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隠密廻り同心・磯貝真六 「お多勢八幡」
[【時代小説発掘】]
2010年6月27日 20時14分の記事


【時代小説発掘】
隠密廻り同心・磯貝真六 「お多勢八幡」
佐藤 高市(さとう たかいち)



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概:
 隠密廻り同心・磯貝真六のシリーズである。幕末の江戸の治安を守る隠密廻りたちの痛快で粋な物語。

プロフィール: 
佐藤 高市(さとう たかいち)    
酉年でも喧嘩鳥の生まれ年で単純明快 東京都生まれ 
小説「谷中物語」で茨城文学賞受賞
江戸を舞台の小説「入梅」が韓国の常緑樹文学に翻訳掲載
江戸の歴史研究会会員  


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【時代小説発掘】
隠密廻り同心・磯貝真六 「お多勢八幡」
佐藤 高市(さとう たかいち)



 (一)

 磯貝真六は、上野の時の鐘を水茶屋で聞いていた。梅雨の合間の晴れ間に、武士も町人も用足しに忙しかった日が暮れようとしていた。
 そこに、大工の棟梁の喜助が通りかかった。
「磯貝様、お久し振りでございます」
 磯貝真六は、右手を上げて、喜助を水茶屋の縁台に招いた。
 喜助は、麦湯を頼んだ。そして、今建築中の寺の本堂について話しをしていた。

「さる藩主が、母親の供養のために、大借金をして、本堂の新築のために、寺に供養したのですが…、ところが、本堂の建築については、これまで納めた金子のことで、もめていたんです」
「ほぉ、もめているのか、大方、本堂ともなると注文が多いのではないか」
 磯貝は、その藩がどこであるのか見当を付けていた。
「そうなんです。本堂の屋根や軒の材料についても注文が多いんです。その藩のお殿様と住職との間で意見が食い違って、大変だったんですよ。それでも、ようやく仕上げまで漕ぎ着けました」

 棟梁の喜助は、浅草の観音堂にも携わった職人で、大工の腕は浅草界隈でも知られていた。
 宮大工として、さしがねや墨壺を使う規矩術(きくじゅつ)の名工として、喜助の名声は、高まっていた。
 喜助の仕事は空くことがなかった。次の仕事は、四つ木村の八幡神社の普請を頼まれていた。

 女が、麦湯を持ってきた。喜助は、「ありがとよ」と言うと、乾いた咽喉に流し込んだ。口に入れた途端に、麦湯の甘さに驚いた喜助は、思わず水茶屋の女を見た。女も喜助の驚いた顔を見て笑った。
「棟梁、私の村にある八幡様の普請をしてくださるそうで、ありがとうございます」
「そうか、お前さんは四つ木の在かい?」
 女は、頷くと顔を赤くして奥に引っ込んだ。
「棟梁は、有名だな。今度は、四つ木の八幡様かい?」
「へぇ、少しばかり難しい仕事で」
「棟梁は、いい仕事をしている。神も仏も喜んでいるさ。仕事で功徳を積んで、うらやましいぜ」
 磯貝真六は、世間話をしながら、喜助が仕事で知った諸藩の動静や寺の僧侶について聞いていた。

 磯貝は、水茶屋の前の通りにいる甚吉と目が合った。
「棟梁、今の仕事が終わったら、屋敷に寄ってはくれないか。雨漏りがひどくて、屋根は甚吉が直したんだが、天井板が長年の雨漏りで相当傷んでいる。治平が、こぼしているんだよ」
 磯貝は、そう言うと二人分の茶代の鳥目をおいて、ゆっくりと先に水茶屋を出た。
「へぇ。今の仕事を終えましたら、磯貝様のお屋敷の修繕に参ります」
 喜助は、そう言って頭を下げた。磯貝は、右手を上げて立ち去った。磯貝の後ろに甚吉が従った。

 磯貝真六の粋な着こなしや鬢付け油の香りに、匂うような色気に町娘や年配の女たちまで、思わず声を出すほどであった。
 江戸市中は、度々来航する黒船に怯えていた。騒然として世の中で、強盗や付け火もあった。喜助は、磯貝真六が江戸の治安を守るために、日夜お勤めを果たしていることを知っていた。
 自分が知った大名や寺社の噂を、磯貝のために一部始終を話すことが、江戸の治安につながると喜助は思っていた。

 西国からくる浪人たちが、日増しに増えていることは、江戸っ子たちには、気に入らなかった。西国の言葉自体を聞くと、虫酸が走った。
「どうぞ、甘酒です」
 喜助は、ふいに声を掛けられた。それは、先ほど麦湯を持ってきた水茶屋の女だった。
「頼んではいないが…」
「はい、これは、私からです。棟梁が八幡様の社をこさえてくれるので、うれしくて」
 女は、そう言うと恥ずかしそうにして、店の奥に小走りに消えた。

 喜助は、甘酒が好物であった。仕事で疲れきった体で湯に入り、冷えた甘酒を飲むと生気が戻るのだった。
「ありがとよ」
 喜助は、縁台に鳥目を置いた。背中で、御代はいいんですよと言う女の声がしたが、喜助は右手を横に振り、仕事の帰りの人たちが混雑する通りに出た。
 喜助に甘酒を持ってきた女は、お多勢と言って、少し経つと美人で浮世絵にも描かれるほどの女であった。

 喜助は、立正安国寺の本堂の仕上げをするために、泊まり込みで職人たちの先頭に立って働いた。炎暑の中、日焼けした職人たちは、握り飯を頬張りながら、材木を刻んでいた。
 依頼のあった寺の本堂は、見事なまでの出来であった。棟梁喜助が得意としていた本堂の軒の反りは、まるで西方極楽浄土を指し示すかのような美しさであった。
 本堂の寄進を申し出た大名の数々の注文に、本寺の住職も困り果てたが、超えた出費の分を裕福な商人の檀家の協力で、ようやく支払いに間に合わせたのだった。

 盛大な落慶法要の際には、本堂のあまりの美しさに、寄進を申し出た大名も寺の本山から出席した上人も上機嫌であった。
「まるで、鶴がはばたくようであるな。いやぁ、見事である。母上も成仏するであろう。棟梁の喜助に褒美をとらせ」
 殿様は、側近にそう言い、上人の読経に手を合わせた。
 喜助は、宮大工として、出来る限りの技巧を駆使して、心を尽くして仕上げを行ったことに満足していた。

 本堂の軒の反り具合にもまるで鶴の羽根を意識して、見る人たちにやわらかさと共に躍動感を感じさせるのだった。太陽の動きに美しさを変える本堂に、人は一瞬、極楽の世界を見出すのだった。
 喜助は、自分の描いた寺の本堂が、今こうして、褒めたたえられることがうれしかった。 喜助は、規矩術を使って、このような建築物を作ることが出来た。規矩術は、宮大工の親方に弟子入りをして、さしがねについて学んだ。
 さしがねは、宮大工の魂のようなものであった。これを駆使することによって、五重の塔をも造ることが出来る。

 親方から、厳しくさしがねの使い方を叩き込まれたことで、このような壮麗な建築物を構築することが可能になった。
 亡くなった親方の墓参りをして、次の仕事に取りかかろうと喜助は決めていた。 一緒に作業をした屋根屋の甚吉が、喜助を磯貝真六の屋敷に誘った。喜助は、依頼されていた屋敷の傷み具合も見たかったので、酒を持って出かけることにした。

 磯貝家の屋敷は、大川の掘割にある八丁堀にあった。
 町方与力や同心の住む組屋敷は、松平越中守の大名屋敷あたりに集まっていて、北町奉行所のある呉服橋御門から東に下がり、南町奉行所のある数寄屋橋御門からもそれほど遠くない場所にあった。
 磯貝の屋敷は、一般の同心の屋敷よりも敷地も広く、門構えから家屋の造りについても、格式を整えていた。
 他の与力や同心が地所の一部を儒者や医者などに貸していたが、磯貝家も先々代より、拝領地に長屋を造り、驚くことに商人などの町人にも住むことを許していた。

 儒者や医師以外に敷地を貸すことははばかれたが、磯貝家は奉行に届け出をして許しを得ていたのである。
 先々代から拝領地に長屋を造り、町人にも貸していたのは、実は、江戸市中の探索のためであった。
 江戸市中の動向を知るためには、そこで職を得て生活をする者たちの声を聞くことが大切なことであった。
 そうした知らせから、江戸市中を揺るがす犯罪を知ることもあった。磯貝はかつて、幕府転覆をねらう怪情報を得て動いたこともあった。

 磯貝真六の代になると、市中探索を行う町奉行直々の忍びの者までそこに住まわせていた。
 勝手口から、小者の治平が顔を出した。磯貝真六は、ちょうど仏間で勤行をしていた。甚吉と喜助は、勤行が終わるまで、池のある庭の縁台で待つことにした。
 治平が、麦湯を持ってきた。喜助は、麦湯を飲むと、ふと、谷中の水茶屋の女を思い出した。明日は、久々の休みであったので、女に会いに行くことを喜助は決めていた。

 喜助は、八幡神社の図面を考えていた。喜助は、こうして好きな煙草を吸っているときも、社の絵を思い描いていた。
 初秋の庭には、菊が良く似合っていた。錦鯉の金色や紅、白が陽に映し出され、松の枝が池に張り出している。黒猫が雀を追って庭を駆けている。

 喜助は、甚吉と八幡神社の瓦について、これまでにないものと考えていた。大風にも飛ばされることのない、丈夫な瓦を乗せるためには、屋根の造りそのものもしっかりとしなくてはならなかった。
 家の中から、磯貝真六の声がした。二人は、雨漏りの様子を見るために、屋敷に入っていく。
 屋根は既に、甚吉が修理をしていので、雨漏り後が残る天井板をかえることが必要であった。
 喜助は、明日、磯貝の屋敷の修理に必要な材木を材木問屋の白木屋に頼むことにした。

「棟梁、屋敷の普請の届け出は済んでいる。忙しいのに悪いなぁ。今日はゆっくりと飯でも食べてくれ。治平が天ぷらを揚げる支度をしている」
 甚吉は、磯貝真六の配下であったので、屋敷には頻繁に出入りをしていた。甚吉は、治平の手伝いをして、ちろりで燗酒を用意する。
 女手のない家で、男たちは楽しそうに夕餉の支度をする。
 磯貝真六は、本藍染の浴衣を着て、現われた。湯上がりで上気した顔をほころばせて、先祖が造った身分や屋敷も自分の代で終わってしまうことに触れて、屋敷の新築が出来なかったことを笑い飛ばした。

「お上にいただいたこの役を、全うしてこそ、ご先祖は喜ぶであろう。黒船が来ようが、上方から浪人が集まろうが、正道を通して、江戸を守っていくのだ」
 磯貝真六は、配下の者たちをあらためて見た。そして、時代が動こうとしていることは知っていた磯貝は、行き詰まりを顕にしている幕藩体制の不安を払うかのようにこの時を大事にしたかった。
「棟梁の造った立正安国寺の本堂は、江戸市中で評判になっている。願い主の大名が金銭を集めるのに大変であったと聞いておるが、さぞ、喜んでいるであろう」

 喜助は、うれしかった。そして、夕餉を終えて、磯貝の屋敷の補修に使う材料の見当をつけて、屋敷を後にした。今日の内に、白木屋に材料を注文するためであった。後は、腕のいい大工に頼むことにした。

 翌日になって、岡っ引きの稲荷親分が姿を見せた。
「神田川で遺体が見つかりまして、それが変なんで…」
「どうした?」
 磯貝真六は、神田川と聞いて、昌平橋近くの通っていた道場付近を思い出していた。
「仏さんは、女なんですが。刀で背中から斬られているんです。死体の検分をしたんですが、仏さんは谷中の妙法寺の門前にある水茶屋の女なんです。浮世絵にも描かれた美人なんです」
「その店には、行ったことがある。そうだ、喜助と三月前に茶を飲んだことがある」
 磯貝真六の記憶は正しかった。あの時の喜助にうれしそうに話しかける女の姿が、思い出されるのだった。

 磯貝は、仏がその女であるような気がした。甚吉は、磯貝の指示で探索をするために姿を消した。
 磯貝真六は、奉行から隠密廻りとして、江戸市中の探索を命じられていた。
隠密廻り同心は、町奉行からの密命を受けて江戸市中を取り締まる。同心の中でも別格であり、与力からも一目置かれていた。
 幼少より父から隠密廻りとしての厳しい修行を受け、奉行所に見習として上がり、町奉行から直接教え導かれていた。

 磯貝真六は、父親から隠密廻り同心を引き継いで、五年が経った。父親の磯貝孫衛門は、既に他界していた。
 鋳掛屋の三五郎や屋根屋の甚吉、猿若町の芝居茶屋を営む八千代は、磯貝の務めを手伝う者たちであった。そして、岡っ引きには、磯貝真六を慕う稲荷親分が市中を駆け回っていた。
 幕府の安泰をはかるためには、磯貝のような隠密廻りがいて、時には、幕閣から探索の命が直接下されることもあった。

 時は、徳川幕府に対する不穏な動きをする薩摩藩が長州と結び、幕府を揺るがす影が西から迫っていた。
 磯貝は、夜の四ツ(午後十時頃)に布団に入った。しばらく、水茶屋の女を斬った下手人の見当をつけていた。
 静かな夜であったが、明日から忙しくなることを思うと、磯貝真六は、久し振りに寝付かれなかった。


(二)
 
 明け方、神田大明神下の番太郎の善治は眠い目をこすりながら、町木戸を開けた。すぐに鋳掛屋の三五郎が、天秤棒を担いで現われた。
「三五郎さん、早いんだね。今日は、どの辺りに行かれるんですかい?」
「今日は、不忍池の弁財天様辺りよ。仕事帰りにお参りをして、銭が儲かれば゛、ちょくら料理屋で一杯やるか」
 鋳掛屋の三五郎は、磯貝真六の手の者であり、昨日、神田川で見つかった水死体の探索であった。

 三五郎は、穴の空いた鍋をしろめを火に溶かして、穴をふさいでいく。その時に、殺しの下手人を探るために、おかみさんたちから話しを聞くのだった。
 今までに、女たちの井戸端での話しから、下手人を上げる糸口を見つけることも出来た。
 磯貝の手足と成って働く甚吉や三五郎もまた伊賀の忍びであった。お城にも殿様を守るお庭番がいて、隠密同心の磯貝真六のもとにも、お庭番からの文が届くのだった。

 三五郎は、谷中の妙法寺に近い火除け地で、火を起こす支度を始めた。しろめを溶かすためのふいごを用意した。
「三五郎さん、精が出ますね」
 声を掛けてきたのは、浅草寺近くの猿若町で芝居茶屋を営む八千代であった。
「八千代の姉さんも早いね」
「磯貝様からのつなぎがあったものだから、この殺しは、女の私の方が、調べやすいからね」
 八千代も磯貝真六の手の者だった。八千代は子どもの頃、旅芸人の一座にいて、一座が大川の川縁で芝居小屋を掛けていたときだった。

 深夜、付け火で小屋はまたたく間に燃え、八千代だけが生き残った。
 子ども心に覚えていたのは、厠に立ったときに、闇の中で光る狐火を見た。そして、次には紅い炎に包まれた芝居小屋が目の前にあった。
「お狐さんが、あたしを守ってくれた。そう、信じている」
 八千代は、今もそう思っているのだった。
 その頃、江戸市中では付け火がよくあった。孤児になった八千代に手を差し伸べたのは、磯貝真六の父であった。知己にしていた火付盗賊改めからの依頼で、八千代の里親を探すことになった。

 幸いにして、猿若町に子どものいない芝居茶屋をやっていた気のいい夫婦に貰われることになった。
 磯貝真六の父は、八千代を可愛がり、手土産を持って、猿若町に新しく建てられた芝居茶屋に出かけていった。芝居小屋の夫婦は、八千代を可愛がった。そして、芝居の楽しさを八千代に教えたのだった。その育ての親たちも八千代の成長を祈りながら、流行病で続いて亡くなってしまった。

 八千代は、亡くなった両親のように芝居が好きでたまらず、茶屋を切り盛りしながら、芝居小屋で一座を持つまでになっていた。
「神田川の殺しは、かわいそうだね。磯貝様は、殺された女の人に見当をつけているようでしたよ」
 三五郎は、話しをしながら、鋳掛の支度を終えていた。後は、長屋や武家の屋敷に注文を取るだけだった。
 三五郎と八千代は、それぞれのやり方で水茶屋の殺された娘の身辺を探った。

 そして、磯貝の推察のとおり、殺された娘は、谷中の水茶屋で働いていた娘で、磯貝真六と喜助に茶を出したお多勢であった。
 お多勢は、わずかの間に、浮世絵師にも、描かれるほどの美人として、江戸で有名になっていた。
 昼過ぎに、棟梁の喜助がその水茶屋を訪れた。喜助は、甘酒を頼んだ。朝から、白木屋で、磯貝真六の屋敷の修繕に使う材料を選んでいた。

 喜助の仕事着は、汗を吸っていて重かった。こういうときは、大黒湯に一目散に駆け付けるはずであった。
 喜助は、もう一度、お多勢に会いたかった。その頃、奉行所からの知らせで、お多勢が殺されたことを店の主人は知るところになった。店の女たちは、悲しみの中にいた。
 喜助は、水茶屋で働く人を見回しながら、お多勢を探していた。四十過ぎまで、独り身でとおした喜助にとって、店の者にお多勢のことを尋ねることはできなかった。

 喜助は、女を前にすると、赤面して言葉が詰まってしまう。そのため、女と距離をおいていたのだった。
 喜助は、店を出た。急に雨が降ってきた。雨は、音を立てて激しくなった。喜助は、雨宿りのため、寺の境内に駆け込んだ。稲光がして、その後で、ドーンと雷が落ちた。
 喜助は、滝のような雨の向こうに、傘を差す女を目にした。それは、山門に面した通りで、横顔しか見えなかったが、それは水茶屋のお多勢に似ていた。

 女が通り過ぎると、その後をずぶ濡れになった役人たちが続いて、ふんどし姿の男たちにかつがれた早桶も見えた。
 喜助は、その時手を合わしていた。早桶には、お多勢の遺体が納められていた。奉行所で検死を終えて、実家のある四つ木の在に運ばれるところであった。
 喜助は、それを知らなかった。だが、手を合わせて、早桶の仏様が成仏するようにと思いを込めていた。

 三五郎と八千代は、夕刻になるまで、お多勢のことを調べ上げていた。八千代は、お多勢が、浮世絵にも描かれるほどに美人で有名になったことで、ある男にしつこく付きまとわれていたことを知った。
 二人は、それぞれ調べ上げたことについて、磯貝真六に報告をする。
「ご苦労である。谷中水茶屋のお多勢か……、美人で評判ということだが、しつこく付きまとっていたというのは、武家の者か?」
「はぁ、蛭間血之介という者で、浪人でございます。今、薩摩藩の下屋敷に逃げ込んでいると思われます」
 三五郎は、調べ上げたことの子細を述べた。 

 八千代も水茶屋の女たちから、蛭間が水茶屋に日参していたことや、お多勢の仮住まい先まで押しかけていたことを述べた。
「しつこい男で、お多勢さんは、困っていたそうです。蛭間は、金遣いが荒くて、吉原にもたびたび遊びに行っていたようです」
 八千代は、茶屋の女たちから聞いていたことを磯貝に申し上げた。
「実は、その藩邸には、すでに甚吉が内偵を始めている。三五郎、八千代、ご苦労であった。これは、礼である」
 磯貝は、そう言って、二人に金子の入った包みを渡した。

 蛭間の逃げ込んだ藩邸は、大藩の薩摩下屋敷であった。藩邸には、奉行所は手を出せなかった。
 磯貝真六は、仏壇に向かって経を上げ始めた。お多勢のために、供養の回向を上げたのだった。
 晩方に、稲荷親分が、谷中の水茶屋の主人から聞き書きしたことやお多勢の検死について、磯貝に詳細を述べた。

「旦那様、斬殺されたお多勢は、四つ木の在でして、父が甚助で、母がキヨのひとり娘でございますが、実は、お多勢は捨て子らしいんです」
 稲荷親分は、早桶とともに四つ木村に行った。そして、親に事の詳細を話した。両親は、その場に崩れるように座りこんだ。
 雷鳴がとどろいて、滝のような雨に打たれた稲荷たちは、ずぶ濡れのまま、そこに立ちつくしていた。
 黒雲は、すでに下総方面に去っていたが、小金原あたりで稲光が見えていた。

「娘は、この八幡様の本殿に近い場所に捨てられていたんです。子のない夫婦に、八幡大菩薩が授けて下さったと喜んで育てさせていただきました。いい子で、いつも茶屋の給金を貯めては、持ってきてくれたんです。こんなことって、あるんでしょうか。」
 母のキヨが、仏に手を合わせながら、稲荷の足元にうずくまった。
「仏様を前にして、お多勢の産土神が八幡様であることを聞きました。こんなことってあるんですかい。かわいそうで…」
 稲荷は、目を赤くして磯貝を見ていた。

「そうか、お多勢の産土神が八幡大菩薩であるので、喜助が八幡神社の社殿を建立することに、お多勢は、格別の思いを抱いていたのだな」
 磯貝は、うれしそうに喜助と話していたお多勢を思い出していた。
 産土神の八幡神は、現世と来世に渡って、お多勢を守っていく。お多勢を捨てた実の親の書付には、子の産まれた日と産土神の八幡神が書かれていた。そして、子を捨てるにいたった理由があった。

 稲荷は、その書付を読み、子を思う親の心が、書付からは読み取ることが出来た。
 磯貝真六は、稲荷の話をうなずきながら聞いていた。そして、疲れ切った稲荷のために、夏野菜と鳥肉を入れた雑炊を治平に作らせた。
 稲荷は、四つ木から駆け付けたために、腹が減っていた。雑炊をおかわりして、ようやく一息つくことができた。
 夜半になって、甚吉も磯貝の屋敷の勝手口から姿を見せた。
 磯貝は、遅くまで、甚吉と稲荷に指図をする。


(三)
 
「薩摩が関わっている確証はまだ掴めていないが、幕閣にはこのことを申し上げた。この蛭間血之介という浪人を薩摩藩邸から、外に出れば捕縛もできるのだが」
 磯貝は、薩摩藩邸に逃げ込んだ蛭間を捕縛するため、考えをめぐらした。その時、甚吉が声を発した。
「ここは、八千代に演じて貰いましょう。いかに殺人鬼といっても、惚れた女を手に掛けたことに後ろめたさもあるはず。そのおびえた心を利用しましょう。若、後は任せてください」

 甚吉は、磯貝真六にそう言って、稲荷や八千代の力を借りて、蛭間を藩邸の外で、捕縛する筋書きを作っていった。甚吉は、忍びとして徳川のために働き、代代の服部半蔵の名を継ぐことを願っていた。 
 磯貝真六は、甚吉を連れて一年の間、諸国を旅して修業をしたことがあった。武士の一分を守るためには、剣の道を極めなければならない。早暁の山の頂で読経したり、月の光を全身に受けて、神通力を己がものとしようとした。かたわらには、いつも甚吉がいた。

 磯貝真六は、自ら課した剣の修業中に、初めて人を斬った。相手は、六十六部を殺して、金を盗んだ野武士であった。
 そして、峻厳な山々を越えて、ようやく人家を見て喜ぶ磯貝と甚吉は、村人たちに迎えられ、どぶろくを振る舞われた。山間の村落では、村人たちが狭い田んぼにわずかな畑と炭焼きでほそぼそと暮らしを立てていた。
 二人は、この修業で、剣だけではなく、貧しい村人たちと交わることで、人の心を学ぶことができたのだった。

 磯貝真六は、修業の終わりに水戸の和尚の本流示現流に対することになった。和尚は、普段の柔和な顔から、鬼のような赤ら顔になって、腹の底からしぼりだすような声を上げた。その姿は、まるで狂人のようであった。 その時、磯貝は、相手の殺気を心で見極めることができた。

 磯貝は、すさまじい殺気を感じていた。 磯貝真六は、八相の構えを大上段にして、右手首をしぼるようにして剣を持ち、左足を前にしていた。
 そして、相手が打って来ると同時に、左足に体重をかけ、瞬時に右足を踏み込んで、身体をひねって相手をけさ斬りにする。
 これが、磯貝真六が編み出した『八相・大上段三日月の剣』だった。この剣法は、どんな相手にも柔軟に対応ができた。
 
 打ち込んだ和尚は、真剣であったら自ら絶命したことを知った。目の前の相手が消えた瞬間に、相手の刀が音を立てて斬り下ろしてきた。水戸の和尚は、自分の禿げ頭をたたきながら、「お見事!」と言った。

 こうして、磯貝真六は、江戸を守るための必殺の剣を編み出したのだった。
 棟梁の喜助は、その日の夕刻から熱を出した。寒気がして、湯屋に行くこともやめて早々に布団に入った。
 これまでの仕事の疲れが出たのであろうか、起き上がって厠に行くことも出来なかった。その時、材木問屋の白木屋の丁稚が、喜助の頼んだ材木が入ったことを知らせに来た。

 喜助の病状に驚いた丁稚は、長屋の住人に助けを求めた。おかみさんたちが、手拭を濡らして喜助の額にあてたり、厚い掛布団を掛ける。
 喜助は、今日見た水茶屋の女の白い横顔を熱にうなされながら、思い返していた。何故、女の後から早桶が続いていたのか。その時、喜助は、女がこの世の者でないと感じた。

 熱のせいか、いろいろな夢を見た。朱塗りの伽藍が見えて、白い道がそこに通じていた。その道を白装束の亡者たちが背を丸めて歩いていく。
 喜助は、これが死の世界なのかと思った。どこかに水茶屋の女がいるような気がした。喜助は、八幡神社のことが気になり、元来た道を戻ろうとしたときに目が覚めた。

 長屋のおかみさんたちの顔があった。
「棟梁が、目をさましたよ。良かったよ。このまま、御陀仏かと心配したんだよ」
 隣に住む梅婆さんが、喜助の顔をのぞき込む。
 おかみさんたちは、粥を作る。早暁の江戸市中に、棒手振りたちのにぎやかな声が聞こえ始めていた。

 その頃、稲荷親分は、高輪の袖ケ浦に面した薩摩下屋敷を見張っていた。屋敷の前の通りでは、三五郎が鍋釜の鋳掛を取り扱う用意をしていた。
 この辺りは、大名屋敷や広大な畑が続いていた。三五郎は、屋敷の勝手口を気にしていた。初秋であったが、夏のような日差しがあって、三五郎は、手拭をかぶった。
 時折、海からの風が吹いてきた。大名屋敷からは、使用人たちが、鍋や釜を持ってくる。三五郎の露天の店には、それらが積まれていった。

 三五郎は、薩摩下屋敷を見張るために、店を広げたが、思わぬ商売繁盛に困っていた。その時、八千代が姿を見せた。いよいよ、甚吉が考えた筋書きが始まった。
 八千代は、お多勢に似せた化粧をしていた。そして、浮世絵に描かれたお多勢の着物姿で、薩摩下屋敷の門口に回った。

 門口の脇の戸を開けて、中に居る者へ声を掛けた。門番の小者が顔を見せた。八千代は、文とお多勢の描かれた浮世絵を門番に託した。
 八千代は、その場を立ち去り、水菓子売りに化けた稲荷親分が、往来から門を窺っていた。
 八千代が門番に託した文には、七つ刻(午後四時頃)に御殿山で待っていることが書かれていた。

 殺したはずのお多勢から書付を受け取った蛭間血之介は、必ず御殿山に姿を見せるはずであった。
 磯貝真六は、御殿山の桜の木々の向こうにある海を見ていた。開国を迫られている日本へ、あの海の向こうから異国の大船が押し寄せてくる。
 自分は、この時代の狭間で、江戸の平和を保たなければならない。磯貝は、外様である大藩薩摩の動きが読めなかった。それは幕閣も同じであった。

 朝廷と関係の深い薩摩藩の次の手は何か、磯貝は沖の白帆を見ていた。そして、唇をかみしめるのだった。
 甚吉は、蛭間の剣に暗黒の殺傷剣を見ていた。お多勢に恋焦がれて、断られた腹いせに、後ろから、けさがけに斬りつけた男の剣は、薩摩示現流であった。
 そのため、磯貝真六といくつもの場面について考えをめぐらし、抜かりのないものにしていた。

 磯貝もまた、蛭間血之介がひとりで御殿山にくるとは思えなかった。密命を下されて江戸にくだってきた蛭間は、慎重に動くはずであった。
 その頃、喜助は床から離れて、井戸端で水を汲み、桶に入れて顔や体を拭いた。赤ん坊の泣き声が聞こえた。喜助は、生きていることの喜びを感じていた。
 そして、好きな煙草をつけて、ひと息ついた。喜助は、四つ木の八幡様の本殿を頭に描いていた。自分に出来ることは、さしがねを使って建物を作ることだと思った。

 喜助は、立正安国寺の本堂を造ったことで、慢心していたのではないかと自分に問いかけていた。
 喜助が得意な本堂の軒の反りは、自分でも見惚れるほどの出来栄えであった。人は西方極楽浄土を見ているようだと喜助を褒めたたえた。
 棟梁の喜助は、自身の心を見ることが出来て、人として一皮むけた。仕事を終えた長屋の連中が、冗談をいいながら、湯屋に行く。
「棟梁、秋刀魚を焼いてあげるよ。その後は、お灸をつけてあげるから」
「悪いな、ありがとよ」
 隣に住む梅婆さんが、縁台に座っている喜助に声をかけてきた。喜助は、笑って答えた。

 御殿山には、人の気配がなかった。
 蛭間血之介は、二人の侍とともに、御殿山の坂にさしかかった。
「ふざけたとう。俺の殺傷剣で斬ったち、手打ちにした水茶屋の女が、生きているはずはなかとう」
 蛭間は、そう言って笑った。浪人を二人も連れているので、威勢がよかった。浪人たちは、大名屋敷で行われた賭博で知り合ったのだった。

 食い詰めていた浪人たちに、蛭間は金を与え、御殿山に連れてきたのだった。やくざとの喧嘩だと二人は、蛭間から聞いていた。
 浪人たちは、金もなく、裕福な商家に押し入ろうと、昨晩も相談していた。不安な世情であった。
 蛭間は、江戸市中の探索を命じられた薩摩からの隠密であった。薩摩藩は、江戸市中の撹乱を企てていた。甚吉が吉原で調べ上げたことであった。
 蛭間は、女好きで、たびたび吉原の馴染みの女に、自慢気に話していたのだった。

「そうか、うかつな奴である。それならば、こちらで動かずとも、蛭間は成敗されるであろう」
 磯貝真六は、そう読んでいた。
 蛭間血之介は、自分の意に反したお多勢に殺意を持った。国元には妻子がいたが、元々粗暴な一面があり、江戸に来てから、大酒をあおるようになった。
 御殿山の坂の途中であった。ふいに、蛭間の後ろを歩いていた浪人のひとりが、短刀で蛭間の脇腹を刺した。

 鮮血が蛭間の着物を染めた。振り向きざまに、示現流の遣い手の蛭間が、刀を抜いて自分を刺した男を斬った。
 斬られた男は、その場に倒れた。蛭間は、もうひとりの男をにらみつけたが、鮮血は足袋を朱に染め、蛭間の足元はふらついていた。 

 相手が、その隙に刀を打ち込んできた。瞬時に、蛭間は奇声を上げて、最後の太刀を男に浴びせかけるのだった。相打ちであった。お互いに示現流であったが、蛭間の腕は相手の男以上であり、男はそこに倒れ込んだ。
 蛭間は、そこに立っていたが、もはや一歩足りとも動くことは出来なかった。
 御殿山の桜の大木の下に磯貝真六はいた。

 磯貝は、斬り合いに気付いて、坂の途中にいた蛭間に近寄っていった。
 甚吉と稲荷親分も姿を見せた。
「蛭間血之介、谷中水茶屋のお多勢殺しの下手人であるな」
 磯貝真六の問いに、蛭間は答えなかった。
「若、もうすでに絶命しています」
 甚吉は、膝から崩れ落ちた蛭間の息を確かめた。
「薩摩藩に先を越されたな。蛭間を斬った男たちは、おそらく、隠密であろう。このことは、幕閣に早速申し上げる。甚吉、子細はここにあるので、頼むぞ」
 
 甚吉は、御殿山の坂を駆けくだった。右手には海があり、波間は穏やかであった。薩摩藩の下屋敷に近い、畑地にさしかかると三人の虚無僧が道をふさいでいた。
 そのうちのひとりが短刀を投げ付ける仕草が見えた。
 そこに、三五郎の弓矢が短刀を投げ付けようとする男の右肩に刺さった。
 磯貝真六は、このことを察知していた。農夫や物売りに化けていた磯貝の手の者が、虚無僧を遠巻きにしていた。

 甚吉は、虚無僧に斬りかかっていった。窮地に追い込まれた虚無僧たちは、ふところから出した毒を口に含んだ。
 それらは、一瞬のことであった。稲荷親分は、手下に命じて、蛭間を含む六人の遺体を検分するために近くの寺に運んだ。

 御殿山の事件は、江戸庶民が知ることはなかった。老中は、磯貝の知らせによりその日のうちに、事を内密に済ませようと裁断した。
 老中は、大藩の薩摩藩の関係する者たちが江戸城にいて、将軍の側用人や大奥にも薩摩の息がかかっている者たちがいた。
 老中は、より子細な探索を隠密廻りたちに託したが、巨大になり過ぎた薩摩は、すでに幕閣では、抑えつけることができなかった。
 世の先を見据えていた薩摩は、次々に策を講じてくるはずであった。磯貝真六は、老中の命により、引き続き薩摩藩の動向をうかがう。


(四)

 すっかり病が癒えた喜助が、四つ木の八幡神社の普請にかかることにして、四つ木村に姿を見せた。
 江戸で評判になっている宮大工の棟梁がくることで、日ごろ閑散としていた村には、人が集まっていた。
 喜助は、四つ木村に入ると、お多勢の墓に手を合わせた。そして、お多勢の産土神が八幡大菩薩であるので、あらためて八幡神社の社殿を建立することを墓前に誓った。

 稲荷親分も喜助と一緒に四つ木村に来ていた。お多勢の両親に再び会って、下手人について話しをした。
 お多勢の墓には、野の花が手向けられ、浮世絵に描かれ有名になったせいか、この墓には、線香の煙が絶えることはなかった。
 喜助は、お多勢を捨てた実の親の書付を見せて貰った。産土神の八幡神は、お多勢の来世を見守っていくはずであった。

 喜助は、規矩術を使って、もう既に頭に描いている八幡神社の社殿を現わすことをお多勢の育て親に告げた。
 八幡神は、鎮守様として江戸庶民に受け入れられてきた。江戸市中の人たちは、祀られているものをよく分からなかったが、源氏の軍神が、今ではそこに住む人たちを守る氏神として、変遷を遂げていた。
 お多勢は、産土神の八幡神を実の親につながる大切なものであると信じていた。自分が捨て子であることを知っていた。その思いを知った喜助は、規矩術を駆使して、お多勢の心に答えようとした。

 甚吉もまた、八幡神社の瓦を上方の瓦問屋に発注をした。それは、大風に
も飛ばされることのない丈夫な瓦で、百年以上は持つというものであった。
 喜助は、さしがねで図を引いて後、八幡神社の新築に必要な材木を材木問屋の白木屋に頼んだ。
 喜助のもとには、江戸中から腕自慢の職人たちが集まってきた。喜助の造った立正安国寺の本堂を見れば、職人たちが、さしがねを使った規矩術を深く学びたいと思うのは当然であった。

 浮世絵にも描かれるほどの美人のお多勢の薄幸な人生に江戸っ子たちは、哀れみをおぼえた。多くの人たちからの寄進があって、八幡神社の莫大な費用を集めることが出来た。
 貧しい農民たちも、収穫した大根や菜っ葉を喜助に差し出して、職人たちの食事の膳に添えた。大勢の腕のいい職人たちは、時を忘れて働き、やがて壮麗な姿の八幡神社が姿を現していった。

 翌年の初夏には、喜助の造った八幡神社は完成し、関東一円からも参詣する人たちが押し寄せた。四つ木の八幡様は、『お多勢八幡』と人気を博した。
春先に、八千代が猿若町の芝居小屋で、お多勢の数奇な運命をもとにした『お多勢八幡』の芝居を披露したことで、江戸の庶民に受け入れられた。

 猿若町に近い浅草寺の四万六千日が近い日のことだった。芝居を見ながら、客席の隅ですすり泣く女がいた。
「座長、見知らぬ女がお会いしたいといっているんですが?」
 番頭が楽屋で化粧を落していた八千代に取り次いできた。
 演目の『お多勢八幡』は、好評だった。八千代に会いに来る客もいたが、目の前にした女は芝居の贔屓客ではなかった。
 女は擦り切れた着物を着た年増だった。化粧気の無い顔が、老いた女のようであった。

「お芝居を見ました。娘のために芝居を演じていただきまして、何とお礼を言っていいのか…」
「それじゃあ、おまえ様は、お多勢のかか様かい?」
 女は、白髪混じりの髪を無造作に束ねて、畳に顔を埋めた。八千代は驚いて、女の肩を抱いた。
 女は、お仙と言った。料理屋で下働きをしていた。水仕事で荒れたお仙の手を八千代は気が付いていた。
「四つ木の八幡様は、あの子の産土神でございます。社も新しくなって、それにこのお芝居で、お多勢もさぞかし、極楽浄土で喜んでいるでしょう。ありがとうございます」
 お仙は、自らの半生を語りだした。

 奉公先で、雇主に無理に関係を迫られたあげく、みごもったため、いくばくかの金子を与えられて、実家に戻された。
 日毎に大きくなる腹をさすりながら、お仙は、針仕事をしながらもこの子を育てようと決めていた。
 実家には、継母がいて、臨月になったお仙に、容赦無く家の用事を言いつけた。お産は、取上げ婆に頼んだ。
 乳の出が悪かったが、お多勢は順調に育った。継母は、自分の子が三人いたが、食べざかりだといって、お仙の食べ物は家族の残りものだった。

 薄い味噌汁をすすりながら、お仙は赤ん坊の笑顔に救われていた。お仙はすぐに針仕事に精を出した。
 やがて、父親が熱病にかかって、あっけなく死ぬと、父親の仕事仲間が家に居つくようなになった。
 その男は、お仙にも色目をつかってきた。お仙は、居づらくなって、親戚を頼って、家を出た。
 お仙は、八幡大菩薩に祈っていた。そして、親子が生き延びるために心を決めた。

 お多勢の産土神が八幡大菩薩であったので、四つ木の在にある八幡神社の門口に住む甚助とキヨにひとり娘を預けようとした。 
 この夫婦には、偶然であったが、子がいなかった。犬に食われないように、娘をねんねこ半纏に包み、社の本殿に寝かせた。
 ようやく、春の陽がさす時期であった。一歳にならない赤子は、母親の姿を求めて、泣き声を上げた。
 
 境内の掃除を始めようとして、家の外に出た甚助とキヨは、すぐに異変に気がついた。お仙は、社の片隅から様子をうかがっていた。そして、甚助夫婦が、社の本殿に入ったことを確かめて、その場を走り去った。
 子を捨てるほど辛いことは無かった。
 このまま二人で居れば、餓えて路上で死ぬことは明らかだった。野犬やカラスに屍を食われる夢を幾度か見ていた。
 お仙は、大川が見えるところまで走って、ようやく後ろを見た。八幡大菩薩と手を合わせて、娘の無事を祈るのだった。
 
 お仙は、浅草の料理屋に住み込みで下働きをした。娘を忘れるために働き続けた。
 お仙の楽しみといえば、大晦日まで料理屋で働き、元日だけの休みに、四つ木村の在にある八幡神社に詣でることだった。
 境内で、お札を売る甚助夫婦の脇には、客に御辞儀をする可愛いらしい幼子の姿を見ることが出来た。
 お仙は、我が子から渡された八幡神社のお札を受け取った。ここで、取り乱したりすれば、自分の素性は明らかになる。お仙は、そう自分に言い聞かせて、後ろ髪を引かれる思いで八幡神社の境内を後にした。

「お多勢は、私の命でした。浮世絵に描かれ、江戸の評判になって、ありがたかったんです。ここまでにしていただいた甚助様ご夫婦の恩は、来世においても返していかなくてはなりません」
 お仙は、そう言って、八千代に手を合わせるのだった。
 八千代もひとりだった。大川の川縁で芝居小屋が焼け、両親を含めて一座は焼け死んだのだった。
 生き残った八千代は、磯貝真六の父たちの慈愛を受けて、ここまで育てて貰った。八千代の産土神は、あの夜の闇の中で光る狐火であった。
 狐火に気を取られていなかったら、厠から寝床に戻って、やがて、紅い炎に焼かれていた。お狐さんが、八千代を守った。

 お仙を見送るときに、粗末な着物の後ろ襟を見た八千代は、その時、おっかさんと小さく声を発した。
 お仙は、不思議な顔をして振り向いたときに、八千代は声を上げて泣いた。苦労ばかり年増の女をこの猿若町の芝居小屋で生活を共にしたいと思った。
 それは、お多勢が八千代に言わせた言葉であった。お仙は、手持ちの金子はなかった。有り金で芝居小屋に入って、ひとこと八千代に礼を言いたかった。

 その後は、大川に架かる吾妻橋から、身を投げて、極楽にいるお多勢と会うことをお仙は決めていたのだった。
 その時、稲荷親分が姿を見せた。八千代がお多勢の産みの親であるお仙を引き合わせた。実は、稲荷は、お多勢の産みの親であるお仙を探していたのだった。住み込みで働いていた浅草の料理屋に行くと昨日料理屋を辞めたという。
 どこに行ったのかも分からないと料理屋のおかみさんは言った。ただ、猿若町の芝居小屋に休みになると出かけていったと話してくれた。

 磯貝真六の岡っ引きを勤める稲荷親分は、即座にお仙が死ぬことを決めているのを見抜いていた。
 稲荷は、お多勢を育てた四つ木村の甚助とキヨのことを話した。
「お多勢八幡に参詣する人たちによって、お多勢さんは、江戸っ子たちの心に生きているんですぜ。非道な侍に斬られたお多勢さんは、かわいそうだ。だから、おっかさんは、生き抜いてくださいよ。そうじゃないと、悲しすぎる」
 稲荷親分は、情に厚かった。夜鷹が侍の試し斬りで斬り殺されたときには、自ら夜鷹の格好をして、下手人を命がけで捕まえた。

 お仙は、死ぬことを決めていたことを話した。稲荷のあたたかな言葉に、心にしまっていた感情が涙と一緒に溢れでた。
「お仙さん、この芝居小屋で一緒に暮らしましょう。あたしだって、ひとりぼっちさ」
 八千代は、お仙の瘠せた背中をさすって、そう言った。
 芝居小屋には、お仙の姿が翌日からあった。芝居は、連日の大入りだった。磯貝真六は、喜助や甚吉と一緒に芝居を見た。

 男たちは、目を濡らしたものを拭おうともしなかった。磯貝は、非道な振る舞いをした蛭間の後ろに居る薩摩藩を見据えていた。時代は、この後、大きく動くことになるのだった。
 四つ木の八幡神社には、江戸中から参詣人が功徳を積みに来た。名物のぼた餅が売られる境内には、八千代とお仙の姿があって、まるで母と娘のようであった。

(了)








最終編集日時:2014年1月14日 13時7分

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