「心を手放す」のヒントもらった! | |
2014年1月3日 0時12分の記事 | |
楽水さんにお話しを聞いていたラマナマハルシ師 つながった! ありがとうございます! [考えることをやめたり(心を止めたり)] 心を手放すこともヒントの一つなんだね〜 光の向こうか〜
マハルシは、念仏のように「私は誰か?」と唱え続けたり、対象物に集中し瞑想したり、沈黙し続けたり、考えることをやめたり(心を止めたり)、あるがままであり続けたり、善行を繰り返したり、呼吸を統制するのは、良い方法だと言われていますが、もっとも良い方法は、「私」が生じる源を探り求めることだと言われています。 マハルシの「真我の探求」方法は、「心を強くし、心を止め、心が静まったら、『私』という思考の源を探り(一点へ集中)、源を探り求めたら、源を感じ続けることにより、源に没入する努力をし続ける。日常生活の中でも感じ続ける努力をし続け、源にすべてを明け渡し(帰依:bhakti:devotion)、真我が『私』という思考をとけ込ませてくれるまで努力し続ける」と理解しました。 *真我探求は、心による、あるいは知的な「探究」ではなく、献身的な「探求」である 柳田先生に教えていただいた「真我の探求」方法に、これまでミク師に導かれて気付いたことなどをアレンジし、さらに私の体験談プラスした「真我の探求」方法を以下に記します。 *2008年9月17日記入、2013年6月15日修正 睡眠を十分とり、できるだけ穏やかな環境で、心を静めます。 心を静めようとしている間、いろいろな想念が生じると思います。 *想念:心の中に浮かぶ思い、考え 想念が生じたとき、その源を探ってみます。 どこから想念が生じるのか注意深く探ります。 注意深く探れたとき、想念が一時的に消えます。 ですが、いったん消えた想念、なぜかまた生じます。 想念が生じにくくなるまで、何度も何度もこの作業を行います。 想念が生じにくくなったら、ゆっくりと、穏やかに「私は誰か?」と思います。 「わ」が生じる先に意識を集中し、「私」という思考の源を探ります。 *「私」という思考:最初に生じる思考(心) *思考:思うこと、考えること。経験や知識をもとにあれこれと頭を働かせること 最初、「わ」は、頭で生じるかもしれません。 「わ」になる前の、「わ」が生じる先を探り続けられるようになると、ハート(右胸)にたどり着くと思います。 うまく探れると、静寂が訪れます。 ですが、しばらくすると想念が生じます。 で、「私は誰か?」(または、「わたし」)と思い、その源を探ります。 すると、静寂が訪れます。 静寂(manolaya:心が、ハートの中でとけること)、とても居心地が良いため、そのまま居続けようとしてしまいますが、その静寂(何もない、空、無)に魅了されず、とらわれず、そこにとどまらないよう、さらに「私」という思考が生じる源を探ります。 *ここで、光を見たり、何かを感じたりするかもしれませんが、それらはすべて錯覚です 探り続けて見つけた源が、本当に源なのかどうか見極める方法がありません。 とにかく、探り続けられなくなるまで探り続け、「あぁ、これ以上探れないなぁ」と思えたところが、当面の源です。 源にたどり着いたら、探り続ける努力をやめ、そこにとどまり続けるようにします。 とどまり続けるためには、 1.執着をできるだけ手放す(つなぎ止めているものをもやいから解き放す) この段階では、かなり「執着」がなくなっているはずですが、「根深い執着(vasana、samskara)」は、まだ残っています。 *vasana:現世の心の習慣。潜在的な傾向、または、印象 もっとも微細な形でハートの中に囲い込まれている samskara:生まれながらの傾向。過去から続いている心の印象(傾向と気質) なので、「一時的」にすべての執着を手放すのです。 「ずっと」手放すことはかなり難しいのですが、「一時的」であれば以外と簡単です。 2.本当に信じる 「真我が『ある』こと」を、そして「マハルシの教え」を。 3.途切れなく一点(源)に集中し続ける 4.記憶にとらわれない 「吸気」は、記憶を呼び起こします。 突然生じる記憶(過去)にとらわれると、「私」という思考がハートから飛び出してしまいます。 記憶にとらわれないよう十分注意します。 5.息にとらわれない 息を吸うときに集中が途切れやすいです。 息(特に呼気)が、源を覆い隠している? 感じられるようになったら、思考を働かせて一点(源)に集中するのではなく、思考を働かせず一点(源)を感じ続けるようにします。 寝る前、目覚めるとき、仕事中、とにかく、いつも感じ続けられるようにします。 *目覚めと夢見の合間に真の「私」がある 不滅の意識 196ページ 人が目覚めたとき、実際に外部の世界に十分気付くようになる前に、その合間、時間、空間のないことが 真の「私」の状態 感じているときに、思ったり・考えたりすると、源が感じられなくなります。 源は、記憶・息・想念によって覆われます。 源に没入したとき、思ったり・考えたりすることをやめたとき、「知性」、「理性」はなくなり、「感じること」のみになります。 感じ続ける密度を上げ、絶え間なく、隙間なく、感じ続ける。 感じられた源を広げ、さらに、広げるよう感じ続ける。 「感じるだけ」になれたとき、遮るもの(記憶、息、想念)はなくなります。 そして、源にすべてを明け渡すことができるよう努力し続けます。 「明け渡し(帰依:bhakti:devotion)」は、とても難しいです。。。 なので、執着を手放すときと同様に一時的に明け渡します。 一時的な明け渡しを何度も繰り返し、明け渡している状態が長く続くよう努力し続けます。 この状態は、おそらく、laya(心と息が、ハートの中でとけること)だと思います。 ここでも、光を見たり、何かを感じたり、身体を感じなくなるかもしれませんが、それらはすべて錯覚です。 とけ込まなければならないのは、ハートではなく、ハートの中の源。 源から、「私」という思考が最初に生じ、心となり、粗雑な身体が現れ、世界が現れる。 源を探り、とどまり続けられるようになると、心がハートにとけ込む。 努力し続けることで、心と息がハートにとけ込む。 どれだけ努力をしてもvasana(samskara)が残っているため、源にとけ込むことはできません。 ただ、努力し続ければ、vasanaを弱らせることができます。 *samskaraは、無理っぽい。。。 真我が、弱ったvasana(samskara)を消滅させ、「私」をとけ込ませてくれるまで、ただひたすら努力し続ける。 源で溺れそうになったとき、あがかず、息をしようとせず、そのまま溺れる。 溺れる直前に感じる、未練(執着)・恐怖にとらわれることなく、息を源に明け渡す。 すべてを源に委ねきれたとき、「私」は「私」としてあり続ける。 「真我探求は、源へのバクティである」 今の私は、ここまでです。 ここから先は、「あるがまま」などの日本語文献に記載されていましたので、私なりに理解した内容を記します。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 個人としての感覚が一時的に作用を止めたこの感覚は、初めのうちは断続的であるかもしれないが、実践を繰り返すことによって、それは、容易に達せられ、維持できるようになる。 「真我の探求」がこの段階に達すると、努力を続けていた「私」は一時的に存在をやめ、個人的な努力は、もはや不可能となり、努力なしに真我があらわになりだす。 「私」という思考は、真我にとけ込んでいるのではなく、真我に没入しているだけなので、周期的に主張してくる。 これはまだ、「真我の実現」ではないが、この状態を繰り返し「体験」することにより、「私」という思考を起こす原因である「vasana」が徐々に弱まってくる。 そして、「vasana」の影響力が十分弱まったとき、真我が、残存している、「vasanaとsamskara」を完全に破壊する。 「私」という思考は、真我にとけてなくなり、二度と再び立ち現れることはなくなる。 これが、最終的な、覆すことのできない「真我の実現」である。 | |
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1. mikann 2014年1月3日 3時2分 [返信する] 目の前の事象に取り組もうかな 通信機械を通しても 実生活を通しても 結果受け入れ認め許しが発生するんであれば、ですね 亡くなったら祖母は私が物心ついた時から無言を徹していました ニコニコもあんまり記憶ありません 私はこのことから 無言はネガティブではないと思います ガンジーもヨガナンダの本によれば木曜日は?無言の行をしていたとか、 1日絶食ではなく筆談ですよ(笑) テレパシー交信ではない リリー・ルミエールさんの新ブログにニビルのこと少し書いてありましたが邪魔が入り書けなかったようですね この方の旧ブログの最後の方に足が動かなくなったの下りがあります 花まるさんと症状が一緒なんですかね? (コメントのみかんは私と別人です) シリウスブログのkagariさんを地球地下空洞から連れ戻したと書いてあり、リリーさんkagariさんは闇が覚醒させたと書いてありました 覚醒させられた? そんなことできるんですね 心を手放す その時は覚醒者になりますね 楽しみです ありがとうございます
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