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針と針
[【時代小説発掘】]
2010年9月10日 11時51分の記事


【時代小説発掘】
針と針
瞳綺羅(ひとみきら)


(時代小説発掘というコーナーができた経緯)

【梗概】:
 元ならず者の作治は、刺青を彫る彫師。美貌の琴はまじめな針妙(しんみょう)。二人は幼なじみである。
 作治は琴に惚れていたが、琴は身分違いの淡い恋に破れたばかりであった。
琴の母・トメは日に日に鮮やかになってゆく娘の美貌を警戒し、「お前は醜い」といい続け、一生嫁に出さないと言う。トメのそのかたくなさには理由があった。
 ある日、琴が付け火の嫌疑を掛けられ、番屋に引っ立てられる。
 トメは泣き崩れた。作治は衝動的に外に飛び出し、事件解決に乗り出す。・・・

【プロフィール】:
瞳綺羅(ひとみきら)
プロフィール:時代小説勉強中の雑文ライター。趣味は江戸散策と睡眠。


瞳綺羅のこれまでの作品

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【時代小説発掘】
針と針
瞳綺羅(ひとみきら)



一 花川戸の長屋

 あかり取りのために開け放してある長屋の戸口に立ち、作治は若者らしい明るい声を出した。
「おっかさん、来たよ。例の膏薬、買ってきた。お琴ちゃん、お邪魔するよ」
 しかし、ひそかに目当てにしていた琴の姿はそこになかった。
 落胆が表に出ないよう、注意深く微笑んで中に入る。
 琴の母・トメは、両手で持っていた縫い物を脇にどけ、作治の方に笑顔を向けた。
「あがっといで。琴がもうじき帰ってくるから、麦湯でも入れてもらって飲んでお行き」
 もうじきと聞いて、作治の耳たぶがかっと火照る。トメは再び縫い物を手に取った。
 一間限りの狭い長屋はきちんと片付いて居心地が良い。作治はわらじを脱いで手ぬぐいで足をはたき、手前の板の間に上がった。
「お琴ちゃんはどこに?」
「淡島さんだよ。浅草寺の」
「ああ。お参りか」
 淡島明神は浅草寺の敷地内にある小さな祠で、毎年針供養が行われる処でもある。
 淡島神は、婦人病、安産、子宝、裁縫の上達、人形供養など、女の悩み事に霊験のある神とされる。針仕事がうまくなりたい界隈の女は、みな淡島さんで手を合わせていた。
 やがて、子馬の闊歩のような元気な下駄の音が近づいてきた。戸口に立ったのはやはり琴だった。数えで十八の、華やいだ声である。
「あら、作ちゃん。来てたの」
 琴の明るい声に作治は歯を見せて笑った。
「おっかさんに例の膏薬を買ってきたんだ」
「いつもありがとう。膏薬のおかげで、おっかさんの目もだいぶよくなったわ」
「いや、礼にはおよばねえ。おっかさんには小さい頃からよくしてもらったから、いいんだよ。それに俺にはおっかさんがいないから、ここのおっかさんを、本当のおっかさんみたいに思っているのさ」
 作治は二年前までこの長屋に住んでいた幼馴染で、女のような優しい顔立ちだが、三年前までは界隈でも名高い乱暴者だった。
 その作治が、老眼に良いと評判の、あんま膏をまた買ってきているのだ。琴が作治に飛びっきりの笑顔を向け、作治がまた赤らんだ。
 作治の両親は運悪く、大火事で逃げ遅れて三年前に亡くなっていた。
 ふと、トメが異変を見つけ、琴に問いかけた。
「琴、お前、出かける時かぶっていた手ぬぐいはどうしたんだい?」
 琴は、下を向いた。
「ごめんなさい、おっかさん。浅草寺で風にあおられて見えなくなっちゃったの。酷い人ごみだったのよ」
 と答えた。
 トメがピシリと言う。
「あんたは顔がいびつで不細工なんだから、ちゃんと隠さないとみっともないよ。以後気をつけな」
 琴が麦湯を準備する手を止め、振り向いてほんのわずか微笑んだ。
「あいすいません、おっかさん」
 作治が身体を動かして割り込んできた。
「おっかさん、前々から変だと思ってたんだけど、なぜおっかさんは小さい頃からずっと、お琴ちゃんのことを不細工だって言うんで? お琴ちゃんはそりゃ昔っから、この界隈一の別嬪なのによ」
 トメが背筋をしゃんと伸ばした。
「作坊は小さい頃から家の子みたいに出入りさせてるけど、そういう口出しはしないでおくれ。誰が何と言おうと、琴は生まれた時から不細工なんだ。あのこっけいなほど大きすぎる目も、虫に喰われたみたいな膨らんだ唇も、高すぎる鼻も、病気みたいな肌の色も、みっともないったらありゃしない」
 作治が大仰に腕を組み、口を尖らせた。
「そうかなあ。俺はお琴ちゃんほど綺麗な娘は見たことがねえけどなあ。おっかさんがどうしてそんなにお琴ちゃんにつらく当たるのか、わけがまったくわからねえ」
 白くにごり始めていたトメの目が久しぶりにきらりと光った。
「作坊。まさかあんた、うちの娘を狙ってるのかい? この子はダメだよ。一生、どこにも、嫁になど行かせない」
「え? 何で嫁に行かせないの?」
 琴が慌てて作治を止めた。
「作ちゃん、もういいから。あたしの醜さはあたしが一番よくわかってる。だからいいのよ」
 作治はこれ以上言ってもせん無いという風に肩をすくめ、黙り込んだ。


二 琴の決心

 すっかり不機嫌になったトメは針箱を再び出して、しかめ面をして新しい縫い仕事を始めた。作治は眉をひそめて琴と顔を見合わせた。
 作治が渡したあんま膏が、さっそくトメのこめかみに貼ってある。目の疲れを和らげるというもっぱらの評判なのだ。
 トメはどんどん目が弱り、細かい針仕事に難儀するようになってきていた。作治も琴も、そのことを心配しているのだ。
「ねえおっかさん、あまり目を遣わない方がいいわ。赤城屋さんの残りの分はあたしが代わりに縫っておくから」
 トメは最近縮み始めた身体を一層小さく丸めて、せっせと端をくけている。
「まだまだお前には負けないよ。そんなことよりお前、淡島さんへのお参りはちゃんと済んだのかい?」
「ええ。そのことで実はおっかさんに話があるのよ」
 ちらりと作治を見た。作治が腰を浮かせると、琴は制した。
「いいのよ作ちゃん。ここにいて」
「え、あ、うん」
「おっかさん。実は、淡島さんに願掛けしたのは、新しい仕事のことなの」
「新しい仕事って、何だい」
 トメは手を休めない。琴はしばらくその様子を見ていたが、とつとつと話し出した。
「おっかさん、あたしがこないだ縫った、上等の柔らか物を覚えているでしょ。ええそうよ、田原町の赤城屋さんの、若旦那から言いつかったあの袷」
 トメはぱたりと手を止めて、いぶかしげに顔を上げた。
「もちろん、覚えているさ。あれがどうかしたのかい。何かいけないところでもあったのかい?」
「ううん、その逆なの。とっても良く縫えているって、誉められたのよ。さすがは赤城屋一の針妙だって、若旦那直々に」
「ほう。あんたもとうとうそこまで言われるようになったか。不細工なりにこつこつと頑張ったのが良かったね」
「ええ」
 琴はちょっと黙り込んだあと、造りの美しい顎を引いて再び話を始めた。
「あの袷、若旦那の思い人のものなのは、おっかさんも知っているでしょ?」
「ああ、お前から聞いたよ。確か、相手は上野かどこかのお女郎さんだろ」
 琴は口を結んだまま頷いた。
「お琴、お前、本当は若旦那のこと、好きだったんだろ」
 作治は一瞬はっとなって身を固くした。トメは自分の縫い目をあらためながら、こぼした。
「まあ、うちはもともと母一人子一人だし、代々針妙をしているような由緒ある家でもない。あんなしっかりした呉服問屋に嫁入りするなんざ、はじめから不釣合いだったんだし……。お前がガッカリしているのを見てかわいそうだとは思ったけれども、格が違うから仕方ないね。しかしまあ、そのお女郎さんだって所詮はあんたと同じ、釣り合いっこないんだ。家の違いはどうしようもない。どだい無理なんだから、しょぼくれるだけ損だね」
「あたし、はなからそんなこと思ってないから……」
 琴がぽつりと漏らす。トメは縫い目を爪でしごいて伸ばしながらさらに続けた。
「お前は嫁に行くことなんざ考えない方がいい。ただでさえいびつで不細工なのだから、本当に針一筋でやっていかないと駄目なんだよ。あたしのように、男に引っかかって余計な苦労をするのは馬鹿らしいだろう」
 琴がはっと顔を上げた。
「でも、でも、おっかさんは、おとっつぁんと一緒になったからあたしが出来たんじゃないの。そりゃあ女手一つで赤ん坊を育てるのは大変なことだと思うけど……」
「まあ、お前みたいな出来損ないでも、居ないよりゃましだろうけどね。あたしに似りゃあ、まだ器量も良かったのに、お前はあのどうしようもなかった父親に顔がそっくりだ。お前を見るたび、あの酷いろくでなしを思い出すよ」
 トメは石臼のようなどっしりした顔立ちをしているが、琴の父親は上州から流れてきた美形役者だったらしい。琴の美貌は、子を孕んだ途端にトメを捨てて逃げた、その父親譲りなのである。
 琴はトメから少し離れて正座し、そのまま黙り込んでしまった。
 作治は口を挟むことも出来ず、固唾を呑んで二人の対話を聞いている。琴が恋だなんて、初めて聞く話だったのだ。

「で、お前の話ってなんなんだい? まだ終わってないだろ」
 トメは相変わらず威勢よく糸こきをしている。琴はしばらくトメの茶色くなった指先を見ていたが、再びとつとつと話し始めた。
「実は、あたしの手わざを、先方のお女郎さん、桔梗さんと言うのだけれど、その桔梗さんがとても気に入ってくれたの。それで、桔梗さんがこのたび吉原入りすることになったから、一緒に来ないかって誘われたの」
 作治は弾かれたように顔を上げた。トメの驚愕した目と目が合った。トメが珍しく声を荒げる。
「なんだって! 吉原だって?」
「ええそう。つまり、おはりとして雇いたいんですって。稼ぎもとてもいいらしいのよ。吉原に行けば仕事は掃いて捨てるくらいあるから、早く縫う腕さえあれば、おっかさんにうんと楽をさせてあげられるくらいに稼げるって聞いたわ」
「お琴ちゃん……」
 トメの衝撃はもっともだと作治は思った。堅気の針妙は、吉原で粗い仕事をするおはりを常に一段下に見て、同じ扱いをされることを毛嫌いしている。
『針妙を おはりというて 叱られる』
この川柳を作治はよく覚えていた。
 吉原では、丁寧に仕立てるよりも出来るだけ早く縫い上げることが優先される。常に流行を追い、ちょっとでも流行おくれになれば縫い目などさっと解かれて洗い張りされ、古着屋などに売りさばかれてしまうのである。
「琴。うちはちゃんとした針妙なんだよ。決しておはりなんかじゃない。それを何だお前は。あたしはそんな子に育てた覚えは無いよ」
「でもおっかさん」
「お黙り」
 身を乗り出して口を挟もうとする作治を、琴が手で止めた。そして立ち上がり、部屋の隅に置いてある風呂敷包みから一冊の本を取り出して、トメの前に座って置いた。
「おっかさん、これを見て」
「なんだいこれは」
「いいから見てちょうだいな、おっかさん。作ちゃんも、良かったら見て。図柄の勉強になるわ」
 トメが手にとって中を開く。作治は向かいから首を伸ばして覗き込んだ。
 雛形見本(注:江戸のスタイルブック)であった。


三 雛形見本

「雛形見本……」
 ひとつめくるとひとつ小袖が描いてある。小袖には四季折々の模様が、大ぶりな柄で描かれている。色はなかった。
 裕福な女たちが呉服屋と一緒にこれを見て、好みの柄を決め、そのときに色合いも決める。呉服屋はまず反物を注文通りに染め上げ、絞りや重ね染めも入れて、それから着物を仕立てるのだ。
 どの小袖も、トメや琴が普段手がけているような、絣や縦じまのお仕着せとはまったく別物だった。
 トメは頁を一枚いちまい撫でた。
 上等の紙は手触りが絹ものに似ている。トメはそのさわり心地を何度も確かめた。
 本に描かれているような派手なやわらかものは、昔、まだ琴の父親と付き合っていた頃、男のために縫ったことがあった。
 大胆な色使いに、絵合わせの難しい大きな柄、うっとりするような手触り。
 確かに奉公人のお仕着せ縫いにはない心弾む縫い仕事だった。惚れた男のためというのもあるが、何よりも縫い物職人としての悦びがあった。
 見本帳を食い入るように眺めてるトメの横顔と琴の横顔を、作治は黙って見ていた。己には踏み込めない、二人だけの職人世界がそこにあったのだ。
 ころあいを見計らって琴が声を掛けた。
「ね、おっかさん。おっかさんも女なら、こういうのを手がけてみたいと思うでしょう。あたしだって、いつも赤城屋さんからまわってくるような丁稚のお仕着せじゃない、びっくりするくらい重くて柔らかい、綺麗な絹ものを、縫ってみたいのよ」
 トメはしばらく見本帳に見入っていたが、やがてパタリとそれを閉じ、作治をじろりと見てから琴に手渡した。作治は伸ばした首を引っ込め、居住まいを正した。
 トメが琴に聞く。
「お前、この見本帳はどうしたんだい。どこで手に入れたんだい」
「桔梗さんから貸していただいたの。これ、桔梗さんが絵師に頼んで写本してもらったんですって。あたし、お座敷に呼ばれて桔梗さんと会ったんだけれども、とっても綺麗で面白い人なの。それに、なんだか懐かしいような、お姉さんみたいな人だったわ。あたし、あの人の縫い物をしてみたい」
「……本当にそれでいいのかい? だって、その桔梗さんとやらは、若旦那のいい人なんだろ?」
 作治が琴を盗み見る。琴は摘みたての真綿のようにふうわりと笑った。
「いいのよ。あたしなんて、若旦那とはとてもつりあわないのは最初からわかっているんだし……」
「お、お琴ちゃん……」
 トメは呆然としている作治の顔色をちらりと見て、ふんと鼻を鳴らした。
「たとえおはりの仕事を始めたとしても、あんたの心根は針妙なんだよ。うちは針妙なんだ。そのことを決して忘れてはならないよ」
「じゃあ、いいのね、おっかさん」
「勝手におし」

 いつも母親の言うことを聞く琴が、今度は母親に言うことを聞かせようとしている。おそらく相当の決心をしているのだろうと作治は感じた。おそらくトメもそのことを察したのだろう。
 トメはむっつりと針を持った。
「あんたも、あんたの父親みたいに、きらびやかで華やかな世界がいいんだろ。あたしを捨てて、どこへでも行ってしまうがいいよ」
「おっかさん……」
 作治と琴は再び顔を見合わせた。
「あんたの父親はね、そりゃあ美男の役者だった。それこそ吉原の綺麗どころが色めき立つような男だったよ。あたしゃ、あの人のお芝居に使う着物がほつれたのを直してやったのがきっかけで、口説かれたんだよ」
 容姿も育ちもぱっとしない、奥手のトメには夢のような付き合いだっただろうことは、作治にも想像できた。
 トメの思い出話は縫い針と一緒で止まらなくなっていた。
 その付き合いはすぐに終わったとトメは言う。身ごもったと知った途端、男はトメを呼び出し、罵倒してトメを辱めたらしい。
「あの人はこう言った。ちゃんちゃらおかしい。あたしゃ役者だよ。子供なんて無粋なものは真っ平だ。無粋な女も真っ平。あたしとはこれっきりにしておくれ。大体、これっきりも何も、あんたとは契ったわけではない、ただ気まぐれに袖を通してみただけさ」
「おっかさん……ここでその話は……」
 琴が心配そうにつぶやく。琴にとっては何度も聞かされている話のようだが、作治には初めて聞く話だった。
「酷いことに、あの男の隣には若くて綺麗な女が居て、薄笑いを浮かべて、こっちを見下していたんだよ。あたしゃ悔しくて情けなくて……」
 別れたあと、恨めしさ悔しさに歯軋りをしながら産んだ子が琴だった。
「あの……おっかさん……気持ちはわかるけどさ……」
 呼びかけたものの、作治はなんと言ったら良いのかわからず、ただ両のこぶしを握ってひざの上に置いていた。


四 作治の恋心

 気まずさを破るように、琴が割って入った。
「それより、作ちゃんはそろそろ帰る頃じゃない? あんたもあたしと同じように、家で針が待ってるわよ」
 琴は針妙(しんみょう・お針子業)、作治は彫り師(刺青師)、二人とも針を道具に身を立てているのである。
 琴の言葉に作治は救われたような心もちがした。なんだか突然、目の前で難しい絵巻を見せられたような疲れがあって、両足がしびれてきていた。
「そ、そうだな。じゃ、そろそろ帰るよ。じゃ、おっかさん、また。お琴ちゃん、そこまで見送ってよ」
「じゃ、おっかさん。あたし、大通りまで行ってくる」
「ああ、どこへでも行っといで。手ぬぐいをかぶるのを忘れるんじゃないよ」
「あい。必ず」
 あれだけ激しいやり取りをしても、母娘はいつもと変わらぬ様子に戻っていた。作治には女という生き物がわからなくなった。
 長屋の外の空気を吸いながら、作治は少し後ろを付いてくる琴を振り返ってみた。相変わらずかたくなに姉さまかぶりを深くして、顔がなるべく見えないようにしている。
 作治は琴と並んで歩きながら、口を尖らせた。
「なぁ、赤城屋の若旦那に惚れてるって、ほんとなのかい?」
 琴は首筋までを赤らめて、つっかえつっかえ答えた。
「嘘よ。嘘。おっかさんの気のせい。それに、若旦那とあたしじゃ、身分が……身分が違いすぎるわ」
「でも、お琴ちゃん……」
「その話はもう終わり。ね」
 手ぬぐいから少し見える琴の美しい唇がきゅっと締まっている。作治はつま先に当たった小石を蹴った。
「そんな男のこと、忘れちゃえよ。お琴ちゃんのことは、俺がもらってやってもいいんだぜ。おっかさんを説き伏せてさ」
 琴は手ぬぐいの陰からきらきらと光る目で作治をにらみつける。
「あたしのこと馬鹿にしないで作ちゃん、こないだからあたしの背中に彫り物をしたいってずっと言ってたでしょ。彫り物をしたいからあたしをお嫁にしたいんでしょう。それに、あんた、今でこそしっかりしてるけど昔はあんなに酷いならず者だったんだもの。嫌よ」
 睨まれた作治はたじろいだ。
「おっかねえな。まだ昔のことを言うのかよ。でも、俺、ほんとにお琴ちゃんの背中に彫り物をしてみてえよ。実はずっと考えてる絵柄があるんだ。空を舞う天女のさ……」
「知らない!」
 琴は作治の頭を袂でぶって、きびすを返して駆け出した。作治は琴の後ろ姿をあっけにとられたように見ている。
 しばらく立ち尽くしていたが、しょんぼりと歩み始めた。どうして自分は愚かなんだろうと、両足から後悔がじわじわ登ってくる。
 確かに、琴の背中に彫り物をしたいとはずっと思っていた。まだ誰も触れたことのないあの背中に、琴そっくりの天女を、時間を掛けて彫ってみたいと作治は夢想していた。
 そしてそれは、どうしても、他の男が琴の肌に触れる前でなければならなかった。
 心をこめた、一世一代の彫り物だ。他にとりえの無い不器用な自分が出来る一番いい贈り物じゃないだろうかと、作治は思っている。
 それに、背中に彫り物をした女を嫁にもらう男など居ない。琴は自分以外の誰のものにもならないだろう。そしたらあのおっかさんも諦めて、夫婦になることを許すかもしれない。
「妙な場面で妙なことを言い出しちまって、俺は馬鹿だ……」
 しょんぼりと、作治は大通りを歩き出した。決して決して、琴を傷つけるつもりではなかったのだ。


五 付け火の疑い
 
 その日の夜、田原町の赤城屋から、火の手があがった。
 幸い、まだ燃え広がらないうちに木戸番に発見されすぐに火消しが到着し、風が弱かったこともあって店を半分も焼かずに済んだ。
 目明しが周辺を捜索して、不審な一角を発見した。裏木戸近くの塀に反故紙と木屑が激しく燃えたあとがあり、そばに手ぬぐいが落ちていたのである。
 その手ぬぐいは琴の名前が縫い取りで入っていたことから、翌朝早くに目明しが来て琴を番屋に引っ立てようとした。
 たまたま作治は大通りを通りかかっていて、長屋の木戸を目明しとその子分がくぐるのを目撃した。様子を見に近づいてみると、長屋の戸口に子分が立って中をのぞいている。
 作治はその男の肩越しに中を見た。琴は手を縛られてはいないものの、腰縄を付けられていた。
 蒼白になったトメが目明しにすがり付いているのが見えた。
「お、お待ち下さい! 何かの間違いです。琴は昨晩、あたしと夜なべの針仕事をしていました」
 思わず踏み込もうとした作治を、子分の男が押さえつける。
 目明しは質素でみすぼらしいなりをしたトメを、上から下まで値踏みするように見やって、横柄に言った。
「あんたは母親だからかばっているかもしれん。それに、とにかく番屋に連れて来いというお達しだ。あんたんところは赤城屋の縫い仕事をしていたんだろ?」
 琴は琴で「手ぬぐいは浅草寺で落としたもの」と必死で訴えている。しかし目明しは聞く耳を持たなかった。
「おっかさん! 助けて!」
 琴が万感の思いで呼ぶ。トメは琴に対する日頃の苛立ちも忘れて目明しにすがったが、足蹴にされて転がった。
 作治は思わず子分の男を振り払い、戸口から飛び込んだ。目明しは日頃から懇意にしている男だったのだ。
「琴!」
「作ちゃん!」
「何だ、彫作じゃねえか」
 琴がすがり付こうとするのを、目明しが腰縄をぐいと引いて押さえつけた。
「おっと。ここまでだ。話は番屋で聞こう」
 作治は二人の前に立ちはだかった。
「縄をほどいちゃくれませんか。何かの間違いだと、おっかさんだって言ってる」
 目明しはまぶしそうに顔をゆがめ、微妙に目線をずらした。
「いくら彫作の頼みでも、ちょいとこいつは譲れねえ。何せ現場にこの娘の手ぬぐいが落ちていたんだからな。それに、番屋でお役人が、この娘が来るのを待っている」
 一行はこわごわ覗き込む長屋の住人を押しのけ、表通りに出て行った。
 下駄の音がだんだんと遠のいてゆくのを見送りながら、作治はどうすることも出来なかった。
 長屋の中から「ああああ」という泣き声が聞こえてきた。我にかえった作治は長屋の中に駆け戻った。
「おっかさん!」 
 作治は泣いているトメの両肩を持って、ぐらぐらと揺すった。
「おっかさん、おっかさん! 気をしっかり持っておくんなさいよ。これは一体どういうことなんで?」
「あ、ああ、作坊、琴が、琴が……付け火の疑いをかけられて」
 付け火と聞いて作治は驚愕した。付け火は火あぶりの刑と決まっている。このままでは琴が生きたまま焼かれてしまう。背筋が冷たくなってめまいがした。
(こんなときこそ俺がしっかりしなければ)
 作治はともすれば脱力しそうになる己に必死で活を入れ、冷静を保とうとした。
「おっかさん、しっかりしてくだせえ。付け火とは、昨日の赤城屋のボヤですかい?」
 トメは作治の腕をしっかりとつかみ、うんうんと頷いた。そして途切れ途切れながら、作治の問いに答えた。
「おっかさん、わかりやした。さあ、気をしっかり持って。手ぬぐいが落ちていたというだけで、まだ罪人と決まったわけじゃねえ。それに、確かにお琴ちゃんはここで一晩中、夜なべしてたんでしょう」
 トメはうんうんと頷いた。だが、長屋の連中は皆寝こけていて、琴の確かな証人にはなれなかったのだ。
「おっかさん、まず落ち着いて。お琴ちゃんの手ぬぐいは、風で飛ばされたと前に言っていたでしょう。ほら、あの、俺が目の膏薬を持ってきたあの日ですよ」
 あっとトメは声を上げた。その直後に琴が吉原のおはりになるなどとびっくりするようなことを言い出したので、すっかり忘れてしまっていたのだ。
「そうだえ! あの時確かに、琴は手ぬぐいを飛ばされたと言っていた。今まで忘れていたわ。早速番屋に……」
「いけねえよ、おっかさん。いくら俺らが申し開きをしても、番屋の連中にしてみりゃ身内の言うことなんざまるで信じねえだろう」
「じゃ、じゃあ、どうすれば」
「手ぬぐいを拾った奴を探しやしょう。あの時誰かが手ぬぐいを拾ったに違いねえ。あの日、お琴ちゃんがどこで無くしたか、おっかさん、わかりますか?」
 トメは少し濁り始めた目を頼りなく動かし、それからはっと息を呑んだ。
「多分、浅草寺の界隈だ。あの時、あの子は淡島さんに針仕事の願掛けに行ったのだから」
「淡島さんか……」
 作治はしばらく腕を組んで思案していたが、急に立ち上がった。
「おっかさん、あっしに任せておくんなさい。ちょっと調べてみやしょう」
「作坊、あんた、手がかりを探す伝手はあるの?」
「こう見えてもあっしは腕ききの彫り物師でさ。浅草界隈の刺青野郎ほとんどを知ってます。聞いてみやしょう」
 そうと知ったらいてもたってもいられず、作治は長屋を飛び出した。まっすぐに整った髷をちょいと斜めにずらし、胸元をぐいと広げ、腰をはしょって股引を出した。
 今頃琴はさぞ不安に思っているだろう。もしかしたら泣いて震えているかもしれないのだ。足が勝手に、前へ前へと動いてゆく。


六 作治の探索

 訊ね歩いてみると、意外なことに、彼らのほとんどが琴を知っていた。小町と言ってもいいくらいの美貌なのに、いつもおどおどと顔を隠している姿が、強く印象に残るらしい。
 作治の真剣な顔に、最初笑ってからかっていたならず者たちも、真顔になって記憶を手繰ってくれた。
「なんだい、あの娘は彫作さんのコレかい」
 などと小指を立ててからかっていた男もいたが、作治の憤怒を秘めた目の色に態度を変えて、協力を惜しまなくなった。
 そうして浮かび上がったのが、ガマ助である。掏りの一人が、浅草寺の雑踏を流している時に、ガマ助が姉さんかぶりの小町娘に「お前スリだろう」と難癖をつけていたのを確かに見たという。
「ガマ助……。あいつか!」
 作治はガマ助を知っていた。半年くらい前に背中に仁王さんを彫ってくれと言ってきて、筋彫りまで行ったところで来なくなった弱虫だ。
「コワモテででっかい仁王様にしてくれ」
 などと注文を付けてきた。ちびの背中に大きな仁王像を彫るという対比が作治の職人魂を強く刺激したので良く覚えていたのである。
「あいつ、痛てぇ痛てぇと泣きやがって、筋彫りだけでとうとう来なくなっちまった。……ようし、ガマの居場所を教えてくれ」
 一刻ほど後、縄のれんで飲んでいるガマ助の前に作治はどすんと腰を下ろした。「おや」と言う顔をしたガマ助は酒ににごった目をうろうろと外に向ける。
「いよう、ガマ助の旦那。こっち見ろよ。あれから来なくなっちまってどうしたよ。筋彫りまでしかやってないだろ。あんまり痛いから嫌になったのか」
「へっ。そんなんじゃござんせんよ」
「続きを彫りに来なよ。ちゃんと終わらせないとこっちも気になるぜ」
「そのうちうかがいやす」
 作治は挑発的に笑った。
「お前、やっぱり痛いのが嫌なんだな」
 外をちらちらと見ていたガマ助はじろりと作治を見た。作治は最初からひたとガマ助を見ている。
「おう、ガマ助、俺の女をスリ扱いして恥をかかせたそうだな。浅草寺でよ」
「えっ? 彫作さんの?」
 ガマ助は明らかに動揺した。見る見るうちに顔色が青くなる。それには答えず作治は一層低い声でしゃべる。
「ことと次第によっちゃ、俺も本気で怒るぜ。本気でな。昔の俺に戻って」
「ひゃっ」
 ガマ助が杯を取り落とす勢いで震え上がった。
 かつての作治の強さと人望は、ガマ助も決して忘れるわけではない。
 両親が焼け死んでからは心を入れ替えて彫師一筋になったが、それまでは界隈でも有名なならず者だったのだ。
「か、勘弁しておくんなさいよ彫作さん。彫作さんは今は堅気じゃござんせんか。もう昔みたいな無茶なことはやめるって、あの時の言葉はどうなすったんで」
「じゃあ、知ってることを洗いざらい話してもらおうか」
 ガマ助は、まむしの市というやくざに頼まれて、わざと琴にからんだといういきさつを話した。まむしの市と聞いて作治の眉が上がる。
「ほう、まむしの市てえのは、聞いたことがねえなあ」
「確かどこかの旗本の次男三男じゃねえかと……。彫作さんが知らねえのも無理はござんせん。彫作さんがこの辺で暴れてた頃はいなかった奴で、一年くらい前にふらっと来て居ついた輩でさぁ」
「ほう」
「いま急にのしてきてやして、どうもこの界隈を束ねてえみたいなんでさ」
「そいつぁ豪気だな」
「そういや、まむしの市が彫作さんのことを根掘り葉掘り聞いてたことがありやした」
 自分のあずかり知らぬところでまむしの市とつながっているのだろうかと作治は思ったが、まるで心当たりが無い。界隈で今も名高い作治に興味を持ったのだろうか。
「ガマよ、実は俺の女があの日に手ぬぐいを落としたんだが、お前さんがからんだ時に姉さんかぶりをしていたかしていなかったか、覚えてねえか?」
「ああ、それはあっしがむしりとりやした」
 ガマ助がきまり悪そうに首をすくめた。手ぬぐいはそのとき奪い取るように、まむしの市から言われたのだそうだ。
 本当のことを言うのが何となく怖くて、琴は風に飛ばされたと言ったのだろう。もし絡まれたことをトメに伝えたら、「二度と表に出るな」などと言いそうだと作治も思うのだ。
「その手ぬぐいはどうした?」
「まむしの市が持って行きやしたよ。薄笑いなんて浮かべやがって、あいつ、ほんとに薄気味悪い奴ですぜ。けったくそ悪い」
「……」
「いや、おいらだって罪もねえ娘っこに絡むなんてこたぁ、したくねえですぜ。ただ、まむしの市って奴ぁ、ちょっと薄気味悪いくらいに逆恨みと八つ当たりするんで、みな、腫れ物に触るようにしてやす」
「ふうむ……。そいつは強いのか? 剣術は? 得物は何だ?」
「いやあ、あっしが見たところでは、手前勝手な剣術じゃねえのかなあ。得物はもっぱら脇差のようです。場数を踏んでるだけあって、強いは強いと思いますよ。ただ、酒と女にはめっぽう弱えみてえです」
「よし。わかった。あとで若い者をよこすから、刺青しに来い。いや、逃げても無駄だ。押さえつけて、てめえの背中に彫ってやるよ。二度と俺の女に手を出せねえように、思い切り痛く彫ってやるから覚えてやがれ」
 ガマ助の顔色が変わり、震えだした。
「それが嫌なら俺の手伝いをしろ。あとで連絡する」
 作治は立ち上がりながら小銭を置いて、風のように飛び出して行った。。
 ガマ助はまむしの市が琴に惚れたと思っているようだが、それは違うだろうと作治は考えた。なぜなら、惚れた女をわざわざ火付けの犯人に仕立て上げるわけが無いからだ。
――ひょっとしたらまむしの市は、俺の代わりにこの界隈の顔になりてえのか。そして、堅気になった俺をあぶりだすために、琴を狙ったのか。畜生め。
 過去にそういう事件があったことを作治は思い出していた。ただ、その事件は現役同士の攻防であって、自分のような引退者を狙った話ではなかった。だから油断をしていた。
 次に作治が向かった先は上野山下の四六見世「睡蓮楼」である。ワケ知り顔の下足番の男が目ざとく作治を見つけ、軽く頷いた。桔梗は空いているという合図である。
 作治は見世の前を素通りし、そのまま脇の木戸をくぐった。


七 桔梗の活躍

 二日後、看板女郎の桔梗が、見世の座敷でまむしの市を歓待している。
 床の間を背にしたまむしの市は、最初用心深げに居住まいを正していたが、桔梗の触れれば溶けてしまいそうな態度とあでやかな笑顔に次第に膝が崩れ、盃を空にする手が忙しくなってきている。
 ニヤニヤと笑いながら、まむしの市が桔梗の膝に触れた。
「しかし突然ガマ助が使いに来たときはびっくりした。あんた、ガマ助の知り合いなんだって?」
 桔梗は首をかしげてにこりと笑い、いやらしく膝を撫で回すまむしの市の手に白い手を重ねた。
「あい……ここの下男がガマ助の知り合いなのでござんす」
「ガマ助が言うには、あんたが俺に惚れたとか」
 桔梗は空になった盃に酒を注ぎながら、ちらりと流し目をし、意味ありげな含み笑いをした。
 まむしの市は妙に赤い舌をちらっと出してにたりと笑った。
「へっへ、そうかそうか。俺もまあ、まんざらでもねえなあ。あんたみたいな別嬪さんに惚れられて、呼び出されて、ご馳走になるだなんてよ」
 桔梗はきらびやかな簪を揺らし、さらにくなくなと身をしなわせた。
「今夜はゆっくりしていって下さいまし」
 桔梗は流し目も男あしらいも手馴れたものだ。
「ああ、やけにのどがひりつくな」
 まむしの市は立て続けにがぶりがぶりと酒を呑んだ。火照り始めた身体に上等の冷酒が沁みる。
 桔梗はぱっと開いた扇で顔を半分隠しながら、つぶやいた
「ああ、こんな仕事が恨めしい……せめて今夜だけは……惚れたお方だけと」
 まむしの市はすっかり乗り気になった。盃を飲み干して、音を立てて膳に置く。
「そ、そろそろ、どうだ」
 桔梗はさらに扇で顔を全部隠し、膝をずらして男から少し離れた。
「その前に、ちょっと気になることが……」
 まむしの市がさらににじり寄り、桔梗の腰に手をまわした。
「何だよ。さっさと布団に行こうぜ」
「駄目。ちゃんと答えてくれなきゃ。……ねえ、市さん。赤城屋さんの付け火のことなんだけど」
 まむしの市の動きが止まった。いぶかしげに桔梗の顔を覗き込む目には警戒の色が浮かぶ。
「付け火がどうした? 何が聞きたい?」
 桔梗は素に戻って居住まいを正した。
「実は、犯人のお琴さんは、あたしの『おはり』になる子だったの。それでちょっと気になって聞いてみたんだけど、お琴さんの手ぬぐいが現場に落ちていたんですってね」
 まむしの市は未練たらしく桔梗の腰に手を伸ばそうとしている。
「あたし、あの日見たのよ。たまたま境内でガマ助がお琴さんに絡んでいるのを見て……。両方とも知り合いだから、びっくりしたわ。それで、お琴さんは走って逃げてしまったから、ガマ助の後をつけてみたの」
「む……」
 まむしの市の目が険しくなった。
「そしたら物陰からあなた様が出てきて、二人で浅草寺の裏手に行って。あなた様がガマ助から手ぬぐいをもらって帰るところも見たわ」
 まむしの市が桔梗の手を強く握り、引き寄せた。
「お前、そのことを誰かにしゃべっちゃあいないだろうな」
「いいえ。誰にも」
「惚れた男の頼みだ。誰にも言わないでくれ。頼む」
「あら、それではやはりあなた様が……。それから手ぬぐいをどうしたの?」
「俺が疑られちまうから、何も言っちゃあならねえ」
「それじゃ……そういうことなの?」
「そ、そんなことより早く床入りしようじゃねえか」
「ねえ、はっきり言って。手ぬぐいをどうしたの」
 今度ははっきりと警戒の色を浮かべて、まむしの市が問い返した。
「何でそんなことを知りたいんだ」
 桔梗はあでやかな微笑を浮かべ、まむしの市にしなだれかかった。
「うふふ。あたし、実は悪党が大好きなの。ひと旗あげたいからよ。札差のめかけにでもなって、一服盛って殺して、有り金を巻き上げたいの。そのために度胸のある相棒が欲しいのよ」
 うるんだ瞳で見つめられ、まむしの市はつばを飲み込んだ。
「じ、実は火付けは俺がやったんだ。手ぬぐいをあそこに置いたのも俺だ。どうだ、俺と組まねえか」
 桔梗はわざとらしく目を丸くした。
「いたいけな町娘を陥れるだなんて、なんて極道な……。でも、そういう度胸のあるお方でないと、いざという時頼りにならないわ。でも、本当に本当?」
「ああ。本当だ。本当だとも」
 その時である。まむしの市の左斜め後ろ、床の間の隣にある押入れの戸が音も無く開いて、痩せた背中に何かがひらりと飛びついた。
「うぎゃああ」
 途端にすさまじい激痛がまむしの市を襲った。桔梗が横に飛びのいた。
 まむしの市の左肩甲骨の下に刺青用の針が三、四本、深々と刺さっている。ちょうど手が届かない場所になっていて、まむしの市は右から左から背中に手を伸ばすが、抜き去ることが出来ないでいた。
 作治が大声で呼ばわった。
「おい、まむしの市! よくもお琴ちゃんに罪をかぶせたな! 押入れの中で、お前の悪事をしっかと聞いたぞ!」
「痛てえ! 痛てえよ! 抜いてくれ!」
「駄目だ。岡っ引きの旦那に引き渡すまでぬかねえ」
 桔梗が心得顔で奥座敷のふすまを開けると、覗き部屋で待機していた岡っ引き二人が飛び込んできて、まむしの市にあっという間に縄をかけてしまった。
「作ちゃん、やったわね。打ち合わせ通りに運んだわ」
 作治は桔梗の手を取った。
「姉ちゃん、ありがとう。助かったよ」
「何を言ってるの。たった一人の弟のためじゃない。それよりあんた、お琴ちゃんを手放さないようにしっかり守りなさいよ。あたしは若旦那という金づるを手放さないようにするから」
 恐ろしい捕り物の直後にぺろりと舌を出す桔梗である。
「それにしても姉ちゃん、肝が据わってるなぁ」
 作治はあっけにとられたように桔梗の顔を見た。桔梗はもうすまし顔に戻って、扇で顔をあおいでいる。
たまたま待遇の良い岡場所に居るとはいえ、それなりに修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。作治は苦界に沈んでも尚しなやかに生きる姉に、心の中で手を合わせた。


八 大団円

 それからひと月が経った。
 琴は無事に長屋に戻り、吉原でおはり仕事を始める日が近づいて来た。桔梗は一足先に吉原入りを済ませている。
 今日の作治は、琴と一緒に浅草寺境内にある淡島明神にお参りに来ている。
 一人娘の大切さがよほど身に沁みたたのか、トメは琴の言動に対して文句を一切言わなくなった。
 いまの琴は姉さんかぶりを止め、ほんのりと薄化粧をしていた。そして作治が持ってきた若々しい着物や帯を身に付けている。髪には作治が日本橋で買った簪が挿してあった。
 作治は眩しげに琴を見た。
「しかしお琴ちゃん、俺の姉ちゃんにまるで気付かなかっただなんてなあ。姉ちゃんの方は少し話していて気付いたらしいけど、言っていいものかどうなのかわからなくて黙っていたんだってさ」
「そうなのよ。桔梗さんと話しているとき、どこか懐かしい感じのするお方だなあとは思ったのだけど……まさか作ちゃんのお姉さんだったとは」
「もっとも姉ちゃんが奉公に出たのは十一の時で、お琴ちゃんは五つにもなってなかったからなあ。それに長屋にいたときは日焼けで真っ黒で、ごぼうみたいだったし」
「でも後で考えたら、確かに桔梗さんは、お化粧を全部落とすと作ちゃんに似てるわね」
「家の借金のカタに売られていったのに、そのあと火事でふた親とも……考えてみりゃ、姉ちゃんもかわいそうだ」
「そうね……」
「まあ、奉公が明けたら、俺たちと一緒に暮らせるように、俺も頑張らないとな」
 琴は無言のまま作治に微笑みかけた。
「俺は、彫り物師になってからちょくちょく岡場所で女郎さんの刺青なんかを手がけていたから、自然と姉ちゃんと会うことが多くなってな。姉ちゃんと赤城屋のことも、俺は知ってた。でもまさかこういうこまごました付き合いが捕り物に役立つとはなあ」
 琴は立ち止まると改まって頭を下げた。
「本当にありがとうございました。あたしが今ここで笑っていられるのは作ちゃんと桔梗さんのおかげよ」
 作治は両腕を組んで照れ笑いをする。
「よせやい。別にお礼を言って欲しくてやったわけじゃねえし。気付いたら頭と体が動いていただけだ。惚れた女が無事に戻ってくれたなら、俺はそれでいいんだよ」
 琴の頬が染まった。
「あのさ、作ちゃん」
「ん? なんだい?」
「ずっと前に言ってたあれ、あたしの背中に彫り物したいって話だけど……彫ってもいいのよ」
「ああ、あの話か。いや、俺はもう彫らないよ」
「なんで? 怒ったの?」
「違うよ」
 作治はまぶしそうに微笑んで琴の手をしっかりと取った。
「あんときお琴ちゃんは俺のものじゃなかったから彫りたかったんだ。今はもう誰にも文句を言わせない俺の女なんだから、彫りたくない。ただそれだけだ」
「馬鹿」
 ほうずきのように赤くなった琴は袖で作治の背中をぶった。しかし今度は駆けて行かず、代わりに作治の袂をしっかり握って並んで歩き出したのである。

 -了-







最終編集日時:2010年12月14日 13時22分

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