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隠密廻り同心・磯貝真六3 『篤姫の守り人』
[【時代小説発掘】]
2010年9月7日 12時36分の記事


【時代小説発掘】
隠密廻り同心・磯貝真六3 『篤姫の守り人』
佐藤 高市(さとう たかいち)



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概:
 隠密廻り同心・磯貝真六のシリーズである。幕末の江戸の治安を守る隠密廻りたちの痛快で粋な物語。

プロフィール: 
佐藤 高市(さとう たかいち)    
酉年でも喧嘩鳥の生まれ年で単純明快 東京都生まれ 
小説「谷中物語」で茨城文学賞受賞
江戸を舞台の小説「入梅」が韓国の常緑樹文学に翻訳掲載
江戸の歴史研究会会員 

これまでの作品:

隠密廻り同心・磯貝真六 「お多勢八幡」
隠密廻り同心・磯貝真六2 「伊助の別れ火」


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【時代小説発掘】
隠密廻り同心・磯貝真六3 『篤姫の守り人』
佐藤 高市(さとう たかいち)



(一) 薩摩から来た父と娘

 磯貝真六は、黒紋付の羽織を着て、着流し姿で大川のほとりに立っていた。風が柳の枝を揺らした。江戸の女たちは、磯貝のきれいに剃り上げた月代と切れ長の目が、役者のようだと噂をしていた。
 江戸市中は、昨年の大地震からようやく立ち直りを見せていた。大勢の職人たちが、江戸に入っていた。
 磯貝は、近くの水茶屋に入り、後から七色唐辛子売りの良太郎が姿を見せた。
 良太郎は、最近になって、上方からくだってきた浪人の調べをしていた。
 この浪人は、桧垣十郎といい、料理屋で芸者を上げて景気がいいようであった。浪人が住まいにしていたのは、浅草伝法院裏の背割長屋であった。良太郎は、自身番からも話を聞いていた。
 磯貝は、配下の三五郎から、この侍が、薩摩から江戸にくだってきたことを知らされていた。浪人には、ひとり娘で十五才になるお里がいた。
 三五郎は、磯貝真六の命を受けて、桧垣の身辺を洗った。鍋釜の修理をする鋳掛屋として、背割長屋で商売をする。
 火を起こすと長屋からは、鍋や釜を持ったおかみさんたちが集まってくる。
 三五郎は、艶っぽい軽口をたたきながら、穴のあいた鍋をふいごの火で、しろめを溶かして鍋の穴をふさいだ。
 鍋や釜が筵(むしろ)の上に積まれていく。これだけあると、一日仕事になる。
 三五郎は、仕事をしながら、おかみさんたちから、桧垣十郎のことを聞き出そうとした。
「この長屋には、最近、腕の立つお侍様が引っ越してきたって聞いたよ」
「桧垣様よ。腕が立つんだよ」
 三五郎に聞かれて、桧垣の隣に住むおかみさんが、詳しく話しをした。
 伝法院の裏の寂しい林で、夜半に立ち木に打ち込む大音声がするという。
 それは、時をおいて数回聞こえるのだが、翌日になって、音がした立ち木を見ると、幹に斧を打ち込んだような跡があった。
 林から出てくる桧垣を見た者がいて、長屋に住む者たちは、桧垣を剣の達人だと噂をした。
 三五郎からの報告を受けて、桧垣が示現流の遣い手であると、磯貝真六は見ていた。
 示現流は、腹の底から出す気合と共に、一撃で相手を斬り倒す殺人剣であった。立木へ木刀で打ち込むのは、野大刀示現流の稽古であった。
 磯貝は、老中から、大名島津の動向を探るように命じられていた。それは、隠密廻り同心として、直々に幕閣から命じられたことであった。
 相手が、雄藩の大名であっても、幕府を守っていくためには、徳川幕藩体制の堅固な堤に蟻の一穴をも見逃してはならなかった。
 磯貝真六は、老中からの指示を受け、大名や旗本についても、探索を続け、大奥についても、寺参りの折の動静については、甚吉に調査を命じていた。
 そして、調べ上げた全てを幕閣に知らせていたのである。
 桧垣は、磯貝の調べのとおり、薩摩の武士であり、お里と江戸にくだって、浅草伝法院奥の背割り長屋で、時を待っていた。それは、将軍の正室に、薩摩の篤姫が御台所としてお城に上がることであった。
 この婚儀に、大名の間でも意見が分かれていた。特に徳川水戸家は、篤姫が島津の分家筋からの養女であり、身分が低いといって、徳川将軍家に対して非礼であると憤慨をあらわにしていた。
 桧垣十郎は、江戸での滞在について、その期限も知らされていなかった。篤姫が、将軍に輿入れをすると、桧垣は、江戸市中から篤姫を見守っていく。
 篤姫が、徳川の殿様に輿入れをすることが決まり、桧垣十郎は、主命で江戸にくだって、市井から篤姫を見守る役につくことになった。
 桧垣は、親類にも告げずに、お里と供に薩摩から長旅をして、浅草にたどり着いたのだった。お里の母は、既に他界していた。
 桧垣は、薩摩にはもう戻ることはないことをお里に告げていた。そして、いつか、江戸城に上がって、篤姫に会うことが桧垣の夢であった。
 お里は、江戸の物売りの声にはじまる朝のにぎやかさやに親しみを覚えた。
 近くの湯屋にも、長屋の人たちと連れ立って行く。お里は、広い湯船につかっていると、気持ちがよかった。
 お里は、おかみさんの広い背中を糠袋で洗う。母親の背もこのようなものだと思うと、涙が出るのであった。
「お里ちゃん、今度は、おばちゃんが、洗って上げるよ。お里ちゃんは、色が白いね。お侍様の子は、うちの子とは、違うね」
 湯屋では、女たちの笑い声が響いていた。
 一方、桧垣十郎は、江戸に来てから、心が休まることはなかった。浪人に身をやつし、市中をさすらうことの毎日は、辛いものがあった。
 そんな思いが、料理屋に芸者を揚げ、伝法院裏の林で、武芸の稽古に励むような所業をさせていた。
 桧垣は、さすがに示現流の達人と呼ばれた男であり、書物を読むことで自分の気持ちを落ち着かせた。そして、自分の身の廻りを探索する者たちへの警戒につとめた。
 磯貝真六は、桧垣の変化に気付き、磯貝の手下で七色唐辛子売りの良太郎を長屋に住まわせることにした。
 良太郎は、唐辛子のはりぼてを編笠にくくりつけて、市中を廻っていた。元々は定斉屋であり、薬の調合については、御殿医からも声がかかるほどであった。
 良太郎は、唐辛子に工夫をして、漢方薬を配合した。町人たちは、風邪の引き初めに、熱いうどんに良太郎の唐辛子を多めにかけてすすれば、朝にはけろりと治ってしまうと驚いた。
 評判になった唐辛子は、作るのが追いつかないほど売れていた。
 良太郎は、木戸に『浅草七色唐辛子』の看板を出した。唐辛子の調合を長屋のおかみさんたちに頼み、お里も喜んで、その仕事を引き受けてくれた。
 良太郎が、唐辛子を持って、桧垣の所を訪ねると、お里が返事をして顔を出した。良太郎の顔を見ると、すぐに笑って、詰めが終わった七色唐辛子の紙包みを取りに行った。
 暗い部屋の奥で、桧垣の姿があった。目をつぶったままで、経を唱えているようだった。良太郎は、お里から唐辛子を受け取ると、新たに唐辛子と混ぜものを渡した。
「お里さんは、仕事がていねいだね。助かるよ」
 良太郎は、そう言って、銭を渡した。
 桧垣は、良太郎の視線を感じていた。唐辛子屋が、自分に関心があることを即座に見抜いていた。桧垣は、幕府が監視をしていることを知り、幕府の隠密は、自分を斬るのかと良太郎の様子を窺っていた。
 桧垣は、楽しそうに唐辛子の調合をするお里を見て、闇に葬られるのは、自分だけでよいと思った。
 磯貝真六の屋敷に、老中の阿部正弘からの使いの甚吉が姿を見せた。突然の用件は、島津の動きを探ることを中止せよとのことであった。
 そして、桧垣十郎への探索をも即座に止めるようにとの命が下った。磯貝は、すぐに、良太郎に、長屋からの引き上げを命じた。
 お城にうごめくものは、幕閣をも我が意としてしまう。磯貝は、薩摩にこれ以上係わることなく、市中の探索に頭を切り替えるのだった。
 やがて、桧垣とお里は、伝法院裏の長屋から姿を消した。二人を追う者はもういなかった。
 長屋のおかみさんたちは、自分の娘のようなお里が、突然いなくなって悲しんだ。


(二) 八相・大上段三日月の剣

 磯貝真六は、隠密廻り同心の役に就く前に、町奉行の命を受けて、一年間の修行に出た。甚吉も一緒であった。甚吉は、伊賀の忍びであり、忍びの腕は老中も一目を置いていたほどであり、隠密廻りとして役に就くことになっていた磯貝真六に仕えていたのだった。
 二人で、諸国をさすらい、限られた路銀で、一年の歳月を生き延びて、修業を続けなければならなかった。江戸から川越に出て、上州に抜け越後に向かった。越後から日本海に沿って、鶴岡から新庄に向かい、山間を流れる雪の最上川を見て歩き続けた。
 岸辺からすぐに山がせり上がり、ゆっくりと流れる川面に雪が横なぐりに降っていた。二人は、あまりの風景の美しさに、ただ驚きの声を上げるばかりだった。
 磯貝は、山深い山村に暮らす人たちの厳しい生活を見ていた。山の斜面を切り開いた畑で野菜を作り、沢沿いの田んぼでわずかばかりの米を作る。
 暮らしに困って、我が子を身売りすることも珍しくなかった。
 山里の村で、二人は村長の家に招かれた。粥が出された。山里の農民が白米を口にできるのは、祭りの時に限られていた。粥は、ほとんど汁ばかりであったが、磯貝は村人の情けに胸が熱くなった。
 甚吉もぼろを着た老婆に、自分の母親の姿を重ねていた。貧しい村で生きることは、人のこころを優しくさせた。そうでなければ、生きることはできなかったのである。
 二人は、村長の屋敷に泊めて貰い、久し振りに風呂にも入った。蛙の声がにぎやかに聞こえ、どぶろくまでごちそうになった。屋敷には、村人たちが集まってきた。
 山里に生まれた村人は、飢えの不安を抱えて、稗や粟を作った。諸国を旅することもなく、ただ、この狭い村で子供を産み、日照りや冷夏に耐えながら、一生を終える。
 磯貝真六は、アメリカ船が浦賀に来航したことや江戸で話題になっている芝居などの話しを村人たちに聞かした。
 甚吉も話しが上手であった。忍の術の中にも人の情を利用する方策があった。
 甚吉は、翌年の豊作を占うために、江戸に住む人たちは、王子の狐火を大晦日に見物しに行く話しや浅草寺の祭りのにぎやかな様子を話した。
 村人たちは、二人の話しに引き込まれていった。二人にとっても村人たちとのふれあいは、諸国の修業での楽しい思い出となった。
 一方、強盗に襲われた遺体を見たことがあった。峠の手前のさびしい場所で、身ぐるみをはがされて、残忍にも刀で斬られていた。烏の群れがそれらをついばんでいた。
 磯貝は、江戸市中に限らず、地方においても、治安の維持に務める必要があることを思い知らされた。
 磯貝真六が、修業の間に人を斬ったのは一度あった。相手は、野武士のような無頼漢であった。
 宿場のはずれで、旅の僧侶が斬られていた。数人の旅人が、僧侶を介抱していた。僧侶は、虫の息の中で、金子と経文の写しを盗られたと言った。
 初老の僧侶は、法華経を聖地に献納を行う六十六部だった。僧侶は、磯貝に向かって、無念であるといって息を引きとった。
 先に行かせた甚吉が、戻ってきた。僧侶を斬った野武士が、宿場の居酒屋で酒を飲んでいると磯貝に伝えた。 
 物見のために、先に行かせた甚吉は、僧侶の叫び声を聞いた。甚吉は、斬られた僧侶を通りがかった旅人に預けて、男を追ったのだった。夕暮れが迫っていた。
 甚吉は斬られた僧侶の深手の傷を見た時に、最早助からないと思った。
 甚吉は、血のかかった着物の男を居酒屋で探し当てた。男の傍らには、経文を入れてある六十六部の逗子があった。
 居酒屋の前に駆けつけた磯貝真六は、小役人を待ったがなかなか姿を現わさなかった。
 居酒屋から大柄な男が姿を見せた。磯貝は、男に対して、逗子をそこに置けといった。僧侶を殺めたことを問われた男はすぐに刀を抜いた。
 野武士は、先ほどまで飢えていた。人の金を奪うことだけを欲していた。そこに現れたのが独りで旅を続ける六十六部だった。野武士は、真剣を抜いて襲いかかった。
 初めは殺めるつもりはなかった。ただ金が欲しかった。だが、大声を上げる相手に対して、自分の得意の剣を遣ってしまった。
 磯貝は、先ほどの僧侶の傷を見て、野武士のつかう剣は、突きの一手であることを見極めていた。
 真剣を遣う初めての勝負であった。その時、磯貝真六は鹿島神社での荒行を思った。来る日も来る日も剣術師範と木刀で打ち合った。
 気を抜けば、木刀といっても頭を打ち砕かれて、死ぬこともある。磯貝の体は、鹿島の荒行を覚えていた。
 磯貝新六は、野武士に対して、左足を前に出して、長刀を握った両拳を右頬のあたりに構える八相上段の構えをした。この構えは、攻めも守りも自在の構えであった。
 殺気立つ野武士を前に、磯貝は突きの一手を警戒していた。男は、鹿島神当流を極めた磯貝真六の強さを感じた。
 甚吉は、いつでも手裏剣を投げ突けるようにしていた。磯貝は、真剣の勝負は初めてであり、道場での稽古とは全く違うことを知った。死ぬか生きるかのどちらかであった。
 正眼の構えから、男の足が一瞬動くような気配を感じた時、相手の刀が磯貝の咽喉を突くのが見えた。同時に、磯貝真六は八相から男の首に向けてけさがけにした。
 周りでは、町人たちが一瞬の激しい剣に、何が起きたか分からなかった。小役人もそれを見ていたが、野武士の吹き出す血しぶきを浴びて声を上げた。
 その夜、初めて人を斬ったことで、磯貝は眠ることができなかった。皮膚や骨を斬り、人の命を断つ剣の感触がまだ手に残っていた。
 自分は、武士として、真剣の勝負に勝つために、修業を続けてきた。父も剣の師匠もこの時のために教え導いてくれたのか。
 何度も、寝返りを打ったが、剣の勝負に勝った喜びはなかった。
 磯貝真六は、野武士から取り戻した法華経の写しを懐に入れていた。
「如来寿量品第十六」
 磯貝は、思わず経文が口にした。以前、父から学んだ法華経の経文だった。
 磯貝と甚吉は、修行を続けた。山にこもって修験道も経験した。月山で修験者について、夜も歩き続けた。闇の中で、獣の目が光っていた。月に照らされた山の稜線が眼下に続いていた。
 山がまるで呼吸をしているかのように、霧が立ち、それが雲となって、山の頂にかかっていく。
 示現流との出会いは、諸国を修業して江戸に戻る時であった。水戸で示現流の元になった剣法を貧乏寺の和尚から伝授された。それは、恐怖を覚えるほどの剣であった。
 示現流には、二の太刀は存在しなかった。和尚が寺の境内にある立木に、気合もろとも一撃に打ち込んだ。その時、木と木がぶつかり、焦げるような匂いがした。
 それほど、激しい剣であった。磯貝は、木刀の動きを見据えていた。一瞬の大刀であった。
 多くの剣法を見てきた磯貝真六であったが、和尚の本流示現流の剣先が見えなかった。そのため、磯貝は、これまでの修業の意味をもう一度自問しなければならなかった。
 磯貝は、示現流の剣に勝たなければ、これまでの修行が徒労に終わってしまうと思った。    
 そして、このまま江戸に戻らずに、白河を越えて北に向かうことも考えていた。
 庭先で、甚吉が主の悩みの深さを思っていた。修行の終わりに、本流示現流の殺人剣を間の辺りにして、磯貝のこころは乱れていた。
 二人は、そのまま、寺で二日を過ごすことになる。水戸の和尚は、声を掛けずに二人を見守っていた。
 本流示現流を極めた水戸の和尚にとって、磯貝真六の気持ちは、よく分かった。
 磯貝は、何百回も水戸の和尚の剣を思い浮かべては、それに対応する剣を探していたのだった。
 季節は、晩秋であり、甚吉は寒風を身に受けながら、本堂の磯貝真六を見ていた。ようやく、磯貝がこちらを振り返った。
甚吉は、磯貝の笑顔を見て瞬時に主の思いを理解した。
「若、分かったのですね?」
「ああ、分かろうとしていたことを止めて、初めて、見えたぞ」
 甚吉の問に磯貝は、今の心中を説明するのだった。
「三日月が見えた。三日月の弧が見えたぞ」
 磯貝真六は、そう甚吉に告げると、その場に倒れた。今までの疲れが、一気に吹き出したかのようだった。
 磯貝は、眠り続けていた。介抱する甚吉は、そのやすらかな顔を見ると、磯貝の新たな境地を感じていた。
 磯貝は、深い眠りからさめると粥を食べた後、和尚との立会いを申し出た。二人は、境内で木刀を構えた。
 和尚は、普段の柔和な顔から、鬼のような赤ら顔になった。そして、腹の底からしぼりだすような声を上げた。その姿は、まるで狂人のようであり、殺気がみなぎっていた。
 磯貝真六は、八相の構えを大上段にして、右手首をしぼるようにして剣を持ち、左足を前にしていた。
 そして、相手が打って来ると同時に、左足に体重をかけ右足を踏み込んで、身体をひねって相手をけさ斬りにする。その時に、木刀が三日月を描いた。
 これが、磯貝真六が編み出した『八相・大上段三日月の剣』だった。この剣法は、どんな相手にも柔軟に対応ができた。
 打ち込んだ和尚は、真剣であったら自ら絶命したことを知った。目の前の相手が消えた瞬間に、相手の刀が音を立てて斬り下ろしてきた。
 磯貝は、腕を上から下に動かす直線の動きより、人の身体は腰をひねったりする横の動きの方が、自然に思えた。
 その柔軟な剣が、本流示現流の殺人剣をしのぐことができた。水戸の和尚は、自分の頭をたたきながら、「お見事!」と言った。
 このことは、磯貝真六にとって、自信を深めることであった。
 甚吉もまた、三日月の剣の威力を目の当たりにして、磯貝のこころと剣がひとつになったことを喜んでいた。


(三) 闇夜の辻斬り

 磯貝真六は、薩摩藩に西郷という御庭方の役人がいることを甚吉から聞いていた。多くの若者が西郷の下に集まっていた。そして、磯貝が尊敬する水戸の藤田東湖とも交流があった。
 薩摩藩は、水戸藩と急速に近づいていた。それは、やがて、徳川幕藩体制の脅威となるのである。
 日本が、外国から開国を迫られている時に、幕藩体制を強固にしなければ、この難局を乗り切ることはできなかった。
 だが、西国の雄藩は、外国の侵略に備えて軍備を増強していた。清国のようにイギリスに侵略され、不平等な条約を結ばされたことは他人事ではなかった。
「何か大きな波が、この江戸に迫っている。昨年の大地震のように、突然、この国を根底から揺るがすような時代の変化が……」
 磯貝真六が、甚吉と話している時であった。庭先で人の気配がした。
「旦那様、只今戻りました」
 鋳掛屋の三五郎の声がした。三五郎は、上方からの浪人が増えていることを磯貝に伝えた。
「ごくろう、三五郎、今日は越後から酒が届いている。ゆっくりと飲んでゆけ」
 磯貝は、三五郎をねぎらった。夕餉の時になって、女手のないこの家で、先代から使えている小者の治平が、膳を運んできた。
 磯貝は、届物の酒を口にした。樽の香りとともに、濃厚な酒が口の中に広がっていく。
 板の間に控えていた甚吉と三五郎も越後の新酒を口にしていた。二人は思わず笑みがこぼれた。
「こうやって、酒が飲めるのも農民たちの働きによる。それを一時も忘れてはならぬぞ。我々が成すべきことは、お役目を全うし、江戸市中の治安を維持することだ」
 磯貝は、自分に言い聞かせるように言った。
 東北の山村を甚吉と修業に訪れた際に、村人たちは、祭りに用意していた特別の酒で、二人をもてなした。酒を注ぐ村人の指は土に汚れ、重労働を課せられている手であった。
 磯貝は、あの時の酒の味を忘れたことがなかった。酒を飲むとそれを思い出して、深酒をすることもなかった。
 神田明神に近い木戸番の善治は、うつらうつらとしていた。戌の刻(午後8時頃)であった。遠くで、犬の鳴く声がして、それと同じくして叫び声が聞こえた。
 番太郎の善治は、また辻斬りがあったと思った。つい先日も、通りから少し入った火除けの場所で、夜鷹のお登勢が斬られたばかりだった。
 善治が通りに出ると、野次馬が走ってきた。下総屋の裏で人が殺されたと叫んでいた。
 善治は、岡っ引きの稲荷親分に知らせようと稲荷の家に走った。稲荷親分は、稲荷神社の奥に住み、昔はやくざと喧嘩をするほど元気がよかった。ある与力に見込まれて、同心を紹介され、岡っ引きになった。「
 親分、大変だ。また、人が襲われやした」
「おう、どこでえ!」
「下総屋の裏ですぜ」
「ありがとよ、おっかあ、いってくるぜ」
「あいよ」
 あっという間に、稲荷親分は、現場に急いだ。
 稲荷は、先日殺された夜鷹のお登勢を知っていた。江戸に奉公に上がったのは、大川端の料理屋だった。そこで、奉公先の主人にもてあそばれて、やがて、大川端の柳の下で客を待った。
 お登勢は、越後の雪国の生まれで、肌の白い整った顔立ちをしていた。夜鷹に落ちても、稲荷が通りかかると、恥ずかしそうに姿を隠した。胸を病んでいるのか、菅笠の下で、軽い咳が続いていた。
 稲荷は、十手を握りながら険しい目をして、先を急いだ。次々と御用の提灯が集まってきた。
 下総屋の裏路地では、乞食が殺されていた。そこには、磯貝真六と配下の者たちがそこにいた。
「これは、磯貝の旦那様、御苦労様です」
「稲荷、これは単純な殺しではないぞ」
 磯貝真六は、乞食の心の臓を突いたものが槍であると見ていた。
 稲荷は、上役の同心が駆け付けるまで、手下に乞食の遺骸を見張らせた。
 磯貝は、既に、江戸市中に急進的な浪士たちが入ってきたことを知らされていた。夜鷹が殺され、そしてこの夜の人斬りが、そのような者たちが起こしたと見ていた。
 甚吉が、密かに探っていた西国の浪士たちの住みかは、ここからそう遠くはなかった。
「若、これは、鎌槍ではないでしょうか?」
 甚吉が、乞食の心の臓あたりにある傷を見て、そう言った。幅の広い槍の切っ先で、深く刺したことが分かった。
「夜鷹のお登勢の時と同じであるな。間違いなく鎌槍であろう」
磯貝は、乞食の刺し傷を丹念に見てから、そう言った。
 鎌槍は、槍の穂先が十字になっている槍であり、鎌のような鋭利な刃先が付いていた。
 これを遣いこなすのは、手練れの武士であった。武芸者として、相当な腕を持つ者であった。
 その時、奉行所から使いの者が現われて、磯貝真六に耳打ちをした。
「分かった。奉行所に参るぞ」
 乞食の遺体は、稲荷親分に任された。稲荷は、血に染まった乞食の遺体を、自分の手拭でぬぐって下っ引きと一緒に戸板の上に乗せた。そのうち、同心が姿を見せた。
 稲荷は、磯貝真六の颯爽とした姿にいつも関心をしていた。特別の役目を帯びた腕利きの同心として八丁堀では名が知れていた。
 稲荷は、あのような同心の下で働きたかった。江戸の治安を乱す無宿者や盗賊、血の気の多い浪士など、気の休まることはなかった。
 それに、付け火には、気が抜けなかった。一度、火事になると、狭い地域に密集した家々は、ひとたまりもなく炎に包まれた。
 稲荷は、遺体の検分を終えて、自身番に寄った。
 自身番には、大家がいた。火鉢を前にして、するめを焼いていた。
「ごくろうさまでございます。ちろりで燗をいたしましょう。親分、どうぞこちらへ」
 大家は、火鉢を稲荷の方に近づけた。
 冷えた身体に、燗酒は塩梅がよかった。
「大家さん、いい酒だね。くだりものか」
「そうです。地主様から頂戴いたしました。明日にでも、おうちの方にも、届けましょう」
 大家は、稲荷の仕事の熱心さに日ごろから感心をしていた。安い給金で、十手を預かる稲荷には、大家たちからの付け届で生活を支えていた。
 稲荷は、自分の手下にも手当を払わなくてはならなかった。おかみさんは、そのやりくりに追われていた。
 そこに、木戸番の善治が顔を出した。
「番太郎さんもおいでよ」
 大家は、そう言って酒の用意をした。善治は、久し振りの清酒の味に、思わず腹が鳴るのに顔を赤くした。
「善治、早速知らせてくれてありがとよ。それにしても、物騒な世になったものだ。俺みたいなにせ役人の岡っ引きが、忙しく働く世の中は、真っ当じゃねぇぜ」
 稲荷は、そういって、地震や火事、そして外国船によって、江戸市中が混乱していることを話した。
「最近は、無宿者や浪士たちの姿もよく見かけます。自身番の仕事も忙しいんですよ」
 大家は、稲荷に酒を注ぎながらそう言った。大家は、不審なものを見つけると、稲荷や同心に伝えた。交代で自身番に詰めていたのだった。
「ところで、もうひと月で年越しだが、大家さんは、どこにお参りにいくんだい?」
 稲荷は、来年こそはいい年にしたいと思っていた。大晦日には、かみさんと王子の稲荷に詣でようと思っていた。
「私は、檀家の寺に参ります。谷中にあるんですが、水茶屋の女が評判なんですよ」
 稲荷の問いかけに、大家が答えた。
 大家は、まだ色恋に未練があるらしい。
「おいらは、いつものように浅草の観音様に参ります。秘仏の出開帳もあるらしいんです」
 そう話す善治は、越前の出身だった。
 木戸番をやりながら、小間物や駄菓子を売って生活をしていた。
 大家は、背割長屋に住む棒手振りの金公の娘を善治の連れ合いにどうかと思っていた。
 外では、夜廻りの拍子木の音が聞こえた。
 稲荷は、礼をいいながら、自身番を後にした。外では、冷たいものがちらついていた。今年の初雪が降っていた。遠くで、野良犬の吠え声がした。


(四) 宝蔵院流十文字槍の遣い手

 小者の治平が、朝餉の膳を運んできた。味噌汁は、葱の白身がたっぷり入った根深汁だった。磯貝は、子供の頃から、根深汁が好物であった。おかずは大根の煮付であった。
 磯貝は、食が進んで、治平が茶碗に飯をよそった。板の間では、鋳掛屋の三五郎も朝餉をしていた。
 磯貝は、茶を啜りながら、庭の梅の枝に積もった雪を見ていた。風が、雪を払う音がした。
 おそらく、三五郎が突き止めていた浪士たちの住みかは、もぬけのからのはずであった。昨晩、甚吉には、そのあたりの探索を磯貝は命じていた。
「旦那様、髪結いがまいりました。部屋を暖めましたので、お越しください」
 治平が、髪結いが来たことを知らせに来た。こうして、勤めがある時には、髪結いが来て八丁堀同心の独特の小銀杏の髷を結うのだった。
 磯貝の身支度が整った頃、甚吉が姿を見せた。探索をしている甚吉は、先ほどから、磯貝を待っていたのであった。
「若、乞食殺しの下手人は、浪士です。攘夷派のようです。先月の初めに上方からくだってきて、十文字槍を見せびらかしている輩がいるようです」
「攘夷派か、後ろには、大名の影はあるのかもしれぬぞ。甚吉、早速、御奉行に知らせてくれ」
「はぁ」
 甚吉は、足早にその場を離れた。
 攘夷派の中で考えが錯綜していた。徳川幕藩体制の中で、攘夷を主張する者や天皇を中心に置いた思想で、幕藩体制そのものを転覆しようとする過激な者もいた。大きな変革の波が江戸に押し寄せていた。
 磯貝真六は、奉行所に出向いて行く。磯貝の後ろから御用箱を背負った治平が続いていた。御用箱には、捕り物になった時に着る鎖かたびらなどが入っていた。
 隠密廻りという役向きであったが、奉行所には一般の同心のように出仕するのだった。顔見知りの商家の人が、黒紋付を羽織った磯貝に深々と頭を下げた。
 磯貝真六は、特別にあつらえた香木の香りをつけた鬢付け油をつけ、きれいに剃った月代の青さは、まるで歌舞伎役者のようであった。
 町人たちは、磯貝真六の颯爽とした姿に見とれていた。後ろを歩く治平は、自分のことのように鼻が高かった。
 治平は、八丁堀で逸材と言われる磯貝真六が、妻をめとり、先代の願いである与力に出世させることが、今生の願いであった。
 だが、磯貝真六は、隠密廻り同心の役目柄、命を狙われることを覚悟をしなくてはならなかった。徳川のために、いつでも捨て石になることを覚悟していたのだった。奉行の耳目となり、徳川幕藩体制を支えていくことが、武士の一分であった。
 そのため、磯貝は、終生婚姻をしないことを誓っていた。
「磯貝、攘夷派の浪士たちが、江戸に入っていると聞くが?」
 奉行は、評定で疲れていた。磯貝真六の報告書を見るとそうつぶやいた。
「はぁ。浪士たちの動きを探らせています。また、乞食が鎌槍とみられるもので、殺されました。これについても、探索を命じております」
「鎌槍か。十文字槍だな。真田幸村、そして丸橋忠弥の武芸者が遣っていた槍だな」
「はぁ。恐らく、かなりの遣い手と思われまする」
「磯貝、ごくろうであった」
「は、はぁ」
 奉行は、磯貝真六の詳細な報告と美しい文字にいつも感心をしていた。
 磯貝は、その後、与力と年寄同心との評議に向かった。その席上、名主に対して、二件続いた殺しについての町触れを出すことにした。
 町触れは、やがて自身番に届き、背割長屋に住む町人たちにも知らされる。
 磯貝は、屋敷に戻ると、あらかじめ決めておいた知り合いの寺に向かった。
 その寺は、永代橋を渡り、深川の町並みを過ぎた静かな場所にあった。宗派は、富士門流であった。寺には仏像もなく本尊は曼陀羅であった。日蓮の弟子が起こした寺で、本山は富士の裾野にあった。
 住職である日昇は、磯貝よりも少し年上であった。日昇との出会いは、修業のために甚吉と国を旅している時に、野武士に斬られた六十六部の残した経を納めるためであった。
 その寺は、実は甚吉が探索をしていた寺であった。探索をさせていた理由は、その宗派に島津の殿様と養女の篤姫が帰依していた宗派であった。
 甚吉は、富士門流の僧侶が、時があれば題目を唱えていることを知った。三五郎もこの寺に頼まれて、穴の空いた鍋を修理しながら、僧侶たちの質素な生活にあきれていた。
 僧侶たちは、土地を借りて野菜を作り、納豆や味噌まで作っていた。
 島津の殿様のような大名が、どうしてこの小さな宗派に帰依したのか、不思議であった。
 日昇は、自ら境内を掃いているところであった。磯貝に気付くと深々と頭を下げた。日昇は、磯貝と茶を飲みながら、分かりやすく経典を説明し、お題目のすばらしさを語った。
「只今、臨終の気持ちになって、仏に祈りを行うことが深い喜びにつながるのです」
 それは、磯貝がいつも思っている気持ちに通じていた。二人は、久しく語り合っていた。
「また、いらしてください。新年には、勤行会がございますので、是非いらしてください。お待ちいたしております」
 日昇は、そう言って、磯貝を見送った。
 磯貝が、寺を訪れた日の夜半、稲荷親分は夜鷹の格好をして、手拭で顔を隠すようにしていた。手には筵(むしろ)を持っていた。稲荷の吐く息が白かった。谷中の蛍坂に近い所で、月明かりに照らされた柳の下で後ろ姿を見せていた。
 稲荷がここに目を付けたのは、下引きが谷中寺町の庫裏に、浪士たちが潜伏していることを突き止めたからであった。夜には、やくざ者たちと賭博をしていた。
 稲荷は、やくざ者たちからも好かれていたので、このような知らせが逸早くもたらされた。
 稲荷の家の仏壇には、夜鷹のお登勢の位牌が安置されていた。遺体は、無縁塚に葬ったが、越後の親族には位牌だけでも渡そうと思っていた。春になれば、越後から親族がくるはずであった。
 ほろ酔い加減の年配の住職が声をかけてきた。稲荷の顔をのぞきこむと大声を上げて逃げて行った。
稲荷は殺気を感じた。闇の中から、丸坊主の大男がぬっと姿を見せて、手には槍が見えた。
「大君のために、成敗をいたす。よどみに浮かぶうたかたは、尊王攘夷!」
 稲荷は、満月を背にした大男が、ゆっくりと近づいてくるのが分かった。槍の十字の刃が月明かりに映し出された。
「御用、御用!」
 その時、女のかつらを降り払って、稲荷が十手を差し出した。十手には、朱の房はついていない。
「朱の房もない、にせ役人め!」
 大男は、そういって、槍を稲荷に向けた。 
その時だった。手裏剣が大男の肩口に当たった。
 大男の前には、磯貝真六が姿を見せた。甚吉も刀を抜いて身構えた。そして、三五郎が自ら作った銃を構えていた。
 磯貝は、長刀を八相の大上段に構えて、男との距離を詰めていった。
 大男は、酒に酔っていた。その点を磯貝は見抜いていた。
 鎌槍を構える男の呼吸が一瞬、荒くなった時に、三日月の剣がうなりを上げた。男は前のめりになって、冷たい沢に倒れこんだ。
 磯貝は、もし相手が酒に酔っていなかったら、倒れこんでいたのは、自分であったかも知れなかった。猿沢の池に浮かぶ月を突いて編み出されたこの槍術は手強かった。
 稲荷は、その場に尻餅をついていた。甚吉は、極端な思想に走る浪人の行方を追っていた。
甚吉は、夜鷹のお登勢を斬ったのもこの浪人であることも調べ上げていた。
 ようやく、御用の提灯が集まってきた。
「稲荷、ご苦労であった。それにしても、ひどい夜鷹だな」
 磯貝の言葉に、その場にいた者は、声を出して笑った。
「磯貝様、これで雪深い越後から出てくる、お登勢の親御様にいい報告ができます。ありがとうございました」
 稲荷は、頭を下げた。磯貝は、稲荷の人を思う気持ちに感じ入っていた。江戸市中の平穏を守るためには、稲荷のような人情を持った男が必要であった。
 磯貝は、今倒した男のような遣い手が、江戸市中に流れてくることに、国が荒れていくのを感じていた。
 今宵は、勝つことができたが、このような者たちが尊王攘夷の下に徒党を組めば、天下の一大事になることは明らかであった。
 磯貝は、駆け付けた役人に遺体を預けて、甚吉を奉行の下に走らせた。
 やがて、尊王攘夷派のひとりの浪士の死が、やがてこの国の難局の舵取りを任されている老中阿部正弘に届く。
 尊王攘夷という、威勢のいい言葉の下には、行き場を失った浪人や武士を夢見る者たちが、集まってくる。
 外国船の一団に、内憂外患している国内の動揺が大波のように打ち寄せる。老中阿部正弘は、その鍵をにぎる大藩の薩摩の動きに注視していた。
 稲荷親分は、磯貝真六の剣に心酔していた。それを女房に何度も話した。満月の下で、一瞬にしてうなりを上げる長刀に感心した。
「磯貝様は、八丁堀で一番の同心だ。与力の役にも付けるお人だぜ。それにしてもすごい剣だ。稲光のように、三日月のお月様が見えたぜ」
 稲荷は、そう女房に言い聞かせた。
 稲荷と女房は、お登勢の位牌に線香を上げて手を合わせた。

(五) 時の流れに

 良太郎は、唐辛子のはりぼてを編笠にくくりつけて、江戸市中を廻っていた。
 すでに、『浅草七色唐辛子』は、有名になり、長屋のおかみさんたちの内職が途切れることはなかった。
 良太郎は、埃っぽい江戸市中を駆け廻りながら、いつもお里の姿を探していた。上野不忍池の弁天でお里を見かけたという話しを聞いた。良太郎は、お里にもう一度会いたかった。
 明日が、大晦日という日に、藍染川に沿った家々を丹念に廻っていた時であった。
「良太郎さん。お久し振りです」
 良太郎が振り返ると、そこには、お里の笑顔があった。
「お里ちゃんじゃないか。探した……、いや、久し振りだね」
 二人は、唐辛子に何を混ぜれば身体にいいかということなど、時を忘れて話した。良太郎は、内職をしてほしいことをお里に頼んだ。
「でも、父上が……」
 お里は、そう言うと顔を曇らせた。
 桧垣十郎は、病で伏していた。咳の発作があって、衰弱した体のため、ひとりで長屋の厠にもいけない状態であった。
良太郎は、お里の家に上がり、床に就いていた桧垣の顔色や脈を診ると、薬の調合をするために、その場を離れた。
知り合いの小間物屋に頼んで、火鉢や布団を桧垣の家へ届けるように頼み、お里には、青菜や鶏肉を棒手振りから買うように金子を渡した。
 桧垣の心の臓は弱っていた。咳の発作は、薬で改善されても、寿命は春まではもたないと良太郎は診ていた。
 御殿医が、頼りにするほどの腕がある良太郎であったので、見立ては確かなものであった。
 良太郎は、咳の薬を調合してから、藍染川に近い桧垣が住む長屋に急いだ。
 桧垣の部屋をできるだけ温かくして、すき間風の入る壁に板を打ち付けた。お里もかいがいしく働いた。
 土鍋には、鶏でだしをとって白米を入れて雑炊を作る。千住でとれた葱を加えて、じっくりと煮込んでいく。
 桧垣は、雑炊をすすり、良太郎の薬を飲んだ後程無くして寝息を立てた。
「良太郎様、父はお陰さまで楽になったようです。暮れのお忙しい時に、父上にこのように手厚くしていただきました。ありがとうございます」
 お里は、手をついて礼を述べた。
 良太郎は、明日も顔を出すことを告げ、堀端に待たせていた小舟に乗りこんだ。船は、八丁堀の磯貝の屋敷に向かった。
 夜半であったが、磯貝は、良太郎をねぎらい、治平に酒の支度をさせた。
 治平は、腹をすかせた良太郎のために、水団を手際良く作って、浅草七味唐辛子をかけた。
 磯貝は、火鉢に手をかざして、刻み煙草を煙管に詰めていた。
「この忙しい時に、ごくろうであった。桧垣殿の具合はどうであるか?」
「旦那様、桧垣様は、咳の方は良くなると思いますが、お命が春まで持つかという状態でございます」
「そうか、春までの命なのか・・・・・・」
 磯貝は、良太郎に金子を渡した。
「あのお方は、さぞ無念であろう。すまんが、頼むぞ。できる限りのことをしてくれ、今晩は泊って行け」
 良太郎は、桧垣の娘が良く働くことを話した。磯貝は、話しを聞きながら、お里の行く末を案じる良太郎の心の内を推し量っていた。
その頃、稲荷親分は、女房と顔を見合わせていた。
「御前さん、明日は大晦日なんだよ。大家さんや越後屋さんの掛け取りがくるよ。どうすんのさ」
「何とかなるさ。いざとなれば、おまえをコロリと言って、近づけやしねえよ」
「あんたって人は、昨年も厠に隠れて夜を明かしたくせに、どうしたらいいのさ」
 稲荷は、めんどうくさくなって布団にもぐった。女房は、ぶつぶつ言って、質草を風呂敷に包み始めた。
 稲荷は、布団に入って他のことを考えていた。それは、歳暮を持って同心の家に挨拶に行った時であった。
その時、稲荷の上司の同心は、体調がすぐれないので職を辞すということだった。稲荷は、困っていた。このままだったら、稲荷は岡っ引きを続けることができない。
 稲荷は、女房には、そのことは言えなかった。
 稲荷は、磯貝真六の下で働くことを夢見ていた。武士たちの面目で、町人が泣くことのない江戸市中を願っていた。そして、女房と王子の稲荷に詣で、磯貝真六の下で働くことを真剣に祈願することにした。
自身番には、大家と番太郎の善治がいた。大家は、善治に浅草の観音様に棒手振りの金公の娘を連れていくように言いくるめていた。浅草寺には、山門内に縁結びの神も祀られていた。
「おまえさんは、番太郎として良く働いているね。棒手振りの金さんの娘を嫁にしなさいな。竹を割ったような子でね。きっぱりしたいい子だよ。大晦日は、浅草の観音様に一緒に行くんだよ」
 善治は、雪深い越前から出てきて、かれこれ十五年が経っていた。
 善治は、かおるのことは知っていた。器量は悪いが、顔を見合わせれば、笑い顔を見せて歯切れの良い挨拶をした。
 自分が嫁を貰うことは、この江戸では考えたことがなかった。女を知らない善治は、浅草にかおるを連れて、何を話せばいいのか見当もつかなかった。
 天ぷらにしようか、それとも粋な料理屋で清酒を飲もうか。善治は悩み、段々と気が重くなってきた。女を前にすると手が震えてくるのだった。
「大家様、おいらには、無理だよ。かんべんしてくだせえ」
 善治は、そう言って泣きを入れ、大家に頭を下げていた。
 それでも、大家に言いくるめられて、浅草の観音様にお参りをすることになった。
 翌日は、雨混じりの雪が降っていた。良太郎が、八丁堀から船に乗り、谷中の御殿坂から初音町を過ぎて、蛍坂を下って行った。
 藍染川には、鴨が群れていた。良太郎は、泥道で足を汚しながら、桧垣十郎の家に急いだ。その時、雪で白くなった林を抜ける時に、風が吹き、雪が落ちる音がした。
 良太郎は、桧垣の寿命に限りがあることを思い、後になって残るお里のことを案じていた。
 役目の途中で桧垣が亡くなれば、そこで桧垣の家は絶えることを意味していた。お里の帰る場所は、薩摩にはなかった。
 桧垣は、何事もなかったかのように、寝ていた。お里の話では、昨日の薬が効いて汗をかき、朝には熱が下がったという。
 桧垣は、衝立の向こうで、お里と良太郎の話しを聞いていた。
 自分でも、心の臓が激しく痛むことがあり、自分の命がもう長くないことを知っていた。良太郎であったら、お里を幸せにしてくれると思った。
 桧垣は、自分のことよりも篤姫のことを思っていた。病弱な将軍家定との間に世継ぎは産まれるのか。
 大奥で辛い時を過ごしてはいないかと心配は止むことはなかった。それだけが、今生の心残りであった。
 お里は、青菜を入れた雑炊に卵を落した。いい匂いがした。
「良太郎さん、陽が出てきましたよ」
 お里の明るい声がした。良太郎は、井戸端に水を汲みに行った。子どもたちが雪で遊ぶ姿があった。
 大晦日は、年越しの支度をする女たちが忙しかった。魚屋には、行列ができて威勢のいい男たちが、声を上げて魚を売る。
 掛け取りも一年の総勘定をするために武士や町人の家を廻る。それは、除夜の鐘が鳴る頃まで続くはずであった。
 稲荷は、女房を連れて王子村にいた。高台にある稲荷神社には、人が溢れていた。参拝客たちは、早々と家を出て、料理屋で名物の厚焼卵を肴に清酒を飲み、体を温めていた。
 高台の稲荷の社から、装束榎と呼ばれる大木を見下ろす。やがて、狐火が見えてくるはずであった。関八州の狐が集まり、狐火の数でその年の豊作を占う。
 稲荷親分は、その時を女房と待ちわびていた。稲荷は、岡っ引きを続けられるように祈っていた。
 歓声がした。遠くで提灯のような灯が見え隠れしていた。狐火であった。やがて、火は枯野一面に見えた。それに向かって、手を合わせる者もいた。神官は、多くの狐火から明年の豊作を告げた。
 祈りが届いたのか、年が明けて、稲荷親分は、磯貝真六の下で働くことになった。磯貝は、稲荷親分の役目に対してのひたむきな姿をいつも見ていた。
 奉行所に出仕する磯貝真六の後を治平が御用箱を持ち、稲荷親分がその後に続いた。着物もこの時のために、女房がしつらえたものだった。
 桧垣十郎は、上野の寛永寺に近いところで、自らのどを突いて命を断った。その顔には、苦悩の色はなく、お城の篤姫に向かって、倒れ伏していた。時は、春の気配がする頃であった。
 島津からの使者はなく、磯貝真六がその亡骸を手厚く葬った。桧垣の死は、老中の阿部正弘にすぐに伝えられた。
 日本の運命を託された老中阿部正弘は、この国の舵取りが難しいことを痛感していた。できる限りのことをやるのだと自分に言い聞かせていた。
 阿部正弘は、天皇や島津の動きに警戒を払いながら、徳川幕府の存続を祈っていた。だが、徳川幕藩体制は、至る所にほころびを見せ、時代の変革の動きは、最早、誰にも止めることはできなかった。


(了)







最終編集日時:2014年1月14日 13時4分

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