピレーションと思うかもしれないけど、でも正確には“浸透”なんだ。



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■■■ 私が思うこと、聞いたこと、考えること ■■■

(2024/6/2)



・グレイ種についてもさまざまな情報がリークされていますが、グレイ種自身も多種多様に相当進化してきているようです。異星人は進化の速度が速いといわれます。
「その後、343種類の肌の色に分かれる4353万607種のヒト型生物(人類)が創造された。現在、宇宙全体で数十憶の種族が存在する」そうですので、より一層の情報開示が求められます。2022年頃からディスクロージャーが進むという話がありました。

『110の宇宙種族と未知なる銀河コミュニティへの招待』エレナ・ダナーン(ヒカルランド)2022/12/31、『【ザ・シーダーズ】神々の帰還』(エレナ・ダナーン ヒカルランド 2023/8/24)、『この惑星をいつも見守る 心優しき地球外生命体たち』(エレナ・ダナーン、ヒカルランド、2023/1/19)等の「歴史を変える本」も出版されています。


・ 「グレイ」は人間の無意識の中に入ってくる」といいます。「あのグレイも壁を透き通るようにして部屋に侵入してくる」そうです。
「キイリイ・トクールトと同じく、アヌンナキは人間のように見えるグレイ種族です」といわれますが、アヌンナキの正体も具体的に伝わってきています。「グレイも“霊魂体宇宙人”の仲間で、神様の一種だ。連中はチビ猿の肉体に憑依しているが、中身は神様だ」という特異な説もあるようです。


・「グレイは我々(異星人)が遺伝子工学、バイオ化学、宇宙科学を駆使して造ったロボットでしたが、今では宇宙や特定の星の調査など、さまざまに活動している」といわれます。「グレイ(小柄な異星人、ゼータ星人)ですら色々なスター・システムに81種類以上もいる」そうですので、人間タイプの異星人も多種多様のようです。
ルシファーもグレイ(ゼータ星人)を作り神に反抗したとも言われています

『地球を支配するブルーブラッド 爬虫類人DNAの系譜』
スチュアート・A・スワードロー   徳間書店   2010/6/18
から引用。
<ビーガン   シリウスA人の遺伝子から作られたグレイ>
・このグレイ種は、シリウスA人の遺伝子から作られている。シリウス人の船の標準的な乗組員である。主人のために労役、実験、雑用を行う。ゼータ・レティクリ1と2のグレイは、前向きにビーガンの指揮に従い、人間の誘拐や鉱物のサンプル収集などの特定の任務を行う。

<ゼータ・レティクリ1 地球人監視のためリゲル人が作ったグレイ>
・このグレイのエイリアンは、リゲル人が地球の人間を監視するために作った。人間とリゲル人の混合物である。人間の胎児と同じように四本の指と割れたひづめを持つ。ホルモン液と遺伝子実験のために人間を誘拐することで有名である。

・遺伝子的・ホルモン的な欠乏症のため、彼らは、急激に死滅している。他者を誘拐することで、自らの種を救う交配種の原型を作ろうとしている。

<ゼータ・レティクリ2 遺伝子操作で作られたグレイ。爬虫類人に奉仕>
・このグレイは、遺伝子操作で作られた爬虫類人への奉仕階級のメンバーである。完全にマインド・コントロールされており、中央情報(コンピュータ)に接続されている。集団精神で一体となって動く。彼らは、無心になってゼータ・レティクリ1を手伝う。誘拐現場でよく目撃されるが、子供のように純真に行動する。


・「いまから約750年前(鎌倉時代中期)、蒙古軍が龍神島を襲来した際、セザナ神がベテルギウスに対して緊急出動命令を下して、グレイの戦闘機(20台)が蒙古軍を海上で撃破するという事件が勃発した」という話もあるようです。また「1945年の広島と長崎の原爆投下は、これらの都市の地下にあったレプタリアンの基地を破壊するためであった」といわれます。このように日本の歴史も、太古から異星人と大きな繋がりがあったそうです。


・「グレイ」や「レチクル座のゼータ星人」とも呼ばれており、人間を誘拐する主要な宇宙人種であると考えられているといいます。
グレイと人間の交雑種が「エササニ人」といわれます。エササニはオリオンの方向にあります

「現在、ゼータ・レチクル星人は、第4密度の人間型生命体であるが、クローン化により進化が止まり、種族の存亡の危機に陥っている」といいます。
1954年には、「ラージノーズ・グレイ」という種族が、ホロマン空軍基地に舞い降りた、と主張されています。そして「グレイは未来の人類の退化した姿だ」という奇説もあったそうです。

『この本に真実は何もないしかし、それがまさに現実なのである』 ホブ・フリゼール  ナチュラル・スピリット   2000/4
から引用
<火星人による「ルシファーの反乱」>
・ルシファーは、神が創造した中でもとりわけ有能な天使の1人であったといわれています。ただし、彼には自分が神と同格であると思い込むという欠点がありました。
・地球に影響を与えた、神に抗うこの種の試みは、それより以前にも3度あり、いずれの場合も全くの無秩序と大混乱の末に終わっています。最後の「ルシファーの反乱」が起きたのは今から20万年前ですが、その際、ルシファーは天使たちのおよそ3分の1を味方につけています。また、今から約100万年前の火星に棲んでいた人種は、その前に起きた(つまり3番目の)「ルシファーの反乱」の影響が災いして死に絶えようとしていました。暴れ狂う複数のマカバのせいで、1つの星の命が尽きようとしていたのです。

<グレイは火星人の子孫で、現在地球に来ている異星人種の一つです>
・アトランティスにやって来た火星人は、「ルシファーの反乱」の影響を地球に持ち込み、その結果地上における人類の凋落を招きました。火星は完全な左脳文明であったため、火星人たちはさまざまな事柄を知的レベルで理解することはできても、彼らには感情がなく、とりわけ愛については全く理解不能でした。自分たち以外の存在を気にかける理由が、彼らにはわからなかったのです。
 そのため彼らはしょっちゅう争いを繰り返し、人類が今まさに地球にしているのと同じように、自分たちの環境を破壊してしまったのです。


・「このままで行くと、2032年で地球は滅亡する」という話も興味深いものです。世界の「終末論」については、多くの話があるようです。
20世紀の宇宙人が飛来した時は、原爆や水爆が作られ、米ソ核戦争の危機があった時代でした。キューバ危機では核戦争の危機が最高潮になりました。当時の異星人は「核戦争の危機を警告するために地球に来た」といいます。
全ての戦争の原因は経済にあるといわれている。いくつもの戦争が起ころうとしており、そしてついには第3次世界大戦に至るだろうと指摘されています。
実はウクライナ戦争は、おそらく2029年前後に始まるであろう第3次世界大戦のスイッチになった可能性があるといいます。
しかしながら、人々はエイリアン・エンジニアリングのパソコンを毎日使いながら、「あなたは空飛ぶ円盤を信じますか?」という時代錯誤的な質問をしているといわれます。
 「知る人ぞ知る」事情通の話なので、私たち一般人は、理解できません。


・サイバー戦争をみても第3次世界大戦は既に始まっているといわれます。
「自給自足できる国だけが生き残ると思います。 日本は即死」、「日本も生き残ったとしても、地獄の治安の悪い国になるでしょう」といいます。
ですから核戦争に生き残るためには銃社会と食糧備蓄、国民皆兵、地下要塞化が必要といいます。シェルター整備、食料備蓄、銃器の備蓄を優先すべきだといわれます。
食料備蓄と国民皆兵制のスイスと銃社会のアメリカが核戦争に生き残るという話もあるようです。核戦争ではロシアの奇襲攻撃、先制攻撃でアメリカが負けるという話もあるそうです。『日月神示』では、日本は共産主義により立替えられること、世界も米ロ戦争によって共産主義の天下となることを予言しています。



(2023/11/18)

・「未来を代表する惑星のガニメデ/木星圏には多くの銀河系組織の浮遊都市がある」と指摘されています。「都市型の宇宙船」「浮遊都市」については、当ブログでもよく引用する話です。繰り返しになりますが、『UFO革命』( 横尾忠則   晶文社  1979年3月)を以下に引用しています。

 「都市型の超巨大宇宙船」は、天使や大天使、神に近い非常に進化した異星人の宇宙船のようです。昔の記録では「天上のエルサレム」や「高天原」が超巨大宇宙船だったようです。また「シャンバラ」も異次元に突入した「都市型の超巨大宇宙船」だったようです。シャンバラにはソクラテスやプラトンのような昔の「偉人」がいるといわれます。「シャンバラには、大師達の“グレート・ホワイト・ロッジ(純正大同胞団)”の中心本部がある」といわれます。この「都市型の超巨大宇宙船」に人間がいたり、詳細が分かるようになるまで数世紀かかるのかもしれません。

洋書の『My Visit to Agharta (English Edition)』には、都市型の宇宙船シャンバラの絵図が載っています。著者のT. Lobsang Rampaは経歴もインチキで当時は詐欺師のようだといわれています。

「UFOの母船には、半透明で大きさがまちまちの球体の都市が多数存在する。球体内には建物があり、小型のUFOで入ることが可能」という話もあり、この世界で、人間が理解できること、理解していることなんて、ほんのわずかに過ぎないといわれます。異次元の球体の都市があるのかもしれません。
「今の月の中心核にいる霊性の高い宇宙人は日本人によく似た黒髪に黒い瞳です。日本の古語を使っています。この宇宙人もあとから月に寄生した存在です」という話もあるそうです。
「普通の日本人よりもっと立派な日本語、まるでアナウンサーみたいな日本語で、声もそういう調子でした」という白人の異星人も都市型の超巨大宇宙船を操っているそうです。

・人類(地球人)でも土地の所有を巡って争い、戦争になりますが、異星人の方が「所有権」の意識が非常に強く、月についても、部分的な地域でも異星人が所有権を争うという説もあります。また異類混血がスター・ウォーズの原因だともいわれます。毎年特定の人々が、宇宙連合に招待されて「宇宙旅行」をしているといわれます。多くの人間が海外旅行をするように、シリウス人は集団で「宇宙旅行」をしているそうです。

「自然発生的なポータルの使用に関する銀河法では、ポータルは中立的な物体であり、誰もその所有権を主張してはならないことになっています。オリオン大星雲の天然スターゲイトの支配権をネブが主張したことで、オリオン戦争が始まったのはこのためです。しかし、この法律は人工的に作られたポータルには適用されず、ポータルはそれを作った人が所有します」という話もあるようです。
 ちなみに、日本でも土地の境界争いは昔から多いといわれます。

・「二派の対立とは火星由来のアーリア人に対するアヌンナキ・レプティリアン(爬虫類人)の争い、戦争」であったともいわれ、今でも続いているようです。「神と悪魔の争い」「4次元の宇宙人と5次元の宇宙人の対立・戦争、神と堕天使ルシファーの対立・戦争が延々と続いている」といわれます。
「シリウスのテクノロジーは、アヌンナキによって地球にもたらされた」そうです。お金の社会は、アヌンナキによって作られたネガティブな制度であると指摘されています。「地球の歴史は常に、光の勢力と闇の勢力が争いあってきた歴史である」といわれます。「アヌナキは人間を造り、文明を与えただけではなく、人間を支配し、奴隷化しようとしているという。イルナミティはそのための陰謀組織である」という説もあります。

・「グノーシス主義は反宇宙論( 宇宙自体は善なるものではなく、むしろ悪であり、受け入れるべきではないという思想 )・反造物主( 造物主は狂った下級の神であり、従うべきものではないという思想 )という点でヒンドゥー教と異なり、邪悪なものを認めず、現在われわれが生きているこの世界を悪の宇宙、あるいは狂った世界と見て、原初には真の至高神が創造した善の宇宙があったと捉える」といわれます。
「グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた。現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺めるとき、この宇宙はまさに「善の宇宙」ではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。これがグノーシス主義の「反宇宙論」である」という説もあります。
 
・反造物主( 造物主は狂った下級の神であり、従うべきものではないという思想 )という話も恐ろしい話で、私たち一般人には、想像を絶する話です。

・ところで、人工知能(AI)で音楽の作詞、作曲、それの動画の作成ができるようになったようです。「神と人工知能が支配する世が来る」と言いますが、人工知能の作る音楽は、人間の作ったものよりも優れたものになるのでしょうか。現在でさえ多い音楽の量が、どれだけ増えるのでしょうか。そして異世界の音楽、天国の音楽は、想像を絶する程度に素晴らしいという説もあります。進化しているのでしょう。聞いてみたいものです。
「神と人工知能が完全管理する社会、労働者も経営者も政治家も人工知能で完全評価される社会はユートピアかディストピアなのか」という話もあるようです。経営者ですらAIを恐れる時代が来るのかもしれません。

・『この惑星をいつも見守る 心優しき地球外生命体たち』(エレナ・ダナーン、ヒカルランド、2023/1/19)、『【ザ・シーダーズ】神々の帰還』(エレナ・ダナーン ヒカルランド 2023/8/24)、『110の宇宙種族と未知なる銀河コミュニティへの招待』エレナ・ダナーン(ヒカルランド)2022/12/31 の本はエポックメーキングな本です。全国の図書館に置いて人々の啓蒙に役立てばよいと思います。



『深宇宙探訪記』
(オスカー・マゴッチ)(加速学園出版)1991/8



<都市の大きさはあるクリスタル宇宙船>
・そうこうするに、白く輝くものが頭上に出現し、急速にその輝きを増していく。間もなく、明るく輝くオーロラがずっと強烈にきらきら輝く光に消されてしまった。巨大な形のものが降下して、視界に入ってくる。都市の大きさはある。だが、途方もないほど大きなボワーッとした塊のクリスタル・シャンデリアのようで、まるでクリスマスの飾り物みたいに様々な色の光を閃かせたり点滅させたりしている。
「何・・・ 何だ それは?・・・・」
私は吃ってしまった。天から現われたものが私達の視野一杯に広がるのに完全に飲まれてしまっていた。私達から2、3キロ離れたところだ。

・「感動するのも当然だ。このクリスタル宇宙船は現在『地上の平和』号と命名されていて、あなたがたの太陽系の惑星間ヒエラルキーの最高の旗艦なのだ」



『「天国」と「地獄」がよくわかる本』
クリエイティブ・スイート編著  PHP   2009/8/3

<天界に用意されている神の都市国家>
<天上のエルサレム(新しいエルサレム)>
<広さは東京都のおよそ2倍にもなる、天上の都市>
<世界が終末を迎えた後に地上に現れる神の都市>
・これはエデンの園のように、澄んだ川が流れて緑豊かな草花が咲き乱れるという、すばらしい自然を描いた天国とは大きくかけ離れた概念である。
 聖ヨハネが伝える天上のエルサレムは、都会的な天国であり、碧玉で築かれた城壁で囲まれている。12の門がある大きく高い城壁の内側にある都の大きさは、長さも幅も、高さも1万2000スタディオンであるとした。1スタディオンは、だいたい180メートルなので、だいたい4000平方キロメートルの広さがある。つまり、東京都の約2倍近くの都というわけだ。城壁を支える土台石もまた12種類存在し、それぞれが宝石で飾られている。城壁の内側の都には、輝く塔や宝石が散りばめられた邸宅などがあり、人々はそこで神と共に暮らすことができる。

<城壁に囲まれた都市型天国にはせる信者の思い>
・このような天国が生まれたのは、人間の想像力が決め手だ。「ヨハネの黙示録」にある「新しいエルサレムが天から下ってくるのを見た」という一文が、人々の心に火をつけたのだ。それはいったいどのような都なのだろう、と聖職者や評論家たちの間で議論されるようになった。そうして、天国とは光あふれる場所というイメージから、この天上のエルサレムも宝石などで輝いていると結びつけたのだろう。

・これは天上のエルサレムの設計者であり建設者である神が、イスラエルの12部族の復興を望んでいるということを暗示している。イスラエルの民にとって、都とはエルサレムだけであり、そこに永住できることこそが彼らの望みだったのだ。そうした考えから生まれた天国こそが、天上のエルサレムなのである。
長い年月を経るうちに、天国とは清らかな大自然をイメージさせるエデンの園のような楽園のなかに、こうした天の都があると考えられるようになった。


『UFO革命』
 横尾忠則   晶文社  1979年3月
<母船で連れていかれた太陽系外惑星   安井清隆>
・(安井)普通の日本人よりもっと立派な日本語、まるでアナウンサーみたいな日本語で、声もそういう調子でした。

・ええ、高いんです。背が私の倍ぐらい、2メートル4、50ありました。
・「もっと遠い星で、太陽系の外の星なんです。まだ地球上では確認されていないので名前もありません」

・私のことは子どもの頃から全部観察してあり、記録されてあるらしいですね。
・宇宙人の名前はチュェレイさんといいます。チュェレイさんと一緒にいた女性は、背の高さは私と同じくらい、1メートル70センチはありました。髪の毛は少し長めで金髪なんです。

・母船はものすごく大きく、何メートルなんてものじゃなく、葉巻型になっていて長い方が50マイルぐらいだとチュェレイは言っていました。ということは、岡山県の幅ぐらいはあるでしょうね。とにかく想像を絶する巨大な母船なんですね。
・母船の中を小型円盤がピューピュー飛んでいて、全体が街のようになっているんです。

・どこから灯りが出ているのかさっぱりわからないんですが、とにかく昼間の太陽光線と同じなんです。
・彼らが、植えた草や木もあり、池のようなものもありましたよ。非常に気持ちがいい場所でしたよ。

・建物は地球のビルのように四角形のものや堕円形のものもあり、その中がコンパートメントのように仕切ってあるようですね。
・この母船は、巨大な宇宙空間を飛ぶと、ゼロに近い時間で飛ぶらしいですね。その原理は、私たち地球人の知識では全然見当がつかないですね。そして、この母船の中で、時時、地球の各国の人が招待されて色々な話をすることがありますが、その内容については、詳しいことは公表できないことになっているんです。ただ彼等は、原則として地球には干渉してはいけないことになっているらしいんです。

・飲み物は、地球のコーラに似たようなものを飲ませてくれました。けれど、特別変わった味ではありませんでしたね。そのほかにも甘い飲み物はあったんですが、私は、飲まなかったんです・・・・。食べ物は、肉をやわらかくしてトロトロしたものをスプーンで食べるんです。
・リスの肉らしいんです。それとトウモロコシのようなねぎ坊主に似た穀物をくだいて、粉々に作ったパンのようなものがありましたが、これは大変おいしかったですね。味付けの感じは、いわゆる西洋料理のような感じですね。

・チュェレイ星に行く時は、その母船でチュェレイ星の近くまで行くんです。
・降りたところの風景は、どちら側が北か南か全然分かりませんでしたが、とにかく、一方に海があり、その彼方にうっすらと山が見えていました。そして、海と反対側の方は、降りた所もそうでしたけれど、わりと荒れた土地、いわゆる荒蕪地といったらいいでしょうが、そんな感じの平野のような土地が続いていて、そのまん中に街というより都市といったらいいでしょうか、かなり大きな街が見えていました。

・草はね、少し違っています。ちょうど、芭蕉の葉っぱを少し厚くしたような、あるいはゴムの木の葉のように葉の肉が厚いんです。そういう草木が沢山あり、全部の木が闊葉樹ですね。それから動物もいるんですが、皆大きいですねえ。リスが羊ぐらいの大きさに見えました。ただ全部の動物を見たわけではありませんでしたけれど・・・。
・太陽はあります。ただ地球で見るよりははるかに大きいんですが、逆に太陽の熱は地球よりも強くないんです。そして、チュェレイ星は地球のようには自転していないらしいんです。

・都市というのは、かなり大きな街でした。岡山市の旧市内ぐらいは充分あったと思います。そして、もっと驚いたことがあるんです。最初に降りた所でざっと周囲の風景を見てから、もう一度円盤に乗ってチュェレイ星をグルッと一周してもとの場所に帰って来たんですがー海や山などの風景が同じだったのに気がついたのでチュェレイに聞いたら、「そうだ、最初に降りた場所だ」というのでわかったーさっきあった都市がなくなっているんです。おかしいなあと思って、風景は同じようだけれども、あそこに見えていた都市がないのはどうしてなのかと訊いたら、笑いながら、「あれは全部円盤でできていて、今はもう他の場所に飛び去ってしまったのだ」というんです。


<戦後最大の奇書といわれる小説「家畜人ヤプー」が描く飛行島「タカラマハン」の様相>
(作者;沼正三)(昭和31年より出版された文学作品。『家畜人ヤプー』は名実ともに戦後最大の奇書と言われている。)


<「高天原」諸景。“飛行島「タカラマハン」”>

「空中列車は、旋回しつつ下降していく。中央山の中腹にある氷漠(ひょうばく)、氷湖、外輪山脈との間の環状盆地にある密林、へきたん、桃園、外輪の七峰のうち三つがそれぞれ一大城門に削りなされている豪快なふえつの跡、その外側にびょうぼうと広がっている環状平原の、あるいは広潤(こうじゅん)な田野となり、あるいは管理の行きとどいた山林となり、あるいは繁華な都邑(とゆう)を作る有様、所々に湖をたたえつつ、周辺部のいちばん外側を取り巻く幅1キロの環状湖へ流れは入る七筋の川は、森の樹種でも、芝生の上の建物の色彩でも、尖塔の様式でも、花壇の配置でも、流域ごとに異なる七様の景観を提供している。極地の氷河、砂漠のオアシス、いったいどこまでが、人工、どこまでが天然なのか?いや、全部が人間の工作物に違いないのだが・・・・・・」
「島の上空に来て、閉鎖空間であるその重力圏に入り、島の固有振動を自分も付与されない限り、つまり、島の外や下(地上)からでは、見えないのである」。
「土壌と岸壁からなる地殻部は、数百メートルの厚さに達するが、その下に百メートルの厚さの引力盤の層があり、さらにその下、飛行島の底面には2百メートルの厚さの浮力盤の層がある。どちらも特殊合金である」。
「飛行島の地理は、直径百キロ、底面の厚さ1キロの円盤の中央に高さ4キロの円錐山がある。それが大雪山スメラで、それを取り囲む外輪山脈は、スメラ山頂から15キロ離れて、ほぼ円周を成し、尾根の平均高1.8キロ、そびえ立つ七峰の平均高2.5キロである」。

・この『家畜人ヤプー』という小説の「飛行島」とシャンバラのような「都市型の超巨大宇宙船」とは、何かイメージとして相関があるのだろうか。「家畜人ヤプー」は、SMの書とも言われたが、SFの書にしては、奇想天外の物語であろう。この小説は、シリウス星人と関係があると書かれています。
作家ジョナサン・スウィフトにより書かれた小説、『ガリヴァー旅行記』の「漂流中のガリヴァーと遭遇する巨大な「空飛ぶ島」ラピュータ」とのイメージが連想されます。


(2023/5/9)


・この本では「猿の惑星」とか「グレイ猿」という単語がよくでてきますが、動物タイプの宇宙人はネガティブなシリウス星人が創造したのかもしれません。ルシファーもグレイ(ゼータ星人)を作り神に反抗したとも言われています。「猿の惑星」の異星人と地球人の争いが勃発するかもしれないという話もあるようです。「未来の地球人の滅亡を待つ」異星人もいるといわれます。

「<悪魔崇拝ネットワークがレプティリアン血統のイルミナティ>
・レプティリアン混血種はまず古代のミステリースクールを乗っ取り、それを現在の世界的秘密結社のネットワークにまで発展させました。これを利用して、様々な事件を密かに操作し、混血種や工作員を世界中の権力の地位に就けています。このネットワークを支配し調整するのは、最高レベル秘儀を授けられたもので、「イルミナティ」ないし「イルミネイティッド・ワン(啓蒙された者)」と呼ばれています」という説もあります。

「ここでレプティリアンを作った「透明な人々」にも触れておきましょう。前にも登場したスチュワート・スワードロウの研究の成果です。この透明な連中は、エネルギーが高すぎて物理的な次元に実際には入ることが出来ません。彼らが姿を現すときは、透明ガラスの外殻のように見えるのです。ブッシュ親子と同じパータンで、レプティリアン自身もコード化されたコンピュータープログラムで、決められたことを実行しているに過ぎないのです。要するに彼らの上にも、彼らの行動や人間を操作する究極の力を持つ「透明な人々」が存在するのです。結局はマトリックスを支配する者が、人間とレプティリアンの現実の両方を支配していくのです。私たちが目覚め、この愚かすぎるゲームをやめさせない限りは」という話もあるようです。

ちなみに、「その生物(透明人)は、私の思考に直接働きかけ、完全にテレパシーで交信してきた。もはや人間が存在しなくなった遠い未来から来たと語った」という話もあったようです。アストラル界層に生息する人間には目に見えない天使クラスの宇宙人については、私たち一般人は、想像を絶する話です。


超太古の遺伝子科学者が、鳥類の遺伝子や動物・人間の遺伝子操作をしてモンスター・タイプの生物や人間を創造したと指摘されています。ネガティブ・グループのシリウス人がモンスタータイプの生物を創り、神に対抗したので神に嫌われたといわれます。「現代的な解釈ですと堕天使ルシファーとかリラ星人のサタン(悪魔)という言葉は、遺伝子科学者の研究集団の名前だ」そうです。
太古では、神が地軸を動かして天災地変を起こして「モンスタータイプ」の生物を全滅させたといわれます。しかしながら、しかし、今なお、底層4次元にモンスター・タイプが生存しているともいわれます。
インド神話の猿の神様は「ケンタウルス座α星人」ともいわれます。宇宙人全体では動物タイプが3割も存在しているようです。ハヌマーンは、インド神話におけるヴァナラ(猿族)の1人といわれます。
「中国の玃猿(かくえん)は、人を、ことに女性をかどわかして行っては犯す、淫なるものとされている」そうです。日本の昔話でも猿神が女の人身御供を求めたという伝説や、大きな猅々が女を襲った伝説がありますが、「猿の惑星からの獣人」だったのかもしれません。
「他にも爬虫類、鳥類、魚類、昆虫、植物などの生態から進化した人間がいる」といわれます。



『中国の鬼神』
著 實吉達郎 、画 不二本蒼生  新紀元社 2005/10

<玃猿(かくえん)>
<人間に子を生ませる妖猿>
・その中で玃猿(かくえん)は、人を、ことに女性をかどわかして行っては犯す、淫なるものとされている。『抱朴子』の著者・葛洪は、み猴が八百年生きると猨(えん)になり、猨が五百年生きると玃(かく)となる、と述べている。人が化して玃(かく)になることもあるというから、普通の山猿が年取って化けただけの妖猿(ばけざる)よりも位格が高いわけである。
 古くは漢の焦延寿の愛妾を盗んでいった玃猿の話がある。洪邁の『夷堅志』には、邵武の谷川の渡しで人間の男に変じて、人を背負って渡す玃猿というのが語られる。
 玃猿が非常に特徴的なのは、人間の女をさらう目的が「子を生ませる」ことにあるらしいこと、生めば母子もろともその家まで返してくれることである。その人、“サルのハーフ”はたいてい楊(よう)という姓になる。今、蜀の西南地方に楊という人が多いのは、みな玃猿の子孫だからである、と『捜神記』に書かれている。もし、さらわれて玃猿の女房にされてしまっても、子供を生まないと人間世界へ返してはもらえない。玃猿は人間世界に自分たちの子孫を残すことを望んでいるらしい。

<夜叉(やしゃ) 自然の精霊といわれるインド三大鬼神の一つ>
・元来インドの鬼神でヤクシャ、ヤッカ、女性ならヤクシニーといい、薬叉とも書かれる。アスラ(阿修羅)、ラークシャサ(羅刹)と並んで、インドの三大鬼神といってもよい。夜叉はその三大鬼神の中でも最も起源が古く、もとはインドの原始時代の“自然の精霊”といっていい存在だった。それがアーリヤ民族がインドに入って来てから、悪鬼とされるようになった。さらに後世、大乗仏教が興ってから、夜叉には善夜叉(法行夜叉)、悪夜叉(非法行夜叉)の二種があるとされるようになった。
 大乗教徒はブッダを奉ずるだけでなく、夜叉や羅刹からシヴァ大神にいたるまでなんでもかんでも引っぱり込んで護法神にしたからである。ブッダにしたがい、護法の役を務める夜叉族は法行夜叉。いぜんとして敵対する者は非法行夜叉というわけである。

・夜叉は一般に羅刹と同じく、自在に空を飛ぶことが出来る。これを飛天夜叉といって、それが女夜叉ヤクシニーであると、あっちこっちで男と交わり、食い殺したり、疫病を流行らせたりするので、天の神々がそれらを捕えて処罰するらしい。

・安成三郎はその著『怪力乱神』の中に、善夜叉だがまあ平凡な男と思われる者と結婚した娘という奇話を書いている。汝州の農民王氏の娘が夜叉にさらわれてゆくのだが、彼女を引っかかえて空中を飛ぶ時は、「炎の赤髪、藍色の肌、耳は突き立ち、牙を咬み出している」のだが、地上に下り、王氏の娘の前にいる時は人間の男になる。

・人の姿をして町の中を歩いていることもあるが、人にはその夜叉の姿は見えないのだという。

・王氏の娘は、約束通り2年後に、汝州の生家に帰された。庭にボヤーッと突っ立っていたそうだ。この種の奇談には、きっと娘がその異形の者の子を宿したかどうか、生家へ帰ってから別の男に再嫁したかどうかが語られるのが普通だが、安成三郎はそこまで語っておられぬ。『封神演義』に姿を見せる怪物、一気仙馬元は夜叉か羅刹だと考えられる。

・『聊斎志異』には「夜叉国」なる一篇がある。夜叉の国へ、広州の除という男が漂着すると、そこに住む夜叉たちは怪貌醜悪だが、骨や玉の首輪をしている。野獣の肉を裂いて生で食うことしか知らず、徐がその肉を煮て、料理して食べることを教えると大喜びするという、野蛮だが正直善良な種族のように描写される。玉の首環を夜叉らが分けてくれ、夜叉の仲間として扱い、その頭目の夜叉にも引きあわせる。徐はその地で一頭の牝夜叉を娶って二人の子を生ませるというふうに、こういう話でも決して怪奇な異郷冒険談にならないところが中国である。
 夜叉女房と二人の子を連れて故郷へ帰ると、二人の子は何しろ夜叉の血を引いているのだから、強いのなんの、まもなく起こった戦で功名を立て、軍人として出世する。その時は除夫人である牝夜叉も一緒に従軍したそうだから、敵味方とも、さぞ驚動したことだろう。その子たちは、父の除に似て生まれたと見えて、人間らしい姿形をしていたようである」と記載されています。

・「アストラル界」については、「中位および上位アストラル界の都市は、車やその他の交通網もなければ、産業や汚染も存在しないため、地上界の都市よりもはるかに美しい」と指摘されています。人間の死後世界の精霊界(幽界)や霊界を創造した創造主のような進化した異星人は、人間の目にも見えませんので、想像を絶します。
「人間の死後の世界、幽界や霊界、宇宙人のアストラル界やエーテル界も似ている世界です」が、私たち一般人は、当然詳しくはありません。「アストラル界はとても巨大です。ここに存在する全ての世界からおよそ600億人の人間タイプの生物が集まっている」といわれます。ほとんどの電磁的知性体はアストラル界に存在するそうです。

・著者は、「猿の魂体を使用した場合、人間にとってはいろいろと不都合な問題(動作や仕草や歩き方が猿になるし、何より魂体に投影される姿が猿になる)が生じてくるために、神々は敬遠した」、「また「グレイの食料基地惑星(バエルヤ)」も実在しており、地球とは50万光年近い距離を隔ててはいるが、我々先端技術研究機構は将来、この領域へ地球の龍神島民族を移住させようと考えている」、「霊魂体宇宙人は、基本的にアストラルの世界に住む住民であって、アストラルの家を建てて、アストラルのベットで寝て、アストラルの宇宙船で銀河を飛びまわっていた」と述べています。


・アストラル界やエーテル界については、以下のように多くの本で指摘されています。

『完全アセンション(次元移動・昇天)・マニュアル』 (上・下)
(ジョシュア・D・ストーン博士)(ナチュラル・スピリット)2000/11/11

<地上に存在するエーテル体のアセンション(次元移動・昇天)したマスター>
<アセンション(次元移動・昇天)>
・ 「まずヴァイワマスからの情報によれば、地上で肉体をもつアセンション(次元移動・昇天)したマスターは800人おり、うち約20〜30%が女性の、約70%が男性の肉体を有しているという。さらにヴァイワマスは、地上に存在するエーテル体のアセンション(次元移動・昇天)したマスターに至っては、総勢1800人から2500人を数えると述べている。その多くは、アシュター司令部のメンバーである」

・ 「我々の銀河における異星人文明で、何累代も前から地球を訪れているものには、即座に思いつくだけでも、琴座星(リラ)系、ヴェガ星系、アルクトゥールス、シリウス、オリオン、プレアデス、そして言うまでもなくアシュター司令部がある。さらに将来には、異星人文明との自由な交流がごく日常になる」



『完全アセンション(次元移動・昇天)・マニュアル』 (上・下)
(ジョシュア・D・ストーン博士)
(ナチュラル・スピリット)2000/11/11



<第7イニシエーション>
・第7イニシエーションは、地球での生が関わる七界層の現象的生の支配から自由になることである。これは実際には宇宙レベルの物質界から、その上に引き上げられることであり、神的すなわちロゴス的意識界層との融合をいう。当のマスターの意志は、惑星ロゴスのそれと完全なる融合をみる。そして、神の息子ないし娘はみずからの源である父へと続く通路を見出すのであるが、このときの状態を「シャンバラ」という。マスターは息づく光の集中点となり、シャンバラの議事堂への出入りが許され、その視界は太陽系の「越えられざる環」をも透徹することができる。

<高次の進化へと続く七つの道>
・ 我々は、アセンションの時点で、高次の進化へと続く七つの道から、どれか一つを選ぶことになる。我々の選択肢となる七つの道は、以下の通りである。

1、地球での奉仕の道
2、磁気に取り組む道
3、惑星ロゴスとなるための修練の道
4、シリウスへの道
5、光線の道
6、ロゴス自身が在る道
7、絶対的な神の子の道

・人類の大半はシリウスへの道を選択するが、それはシリウスが、その一部にシャンバラを含む大学だからである。そこは訓練の場としての役割を持ち、宇宙レベルの進化における後々の時間に<人格>はそこからより高度な道へと移ることができる。

・私自身はシリウスへの道を選択しており、後にシリウスでの基礎訓練を終えた時点で、できれば絶対的な神の子の道へ移行したいと考えている。私は、シリウスに行く前に、今後約20年は地球に留まり、ジュワル・クールのアシュラムで働くと告げられている。私は、たいてい毎晩、睡眠中に魂体でシリウスを訪れている。

<都市>
・中位および上位アストラル界の都市は、車やその他の交通網もなければ、産業や汚染も存在しないため、地上界の都市よりもはるかに美しい。都市建築は車輪のように、たいがい中心から放射状に外に向けて広がるように計画されている。そうした都市の中心には、全ての信仰の聖堂である「七天球の寺院」が置かれている。

・そうした都市には、高次の次元からマスターたちも訪れる。芸術活動に捧げられた建物や学びのための集会場もある。高い次元に進めば進むほど、都市やその周辺部も美しさを増す。近郊に建つ家並みも最終的には筆舌に尽くし難いほど見事な見晴らしを呈する美しい邸宅街にある。そうした高次の意識階層にある魂の延長が抱く目標は、物的達成ではなく、霊的達成である。

<下位アストラル界での生活>
・煉獄と地獄の上位には、ある種どっちつかずの領域とも言える一帯があり、実際そこは地上界に重なるようにして存在する。ここにいるのは自分たちにとって心の安らぐ場所を地球の近くに見出した善人たちである。そこはアストラル界に属する領域ではあるが、地上の生活がそのまま行われているというアストラル版地球といったところである。あまりに地球の生活とそっくりなので、しばしば自分が地上界を去っていることさえ自覚するのが難しいこともある。そんな<魂の延長>も、あるところまで来ると、今より好状況に憧れるようになるのである。

<電気生命体との戦争>
・プレ・レムリア時代は、地球が他の惑星から来た「電気生命体」の集団に侵略戦争が仕掛けられた時代でもあった。地球人類は自己防衛を試み500年も続いたこの戦争において、最終的に勝利を収めている。その電気的存在にしても、芯からの悪者ではなく、移住のための新天地を求める科学者集団にすぎず、彼らは、実に気の遠くなるような距離を旅してやって来たのである。

<地上生と死後生とを比較>
・「さて、死後生が地上生とそれほど違わないということは、理解してしかるべきだろう。アストラル界、メンタル界、そしてそれらより高次の諸階層でも、地上と同じような都市、海岸、山々、住居、道路、演奏会場、図書館、社交場、クラブ、教会、寺院などを有する生活があまねく繰り広げられているのである。

・ 多くの“魂の延長”が、死とそれにともなう移行を迎えた後にも、死んでいることに気づかないことさえあるのだ。彼らは生前の肉体とそっくりのアストラル界をまとっている。死後生に特有な点といえば、アストラル体がマインド(心識)に従って動くということである。海岸に行きたいときには、ただ『海岸』を念じるだけで、当人はすでにその場所にいることになる。旅をするのにも車や電車や飛行機を使う必要はない。

・そういう状態で死後へ移行した“魂の延長”の場合、往々にしてあとに残してきた家族に思いを馳せるため、たちまちその家族のもとに現れることになる。しかし、自分が異なる次元にいることや、そのため家族には自分の姿が見えたり声が聞こえたりしないことは、まだ自覚していない。「自分が死んだことがわからない人」にとっては、このことが大きな困惑を引き起こす。

<アストラル界とメンタル界の住居>
・「アストラル界」では、魂の延長、全員に住まいが与えられる。このプロセスの素晴らしいところは、住居が住人の性質を反映したものになるという点である。霊性に乏しい人は、その性質をそのまま反映した家なり環境なりに住まうことになる。
住居は、“魂の延長”が獲得するに至った霊的性質から何らかの神秘的方法で創られる。進化すれば、したぶんだけ家や環境が美しさを増す。優しさから生まれる行為、愛、周囲への奉仕活動などは、そうした作為の念が即座に当事者の環境や住居の何かしらの向上という形で具現化する。

・霊的世界にある家は、時間の影響を受けることがないため、腐食や瓦解の心配がない。そして、住人が必要とする間、家は、永遠に存在する。住人がそこを去り、もはや住処としての目的がなくなると家は姿を消すのである。“内にあるがごとく、外にかくあり。上にあるがごとく、下にかくあり”という概念の働きを、ここアストラル界では、如実に目にすることができる。

・既述の家に関するプロセスは、アストラル界での人々の服装についても同様である。アストラル界でも人は、衣服をまとっているが、その服装に関しては、地球で着ていたものであれ、アストラル界の町や地域に似つかわしいものであれ、好きに選ぶことができる」。

<ジョシュア・D・ストーン博士は、たいてい毎晩、睡眠中に魂体でシリウスに行っている>
<アセンションの座>
1、 宇宙の核にあるメルキゼデクの黄金の室の「アセンション(次元移動・昇天)の座」
2、 銀河レベルにあるレンデュースのアシュラムの「アセンション(次元移動・昇天)の座」
3、 銀河の核にあるメルキオールのアシュラムの「アセンション(次元移動・昇天)の座」
4、 太陽の核にあるヘリオスの室の「アセンション(次元移動・昇天)の座」
5、 サナート・クマラにの原郷であるシャンバラの「アセンション(次元移動・昇天)の座」
6、 「光の統合室」と呼ばれるアルクトゥールス人の宇宙船にある「アセンション(次元移動・昇天)の座」
7、 「原子加速器」と呼ばれるワイオミング州のテーブル・マウンテンにある「アセンション(次元移動・昇天)の座」
8、 ギザの大ピラミッド内部の王の間にある「アセンション(次元移動・昇天)の座」
9、 シャスタ山にある「アセンション(次元移動・昇天)の座」
10、 シャスタ山の地下1.6キロのところにある地下都市テロスの「アセンション(次元移動・昇天)の座」
11、 アシュター司令部の宇宙船にある「アセンション(次元移動・昇天)の座」
12、 アフリカにある地下に格納された異星人の宇宙船にある「アセンション(次元移動・昇天)の座」
13、 地球内部の空間の中心にある「アセンション(次元移動・昇天)の座」
14、 ルクソールにあるセラピス・ベイのアセンション(次元移動・昇天)静修地の「アセンション(次元移動・昇天)の座」


・「宇宙連合」や「銀河間連合」、「銀河連合」についての本も米国から新しい情報が洋書で入ってきています。昔から「地球人のレベルが低すぎて宇宙連合に参画できない」と言われてきました。「情報公開も昔からもう少しすればディスクロージャーがある」というような話ばかりでした。
しかしながら、「ネガティブなオリオン人は、地球に来ている地球外生命体の中で、最も発達レベルの低い存在で、地球に暗黒をもたらそうとしている」という話もあり、アバブ・トップシークレットの壁で時々のリーク話のみでした。今年からディスクロージャーが始まるという話もあるようです。
「知的レベルが高度に発達していた「闇の存在」は、多分、何万年か前に、地球人を自らの支配下においたのだと」といわれます。「大いなる闇の同胞団は、人類に怖れを植えつけ進化を遅らせるためならば、いかなる手段も厭わない立場を取っていました」という話もあるようです。
いわゆる2種類の異星人の争いがあり、現在も未来においても「大いなる闇の同胞団」が優勢だという説もあります。
 UFOは、人類の歴史が始まって以来、最も重要な現象といわれます。そして「日本はUFO後進国だ」ともいわれます。国立のUFOエイリアン研究所を作りリバースエンジニアリングをするべきですが、この方面も後進国のようです。アメリカのUFOのリバース・エンジニアリング(逆工学)はほぼ完了しているといわれます。
エイリアンのリバース・エンジニアリング(逆工学)でアメリカ産業界は莫大な利益を得るといわれます。国の政治は、その国の国民の民度を出ないそうです。あまりにネガティブな異星人の「闇の勢力」の「情報操作」が強いので、ポジティブな異星人が地球に来なくなったという話もあるようです。





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