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くる天
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TALES OF  NIGHTINGALE-ブロくる
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TALES OF  NIGHTINGALE
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〜〜真実が浮かび上がるのは、夜。見つめるのは、ナイチンゲールの瞳。〜〜
「TALES OF NIGHTINGALE」にお立ち寄りくださいましてありがとうございます。当ブログでは、真実を見つめ続けるナイチンゲールの視点を借りて時事政治経済、フィギュアスケートなど関心のありますことについて硬軟問わずネットの森の片隅で語っております。
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2012年3月11日 19時15分
プロメテウスの禁じられた火
 
再び3月11日が巡ってきた。

暦という形式上はともかく、歳時記における最大の”節”であるはずの正月ですらが、もはや心理的には霞んで「節目」となりえないほど昨年の3月11日の衝撃は激烈だった。
それまで浴していた日常と常識は、あの日を境に根底から覆り、あるいはまた、瓦解した。

大震災発災当初、津波と地震による被害がどれ程甚大であろうと、時間の経過とは必ずしも正比例しえない心理的な傷痕を別にすれば、相応の時間は有するにせよ、それらを立て直すことは可能だと私は思っていた。やらなければならないことが目の前にはっきりと提示されている局面においてこそ、日本という国は結束し、底力を発揮する--------------------------そう、津波と地震、それのみであったならば。

原発事故という災禍がそこに加わったことによって様相は一変してしまった。

核のもたらす災害は、通常の災害と様々な面で性質を異にするが、最大の違いはその事故後に描く収束曲線特性と生命の連鎖に遺伝子レベルに及んで脅威するという影響深度の深刻さだろう。

まず前者の収束曲線は、時間tを横x軸に取り、災害のもたらす影響を縦y軸に取ったグラフにおいて、核以外のどのような大災害・大事故であっても、換言すれば、上記グラフにおいて、曲線の傾きが発災当初どれほど垂直に近い傾きを持っていたとしても、x軸の正方向への移動、つまり時間の経過とともに曲線の傾きdy/dtはゼロになり、曲線はピークを打って下降に転じるのが通常であるが、核のもたらす災害はこれらとは全く異なる事後曲線を持つ。
時間の経過という環境要因による単純な収束が期待できず、したがってその曲線はピークを持たず、時にはタンジェントカーブに写像されるような無限大に正方向に伸び続ける曲線をも内在するのが核災害の持つ事後曲線ではないのか。
核によって引き起こされる災害は、人間による収束が極めて難しく、また、収束に向かうとしても他の災害と比較にならないほど長いタイムスパンを要するからである。
そうなってしまう理由は言うまでもなく、一つには基本的には人間が主体となってその収束に関与することが極めて難しいこと、もうひとつには放射性物質が自らその影響を減じてゆくには極めて長い時間を要することが挙げられる。
そばに近寄ることすらままならない物質を人間の手で短期収束させられるはずもなく、人間に出来る最善は、ただひたすら遠くに逃げ、瘧のような放射性物質がその放射性を放棄するのをひたすら待つよりほかにない。
他の災害とは異なり、一旦檻から出てしまった放射性物質に対して、人間は常に受身の対応を強いられるのであり、能動とはなりえない。つまり、人間の都合にそぐうように主体的にコントロールができないということである。

少し本論の主旨からはずれ蛇足になるが、四国新聞をはじめとする自称メディアその他は、大震災以降の自らの非理性的で無思考な報道をいささかも省みることなく都合よく棚に放り投げて、未だ事故調や米政府の言を借りて政府対応の非をあげつらうに余念がないが、確かに情報管理の部分に不手際があったことは否めないにせよ、核災害における事後対応は、どれほど人間が死に物狂いで適正処置に務めようと、基本的に「後手」であり、「失敗」であり、「場当たり」にならざるを得ない部分を持ち、その意味からいえば、最も糾弾せらるるべきは周到を全く欠いていた前政権自民や東電という事故破綻前の当事者の対応であり、またそれを見切れない自称メディアにあるべきだと私は思う。
彼ら自称メディア及びこれに付和雷同する人々というのは、とにかく人間が本気で根性を出しさえすれば一点の瑕疵もなくこのシビアアクシデントが収束できたはずであるという荒唐無稽を本気で信じている狂気に取り付かれている人々であって、核災害の本質を理解できているとはとても言えない。また、そう言ったロジックを欠く論調が、日本における議論をここまで腐らせたことをあわせ考えれば、これらの人々が世論を先導するという構図は事故そのものと同様、おぞましく薄ら寒いものであると言わざるを得ない。

誰がどう対応しようと一旦パンドラの箱から出てしまった放射性物質を元通りに収めることなど、生身の身体を持つ人間には不可能である。
かくして、核の事後曲線は、何らかの理由で平行や減衰に転じれば御の字、たいていの場合、音もなく色もなく匂いもないまま、正方向の傾きを転ずることなく、その曲線は無限大に拡散していくことになる。

次に核災害の持つもうひとつの脅威として既に周知ではあるが、その被害が遺伝子レベルに及ぶ点を挙げなければならない。
核には、”解毒剤”あるいは”特効薬”はなく、”生分解”もない。
核種によっては超長期に渡り消失せず、そして強制的に消失させる手段を人間は未だ持たない。半減期を短縮する方法も放射能の影響を免れる手段も人間は持っていないのだ。ただ、手をこまねいて見ていることしか人間にはできない。
除染は根本的な解決どころか、放射能を単にA地点からB地点へ移動させるだけのものであって、拡散に一役買ってしまう意味からは有害ですらある。

であれば、こういった特性を有する核災害を防ぐために人間がすべきこと・できることは何か。

更なる防護策を講じることか。人間に代わるロボットを開発することか。あるいは多重のバックアップや制御網を積み上げることか。

いずれも核の持つ根本的な問題点の解としては非現実的であり不完全であると私は考える。

高線量下でロボットに人間に代わる働きを期待することは今の科学水準ではとても覚束ない。
そして、原発というシステムが一旦アウトすれば誰も手がつけられず、そしてシステムアウトの可能性は決してゼロにはならないからである。

人間に出来る最善の選択はすなわち、核には手を出さないことである。

考えてみれば、他の動植物と同じく肉体という制約を持つ人間が、半分しか扱い方を知らない、こんな神の火ともいうべき核を弄ぶこと自体が狂気の沙汰であった。

これだけ放射能が撒き散らされ、福島第一がまだ喉元にあってなお、再稼動をためらう姿勢を脱原発に阿るポピュリズムと言って憚らない人々が存在するが、脱原発が大衆迎合というなら、原発肯定は大企業や電力会社といった、それによって利益享受する利権迎合であり、効率迎合、拝金迎合に他ならない。多数が必ずしも真とは言えないが、原発推進派が計らずも”大衆迎合”という言葉を用いてしまうように、脱原発は個人単位で見た時に趨勢であるにもかかわらず、これら少数の人々はあたかもそれが絶対命題であるかの如く、原発稼動を謳う。
そこまで効率に侵された思考をまず自覚し、正していくところから我々は始めなければならないのであるが、ともすれば安きに流れ快楽や効率に傾きがちな人間がそのプロセスを正しく踏襲するには禁煙や節食の比ではない想像を絶する忍耐と自律と思考とを要するだろう。
事は大量生産・大量消費、あるいはグローバリズムを至上とする資本主義経済活動の在り方にまで踏み込まなければならないだろうし、そこを回避しての議論はこの国で蔓延している単なる皮相な議論のための議論、きれい事に過ぎない。グローバリズムで勝ち残るのはごく一握りの大国・強国、のそのまた中のごくわずかの利権集団だけである。

あるいはまた。

昨夏から続く供給余力ギリギリの電力供給を自称メディアは口を揃えて「異常事態」と騒ぎ立てるが、異常だったのは、望めば電気他のエネルギーを好きなだけ使え、それがどのような構造で支えられているかすら意識しないですんだこれまでなのであり、科学技術が、人類の生物学的限界及び地球の浄化能力を凌駕しつつある今、人間の決断は、悉くにおいてそれらを考えあわせたものでなくてはならない。

また、あるいは。

よく推進派が振るう言説に、「原発なくして日本の高度経済成長期はなかった」というのがある。
青壮年期だけを抽出して人生が語れないように、高度経済成長期だけを取り出して、原発という核エネルギーシステムを語ることは決してできない。
多くの原発が経年劣化し耐用年数を超えつつある現在、人類はそのシステムがもたらす正負の置換という過渡転換点にあるとも言えるのであって、そういう意味では福島第一の破綻は一種の”必然””端緒”であったとも言えるのだ。
数千年・数万年に渡り、人間が原発の”残滓”を適正に保全管理できるとは私には到底思えないし、原発推進派がこれらを保障する明確な論理を持っているようにも見えない。
であるなら、たかだか数十年の栄華のツケを数万年にわたって支払い続けなければならないのだとしたら、これほど愚かでおぞましく、傲慢でまた、効率至上人間が毛嫌いする”非効率”なことがあるだろうか。

それでは何故これだけの矛盾にもかかわらず、原発というシステムが存在するのか。

原発は、欲求という無限の動機に突き動かされ、それに応えるべく構築された自己都合に満ちた人間の文脈のなかでのみ許容可能な存在なのであり、そしてそれは人間の文脈のなかでは成立しえても、太陽系第三惑星地球における自然の摂理という文脈では決して許されない存在だった。
そして、瞬間的に人間が自然を征したかに見えても、結局のところ、その力関係の不等号の向きが永続的に反転することは決してないにもかかわらず、人間の考える文脈に自然が沿うべき、沿わせることが可能だと考えた倒錯、あるいは人間の文脈がそのまま自然の文脈足りえると考えた傲慢ゆえにこのシステムは存在しえたのだと私は考える。

原発は大気圏という手厚い庇護のもとでかろうじて成立しえる極めて脆弱な生態系を有するこの地上に決して持ち込んではならないものだった。

地中海屈指の栄華を誇った古代カルタゴは塩を撒かれて滅びたと伝承されるが、まして放射能で汚れた土地にどれほど豊かな財を持つ何人であろうと住むことはできない。のみならず、その汚染は、生物の根幹とも言うべき遺伝子に直接作用することによって命の連鎖をも脅かし断ち切るものであるのだ。

あの震災以降、日本にあっては絆という言葉がさかんに叫ばれているが、分断されていたのは何も人と人の結びつきに止まらない。主には自然を人間の欲求完遂を阻む対立的なものと捉えこれと対峙する立場を取る西欧的思想近代文明によって人間と自然との絆もまた分断されてしまった。
自然を畏れ敬いそれを甘受しながら生きることは決して前近代的な未開の論理などではなく、持続的で分相応の繁栄を享受し続けるに最も理に叶ったものであり、整合するものだということを世界に向けて提示し、断ち切られてしまったその絆を結び直すことこそが、どんな効率化問題よりも優先してなされなければならない命題であって、それを確信を持って掲げることができるのは、かつてアニミズムとともにあり、今自然と核の脅威に悉く晒されたばかりの我々日本人だけではないのか。

自然を畏れ敬い、不必要に抗わないという視点から、どんなリスクを侵してでも際限なくエネルギーを取り出すことを是とする原発という発想は決して生まれない。
人間が如何に知恵を得ようと、地球上にある以上は、その一生物に過ぎないという本分を逸脱すべきではなく、自然と対立せず、ともに生きることは決して「敗北」ではないということを今こそ世界に向けて掲げるべきなのだ。

福島第一という重い十字架を背負い、塩の代わりに放射能に侵された日本に未来があるかどうかは分からない。しかし、もし日本の命脈がまだ尽きていないならば、あるいは例えどこかでその命脈が尽きようと、その最後までそれを叫び続ける使命が日本にはあると思う。

忘却も風化も、「危ないことは分かっているけど」という弁解も、目先の利益に目が眩み短絡的に欲望の赴くままエネルギーや資源を貪ることももはや許されない。
特にこれまで原発を推進するなかで駆使してきた”恣意的”な忘却や風化は絶対にあってはならない論外の暴挙であって、看過侵食されない不断の努力と覚悟が要求される。

宮崎駿氏の構想する世界観のその細部について、個人的には色々と異に思う部分もあるにはあるが、『ナウシカ』で氏が透徹してみせた”未来図”は、震災後の今の日本に不気味なほど符号している。

前世紀の栄華の果てに環境汚染という負の遺産だけがことごとく残り、それにまみれたような世紀末のなれの果てのような世界に住むナウシカが望んだものは、美しい洋服でも贅沢な食べ物でもなく、清浄な空気と水、ただそれだけだった。

そのナウシカの渇望はどこまでも重くのしかかり、のみならず、ナウシカのその思いと、今我々が希求するものとの近さに慄然とせずにはいられない。

2011年を価値観における真の転換点とし、目の前の効率を犠牲にしてでも生物や地球の限界と矛盾なく両立しえる新しい普遍的価値を構築できなければ、早晩人間の飽くなき欲望と猜疑によって本来あるべき自然の恩恵すらが食い潰されてしまった、悪夢ような『ナウシカ』の世界を必ず招聘してしまうだろう。

我々はまだ、間に合うだろうか。
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[カテゴリ:”民主主義はタダでは手に入らない!”政治・経済・デタラメディア] [コメント (1)]



2012年1月22日 19時15分
来た!見てない!忘れてた!の全日本女子雑感
 
新年の挨拶もそこそこに立て続けにフィギュアネタでございます。忘れた頃に新年のご挨拶させていただくかも分かりませんが呆れないでね…全米待ったなしでもう凍りそう…。

さて全日本女子。
掲示板をご覧の皆様はご承知のとおり現在フィギュア視聴拒否症候群を発症しておりまして試合雑感は症候群解除まで控えようと思っていたのですが、今回女子雑感がやたらと長くなってしまったためスリム化の意味も含めてこちらに掲載させていただきました。
視聴が可能になったらまたあらためて肉付けしたいと思っていますので、その際はよろしくお願いいたしますです。

・四国新聞…自称メディアの四国新聞様、今回の大会直前記事はなんと!(笑)浅田インタのみ。そーゆーのは社会面でやればどうかしら?それとも「相撲は桃色だ!」と言って憚らない貴紙だけにスポーツ面は実質「本日の興行面」(笑)なのかしら?確かにスポーツに限らず貴紙の記事展開は最初に自分に都合のいい結論ありき。であることは否定しませんわ(笑)。
大会後も浅田インタ掲載で、この新聞だけ読めば、浅田独演会かと思えるほど、「浅田とゆかいな仲間たち」状態…。
ところで浅田SP衣装について「アラビアンナイトのお姫様云々〜!」(笑)…これまで一切この衣装に言及してなかったにもかかわらずここに来てのこの記載はもしかしてブログ読んだか?(笑)

・全日本…四国新聞を初めとして自称メディアは、今回、あまりにも試合外のことにフォーカスしすぎでした。厳格に実力勝負の場であるべきコンペにおいて、もしも浅田以外が勝つなんて進行上あり得ない的なムードが存在し、選手たち、とりわけ三枠争いに絡む選手たちへ有形無形の”無言の圧力”が存在し、それらが実力勝負よりも優先されたというようなことが仮にあったとするならばならば、それはもはや厳密な意味ではコンペではなく”興行”であり、それは他の選手はもとより浅田に取っても、そして何より日本のフィギュアに取って不幸だったといわねばならない。
フィギュアに限らないが、日本には本当に好きあらば感動最優先の”ドラマ”にしたがる手合いが多すぎ。

・村上…SP衣装、爪まで衣装にカラーを合わせてとてもおされ!是非耳に大きめアメジストのイヤリングを!ライトに当たって映えると思う。
しかし今回の村上には失望を禁じえなかった…。直前コメでも書いたように今回、勝利に最も近かったのは村上だった。自分の演技に集中さえすれば勝負はどうなったか分からない。しかしながら、だ。
戦う前から「二位でいいよ〜」なんて言ってる選手に勝利の女神は絶対に微笑まない。
今回は代表を逃したほうが本人のためにも良かった。

・鈴木…SPトゥループ3−3に戻したのは正解。苦しいだろうけどこのまま3−3を入れ続けるべし。調子が底だったという一時期から良く戻したと思うけど、まぁ、鈴木も問題はテクニカルよりメンタルだわな。人がよすぎて今のままじゃどうにもならない。目の色が全然変わってないやないか。


・浅田…さて何から書くか。
SP衣装については、ま、こんな時ですので、今回は突っ込みは見合わせますわ。ワールドでは書くかもしれませんが。
全日本優勝の理由の第一は他の選手がふがいなさ過ぎたことに尽きますが、それにしても気力だけでよく頑張ったと思います。
でも優勝した今、敢えて書きますが、欠場させるべきでした。
浅田本人が言うようにフィギュアがご母堂へのレクイエムになる部分はあるだろうし、フィギュアに打ち込むことが気持ちを支えているという部分もあるにしても、今後それが逆に転がる可能性は依然として残っている。
今回の浅田のケースは本当に直前にご不幸があったロシェットの場合と同一に語ることはできない。
ロシェットの場合は、とりあえず三日踏ん張れば(それでも大変なものがあったことは言うまでもないが)後は解放される状況にあったのであり、浅田の後二年という長丁場とは全く状況が異なる。この全日本が最終ターゲットではないのだから。
禁じ手・特例措置で出場なんかよりは遥かにマシだったのは言うまでもありませんが、欠場するか、あるいは三枠に入りさえしなければ、今季はしばらくゆっくり休むことができたはずだが、代表になってしまったことで、少なくともワールド終了まではゆっくり休むことはできなくなった。
それが、気分転換という、いいほうに向けばいいですが、逆に転がる可能性は依然として残されている。来季以降のことを考えれば休ませたほうが良かったと思います。ここで無理をして、万一、適応障害等にでもなるようなことになれば、フィギュアどころではなくなるでしょうに。
自己洞察がほとんどできない浅田だけに、尚更練習や試合よりも休養のほうが優先されるべきだったと思います。
ところでこれまで書いていたように(コメ番号探してたけどあまりの膨大なコメ数に挫折…)浅田のソチのタイトルはないとみていましたが、ここに来てソチにおける浅田のポジションが私的には俄かに混沌としてきたな…。
タイトルも代表落ちもどちらの可能性もある。

何故か。

それは技術がどうの実力がどうのとは全く別の種類の話になる。
バンクーバー以降、浅田は精力的にスケート全体の見直しに取り組んできたが、依然ソチのタイトルを目指すには不安要素が尽きない。
しかし同時に、どれほど勝利を計ろうと、勝負事には、理屈抜き、セオリー外の部分が存在することもまた事実だ。
バンクーバーのキムが試合前に度々口にしていた様に、どんなに抜きん出た実力があろうと運がなければタイトルは取れない。
これまで女子スレあるいは冷静スレで述べているように潜在意識レベルで、現時点でタイトルに向けて最も強い意思を持っているのは依然浅田だと思う。そしてその思いには迷いももない。
5022『迷宮のシンデレラ』で述べたように、彼女の勝利に向ける執念、そして自分こそが勝利に最も相応しいという自負は、村上や鈴木、あるいは安藤と比べても比較にならないほど強い。
バンクーバーの戦いはそれだけでは勝てないことを証明するものだったが、 そのメンタルという不確定であいまいな要素は、勝負の本筋である実力云々とは全く別の話でありながら、無関係と一笑に伏せるどころか、最後に勝負を分ける分岐にもなり得るほどの影響力をやはり持つ。
彼女は「自分は二番目でも仕方がない選手だ」とは決して思わない。

そして昨年末の悲報。
話が多少オカルトめきますが、多分、浅田のご母堂は、最初の五輪は浅田の横で、そして次なる五輪は上から、という約束でこの世に降りてこられたのだろう。そんな気がする。
今後、おそらく浅田は”霊界からの応援”をも意識しながらフィギュアに取り組むことになるだろう。ますますフィギュアに没入し、あるいは”鬼”と呼べるものにすらなるかもしれない。
科学技術の発達した現代、当然ながら私は、何でもかんでも霊的なものに帰結させるような思考は持ちませんが、だからと言ってそういったものを全否定することもしない。科学や理屈では説明のつかないことがこの世にはまだいくらでもある。
霊界云々というのが完全にフィクションであったとしても、前述したように浅田本人もフィギュアが唯一母親の愛情に報いる術とばかりにますます一心不乱にフィギュアにのめりこむことは想像に難くない。
そして、その浅田の気迫に言わば”気圧されて”他の選手が無意識にではあっても”勝ちを譲ってしまう”可能性はある。
あるいはまた。
村上の何でもないところでの転倒のように(実際にどんな転び方をしたのか見てないので断定できない部分は残っていますがまぁ一般的な報道を信じれば、ということですね。)、実力以外の要素(言うまでもありませんが、そこに”八百長”その他は含みませんので(笑))で勝ちが転がり込むことがないとは言えない。
浅田の仕上がりがどうであろうと、フィギュアがあくまで相対評価である以上、今回の全日本同様、他の有力選手の軒並み自滅でもすれば浅田がタイトルを得る可能性はないとはいえない、ということだ。

浅田がこのままソチのタイトルをもぎ取るには依然課題は多い。しかし、ここに来て勝利と敗北、どちらの目も残った感じだ。どっちに転がるかはまだ見えない。おそらくそれは勝負が終わるその時まで分からない類のものかもしれない。

あ、他の選手が怖がるといけないので(笑)念のため付記しておきますが、浅田以外の選手もちゃんと守護霊様がついていると思うので無闇に心配しないように(笑)。

霊感で思い出した。前々回の男子サッカーワールドカップ、決勝リーグ始まる前に「イタリアが優勝する」とか言ってたら本当にイタリアが優勝して、一時霊能者扱い(笑)されたことがありましたが、まぁ、あれも”霊感”というより”洞察と分析”なんですけどね、私に言わせれば(笑)。
一次リーグひととおり見てイタリアが最も勝利に近いと思ったからそう言っただけ。
宝くじどころかお年玉年賀ハガキも切手シート以外あたったことないし(笑)。ま、宝くじはあまり買ったこと自体がありませんが…あたるのかしらね、あれ。

霊感話ついでにロンドン五輪、なでしこの優勝は「極めて!」難しいでしょう。
佐々木監督の采配には依然期待できるものがありますが、如何せん周囲が騒ぎすぎ。第二の女子バレーになる可能性大。
沢は非常に醒めていて現実を見失わない選手ですが、これだけ引っ張り回されると色々な意味で集中が難しいところはやはりあるでしょうね。
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2012年1月7日 12時50分
その青薔薇を手折りし者。
 
明けましておめでとうございます!
という新年の挨拶もそこそこに”これ書かんで何書く!?”青薔薇ネタでございます!


それは水曜夜のことだった。一本のニュースが未だ寝正月コタツ虫気分の私の眠気を風速300メートルで吹き飛ばした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120104-00000013-jijp-spo.view-000

あまりの驚天動地!に思わずパソの前でコサックダンス。既におねむ態勢に突入していたあわてどこやのワンコ一号(仮名(笑))にワタワタワタ!と陸上犬掻きさせてしまった私です。

ひとしきりコサックした後、ハレーションのおさまった頭で思ったこと。


常々、”もし私が男だったら、『白鳥』見たその夜に荷物まとめて渡米、開発されたばかりの青薔薇の花束持って日参。一年八ヶ月かけて口説き落とすのに…世の男性陣は一体どこに目をつけているのやら…。”とか思ってた私でしたが、ちゃんと目端の効くのがいたのね〜感動!そうこなくちゃね!


っていうのが半分。


あまりにも感受性が強すぎると自閉したり精神を病んだり、社会適応に支障を来たす場合も少なくないので、あれほど繊細な感受性を持つブルーローズが、その一方で難なく社会適応しているというその事実が未だに信じられないところがある私的には、そんなブルーローズが安心できる居場所を見つけられたことは本当に喜ばしい!


という箱入り娘(?)を嫁に出す親父な気持ちが半分。

お相手はロシア人だそうで、現ロシア以上にロシア的なブルーローズなだけにまさに運命的なものを感じてしまった…(後でツーショット見たらどー見てもブルーローズがロシア、お相手がアメリカにしか見えませんでしたが…。)まぁ、米国生活が長いのであれば、中身は限りなくアメリカナイズされる場合もあろうしコスモポリタンな現代、○○人というくくりはほとんど意味がないような気もしますが…。

保守派の皆様には喉の骨でしょうけど、同性婚を堂々と宣言できるブルーローズの潔さ(よっ!漢だね!)もさることながら、それをひとつの有り様として受け入れられるアメリカに懐の深さを見る気がする。
いかに近代的な文明生活にあやかろうと、ごく一部の例外を除き、自由個性と言いつつも、女子高生の象足ソックスファッションから単一指向性の政治経済に至るまで、どうやれば異端に追いやられない多数派に収まれるかが最大の関心事であり、異端を排斥することによって結束を確認するような、前近代的ムラ的排他心理に未だ大きく縛られているこの国とはやはり未だ隔世の感がある。

ブルーローズがアメリカに生を受けたことは幸いだった。

願わくば。

選ばれし君がその花の価値を最も知る人物であらんことを祈りつつ。

二人のポートレートに青薔薇を一輪。



…まぁでも、その前に一回くらいは、その果報者の足をピンヒールで思いっきり踏んづけてやりたいわね、半分親父としては(笑)。
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2011年12月25日 16時39分
戦場のメリークリスマス
 
今年もクリスマスの季節がやって来ました。

近年日本においてクリスマスとは、とにかくこれでもか!とばかりにひたすら華やかに楽しくへの追求をどこまでもエスカレートさせ、曰く、電飾の数がどうのカリスマパティシエの趣向がどうの。
そして、そのクリスマスにあって人々も、物欲をはじめとするありとあらゆる己が欲望をとことん充足し倒す日と成り果てている感じがなきにしもあらずでしたが、その指向性は、確かにそのような欲望だけでは解釈できない人同士の繋がりを意識する部分が加わったにせよ、東北大震災という未曾有の災害を経験した本年にあっても、いやむしろだからこそ、という側面もおそらくあろう、その暗い影を払拭せんとすべくか、明るく楽しいクリスマスを希求する傾向はなお一層強まったような気がしました。
クリスマスが近づくにつれ、スーパーのレジの皆様は申し合わせたように赤い帽子を被り、予約をせかすクリスマスケーキの広告と定番のクリスマスソングは街に溢れていた。

しかし、他方、節電下とはいえ、それなりに華やぐそれら街の風景とは別に、その大震災によって誘発された原発事故の対応は、政府の収束宣言とは裏腹に、未だ現在進行形の途上であり、疲れも情けも知らない放射能相手に盆も正月もなく水をかけ続けなければならない途方もなく荒涼とした現実が福島第一には粛然として存在する。

そしてその現実は、周りの華やぐクリスマスの風景とは完全に切り離され、連関を見出しにくい対極のものであっても、日ごろの飽食に飽き足らずなお食べきれないほどのごちそうを並べてよしとするような、このクリスマスのあり方に象徴される、何をも省みずありとあらゆる欲望を実現させることだけに邁進してきた現代と表裏であり、そこに生きる我々へ突きつけるものは重い。

目には見えなくとも、今年のクリスマスは、「戦場のクリスマス」ではないのか。

であるならば、そこにあって一体何を思えばいいのか。

答えはすぐには出てこない。
せめて福島第一でこの華やかな文明生活の尻拭いを担わされ戦っておられる皆様に、『聖母たちのララバイ』(岩崎宏美)を贈りたい。
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2011年12月4日 16時46分
2011年 浅田SPにおける「曲解」のヒミツ
 
スケカテからお越しの皆様、やうこそ。

早速ですが、種明かし。

浅田SP衣装ですが…私的に一言で言えば、デタラメの上塗り…浅田に『シェヘラザード』という選択がまずデタラメ。なのに、かてて加えてこの衣装…いいとこ『踊り子』か『マハラジャ』、ヘタすりゃ、『シンドバッド』か『アラジンと魔法のランプ』…。
…あのな〜、

『シェヘラー』は、千夜一夜のその物語の主人公の話、じゃなくて、それを物語るお姫様のお話だっつーの!

そいとも、「『シェヘラー』はちょと解釈難しそうだったので、千夜一夜の主人公になりきってみましたーっ!」(笑)というオチなのか?(あの『仮面舞踏会』SPを上梓した浅田陣営だけに「んなわけねーか、あははははは」と冗談ですませられんぞ、そりは。)ただでさえ、表現が学芸会レベルなのに、衣装でそれを後押ししてどーする。
んで、佐藤氏、これらのプロを受けて曰く、

佐藤コーチ「スケーティングや表現力が着実に良くなってる」

スケーティングはともかく表現力…ちょっと眩暈…。
あましこーゆー物言いはしたくありませんが、ここは言わせていただきますわ。

「正気か、オッサン!」

あと、この目の覚めるような青色もちと疑問。ただでさえ、殺しの口実探しに飢えてるような王をなだめすかさなくてはならないのに、かっちり覚醒させてどーするよ!?な色(このシェヘラザードの衣装の色に関してはキムの『シェヘラー』の鮮やかすぎる赤(だったよね?確か?)衣装も寝物語るお姫様的にはちょっと不満だったんですけど、キムの場合は、今にして思えば、ちゃんと表現が残忍な王を懐柔するべくのお姫様になっていたのは、さすがと言えばさすが。)。

そいと、浅田静的プロのように表現ない場合にあまり衣装だけを作り込み過ぎると、”色物”あるいは”キワ物”になってしまうので、そこも注意が必要。
私なら、伊藤に借りたか譲ってもらったというあの衣装、にするなぁ…。モスクのタイルのようなちょっとくすんだマルチカラーがアラビア風味。
そして譲れないのが!額の真ん中のマルポチ!(確か魔よけの意味があったと思うんですけど正式名称なんていうのか分かりまシェヘラザード…)あれはもしかしたらヒンズーなのかな?でも私的にはあのマルポチあるのとないのとではアラビア度、月とスッポン。なので…。ま、あんな衣装着せてる陣営に望むべくもない芸当かも知れませんが。


以上、浅田『シェヘラザード』には、2009年浅田SP『仮面舞踏会』(※)にまさるとも劣らない曲解が存在していた!というお話でしたーーー、チャンチャン。



※スケカテ経由でない皆様へ:2009年浅田SP『仮面舞踏会』の”曲解”については以前掲示板に投稿したことがありまして、いつかこちらにも加筆・転載したいと思っておりますのでその旨どぞよろしくお願いします。
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2011年11月27日 11時58分
オリンパス問題の示す日本の闇
 
証券取引委員会は、当初、英国人社長の申し出に全く対応するそぶりをせず、見て見ぬ振りを決め込もうとした節すらあったと思われても仕方がない。
大方、FBI等が動き出したのを受けて慌てて腰を上げたというのが真相ではなかろうか。
もしFBI等海外当局が動かなかった場合、あるいは元社長が外国人でそういったつてを辿れなかった場合、今回と同様の対応が取られたかどうか、甚だ疑問だ。
告発したのが日本人であったなら放置され泣き寝入りして終わりだった可能性すら否定はできない。
オリンパスと同様、あるいはそれ以上に糾弾されなければならないのが、これら監視機関であり、統括組織である。
第一、監査も含め、当該機関がまともに機能していれば、元社長の告発までこの巨額の損失隠蔽や経理操作が放置されようはずがない。
海外当局は、オリンパス本体のみならず、日本の捜査当局側の有り方についても徹底的に調査し、場合によってはその遅滞あるいは”馴れ合い”を告発いただきたい。

真っ当なものを言うものが逆に指弾され、放逐される…こんな、まさに日本の病める部分の象徴ともいうべき今回の事案がうやむやにされるべきではない。
臭い物に蓋をし、本来あるべき行動を取った者が逆に放逐され泣き寝入りするというプロセスは、最早明確に意識されないほど至る所に蔓延る日本的悪しき慣習であり、これを行うものがこの機会に放逐され、この慣習が是正されなくてはならないことは言うまでもない。
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2011年11月10日 19時59分
TPPの問題点
 
というわけで、TPP秘策です(ってどういうわけだ?(笑))。

かなり突っ込んだ内容になりましたので記事を有料とさせていただきましたが、当然ながら私自身はTPPにおける政府内関係者ではありませんし、TPPの全てを詳細に網羅しているというわけでもありません。ですが、TPPは農業をはじめとしてこの国の行く末の根幹に関わる可能性すらある重要案件であるにも関わらず、必ずしも現場の状況をきちんと把握した上での協議であるとは思えない部分が多々あり、むしろ逆に現場の事情と乖離して協議が進んでいるという懸念を払拭できず、また、我が国の場合、自称専門家の方々だけでは予定調和の視野狭窄した議論になりがちで場合によっては本末が転倒することすらあることを福島第一の破綻で痛感しましたので、不肖私めも現在知りうる情報に基づき、一言申し述べる次第です。
有料部分ご購読にあたりましては、以上ご理解いただけます方のご購入をお願いいたします。

記事をご購入いただきました場合は、うちの10%6円を大震災義援金に寄付させていただきます(寄付状況につきましては随時、本ブログでご報告させていただきます。)。
(※注1 今回取り上げておりますのは農業分野のみになります。注2 一部掲示板投稿分と重複があります。
 項目:日本の農業の目指すべき方向性/誰のためのTPPか/日本の農業においてスケールメリットの追求は妥当か/補助金政策の限界/食料自給率/TPPの問題点? 包括性/TPPの問題点? グローバリズムは万能か/TPPの問題点? 交易の”自由度”は上がるのか/TPPの問題点? 何故「今」なのか)

これとは別に議論の問題点も取り上げてみたいと思っていますが…時間が取れませんでしたのでそちらはまた時間があればということで。

結論から言えば私はTPP参加には反対の立場である。以下農業分野に絞って話をすすめてみたい。

■日本の農業の目指すべき方向性■
農業分野についてTPPを討議するにあたってまず考えなければならないのは、日本の目指すべき農業はどうあるべきかということだ。私の考える日本の農業のあるべき姿とは、要約すれば以下の二点になる。すなわち、

[続きを読む] 都度課金記事
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2011年10月16日 18時22分
2011年体操世界選手権観戦記
 
掲示板をご覧の方はご存知のように急性フィギュア観戦いやいや症候群(笑)に罹患しましてその反動で他競技へののめり込みが激しいスレ主CANALです、こんばんは〜。

世界体操選手権、見ました!いやぁ〜面白かった!ちょうど掲示板で話題にしていたところでしたので、まるで打てば響くの世選で実にタイムリーでした。
個人種目別はまだ見てませんが、団体・個人総合で気になったところをちょこちょこ拾ってみました!

・ボイ…個人総合跳馬はなんかスポッ!って音がしそうなはまり具合で思わず笑ってしまいましたが…。今回のエレガンス賞は内村だったそうですが、私的にフィギュアのPCS的な美しさといえばやはり内村より彼になるなぁ…。床の開脚旋回や平行棒や鉄棒の所作、思わず見とれてしまうような華があった。
内村の美しさというのは物理学的に非常に理に叶っている、という意味のいわば機能的な美しさなのね。

・山室…思い切りの良さが最大の持ち味だね。この勢いをなくすことなく内村と刺激しあってロンドンまで突き進んでほしい。

・リーバ…平行棒でみせた肩関節の柔らかさ、長い手が生み出す鉄棒の回転の大きさはさすがだと思いました。本当に肩がやーらかい。くにくに。って感じで。捻り技もこのスムーズな回転あらばこそでしょう。個人的には内村の次に注目していたので個人総合の棄権は本当に残念!彼的見せ場の鉄棒だったので悔しさもひとしおだったと思う。でも今度は床や跳馬もぎっちり強化してロンドンにお目見えしてほしいものです。選手じゃないけど、アメリカの、最後まで攻める姿勢はさすが。士気落ちてなかったね。

・オロスコ…アモディオ同様、筋肉の質はやはり黒人選手ならではですが、それだけじゃ体操はできないのね…。ところどころ雑な試技があってまだまだ発展途上かな…。

・名前確認できませんでしたが、団体に出ていたロシアの選手…床、足にバネでも仕込んでるんじゃないかと思うくらい、高い。技が大きく見えて見ごたえありました。

・鄒凱…床のスペシャリストだけあってこの選手の床はやはり圧巻。通常大技を繰り出した時にありがちな「ダーン!」「バーン!」とかいういかにも「大技やりました!」的な床を踏み抜きそうな(笑)大げささがこの選手の着地にはあまりない。
着地のシーンだけ見たら、おそらく大技の着地とは思えないんじゃないだろかと思うようなそれ…見事。衝撃の逃がし方が実にうまい。
今大会出場選手、ドイツの吊り輪のスペサリスト(名前失念)以外はほとんど忘れてましたが、この281だけは演技に入った瞬間、北京の記憶が蘇りました。
身体が成長した分、着地も硬く重くなったかと思いきや、あれから三年、北京で魅せた、大技をしたとは思えないほどの「したっ!」っていうあの着地は健在。
内村の宙が「猫」なら鄒の着地は「猿」。そうあれは猫じゃなくて猿の着地。
猿もいいっ!(興味のある方はどのあたりが「猿」か、是非考察してみてくださいませ!ふふ…。)
ロンドン猿猫合戦が今から楽しみな私です。

・内村…捻挫だのこむらがえりだので一時はどうなることかと思いましたが杞憂でした。
前述したように私的着地スペサリストは鄒でしたが、内村の宙はやはり別格。種目別床、G難度もさることながら、最後の伸身三回ひねりは本当に軸が細かった!ボイが同じ技をしていましたが、ボイが下りてきながらまだ回転しているのに対し、内村は最高点を過ぎて下り始めるくらいでもう回転終わってた。
内村は本当にあの特性を最大限生かすなら、むしろトランポリンや板飛び込みのほうが向いていたかもね。宙を支配する内村のトランポリン、見てみたかった!
というより、昔短距離のチャンピオンが馬と競争させられたっていうエピソードがありましたが、内村には是非猫耳とシッポつけて人間の選手権じゃなくて猫選手権に出てほしいわ。

「エントリナンバースリー、ジャパニーズボブテイルウチムーラ、フロムジャペーン!」

とかつって(笑)。

団体跳馬スタート前、この大一番でよくあんな顔できるなと思いながら見てましたが、最後の鉄棒は試技直前、いつになく気合を入れてる内村に思い切り違和感感じて、どんな演技になるんだろう?と思ったらば落下。
直接の原因はふかしすぎ、要するにスピード違反、ですけど最大の原因は気落ちかな。

最後に内村に一言。

「猫が気合いれちゃイカン!」(笑)。

気合入れたりしないのが猫なのよ、にゃんにゃん。
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2011年10月16日 16時24分
ぶら下がり
 
ぶら下がりなんかしなくて良いと思いますわ〜いかに言葉尻をとらえ、政治をエンターテイメントに仕立て上げんかしか頭にない皮相な自称メディアにエサ与えるだけですもの。まともな報道をしてこなかった自称メディアに情報統制云々なんて言う資格なんかありゃしませんわ。

ただし、週に一回でも一ヶ月に一回でも不定期でもかまいませんから、テレビ演説でもネット演説でもして総理自らが直接国民に情報発信する場を設ける必要があります。

菅氏の震災・原発対応については、あれほどの事態でしたので、誰がやっても相応の混乱は生じたでしょうし、菅氏の言うとおり彼は彼なりに色々制約の多い中で死力を尽くしたと考えてますので、そのことについてとやかく言う立場にありませんが、ただ情報発信を含む情報管理の部分に関してだけは前政権を教訓にしなければなりません。

総じて民主は情報管理・発信が本当にヘタ!(笑)
大臣・議員が思いつくまま好き勝手なことを述べる一方、系統だった情報発信が全くなされていない。これがまとまりを欠く一つの要因になっていると思います。

自称メディアの筆頭最前線・四国新聞は、菅氏退陣時に「(菅政権は)何もしなかった」と述べる被災者の声を論評抜きであたかもそれが歴然たる事実でもあるかのように伝えていましたが、あれだけ寝る暇も惜しんで震災対応に当たっていながらそれが国民に全く伝わっていなかったのだとしたら、いかにももったいないことだと思います。せっかく粉骨砕身しているその姿勢を国民が見える形にしなくてはなりません。国民の政治不信は、政府が何をやっているのか、系統だったものが全く見えないことも一因だと思います。

本来的には、その責任についてはその役割を担ってしかるべきメディアが負うべきであり、にもかかわらず、偏向報道に全面特化してあるべきスタンスから全く乖離していることの罪は極めて重いことは言うまでもありませんが、そんなメディアにはとっとと見切りをつけ、そんな自称メディアを介さずに直接国民と情報を共有できる方法を自らの手で早急に模索・構築すべきです。

例えばこの一週間でガレキの撤去がどのくらいすすんだか、また、次の一週間でどれだけの撤去をやろうとしているのか、や、避難所がどれくらい減ったとか、あるいは都市の復興プラン策定について今週はこういうことをした、来週はこういうことをする予定、といったような、やったこと・やろうとしていることを目に見える形にすることは、国民と政府の意思疎通を図るうえで非常に大切です。

やることをやるだけではだめです。それをきちんと見えるように発信しなければ。

公開討論なんかもいいとは思いますが、色々と制約が多いと思いますし、セッティングもそれなりに必要でしょうから、やはりテレビかネットで中継したらいいと思います。

そうすれば逆に国民からアイデアが得られることもあるのではないでしょうか。

今回の震災・原発報道で、その皮相な限界を悉く露呈した自称メディアと決別し、情報を国民と共有する方法を考えなくてはなりません。

情報を整理して発信する場を設けてください。

追記:ここ数日、書きたいネタが後から後から出てきて本内容の肉付けが遅れに遅れ、本ブログへのぶら下がりについての記載は本日になりましたが、掲示板からお越しの方は既にご承知のように掲示板へこのコメントの骨格を投稿したのが今月二日。翌三日の朝八時のNHKラジオ「今日の焦点」(うろ覚えなのでこのコーナー名は間違ってるかも)でこの「ぶら下がり」が取り上げられ、自称解説員の方が本投稿とほぼ同じ主旨の話をされてましたが、もしかして拙投稿ご覧になりましたか?NHK様(笑)。
まぁ、NHKはまだこれら内省があるだけましだろう。
四国新聞属する共同通信は臆面もなくぶら下がりの再開を申し入れているそうだが、そもそもぶら下がりが敬遠されることになった原因が、自らを初めとする自称メディアの短絡皮相な報道にあることへの一片の反省もなく、ぶら下がりに応じないは情報統制だとわめきたてるその厚かましさは、自己が連ねてきた記事の数々がまさに言論的暴力とも呼ぶべきものであったかを認識できる知覚が如何に麻痺しているかを指し示す何よりの証左だろう。厚顔もここに極まれりの感はある。

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2011年9月19日 19時47分
首相交替の意味するもの 〜自称メディア編〜
 
八月の首相交替における野党の果たした「役割」は先週書いたとおりだが、野党と並んで看過せざるべきが、この間の自称メディアの暴論とも言うべき感情過多的偏向報道である。
そのなかから、NHKと四国新聞の報道を検証する。

NHKテレビ「(夜)7時のニュース」にて。
番組冒頭、ニュースは掴みが大事!とばかりに、張り切りまくった声で叫ぶ武田キャスター。まだ総理にあった菅氏を指して、

「まだ辞めません!」(「いつまで続けるんでしょうか!」だったかも)

自分の立ち位置が、ワイドショーの煽り役ではなく、ジャーナリズムの一端であるという自覚をこの言動のどこにも見出すことはできない。

菅氏退陣直後、NHKラジオ「 私も一言!夕方ニュース」にて「番組のご意見番」こと自称解説員、

「今は首相交替なんかをしている時期ではないが云々。」

ラジオもテレビもそれほど多くのニュース番組を視聴しているわけではないが、私がNHKで「今は首相交替なんかをしている時期ではない」という主旨の発言を聞いたのはこの退陣直後の自称解説員のコメントが初めてだった。それともそれ以前に言及したことが一度でもあったかしらね?NHK様。
本当に少しでもそう思うのであれば、不信任案騒動当時、あの時期の動議、あるいは野党のあり方に何の問題意識も持たず、即日ポスト菅と退陣時期に集中特化した自らをまず糾弾なさい。
先日の土曜だかにようやっと野党を含む政治のあり方やメディアのあり方についての番組が放送されていたが、遅すぎる。

NHKがこの有様なのだから後の自称メディアは推して知るべしというべきかもしれないが、次に、その「推して知るべし」の筆頭ともいうべき四国新聞を取り上げる。

菅氏退陣直後、四国新聞、

「6月の退陣表明後、約三ヶ月も居座り(中略)政治空白を長引かせたことは政党政治史の汚点として記されるだろう」

もしもあの不信任案提出時に、公債特例の確約もなく、野党や与党内野党の言うがまま、唯々諾々と退陣していたならばどれほどの混乱を生じせしめることになったか、この新聞社には想像もつかないらしい。
手動ベントと聞いて被曝の危険性を想像できず、建屋カバーリングの最大論点が最新技術と伝統技術の融合であるという、全く的外れているこの新聞にあっては、それを期待するほうが土台無理ということかもしれないが。
一体どういう収拾があったのか、是非とも聞いてみたいものだ。

そう言えばポスト菅氏を問う各種世論調査で、チラホラ名前が挙がっていた小沢一郎氏が、四国新聞が加盟する共同通信系の世論調査では絶対に名前が挙がらなかったのも不思議と言えば不思議な話だが、おそらくそこが”独自”調査なのだろう(笑)。

また、原発事故発災当時、 この新聞のGデスクは、福島第一作業員に、被曝をものともせず現場死守を言葉巧みに強要していたが、この新聞の振りかざすその正義観に鑑みて彼は放逐されたのだろうか?まさかこっそり机の影で原稿を書いてる、なんてことはないとは思うが(笑)、まぁ、その”こっそり”のほうがむしろこの新聞社らしいというべきかもしれない。
先程「言葉巧みに」と書いたが、こんな狡からい自称メディアは正面切って「被曝してでも現場を死守しろ」とは書かない。

「だからといって冷却作業をやめて逃げてくれだとか被災者はいいから自分のことを、などと誰が言えるのか。」

と書く。そこにあるのは、世論の威を借るキツネの姿であり、さり気ない世論誘導は自分が火の粉を被らなくてすむよう、巧妙に仕組まれている。そして、自分が批判の矢面に立たないようにするこの巧妙さゆえに、野党や与党内野党の暴挙よりもむしろ狡猾であり醜悪である。
更に、ここまで現場死守を叫ぶのであれば、現場放棄を申し出た東電を怒鳴りつけた菅氏を全面擁護してもおかしくはないが、そこにあったのは菅氏激昂だけを異様にデフォルメし、人格異常者の如く扱う記事だけだった。

これらの事実からだけでもこの社が如何に本来的なジャーナリズムから逸脱しているか、伺いしれようというものだが、震災発生以降、この新聞は菅内閣の対応に対して、ほとんど一片の評価もなさず、不都合不具合は悉く菅氏自身の資質に帰結させ、まさにつるし上げという言葉に相応しい記事を書き連ねた。
震災の対応が遅い遅いという。
あの東北太平洋沿岸全域が絨毯爆撃にあったようなガレキの連なる地平を一体誰がどうやればわずか三ヶ月で収拾できるというのか。
あるいは、原発事故対応が後手後手だという。
これだけの原発シビア事故をどうやればわずか三ヶ月で収束の見通しが立てられるというのか。
菅氏の原発事故対応を批判できるのは、正確克明に事故状況を描写し、打つべき手を一切の誤謬なく「前もって」言えた人間だけだが、そんな人間が果たして存在したのか。
私の知る限り、そんな人間なんか誰もいなかった。
原発深刻事故対応は、私に言わせれば基本的に「後手」だ。後手にならざるを得ないからだ。三ヶ月で福島第一の収束見通しを立てろという人々は、菅氏の対応の不手際をつまびらかにしているのではなく、実は、原発事故というものがどれほど深刻で人間の手に負えないものであるかすら理解できてないという自らの知見の浅薄さを証明しているに他ならない。そんな人々がジャーナリズムが担っている日本とはどういう国なのか。

前述した作業員への現場死守を強要に象徴されるように、その浅薄筆頭ともいうべきこの社が、野党同様、それらの理論的思考停止は丸ごと棚に放り投げて先頭切って政府対応を糾弾するという光景は、荒唐無稽というより言葉では軽すぎる狂気じみたものがあって、失笑よりもまず戦慄を引き起こされる。

そして、先に「首相交替の意味するもの」で指摘した、あの時点で首相交替が画策されることへの何らの疑問もなく、前述のNHK同様、即日ポスト菅と退陣時期に集中特化し、野党の暴挙を率先垂範して後押し続けた状況に至っては、もはやジャーナリズムの片鱗すらかなぐり捨ててデマゴーグの王道を突っ走ったと言っても過言ではない。
こんな新聞社に、菅氏の対応を批判する資格はそもそもない。

菅氏の対応の検証よりもまず検証・糾弾されるべきはこの非常時に党利党略にまい進した野党であり、それを鼓舞し続けたこれら自称メディアに他ならない。

いくら首相が高潔無比で有能だろうと、周りが腐ってれば何もできない。そんな簡単なことがこの四国新聞という痴呆紙、もとい(笑)、地方紙には理解できない。どころか、その腐った一翼をほかならぬ自分自身が担っているの自覚もなく、もっともっと腐れとばかりに政局を鼓舞して止まない。これが震災以降、この新聞社の果たした「社会的役割」であり、こんな新聞に真っ当なジャーナリズムを期待するというのがそもそも無理な話というものだろう。
やれ誰某が泣いの怒ったのとそんなフォーカスしかできず、震災対応で何か不都合があれば全て首相の責任に帰結させ続けた報道を全面展開して恥じないこの新聞は、真摯に政治を考える弊害になりこそすれ、政治を読み解くよすがにはなりはしない。
公正中立冷静のジャーナリズムの精神に照らして既に終わっているということだ。

菅氏の対応に如何な誤謬が存在したにせよ、これに一片の評価も与えず、一挙手一投足をあげつらって罵倒し倒すような世論・報道は、誰が何と言おうと間違っている。

この社の愚行の数々については、いずれ稿をあらためて取り上げたいと考えているが、今から三ヶ月後、菅内閣に要求した全ての事態に収束なき場合は、当然その責任を取って、それこそ「居直り」、「居座り」と批判される前にメディアの場から退場すべきだろう。それが自分の言葉に責任を持つメディアの取るべき道というものだ。

再度言う。

いくら首相が高潔無欠で能力に富もうとそれを取り巻く与党や野党は言うまでもなく国民の末端に至るまで共に悩み共に歩む姿勢なくしてこの国難から立ち直ることは決して出来ない。

退陣までの三ヶ月、菅氏を「居座る」と表現し続けた四国新聞が、その思考のまま、何故海外の首長を糾弾しないのか、不思議でならない。

予告なき大停電を引き起こし、担当部局を30分にわたって叱責し続けた韓国の李大統領。
四国新聞の理屈で言えば、如何に李大統領に理あろうと、「怒鳴り散らすだけの首長」となるのは必定だ。実際、この新聞が韓国在住なら、菅氏を糾弾し続けたその独自のものさしに鑑みて、今頃は李大統領が激昂した、そのことだけがまるで最大の問題であるかの如く取り上げられ紙面に踊りまくっていることだろう。
それとも自社の論理が自国政府限定だというなら、その言論の整合性・一貫性は言うまでもなく破綻瓦解している。
もとよりこの社の論理にそんなものを期待すべくもない。

あるいは、原油流出の収拾に手間取り、債務上限引き上げにすったもんだして米国債格下げを招き、アイリーンの収拾に数週間はかかると言うオバマ大統領。

菅内閣当時、菅氏には一点の評価もないと言わんばかりの言論に終始したその精神に鑑みて、オバマ大統領に言ってみればいい。

「我が国では都市が丸ごと水没するような千年に一度の震災+原発事故でさえ、三ヶ月で目途が立たないのはいかがなものかと不信任が提出されるのに、良くこれだけ↑まごついて辞任要求が出ないもんですな。まことにけしからん話だ。」

とね。四国新聞の理屈ならこういう話になるはずなのだから。

言ってみればいい、世界に向かって。



狂ってるのはどっちか、はっきりするはずだ。





参照:新聞各紙は各図書館で参照できます。(はず…以前は出来てましたが今はどうなんでしょう?多分できると思いますが…。)
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