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「風説堂流坊」三
[【時代小説発掘】]
2010年5月17日 17時40分の記事


【時代小説発掘】
「風説堂流坊」三
古賀宣子


(時代小説発掘というコーナーができた経緯)

梗概:

出雲寺家と須原屋の百年にわたる武鑑出版攻防の陰に、大導寺住職の人生が絡む。

作者プロフィール:

古賀宣子。年金生活の夫婦と老猫一匹、質素な暮らしと豊かな心を信条に、騒々しい政局など何処吹く風の日々です。新鷹会アンソロジー『武士道春秋』『武士道日暦』『花と剣と侍』、代表作時代小説『剣と十手の饗宴』などに作品掲載。
 当コーナー【時代小説発掘】では、編集担当。

 前作は、「風説堂流坊」 「風説堂流坊二」


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【時代小説発掘】
「風説堂流坊」三
古賀宣子



一 『はな』

「どうぞ、こちらへ」
 平三が手渡した紙片を見るなり、女将は声を落とした。
 少し腰が曲がり、頭髪の薄くなった男が平三の履物を下足の棚へ。端折った裾と色褪せた紺地のパッチを横目で捉えながら、ざっと店内を見渡した。衝立で仕切られた客席は、旅人や仕事帰りの職人たちで賑わっている。土間には酒樽が積まれ、その奥の調理場や帳場など、店の者は女将のほか四、五人はいるだろうか。
「しばらくお待ち下さいませ」

 二階の一室に平三を案内すると、女将はにこやかに消えた。町屋でよく見かける格子柄の地味な色合いが、却ってはっきりした目鼻立ちを際立たせている。初老とみるには気の毒だが、年増と呼ばれて久しい年齢であろう。しかし二十歳の平三でも、視線を留めるほどのあでやかさがある。
 ここは鍛冶橋東方にある縄暖簾『はな』だ。女将の名は菜美。ほどなく女将は小さな風呂敷包みをしっかり抱いて現れた。それをそのまま受け取り、油紙の包みを懐深くしまった平三は、手早く風呂敷をたたむと「確かに」と返した。

「お住職さまは、お変わりなく」
「多忙な日々ですが、風邪ひとつひきませぬ」
 先ほど見せた紙片は、女将にとっては長年見慣れた大導寺住職照円の筆跡である。
「いつもお見えになる・・・」
「留十郎は他への急用ができ、手前が参りました」
 平三はそこで初めて名を名乗り、留十郎と同じ掃除番だと言った。
「父親の源吉さんもお達者で」
「あそこは、孫まで元気に寺仕えです」
 うなずく艶麗(えんれい)な眼差しが哀切な色を湛え、何か言いたそうにしていたが、振り切った。
「では、これにて」
 住職から長居は無用といわれていたのだ。
 下りてきた平三を見て、先ほどの男が下足札を外して揃える。
「提灯は」
「月明かりで充分」
「では、お気をつけて」
男は女将に代わって、外まで出てきて頭を下げた。

 他人が見聞きした噂を識別する。それも噂屋修業の一つとは、照円の持論だ。人によって五感への響き方は異なるので、軽く扱われた文面が妙に気になる場合や、その逆もあるからだ。
 その晩、早速包みに目を通していると、達磨顔の住職が話しかけてきた。
「どうだ。めぼしい一件はあるか」
「まだ、今のところは。それより、男のような筆跡ですね」
「書いたのは女将ではないぞ」
「えっ、では、誰が」
「下足番の爺さんがおったであろう」
「あの人が。少々顔色の悪い」
「ああ見えて、目や耳はすこぶるいい。嗅覚も」
「下足を預かりながら素早く人品(じんぴん)を定めるわけだ」
「二階は女将に任せる」
「なるほど」
「角造といって、菜美の父親だ」
「本物の親子ですか」
「無論。木挽町に『川波』という料理屋があるが」
「聞いたことがあります」
「そこの先代が下総の出で、面倒見がよく」
 若い者を引き受けては修業させていた。角造もその一人で、やがて洗濯女のキクと所帯を持ち、長男修吉が生まれる。


二 火鉢の灰

「魚を捌いていたのがおったであろう。それだ。その後、二年ずつおいて菜美と次男善吉が生まれた」
「すると、あの女将も、『川波』で働いていたのですか」
「そうだ。倅二人も、あそこで修業を」
「それで、あの店はいつ頃から」
「その辺のことは、わしも」
 角造夫婦が小さな店から始めたのではないか。子供達が加わったのはしばらくしてからだろうと照円はいう。
「帳場に坐っている女が修吉の女房だ」
「確か、膳を運んでいるのもいたような・・」
「それは善吉の嫁だ。客あしらいが上手い」
「若いのが、四斗樽から升に注いでいたな」
「修吉に倅がおるゆえ。善吉の方は娘で、まさしく一家総出だ」
「で、菜美さんはあんなにきれいな人なのに、ずっと独りで」
 照円の呼吸と表情が一瞬、止まった。


「鉄漿(おはぐろ)で染めておったであろう」
「それは、そうですが・・」
「聞くも涙、語るも涙でのう」
 つぶやくような物言いだが、独経で鍛えた声音が、静まりかえった庫裏に染み渡る。
「あの娘(こ)は、十二、三の頃から既に大人の色気を漂わせておって」
「それでは、さぞかし客の関心を集めていたでしょう」
「『川波』では、まだ子供だからと防戦一方じゃったが、結句よくある話へと収まったようだ」
「ようだって、お住職は石部金吉だったのですか」
 平三がおどけて照円を見据える。
「残念ながら川崎の小さな寺におったゆえ」
「幸か不幸か面識なしだった」
「知っておったら前のめりまではなりかけた、だろうが、それ以上は、な。母ちゃんときたら、勘が鋭くて・・」
 照円は最後をはにかむように呟いた。
「怖くて頭が上がらなかった」
 名を貞といって、照円より二歳上の妻だと、初めて知った。

「お二人の馴れ初めは」
 話が逸れてきたが、平三にとっては涙を含む菜美の話よりも、照円の過去の方に興味があった。出雲寺家の遠縁に当たるとしか聞かされていなかったので。
「京都の出雲寺家で働いておって、母ちゃんも」
「すると、所帯をもった後で僧籍に・・」
「どうしても商いに馴染めず」
 照円は独りごつ。が、それ以上は話したくない様子だ。平三は訊く角度をかえてみた。
「鋭い勘だけですか。頭が上がらなかったのは」
「実は、幼い倅を抱えておったからのう」
「ちょっと待って下さい。子供が生まれてから僧籍に・・」
「いかにも。倅の名は隆介。六歳だった。母ちゃんはそのまま製本作業に携わっており」
 子供の名を口にした双眸(そうぼう)に、今まで見たこともない翳が差した。が、これ以上触れるのは、二十歳の平三には、荷が重過ぎる。
「修行は何年なさったのですか」
「五年だ」
 即座に平三は、子供の年齢を数えた。充分に物心はついている。新たな道へ挑んだ父親をどう捉えただろうか。
「東下したのはいつ頃で」
「修行を終えて直(じき)。ちょうど元号が寛政に改まった年で、川崎の無住だった小さな寺が始まりだ」
「そこを、一家で守り立てていったのですね」
「倅は残った。出雲寺家で丁稚奉公しておったゆえ」
 照円はしきりと火鉢の灰を掻き分けている。
「寺より商いを望んだわけか」
「母ちゃんの手を振り払い、わしを睨みおって」
 片方にばかり灰が盛り上がり、炭火の側面がむき出しになると、山になった灰をまた崩していく。その繰り返しだ。
「残って、悔いはなかったのでしょうか」
「分からんが、母ちゃん宛ての手紙によると、着実に学びつつあり」
 一度、貞は京へ上っており、手紙の内容が虚勢でないことを確かめているという。
「それでは、なかなか店を離れるわけにはいかない」
「再会したのは、母ちゃんが亡くなったときだった」
 一瞬、火箸の動きが止まった。
「いつですか、それは」
「お前さんを預かる前年だ」
 平三はここへきて四年になる。由緒ある旗本家の三男坊が、ある事情から勘当され、元服した翌年から大導寺に身を寄せている。持病だった咳の発作は完治したわけではないが、士分を剥奪され、平之進が平三の暮らしになり、それほど苦にならなくなった。
照円は大きく息を吸い込み吐き出すと、声を改めて言った。
「菜美の店があそこに出来たのは、わしが、もう少し規模の大きい寺に移る前らしいゆえ」
 先ほどは知らぬと言ったくせに。そう思ったが口にしなかった。
「その寺は、江戸の、ですか」
「まだ川崎だ。ここへは、それから九年後、出雲寺家の当主が十代目に変わったときだったから忘れもせん」
 照円四十九歳、貞が五十一になり、京都の隆介は三十歳に達していたという。
「江戸店との関りもあったのですね」
「東国に下ってきた際、挨拶に行っておるし、その後は当主が変わるたびに・・」
「すると、今の出雲寺家和泉は何代目ですか」
「和泉は書物問屋としての名で、書物師としてはそれぞれ名が異なる。今は十一代目富五郎だ」
「弥源太は、その人の末子ですか、それとも先代の」
 平三と同じく噂好きの仲間である弥源太は、妾腹の子なので苗字が名乗れないと聞かされている。
「それが複雑でのう。語ると長くなるので、そう言っておるのだ」
 照円はいつもの笑顔をみせる。


三 『大成武鑑』

『はな』からの包みに、気になる一件があった。

<昨年、仲間行事の山城屋作兵衛より須原屋に問い合わせがあり、出雲寺富五郎版『大成武鑑』について北町奉行所が須原屋の意見を受け入れ、今年、出雲寺源七郎に禁足処分を下したそうである。>

 なにやら意味不明な文面だ。出雲寺家といえば、弥源太のいる店ではないか。あいにく照円は、朝食を済ますとどこかへ出かけてしまったので、留十郎に聞くことにした。
「仲間行事って、何だね」
「そこから話さなくてはならぬ、のだな」
 留十郎は、当たり前と思っている事柄を、改めて尋ねられたときの戸惑いを見せた。
「江戸の書物問屋は、通町組、中通組そして南組の三組に分かれており、各組から二名ずつ仲間行事が選ばれ、簡単にいえば、商いの不正を見張るわけだ」
「それは何年交替なのか」
「何年、とんでもない、二ヶ月交替だよ。但し老舗に限られている」
「そうか。で、不正を見張るだけか、その役割は」
「色々あるぜ」

 仲間構成員の加除認定と登録、新刊書の開板・古本の再板の申請についての審議、板株(はんかぶ)の登録と管理。
「新しく書物を摺る場合は、幕府にお伺いを立てて許可を得なければならない。それも仲間行事の仕事だ」
「まさしく色々だ」
「これで驚いてはいかん。まだあるぞ。仲間内での紛争と調停」
「うまくいかずに、一方が訴えた時は」
「その際の証文への奥印押捺と吟味所への同行」
「すると、町奉行所から指示があれば、その伝達もする」
「その通り。その外、町奉行所などへの年頭・八朔(八月一日)の挨拶などもある」
「お住職は京都の出雲寺家で働いておられたと昨日聞いたばかりだが。書林や本屋は大坂にも多いのだろう」
「無論。京都や大坂の書物問屋との間では、新刊書の出版と書籍の売り捌きについての取り決めがあるようだ」
「するとその交渉など、窓口の役割も果たしている」
「その通りさ」
「かなりの力が与えられているな」
「その代わり、出版取締令への抵触など判断を誤れば、板元・作者・取り扱った本屋に連座して、処罰されもする」
「なるほど。では、『大成武鑑』については、どのようなやりとりがあったのだろうか」
「分からんが、この文面からだと、以前から引きずっている出版沙汰ではないだろうか」
「処分を受けたのが出雲寺源七郎となっているが、出したのは富五郎だろう。書き間違いではないか」
「源七郎は先代、確か十代目だよ。須原屋と出雲寺家というのはよく争っているからな。先代が裏で動いていたのかも知れぬ」
「さらりと記しているが、大いに引っかかるのだ。弥源太にそれとなく聞いてみるか」
「それは止めとけ。弥源太といえども出雲寺家の者だ。お住職はその辺のけじめはしっかりしておるぞ。だからこそ、寺社奉行の信任も篤い」


四 八代目

「そもそも、武鑑の何で、争っているのですか」
 平三は例の一件を照円に見せた。
「武鑑には大名付、本丸や西丸役人付など幾つもあるのは、平三も知っての通りだが、一大名や役人について記す項目は多岐に渡っておる」
「大名家などは、本国と系図はよしとして、大名行列の際の駕籠陸尺(ろくしゃく)の羽織の模様図まであります」
「四十数項目の中に何を加え、図をどのように組むか、それぞれ独自色を出して競っておる」
 その独自な項目一つ一つを株と称しており、その株数は須原屋の方が多いという。
「しかし、あれでは、少しぐらい真似ても判らぬ、でしょう」
「それだよ。仲間行事も板元もしっかり見ておる。何しろ持ち株に抵触してくるゆえ」
「そうか。この文面も、不正があった」
「源七郎は、長らく転売されていた武鑑株を、最後に須原屋から買い戻すほどのやり手だが、それだけに危ない橋もわたる」
「裏でなにやら動いたのが判明した」
「しかし、まあ武鑑をめぐる争いは、そんな生易しいものではない。百年になろうとしておる」
「まこと、ですか」
 照円は、京都や江戸店で聞きかじった話と寺社奉行から得た内容からだと前置きして、語ってくれた。
「元文四年(一七三九)と申しても、平三など見当もつかぬであろうが、八代将軍の治世じゃ。五代目出雲寺文次郎が京都の本店に帰ったのを機に、本店と江戸店は商いを二分したのだ」
「ひょっとして多額の借金を抱えていた・・」
「その通り。本店に火の粉が振りかかるのを避けたのだよ」
「書物師になったのは何時頃ですか」
「五代将軍の元禄治世と言われておる。幕府の書物方に属して、紅葉山文庫と申す、将軍の文庫の運営に携わったと聞いておる」
「江戸に出店したのは」
「赤穂義士の討ち入りがあった年には出していたようだ」
「元禄十五年か。昔だ」
「五代目が退いて以来、江戸店の後見は江戸両替商の播磨屋中井家に委ねられたという」
「すると次は当然ながら中井家から入ったのですね」
「うむ。中井家婿養子の新次郎が出雲寺文之丞と改名して六代目書物師を襲職した」
「しかし、よくまあ、それほど傾いている店に金を出す気になりましたね」
「それは、書物師という御用株のためじゃ。何せ、普通の本屋は」

 書物問屋―仲間行事―町年寄―町奉行というつながりしかもたないのに比べ、書物師出雲寺家は、普段から書物奉行―若年寄、あるいは細工所―小納戸というつながりを持っていた。
「当時新興だった両替商中井家は、書物師の特権を活用し、その後、天明期に、御用達町人に加えられておる」
「それからは中井家の者が当主に入ったのですか」
「中井家は二代出したがのう。天明期後半に襲職した八代目は遠州屋から入っておる」
「それも両替商ですか」
「妖怪変化物を専らとした新興の本屋だよ。創業して十年余りの」
 読書の嫌いな平三はどんな本屋であろうと興味はない。
「但し買ったのは江戸店の株だけで、二百五十両もする武鑑株はそのまま播磨屋が引き取っておる」
「すると、武鑑だけは播磨屋の名で出したのですか」
「板株は所持しておるが、書物問屋仲間に属さない播磨屋では売り捌くことができない」
「出雲寺家の名前が必要なわけだ」
「その代わり、播磨屋が他の本屋に武鑑株を譲渡しても、出雲寺家より異議申し立てはしない約定になっておったようだ」
「播磨屋の援助はいつまで続いたのですか」
「五十年以上だ。その貸金は九千両余に達したと聞いておる」
「うへー」平三は大げさにひっくり返ってみせてから、ゆっくり起き上がりながら尋ねた。
「それで、八代目の名前は」
「出雲寺文五郎。この人は、川崎のぼろ寺に赴任したときに挨拶にいった人だ。何度か来てくれもしたな」
「変わり者のお住職に興味を抱いたのでは」
「わしと大して違わぬ年じゃったが、確か二年後には隠居したゆえ」
「まだ若かったのに」
「後で知ったことだが、幕府に詫び証文を出さねばならぬような事態を起こしておったのだ」
 ことは山王祭礼の宵宮のおりに起きた。
「御用」武鑑を納めるべき日にちが遅れていたため、その夜も武鑑の作成作業をおこなっていたという。
「祭りの時は、職人は仕事を休むのでしょう」
「それで夜職になった」
「でも、祭りの間は、二階はどこも閉め切っていますよね」
「だから一階で細工の仕事をせざるを得なかった」
「しかし、見物人が入ってくるではないですか」
「それを防ぐ必要があり、葵紋(あおいもん)の付いた高張提灯を提げたのだ」
「切羽詰ると、知恵って出るものですね」
「感心しておる場合か。御用達町人の身に似合わぬ取り計らい、心得違いであると、な」
「それで、慎みを申し渡され、お住職に会いたくなったのですかね」
「八代目を襲職して二年間は武鑑を出せぬ時期もあったというし、乗り切っていくだけの熱が失せたのではないか」
「いろいろ人には言えぬ悩みを、お住職には打ち明けた」
「硬軟様々の・・」
「軟は酒色ですか」
「溺れるほどではないが、まあ」
「よくある話の筋書きになった」
 それには応えず照円は口調を変えた。
「九代目要人に代わり、播磨屋との縁も切れたと聞いておる」
「それにしても、須原屋よりも出雲寺家の方がはるかに火の車にみえる」平三は嘆息する。
「詳細は判らぬが、須原屋は薬種商も兼ねておるので、それだけ客の広がりに幅があるのだろうな」
きっと書物師への欲も抑えて、着実な商いに専心してきたのではないかと照円。
「指針が見えた気がする」
「文五郎が出雲寺家に入った同じ頃、わしは悶々としておった」
 不意に照円の声音が沈む。
「妻子を抱えて本店奉公をしておられたときですね」
「江戸店の様子が、わしら奉公人の耳にも入ってくるし、一方で周囲の者達は、暖簾分けを目指して一心に働いておる」
 そういう状況にあって照円は、はたと立ち止まってしまったという。この商売は自分の天職だろうか、と。そうなるともういけない。


五 情けは人のためならず

 昨夜は久しぶりに咳の発作に見舞われ、気息が詰まるほどの思いをした。
 床に入ってから、告発文をどのように綴るか思い悩んでいたら、目が冴えてきてしまったのだ。そのうち小便がしたくなり、うっかり半纏も羽織らずに厠に立ってしまった。その上冷えた大気を一気に吸い込んだのが、いけなかったらしい。普段気をつけていることを怠ってしまい、咽喉がたちまちむず痒くなってきた。深夜に大きく咽喉を鳴らしては・・。胸を押さえながらも周囲への気遣いは一応働く。廊下の角でうずくまり、発作が鎮まるのをひたすら待ち続けていると・・。
「こんな所で、風邪引くぞ」
 熟睡していると思い込んでいた照円の温かい手が背中をさする。
「寝付けぬときは無理に眠ろうとせぬ方がよい」
 照円の肩につかまりながら寝床に伏せると、発作は漸く治まってきた。
「よければ話してみよ」
「例の一文です。どう書こうかと」
「それだけか」
 凄味のある響が胸に斬り込んできて身震いをした。今まで触れたことのない声音だった。
「お住職には叶いません」
「当たり前だ。伊達に年は取ってはおらん」
「思うとおりに書くと、弥源太を失うかも・・と」
「その解答は己れで見つけることだな。これまでも乗り越えてきておるではないか」
「一つ伺っても宜しいですか」
「何なりと」
「隆介さんを置いてこざるを得なかった、その心痛を」
「どのように克服してきた、かと」
 すでに照円は自分の床に入っていた。暗くてその表情はつかめない。が、だからこそ訊きやすいこともある。
「情けは人のためならず、だ」
「えっ」
「留十郎の親父だが」
「源吉さんですね」
「隆介より三つ上で、な」
 両親を続けて失った小作人の末子だった。二人の姉と次兄はすでに奉公に出ていたが、長兄に嫁の世話をした名主が、源吉を頼みにきた。
「源吉とはそれ以来の付き合いじゃよ」
 
 数日後、留十郎に呼ばれた。
「出雲寺家の動きは複雑で判りにくいのだが、例の一文はどうやら『八の武鑑』に関るもののようだ」
「何だい、それは」
「従来までの大名付に加え、新たに八冊目を出そうとした」
「新たって、大名の数は変わらぬ、のでは」
「十年以上も前になるが、交代寄合と高家を大名付に加えて、一冊分として摺ろうと試みた」
 ところが、これは新規の事柄に属するものとして、不許可の裁断を受けている。
「それを無視しての動きを源七郎はしたらしい」
「よく解らぬ、な」
「つまり、書物師といえども、武鑑についての判断は町奉行に仰がなくてはならない」
「書物師の立場を前面に立て、書物方や細工所へ働きかけて出そうとした、ということか」
「それを認めてもらうために、源七郎は宗門改証文の提出先を書物方に限定していたのだよ」
「熟考の末の策、だな」
「文政の世になってからも何度か処罰を受けている」
「性懲りもなく・・。八代目とは大違いだ」
 平三は照円から聞いた話を簡潔に語った。
「見方を変えれば、それだけ必死なのさ」
「生きるか、死ぬか」
 それでもなあと思ったが言わなかった。
「三年前に受けた処罰では」
 他出禁止、謹慎を命じられ、続いて「御用差留め、押し込め」そして跡式(あとしき)を養子の富五郎に相続させることを命じられたという。
「奉行所もついに、怒り心頭に発したわけだ」
「それだけではない」
「まだあるのか」
「将軍目見えの資格を剥奪されたのだ」
 これは初代書物師の出雲寺時元の時から許されていた御用達町人としての特権の一つである。
「たとえ遠くからの拝謁であっても、栄誉には違いない」
「身元正しき商人が受ける恩恵までも失ったのさ」
 平三はその場で筆を執った。

 名誉も地位も金も欲しい、だと。欲張るなよ、出雲寺家。大切なのは、人の道。  風説堂流坊

「そんな事情だから、妾腹の子の処遇どころではないのだな」
「弥源太のことか」
「引き取ってもらっただけで有難い、と思わねば」
「弥源太の父親にとっては、たった一人の倅だったらしい。それも親父によると、お住職の尽力がなければ、どうなっていたことやら」
 しばらく留十郎は顎を撫でていたが、障子を開けて庭を注視した。冷気が流れ込み、平三は思わず咽喉を固くする。
「名前は出雲寺だが、いろんな商人が入家したからな」

 筆を置いたら急に弥源太に会いたくなり、留十郎を誘って日本橋十軒店方面へ出かけた。相変わらずの人通りだ。やがて軒全体に下がる藍色の暖簾が見えてきた。白地で出雲寺と染め抜かれている。
「表から入るのは久しぶりだ」と留十郎。
「いつも、裏口へ回るからな」
 そのとき、留十郎が「あれ」と小さく叫ぶなり、立ち止まった。
 指差した先には、路上に置いた招牌(しょうはい)がある。書物問屋と記したその看板に、たった今、やや腰の曲がった老人がうずくまったのだ。駆け寄ると、角造ではないか。額には脂汗が・・。
「いかがしました、こんな所で」
「心の臓が」
「医者だ」二人は同時にここで休ませて貰ってはと勧める。
 だが、角造はもう大丈夫だと応じない。
「『はな』まで送りましょう」
 何で、こんな所にと思いつつ、平三は照円の言葉をなぞっていた。
・・ああ見えて、目や耳はすこぶるいい。嗅覚も・・
「あっしは、もう、長くはありません。そう思うと、つい、一目孫に逢いたく」
 角造は暖簾の奥から視線を放さなかった。
                      

 






最終編集日時:2010年12月14日 13時46分

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10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
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