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信綱、再び (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2010年11月2日 21時32分の記事


【時代小説発掘】
信綱、再び
鮨廾賚


(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


第40回池内祥三文学奨励賞受賞作家


【梗概】: 

「信綱、再び」ということで、最初の作品「信綱、敗れる」の続編にあたる作品です。
 信綱敗れる


【プロフィール】:

鮨廾賚此 昭和33年生まれ。浪華の地に単身赴任して半年が経過しました。関東と関西の文化の違いに戸惑いつつ、ひたすら文章修行中です。平成22年6月25日に雑誌『大衆文芸』掲載の「沼田又太郎の決意」等により、第40回池内祥三文学奨励賞をいただきました。そのため、今後は筆名を「鮨廾賚此廚謀一します。

(「末永喜一郎」改め)鮨廾賚困里海譴泙任虜酩福

風烈廻り昼夜廻り同心朽木重四郎
雲、流るる
猿御前

信綱敗れる 


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【時代小説発掘】
信綱、再び
鮨廾賚




(一)再会

 稲の切り株が、行儀良く並んだ田の先は、見渡す限りの黄金(こがね)が原だった。
 稲の穂が、まるで上泉信綱一行を歓迎するように、お辞儀をしているように見えた。
 空には、雀がちゅんちゅんと、うるさいくらいに飛び交っている。
「豊作でございますな」
 神後伊豆が嬉しそうに言った。
 往来の人通りがぽつりぽつりとあって、一様に頭を垂れた稲穂の波に見ほれているように、疋田文五郎には思えた。
 この年、永禄十二年は、五月に閏月があった。そのため、八月に入るとすぐに残暑が急ぎ足で去り、代わって、しのぎやすい実りの秋がやってきた。
「仲秋のこれからが稲刈りの季節というに出陣とは、織田信長もたいそうな曲者でござりまするな。さすが尾張の成り上がり者」
 文五郎が聞こえよがしに言うと、
「そうでもなかろう。北畠どのを降せなかったとしてもだ。伊勢国の稲穂を刈り尽くされてみよ。かなりの痛手を北畠どのが被ることは必定」
 神後伊豆がやんわりとたしなめた。
「それゆえに曲者と言うておるのです」
 そんなことは分かっている、とばかりに文五郎は吠えた。
 聞こえよがしに言っているのは、信長の評判を少しでも落とそうとの腹だったのだ。
「信長が相手では、北畠どのもよくよく用心してかからねば負け・・・・」
 はっとして文五郎は、口をつぐんだ。思わず師信綱を見る。
 だが今日は、文五郎と神後伊豆を無視するように、黙ったままただひたすらに歩いていた。とうに齢六〇を越しているが、健脚に衰えは微塵もない。
 早朝、夜の明けるのも待ちきれずに信綱の一行は、柳生の里を出立し、月ヶ瀬を経て伊賀国名張へ出た。
 そこからさらに南下して、伊勢国へ入ろうというのである。向かう先は、北畠具教の居城大河内城だった。
「ふうむ・・・・」
 気まずいものを感じて、文五郎は今度は神後伊豆を見た。
 伊豆もまた文五郎を見た。目と目があって、神後伊豆が軽く首を振る。
 もう余計な軽口はたたくまい、という合図のように思えて、文五郎も小さく顎を引いた。
 信綱が伊勢国大河内城へ急いでいるのにはわけがある。
 大河内城主にして伊勢国司北畠権中納言具教は、信綱と旧知の間柄だが、いま危急存亡の淵にあった。
 そのせっぱ詰まった気持ちは、文五郎とて理解できないことはない。
 ――美濃の織田信長が、いよいよ伊勢の平定に動く。
 ――北畠殿大河内城にご籠城。
 との報が、美濃と伊勢から蝶者によってもたらされたのは、昨日のことだった。
 その報を聞いた信綱の行動は速かった。
「伊勢へ向かう」
 文五郎、伊豆に一言命ずると、柳生宗厳への暇(いとま)の挨拶もそこそこに柳生の里を旅立った。
 そのまま、ずっと黙したままなのである。
 さすがに、気詰まりなものを感じた文五郎は、気散じを狙ったのだが、余計なことだったようだ。
 すでに日は中天を過ぎていた。それでも、かっと照りつける日差しは、衰えを知らぬようである。仲秋とはいえ、滴る汗の中で文五郎は、気まずさとともに喉の乾きを覚えていた。
 やがて、伊賀伊勢の国境へ来たときである。
「お待ちくだされ。信綱どの」
 不意に声をかけられて、文五郎たちが立ち止まった。
 街道の傍らに腰をおろしていた武士が、ゆっくりと立ち上がり、被りものをとった。
「お! 貴殿は・・・・」
 叫んだのは、文五郎である。
「無月冬四郎どのと申されたな」
 神後伊豆が引き取った。
 そんな二人を無視するように冬四郎は、
「過ぐる年の立会い、それがしには、合点がいきませぬ」
 信綱へ向かって、挑むように言った。
 五年前、永禄七年五月のことである。京に逗留していた信綱は、目の前に居る無月冬四郎と立ち会った。
 そのとき文五郎には、いずれが勝ったか負けたか判別がつかなかった。相打ちとも見えたが、そう断じてしまうには、不可解な勝負だった。
 だが信綱は、自らの負けをあっさりと認めてしまったのである。その真意は、いま持ってはっきりしない。
 それゆえ、合点がいかないのは文五郎とて同じだった。
「御師匠。それがしが」
 あのとき師信綱が、自ら負けを認めたことに悔しさを感じていた文五郎である。いつか必ずや一刀両断、斬って捨てるつもりでいたのである。これは絶好の機会と思われた。
 文五郎もまた剣の才にかけては、非凡なものを持っている。真剣で渡り合っても負けはしないであろう。
 だが信綱は、真剣での立ち会いを嫌う。
「待て」
 早くも腰の物に手を掛けて、飛び出していきそうな文五郎を信綱が制した。
「無月冬四郎とやら。何用じゃ。すでにそなたとの勝負はついていよう」
 問いながら信綱は、
「お・・・・!」
 と、冬四郎の余りの変わりように、軽い驚きの声を発した。
 いまの冬四郎には、あのときのように、静かなそれでいて触れれば皮膚が切れそうな、研ぎすまされた刃物の如き殺気が感じられない。
 頬がこけて痩せ細り、着ているものも粗末である。何よりも澄んで透徹していた瞳が、薄く濁っている。何かに執着を抱く、あるいは未練を残しているかのようなのである。かつて立ち会った頃と比べて荒んだ感じであった。
 ふと見ると、彼方の木陰で女がじっとこちらを見つめている。細面に卵形の丸い顎の線、細い眉に切れ長の目、それほど歳はいっていないであろう。冬四郎を見るときの女の目は潤み、逆に信綱を見るときは、憎しみに燃えているかのようである。
「剣とは優劣、勝つか負けるかでござる。勝った者のみが名声や地位を約束される」
「・・・・」
「それがしは不満でござる。天下の上泉信綱どのに勝ちを得ながら、負けた信綱どのは生きている。生きて天下に名声を博し続けている。しかしながら、それがしは勝ちを得ながらいまだに一介の素牢人。名声も上がらず、仕官を望む大名もござらぬ・・・・」
「それは御師匠とは関係なきことがら」
 冬四郎の言葉を遮るように、文五郎が口を出した。
「そのようなことをとやかく言うつもりはござらぬ」
 いらいらとした声で、冬四郎は文五郎を睨んだ。
 関係のない者がでしゃばるな、そう言っているようにも聞こえた。
 思わず文五郎が、刀の柄に右手を置いたとき、
 冬四郎は焦れたように首を振ると、不意にがばと両手をついて、
「それがしは、信綱どのの弟子になりたいのです。お願いでござります。それがしを弟子にしてくだされ」
「なんと・・・・!」
 文五郎は、思わず絶句してしまった。

(二)北畠具教 

 その夜信綱一行は、興津近くの山に野宿することとなった。
 峠道をそれた草むらである。先人が残したであろう竈(かまど)の跡がまだ新しい。文五郎は手際よく火を熾した。
 やがて、藍色から薄墨色へ、暮色がいっそう深まってきた。
 文五郎はめらめらと燃える火から目を転じた。
 峠を隔てて、彼方の山脈がくっきりと浮き上がっている。丸い月がずっしりとその山の上にあった。
 山吹色のきれいな満月であった。
「そう言えば、今宵は中秋の名月でありましたな」
 文五郎はぽつりと呟いた。
 無月冬四郎との問答の後、一行は大河内城への道を急ぎに急いだ。
 ところが、戦を避ける浮浪者の一団と遭遇し、彼らから聞いたところでは、
「いけません。城はすでに織田の兵に取り巻かれております」
 と、一人が恐れるように言い、また別な一人は、
「蟻のはいでる隙間もないとはあのことでございますよ」
 と、厳しい様子を伝えてくれた。
 その緊迫した言葉に、
「もはや入城は叶わぬか」
 信綱は天を仰いで嘆息した。
 信長軍は二万とも四万とも噂されていた。そんな信長軍を北畠具教は、大河内城で迎え討つ覚悟だったのである。
 織田信長が、伊勢侵略を本格化させたのは、永禄十二年八月に入ってからである。
 前年に足利義昭を擁して京へ上った信長は、今まさに日の出の勢いであった。
 早くも先遣部隊は、伊勢の野を織田の旗で埋めつくし、十五日には大河内城を十重二十重に取り囲んでいた。
 ちなみに、信長が伊勢に入ったのは、『信長公記』によると、八月二十日で、その日のうちに桑名に到着している。二十六日に木下藤吉郎が阿坂の城を落とした後は、他の城には目もくれず二十八日には、信長も大河内城をとり詰めている。
 国司の身でありながら具教は、自ら剣を学び、塚原卜伝より新当流〈一の太刀〉の印可を受ける程の達者であった。 
 信綱が伊勢への道を急いでいたのは、その具教を説得するためであった。おそらく、迫りくる大軍を前に具教は、死を覚悟しているはずである。
 そんな具教に、互いに剣に生きる者として、犬死にだけは避けて欲しいと思うのだった。
 信綱は具教と初めて会った五年前のことを思い出していた。
 永禄六年二月、信綱は武田信玄の上州侵略に抗して敗れた。
 箕輪落城とともに、いったん城を落ち延びた信綱は、直ぐに信玄に降り皆を驚かした。
 喜んだ信玄は、
 ――我が旗の下に仕えよ。
 と命じた。その武略を惜しんだゆえである。
 だが信綱は、その誘いを蹴ってあっさりと上野国を去った。
 そのとき信綱は五十七歳。自らの創始になる新陰流兵法の流布が目的だった。
 同じ年信綱は、多芸の御所に北畠具教を訪ねている。
 このとき北畠具教は三十六歳。すでに新刀流〈一の太刀〉を塚原卜伝より伝授されていた。
 会うなり二人は意気投合し、まるで十年来の知己のように互いを認めあった。
 柳生の里の柳生宗厳を紹介したのも北畠具教である。
 あれはいつのことだったか。暑い夜だったように記憶している。涼を取りながら二人は、夜の更けるのも忘れて語り合った。
「なにゆえに国司たる身でありながら剣を学ばれるか?」
「下剋上の世であれば詮なきこと」
「しかしながら、下剋上の世なればこそ、剣でなく・・・・」
 別な道が、と言おうとする信綱に、
「麿(まろ)に国主の器量は御座らぬ」
 そう言って具教は、寂しく笑った。
「さりながら・・・・」
「いかにも、親房卿よりかぞせて八代、その志を固守してまいったが、時代があまりにも大きく変わり果ててしもうた。大義を血で守れる時代では御座らぬよ」
「立場こそ違え、義輝公も同じ思いでした」
 信綱の脳裏を、足利十四代将軍義輝の虚無を秘めた端正な面影がよぎった。
 三好松永党に攻められたとき、どのような思いを抱いて死んでいったのだろうか。
(国主や将軍にとって剣とは、己を守る術でさえ無いのだろうか)
 ふっ、と思わず自嘲の笑みが出た。
 己もまた同じではないか。武田信玄に破れて上州を立ち退いたのは、ついこの前のことである。
 もはや下剋上の世の中ではない。これからは強い者はより強く、弱い者はその強い者に、次々と飲み込まれていく世の中になっていくことだろう。
 最後に残る強い者とは、武田信玄か織田信長かそれとも・・・・。
「和歌や漢学では麿の精神(こころ)は安らがなんだ」
「剣とは・・・・」
「さよう。剣とはしょせん己に向かうもの。勝負(かちまけ)のみが全てではない真の剣の道こそ麿の求めるもの」
「難しい世の中でござるな」
「惜しむらくは、戦のない世に生まれたかった」
 だが、戦のない世の中で、具教卿は今と同じように剣に生きたであろうか。むしろ、そのときこそ和歌や漢学に精神安らいだのではないだろうか。
 信綱は、そのときのことをありありと思い出しながら、
(死んではなりませぬぞ、具教どの。生きて新当流を究め、叶うならば、それを広く世間に広めていただきたい。しょせん国主など、かりそめの地位でござりましょう)
 と、思っていた。

(三)刺客

「忌々しい。冬四郎とやらめ」
 文五郎は思うだに悔しさがこみ上げてくる。
 大河内城に入れなかったのは、冬四郎とのやりとりに存外の時を食ったのが原因だという気持ちがある。
 粗朶(そだ)をくべながら、ぶつぶつ文句を言っていると、
「文五郎!」
 と、不意に信綱に呼ばれた。
「はっ。ここに」
「そなた。死を畏れたのはいつのことであったな」
「は? 死ぬのは今でも怖うございます」
 突然の師の問いに文五郎は、思わず我が耳を疑ってしまった。
 そんな文五郎に怒ることなく、信綱はやんわりともう一度同じことを訊ねた。
 文五郎は改めて師の問いを考えた。
 人生において〈死〉を意識し、一度は死ぬ命なり、と覚悟したのは、何歳のどのような時かという質問と思われた。
「それは・・・・」
 はて、いつのことであったか、と内心問いながら、
「おおそうだ。初陣のときでござりまする。確か北条との戦でござりました。敵と渡り合い、生きて帰ることがかなうであろうかと・・・・」
 文五郎は目を細めた。
 初陣は何歳のことだったろうか。あのとき上泉軍は、箕輪城主長野業正を盟主と仰ぎ、上州の地を縦横に駆け巡っていた。
 あの頃は、信綱軍の旗下にあることが誇らしく、名のある大将と見(まみ)えるならば、いつ死んでも悔いはないと思っていた。武者の血が、かつかつとたぎっていた頃だった。
 文五郎にとっては、懐かしい戦場往来の日々であった。
(そう言えば、近頃、あの高ぶりがない)
 と、思ったとき、
「伊豆はどうじゃな?」
 信綱は神後伊豆にも同じ問いを発した。
 伊豆も同じく戦場とのことだった。
「さもあろう。わしも死を覚悟したのは戦のときであった。それゆえ、無様な死に様は見せるまい、と思うたものであった」
 信綱も遠くを見るような目をした。
 そこで信綱はいったん言葉をきった。薄い闇がしっとりと三人を包んでいる。
 ぱちぱちと火のはぜる音がやけに大きく聞こえるな、と文五郎が思っていると、
「あの若者は、死の畏れに取り付かれておる」
 突然の師の言葉だった。
「え・・・・?」
 文五郎はその意を理解できなかった。
「兵法とは戦で使うもの。戦を離れて兵法は成り立たぬものよ」
 ここで信綱が言った兵法とは、単に剣術のことではなく、本来の意であろう。
 元来兵法とは、剣術を含む、槍、長刀などの総合武術を指すが、近来は剣術が盛んになったため、その別名と捉えられていた。
「仮に優れた師に弟子入りしたとしても、弟子は一足飛びに成長できるものではない。人は己の身丈に合って成長していくものじゃ。いかんともしがたい」
 文五郎はようやく理解した。
「無月冬四郎のことでござりまするな」
「うむ・・・・」
 そのときである。
 信綱様、と呼ぶ女のか細い声が聞こえてきたのは。
「何者?」
 文五郎が気づいて誰何(すいか)した。
「お! こなたは・・・・」
 月明かりを受けて、彼方にぼうと浮かび上がった女は、この世の者とは思われぬ凄艶な美しさがあった。
「信綱様」
 女は哀願するようにもう一度言った。
 魑魅魍魎の化身か、と文五郎が用心したとき、信綱が立ち上がった。
「御師匠!」
「ここで待っておれ」
 文五郎が止めるのを振り切って、信綱は女の方へ歩いていった。
「話があろう」
 あい、と肯いた女は、昼間、無月冬四郎と会ったとき、こちらを見ていた女だった。
 女は信綱を案内すると、雑木林の中に入って行った。
 月明かりがわずかに届くだけである。
「むっ!」
 突然、先を行く女の姿が消えた。
 信綱が用心深く辺りを見回すと、
「こちらでござりまする」
 彼方から女の呼ぶ細く高い声があった。
「やはり!」
 忍びの者であったか、と思いつつ信綱が、声のする方へ歩いていくと、やがて小さな滝のあるところへ出た。
「信綱様にお願いがござりまする」
 滝を背にして女が待っていた。
「む!」
 女は前にかざしていた小袖をさっと放った。信綱の眼前に一糸まとわぬ女の裸形が現れた。
 薄闇に浮かび上がるその女の裸体は、左右対称になだらかで綺麗な曲線を描いていた。肌は白く輝き染み一つない、やや年増ながら程良く脂ののった女体は、今が最も美しいときであろう。下草の黒さがかえって奇妙に感じられる。
「わたくしをお抱きくださいませ」
 女はゆっくりと信綱に近づいてきた。
「願いとは?」
 信綱は女の裸体にじっと目を注いだまま訊いた。動じた様子は微塵もない。
 女の裸体に水滴のようなものが浮いている。滝壷で身を清めたものであろうか。
「無月冬四郎さまを弟子にしていただきとうござりまする」
「何故にそなたが頼み入るのだ」
「わたくしのために冬四郎さまは、腑抜けになり果てました」
 女の足が止まった。
「はて?」
 信綱は首をひねった。
「こなたの言うことがよく分からぬ」
「冬四郎さまは、わたくしなくては生きていけぬお人になり果てたのです」
 いささか傲慢ともとれる女の言葉だった。
「ほう・・・・?」
「このままでは、冬四郎さまは生きる屍。今まで修行した剣も死に果てまする」
「こなたに夢中になっていると申すか」
「あい。お願いでござりまする。この身と引き替えに、なにとぞお弟子に」
 哀願するように言って、女はそのまま信綱へ抱きついてきた。
 次の瞬間、うっ、と小さな声をあげて女がくず折れた。
 腹のところをまっすぐ横一線に斬られていた。
「な、何故に?」
 女はうずくまって訊ねた。
 信綱は眉一つ動いていない。
「こなた、身体に毒を塗っておるな」
 女の目が大きく見開かれた。と同時に、腹を押さえていた手から血が滴った。
「滝の飛沫か水浴みに似せてごまかそうとしたつもりであろうが、鳥肌が立たねば時節に合うまい」
 水に濡れていないということであろう。
「む。口惜しや」
「まだ手当をすれば助かる。何者に頼まれたか言うがよい。それと毒消しはどこじゃ」
 信綱が女に近づこうとすると、寄るな、と女が止めた。
「すでに無きものと定めた我が命」
 刀傷は手当てできても、身体に塗った毒が刀傷から入っている。毒消しがなくては消しようがないということだろう。
 女は信綱に抱かれ、小さな傷を作ってそこから己の身体に塗った毒を入れようと考えたのだろう。冬四郎の弟子入りが叶えば毒消しを渡し、叶わなければ、そのまま刺客として信綱の命を奪っただろう。
「依頼の主の名は明かせませぬ。ですが、最後の頼み。嘘偽りのない頼み。何とぞ、冬四郎さまを弟子に加えてくだされ」
「無月冬四郎のために何故そこまで?」
 信綱の問いに、女は苦しい息の下でわけを語った。
 女はやはり信綱暗殺を依頼された忍びだった。
 はじめ女は、信綱を立ち会いで破ったという噂を聞いて、冬四郎に近づいた。
 だが女は、冬四郎に恋し、冬四郎もまたその恋に答えた。二人は濃密な愛欲の日々を過ごし、ために冬四郎の剣が堕落したのだという。
 そのため女は、我が命を捨てる覚悟で、信綱の命を奪うか、弟子入りを承服させるか、最後の賭に出たというのである。
「浅はかなことを」
「わたくしは因果な女でござります」
 すべてを話し終えた女は、最後にもう一度冬四郎の弟子入りを懇願して息絶えた。
「哀れな」
 信綱は女の死骸に、脱ぎ捨ててあった小袖をそっと被せた。
「冬四郎はこなたの色香に迷うて、こなたの言う腑抜けになったわけではない。むしろ、そのことから逃れるために、そのことを忘れるために、こなたの色香に溺れたのだ」

(四)信綱の涙

 信綱と冬四郎が立ち会ったとき、信綱は五十七歳であった。かたや冬四郎は二十七歳である。
 いかに信綱が剣の達人とはいえ、技の速さ、体力の充実、気力の持続は、鍛えぬかれた若者には及ばない。
 そのうえ冬四郎には、信綱の名声に怖じないものがあった。
 信綱は立ち会いで破れたことを恥じてはいない。体力と気力の勝負になれば、弟子の文五郎にも破れるであろう。
 奇しくも文五郎と冬四郎は同じ歳であった。
 だが、精神面も含めた全体の勝負になれば話は別である。そうなれば信綱に勝る者はめったにいないであろう。
 死の畏れとは、勝負に敗れて己の命を失うことへの恐怖と言い換えてもよい。すなわち生への執着であり、それは内面の世界に属することである。
 だが、人が否応なくそれを意識したとき、勝負に対する怯えが生じるのである。
 冬四郎は、何が契機でそうなったのか分からないが、まごうことなく死の畏れに囚われていた。
「こなたの罪ではないのだ」
 女の愛欲に溺れて命を惜しむ者が、弟子入りを望むはずがない。
 信綱は元来た道を歩きながら、昼間の冬四郎とのやりとりを思い出していた。
「わしはそなたに破れたのだ」
 冬四郎の弟子入りを、あっさりと拒否した信綱は、そのときもしかしたら、ともう一つのことを思った。
「そなた、戦に出たことは?」
「ござりませぬ。物心ついた頃より、ひたすら剣の道を精進して参りました」
「うむ・・・・」
「ひたすら人より速く突く、迅く斬る、早く払うことを心がけて心身を鍛えて参りました」
「技の迅速さでは、そなたに勝る者は少ないであろう」
「さりながら、それがしは真剣で戦うことが怖いのです。あの日、袋竹刀で信綱どのと戦ってから・・・・」
(わしとの立ち会いが、あの若者に死の畏れを呼び覚ましたというのか。それとも、袋竹刀が・・・・)
 袋竹刀は信綱が考案したものである。それまでの木太刀では、真剣でないとはいいながらも、やはり手負いがでるのはやむを得ないことだった。気を緩めると死に至ることもある。
 あの日、真剣で立ち会っていれば信綱が勝っただろうか。間違いなく勝ったであろう。袋竹刀なればこそ、負けを求めて先に動いたのである。人はそれを老獪と呼ぶかもしれない。
 しかしながら、それもまた一つの勝負である。
 そのとき信綱は、冬四郎に死の畏れを呼び覚まそうという深い思案を持って立ち会ったわけではない。それは単なる結果に過ぎない。
 だがそれは、兵法を志す者がすべからく通る道でもある。いかに辛くとも、己で乗り越えなければならないものなのである。それを師に頼るのは、甘えというものであろう。
 では兵法を志す者は、合戦を経験せずにどうやって死の畏れを乗り越えるのか。
 信長はいま日の出の勢いである。乱世もいつかは収まり、平和な世の中が到来するに違いない。そのとき兵法は、もしかしたら不要となってしまうのではないだろうか。
「ふふ・・・・」
 信綱は寂しそうに笑った。
 女を刺客として送った者が、信長でないことを確信しつつ、もし仮に生き残るとしてもその兵法は、いま己が広めている兵法とは似て否なるものになっているかもしれない、と信綱は思った。
 袋竹刀を考案したのは、果たして良かったのだろうか。
「弓馬の道といい、兵法といい、しょせんは兵(つわもの)の道」
 信綱は自嘲気味に呟いた。
 かつて弓馬の道は、武者の道とされ、武士として必須のものであった。だがいま、弓馬の道は、礼式、古典として残るのみである。
 平和な世の中になったとき、兵法もまた弓馬の道と同じく、礼式、古典とならないと誰が言い切れるだろうか。
「わしの生死などとるにたらぬことよ」
 虚しさが胸にせり上げてきて、信綱は女刺客を雇った主の詮議が何の意味もないことを覚った。
 新陰流の印可を柳生宗厳に与えたいま、信綱にとって気がかりなのは北畠具教のことのみである。
(もしかしたら、北畠どのの生死もまた、わしの生死と同じではないのか)
 それが兵法者の宿命のように思えて、信綱はそくそくとした寂しさに包まれた。
「御師匠!」
 文五郎の声が聞こえる。
 信綱は顔を上げた。視線の先に、満々とした名月が、淡い光を投げていた。
 それを見て信綱は、過去(むかし)から未来(このさき)へ幾百年変わることのない名月の存在を思った。
 弓馬の道が人の営為ならば、兵法もまた人の営為であろう。人の営為の隆盛と衰亡は、禍福の如きあざなえる縄のようなものであろうか。
 信綱は、自らが創始した新陰流の隆盛と衰亡を思った。名月に比してその変転は、いかばかりであろうかと思い至ったとき、不覚にも涙がこぼれた。
 文五郎と神後伊豆は、そんな師をただ見つめているだけであった。
 うおーん、と一声、山犬の遠吠えが尾を引いた。

 十月四日――。
 信長軍の猛攻を受けた北畠具教は、撤兵の条件として実子がありながら信長の子息信雄を養子とし、家督を譲るという屈辱的な和を結んだ。
 大河内城に籠城して五十日後のことだった。
 伊勢の名家北畠氏は、この日実質的に滅んだといってよい。
 生き長らえた具教に信綱は何と言ったろうか。その言葉を正史は伝えていない。

(了)





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11/15 15:30 〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8) (無料公開)
10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
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09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
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09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
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09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
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