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2012年10月12日 10時35分
猫のイラスト
 
猫のイラストか何かそういうものを描こうと思う。

まずはfireworksでvectorにして、photoshopでいじる。
なんかめんどくさいな。

最後までvectorだったらサイズの変更とか簡単だし。
最近のphotoshop使ってないけど、そんなに変わってないのかな。
あんなバカ高いソフト買えないよ。
エレメンツもあるけどほとんど使ってない。

やっぱりfireworksのみが一番いい気がする。
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2012年10月2日 13時9分
なお世間には
 
なお世間には岡本太郎流のピカソ否定論があちこちにあるが、それらを重要視することは私はできない。それらはほとんど皆小さなショウマンが大きなショウマンを嫉妬したり邪魔にしたりして否定しているだけであって、鳴りはためいている大太鼓の中で小太鼓が騒いでいるようなものであって格別の意味をなす発言だとは思われない。なおわれわれが絵画ことにヨーロッパの絵画を論ずる場合には常にそうであるが、今ピカソの場合も私が見たピカソのオリジナルはごく少数であってほとんどその複製であったということは申しそえておかねばならぬだろう。複製を見ただけでまるでオリジナルを見たと同じように思う思い方は考えようではコッケイであるが、そしてできるならばオリジナルを見るにこしたことは言うまでもないが、しかしこのことはある程度まで止むを得ないことであって、今となってはある程度まで許されることだと私は考えている。
(一九五七年六月中旬)




底本:「炎の人――ゴッホ小伝――」而立書房
   1989(平成元)年10月31日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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2012年10月1日 13時9分
ピカソの絵
 
ピカソの絵は一見近代的なものに見えるが、彼が真に近代的であったことは一度もない。近代の科学性・自我意識・矛盾・人間性などは彼には全く無縁のものであって、彼ほど本質において古めかしく、その古めかしさを新しく見えるもので包みこんでいる画家は珍しいといえよう。ただ一つ彼が近代の絵画とその作者である画家との関係を非常に変えてしまったということだ。子供が遊ぶように絵をかき散らしたということ、そしてそのことに何十年となく飽きなかったということ。これはある意味でたしかに偉い。あるつまらぬことをはじめ、それを毎日くりかえして四十年も飽きなかった人間はある意味で偉いにちがいない。そのような偉さだけをピカソの中に私は認める。


 以上私がどんな風にピカソをつまらないと思っているのかあらましを述べたが、もし必要とあらばもう少し理論的に分析的にこまかくピカソ否定論を展開することはできなくはない。だがもともと美術作品の観賞や批評は非常に強く生理的な適・不適や好悪にかかっているものであるからこれをいくら理論的にこまかく広く展開しても結局はまた生理的なものへ舞いもどってくるものだ。だからこれだけで私はピカソについては言い尽くしたと言えないこともない。とにかくこれは理屈ではない。ピカソの絵を見て私がこう思ったということの報告である。世の中には私と反対の見方をする人が多いかもしれない。いや現に多い。しかし私は私の評価をそのために撤回する気にはならないであろう。
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2012年9月30日 13時8分
ピカソ
 
ピカソのことを天才だとする世間があるようだが、彼の作品から天才の持つ美・均整・鋭さ・単純さ・異様さなどを感じたことは私は一度もない。例えば彼の作品にある遠近法の逆用や多視角の併存や色彩のスペクトル化やお乳のそばにお尻を描くといった風のアブノルマリティや作品の多角性や多産などは天才のものではなくて、ただ精力的なだけの商人のもののように見える。たしかに才能には恵まれているようである。天才的画家の才能にではなく天才的ショウマンとしての才能に。

 彼の後期の代表作だと言われる「グルニカ」などを見ても私には中位のできばえの戦争映画の中の戦場の場面の一コマを見ているほどの感銘もおきない。戦争の悲惨と平和への希望を無感動な念仏として抱いている文化的スノッブを予想して描かれた思いつきの平俗なパノラマだ。同じくショウマン画家にしてもマチスには美があった。絵画に対しても観客である一般大衆に対しても謙虚なものがマチスにあったからである。とにかく美しいパーフェクトリイを提供して人々の眼に奉仕しようという心がマチスにはあった。ピカソはただ人々をビックリさせて拍手させようと思うだけだ。人がビックリしている間はそれで良いがビックリしなくなると退屈する。
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2012年9月29日 13時8分
次に絵画の観賞の仕方に次のような考え方がある。
 
それは最初に見た時にその美しさにビックリして惹きつけられ、それを座右に置いて始終見ている間につまらなくなってしまう絵と、最初に見た時は平凡な絵だと思ってたいした刺戟も受けなかったが、長く見ている間に次第に深い味が出て来て惹きつけられる絵と、最初に見た時に強い刺戟を受けそれをくりかえして見ているうちにその刺戟が深まり、つぎつぎと新しい味が出て来ていつまでも見飽きない絵。もちろんこの場合最初見てつまらなくていつまで見ていてもつまらないというレベル以下の絵は除外しての話だ。そして言うまでもなく第三番目の絵が良い絵であると言うことについては君も異論がないだろう。そしてピカソの絵は初めの頃においては私を最初驚かし、そして長く見ていると退屈させた。わずかに彼の絵で私をそれほど飽きさせなかったのは「青の時代」に属する新古典的な絵のいくつかに過ぎなかった。この十年ばかりピカソの作品はその複製を見るたびにその愚鈍なマンネリズムで私を全く飽き飽きさせる。彼の作品全体は、もう盛りを過ぎて真に興味があるプレイができなくなった野球選手が、そのことを反省する力を失ってしまった不感の中でとくとくとしてスタンド・プレイを演じている姿のようにしか見えない。しかもそのスタンドに彼のプレイを未だかっさいして迎える大衆がいること、その大衆とそのプレイヤーとの関係のいやらしさと同じようなものを私は感ずるのである。
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