2008年9月8日 6時30分 |
物書きの仲間入りだぜ! |
このブログの作品も含めた私の本が11月15日に文芸社より発売されることが決定しました。 本のタイトルは「夢幻空花(むげんくうげ)なる思索の螺旋階段」です。 宜しければ手に取ってお読みください。 |
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2007年10月28日 7時28分 |
審問官 廿一――主体弾劾者の手記 廿 |
私は雪を銀杏の街路樹の下に誘ひPocketから煙草の箱を取り出して先づは雪に勧めたのであった。といふのも雪は「男」に陵辱されてから多分の煙草を喫むやうになったと信じて全く疑はなかったのである。実際、雪は私が差し出した国産煙草で最も強いのは頭がくらくらするからと言って自分の煙草を鞄から取り出して一本極々当然といった自然な仕種で銜へたのである。 君は自殺してしまったフォーク歌手、西岡恭蔵の「プカプカ」といふ名曲を知ってゐるかな。 1971(S.46)年、西岡恭蔵さんの自作自演曲だが Creditは 象狂象 作詞/作曲 西岡恭蔵 唄 JASRAC作品コード072-1643-2 一 俺のあん娘(こ)は たばこが好きで いつも プカプカプカ 身体(からだ)に悪いから 止(や)めなって言っても いつも プカプカプカ 遠い空から 降ってくるっていう 幸せってやつが あたいにわかるまで あたい たばこ 止めないわ プカプカプカプカプカ 二 俺のあん娘(こ)は スウィングが好きで いつも ドゥビドゥビドゥ 下手くそな歌は 止(や)めなって言っても いつも ドゥビドゥビドゥ あんたが あたいの どうでもいい歌を 涙流して わかってくれるまで あたい 歌は 止めないわ ドゥドゥビドゥビドゥビドゥ 三 俺のあん娘(こ)は おとこが好きで いつも ムーーーーーー 俺のことなんか ほったらかして いつも ムーーーーーー あんたが あたいの 寝た男たちと 夜が 明けるまで お酒飲めるまで あたい おとこ 止めないわ ムーーーーーーーー 四 俺のあん娘(こ)は 占いが好きで トランプ スタスタスタ よしなっていうのに おいらを占う おいら あした死ぬそうな あたいの 占いが ピタリと当たるまで あんたと あたいの 死ねるときがわかるまで あたい 占い 止めないわ トランプ スタスタスタ といふ歌詞なんだが私は雪の或る一面をこの「プカプカ」の女性に重ねてゐたのだ。想像するに難くないが、雪は普段は対人、特に「男」に対する無意識の恐怖心の所為で、例へば過呼吸等緊張の余り呼吸が乱れてゐる筈で、煙草の一服による深々とした呼吸が雪を一時でも弛緩し呼吸を調へるのだ。さうでなければ雪が純真無垢な微笑を浮かべられる筈はない。あの時期の雪にとって煙草は生きるのに不可欠なものだったのさ。 一方で私だが、私にとって煙草はソクラテスが毒杯を飲み干して理不尽な死刑を敢行した、或いは詩人のランボーの詩の中に「毒杯を呷る」といふやうな一節があった気がするが、私にとって煙草を喫むのは《生》を実感する為の毒なのだ。私には毒無しには一時も生きられない程、既にあの時から追い詰められてゐたのさ。《生きる屍》として何とか私が生きてゐたのは何を措いても煙草があったからなのさ。飯は食はずとも煙草さへ喫めればそれで満足だったのだ。今も病院で私は強い煙草を喫んでゐる。最早終末期の私には何も禁じる物なんかありはしない。へっ――。 (以降に続く) |
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2007年7月9日 5時56分 |
或る赤松の木 |
その赤松は古城の堡塁址の北側といふその堡塁址で一番棲息環境が悪い一角に半径五メートルの砂地に芝が植ゑられてゐる円の中心に堂々と立ってゐた。多分その赤松には何かの謂れがあるに違ひないが詳細は不明である。しかし、その赤松はこの地区の人々に何百年にも亙って大切に守られてきたことはその赤松の姿形の何れからも一目瞭然であった。 私は何時もその堡塁址を訪れる時は南方より楢や山毛欅(ぶな)や檜などが生えてゐる様を武満徹の音楽に重ねながらゆっくりと歩くのが好きであった。それらはまたあの赤松の防風林になってゐるのも一目瞭然で、しかし、それにしてもその古城の堡塁址の林は人の手がよく行き届いた林であった。 ところが、赤松が立ってゐる場所近くになると武満徹の音楽はぷつんと終はって突然笙の音色が聴こえて来るかのやうに辺りの雰囲気は一変するのである。赤松が生えてゐる場所は雅楽が似合ふある種異様な場所であった。 林が突然途切れるとあの赤松がその威容を誇るかのやうに堂々と立ってゐるのが見える。 赤松の幹の赤褐色が先づ面妖な「気」を放つのである。赤松の幹の色は嘗て此処に威風堂々と構へてゐた城が焼け落ちるその炎の色を髣髴とさせるのだ。 芭蕉を捩って本歌取りをしてみると 赤松や 兵どもが 夢の跡 といふ句がぴったりと来るのである。 私はその赤松に対するときある種の儀式として、先づ此の世が四次元以上の時空間で成り立ってゐることと上昇気流の回転を意識しながらその赤松の周りを反時計回りにゆっくりと一周してから赤松に一礼して赤松に進み出でるのである。そして、左手でその赤松の幹を撫で擦りながら『今日は』と挨拶をするのである。そこで赤松を見上げその見事な枝振りに感嘆し、この赤松もまた螺旋を描いてゐるのを確認して芝に胡坐をかいて坐すのが何時もの慣はしであった。 ………………… ………………… ――雅楽の『越天楽』が何処からか聴こえて来る…… 不意に日輪を雲が横切る…… ――突然、夢幻能『芭蕉』が始まる…… ――今は……何時か……此処は……何処か……全ては夢幻か…… |
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2007年6月25日 6時37分 |
鏡面界 |
********************副題************************************** Pianist ハロルド・バッド(Harold Budd)の静謐な演奏が白眉な、Ambient Music(環境音楽)の創始者であり、現在ではClassicの現代音楽家とも目されるブライアン・イーノ(Brian Eno)の美しき1980年の作品「 Plateaux of Mirror 」(邦題:鏡面界)を聴きながら…… *************************************************************** 追記 イーノの作品で私はNASA制作の映像作品のSoundtrack盤「APOLLO(邦題:アポロ)」が一番のお気に入りである。 **************************************************************** 万華鏡を覗いてゐるとその変幻自在で色鮮やかな千変万化する鏡面世界は私の思考を無理矢理にでも宇宙に誘(いざな)ふのである。 ――Black hole(ブラックホール)…… 最近、Black holeは存在しないといふ新説が発表されたが、ここではBlack holeが存在するものとして話を進める。 さて、光すら逃れられないBlack hole内はその名に反して眩いばかりに光り輝く鏡面世界なのではないかと最近、特にさう思ふ。銀河の中心域の輝きを見ると尚更さう思へてくるのである。 ――Light-shining hole…… 唯、シュヴァルツシルト半径または重力半径と呼ばれるBlack holeの境界域のみ漆黒なのであって、仮にその境界域を鏡面界と仮定すればBlack holeは万華鏡と同じと考へられなくもないのである。 ――もしかすると銀河の中心域もまた鏡で出来た『林檎宇宙』([水鏡]を参照して下さい)の縮図なのかもしれない…… ――Fractal(フラクタル)的に考へると……この私が存在してしまってゐるこの宇宙自体が巨大な巨大な巨大な巨大なBlack holeと考へられなくもないではないか…… ――ふっ、面白い…… ――するとだ……宇宙外にはこの宇宙を中心とする巨大な巨大な巨大な巨大な銀河が形作られてゐるのかもしれない…… ――するとだ……この宇宙をBlack hole型宇宙だと仮定すると……この宇宙を閉ぢ込め包み込む更に巨大な巨大な巨大な巨大なBlack hole型の宇宙が存在し、それが無限に続いてゐるとすると…… ――ふっ。鏡面界を皮と見立てると……この世といふものは巨大な巨大な巨大な巨大な……鏡で出来た無限の『玉葱宇宙』といふことか…… ――また……『無限』といふ名の陥穽に落ちてしまったぞ…… と、不意にイーノの「鏡面界」が終はったのであった。 |
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2007年5月21日 6時9分 |
浅川マキと高田渡と江戸アケミ |
何時もはClaasic音楽漬けの日々、特にシュニトケ(ロシア)、ベルト(エストニア)、グバイドゥーリナ(ソ連->ドイツ)、武満徹などロシアと日本を含めたロシア周辺の現代作曲家の作品を好んで聴く日々を送ってゐるが、時折、日本のMusicianで言へば浅川マキと高田渡と江戸アケミの三人の歌声が無性に聴きたくなることがある。 閑話休題。 音楽と言語は現代理論物理学の実践に他ならないとつくづく思ふ今日この頃だが、量子力学的に言へば、音楽は波を主軸に、言語は量子を主軸に置いた理論物理学の実践である。 先づ音楽であるが、音符などの記号といふ『量子』と、音といふ『波』の二面性がある。しかし、音楽の記譜に用ひる記号は音の状態のみに特化したものなので音楽は感性的で抽象性が強い表現方法である。多分、一流の演奏家は作曲家の頭蓋内を覗き込むかのやうに眼前に記譜された楽曲を理解してゐるに違ひないと思ふが、私のやうな凡人には楽曲の演奏を聴いて魂が揺さぶられるが、何故? と問はれてもそれは言葉では表現出来ないのである。 次に言語であるが、文字といふ『量子』と、読みといふ『波』の二面性がある。特にここでは日本語に絞って話を進めるが、もしかすると理論物理学の実践といふ点で言へば日本語が最先端を行ってゐるのかもしれない。 埴谷雄高は何も書かれてゐない原稿用紙を『のっぺらぼう』と表現し、その『のっぺらぼう』を埴谷雄高独自の宇宙論へまで推し進めたが、『のっぺらぼう』は正に虚体論に直結してゐる。 何も書かれてゐない原稿用紙の『のっぺらぼう』の状態は私がいふ『虚の波体』の状態でのことである。じっと何も書かれてゐない原稿用紙を前にして書くべきものの姿が全く表象出来ない状態が所謂『虚の波体』の状態である。すると頭蓋内の暗黒の中に何やら『存在』してゐるやうな気配が感じられ始めるのだ。これが私のいふ『陰体』である。更に集中し頭蓋内の『それ』へSearchlightを当てるとその『陰体』はその姿を表象する。これがある言葉が出現する瞬間である。 さて、日本語は漢字の読みがいくつもあって、つまり量子力学的に『波が重なり合ってゐる』状態を実践してゐて面白い。書き手の頭蓋内で言葉の量子力学的状態が決したならば書き手は眼前の原稿用紙に先づ一文字を記す。これが言葉の『量子化』である。そして、最初に記された言葉の『状態』を更に固着化するために次の言葉が書き連ねられるのである。これは正に現代理論物理学の最先端の実践に他ならない。特に漢字の読みが幾つもある日本語はその更に先端を実践してゐると思はれる。 閑話休題。 さて、本題に戻ろう。浅川マキ以外はもう故人である。そして私的に数時間ではあるが直接本人と歓談したことがあるのも浅川マキ一人きりである。 浅川マキは浅川マキにしか表現出来ない独自の音楽世界があって彼女はそれとの格闘の日々を過ごしてゐるといっても過言ではない。後はInternetで検索してみれば彼女のことが少しは理解できるかもしれないが、普通の音楽が好きな人には彼女の『異端』の音楽は薦められない。彼女の音楽の核は『詩』である。 次にフォーク歌手の高田渡だが岡林信康や吉田拓郎に代表されるフォークが好きな人には高田渡は「何、これ」と言はれるに違ひない独特の味を持ったフォーク歌手である。何といっても山之口獏の詩を高田渡が歌った楽曲が一番である。高田渡は晩年私の好きな詩人の一人でシベリア抑留を生き延びた石原吉郎の詩を歌ふことに挑戦し始めたが、まだ石原吉郎の詩の言葉の存在感を手なずけられないままあの世へ行ってしまった。石原吉郎の詩の言葉の重さを手なずけた高田渡の歌が聴きたかったが返す返す間も残念無念である。 最後に江戸アケミであるが、彼は知る人ぞ知る伝説のバンド、JAGATARAのVocalistである。パンク、ファンク、レゲエ、中南米の音楽からさて、アフリカ音楽へ挑戦しようとしたところであの世へ行ってしまった。彼の書く歌詞は最高である。全てが江戸アケミの遺言になってゐるのだ。晩年、精神を病んでしまった彼のその人間の壊れ行く姿が克明に彼の音楽には記録されてゐるのでこれまた万人には薦められない音楽である。 浅川マキ、高田渡、そして江戸アケミの三人三様の独自の音楽世界は私の栄養剤である。 |
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