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【時代小説発掘】「かまきりと遊女」 篠原 景
[【時代小説発掘】]
2010年3月20日 11時27分の記事


【時代小説発掘】
「かまきりと遊女」
篠原 景

(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


【梗概】:

 死んでかまきりになった若旦那が、吉原遊女のもとで見たもの、とった行動とは。


【プロフィール】:

篠原 景。2000年より大学で史学に没頭、時代小説の道へ。敬愛するのは東西のロックの神様。

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「かまきりと遊女」
篠原 景



(一) かまきり、現れる

「花衣(はなきぬ)、起きろ、起きてくれ。おい、花衣」
「……あい、吉(きち)さん」
 眠りの底から、なんとか掠れ声を絞り出した花衣の胸に、かすかな疑念が滲んで形を持った。
 昨夜の客は朝早くに送り出して、今の自分は、吉原の女たちの束の間の休息である朝寝のなかにいたはずではなかったか。
 そして送り出した客は、吉さん、馴染みの木綿問屋の総領息子(わかだんな)、吉太郎ではなかったはずだ。
「花衣、私が分かるか、花衣。吉太郎だ」
 一瞬で目が覚めた花衣は、飛び起きたが、部屋のなかには誰もおらず、屏風をずらしてもそれは同じだった。
 だが、繰り返し自分を呼ぶ声に目を落とした枕元、それはいた。
 鎌を振り上げ振り上げ、小さいながらに吉太郎の声を発する、一匹のかまきりだった。


(二) かまきり、頼む

「何も急に枕を投げつけることはないじゃないか。しかも続けてキセルまで。あんまりだよ」
「だって……だって、驚きイしたから」
 嘉永元年、江戸吉原、京町一丁目佐田屋の二階、部屋持ち遊女、花衣の部屋である。
 格子窓を通して射し込む、夏の朝の白い光に照らされているのは、見れば見るほど普通のかまきりである。緑色の細い体の大きさは三寸弱、しきりに小首をかしげるような仕草を繰り返している。
 ただ一点、尋常ではないのが、そのかまきりから人の声がすることであった。
「でも、すぐに『その声、吉さんでありんすか』は、あんまりにも驚きが足りないよ」
「充分驚きイしたよ。ええ、一体どっちがいいと言うのか。もっと驚いて人を呼ぶような声を上げたほうが良かったですかえ」
 寝ている間に崩れた着物の襟を整えながら、花衣がまだ年若らしい表情で小さな口を尖らせ、吉太郎であるかまきりは、思わず後じさった。
「いや……いやいや、なあ、花衣。何でこうなったのか、聞いてはくれないのかい?」
「あい、……あのう、かまきりなのに、口がきけるのが不思議……」
「言われてみれば不思議だ。今、喋っているのは、かまきりの口ではないのか。違う、そんなことはどうでもいい」
 吉太郎は、なんとか憤りを表現したいとばかりに、鎌を振り上げる。
「いいかい、よくお聞き。私はね、半月ほど前に、いつもの仲間と舟遊びをしている最中、舟がひっくり返って、一人溺れ死んでしまったようなのだよ。まだ二十三だよ。しかも成仏しそこなって、かまきりに憑いてしまったらしい。……どうした、私は死んだのだよ。もっと驚いたり、悲しんだり ――」
「いきなりかまきりが話し始めるより驚くことなどありんせん。それにわっちは……故郷(くに)にいた頃からたまアに、幽霊の類を見ることがありんす。それで何となく分かるというか……」
「そうかい。まったくお前は。さすが名に花とつくだけあって、歩く様は撫子のようだ、振り向く顔は芙蓉のようだと思って眺めていたが、中身はとんだ図太い女だったのだね。いや、薄情というか……」
 かまきりながらに、首をうなだれ、まるで溜息をつくような素振りなのが滑稽だった。
「でも死んでから言いたいことを言える者など、滅多におりんせん。その分だけ、ぬしア恵まれておりんすよ。憑かれたかまきりはとんだ迷惑だろうが……あれ、そうやって話しかけるのは、誰に向かってでも出来んすか?」
「ああそのようだ。ここに来る途中でも、団子売りの男を姿を隠したまんまで脅かしてきたよ」
「なら、何でこんなとこにおりんすえ。家にはととさまやかかさま、それにぬしにア許嫁だって――」
「よくぞ聞いてくれた」
 待ってましたとばかりにまた鎌を振り上げる。
「ひどいのだよ。表向きは私の喪中ということになっているが、私の許嫁、親戚の娘なのだがね、私の代わりに店を継ぐことになる弟の庄次郎と夫婦になってはという話が出てきているのだよ。両親がその娘を気に入っているためさ」
「あれ、まあ」
「まったく。何せ、幼い頃から知っている仲だからね、当人たちもお互い嫌いではないらしい。ああつまらない。お前も情がないが、家の者もひどい。あんな家の敷居は死んでも、いや、生まれ変わったってまたいでやらないよ。あまりに腹が立ったから、散々あっちに迷い、こっちに迷いしながら、ここまで来た。昔っから方角というものは苦手だったし、今はこの姿だ。かまきりというのはあまり長くは飛べないものらしく、随分と難儀したが、やって来たのだよ」
「まあ、どうしてそこまでして、こんなところへ?」
 だって、私はお前の馴染みじゃないか、と答えにならない答えを口にした後、吉太郎は羽を動かしたり足を動かしたり、落ち着かぬ様子を見せた。花衣は鏡台に肘を置きながら、それを眺めている。
 再度口を開いたのは吉太郎であった。
「なあ花衣、多分私は、長くてもこのかまきりが生きていられる分しか、この世に留まってはいられないと思うのだよ。先程のお前じゃないが、何となく分かるんだ。秋の終わりまでには必ず成仏する。だからそれまでここに置いてはくれないだろうか」
「ここに?」
「ああ、水くらい置いてくれると助かるが、食べる物は自分で何とか出来そうだ。世話はかけない」
 「頼む、この通り」と言いながら吉太郎がしたのは、鎌を二つ合わせた拝む格好。
 花衣はというと、目立つほくろが頬にある左側の方へ、今度はこちらがかまきりのように小首をかしげている。
 そうしてしばらく経った後、不安げに体を揺らす虫に、ぐいと体を近づけた。
「死んでまでここに置いてくれと、そうやって頼みなさるのは、心底わっちに惚れておりんしたから?」
「……何というか」
「惚れておりんしたからって言いなっしっ」
 ただし商売の邪魔にならないよう、言うことは聞いてもらいますよ、と言い足して、花衣は喉の奥で笑いながら、花の笑顔を見せた。


(三) 化粧の下とかんざしの光

「まったく、来たばかりだというのに。冥土の土産に、女たちの普段の姿を見たいと言ったのは、ぬしでありんすえ」
「そりゃそうだけど」
 親に散々嫌味を言われながら、吉原に通いつめた身、死んでなお吉原に入り浸る業の深い身なればこそ、とことん女たちを見尽くしたいと、芝居じみた哀切さを込めて花衣に頼み込んだのは、確かに吉太郎であった。
 花衣に、ここにいていいと言われた途端、退屈を嫌い「通」気取りで遊び歩いていた頃の気持ちが戻ってきたらしい。
 朝風呂から戻ってきた花衣へ、まずはここに隠れておりなんしと言われた簞笥の抽斗から飛び出してきて、「なあ、手助けしておくれよ」と頼み込んだ。 
 行きたいところがあれば飛んでいけば良いのだが、所詮は虫けらの姿、見つかったらあっさりと叩きつぶされかねない。かまきりは、大きさからしても目立つのだ。
 花衣と一緒なら、人目につかぬようにしてもらえるし、いざというときは庇ってもらえようと考えてのことだった。
 しつこく食い下がる吉太郎を袖の内側にとまらせた花衣は、笑いをかみ殺したような顔で、
「どれ、忘れ物でも取りに行こうかね」
と、一階の風呂場へ吉太郎を連れて行き、ついでに、女たちが思い思いに寛ぐ部屋へも足を向けた。
 そうした結果が、半死半生のかまきりと言うより他にない、今の吉太郎の姿なのである。とまっている盆の縁を、花衣が面白そうに叩いても、反応はほとんどない。
 何故なら吉太郎の、虫となって閉じぬはずの瞼の裏には、見たいと望んだ女たちの普段の姿が焼きついて離れないのであろう。
 その姿とはすなわち、風呂場で股ぐらを洗いながら客の悪口を言い合う様子、昼の光が射し込む部屋で寝そべりながら、煙草をくゆらす女たちの一様に荒れた肌、懸命に下の毛を手入れする様子、などである。
「わっちは止めんしたよ。そもそもわっちの湯上がりの顔を見て、思うところはなかったでありんすか?」
「いや、お前は若いし、充分ましな方だよ」
「そりゃア、ありがとうござんす。でもまあ、女たちは夜に行灯の明かりでぼんやり眺めるのが一番。このただでさえ暑いなかに、そんなふうにされては、くさくさしてきんすよ」
「……恥じらわないなんて、女ではないよ」
「ほんに馬鹿馬鹿しい。わっちは昼見世の支度をしいすから、そろそろしゃんとしておくんなさいな」
「女は嘘ばかりだ。いや、これでもれっきとした江戸生まれ、江戸育ち、吉原の何たるかは知ってるさ」
「あれ、吉さんの口癖だ。吉太郎の吉は吉原の吉」
「……だがお前、いくら私がこんな姿になったとて、私はお前の馴染みじゃないか。ほんの少しは惚れていただろう? 嫌ってはいなかっただろう? もちっと優しくしてはくれないのか」
 声を尖らせた吉太郎は、威嚇するように飛び立って、花衣の頭の上を二度横切った。
 花衣は眉を寄せて手で払い、歌うように呟いた。
「ああもう、言っとくことは、さっさと言うに限る。ちゃアんと揚げ代を払ってくださんしたら、虫でも下駄でも、すきまっ風でも、お客、馴染みになりんすよう」
「腹立たしい女だっ。ふん、化粧を落としたその顔なんぞ、ひどいものだよっ」
 精一杯の怒鳴り声を上げて、吉太郎は外へと飛び出して行った。
 間もなく、
「おっ、かまきりだ」
と男の声が聞こえ、すぐに「かまきり、かまきり」と、遊女見習いの子供である禿たちの歓声が上がった。
「捕まえてっ」
「ほら、そっち」
「そっちだってばっ」
 吉太郎が再び花衣のところへ戻ってきたのは、四半刻も経ち、花衣が、着替えと化粧を終えて、かつて客であった吉太郎にも見慣れた姿となった頃であった。
「随分と長い道中でありんしたなア」
「まったくひどいよ。逃げきったはいいが、私は方角だの道筋だのが、とんと駄目だというのに……」
「聞いておりましたえ。体を張って禿たちを喜ばせてくれなんしたな。お礼を言わせてくださんし」
 愛嬌たっぷりに、ゆるり、と花衣が頭を下げ、かんざしの反射光が吉太郎の目を射った。
 一瞬の困惑を隠すように、吉太郎は慌ててふんぞり返ってみせた。


(四) 嘘と野暮のこと

 昼見世はもともと訪れる人も少なく、客のつかなかった花衣であったが、夜は間違いなく忙しくなる。
 飯を済ませ、今度は夜見世に向けて鏡を覗き込んでいた花衣に、吉太郎が鏡の横からおずおずと話しかけた。
「なあ、馬鹿馬鹿しいと言わずに聞いておくれよ」
「まアた、女郎の嘘だの誠だのの話でありんすか。ぬしア、もうこの世のお人じゃアないんだ。あれこれ思いを残すのは考えものでありんすよ」
「いや、でも……なあ、私はお前にとって、好きな方の客だったろう?」
「やっぱり、その手の話。……無理を言いなさらない、安心出来るお客でありんしたよ。誰とは言いませんが、酒を飲んで暴れたり、床で嫌な振る舞いをする客でありんしたら、かまきりになったのをこれ幸いと踏み潰しいす。これで満足でござんすか」
「床での嫌な振る舞いとは一体……そんなことはいい、なあ、お前もやはり私に嘘をついていたのかい?」
「……女郎の嘘は嘘になりんせん。お前さんは誰々よりも好きで、誰々よりも嫌いなんて、いちいち真っ正直に言ってたら、客が怒りだして、すぐに折檻だ」
「そりゃそうだ。……でも、私が聞きたいのはそういうことではないのだよ」
「ほんとにもう、おかしなことばかり。ぬしアもう、客ではないはず」
「ああ、そうだが。じゃあ、たとえばいつも、一度でいいから愛宕山から江戸の町を見下ろすのが夢だと言っていたのは?」
「愛宕山? 半分は本当で、半分は嘘。わっちは故郷(くに)から、水戸街道を通ってここに売られてきたでありんすから、江戸の町というのを見たことがない。日本橋だの、両国広小路だの、みな耳で聞くばかり。一度はこの目で見てみたいと思うのが人情。そうして、愛宕山からは、江戸の町がきれえに見渡せると聞きんした」
「ならば本当の夢ではないか」
「ふふ、そうやって、さりげなく籠の鳥を嘆いていれば、誰か花衣を吉原から連れ出してやろうという奇特な御方が現れるかと」
「お前、身請けされたかったのか」
「至極当然のこと」
 呆れ返ったとばかりに花衣は大きな溜息をついた。
「吉原なんてとこは、なかなか晴れて自由の身になれるところではありんせん。第一その前に、多くの者が体を壊しいす」
「これでも江戸生まれの江戸育ちだ。そんなことは知ってるよ」
「ふん、それにしては随分と野暮ばかり。ああ、わっちの生まれた村では、かまきりを使った薬の作り方がありんした。いっそ薬になりますかえ」
 冗談か本気か計りかねて、体をこわばらせた吉太郎を、花衣は笑いながら横目で見る。
「さて夜見世が開く。もう行かなくっちゃ。そうそうさっき言い忘れていたこと。わっちが客をとっている間、どこにいてもいいと言いたいところだが、馴染みだった女が他の客と床にいるのを見るのは嫌でありんしょう? わっちもむやみやたらと覗かれるのは業腹だ。人に気をつけて、外の様子でも眺めて来なんし」
「そうするよ……」
 花衣にも分かるように、体全体で大きく頷いてみせた吉太郎だったが、実は部屋を出て行くつもりはなかった。
 それは吉原通いの「通」気取りが、一番言われたくない「野暮」という言葉を花衣に言われ、からかわれ、腹が立っていたからかもしれないが、本当は、ただ覗き見がしたいだけなのかもしれなかった。
 屏風の陰に身を隠して、じっと待つ。
 強い喉の乾きを覚えたが、花衣が盃に汲んでおいてくれた水を飲もうとは思わなかった。かまきりの体ではなく、吉太郎自身が感じる喉の乾きに違いなかった。


(五) 客

「花衣さんは間もなくいらっしゃいますから」
「いい、いい。しばらくはのんびりしていたいんだ。あの妓はこのところ売れっ子だ。他に客がいるならそちらに行ってもらっても一向に構わないよ」
「いつもお気遣いありがとうございます。まったくもって、粋の分かる旦那だ。道理で花衣さんが夢中になるわけだ」
 声がして、部屋に通されてきたのは、偶然にも、吉太郎の知っている顔であった。確か神田にある酒問屋の、吉太郎より一回りは上になろうかという主人、与兵衛である。
 吉太郎が父親の代理で出席した、遠縁の還暦を祝う宴席で、一度だけ一緒になったことがある。
 大きな体を揺らすようにやって来て、横に長めな鼻と唇を、より横に伸ばしてよく笑い、よく話し、賑やかしに呼ばれていた芸者たちを笑わせていた。
「それでは失礼いたします。花衣さんはもうすぐですから」
「わかった、わかった」
 膳を置きに来た者にも、鷹揚な笑みを見せた与兵衛だったが、襖が閉まると、しきりにそちらを気にしながら、太い指で小さな盃を持った。そしてたいして飲む様子もなく、幾度となく厚い唇に運ぶ。
 場所を変えて屏風の上に止まり、男の様子を眺めていた吉太郎は(そんなにしたら、唾で酒の嵩が増えるじゃないか)と、胸の内で悪態をついた。
 かつての自分は棚に上げて、「通人(とおりもの)」ぶった男の卑屈さが、妙に腹立たしかった。
「お待たせしんした」
 聞き慣れた声がして、吉太郎は体を屏風の反対側へと縮める。
「おお、早いくらいだ」
 入って来た花衣が与兵衛の前に座り、酌をしようとする。しかし盃には、酒がなみなみと注がれたままで、仄暗い行灯の明かりがその水面に映じていた。
「手酌でやっていてね、少し酔ったようだ。どれ、お前も一杯」
「あい」
 与兵衛の盃を受け取った花衣が、伏し目がちにそれを唇に運ぶ。
 花衣が遊女の身だと分かっているのに、「そんなもの飲むんじゃないよ」と吉太郎は小さく呟いていた。呟いてから自分の声に驚いた。
 息を詰めるようにして二人を見たが、声はごくごく小さなもので、聞こえなかったようだ。
 ほっとすると同時に、与兵衛という男が大嫌いだと思った。何がなんでも嫌いだと思った。
「今日は少し疲れているようだ。どれ、もう横になろうか」
 せっかくの「通」気取りも、馴染みの女を前にしては長く続かぬようだ。もう屏風を隔ててのべられた床へ移ろうと言う。
 (ここはそんじょそこらの岡場所じゃない。見栄と張りの吉原だ。花衣はそんな風にしていい女じゃないっ)と吉太郎は叫びたくなったが、花衣にとって、与兵衛の態度はいつものことのようだ。「あい」と応えて床入りの身支度を始め、与兵衛は早くも屏風の反対側で夜具をかぶっている。
 見慣れた光景であるはずなのに、すっかり忘れていた吉太郎は、屏風の上で二人に挟まれた形になり、慌てて花衣の側の、行灯の光のあたらぬ暗がりに身を移した。
 吉太郎に気づく様子もなく、するすると着物を整えた花衣は、与兵衛のもとへと向かい、吉太郎は小走りに畳を駆け、床の足の方へとやられた膳の上、銚子の陰に身を隠す。花衣が体を横たえるのが見える。
 与兵衛の辛うじての「通」気取りはそこまでだった。
 そそくさと身につけた物をすべて脱ぎ捨て、花衣の上に覆いかぶさる。与兵衛の体は着物の上から見るよりずっとたるんでおり、吉太郎から見える花衣は、大きく開かざるを得ない二つの足と、与兵衛の背に手を置くために伸ばされた腕一つ、その白さだけであった。
 今の吉太郎には分からないが、夜といえども暑いのか、それともたるんだ体ゆえか、与兵衛の体はすぐに汗まみれになった。
 花衣はあまり汗をかかない質だが、与兵衛の汗は、花衣の太腿、はだけた胸、首筋にも擦りつけられているのだろう。
 男の動きに合わせて揺れる花衣の白さが、汚らしく、美しかった。
 ふと、その白さが、そっと触れると白磁のように冷たくなめらかで、少し力を入れるとぬくみと柔らかさが指に吸いつくようであったのを、吉太郎は思い出す。
 まるで子供の時分に見た夢のように、遠くおぼろな記憶であった。
 だが今、銚子の陰にいる吉太郎を満たすすべての気持ちを一言で表すなら、「与兵衛という男が嫌いでたまらない」なのであった。
 醜い男を憎む気持ちを持て余し、思わず飛び立ってしまった吉太郎は、再度屏風の上に止まり、すぐ下の花衣の顔を見下ろした。
 薄目を開けながら首のあたりを男にねぶられていた花衣の目が、暗がりから滲み出たような虫の姿を捉えた。
 まっすぐに吉太郎を見る。
 しかし眉一つ動かさぬ無表情のまま、すぐに目は閉じられた。


六) 夜のあとの夜明け

 事を終えた与兵衛は、交わす言葉もそこそこに帰って行き、花衣は別の部屋で侍の客一人の相手をして、結局その晩、花衣の部屋に泊まったのは、雑穀問屋の隠居とかいう男だった。
 ずっと花衣の部屋にいた吉太郎は、隠居が花衣と一つ床に入る前に外へ出た。
 しばらく屋根を行き来した後、ひさしの上で、切れ切れの三味線(しゃみ)の音や男と女のひそめた声が、さざ波のようにそこらじゅうで震えているのを聞きながら、浅い眠りに落ちた。
 そして夢を見た。
 十四くらいのとき、しじみのみそ汁が好きで、始終女中に作らせては、飲むように食べていたことや、おととし、弟の根付を勝手の自分の物にしていたら、引き換えだと言われて文鎮を取られたことなど、とりとめのない記憶の夢、また、顔見知りの木戸番の老夫婦が実は天竺の秘術遣いで、くるりくるりと回るたびに、小判が辺りに撒き散らされる夢なども見た。
 どうでもいい夢ばかりだった。
 明け方、花衣のところへ戻ると、花衣は隠居から体を離し、夜具にあごを埋めるようにして眠っていた。
 吉太郎は夜具の縁にとまり、花衣の左頬の目立つほくろに、そろりと鎌の先を触れた。
 かつて人の指で触れたときのような感触は、もはや今の吉太郎には感じられなかった。
 だが、もう一度、花衣を起こさぬようほくろをつついた。
 自分が抱えて持て余しそうになっている気持ちが寂寥だとは、そのときの吉太郎には気づけないでいた。


(七) 別れの、そのあと

 翌朝、朝寝から起きた花衣に、昨夜のことなど素知らぬ顔で、吉太郎は胸を張ってみせた。
「おい花衣、ここに置いてもらうと決めたからには、何かお前の頼みを一つ聞いてやろう」
「頼み?」
「たかが虫けらの身と思うな。この体だからこそ出来ることもある」
 大威張りの口ぶりだ。
 花衣も昨夜のことを蒸し返す様子は微塵も見せず、唇に手をあてて目をしばたたかせる。
「良いことを思いつきんした。わっちはともかく、かまきりが話し始めたら、たいていの者は驚きんす。そこで相談。わっちのめぼしいお客に、観音様のお告げのふりでもして、花衣を身請けするよう言っておくんなまし」
「それは嫌だ」
「どうして」
「お前が他の男のものになる手伝いなどするものか」
「なんとまア……」
 思わず花衣は絶句する。
「まったく業腹だ。人は死んだら仏になるんじゃなかったのかえ」
「残念。私はまだ成仏していないのだよ。他の頼みにしておくれ」
「呆れたお人。……じゃあ、ここの楼主(あるじ)夫婦と遣手婆の奴を、少しばかり脅かしてやってくれなんし。最近、ちょっとばかり客の訪れが減ったもので、女たちの扱いが随分ひどくなりんした。客の見世の外での都合がいちいち身にふりかかっちゃア、たまらない」
「そうか、そうか。地獄に堕ちるとでも脅かせばいいのかね」
「亡八(ぼうはち)、鬼と罵られる身が、後の世を怖がっているとも思えないが、ここはぬしの芝居に託しいす。声色はかえておくんなましよ」
「よしきた。今日、明日は無理かもしれないが、とびきりの頃合を見計らって、やってやろうじゃないか」
「あ、あと、二軒隣の亀井屋も、たいそうきつい折檻をするそうな。そっちもついでに頼めますかえ」
「ああ、ついでだ」
「ありがとうござんす。ふふ、よっ、さすがは江戸生まれの江戸育ちだ」
「見え透いた世辞を。だがこれで、お前は私を叩き出せなくなるな」
「あい」
 しかし、花衣と吉太郎の暮らしは、それから十日ばかりで終わりを告げた。
 頭が割れるように痛いと言って横になった花衣が、そのまま息を引き取ったのだ。
 吉原の女は無理ばかりの勤めが祟り、病んで亡くなる者が多い。花衣もその一人になってしまった。
 吉太郎が、気晴らしに外をふらついていた僅かな間のことであった。
 戻ってきて花衣の身に何が起こったのかを知った吉太郎は、その夜、花衣の名を借りて、佐田屋と亀井屋の主立った面々を脅かした。
 騒ぎが起こったのを一通り見届けた後は、夜明けを待って、花衣のいた部屋の格子窓から、愛宕山を目指し、羽をはばたかせた。
 愛宕山があるのはおおよそ南西だというのに、北の空を睨みつけ、勢いよく飛んで行った。

                         了











最終編集日時:2010年12月14日 13時52分

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10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
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