法則と 疑うこと | |
2013年10月23日 10時7分の記事 | |
たぶんまだやり足りないのだ 人を介して見つめた自分 高次を信じて疑わない自分 それは気分のいいものじゃなかった それは盲信だと思った と またもとに戻って考えているのでしたw とことん考えてやるー!
昨日のビジョンはすごく気持ちよく 幸せだった 言わんとしていることはわかる 疑うことは当然だ 疑って、それが解消されたら ますます疑わなくなる 愛がどんな奇跡を起こすか、愛のとてつもない力をあたしは知っているし それは疑わない 温度も疑わないし あたしの魂がクリエイターの一部、またはクリエイターのクローンで真実の光であることも疑わない 目に見えない世界があることも知っている だけどそれの正体について考えたことはない 目に見えないと言っても 見えるので そのまんま受け止めちゃってた 問題はそこ そういえば スピリチュアル系の人は自分の世界に突っ込みを入れられると かなり抵抗をしめす人が多い たまにすり替えをしたりもする(手品ね) あたしもそういうところがある 自分を見直す作業は難しい 瞑想で見るビジョン あれは本当は自分との対話だと思う 地球さんとの会話も でも最初に地球さんとシンクロした時 地球さんはまだ三次元で、「ここがつらい」などと言っていて 検索して シエラレオネだとわかった シエラレオネの現状と歴史はなかなかハードなもので びっくりした こういうことは確かにある しかもその時は自力では地球さんと離れることができなかった あれは確かにあった でもCDが止まらなくなったり ネットが一部つながらず誘導されたりすることの方が疑わしい 必然とは言え 何かに誘導されることには抵抗を感じる でもあたしは 毎回そこから何かを得る この作業も 何かを得ることに導かれているのかもしれない どっちみち 何かを得られることは決定しているんだけど そういう風に宇宙はできている まだ整理できていないので たぶんつづく | |
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