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人助けの剣 
[【時代小説発掘】]
2010年6月20日 11時20分の記事


【時代小説発掘】
[助太刀兵法2]人助けの剣
花本龍之介 



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


【梗概】:
江戸の浪人、飛十郎は居合の達人。鎌倉で助太刀を終えたあと、風の吹くまま、気がむくまま、ぶらりと旅に出る。

【プロフィール】:

花本龍之介。尾道市生まれ。居合道・教士七段。現在逗子に居住している。

これまでの作品:
[助太刀兵法1]鎌倉しらす茶屋
猿ごろし

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【時代小説発掘】
[助太刀兵法2]人助けの剣
花本龍之介 



一 辰巳芸者 
  
 両国広小路で斬り合いをしたあと、早船飛十郎が矢場や水茶屋や軽業小屋の間をぬけて、吉川町のほうへむかって歩いていたとき、
「ちょいと、お侍さん。そちらへ行かれちゃあ、困るんですよ」
 と声をかけた若い女は、斬り合いの前にお奈津をあずけた辰巳芸者だった。
 深川は、江戸城の南東(辰と巳の間)の方角にあたるところから、辰巳とも呼ばれている。この地に生まれた深川芸者は、意気と、張りと、独特の風俗で、吉原や柳橋と張り合っていた。真冬の雪の中でも、素足に塗り下駄、四季を通じての黒紋付の羽織。遠くからでも、ひと目で辰巳芸者と知れた。
「なにか用か」
「用があるから呼んだのさ。あるお人が、おまえさんに、話したいことがあるんだとさ。すぐそこなんだから、来ておくんなさいよ」
 切れ長の目に高い鼻、きゅっと上がった口元がいかにも小生意気そうだったが、なによりも目立つのが、化粧っけもないくせに抜けるように白い肌だった。
「ことわる」
 飛十郎が、にべもない声で言った。
「そうはいきませんよ。ここで取り逃がしたんじゃ、こっちが叱られるんだ。さっき、おまえさんが助けた娘さんのことで、安達屋の元締が礼をいいたいんだってさ。いいから、おいでなさいよ」
 じれったい、というように素足に履いた黒塗りの駒下駄が地面を、とんと叩いた。
「べつに、礼をいわれる筋合いはない」
 飛十郎、女が苦手である。
「うるさいわね。そっちになくとも、こっちには礼をいいたい筋合いがあるんだ。つべこべいってないで、きな」
 特にこういった肩で風を切るような女は、苦手だ。
「いや、じつは、面倒でな。かんべんしてくれ」
 閉口したように、飛十郎は頭をかいた。
「へえ、なにが面倒なんですよ」
「それは、その、話しがだ。つまり、人と話をするのが、面倒くさい」
 なあんだ、というように、その若い辰巳芸者は、しかめていた眉を開いた。
「面白い人でござんすね、旦那は。なら、しゃべらなきゃいいじゃございませんか。黙ったまま出てきた酒を呑み、料理を食べ、お土産をもらって帰ってくりゃいいんですよ」
 そう言いながら、その若い芸者は、川風にひるがえっていた飛十郎の右の袂(たもと)を、いきなり細い手でつかんだ。
 相手にせぬつもりで鼻で笑っていた飛十郎も、これには困った。無精にふところ手だったから、袂をおさえられては腕が動かない。柳原土手の古着屋で、値切って買った黒無地の単衣(ひとえ)だ。元は黒だったのだろうが、年期のいった今では、生地はよれよれに痛みきった羊羹色に変っている。
 へたに振りはらえば、糸が切れるか生地が裂けるか、ふたつにひとつは間違いない。いかに浪人とはいいえ、白昼人ごみの中を侍が片腕をあらわにしては歩けない。
「いいだろう。行こう」
「ほんとですね。逃げちゃいけませんよ」
 にっこりと、白い歯を出して笑ったが、にぎった袂はつかんだままだ。
「あたりまえだ。武士に二言(にごん)はない」
「ふん。あたしやねえ、さんざ見ましたよ」
「なにを、だ」
「二言どころか、三言、四言もあるお侍をさ」
「そうか。それは、すまん」
「なにも、旦那があやまることはござんせんよ。ほんとに変な人だねえ」
「よく、いわれる」
 若い芸者は、声を出して笑うと、つかんでいた袂をようやく離した。
 自由になった袖から手を出すと、飛十郎は自分たちふたりを取り巻いている人だかりに気がついた。両国広小路から吉川町へむかうこの通りは、そのむこうにある浅草御門まで、江戸でも目抜きの通りだ。
「で、その安達屋というのは、どこにいるのだ」
「すぐそこですよ、ついておいでな」
 くるりと振りむいて、弥次馬たちをかき分けると、その威勢のいい辰巳芸者は、柳橋のほうへむかって足早に歩きだした。

      
二 江戸っ子浪人

「いや、川開きにも負けぬほどの騒ぎでございましたな。さきほどは」
 そういいながら、安達屋藤兵衛と名乗った老人は、豪華な料理が並んだ塗り膳の上から銚子を取ると、飛十郎の盃に酒をついだ。
盃の酒を口にふくみながら、飛十郎は障子を開け放った窓の外に目をやった。
大川を吹き渡ってくる風は、まことに涼しい。
明るい陽ざしに照らされた川面は、青く輝いて見える。町屋の多いこちら側とは違って対岸はさすがに緑が多く、その鮮やかな木々の色彩の間に見えかくれしているのは、寺院か大名屋敷の大屋根であろう。 
「いい景色だ。見ているうちに、こちらの心まで爽やかになる」
「お気に召しましたか。こんな所でよろしければ、いつでも遊びにおいでになって下さい。ここは、てまえが娘にやらしている店でしてな。それ、先ほどお助けいただいた、お奈津の母親でございますよ」
「なかなか、お元気なお孫さんだ」
「いや、お恥ずかしい。あれの母親が五年ほど前に病いで死にましてな、それが不憫(ふびん)でつい甘やかし、いまでは手に負えぬ我がまま者に育ちました。いつもは下総の潮来にいる叔母の家にあずけているのですが、たまたま江戸に戻っておりまして、お武家さまにもとんだご迷惑をおかけしました」
「そうたびたび頭を下げられては困る」
孫を助けられたのが、よほどうれしいらしく藤兵衛は居ずまいを正すと、膝の上に両手を置いて、また深々と白髪頭を下げた。
飛十郎が目のやり場に困って大川を見ると、何処からあらわれたか一羽の鳶(とび)が、行きかう舟の上空を輪をかいて飛んでいるのが見えた。
 ………それにしても、この老人、いったい何者なのか。元締と呼ばれているからには、大勢の人間をたばねているのは確かなのだろうが………
 ふくんだ酒を呑みながら、飛十郎は目の前の老人をながめた。
「おお、そういえば。まだ、あなたさまの名前をうかがっていませんでしたな」
「名なぞどうでもよかろう。どうせ、もう二度と逢うことなどあるまいしな」
 そろそろ帰る汐時かな、と思いながらあたりを見まわす。さっきの芸者は、料亭の入口まで案内をすると姿を消したし、料理を運んできた仲居たちもすぐに下って、この広い座敷にふたりきりであった。
「なにをおっしやいます。あなたさまは大事な孫娘をお助けいただいた、命の恩人。これをご縁に、これからも長くお付き合いをお願いいたしたく思っております」
「いや、お奈津どのの礼は、もう存分にうかがった。馳走にもなった。そろそろ失礼する」
「お住いまでとは申しませぬ。せめてお名前だけでもお聞きしなければ、この藤兵衛の手落ちになります」
 うろたえた声で両手を前に出すと、安達屋は飛十郎を押し戻すように、その手を振った。
「うむ、名前か」                                      
 飛十郎は無精髭をこすると、目の前に見える大川に目をやった。吉原がよいの猪牙舟が二隻、競うような早さで上っていく。
「名は、早船………」
「ほう、早船さま」
 滑るように去っていく猪牙舟の、はるか上空を、鳶がゆうゆうと舞っている。
「とび………、そうだ、飛十郎だ。名は、早船飛十郎。歳は三十五。これでよかろう」
「は、ははは。面白いおかただ」
 同じように窓の外に目をやっていた安達屋が、飛十郎の顔を見ると、愉快げに笑った。
「ところで、早船さま。おりいってお頼みしたいことがございますが」
 ひとしきり笑ったあと、急に安達屋の顔があらたまった。
「金ならば、役には立たぬぞ」
「ご冗談を。お武家さまに、お金の無心はいたしませぬ。それなら、わたしども町人の領分でございますからな。これは早船飛十郎さまの剣の腕と、お人柄を見込んでのお願いでございます」
「ふうむ」
 盃を宙に止めると、飛十郎は思案した。
 ………剣とか、人柄とか、この老人は何を頼みたいのか、おれに。まさか孫娘、お奈津の用心棒にではあるまいな………
「そうそう、お金といえば、早船さま。お願いごとを切りだすまえに、片付けねばならぬことが、ございました」
 膳の下に、あらかじめ用意してあった袱紗(ふくさ)包みを、飛十郎の膝の前に押しやった。
「まことに些少ではございますが。これは一粒種の孫、お奈津をお助け頂いたお礼でございます」
 袱紗の厚みからみて、小判ならば十両はある、と飛十郎は見た。十両盗めば首がとぶ時代だ。かわいい孫の命金としては、まず多からず少なからずの妥当な金高である。
「さようか。では、もらおう」
 悪びれずに、飛十郎は手を出した。
紫縮緬(ちりめん)の袱紗包みを開き、中のずっしりした紙包みを、懐におさめた自然な動作を目で追いながら、安達屋藤兵衛は飛十郎を、ますます気にいったという顔で見た。
 当節、幕臣だの三河以来の旗本だの、と片意地張っても大身(たいしん)ならともかく、幕臣の大部分をしめる小旗本は俸禄だけでは食べていけず、傘張り、提灯作り、凧作り、竹籠細工と、組屋敷ごとに分業し、本職顔負けの品物を、大量に各問屋に卸して生計を立てている。
 商人どもに顎でこき使われても、腹の虫をおさえて、腰の両刀を飾りものに変え、何ごとも我慢しなくては生きてはいけぬ時世なのだ。
「こころよくお納めいただき、まことにありがとうぞんじます。さて、ご承知いただきたい筋は、人助けにございます」
 大川を渡って吹き込む風が、かすかに涼しさを増している。遠くから近づいてくる三味線と太鼓の音は、屋形舟に芸者と幇間を乗せた札差しか、両替屋か、材木商か、いずれにせよ武士ではないことは、たしかであろう。無言のまま、飛十郎は安達屋の次の言葉を待った。
「さよう、早船さまのその剣のお腕前を、困りはてている人たちのために、お役立てくださいませ」
 安達屋は、両手を畳の上につくと、深々と頭を下げた。
「まて。剣の腕ということであれば、この江戸には、おれより強いのが、まだごろごろしているぞ」
「たしかに………。ですが、ただ強いだけでは、このお役目はつとまりませぬ」
「ほう、面白いな。剣の腕だけでは不足なら、安達屋。いったい、なにが必要なのだ」
「人としての生きよう、でございます。この安達屋藤兵衛、長いあいだ早船さまのような、花も実もあるお武家さまを、お捜しいたしておりました」
「買いかぶりだ。自分のことは、自分が一番よく知っている。おれは、おぬしが思っているような人間ではない」
「安達屋は、この江戸でも名うての商人(あきんど)でございます。失礼ながらこれまで、買った売ったで、万に一つの目利き違いはございません」
「そいつが今度ばかりは、間違ったようだな。こちらは見ての通りの浪人者。それも江戸っ子ではないが、三代つづいての年期のはいった浪人暮らしだ。たしかに剣術だけは子供のころから目の色を変えて修行したが、なに、そんなやつなら、本所・深川あたりには掃いてすてるほどいる。のぞみなら十人ほど連れてきて引き合わせてもいいぞ」
 七つ(午後四時)を過ぎた頃か、ほんのわずかに日差しが弱くなったような気がするが、逆に川面の反射は強くなって、飛十郎は眩しそうに目を細めた。
「いいえ。御家人崩れには、用はございません」
 きっぱりと言いきると、安達屋は盃を取り上げて、冷たくなった酒を喉に流し込んだ。
 当時、将軍家にあえぬ、お目見え以下の幕臣、いわゆる御家人は一万五千人余もいた。大名家の取り潰しや改易によって江戸市中にあふれ出た無頼浪人たちにもまして、これら下級旗本の家の次・三男はとくに無法を極め、直参を鼻にかけた悪どさで、御家人崩れと蔑称され江戸庶民から憎まれて、その取り締まりに幕府も手をやいていた。
「用心したほうがいい。このおれも、その御家人崩れかもしれぬぞ」、
「なにをおっしやいます。この安達屋の目には狂いはございませぬ。さきほど、お奈津をお助けいただいた刀さばき。とくと拝見いたしております」
「そうか。あれを見ていたのか。で、おれの刀さばきが、どうした」
「刀というものは、人を斬り、人の命を奪うものでございます」
安達屋藤兵衛は、ひと膝前へ送るようにして、身をのりだした。
「それを、あなたさまは、あの喧嘩なれした命しらずの地廻りたち。それも三人を、ふたりは鞘から刀も抜かずに、あっさりと片付け。残るひとりは、それこそ目にも止まらぬ早さで足を斬り、歩けぬように始末なすった」
「なんだ、そんなことか。人を殺すと、あとが面倒だからだ」
「いえ、そうではございますまい。三人に仕掛けられながら相手の腕を見極め、なかで一番凶暴な大蛇(おろち) の辰造のみを、動けぬようにお斬りなすった。まことに水際立った、鮮やかなお手並みでございました」
「ほう。あやつ、大蛇の辰造、と申すのか」
「はい。巨大な大蛇が、女人をひとり呑んでいる刺青(ほりもの)が、背中一面にございまして、なに、ひとりどころではございません。てまえが知っているだけでも、これまでに五人は殺しております。そのほかにも女は犯すわ、金はゆすりとるわ、で捕まれば、磔(はりつけ)獄門は間違いなしの悪党でございます」
「あのまま捨てておいたが、あやつ無事に獄門首は逃がれたかな」
「いえいえ、逃すもんじゃございません。三人とも町役人が、番屋に運んでおりましたから、今ごろは定廻りの同心に大番屋から、南の御番所(南町奉行所)へ引っ立てられていることでしょう。早船さまは、世のため人のために、まことに良いことをしなすった。」
「はっきりいうが、安達屋。きょう一日、どうやって喰っていこうか、考えあぐねている貧乏浪人。たまにこうして、他人の振る舞い酒にありつければ、一生の幸せ。その日暮らしの、おれのような人間が、人助けはおろか、世のため人のためになぞ働けるかどうか、考えてみろ。馳走になって悪いが、この話はことわる」
 膝の横の刀を取り上げると、飛十郎は立とうとした。
「お待ちくださいませ。お気持ちはわかりました。お酒も、もう冷たくなっております。せめて新しい銚子を空にするだけのあいだ、てまえの話をお聞きください」
その言葉が終らぬうちに、安達屋は手を叩いた。同時に、それを待っていたかのように、すっと襖(ふすま)が開く。それが剣にも通じる絶妙の間で、思わず飛十郎は立ちかけていた膝をおろした。

     
三 仇討商売

「おお、小吉か。こちらに熱いのをひとつ、お願いしますよ」
「さっきから、じりじりしながら待っていましたのさ」
聞き覚えのある声に、飛十郎は廊下のほうへ目をやった。さっきの辰巳芸者が、いつの間にやって来たのか、花やかな座敷着に着替えて、銚子がのったお盆を手に、すらりと立っていた。
「さっきから待っていたって、おまえ、ぬるいのじゃないだろうね」
「念にはおよびませんよ元締。お話がつくあいだ、三回は取り替えました。この銚子は、たった今運んできたばかりですよ」
「そうか。さすがに気がおききだね。さあ、すぐに運んでくれ。早船さまがお待ちかねだ」
 大川に目をやると、きらきらした光の中を、いそがしく上り下りの川舟が行き来している。鳶の姿はもう見えない。飛十郎は、舟を眺めながら、腕組みをした。
「そっぽをむいてたんじゃ、お酌ができませんよう、旦那」
 座敷に入ってきた長い着物の裾前から、白い素足がこぼれた。
「この妓は、早船さま。深川では評判の、小吉ともうす芸者でございます。これ、小吉、ちゃんとご挨拶をしないか」
 だらしなく横ずわりになった小吉が、手に持った銚子をぶらぶらさせながら、ふん、と鼻の先で笑った。   「大川の猪牙(ちょき)を見ながら早船だって、わらわせるよ。たった今あつらえたって名前じゃないのさ」
「しょうがないね、小吉。おまえ酔ってるな」
 安達屋が舌打ちするような口調でいった。
「いえね元締、あんまりお呼びが遅いので、待ちきれなくて、お銚子から二、三杯いただきましたけどね。まだ酔っちゃいませんさ」
「お怒りなすっちゃいけませんよ、早船さま。この小吉は変わり者で通っている芸者でしてな。深川じゃ泣く子も黙るという、町火消しの南三番組の小頭の妹なのでございますが、その暴れん坊の兄貴が手を焼いてる始末でして」
「おもしろいな。火消しが手を焼いているのか」
「いや、まったくその通りで」
 ふたりのやりとりを聞いていた小吉が、袖で口を押さえると、下をむいて笑いはじめた。
「これ、小吉。いま早船さまに、だいじな頼みごとをしているところなんだ。お酒はいくら呑んでもかまわないから、口を出さないでおくれ。いいかい」
 肩を小さく震わせながら、小吉はこくんと頷くと、膳の上から盃を取り上げて、持っていた銚子から酒をそそいだ。
「お頼みしたいのは〔仇討〕でございます」
「おぬし仇(かたき)持ちなのか」
「とんでもない。てまえは仇など持ってはおりません」
「そうか。仇討の助太刀の頼みでないとすると、討たれるほうか。おれは返り討ちの手伝いなど、まっぴらだぞ」
「こう見えても、この安達屋藤兵衛、先祖は武士。それも権現様(徳川家康)が江戸打ち入りのさい、三河から移ってきた家柄の末でございます。いくら金を積まれても、返り討ちの手伝いをお願いするはずがございません」
「おこるな安達屋。おれの血筋より、よっぽど毛並みがよいと感心しているのだ。だが、今の言葉は少し妙だな」
盃を置くと、飛十郎は腕を組んだ。
「返り討ちの手伝いはだめだが、金さえ出せば、仇討の手伝いならやってもいい。というふうに聞こえたが」
「さ、そこでございます。早船さまは〔仇討宿〕あるいは〔仇討屋〕といったものが、この江戸にあるという噂を耳になさったことがおありでしょうか」
「うむ。いつぞや長屋の井戸端で、女たちが話しているのを聞いたことがある」
「まったく江戸の町人ほど、噂好きはありませんからな。またその風聞や噂話が街道筋を伝わって、京大坂はもとより南は長崎、北は蝦夷(えぞ)へ届くまでの早さは、びっくりするほどでございますからな」         「噂は千里を走る、というからな」
「まことに。早船さまは、町人たちが一番好む噂は、なんだとお思いになりますか」
「わからぬ。いったいなんだ」
「仇討と心中でございますよ。これほど人を熱狂させるものは、ほかにはございません」
「その通りかもしれぬ」
 江戸やその近郊で、仇討や心中騒ぎがあると、すぐさま瓦版が摺られ、それが奪いあうように売れていることを飛十郎も知っていた。
「早船さまもご存知のように、父母や兄を殺されても下手人が江戸や藩の外へ逃亡した場合は、町方役人や藩の追っ手はどうすることも出来ませぬ。残された親族は、たとえ何十年かかろうが、おのれ自身が死なないかぎり、地の果てまで仇を追いつめて討たなければなりません」
「大変なことだな」
 盃の中に、仇を追って歩く姿が写っているかのように、飛十郎はかすかに揺れる酒をじっとみつめた。
「ですが、もし見事に仇討をなしとげた者は、美談や快挙のぬしとして全国の人たちから注目され、御公儀や藩から褒賞を受けて、めでたく故郷に錦を飾ることができます」
「それが侍ならば〔武士の面目〕これ以上ないほど、長く誉めたたえられることになるだろうな」
 飛十郎は、盃の酒をぐいと呑み乾した。
「しかし、それも無事に仇を討つことができた場合のこと、でございますよ。もし仇が見つからなかった時は、いったいどうなると思います」
「しらぬ。どうなるのだ、安達屋」
「見知らぬ土地を五年、十年あてどなく捜し歩き、持参の金子や国元からの送金も絶えたあと、病み疲れや飢えのために倒れたり。背に腹はかえられぬと乞食や物貰いに落ちぶれたり。死ぬような思いをしてようやく捜しあてた憎い仇が、とうの昔に病死していたり。まことに悲惨なことでございます」
「ううむ……… たしかに、な」
 肉親を殺害された無念もさることながら、その殺人者をこの広い日本中をさがし回ったうえ、運よく発見しても、その相手を斬らなくてはならぬ、という大仕事が最後にまっている。自分ならば、一年で投げ出すに違いない。そればかりか国元の顔見知りや、とうの仇にさえ巡り合わぬように、びくびくしながら残りの一生を人目を避けて暮らすかもしれぬ。
「で、ございますから、もし仇をさがす御本人になり変って、相手の居場所をつきとめ、そのうえ仇がいくら剣の腕が強くとも無事に仇討が果たせるよう、お手助けいたそうというのが、仇討屋でございます」
 黙ったまま盃をほした飛十郎に、これまた無言のまま小吉が銚子で酌をした。
「だが、安達屋。本人になり変って仇をさがすといったが、狭いようでも日本は広いぞ。どんな手立てで見つけるつもりだ」
「さあ、それでございます早船さま。てまえは両国橋を渡った先の、回向院裏にある本所松阪町で口入れ屋を営んでおりますが、じつはもう一つ稼業をいたしております」
「ほう。その稼業というのは何だ」
「旅役者や軽業師や大道芸人、そういったたぐいの旅をしながら稼ぐ連中の、元締もやっておりますので」
「そうか。なるほど」
 感心したように首を振って盃をほした飛十郎に、今度は安達屋がすかさず酌をする。
「蛇の道は蛇というわけか、安達屋」
「さようで。その土地で生まれ育った者ならばともかく、よそから流れてきた人間は必ず人目につきまする。これはどのような山奥の村でも、離れ小島でも同じでございます」
「うむ。旅芸人というものは、祭礼を追って全国津々浦々の町や村で、行かぬ場所はないと聞いている。不審な者がいれば、すぐに江戸へ早飛脚で知らせるわけだな」
「はい。その段取りで、てまえどもはもう何人も仇を捜し出しております」
呑みかけた盃の手をとめて、飛十郎は自信にあふれた安達屋藤兵衛の顔をみた。
「たいしたものだ。安達屋、感心したぞ」
「ご自分の身としてお考えください。もしも早船さまが仇を持つお立場で、何年も東海道、中山道、山陽道、山陰道、西海道、北陸道,奥州道のすみずみを歩いたあげく、どうしても目指す仇を捜しあてられなかった時〔仇討屋〕があれば、お頼みにならないでしょうか」
「たぶん………」
 どころの騒ぎではない、大喜びで駆けつけることだろう。
「たのむかもしれぬ。だが、それには金がかかるのだろう」
「それは、こちらも商売でございますからな」
 こともなげに言いのける安達屋の、つやつやと油のよく回った顔の色を見ながら、
 ………こやつ、見かけによらず腹のすわった老人。、町人にしておくには惜しい男だ………
 と飛十郎は思ったが、いやいやそうではない、むしろ町人だからこそ、このような図太い人間がいるのだ。金を汚いものと決めつけ、手をふれるのも嫌だとばかり、それを扱う商人を四民の最下級において〔花は桜木、人は武士〕と、おのれたちだけを高くおき、そのじつ見栄と体裁にあけくれ、腰の刀を無用の長物にしてしまい、侍の表看板たる武を練ることも、とうに忘れ果てている。天下太平が二百余年もつづくと、人間はこうも腐り切ってしまうものなのか。
「ほう、安達屋。仇討までも、商売にしてしまうのか」
 怒ったようにそう言ったが、心のなかでは武士の顔を泥足で踏みにじるような、江戸の商人のたくましい生きかたを、小気味よく飛十郎は感じていた。
「商売だけではございませぬ。これは人助けにございます。仇を捜しもとめながら、旅の空でのたれ死にをする大勢の仇討人たちになり変り、この安達屋と早船さまが助太刀をするという、立派な人助けでございますよ」
「人助けはわかった。だが、その仇討屋を雇う金は、どのくらいかかる」
 両手を膝に置くと、安達屋は軽く目を閉じた。
「さよう。まずは五十両から百両。かかった年月と人数によって違いますが、高くて三百両といったところですな」
「ばかな。捜し歩いて乞食や物貰いに落ちる、といったばかりではないか。仇討人にそんな大金が用意できるわけがない」
「ふ、ふふ。そうでございましょうかな、早船さま。たしかに仇持ちは、本懐をとげるまでは無一文。ですが、見事に仇討をしてのければ、どうなりますかな」
「む」
「手の平をかえしたように、扱いがちがうのではないですかな。仇討本懐は武士道の華、とばかりに幕府や大名家はきそって褒美の金を出しますぞ。まず、それだけで五十や百はかたい。そのうえ禄高のご加増や、新規お召し抱えというのもございます。費用のことは、ご心配無用でございますよ、早船さま」
 きっぱりと言い切って、安達屋は飛十郎に目をやった。

      
四 奥義・鞘の内

「そんなことより、てまえに必要なのは、早船さまの居合の剣の腕、でございますよ」
 ふところ手をした飛十郎が、盃の酒を軽く口にふくんで、相手の顔を見すえた。
「安達屋。おれの剣が居合だということが、よくわかったな」
 灘の下り酒らしい上品な馥郁(ふくいく)たる香りが、飛十郎の舌のうえを転がるように広がっていく。
「はい。刀を抜かずに無頼の者ふたりを鮮やかにかたづけた剣の技前と、お差料の刀の柄が常寸より長いのを見まして、居合ではないかと思いました」
「そうか。長柄(ながつか)に目を止めてな」
「すると、ご流祖はやはり林崎甚助さまで」
「そうだ。なかなか武芸のことにくわしいな、安達屋」
「口入れ屋というものは、いろんな人間が集まるものでして、耳学問で自然と知識だけはふえるものでございます」
「ふむ。おれの無双直伝英信流をはじめ、大森流、無外流、神道無念流、田宮流、神夢想流と流派はいろいろとあるが、ほとんどが林崎甚助重信を流祖にあおいでいる」
「たいしたものでございますな、林崎さまというお方は。いつ頃のお人でしょうかな」
 感心したように、安達屋は首を振った。
「そうだな………、永禄年間というから、今より二百七十年ほど前だろうな」
 おとなしく話を聞きながら、吉原へ急ぐ猪牙舟をぼんやりと目で追っていた小吉が、手を口に当てて欠伸(あくび)をすると、ふらりと立ち上がって酔った足どりで座敷から出ていった。
「武芸の話なぞは、芸者には退屈だったとみえますな」
 笑いながら、安達屋は小吉を見送った。
「やはり、あれですかな。居合というものは、刀がきらりと光れば首が落ちている。と聞いておりますが、速さが命の剣技でございますか。早船さまも抜いてから鞘におさめるまで、目にも止まらぬほど速かったように見えましたが」
「いや、おれの居合はそれほど速くはないよ。目にも止まるし、足にも止まる」
 安達屋が軽く眉をひそめた。
「また、ご冗談でございますか。早船さま」
「まじめな話だ、安達屋。速さも大事だが、居合にとって重要なのは正確さだ。いかに狙った場所に、刀の刃先を当てるか。そして、その刃を止めるか。おれの居合にとっては、そいつが一番たいせつだ」
「ほう。斬らずに、刃先を止めるのでございますか。変った剣術でございますな」
「そうだ。刀は人を斬るものではないと、おれは思っている」
「では、おうかがいいたしますが。斬るためでなければ、刀はなんのために、腰に差しているのでございますか」
「は、はは。安達屋、自分の身を守るために差しているにきまっているではないか」
 それを聞いた安達屋藤兵衛は、うれしげに何度もうなずくと、膝を手で強く叩いた。
「それでございますよ。斬らずに、身を守り、相手を制する剣。てまえが捜しもとめておりました助太刀の剣は、まさしく早船さまの居合でございました」
「ふうむ………。それが本当なら、不思議だな」
 ふところ手を胸元から出して、無精髭をひとこすりすると、飛十郎は藤兵衛を見た。
「不思議とは、どういうことで」
「流祖・林崎甚助も、父親の仇討をするために居合を工夫したといわれている」
「やはり、仇討に縁がございましたな、居合は。で、林崎さまは無事に本懐をとげられましたかな」
「うむ。仇討の旅に出てから数年後に、京の清水坂において、見事に父の仇を討ったといわれている」
「それはよろしゅうございました。今なら、この安達屋がお手伝いするところでございます。は、ははは」
 腹の底から愉快げに笑う藤兵衛にくらべて、飛十郎は頬の筋一つゆるめない。
「それに不思議なことは、もう一つある。流祖が編み出した居合の奥義に〔鞘の内〕というのがある」
「鞘の内とは、また風変わりな剣の奥義でございますな」
「そうか。風変わり、か」
「風変わりでございますとも。刀というものは相手を斬るためにせよ、おのれの身を守るにせよ鞘から抜かねば、ものの用には立ちませぬ。それを刀を鞘の中に入れたままが居合の奥義だといわれても、どうにも納得がいきかねませぬ」
「いや、おれの説明がたりなかったようだ。刀というものは一度抜けば、どちらかが必ず傷つくか、命を落とす」
「さようですな」
「だから、刀はなるべく鞘の中におさめておくほうがいい。出せば危ない」
 飛十郎は、初めてにやりと笑った。
「ですが、不意に斬りつけられれば、抜き合わさねばなりますまい」
「そのときには、瞬時にして敵を倒す」
「やはり、抜くのでございますな」
 安達屋が安心したようにいった。
「ああ、鞘の内の奥義には〔抜刀の一瞬にして、相手を制す〕とあるからな」
「つまり、刀は出来るかぎり抜かぬほうがいい。もし抜いたなら、目にも止まらぬ技で斬り殺す。と、いうことでございますかな」
「ちがうな、安達屋。殺すとは、ひと言もいっておらんぞ。おれは相手を制すと、いったのだ」
「そういえば、てまえも、さきほど相手を制する剣、といいましたな」
「そうだ。助太刀は、なにも相手を殺さなくてもいいだろう。制する、つまりどんな手を使っても、敵の戦闘能力を奪えばよいのではないかな」
「そうでございますとも。とどめを刺すのは、仇討人ですからな。殺さず動けなくすることが出来るなら、最高の助太刀といえるでしょうな」
「ふうむ」
 ふと、飛十郎の心が動いた。
「念を押すが、人を殺さなくてもいいんだな」
「もちろん。殺すのは、助太刀人の仕事ではございませぬ」
 きっぱりした口調で、安達屋は答えた。
「人助けにもなるし、そのうえ金にもなる、というのだな」
「間違いございません。もし、お約束にたがうようなことがあれば、この藤兵衛の命を、いつでも差しあげましょう」
 両拳を膝の上に置くと、安達屋藤兵衛は飛十郎の目を見ながら、そう言い切った。
「よし。面白そうだ。藤兵衛、その助太刀人とやらの話にのろう」
 膳の上の盃を持つと、飛十郎は冷たくなった酒を、ひと息に呑み乾した。
「話がまとまりましたな。では、小吉を呼んで熱い酒を運ばせましょう」
 うれしそうに笑うと、藤兵衛は手を鳴らしかけたが、気を変えたように叩くのをやめて立ち上がった。     「そろそろ大川が暗くなりますな。てまえが板場に出向いて、なにかうまい料理を作らせましょう。早船さま、今宵はごゆるりとなさってください」
「そいつは楽しみだ。恥を申すようだがな藤兵衛。おれはまだ一度も品川から先に行ったことがないのだ」
「は、はは、江戸生まれのお人は、そういったお方が多うございますよ。なに、この仕事をおつづけになれば、いやというほど旅がお出来になりますよ」
「ついでに聞くが、助太刀が終わったあと、少しぶらぶらしたいが、それはかまわんかな」
 飛十郎は頭を掻きながら、藤兵衛を見上げた。
「かまいませんとも。仕事さえ終われば、あとはご自由でございます。ただ、どこへ廻られるか、行き先だけを連れにいっておいて下さればけっこうです」
「誰か連れがあるのか」
 意外そうな顔で、飛十郎は聞いた。
「はい。木村新吾さまという若いご浪人でございます。このお方も、助太刀は初めてでございますが、早船さまがご一諸なら、大丈夫でございましょう」
「なんだ。それでは、ふたりとも助太刀は初めてなのか。藤兵衛、心配ではないか」
「いいえ、少しも。誰しも、最初は、初めてでございますからな」
 にこやかに笑うと、安達屋藤兵衛は障子を引きあけると、廊下へ出ていった。

     
五 名物力餅

 ともあれ、早船飛十郎にとって仇討屋がまわしてくれた最初の仕事〔鎌倉・化粧坂の仇討〕は終わった。
もうひとりの助太刀人、木村新吾は今頃どこを歩いているのだろうか。おそらく、とうに名越の切り通しをぬけ、逗子の村落を通って、六浦(むつうら)から金沢にむかっているにちがいない。
逗子の岩殿寺、六浦の能見堂、そして名勝や旧跡に富む金沢を、ぜひ仇討が終わればゆっくりと見て廻りたいと言っていた。いかにも新吾らしい。
鎌倉へくる途中の戸塚の宿でも、酒も呑まず、飯盛り女をからかうこともなく、なにやらむずかしそうな書物を取り出して、うす暗い行灯の下で読みふけっていた。そういえば新吾は、化粧坂で刀を抜いたのはいいが、そのあとどうしていいかわからず、青くなって立ちすくんでいた。助太刀人には、むいていないのかもしれぬ。
木村新吾は悪い男ではないが、いかにも堅物で、融通がきかず、自分にも他人にも厳しすぎるところがある。仇討というもの、殺されたほうが善人ばかりとは限らない。悪人が殺され、仇とつけ狙われるほうが、良い人間である場合もあるかもしれない。そんな時でも理非を問わずに討つのが〔武士の掟〕というものだ。いざ仇を討つという時に、疑いを持ち迷うようでは、役には立たず、足手まといになる。
 だが、戸塚の宿を立ち、宿場の中ほどにある天王橋を渡ってすぐ左に折れ、鎌倉街道を飯島、笠間、粟船と、のどかな村落をすぎて、いよいよ山ノ内から巨福呂坂を通って鎌倉に入るまでの道中のあいだ、新吾はいかにもうれしそうに円覚寺、建長寺をはじめとする五山の名刹や、鶴岡八幡宮の由来をしゃべりつづけていた。
おかげで飛十郎がべつに知りたくもない、金沢八景の〔遠く元禄の頃、心越禅師がその絶景、中国・杭州の西湖に似たりとて、その八勝に准擬(じゅんぎ)し、八詠の詩賦をつくりたり〕とかいう、むずかしげな由来や、称名の晩鐘、洲崎の晴嵐、瀬戸の秋月、小泉の夜雨、乙艫(おつとも)の帰帆、平潟の落雁、野島の夕照、内川の暮雪といった八景の名をすべて覚えてしまったほどだ。
だが、あの木村新吾という若い浪人、どこか憎めぬところがあった。
一時は、こやつめ本業の助太刀を忘れ、物見遊山のつもりか、と腹が立った飛十郎も、くったくのない新吾の明るい声を聞き、澄んだ中に純な色をたたえた目を見ているうちに、はるか昔に失った、何かを思いださせられて。
「ま、よいか」
 と、道連れをつづける気になったものだ。しかし、新吾のような剣を振りまわしているより、書物をめくっているほうが得意そうな若者が、助太刀人のような危険な仕事を引き受けたのも、やはり金のせいか。

「よくわからん。近頃の若い連中の考えていることは」
 声と一緒に、酒のなくなった竹筒を、鎌倉の海へむかって投げつけると、飛十郎は手についている砂をはたきながら立ちあがった。
 陽はまだ高い。
 鎌倉の夏は、まさに盛りである。
 飛十郎は、熱い砂浜を踏みしめながら、風ふせぎの松原の間に見え隠れしている、大鳥居にむかって歩きだした。
「よかろう」
 木村新吾を見習って、古都の旧跡を見物してまわるのもよい。
 下馬の辻を左にとれば、往古この地に幕府が置かれていた頃、罪人を処刑していたという六地蔵の刑場跡や、和田一族が滅亡した塚跡もあり、さらに道をたどれば長谷の大仏や観世音も見ることができる。じつは飛十郎、かの高名な鎌倉の大仏の威容を、まだ一度も目にしたことがない。
 左右に田と畑が広がった松並木の道を、紙の破れかかった渋扇を使って胸に風を入れながら、のんびりとした足取りで歩いていく。
 名所の見物に、たっぷりと時をすごしても、江の島へはまだ明るさが残っているうちに着くことができる。それに茶店の老婆が教えてくれた、鎌倉権五郎社・門前にあるという名物〔力餅〕も大いに楽しみにしていた。酒も好きだが、甘いものもいける口なのだ。
 それにしても鎌倉ほど、仇討に縁のある土地柄もほかにはない。
 この当時、日本橋・堺町の中村座、葺屋町の市村座は、隣りあっていたので俗に二丁町と呼ばれていたが、すこし離れた木挽町の森田座とともに江戸三座と称され、そこで演じられた歌舞伎狂言は江戸庶民の最大の楽しみだった。なかでも寛延二年(一七四九)、森田座で上演された〔仮名手本忠臣蔵〕は三座はじまって以来の大当たり狂言となった。これは元禄十五年(一七〇三)十二月の赤穂浪士の吉良邸討ち入りを芝居にしたものだが、座元は公儀をはばかり、舞台を太平記の世界に移したから、刃傷の場も鶴岡八幡宮に変え、、幕切れの仇討後の浪士引き揚げの場も、高輪の泉岳寺から鎌倉・光明寺に変えられている。
 また、江戸の大衆がもっとも好んだ狂言に〔曽我物〕がある。これは建久四年(一一九三)五月、頼朝が富士の裾野でおこなった大巻狩りにおいて、曽我の五郎と十郎が父・河津祐秦を殺害した仇・工藤祐経を討って、見事に本懐をとげた史実を狂言化したものだが、この兄弟の仇討は長く鎌倉武士の鑑(かがみ)とたたえられて、江戸の芝居町では毎年正月二日からの〔初春吉例狂言〕として曽我物が恒例となった。この狂言も幕開けは八幡宮・一の鳥居先からはじまるものが多い。
 鶴岡八幡宮といえば、かの有名な大石内蔵助良雄が、討ち入りにのぞんで最後の東下りをした際、鎌倉に立ち寄り八幡の武神に参拝し、仇討本懐の成就(じょうじゅ)を祈願したともいう。

 さて、長谷の大仏および観世音菩薩の尊くも麗しいお顔を拝し、なにやら口の中でぶつぶつと念じていた飛十郎が、足取りも軽くむかった鎌倉権五郎社・門前の茶店で、名物の力餅をなんと五皿も食べた。いかに小さいとはいえ、一皿に二個のせられた餡でくるんだ餅を十個も腹にいれた勘定になる。
 暑中、炎天下をあちこち歩きまわったから、茶を何杯もおかわりしたのは無理もないが、たちまちのうちに大量の餅を胃の腑におさめた飛十郎に、さすがに茶店の人たちも驚いたらしい。
「いや、馳走になった。うまかったぞ」
 よほど満足したのだろう。気前よく茶代をはずんで口に楊枝をくわえると、極楽寺の切り通しにむかった。坂を下りきれば、あとは松並木の道が七里ガ浜にそって腰越までゆるやかにつづいている。松原の頭越しに緑色をした江の島が、飛十郎の目に絶えず見え隠れしていた。
 助太刀という目的を果たしたあとの帰り旅だ。べつに急ぐ必要はない。腰越の満福寺には、兄・頼朝に足止めされた義経と弁慶の主従が、鎌倉入りを愁訴した〔腰越状〕の下書きが残されているという。
「満福寺か。もう、なにも食えぬ。まんぷく、まんぷく」
 下手なしゃれに気付いているのか、いないのか。手で下腹をなぜつつ、江の島への道を飛十郎は歩いていく。その江の島で、思わぬ変事に出くわすことになるのだが………。
 飛十郎のはるか頭上を一羽の鳶が、ゆったりと舞っていた。
                       
了  〈助太刀兵法3・白波心中へつづく〉








最終編集日時:2010年12月14日 13時40分

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