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中条流平法(無料公開)
[【時代小説発掘】]
2011年4月10日 18時5分の記事


【時代小説発掘】
中条流平法
鮨廾賚


(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


第40回池内祥三文学奨励賞受賞!!!!


【梗概】: 

室町幕府評定衆中条長秀は、家伝の中条流平法を完成できずにいた。そんなとき、管領斯波義将の謀で四条河原の念大慈恩と対決することとなる。窮した長秀のとった行動とは・・・・



【プロフィール】:

鮨廾賚此 昭和33年生まれ。浪華の地に単身赴任して半年が経過しました。関東と関西の文化の違いに戸惑いつつ、ひたすら文章修行中です。平成22年6月25日に雑誌『大衆文芸』掲載の「沼田又太郎の決意」等により、第40回池内祥三文学奨励賞をいただきました。そのため、今後は筆名を「鮨廾賚此廚謀一します。



(「末永喜一郎」改め)鮨廾賚困里海譴泙任虜酩福

秘太刀「一心の剣」
信綱、再び
風烈廻り昼夜廻り同心朽木重四郎 
雲、流るる
猿御前
信綱敗れる 

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【時代小説発掘】
中条流平法
鮨廾賚



(1)中条長秀に息子の弟子入りを断られた土岐近江守が怒って帰る

 北朝の永徳四年(一三八四)は、二月二七日に改元があって、至徳元年となった。まるで、呼応するかのように、南朝でも弘和四年のこの年は、同じく四月二十八日に改元があって元中元年となる。
 夏をひかえた春惜月(三月)下旬。
 遠く比叡の山々の緑が、ひときわ濃く鮮やかになって、目に眩しい季節である。
 その日の夕方、中条長秀は四条の自邸に観阿弥の訪問を受けた。観阿弥は子息の三郎を伴っていた。
「駿河国へ行って参ります」
 わざわざ旅立ちの挨拶に来たのである。
 後から考えると、虫が知らせたとでも言うのだろうか、長秀は何となくそのまま別れるのが躊躇われて、にわかに送別の宴を張った。その夜はいつになく話が弾んで、宴は深更まで続いたのだった。
 翌日、やや遅めに起きた長秀だったが、爽やかな朝の光の中で、中庭に出て木太刀を振った。毎日のことで、すでに三十年以上欠かしたことがない。
 観阿弥は、観世座というもとは大和の猿楽座のしがない役者であった。だが、応安七年に室町幕府第三代将軍足利義満に見出されて以来、その庇護の元に、地下の遊芸であった<猿楽>を、芸道の域に高めるべく精進を重ねていた。その志は家伝の兵法の完成を目指す長秀と共鳴し合うところがあって、観阿弥とは身分を超えて互いに認め合う間柄だったのである。
 観阿弥は五十二歳になる。役者でありながら精悍なきりりとしまった面差しは、年齢とともにさらに渋さが増している。幽玄な芸風は円熟味が加わり、ほとんど完成の域にあると思われた。
 とともに、良い子息を持たれた、と思うのは、長秀の実感で、羨望の対象でもある。子息三郎はこのとき二十一歳で、藤若と名乗っていたが、父に劣らず芸道に熱心だった。別して義満の寵愛も深いと聞いている。
 長秀の子息は秀孝と言ったが、兵法への関心は薄い。そのため、家伝の兵法の完成は、齢五十になる長秀の双肩にかかっていた。
(三郎のような息子があれば)
 と、思わずにはいられない長秀であった。
 雑念にとらわれて、その朝の木太刀の振りには、いつもの鋭さがなかった。
「夕べの酒が残っているか」
 溜息とともに呟きがもれたそのときである。土岐近江守が、まるで知古を訪ねるかのように、軽い供回りでひょっこりと現れたのだった。

 近江守は父頼遠の婆娑羅の血を最も強く受け継いでいて、武辺を好むという噂のある人物である。武辺というと聞こえは良いのだが、要するに乱暴で粗野な人物と目されていた。そうした人物にありがちな気軽で陽気な質でもあり、この日も、
「やあ、やあ。息災でなにより。非番と聞きましてな」
 と、いきなり中庭に入ってきたのである。
「おお、太刀の稽古でござるか。精が出ますなあ。ああ、そのままお続けあれ」
 一方的に言いながら、階(きざはし)に腰を下ろしてしまった。
 いきなり入って来た他人にそう言われて続けられるものではない。長秀は木太刀を振るのをやめて、手にした布で吹き出た汗をぬぐうと、片肌脱ぎの小袖をもとに戻した。
「兵法の修行でござるな。いやあ、それにしても汗がすごい。喉は乾いておられぬか。ちょうど良かった。これで喉を潤しあれ。柳樽でござるぞ」
 近江守の指図で、従者が差し出した酒樽には、六星紋が印してあった。近頃話題の五条西洞院にある柳酒屋のものである。大きさからして一升樽と思われた。手土産のつもりなのであろう。
 だが、その傍若無人な態度に、むっとした長秀が、やや不機嫌な体を装ったため、近江守は話の接ぎ穂を失って押し黙ってしまった。困惑している感じである。
 近江守は今年四十二歳になる。紅梅色の派手な狩衣(かりぎぬ)姿は、婆娑羅というよりも品のない猿楽法師を思わせた。できれば、関わりを持ちたくないのだが、美濃、尾張、伊勢の三か国に守護職を持つ土岐頼康の一族である。不快の念を抑えて、長秀は丁重に座敷に案内した。

                                       
狩衣  

狩衣


(画像はクリックすると拡大されます)


 長秀に面識はない。だが、  
「我が一族の近江守が、折り入って内々の願い事がござるらしい」
 近いうちに屋敷に向かわせるゆえ、話を聞いて欲しい。とは、出仕した室町幕府の政庁、別名を〈花の御所〉と呼ばれる控えの間で、頼康からそっと耳打ちされてはいたのである。
 近江守は長秀より八つ年下で、幕府内での役職にも就いていないのだが、本家の土岐氏は大族で、近江守は頼康の従兄弟でもある。粗略にはできないと考えて、そのときは、いつなりとお越しあれ、と返事をしてはいたのである。そのため、訪問自体は特段驚くには当たらないのだが、近江守の話を聞いて、
「さて・・・・」
 はたと困惑してしまった長秀であった。

 近江守は、子息新次郎に中条流平法を教授願いたい、と依頼してきたのである。
 中条流平法というのは、長秀の家に鎌倉時代より伝わる家伝の兵法である。
「この度、子息新次郎が、義満公の奉公衆に召しだされましてな」
 というのが、理由であるらしい。土岐新次郎が奉公衆に任命されたのは、長秀も評定衆という役目柄知っていた。
 奉公衆とは、将軍足利義満が直々に組織したもので、後の馬廻り、または旗本衆と思えば良いだろう。要するに将軍に近侍し、警護する役目である。
「新次郎は先年十五歳で元服したばかりだが、元来が武張ったことを厭うていたため、武芸の心得が乏しい」
 そのため、中条流平法を教えて欲しい、ということらしい。すでに〈弓馬の道〉つまり弓術と馬術は、小笠原家の指南を受けているという。
 近江守の身の丈は、六尺をゆうに越し、額広く、頬骨が鋭い。左右の眉毛が横一文字に太く連なっているのが特徴だった。がっしりとした体躯で、見るからに荒武者と呼ぶにふさわしい人物である。
 だが、新次郎はそんな父に似ず、細身で背も高くない。武芸よりも文雅に秀でているとのもっぱらの評判だった。それが何故に奉公衆に召し出されたのかと言えば、
 ――そこは近江守の野心があるらしい。
 と言う噂を聞いたことがある。

 足利尊氏の頃、実は近江守の父頼遠は、土岐家の惣領だったのである。ところが、この頼遠という人物は、高師直と並び称される名にしおう婆娑羅であった。
 康永元年というから、今から三十年以上も前のことである。 【太平記(土岐頼遠、光厳上皇に対して乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)の振舞いに及ぶ】 菊間月(九月)六日のこと。
 その日、上皇である光厳院の輿と遭遇した頼遠は、道を譲るどころか、
「何! 院と言うか、犬と言うか。犬ならば射て落さん」
 と、大音声に呼ばわって、あろうことか光厳上皇の輿に矢を射かけるという狼藉を働いたのである。
 軍略に秀でた頼遠とすれば、北朝が安泰なのは、武家の力だと思っていたのだろうが、矢を射た相手は仮にも上皇である。事態を重く見た足利尊氏、直義兄弟は、頼遠を処刑して事を収めた。その際に、土岐家の惣領職は、頼遠から甥の頼康に移り、幕府内から頼遠の系統は遠ざけられてしまった。
 そのため近江守は、自分たちの再起をかけて、新次郎の奉公衆入りを働きかけたのである。その甲斐あって、実現した新次郎の奉公衆任命であった。このところ義満は、名のある守護の庶流を取り立てることが多い。だが、今回は粗野な頼遠系統の一族にあって、文雅を好む新次郎を気に入ったという事情もあったようである。
 とはいえ、将軍の護衛を任務とする奉公衆に兵法の心得がないのも困りもので、そのための近江守の依頼であった。
「中条流平法は守りの兵法とか。御所さまをお守りするのに、これほどに好都合な剣はござりまするまい」
 と、言うのである。
 この時代、武術なかんずく剣術のことを総称して〈兵法〉といった。それを、中条流の場合〈平法〉と称していた。その意味するところは〈平らかな兵法〉ということで、平時に用いる武術、という意味だと長秀は理解していた。戦時すなわち戦の際には弓術と馬術の戦いとなり、平時すなわち常の際には剣(太刀)の戦いとなるからである。平時の際の守りの武術、という意味でもあろう。
 ところで、その依頼に長秀が困惑したのには訳がある。

 確かに中条流平法は守りの兵法なのだが、それは己の身を守る兵法であると長秀は思っている。他者の防御を専らとした兵法ではないということである。明らかに誤解なのだが、世上、中条流平法が守りの兵法として、幾分伝説をまといながら巷間伝わっているのには二つの理由があった。
 一つは、長秀は中条流平法を父景長から受け継いだのだが、長秀が生まれてすぐに戦で負傷した景長は、口伝で長秀に伝えたのみであった。その後、長秀はその口伝に基づいて、自ら独力で実技を習得した。この景長は相当に強かったらしいのだが、子の長秀の他に弟子はおらず、景長の時代の中条流平法が噂としてのみ伝わっていること。


中条氏系図(出典:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakajo_k.html  

                                    
中条氏系図


(画像はクリックすると拡大されます)

 もう一つは、その景長が負傷したのは、主人の足利尊氏を守ってのことだというまことしやかな伝承である。乱戦の中、迫り来る南軍の兵士を景長が一人で引き受けて、縦横無尽に斬って捨てたというのである。ために、尊氏が身にかすり傷一つなかった、というもので、それこそが中条流平法だという噂も伝わっている。
 ところで、景長の負傷後、中条家の惣領は弟の秀長が継いだ。名前が紛らわしいのだが、長秀の叔父にあたる人物である。秀長は三河の小豪族に零落していた中条氏を、一代で評定衆という幕府重臣にまで押し上げたほどの人物である。政治的な駆け引きに巧みな人物で、そのぶん剣術という個人技には冷淡だった。従って、中条流平法に対しても極めて否定的であった。そのため長秀は、秀長に遠慮して、今まで弟子をとっていないのである。子息秀孝が剣に冷淡なのも、畢竟秀長の影響に負うところが大きい。
 つまり、中条流平法を伝えるのは長秀一人であり、かつ、その剣技は三十年以上に渡って他者の目に触れておらず、噂のみが先行する兵法となっていたのである。
 確かに長秀は、父景長から平らかな兵法の奥義を口伝で受けている。だが、心技体の剣技が満ちての伝授ではなかった。景長が己の死を意識してのやむを得ざる仕儀だったのである。そのため、長秀は自らの剣技と奥義との落差に苦しんできた。それは今も続いていて、長秀にとって一つの壁となっている。つまり、長秀の中条流平法は、まだ完成していないのである。
 長秀が一人で研究し、子々孫々に伝えていくぶんには何ら問題はない。だが、世に現れるとなると、さすがに逡巡してしまう長秀であった。剣技に冷たい叔父秀長への遠慮もある。
 そのとき、長秀は明け方別れたばかりの観阿弥のことを思い出した。
(観阿弥どのは、己の芸道が不本意な状態で弟子をとるであろうか)
 迷った末に、長秀は断ることにした。

「中条流平法は己を守る剣。汝(ひと)を守る剣ではありませぬ」
「何と。御所さまを守らぬとな」
「とは言うておりませぬ。我が流儀の基本(もとい)を述べたまで」
「ならば重畳。己も守れずば、御所さまも守れますまい」
「さりながら、中条流平法はいまだ未完成なれば」
 婉曲的に断りを入れたつもりだったのだが、近江守はそうはとらなかったようだ。やりとりをしていうちに、だんだんと激してきた。
「はっきりと仰せあれ、長秀どの。我ら土岐一族の者に剣技を教示するのが嫌なのだと」 近江守は激しく詰め寄ってきた。はったと睨みつけた目に憎悪が宿っていた。
「いや。決してそのような」
 長秀はそう言って、思わず下を向いてしまった。
 それは己の未熟な腕に対する怯みのようなものであった。だが、近江守には自分の勢いに気圧されたかのように映ったかも知れない。
「もう良い、頼まぬ。我ら土岐一族を敵に回して、月明かりのない夜に一人歩きは慎まれたい」
 土岐氏は惣領頼康のもとに幕府内に隠然たる力を有している。最後は恫喝まがいの言葉を吐くと、足音も荒々しく階を降りて、肩怒らして帰っていった。
 事を知った頼康は、さすがに一族の惣領らしく、丁重に詫びの使いをよこしたのだが、その後、当の近江守からは何らの挨拶もなかった。
 そのうち、中条兵庫頭は存外悋気の人よ、という噂が、在京の守護やその家人達の間で囁かれるようになっていた。兵庫頭(ひょうごのかみ)というのは、長秀の官位である。噂の出所は明らかに土岐近江守であった。
 長秀はその噂をあえて無視した。
(観阿弥どのならば分かってくれよう)
 気がつけば、京に戻ってくるのを心待ちにしている長秀がいた。だが、その思いはかなわなかった。駿河国から悲報が届いたのである。駿府の浅間神社でみごとな猿楽能を披露していた観阿弥が、急な病で亡くなったというのである。稲苗月(五月)十九日のことだったという。
「このことであったか」
 駿河に向けて出発する前、別れの挨拶に来たとき、長秀は虫が知らせるものがあったのを思い出していた。
「再び語り合うことはできぬのか」
 互いに己の求める道を、胸襟を開いて語り合う仲だっただけに、長秀は観阿弥の死を悼んだ。この世でたった一人の親友を亡くしたような心持ちであった。
「だが、後は三郎どのが引き継いで完成させるであろう」
 長秀は端正な藤若の顔を思い出しながら、死という不幸に見舞われながらも、後継者に恵まれた観阿弥と観世座(流)の幸福を思った。


(2)長秀に遺恨を抱いた近江守が、宴席の陰口で溜飲を下げる

「慈恩と長秀はいずれが強いのじゃ」
 酔眼を向けて土岐近江守が問うた。
「さて・・・・」
 問われて、土岐新次郎は考え込んでしまった。
 今日はしたたかに酔っている。板の間に左肘をついて手に頬を預けたまま、ごろんと寝ころんで杯を傾けている。近江守は、部類の酒好きであった。
 ここは近江守の屋敷の一室である。泉水を取り込んだ造りは、惣領家の泉殿をまねたものだった。武骨な近江守らしからぬ風流な造りだが、武辺のみでなくこれからの武家はつきあいも大事、という頼康の言に従ったものである。
 向かいには、端座した子息新次郎が静かに酒を飲んでいた。傍らに六星紋の酒樽が置いてある。廻りには食い散らした膳がまだ残っていたが、座敷内には近江守と新次郎の二人きりだった。すでに亥の刻(午後十時)を過ぎている。長秀と呼び捨てにするのも、子の新次郎しかいないと知ってのことであろう。
 長秀に断られた近江守は、その後、管領斯波義将の伝手を頼った。その結果、甲斐筑前守の肝いりで、念大慈恩という僧侶に、新次郎を習わせることにしたのだった。甲斐筑前守は、斯波義将の執事甲斐美濃守の弟で、武辺好きとして知られていた。近江守との面識はなかったのだが、義将の紹介とあって話は順調に進んだ。
 今日は甲斐筑前守を自宅に招いて、その礼を兼ねて催した宴であった。
 実は甲斐筑前守も慈恩に剣を学んでいる。父と同じく近江守に任じられる新次郎とともに、後年二人は、慈恩の高弟十四傑に名を連ねることとなる。
 近江守は新次郎に命じて、他にも慈恩に剣を学ぶ二人の奉公衆を招いた。一人は守護の三男、もう一人は有力国人の次男であった。新次郎を入れて三人ともに今日は非番の日だったのである。
 七夕には少し早いのだが、星を見ながら暑気を払う、というのが名目だった。
 戦が静まってくると、公家や武家同士のつきあいが、闘茶や連歌の会を通じて広く行われるようになってきた。そのうち、月見や花見といった理由でも集まるようになった。風流を愛でるだけが目的ではなく、酒を振舞うなど、たぶんに娯楽的なものでもある。元来が酒好きな近江守は、別して〈寄合〉と呼ばれるこうした集まりを好んでいた。
 客の三人はすでに帰ったのだが、それまでひとしきり合戦や兵法の話で盛り上がっていた。自らも戦好きな近江守は、武芸などの勇壮な話を好むが、さすがに中条長秀との比較は控えていたようだ。それが二人きりになったことから、酔いも手伝って、大胆になったものと思われた。
「ならば、慈恩はどうじゃ?」
 答えられないと見て、近江守は問いを変えた。
「破れ衣を着て、七条の河原で貧民と交わる、いっぷう変わった僧侶でござる」
「なんと・・・・!」
 近江守は顔をしかめたが、気を取り直して、
「禅宗の僧侶と聞いたが」
「鎌倉の寿福寺で剃髪したようです」
「ほう。鎌倉の寿福寺といえば、寺格は低くはあるまい」
 近江守は感心したように言った。
「元来は坂東のさる城主の子だとか」
「ふうむ。もとは侍か。それがなにゆえに禅僧になど・・・・」
「五歳で佞臣のために城を追われ、兵法を修めた後、十八歳で父の仇を討ったとか。その際、世の無常を悟って仏門に入ったと聞いております」
「なに、十八歳でか!」
 近江守は興奮したように叫んだが、すぐに、
「もったいないような気もするのう。城主としての生き方もあったであろうに」
 気を取り直したように言って、
「ところで、強いのか、剣の方は?」
 やはり腕前のことが気にかかるらしい。
「念流と称しているとか」
「ほう! 兵法に流派を名乗るか。禅僧らしいのう」
「己で唱えているわけではなく、そう呼ぶ者がいるということです」
「長秀の剣は、平法と言うらしいが」
「さあて。長秀どの剣は、実際に見た者が誰もおりませぬゆえ、それがしにも分かりかねます。虚妄の剣だと噂する者もおりまするが」
「中条家家伝の兵法と聞くぞ」
「しかしながら弟子もとらず、家の者のみに伝えていては、果たして実際の役に立つものか否か」
「ふむ。それ故に守りの兵法か」
 近江守の顔に皮肉の笑いが浮いた。
「太刀を抜かずに勝つのが極意、という噂もありまする」
「ふん。見せかけか。それゆえ、そなたに教えるのを拒んだのだな」
 近江守はぐいと杯を呷った。
 それっきり押し黙ったままである。酔いのためか妙にすわった目でじっと一点を見つめていた。異様な光を帯びている。自分の依頼をにべもなく断られたと思っている近江守は、長秀に対して強いわだかまりを抱いているようで、おそらくあの日のことを思い出しているのだろう。
 そんな父の態度に、新次郎は何と言葉をかけて良いか分からず、ただ黙って杯を弄んでいた。
 常夏月(6月)下旬の、風のない蒸し暑くやけに湿っぽい夜であった。壁に近江守と新次郎の影がゆらゆらと不気味に揺れていた。

 それからしばらく経ったある日、管領の斯波義将(しばよしゆき)が土岐邸を訪れた。 土岐家の惣領は大膳太夫頼康である。その邸は一条堀川にあったが、敷地三千六百坪という広大なものだった。そこに寝殿造りと武家造りの折衷風の屋敷を建てて住んでいた。土岐近江守もその敷地を借りて屋敷を建てて住んでいる。
 斯波義将は左衛門佐に任じられ、今年三十五歳、男盛りである。足利の一族中でもことに血筋が良い。丸顔で柔和な顔だが、内には秘めた野心がふつふつと沸き立っているという噂であった。
 対して、土岐頼康は六十九歳になる。同じく丸い顔立ちだが、こちらは年齢相応の深い皺が刻まれていた。数多くの合戦を経験している強者でもあった。もの静かな性格だが、美濃源氏の嫡流で、幕府宿老中の重鎮といって良い存在だった。
 二人は仲が良い、と見られている。五年前の康暦元年に、政敵細川頼之を管領の座から追い落としたのは、二人が組んだからだとの評判がもっぱらだった。
 だが、義将としては頼康の影響を脱し、そろそろ自分が幕政を仕切りたいという野心がある。そのため、義将は武骨な近江守を贔屓にして、何かと便宜を図ってやっている。頼康への牽制のつもりであった。頼康亡き後の土岐家への影響力を考えての布石という意味合いもある。近江守もそんな義将を後ろ盾に土岐家の中で少しずつ発言力を増していた。 頼康との内密の話を終えて、宴になったその夜も、
「宴は賑やかな方がよい。近江守どのもござれ」
 と義将が指名し、にわかに同席することとなった。
 だが近江守は、密かにこの日を待っていた。内心、得たり、と思いながらも、まずは神妙に、新次郎が剣術を学べるのは、管領殿のおかげで御座りまする、などと丁重に礼を述べながら、酒が進むのに合わせて、うまく話を中条流平法のことに向けていった。
「わしも聞いたことがあるぞ。確か長秀どのの祖父頼平どのの創始になる剣と聞いたが」「さすが管領どのはお詳しい。ところがでござる。頼平どのから出羽守どのに相伝されたことは間違いないところなれど、出羽守どのはすぐる建武二年に足利尊氏公に従って、矢作川で新田義貞と戦ったときに負傷してござる」
 出羽守とは長秀の父景長のことである。
「知っておるぞ。尊氏公を守っての奮戦であったとか。そのときの負傷がもとで馬に乗れなくなったゆえ、弟の秀長どのが中条家の惣領職を継いだのじゃ」
「尊氏公を守っての奮戦であったか否かは、今となっては分かりかねまする。さりながら、出羽守どのが負傷されたとき、長秀どのは生まれたばかり。その後、出羽守どのに剣を習うたとはいえ、果たして満足に伝授できたかどうか」
「確か、景長どのは長秀どのが十九歳のおりに他界されたはず」
 これは頼康の言である。
「いかにも、いかにも」
 近江守は酔いを装いながら、中条長秀の剣は口伝のみで、実技の伴わぬ虚栄の剣であり、それゆえ、
「長秀どのの剣を間近に見たものは誰もおりませぬよ。所詮、中条流平法は噂のみ」
 と言って、からからと高笑いした。
「酒席とはいえ、管領どのの御前で無礼が過ぎるぞ」
 さすがに頼康がたしなめたのだが、
「構わぬよ。今日は面白い話を聞いた」
 と言って、にっこりと笑った。
(まさか、長秀どのを・・・・)
 その顔を見て頼康は、不吉な予感を抱いた。こんなときの義将は、何か策が浮かんだときの顔つきなのである。頼康は長いつきあいで義将の癖を熟知していた。

 幕府内では、管領斯波義将と評定衆の対立が少しずつ際だってきていた。
 将軍である義満を補佐し、将軍、管領のもとで幕政を取り仕切りたい義将にとって、中条長秀などの評定衆は、――うっとうしい限りよ。
 という、思いがある。
 評定衆とは幕政の重要事項に参画し、意見を述べる。こうした衆議を重視したありかたは、管領となった義将にとって目障りなものだった。
 だが、頼康の思いは少し異なっていた。
――幕府は合議こそ大事。宿老を軽んじてはなるまい。
 と、思っていた。
 それは足利一族以外の守護である赤松、山名氏らと共通するものである。義将と組んで細川頼之を政権の座から引きずり降ろしたのも、頼之が宿老を無視して義満独裁を計ろうとしたからである。
 とはいいながらも、頼康は評定衆とは一定の距離を置いている。以前は宿老が評定衆に任命されていたのだが、頼康はそれを固辞した。評定衆という形に捕らわれない新しい合議制を模索していた、といったらよいであろうか。
 この時期、幕府の機構が整ってきたことに伴って、評定衆の実務は増大していた。そのため、頼康は政策決定のみを切り離して、別に行う必要性を感じていたのである。それは義満や義将、そして長秀などとも相容れない方向性であった。
 いまのところ幕府は、微妙な安定を保っているが、義将は密かに評定衆の力を削ごうと狙っているふしがある。その評定衆筆頭の地位に長秀はいる。その失脚を謀っても不思議ではなかった。頼康が危惧を抱いたのも、そのような背景があったからである。

 宴席は沈黙が続いている。
 近江守は酔眼を装いながら、義将と頼康を交互に見比べていた目を、開けはなってある戸の外に向けた。
 降るような星とともに、丸い月が煌々と輝いている。ちょうど来月の今日が十五夜である。その月を見ながら、管領の前で中条流平法を散々に貶めた近江守は、座の雰囲気とは別に、溜飲が下がる思いがして爽快な気分を味わっていた。


(3)七条の河原で長秀が、ならず者を懲らしめる禅僧を見る

 菊月(九月)下旬――。
 季節はすでに秋が過ぎようとしていた。気がつけば、無二の親友と思っていた観阿弥の死の知らせを受けてから半年が経っていた。
 だが長秀は、共に道を語るべき友を失った痛手から立ち直れずにいた。その年のことのほかに暑かった夏の記憶さえ、人に問われたら答えられなかったかも知れない。
 長秀は室町幕府の評定衆という重職にある。何とか政務はこなしていたものの、兵法の稽古には全く身が入らなかった。ともすれば、毎朝、木太刀を振ることさえ、ただ単に振っていることが多かった。いや、そのことさえも億劫になって、止めようかと思うことがしばしばであった。
(それがしも、すでに齡(よわい)五十)
 これから次々と周りの者が亡くなっていくことであろう。いや、そういう自分もいつ鬼籍に入らないとも限らないのだ。
(生あるうちに中条流兵法の奥義を得られるであろうか)
 そう思うと、たまらない寂しさに襲われるのだった。
(そうだ。阿景尼はどうしていることであろうか)
 洛南、鳥部山の先に栗栖野といういかにも鄙びた響きの里がある。そこに長秀の妹が髪を落として草庵を結んでいた。若かりし頃、世を儚んで出家したのである。名を阿景尼といった。その後、長秀はたまさかその妹の草庵を訪ねては、俗世を忘れて共に花鳥風月を愛でるのを、いっときの楽しみとしていたのである。
 長秀は思い立って阿景尼を訪ねた。
 燃えるような紅葉を賞美しながら、夜は夜で冴え冴えとした月影に賛嘆し、長秀は久しぶりに楽しいひとときを過ごした。
 翌日――。
 その日は朝からよく晴れた日だった。前日、夜遅くまで阿景尼と語り明かし、
「お疲れが残っておりましょう。もう一夜なりともゆるりとしていかれては」
 引き留める阿景尼に、
「いや、楽しかった。ここのところの気鬱が散じたようだ」
 と、丁寧に礼を述べて、長秀が草庵を出たのは昼前であった。

 比叡颪(ひえいおろし)もまだ小手調べのような気配で、長秀は馬上ゆったりと四条の自邸に向かって歩を進めていた。忍びの行動ゆえに従者も一人という、いたって軽い供回りである。前を行くその従者ものんびりとしたものだった。
 七条の橋にかかって、何気なく河原の方を見やったときのことである。
「はて、いつの間にあのような・・・・」
 よく見ると、竹や棒を立てて菰や筵を引き回した掘っ立て小屋が幾つか並んでいた。明らかに浮浪の輩のねぐらと思われた。
「以前はなかったような気がするが」
 と、一人呟くと、
「このところ、戦がないからでござりましょうか」
 自分への問いかけと思ったのか、若い従者が振り仰ぎながら答えてきた。
 北朝と南朝の戦も下火になって、京の治安も急速に回復していた。将軍が三代目の足利義満となって以来、南朝に京を狙われる心配は、まずないと言って良かった。
(こやつら、いつから住み着きおったのか)
 とはいえ、評定衆という役職にある長秀にとって、決して愉快なことではない。
(侍所は何をしておるのか!)
 浮浪の輩が増えるということは、それだけ京の治安が乱れるということである。覚えず叱咤の思いが込み上げてくる。
 侍所とは将軍、天皇のおわす京の町の検断を主な任務とする。
(次の評定で山名どのにきつく言っておこう)
 侍所頭人(長官)は、山名弾正少弼と言った。その場にいなかったのが幸運というべきであろうか。もし居たら、長秀の口から厳しい言葉が出たことだろう。
「殿っ。僧侶もおりますぞ」
 長秀の思いが伝わったわけではなかろうが、従者があきれたような声を出した。
「遊行僧ではないのか」
 長秀が不快を隠さずに言った。
 遊行僧とは、時宗の僧侶のことである。その名の通り諸国を行脚し、一所不住を旨とするため、浮浪の徒と交わることが多い。
「とんでもござりませぬ。禅宗の僧侶と覚えまするが」
「なにっ!」

 禅宗は将軍義満の庇護の下、かつての天台、真言にも劣らぬ隆盛を誇っていた。その分、何かにつけて格式の高さを誇るようなところもあったのである。
 従者がこっそり差し示した方を見ると、確かにそこには一人の僧侶が居た。と同時に、その僧侶を囲むように、河原に住まいするあぶれ者と思しき男どもが、車座になってなにやら騒いでいるのが目に飛び込んできた。
 僧侶以外の者は、間違いなく浮浪の輩であろう。いずれ里を追われ、あるいは里を捨て、やがて食い詰めて河原に住み着いたものと思われた。十人ほどの髪も髭も伸び放題のむさ苦しい姿の男ばかりである。破れたり、汚れたりした小袖や水干に袴、いでたちはばらばらであった。皆一様にひょろひょろに痩せこけている。年齢のほどは推し量れないが、高齢の者はいないように思われた。
 そんな中、その僧侶はひときわ異彩を放っていた。年齢の頃は三十半ばくらいであろうか。汚れてくたびれた白の道衣に、すり切れたわらじを履いていた。他の男どもと同じく髭は伸び放題だったが、手足は浅黒くがっしりとした体躯だった。見る限り、人品は卑しくなさそうである。色が褪せて綻んではいるが、身に着けている掛絡(袈裟)は確かに禅宗のものと思われた。頭布は被っていなかった。
 その僧侶は、自分の前に小さな釜を置いていた。釜の中でぐつぐつ煮えた粥を杓で一掬いすると、差し出される欠けて不揃いな木の椀に注いでいた。
「ほれほれ、順にじゃ。ちゃんと皆にあるによってな」
 僧侶に粥を注いで欲しくて騒いでいるのだった。
「ありがたや」「ありがたや」
 ぶつぶつと呟く言葉の中には、よく聞くと礼を口にして者もいる。
 車座になった者に一通り行き渡ると、
「おう。どなたもござらっしゃれ。御仏の慈悲じゃ」
 河原全体に届けとばかりに大きな声をあげながら、さらに粥を請いに来る者の器に注いでいた。
 そんな僧侶の仕草をじっと見ていた長秀は、
「施粥か。禅宗の僧侶にしては珍しいことよ」
 と言いながら、なおもしばらく眺めていたが、やがて、
「帰るぞ」
 興味が失せたように、乾いた声で従者に命じると、馬の手綱をとって橋を進んでいった。
 長秀が橋の真ん中辺りまで来たときのことである。
「坊主。わし等にもその粥を恵んでくれぬか」
 威嚇するような胴間声が響いてきた。
 長秀が声のした方を見ると、先ほどの僧侶のところに、真っ黒な体躯の一目で凶相と知れる男が三人、近づいてくるところであった。左右の男は、二人とも太刀を肩に担いでいる。

「悪王丸じゃ!」
 怯えるような声が聞こえたかと思うと、僧侶を取り巻いていた者たちがさっと離れていった。それはまるで、群れていた鮎が、人の気配を感じて、いっせいにぱっと散るのに似ていた。
「わしらは椀を持っておらぬによって、その釜ごと頂こうかい」
 三人のうち真ん中の男が言った。この男が悪王丸と呼ばれているようだ。身の丈は六尺を優に超えている。褪せた下帯のみの身体に、長い女物の派手な韓紅(からくれない)の小袖を羽織っている。とはいえ、ごわい体毛と盛り上がった筋肉が長秀のところからでも、はっきりと見て取れた。膂力も二、三人分はありそうで、最も威張っている。 
 だが、そんな悪王丸の威嚇にも、僧侶は平然として釜の中の粥をかき混ぜていた。眉一つ動かさないかのようである。思わぬ成り行きに、長秀も馬を止めてしばし見入っていた。                                 
「坊主。聞えぬのか」   

                           
【韓紅】

韓紅



 僧侶から見て左側の男が、そう言っていきなり釜の取っ手を掴もうとすると、
「これ、御仏の慈悲を何と心得る」
 僧侶は掻き混ぜていた杓で男の手をはっしと叩いた。
「熱っ!」
 ぐつぐつに煮えていた粥を掻き混ぜていた杓である。その余りの熱さにさすがに屈強な男も思わず手を引っ込めた。
(ほう。これは面白くなってきたぞ)
 長秀は興を引かれて、この後の成り行きはどうなることかと思って見ていると、
「この糞坊主め。痛い目にあわぬと分からぬと見える」
 真ん中の悪王丸という男は、喚きながら手を粥の釜に伸ばした。左右の男は太刀を抜いて僧侶に迫った。
 そのとき、太刀風とも紛う軽い風がさっと吹き過ぎた。
 次の瞬間、ギャアッという、大きな蝦蟇を思い切り踏みつぶしたような、異様な叫びと共に、地に伸びていたのは三人の男たちだった。それは、風で菰や筵が揺れたほんの一瞬の出来事だった。
「・・・・!」
 長秀の目が大きく見開かれた。明らかに兵法を心得た者の動きだったからである。しかもそれは並みの動きでない。相当の修練を積んだ者の動きだった。
(ううむ。あの僧侶、ただ者ではない)
 そのとき、橋の上の長秀と、三人を懲らしめて釜の杓を手に取ろうとした僧侶の目が合った。
 丸い柔和な顔の僧侶の双眸は清らかに澄んでいた。邪念は全く感じられなかった。やがて、僧侶は会釈をするように軽く下を向いたように長秀には見えた。それはまるで、同じ道を進む後輩が先輩に敬意を表しているかのようであった。
「うむ」
 鷹揚に肯いた長秀は、そのまま馬を進めていった。
「あの僧侶は間違いなく兵法の心得がある。それも相当の遣い手・・・・」
 長秀は馬上で小さく呟いた。
 気がつけば、兵法者としての胸の内がざわざわと波立つのを止めようがなかった。


(4)七条の河原で見た禅僧が気になる長秀

 ふと気がつくと、庭に降りた初霜の後がなくなっていた。刻限はとうに巳の刻(午前十時)を過ぎている。中条長秀は、ここ二日ばかり、朝からずっと庭の前栽(ぜんざい)を飽かず眺めているのだった。
 左右に引き回した几帳(きちょう)の間隔を狭めて、妻戸(つまど)を開いたまま、じっと庭を眺めてはいるのだが、前栽そのものを愛でているわけではない。視点の先には、葉を落とした冬枯れのような紫陽花と、赤い小さな実がたわわについた丈の低い木があった。
「お風邪を召しまする」
 北の方が気遣ってしきりに言葉を掛けてくる。名を繁子といった。
だが、長秀の口からは、
「うむ。分かっておる」
という、生返事ばかりである。
「そのお言葉、はや三度目にござりますよ」
繁子はそっと扇子を半分ほど開くと、ほほ、と口元を隠して軽く笑った。いつもならこれで戯れ言の一つもあるのだが、
「うむ。分かっておる」
四度、長秀から気のない呟きを聞いて、さすがに繁子も心配になったのか、扇子をたたんで居ずまいを正した。すでに笑みは消えている。
「先の殿も、ここ数日小康を保っておりますれば、殿にも余り根をおつめ遊ばされませぬよう」
 先の殿とは長秀の叔父秀長のことである。
ようやく暑い夏を越した、と安堵した途端に倒れてから、はや一月が経とうとしていた。すでに齢は八十に達している。
「ご高齢ゆえに助かりますまい」
という、医師(くすし)の診たてにも係わらず秀長はよく保っていた。

 秀長は先代の中条家当主である。繁子の心配は当然のことだった。中流の公家の出だが、武家に嫁して三十年。よく尽くしてくれていると、長秀は密かに感謝していた。秀長が 保っているのも繁子の必死の看護が預かって大きいと思っている。
「叔父上のことが、気に掛からないわけではないのだが・・・・」
 言葉が濁るのは、長秀の思いが他にあるからである。
「・・・・?」
 繁子が怪訝な表情を返してくる。
「先日、七条の河原で不思議な僧侶を見たのだ」
「阿景尼どのを訪ねての折りでござりまするか?」
 訝しげな繁子の問いに、長秀は鷹揚に肯いた。
「そうじゃ。栗栖野からの帰りだったのだ」
 長秀はそのときのことを詳しく繁子に語って聞かせた。
「かの僧侶が、一瞬の間に屈強な三人のならず者を倒した技は、全く鮮やかであった」
 目をつぶって思い出しながら、感に堪えぬように呟いた。
「殿とても敵いませぬか」
「・・・・!」
 繁子の言葉に、驚いて長秀が目を開けると、にっこり微笑みを浮かべた丸い顔があった。
 かつては童顔の造りであった繁子は、年齢よりも若く見える。すでに四十を越しているのだが、笑みを浮かべた顔にはたまらない愛嬌があった。
「そなたに兵法は分かるまい」
「あい。ですが、わたくしも中条流平法を伝承する殿の妻にござりまする」
「それはそうじゃが・・・・」
「先の殿の仰せでは、殿の兵法もなかなかのものと申しておりました」
「なに! 叔父上が・・・・」
 狼狽する長秀に、
「先の殿は、殿の朝の稽古をこっそりと、よくご覧になっておられました」
「同じ屋形の内ゆえ、見られているのは知っていた。だが、何も言われぬゆえ、見て見ぬふりをしてくれていると思っていた」
 繁子の柔らかな笑顔を見た長秀に苦笑いが浮かんだ。

 叔父秀長は、中条流平法に対して冷淡だった。長秀は次の惣領として、中条家の益々の発展を支えるべく、戦で負傷した父にかわって、そんな秀長の薫陶を早くから受けていた。
 秀長から惣領職を譲られた延文三年の二十四歳の折りには、
「剣術の稽古よりもさらに古典籍に親しみ、和歌の道に精進するが良い」
 と諭され、さらに応安元年には、
「評定衆となった我が家に、もはや個人技は不要であろう」
 と厳しい口調で、暗に家伝の中条流平法を捨てるように求められた。長秀が三十四歳のときのことである。
 だが、いずれのときも父より引き継いだ家伝の兵法を捨て難く、長秀は意固地なまでに剣の修行に励んでいたのだった。
「なれど、先の殿は殿のお勤めぶりもいたく感じておられました」
「無論じゃ。剣に励むゆえご奉公が疎かになってはならぬ」
「それゆえ、殿の剣の修行を別してお止めしなかったのでござりしょう。それに、殿の剣の上達ぶりに目を細めておられました」
「叔父上に剣の道が分かるのであろうか。お方も人が悪い。叔父上と陰でわしのことを・・・・」
「良いではありませぬか。武家にとって兵法は大事。先の殿の寛容に甘えても」
「女子(おなご)は割り切りがはっきりしていて羨ましいことよ」
 長秀と繁子は、互いに目を合わせてにっこりと笑った。
「ところで、殿がお気に掛かるということは、まさかその僧侶と・・・・」
 繁子は改まって尋ねた。不安げな様子が見て取れる。
「うむ。立ち合いたいという思いに駆られているのだ。こなたと話してさらにその思いが強くなった」
「やはり・・・・」
 その言葉を聞いて、繁子の顔が曇った。
「立ち合えば、勝ちを制するのは、それがしか、あの僧侶か・・・・」

「何故にその僧侶が気に掛かるのでござりまするか。目を瞠るような技は、今までにも幾人か見ておりましょうに」
 繁子は長秀の無用な立ち合いを望んでいない。まして相手は、河原に住む破れ坊主である。やんわりと話題を変えた。
「実はわしも我がことながら、それが不思議でならぬのだ。もしや禅宗の僧侶だからかとも思うのだが」
 寺院に居ればもっと裕福な生活が保障されるはずである。なにゆえに禅宗の僧侶でありながら浮浪の徒と交わるのか。長秀は、別れ際に目が合ったときの涼やかな僧侶の顔が、鮮やかに思い返された。
 みすぼらしいなりとは裏腹に、柔和で邪念のない顔であった。その外貌は一見しただけでは、全く兵法者には見えなかったのである。あの僧侶が、一瞬の間に見せた兵法の技と共に、その人柄にも心惹かれるものがあった。
(考えて見れば、剣と禅の取り合わせというのも玄妙ではある。剣と禅とは通じるものがあるのではないか、とは観阿弥の言葉であったが・・・・)
 そう思うと、あの日、阿景尼と燃えさかる紅葉と冴え冴えとした月影を愛でての帰途だったというのも、偶然ではないような気がしてきた。
「いかがなされました」
 急に黙り込んだ長秀を心配して、繁子が声を掛けたとき、
「殿!」
 家人が帰ってきたようだ。
「おう。いかがであった」
 我に返ったように長秀が問うた。
 あれから家人を使って、七条河原の僧侶について調べさせていたのである。
「はっ。かの僧侶は・・・・」
 家人は庭先に跪いて話そうとして、その先を言い淀んだ。長秀の隣に繁子が居るので、話そうかどうしようか迷っているように思われた。
「良い。話せ」
 長秀の指示で、安堵したような顔色を浮かべて話し始めた。
 その家人が調べたところによると、僧侶の名は念大慈恩という。確かに禅宗の僧侶なのだが、七条の河原で貧民たちに交わって暮らしている、一風変わった僧侶だという。
 だが、ときおりふらりと二、三日姿を消しては幾ばくかの銭を持って帰ってくるらしい。そんなときは、貧民たちに粥や酒を振る舞い陽気に騒ぐため、七条の河原ではたいそうな人気者なのだという。
「林下(りんげ)の僧侶とも思えぬが・・・・」
 京都や鎌倉の大きな禅宗寺院を叢林と呼ぶのに対し、地方の禅宗寺院を林下と呼ぶ。
 長秀はいくつかの京都近郊の禅宗寺院の名を思い浮かべた。
 だが、いくら林下の僧侶とて、浮浪の徒と交わるために、わざわざ京まで出て来るもの好きとも思われなかった。ましてや叢林ということはあり得ないだろう。
「禅宗には隠遁の思想もあるとは聞いたが・・・・」
 長秀が逡巡していると、
「実は、剣術の稽古をつけにいくようです」
 家人が言いにくそうに答えた。
「なに、剣術の稽古。やはり、兵法者であったか」
「幕府の大名衆やその家来筋に教えを受けている者がいるようで・・・・」
「なんと、幕府の内にか!」

 あのような卑しい坊主に教えを受けている者がいるかと思うと、長秀の胸中に不快の念が湧いてきた。
「誰と誰じゃ。多いのか、慈恩に学ぶ者は」
 思わず語気が鋭くなった。
「畠山どの、山名どの、土岐どのの他奉公衆や守護どのの家臣の中にも・・・・」
 家人が言い淀んだ。長秀の顔色が露骨に険しくなったからだ。
「土岐どのとな? まさか、土岐新次郎どのではあるまいな」
「・・・・」
 家人の無言は、この場合肯定を意味していることは明らかだった。
 土岐、畠山、山名と言えば、室町幕府の重臣とも言うべき家柄である。そのうえ、畠山家は、斯波家とともに将軍足利家に連なる一門でもある。
「ううむ。幕府の重職を出す家にありながら・・・・」
 思わず嘆息しつつも、
(だが、人を見かけで判断してはなるまい。幕府重臣のうちで学ぶ者があるとすれば、それなりの人物なのではあるまいか)
 改めて、念大慈恩への興味が湧いてくる長秀であった。
 そのとき、突然、父景長の遺言を思い出した。
「わしも父上から中条流平法を受け継いだが、戦で負傷し、奥義を究めるところまではいかなんだ。考えてみれば、よくよく無念である。そなたはわしに代わって奥義を究めてくれ」
 景長が亡くなるまで、ずっと口伝えでの指導の折に、繰り返し言い続けてきた言葉だった。結局、その言葉は景長の遺言となった。
 その頃、中条家の惣領は秀長であった。長秀は剣技を嫌う叔父に遠慮し、父の死後その遺言を人知れずずっと心の奥底にしまい続けているのだった。従って、父からの口伝も封印したままである。
 それから、およそ三十年近い歳月が流れている。
(このままでは、家伝の兵法を己の代で滅ぼしてしまうのではないか)
 その間、焦りにも似た気持ちがこみ上げながらも、人知れず木太刀を振ることによってしか、己の気持ちを抑えることのできない長秀だった。叔父秀長の意には逆らえなかったのである。
 だが、幕府内で兵法の人気が高まれば、中条流平法も世に出る機会があるかも知れない。
(あるいは叔父上も中条流平法を認めてくれるのではないか)
 長秀の心に期待が高まった。
 そんな長秀の気持ちを悟るはずもなく、家人は淡々とさらに話を続けた。
「その坊主の剣を<念流>と呼ぶそうでござります」
「なに、念流!」
 慈恩に対する興味がさらに高まった。
「流名まで名乗っておるのか」
「鎌倉の寿福寺で栄祐なる神僧に剣を学んだとか。筑紫国安楽寺に百日間籠もって開眼したとか言われており、剣名は上がるばかりでございまする」
「ううむ。念流か」
 長秀は内心に波立つものを押さえることができなかった。それはどこか渇望にも似た感情であった。
(立ち合えば、どちらが勝つであろうか。いや勝負よりも、中条流平法の完成にとって得るものがあるのではないか)
 だが、立ち会ってもし負けるようなことになれば、この身だけでなく、中条流平法も破滅することになる。考えてみれば、それも口惜しいことだった。
 繁子はそんな長秀と家人とのやりとりを黙って聞いていた。その顔から幽愁の陰が消えることはなかったが、長秀はそんな繁子の思いに気づくことはなかった。


(5)叔父を失い、管領斯波義将の策にはまる長秀

 室町御所への出仕を終えての帰り道――。
 今日もまた、慈恩や念流のことをぼんやりと考えながら長秀は、室町通りを南へゆらりゆらりと愛馬にまたがって屋敷への道を進んでいた。
「念流の奥義とはどのようなものであろうか」
 中条流平法の完成を願う長秀の脳裏に、七条河原で見た慈恩の鮮やかな技が鮮明に蘇った。思い出すほどに、立ち合ってみたいという思いが募る。
「だが慈恩は、河原に住む破れ坊主。もし敗れれば失うものも大きい」
 幕府重職でもある。叔父秀長の存在もある。剣の道への渇望との狭間で逡巡する長秀であった。そのとき、
「殿お〜!」
 彼方から息せき切って駆けてくる家人の姿が目に飛び込んできた。
「殿。先の殿が・・・・」
「なにっ」
 驚愕の言葉が口をついて出たときには、すでに馬に一鞭当てて足を速めていた。
(もしや!)
 長秀の脳裏に最悪の思いがかすめたのである。
 慌てて従者たちが後を追った。
「叔父上は・・・・。叔父上の具合はいかがか」
 屋敷に着くと、馬の手綱を渡すのももどかしく、長秀が秀長の臥す離れに駆けつけたときには、すでに秀長は、臨終の間際にあった。医師を始め急を聞いた重臣、側近等が控えている。
「殿・・・・」
 秀長の傍らにいる繁子が、悲しげな顔を向けてきた。
「ながひで・・・・」
 秀長は弱々しい声で、長秀を探し求めていた。
「先ほどからうわごとのように・・・・」
 と言って、繁子が後ろに退って長秀に座を進めた。
「叔父上。ここに居りまする」
 長秀は秀長の枕頭に座して、老いさらばえ、痩せて脂っ気が消えた黄色い顔に、自らの顔を近づけた。
「おお、長秀か」
 秀長は細い目で長秀を認めると、弱々しい声ながらもはっきりと、
「中条家を頼むぞ・・・・」
 と、わずかに言ってこと切れた。まるで、その一言を長秀に伝えるために、燃え尽きる命の炎を、ここまで保ってきたのではないかと思われたほどであった。
「叔父上・・・・」
 後は言葉にならなかった。両眼から涙が自然に流れ出た。
(ああ、それがしは浅はかであった。叔父上がここまで心配していようとは。叔父上、それがしは評定衆として、剣の道へのこだわりを封じ、幕府への忠節を尽くしまする)
 秀れた叔父であった、と思う。足利義詮、義満の二代に渡る将軍の信任も厚かった。幕府内での輿望(よぼう)も高く、
「武略が必要な南北朝の世は直に終わる。これからは、剣の道よりも治世の実務が重要となるのだ」
 秀長は時代の推移に確信があったようで、実際その通りになりつつあった。
 その目は確かだったのである。死に望んで、改めて叔父秀長の偉大さを思わずにはいられなかった。
 長秀は深い嗚咽とともに、いつまでも秀長の枕頭に額づんでいた。
 このとき、長秀の脳裏には、慈恩と立ち合いたいという思いはすでに消えていた。

 秀長の葬儀は、中条家代々の菩提寺である東山建仁寺で盛大に行われた。
 年が明けて、至徳二年となった。長秀は正月の行事を遠慮し喪に服した。初春月(一月)下旬には、秀長の四十九日法要がしめやかに行われた。
 幕府の重職にあった秀長である。諸国の守護や国人は言うに及ばず、公家や高僧の弔問を受けて、この間、長秀は改めて幕府評定衆という立場の重さを知った。その後、長秀はいつになく幕府への出仕に精を出すようになった。
 至徳元年から二年にかけては、南朝の目立った動きもなく穏やかな年であった。幕府の政治も若き将軍義満のもとで大過なく行われていった。
 やがて、秀長のことは、噂好きな京雀の口に上ることもなくなり、段段と人々の記憶から忘れ去られていった。
 長秀にとって、季節は春から夏へと馬の早駆けのように過ぎていった。
 秀長の名は、すでに幕府内においても語られることはなくなっていた。そのことに一抹の寂しさを感じつつも長秀は、職務に忙殺される日日が続いていた。
 その日、花の御所の座敷では、政務を終えて、いっときくつろいだ様子で皆が談笑に興じていた。正面に将軍義満、一段下がって左右に管領義将、宿老頼康、その横に評定衆長秀、吉良、中原、三善の四人、侍所、政所、問注所の頭人四人、合わせて十一人が控えていた。やがて、義満に呼ばれた三郎藤若を加えて十二人となった。観阿弥の子藤若は、先年身罷った父の後を継いで観世座(流)を率いていた。義満の寵愛は、観阿弥に増して深くなっている。
 酒肴が用意され、座はいよいよにぎやかになった。
「御所さま。奉公衆はいかがでござりまするか」
「よく勤めている。満足に思うているが、さらに武芸に励んでもらいたいものよ」
 上機嫌な声が飛んでくる。御所さまとは足利義満のことである。花の御所に移って以来、そのように敬称されていた。今年二十六歳になる義満は、まだまだ青年将軍としての若々しさに溢れていた。
「おお、そうじゃ。大膳大夫の一族土岐新次郎も近頃は逞しくなったぞ」
 ぐびと杯を傾けて義満が言った。大膳大夫とは、土岐頼康のことである。
「土岐新次郎は、慈恩なる僧侶に剣を習っているとか。この僧侶がなかなかに面白いと聞きました」
「ほう!」
 義満が興味を示したので、義将が杯を置いて、慈恩についてひとしきりしゃべった。
「ううむ。奇僧でござるな」
 義将の話が一段落ついて、侍所頭人山名弾正少弼が感に堪えぬという風情で言った。すでに顔が紅い。
「さよう。だが、剣の腕はなかなかと聞いたぞ」
「新次郎どのの他にも奉公衆で学ぶ者がいるとか」
「山名どのの播磨守どのも学んでいると聞きましたぞ」
「いかにも。管領どのの家人も学んでござるぞ」
「確か、畠山どののご一族も・・・・」
「いやいや近頃は、刀槍の術も盛んになってまいりましたなあ」
 座は一気に盛り上がってきた。
「そう言えば、長秀どのには、家伝の兵法がおありとか」
 これは義将の言である。さりげなく水を向けた感じであった。
「おお、聞いたことがござる。確か平らかな兵法と称していたはず」
「あ、いや・・・・。それよりも・・・・」
 家伝の兵法の話になって長秀は、話題を転じようとしたようだが、
「慈恩の剣は念流と呼ばれているとか」
「ほう。念流!」
「その慈恩と長秀どのはどちらが強いのであろう」
 話が妙な方に向いてしまった。
 長秀としては嫌な顔もできず、無表情を装ったが、内心は穏やかではない。
「おお。それでは、御所さまの御前にて仕合うてはいかがか」
「面白い。奉公衆の剣の腕を上げるため、彼奴めらにも見学を許されては」
 口元を緩めて義将が提案した。話の流れが自分の意図通りに進むのであろう。赤みの差した顔に、会心の笑みが浮かんでいる。
「奉公衆のことは良い。じゃが、その坊主は面白そうじゃな」
 いままで黙って聞いていた義満は、義将の提案を一蹴したが、慈恩と長秀の立ち合いは否定しなかった。
 どちらが強いか、などと銘々の意見を述べながら、酔いも加わって、座はさらに盛り上がっていく。
 長秀は、迷惑げに下を俯いて、杯を舐めていた。
 やがて、では、早々に日取りを、と急かすような声に、
「御所さま。勝負となれば双方の生死にも関わること。そのうえ、仮に長秀どのが負ければ、己が身や家ばかりでなく評定衆という役職にも傷がつきましょう」
 それまで、黙って聞いていた土岐頼康が、義満の方を向いてはじめて口を開いた。
 その一言で座が一瞬、水を打ったように静かになった。杯を持った手を胸のところで留めている者もいる。
(余計なことを)
 とでも言いたげに、頼康の方を向いた義将の目がきつくなっていた。
 そんな義将は眼中にないかのごとく、
「いや。破れ坊主に負けると言うことは、幕府の威信にも係わること」
 頼康が続けて言ったとき、長秀の心の内に、かっと燃えるものが込み上げてきた。

 確かにその通りである。だが、改まって直截に言われると、あたかも負けることが自明であるかのように思われて、長秀の胸に悔しさが湧き上がる。逃げているようにも思われて、不本意な思いも募る。それは中条流平法の継承者としての矜持だったろうか。いままで無責任に談笑していた重臣に向けていた長秀の不快の念は、すべて頼康に集中した。
(露骨に負けると言われるのは心外)
 きっと顔を上げた長秀だった。
 そんな長秀の表情の変化を読み取ったのか、
「では、木太刀で仕合うというのはいかがでありましょう。兵法とは近来盛んになってきたもの。犬追物(いぬおうもの)や流鏑馬(やぶさめ)のごとき競う技がいまだありませぬゆえ」
 山名弾正少弼が改めて提案した。
「おお、木太刀なれば生死には係わるまい」
 すかさず義将が応じた。
「しかしながら、木太刀とはいえ戦えばどちらかが傷つきましょう。重い障碍が残ることも・・・・」
 これは評定衆の一人が、案じ顔に口にした疑問であった。
「兵法とは太刀の動き、すなわち型と見切りにその神髄があるとか。中条流平法と念流双方の型をもって木太刀で立ち合うというのは」
「なるほど。双方が戦仕立てにより型を披露しあうわけじゃな」
 それならば仕合と同じ効果がある。打ち合う型の優劣が結果として勝負に現れる。山名弾正少弼の意のあるところを読んで、義将はにっこりとほくそ笑んだ。
「なるほど。名案」
 座は同調の声が相次いだ。
「木太刀を振るっての型と見切りの勝負じゃ。長秀どのと慈恩が二人して実際の闘争の形でな」
「仮に負けたとしても、型の勝負ということであれば、長秀どのの地位にも傷はつきますまい」
「衰えたりといえども南朝の不穏な動きも伝わってきておる。武家にとって武芸鍛錬は重要。武辺発揚の意を込めて、幕府をあげての行事といたしましょうぞ」
 もはや大勢は明らかで、止めようがなかった。
(かつて、一度は立ち合ってみたいと思っていたこと。願ってもない好機ではないか)
 とは思いつつも、素直には受け取れない長秀だった。
「長秀どの。存分におやりなされ」
 薄笑いを浮かべた義将の言には、明らかに悪意が感じられた。山名弾正少弼が追従するようににたりと笑った。
 長秀が頼康の方を見ると、露骨に不快の表情を浮かべている。そのとき、長秀は義将たちの意をはっきりと悟ったのだった。
(しまった!)
 後悔したがすでに遅かった。もはや断る理由が見つからなかった。頼康の言が好機だったのだが、己の短気でそれを逸してしまったことを悔やんだ。
「優劣の決めは、御所さまにお願い仕りまする」
「良い。許すぞ」
 最後に義満の一言で全てが決した。
 長秀は平伏しながら、低く呻いた。義将の策に嵌った己の迂闊さに腹が立った。
 将軍義満上覧の日取りは、十月十五日と決められた。この日はかつて足利尊氏が鎌倉の北条時行を討伐し、そのまま鎌倉で自立を宣した日でもある。いわば足利政権はこの日からはじまったといってよく、そのために初心を忘れず武家としてさらに尚武の気風を高めようとのことだが、後付の感は否めなかった。
 型の披露という名目だが、実戦形式で行うということは、体の良い仕合である。負けても命を失うことはないが、仮にも武家である。畢竟、幕府評定衆としての面目を失い、中条家の家名に傷が付くばかりでなく、役職にも留まっていられなくなるだろう。
 いや、それ以上に長秀が役職を退くと言うことは、評定衆が力を失うことを意味していた。すでに大半の評定衆が三善、中原氏等の奉行人出身である。その他は、吉良、石橋氏等足利一門だが力のない人物が任命されており、実質的に評定衆が尊氏、義詮時代の力を保持しているのは、実に長秀の存在抜きには語れないのである。それを承知の斯波義将の今回の計らいであった。
(勝てるか。だが、勝ちたい!)
 長秀は痛切に思った。昨年の初冬に七条の河原で目撃した慈恩の鮮やかな手並みが脳裏に蘇った。
 ずっと一言も発しなかった三郎藤若の、不安げな眼差しが、じっと長秀を見つめたままだった。


(6)秀長の墓に詣でた長秀は、義堂周信を訪ねて慈恩と戦う

 秋も深まろうという紅葉月(九月)、初旬――。
 その日、長秀は東山建仁寺にいた。建仁寺は中条家の菩提寺で、建仁二年明庵栄西の建立になる寺である。京都における臨済禅の拠点でもあった。後に定められた禅宗五山の順位においては、第三位に列せられている。
 長秀は秀長の月命日には、必ず手ずから香華を手向けることとしていたのである。
 偉大な叔父であった。その死は、長秀にぽっかりと穴の開いたような大きな空白をもたらした。
 だが同時に、大きな重しのようなものが取れたのも事実であった。その開放感にも似た気持ちに、長秀は内心驚いてもいたのだった。
 そんな叔父を失って、改めて剣の道を封印し、政務に励んだ長秀だったが、同時に自分は秀長のように長生きはできないとも感じていた。とすれば、残り少ないもう一つの人生を、中条流平法の完成に賭けてみたいという気持ちも生じてくるのだった。
 だが、来月には慈恩との仕合が控えていた。叔父の意に逆らい、家伝の兵法を守ったゆえの仕合である。そうなったことに対して、長秀としては内心忸怩たるものがあった。
 一人鬱々と考え込むのは、長秀の悪い癖である。とは言いながらも、持って生まれた性格は直しようがない、という思いもまた一方にはあった。
 秀長の墓参は、いつも若い気に入りの家臣を一人だけ召し連れて行くこととしている。建仁寺の寺格を考慮しての長秀の配慮であった。ぞろぞろと大勢の供の者を引き連れての墓参をはばかってのことである。だが、その日に限って、繁子がいっしょに行きたいとせがんだため、夫婦そろっての墓参となった。
 墓所は境内の一隅にあって、そこに行くには、苔むした石の階段を少し登るようなかたちになる。階段から墓所にかけては、樹齢百年を超すと思われる欅並木が、鬱蒼と周りに立ち並んでいた。まるで天を圧するかのように生い茂った樹木は、厳粛にして荘重であった。昼なおうす暗い墓所は森閑として、長秀と繁子、そして従者以外に人はいないかと思われた。
 ゴーン――。
 澄明な秋の空気に、まるで染み入るように、寺の鐘の音が響いた。
 亡き秀長の在りし頃の姿が思い出され、何となくもの悲しい気持ちになっていた。繁子も同じ思いであろうか、うなだれるように歩いている。
 やがて、三人は秀長の墓石のところにきた。
「あれから誰も来ておらぬか」
 従者に問いながら、長秀は秀長の真新しい墓碑の前に佇んだ。後ろには粛然として繁子が控えている。
「そのようでござりまする」
 先に立って歩いてきた従者は、応えながら、香華の支度に余念がない。慣れた手つきで墓石とその周りを手早く清掃し、枯れて朽ち落ちた供花を取り替えた。それは、先月の月命日に長秀が自ら手向けたものである。今日まで長秀以外に供花した人はいなかったようだ。
(いかに英傑であろうとも、死してしまえば冷たい墓石の中で眠るよりないのだ)
 長秀にとって偉大な叔父であっただけに、茶色く変色した花を見て、一抹の寂しさが胸をよぎった。
 香が焚かれ、長秀と繁子は恭しく墓前に手を合わせた。
(叔父上。来月、慈恩と対決いたしまする。叔父上の危惧の通り剣の道を捨てなかったゆえでござる。しかしながら、中条家のため、評定衆のため、何としてもそれがしは勝たねばなりませぬ。なにとぞ一臂の力をお貸しください)
 長秀は墓前に額づんで、ぴくりとも動かなかった。
 ややあって、まだじっと墓前にいる長秀に、
「先に行っておりまする」
 長くなると思ったのか、それとも気を利かせたつもりなのか、従者を促して繁子はひっそりと控所に帰っていった。

 長い香華を終えて、長秀が帰りの階段を歩いていると、突然、一陣の風が吹きすぎた。「はや木枯らしの季節か」
 呟いてふり仰ぐと、重なり合っている色づいた葉が、さわさわと揺れていた。何枚かの葉が風に散っている。
 視線を戻して歩き始めたとき、目前をひときわ濃い橙色をした落葉が一枚、ひらひらと舞い落ちた。はっ、として再びふり仰ぐと、周りの景色が自分から遠ざかるような錯覚に陥った。どんどん欅の木が離れていき、地面がぽっかりと暗い穴を開ける。真っ暗な世界に己一人が取り残されたような感覚であった。
「叔父上!」
 長秀は改めて秀長がこの世にいないことを実感した。
(一代にして中条家を幕府評定衆にまで押し上げた叔父上も亡くなってしまえばただの人。こうしてそれがしが香華を手向けるのみ。だが、叔父上はそれがしの胸の内で生きている。中条家繁栄の基を築いた功労も色褪せることはあるまい。それに引き替え、もしそれがしが死んだら、後には何が残るのであろうか)
 長秀の胸にそくそくとした寂しさがこみあげてきた。それは父の墓参でも感じたことのないものであった。
「それがしの生は、叔父上と比ぶべくもない」
 長秀はある虚しさに捉えられたのである。それはまるで無常の思いにも似た寂寥であり孤独感であった。
 悄然として墓所からの階段を降りると、繁子等の待つ控所へ足を向けた。いまは誰かと無性に話がしたかった。観阿弥が生きて在れば、と痛切に思わずにはいられなかった。
 ――わたくしは芸の道に生き、志半ばで倒れました。
 突如、観阿弥の声が聞こえたような気がした。
「それがしも剣の道にのみ生き、剣の道に倒れるのであれば本望」
 観阿弥は自らの芸道を披露していたときに急な病で亡くなったのである。
「だが、そなたには三郎どのがいる」
 観阿弥の芸道は子息三郎藤若が継いだ。いまのところ長秀に後継者はいない。とすれば、やはり中条流平法は自分が完成させなければならないのだ。すでに齢五十である。残された歳月を思うとき、自分の進むべき道は明らかなように思われた。そして、それこそが父亡き後、ずっと自分が心の底で望んできた道であるように思われた。
「それがしは、この世でたった一人中条流平法を受け継いだ身ではないか。そのために、叔父上の期待にも応えて、父上の遺言を封印しここまで生きてきたのだ。だが、その叔父上もすでにこの世の人ではない。これからは剣の道に生きよう。中条流平法はそれがし以外に完成させる者はいないのだ」
 幕府の礎は固まったと思う。機構も整備され、義将の意がどうあれ、これからは将軍義満のもとに益々発展していくことであろう。それで良いのだ。最早、自分のなすべきことが幕府のうちに、残っているようには思われなかった。自分がいなくても幕府の機構に支障は生じまい。あるいは、次代に引き継ぐべき時にきているのかも知れない。中条家の未来もまた、次代の者が引き継いでいくべきときなのだ。
「だが、それがしにはまだやらねばならぬことがある」
 長秀は、先日、藤若が訪ねてきた日のことを思い出して、控所へ向けていた足を本堂へ向けた。本堂には住職の義堂周信がいるはずである。

 その日、座敷で庭の前裁を眺めながら、慈恩との仕合のことをあれこれ考えていると、「殿!」
 家人が慌しく駆けつけてきた。
「藤若様がお越しでござりまする」
「なに!」
「お忍びでござりまする」
 長秀が驚いたときには、すでに従者を一人連れただけの藤若が庭に入って来ていた。
「慈恩と申す僧は、二月に一度、東山建仁寺を訪ねるようでござります」
「東山建仁寺を!」
「建仁寺にお住まいの義堂周信さまとは昵懇の間柄とか」
「真でござるか」
「義堂周信さまに直に伺いましたゆえに間違いはござりませぬ」
 長秀は幕府重臣として旧知の間柄だが、藤若もまた義堂周信に教えを受けていたのだろう。
「何かの折りにお訪ねになられては」
「かたじけない」
 わざわざそのために邸に寄ってくれた藤若に、長秀は心から礼を述べたのだった。
 義堂周信は夢窓疎石の弟子で、疎石亡き後は、当代一の禅僧と噂の高い人物であった。もとは鎌倉にいたのだが、義満の招きを受けて康暦元年に上洛し、そのまま建仁寺に留まっている。この頃、春屋妙葩とともに五山十刹の制を定めるのに奔走していたのである。今年五十九歳になる。禅の道に優れているばかりか、漢文学にも造詣の深い人物でもあった。
 長秀は白い顎髭を蓄えた柔和な住職の顔を思い描きながら、足を速めて本堂へ急いだ。
 日が西に沈み、少しずつ闇の深さが増していく。空には上弦の月が淡い光を投げているだけだった。深い紺色の闇の中で、風がなくなり、境内の鬱蒼と繁った巨木のそよぎがやんだ。
 いましも東山建仁寺の境内を、一人の僧侶が本堂に向かってすたすたと歩いていた。くたびれた道衣にすり切れた草鞋、柔和な笑みを湛えた顔に浅黒くがっしりとした体躯。手に錫杖を持ったその姿は、紛れもなく念大慈恩その人であった。
「お待ちあれ」
 突如、慈恩の前に立ちふさがった影があった。薄闇の中である。そのうえ、立ちふさがった人物は、顔を黒い布で隠していた。
 身の丈は五尺四、五寸くらいか。慈恩とさして変わらないが、身につけた紺地の直垂と袴にくたびれたところはなく、折り目がしっかりとしている。その上、すっくりと立ったその姿には、覆面姿とはいえ、いかがわしさは微塵も感じられなかった。やんごとなき身分を感じさせるその武士こそ中条長秀であった。
「拙僧に何ぞご用か?」
「立ち合いを所望いたしたい」
「お断りしよう」
 慈恩の応えはにべもない。
「そこを是非に」
 長秀は慈恩の拒否を想定していたようで、手にしていた木太刀でいきなり慈恩に打ってかかった。
「無体な!」
 さっ、と身をかわしながらも慈恩の動きには余裕があった。
 長秀は空を斬った木太刀を中段に構え直すと、次の太刀を打ち込むべく気息を整えた。「むっ! むむ・・・・」
 慈恩はごく普通に立っているように見えた。だが、無造作に錫杖を持ったその姿には、全く隙が窺えなかった。長秀は木太刀を構えたまま、次の打ち込みができないもどかしさを感じていた。
「中条流とお見受けした。中条流平法とは平らかな兵法。平らかに事なきを持って、立ち会わずに勝ちを制するが本旨とか。何故にこなたさまから無用な立ち合いを望まれる」
 慈恩は長秀の正体を見破っていたようである。
「・・・・!」
 だが、長秀はそれには答えない。いや、答えられなかった。
(その言葉。その言葉こそ父景長が常に口にしていた言葉ではないか)
 たったいま聞いた慈恩の言葉に、亡き父の面影が蘇った。そのとき、長秀ははっきりと覚るところがあった。

 二人を深い沈黙の闇が包んだ。その静寂の中で、全ての生き物が息を潜めたかのようであった。
 ふと、風が吹きすぎて、二人の間を落葉が数枚風に舞った。
 はっとして、我に返った長秀は、己の分別のない行動が急に恥ずかしくなった。
「ご存じでありましたか。ご無礼を仕りました」
「こなたさまとはこの先、公方さまの御前にて仕合うことになっているはず。まさか、事前に技量を検分しにきたとも思われぬが」
 慈恩の厳しい言に、木太刀を納めた長秀は覆面の布をとった。公方とは将軍のことである。
「それでござる。立ち合うは容易きこと。されど、それがしは幕府の評定衆、負ければ我が家に傷がつき、勝てば幕府の内にさらに恨みを買いましょう」
「うむ。進退が極まりましたか。それゆえに拙僧の腕を試されましたかな?」
 きつい言葉ながら、すでに慈恩の険しさは飛んでいた。むしろ、同情の気がこもっている。
「いや。仕合のときを待たず、この場で決着をつける覚悟でした。さりながら、先ほどの御坊の言にいささか悟ったことがござりまする」
 長秀がそこまで言ったとき、
「よろしかったら、その先は本堂で話しませぬかな」
 柔らかい言葉とともに顔を出したのは、義堂周信であった。
「ふふ。余人の気配を感じておったが、まさか御坊であられたとは。とすると、二人で拙僧を・・・・」
「はっはっは。相変わらず鋭いのう。じゃが、瓢箪から駒かもしれぬな。続きは茶など飲みながら話しましょうて」
 義堂周信は白い顎髭をしごきながら、二人を促して先に立って歩き出した。


(7)仕合の日、慈恩と仕合った長秀は・・・・

 神去月(十月)十五日。長秀と慈恩の対決の日が来た。
 四条の河原にはにわか作りの舞台が設えてあった。
 竹矢来を組んで一般の見物は制限していたが、剣の対決と聞いて、好奇心旺盛な京雀がどっと押し寄せている。むろんそこには従者を伴った繁子の姿もあった。
 小具足姿の兵士たちが、汗を拭きながら、忙しく整理にあたっている。 
 四条の河原を遠巻きに、侍所をはじめ畠山、一色、赤松等有力な守護の軍勢が、要所要所を固めていた。衰えたりとはいえ、南朝の動きを案じてのことと思われた。
 その日は、朝からよく晴れ渡っていた。雲一つない空は、限りなく高く、どこまでも突き抜けているように感じられた。 
 義満の座であろうか、中央の一段高いところの座が一つ空いていた。左右には管領斯波義将、義堂周信が控え、土岐頼康も老齢を押して近くに控えていた。その回りには、幕府の奉公衆や重臣等が控えている。奉公衆の中には土岐新次郎の姿もあった。重臣等の最後尾には土岐近江守の顔も見受けられる。
 武骨な剣の勝負だからであろうか、女房衆はみな遠慮したようである。中央の座の回りには、女性の姿はなかった。
「和尚が兵法に興味があったとは知らなんだぞ」
「ほっほっほ。禅の理は兵法にも通じましょうかの」
 義将は上機嫌で仕合が始まるのをいまや遅しと待っている風情であった。
「ふふ。これで評定衆も我が意のままじゃ」
 早くも長秀の失脚を思い描いて、ほくそ笑んでいる。その言葉を義堂周信が聞きとがめた。
「何か?」
「あ、いや。独り言でござる」
 とは言いながらも、沸き上がる笑みは消しようがなかった。
(ふん。成り行きによっては、いっそのこと中条家を滅ぼしてしまおうか)
 義将の笑いが冷酷なそれに変わった。
「遅くなって申し訳ござりませぬ」
 そのとき、詫びを言いながら一人の若者が近づいてきた。
 細面の顔に鼻梁高く、涼やかな目元、萌葱色の水干を着た若者を認めた義堂周信が、席を譲るべく立とうとするのを、
「あ、いや。それがしが・・・・」
 義堂周信を制して斯波義将が席を空けた。それを見て、義将の隣から座が順に一つずつずれていく。
 若者は当然のようにゆっくりとその後に座った。それは単純な動きではあったが、うっとりするような優雅な所作であった。それを見て義堂周信が声をかけた。
「太夫が遅れるとは聞いておりましたが、少し遅いので、もうこぬかと思うておりましたぞ」
「めったに見られぬ兵法勝負ゆえ。これでも急いで南禅寺の舞台を終わらせましてござります」
「はっはっは。それはまた、見物衆がいたい迷惑を被りましたなあ」
「恐れ入ります」
 義堂周信が、自分より遅れてきたにも係わらず、機嫌良く話をしている。太夫と呼ばれた若者も気楽に応じていた。斯波義将ほどの人物でも遠慮するこの若者こそ、先年身罷った父観阿弥に代わって観世一座を率いる三郎藤若その人であった。藤若の舞う幽玄な猿楽能は義満の大のお気に入りで、寵愛もことのほかに深い。それゆえ、管領といえども座を譲らざるを得なかったのであろう。後年、世阿弥と称し自らの芸道の集大成である<風姿花伝>を著したことは余りにも有名である。
「御所さま。お成りでござりまする」
 執奏の声が響いて、やがて、近習二人を従えた将軍義満が、おもむろに中央の席に座した。それを待っていたかのように法螺の音が響いて、
「中条長秀どの。念大慈恩どの。出ませい!」
 呼び出しの声が、澄んだ青空にひときわ大きく響いた。
「・・・・?」
 ややあって、義満の前に現れた二人を見て、見物の者たちが一様に首を傾げた。

 二人は慈恩を先頭に並んで入ってきたのである。
 慈恩は真新しい白の道衣、長秀は同じく白の小袖に袴姿であった。慈恩は二尺三寸の木太刀を持ち、長秀はそれよりやや長い二尺七寸の木太刀を手にしていた。
 義堂周信のみが、目を細めて微笑を湛えている。白く蓄えた顎髭をしきりに撫でさすっていた。
「御所さま。御免仕りまする」
 いったん、義満の前で畏まって挨拶をした二人は、すぐに立って左右に分かれた。二人は木太刀を中段に構えた。
「一番の太刀」
「おう」
 慈恩の高い声に長秀が応じて、するすると間合いを詰めてきた。
「いえい!」
 声高い気合いとともに、中段から上段へ上げた木太刀で長秀が打ち下ろすと、無言で慈恩ががっきと受け止める。
 さっと二人は離れた。
「続けて二番の太刀」
 再び慈恩が叫ぶ。
「おう」
 と、応じて長秀が同じように進んでくる。
 不思議な成り行きに、見物の者たちはみな一様に、事態を正確に把握できないでいた。 長秀と慈恩は、念流の型稽古を披露したのである。それは後にいうところの組太刀で、慈恩が仕太刀、長秀が打太刀ということになる。
 こうして十番の太刀までが叫ばれて、打ち合いが終わったとき、二人は互いに寄って、「御所さま。いかがでござりましょうや、念流の型に中条流の奥義は。存分にお楽しみあられましたか」
 義満の前に畏まって言上した。
「なにゆえに、そなたが念流を?」
 義満は、不信の面持ちで長秀に声をかける。それは居合わせた見物の衆の共通した思いであったろう。
「慈恩どのは、長秀どのの剣の師であると聞いておりまするが」
 すかさず、義堂周信が傍らから言葉を添えた。
「謀るでない!」
 斯波義将が真っ赤な顔をして叫んだ。続いて土岐近江守ほか幾人かの怒声が聞こえてきた。
「余には御坊の意が分からぬが?」
 それらの声を無視するように、義満が怪訝な面持ちで訊ねた。
 その疑問に、今度は長秀が真っ直ぐに答えた。
「過日、慈恩どのの言により、それがしは中条流平法の奥義を悟りましてござります。いわば、慈恩どのより授かったも同じ事。それゆえ、弟子入りを申し込み許されましてござりまする」
「ほう!」
「中条流平法とは平らかな兵法にござります。その奥義は平らかに事なきを持って本旨といたしまする」
 長秀は、晴れやかな表情で応えた。それは今日の青空よりもなお澄明なように思われた。
 慈恩が大きく肯いていた。顔を上げると義満と目が合った。
 隣では世阿弥が、合点がいったとでも言うように晴れやかな微笑を浮かべていた。それを見て義満の顔も綻んだ。覚るところがあったようだ。
「はっはっは。義将、此度はそなたの負けじゃな」
「御所さま・・・・」
 鷹揚に言う義満と目が合って、興奮していた義将が慌てて面を伏せた。
「念流の型と合わせて、中条流平法の奥義、十分に見させてもろうたぞ」
 義満は快活に笑って座を立った。奉公衆全員が続けていっせいに立ち上がる。
 長秀と慈恩は、はっと平伏した。
「これからの世にこそ、猿楽能も兵法も盛んになりましょうなあ」
「しかり。禅の道もまた」
 にっこり笑って呟く藤若に応じて、二人を見下ろす義堂周信に満面の笑みがあった。

 その日、仕合を終えて、四条の河原から慈恩は旅だった。別れ際、
「決意を固められましたな」
「はい。思えば中条流平法の完成は我が宿志でござりました。浮世のしがらみで果たせませんでしたが、これからは我が生を懸けて」
「成就をお祈り申す」
 慈恩は合掌して目を伏せた。
「御師匠も健やかに」
「さらば」
 合掌を解いて歩き出した慈恩が、長秀を振り返ることはなかった。
 その後ろ姿を見送りながら長秀は、人は一人なのだ、という当たり前のことを実感していた。我が道の完成に師も弟子も、そして父も叔父もないのだ、と思う。
 そのうえ、人はいつかは死ぬのである。己にあといくらの命が残されているか分からない。だがそれゆえにこそ、残り少ない己の生を中条流平法の完成に注ぎたいと決意したのだった。
 それは慈恩と出会うことによっていっそう強くなり、同時にはっきりとした形をなした。中条流平法完成のための生、それは誰の助けもない孤独なものとなるだろう。だが、それで良いではないか。もともと兵法とは孤独なもの。一人遠き道を行くものではないかとも思う。
 長秀に評定衆への未練はなかった。その夜、評定衆を辞し、惣領職を子息秀孝に譲ると、数人の家人を指図して荷をまとめにかかった。
 そのとき、ふいに声がした。
「わたくしもお供つかまつりまする」
 声のした方を見ると、にっこりと笑った繁子が畏まっていた。
「おお!」
 思えば長秀の傍らには、常に繁子の姿があったのではなかったか。
 二人は早々に、所領の三河国高橋荘へ引き籠もった。

   **************

 兵法の上覧試合は、通説では上泉伊勢守信綱の新陰流をもって嚆矢とする。それ以前の記録は知られていないが、長秀はまごうことなく慈恩の弟子となっており、念流十四哲の一人にも数えられている。
 中条流平法は長秀によって完成され、その流れは富田流に引き継がれ、戦国時代、北陸を中心に栄えることとなる。後にこの流れから一刀流の伊藤一刀斎や厳流佐々木小次郎が輩出したことは余りにも有名である。日本剣術史の一つの大きな峰を形成し、その流れは現在にも脈々と受け継がれている。
 土岐氏は嘉慶元年、惣領頼康が七十歳で天寿を全うすると、後を養子で甥の康行が継いだ。大膳大夫康行は、弟の満貞を京都に置いて義満に近侍させたが、この兄弟は不和であった。そのため、有力守護の力を抑えて将軍専制を図る義満に利用され、康行は討たれ、満貞は力を失い、土岐氏は美濃一国の守護に逼塞することとなる。
 有力守護である土岐氏、次いで山名氏の力を削いだ義満は、この年から七年後に南北朝を統一しますます盛んとなっていった。
 斯波義将は義満、その子義持を助けて幕政の安定に努め、応永十七年に六十年の生涯を閉じている。
 なお、蛇足ながら、長秀辞した後の評定衆は、やがて盛時の力を失い、名誉職的な役割へ変質していったといわれている。

(了)





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10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
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