くる天 |
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プロフィール |
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佐藤浩士 さん |
はるだいぱぱ@愚者の旅.com |
地域:兵庫県 |
性別:男性 |
ジャンル:暮らし ライフスタイル |
ブログの説明: マルセイユタロットの世界観の探求などを中心に日々の出来事や思ったことを綴った日記です. |
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なぜタロットなのか? |
[◆タロット考察] |
2013年7月4日 20時24分の記事
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この問いは、今もって私の中にあるし、これから先もこの問いに対する答えは出てこないのかもしれない.
今、分かっているのは出自も分からなければ、本来どういう意図をもって作られたかも明確ではないものに私自身が魅了されているということ また、そうした”いかがわしさ”の故にこそ無限の可能性を感受しているということ
なぜ魅了されたのか? なぜ可能性を感じるのか?
そこに合理的な理由は見出せない。
確かに取ってつけたような理由をあてがうことはそう難しいことではないし、分かったような気分になれば、この得体の知れない絵札に対して対等な立場に立ったような錯覚すら覚えてしまう。
しかし、そんな私の心を見透かし嘲笑うかのように、タロットは私の浅はかな目論見を裏切っていく
誤解を恐れずに言えば,タロットには”裏切られる快感”がある。 それを気づきとかひらめきとか、あるいはちょっぴり神秘めかして”啓示”なんて言葉で表現してみれば随分スマートな印象は与えられるのかもしれないが最も肝心な何かが抜け落ちてしまう。
例えは悪いかもしれないが,天国や極楽浄土と呼ばれるような場所には決定的な何かが欠けているのに似ているのかもしれない 他の人がどうかはわからないが、少なくとも私にはそう感じられるし、ここ何年かスピリチュアルな世界でよく言われるところの”アセンション”にも似たような匂いを感じてしまう
*しかし、誤解しないで欲しいのだがここで私の言っているアセンションに対する上述の感じ方は、アセンションそのもの(つまりその真偽や、その意義)に対してではなく、アセンションという言葉がまとってしまっている”雰囲気”に対してである それは、天国や極楽浄土にしても同じことだ
ここで、図らずも”気づき””ひらめき””啓示”といった言葉が出てきたので、それを表現しているタロットカード(大アルカナ)を見てみるのも面白いかも知れない.
まずは,「6恋人」 そして、「16 神の家」(他のデッキでは”塔”と呼ばれることが多い)
最初の「?恋人」には、一人の男性を囲む二人の女性と上空に天使が描かれている. このカードからは一つには、件の男性がどちらの女性を選ぶか思慮しているような様子から”選択”というテーマが浮上してくるのだが,それを決めるのは上空に描かれた天使であることから、直感とかひらめきというキーワードが導き出される。 絵柄そのままに恋愛のワンシーンを描いていると見るのが定石だろう。 この直感やひらめきというのは、そもそも自分が感じるものではあるけれど、決して自分の意志で生じさせたものではない. 自分の預かり知らぬ何処かからやってくる。 その何処かを象徴的に表現したのが天使であり、その天使の構える矢はさしずめ男性にもたらされる直感といったところだろうか.
恋愛において、自分が選択しているようで実のところそこには選択の自由などないのかも知れない
「”恋はするものではなく 堕ちるもの”」
とはよく言ったものだと思う.
ところで、この天使は、一般的には”愛の天使=キューピッド(正確にはクピドーと発音するらしい)”ということになっているが、実のところその正体は”性愛の神=エロス”だという説もある. その愛の神、カードには幼い子供のようにも見える顔として描かれているが,その裏には”死”の顔を持っている. 生と死は、表裏一体の関係にあり、それは”生=性=聖”と言う図式をどこか匂わせるところがある.
性を抜きにして恋愛を語ることは出来ず(それは肉体関係のあるなしを問わない)、また、常に意識することはなくとも”死”の波打ち際を歩むような感覚を感じる瞬間がなくはないだろうか
こうしてみると、このたった一枚の絵柄にはどこにでも転がっている恋愛ドラマが見てとれると同時に、生(性)と死にまつわる人間の深遠なテーマが凝縮されているのがわかるだろう。
タロットが単なる記号ではなく象徴であるというのは、こうした複層性にある. しかも、タロット大アルカナ22枚を一幅の絵、あるいはいっぺんの絵巻物としてみればその複層性・多層性というのは複雑怪奇な様相すら呈してくる.
さて、次に「16神の家」だが、啓示の表現として雷(神鳴り)が描かれている. (マルセイユタロットを参考にしています) そしてその雷が石積みで建設された塔に落ちる様子と、王冠がその塔の上部に戴冠されようとしている様子が同時に描かれている. 塔の下部では二人の人間が、その塔から放り出されるか逃げ出そうとしているふうに描かれている.
このカードは非常に両義的で、先の王冠が戴冠されているとみれば祝福となり、他のタロットのデッキでよく言われるように塔から吹っ飛んでいるとみれば崩壊ということになる じゃあ、どっちなんだということになるが,結論から言うとどちらでもある.(と私は解釈している)
崩壊=祝福とは納得いかないかもしれないが、「ピンチの時こそチャンス」という通俗的表現をすればいささかイメージしやすいかもしれない. そうすれば,必然的に雷の示唆するところや、二人の人間の意味合いといったものが見えて来るように思う.
もう詳しくは説明しないが、この絵にも性的な表現が先の「6恋人」同様表現されている. しかも、大胆かつ直截的なかたちで
実はタロット(ここではマルセイユ系)には、上に述べたような性的で両義的なテーマが象徴として至る所にちりばめられている. そして、魂に付与された諸性質の表現が、それぞれの大アルカナに見事に象徴的に表現されているのがタロットなのだろうと思う. (ユングならそれを彼の言葉で”元型”と呼ぶだろう)
特に結論めいたものを書く気はないが,このようにしてタロットの底がちょっと見えた気になったとしても先にも書いたように私はタロットに見事に裏切られ完膚なきまでに叩きのめされるような屈辱的快感を何度も味わってきた.
しかし、そうした体験こそがこのタロットのまとう”いかがわしさ”を”可能性の中心”へと変貌させるのである.
つまり、タロットとは理解や分析ではなく体験を通してしか知りえない何かなのだというのが今の偽らざる感想です.
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