欧米(世界支配層)の日本侵略は466年前から始まった!(3−2) | |
2011年10月17日 23時8分の記事 | |
日本が第二次世界大戦に突き進むきっかけは満州事変(1931年)ですが、その前に中国の北東面の軍閥であった「張作霖爆殺事件」(1928年)があります。元々関東軍は張作霖を取り込もうとしていましたが、張作霖は関東軍との距離を置き、満鉄と並行する鉄道の建設を進めていました。この鉄道建設の背景にはアメリカがいます。
アメリカは最初、満州鉄道の買収を日本に打診しましたが断られたため共同経営を申し入れましたがこれも拒否されました。そこで、資金を援助し張作霖にやらせました。これらのこともあり関東軍が張作霖を爆殺したといわれていますが、「張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説」があり、むしろこの可能性が高いのではと思われます。また、この事件以外にもソ連の指示による中国共産党軍が工作したと思われる事件もあり、関東軍が満州事変を起こした背景にアメリカとソ連の工作があり世界支配層の影を感じます。ソ連の権力の中枢はユダヤ人(血統上のユダヤ人でなく白人系ハザール人)で占められ、ロシアのプーチン大統領がそのほとんどを追い出すまでユダヤ人体制が続いていました。アメリカの体制もそうであり今も続いています。 そして、満州を占領し、日本は清のラストエンペラーである溥儀を擁立し満州国を建国しましたが、国際連盟の「リットン調査団」に満州国を否定され、1933年日本は国際連盟の脱退を表明しました。 ウイキペディア 「満州事変」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89 そして、盧溝橋事件から日本(大日本帝国)と中国(蒋介石政権の中華民国、現在の共産党政権の中華人民共和国とは違う)は戦争になりますが、当時、双方とも宣戦布告はしていません。日本は国際的な影響を考慮し、中華民国は宣戦布告すると第三者の対外的な支援を受けられなくなるためといわれています。太平洋戦争前に無国籍の爆撃機が日本軍を攻撃した事実があるようですが、これはアメリカ軍が中華民国を支援するため行ったと思われます。当然、国際法違反です。また、欧米向の情報戦では蒋介石が断然有利な状況にありました。さらに、南京攻略寸前までドイツの機関銃指導部隊が国民軍の精鋭部隊を指導していたとのことです。 このように日本軍は満州から南京へと戦線を延伸して行きます。延伸すればするほど補給が困難になり占領拠点が多くなるため戦力が分散されます。この戦線延伸の責任は非常に重く、この重大な決定をしたのは陸軍でなく近衛内閣だったのです。 以下、ウイキペディア 「近衛文麿」 転載 7月7日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発。7月9日には、不拡大方針を閣議で確認。7月11日には現地の松井久太郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結されたにもかかわらず、近衛は、総理官邸に東京朝日新聞主幹や読売新聞編集局長ら報道陣の代表と、民主党総裁、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の代表者らを招き、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表。これが翌日の朝刊で世界中を駆け巡り、日本が好戦的な国だという印象を世界に与えた。これにより派兵決定とその公表は同時に進行していた現地の停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした[6][7]。しかし、その後の国会では「事件不拡大」を言い続けた。しかしながら、7月17日には、1,000万円余の予備費支出を閣議決定。7月26日には、陸軍が要求していないにも拘らず、9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対の方向に指導した。石原莞爾は風見章書記官長を通じて、日中首脳会談を近衛に提案したが、広田外相が熱意を示さず、最後のところで決断できなかった[8][9]。当初近衛は首脳会談に大変乗り気になり、南京行きを決意して飛行機まで手配したが、直前になり心変わりし蒋介石との首脳会談を取り消した。石原は激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」と叫んだ。 8月2日には増税案を発表。この間に宋子文を通じて和平工作を行い、近衞と蒋介石との間で合意が成立した。国民政府側から特使を南京に送って欲しいとの電報が届くと、近衞は杉山元陸相に確認を取り、宮崎龍介を特使として上海に派遣することを決定した。ところが海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の強硬派がこれを好感せず、憲兵を動かして宮崎を神戸港で拘束し東京へ送還してしまう。このため折角の和平工作は立ち消えとなってしまった。 この件に関して杉山は関係者を一切処分しなかったばかりか、事情聴取すら行わず、結果的に事後了解を与えた形になっていた。杉山本人も当初は明解な釈明が能わない有様で、以後近衞は杉山に強い不信感を抱くようになる。 8月8日には日支間の防共協定を目的とする要綱を取り決めた。8月9日に上海で、蒋介石軍の挑発による第2次上海事変が勃発。それに応じて、8月13日に、二個師団追加派遣を閣議決定。8月15日には、海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、「今や断乎たる措置をとる」との断固膺徴声明を発表。8月17日には、不拡大方針を放棄すると閣議決定。 9月2日には「北支事変」という公式呼称を「支那事変」と変更を閣議決定し、戦域を拡大した。9月10日には、臨時軍事費特別会計法が公布され、「支那事変」が日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦と同列の戦争と決定され、不拡大派の石原莞爾参謀本部作戦部長が失脚した。 また、国内では、10月に国民精神総動員中央連盟を設立、内閣資源局と企画庁が合体した企画院を誕生させ、計画経済体制の確立に向けて動き出した。11月の日独防共協定締結後には、大本営を設置する。12月5日付の夕刊では、国民の一致団結を謳った「全国民に告ぐ」という宣言文を出させている。これは、近衛の意を受けて秋山定輔がまとめたもので、資金は風見章書記官長が出している。こうして、近衛は日本の全体主義体制確立へと突き進む。そんな中、12月13日に南京攻略により、日中戦争は第1段階を終える。 転載終了 近衛文麿がそのような間違った判断をした影には尾崎秀美を通じたソ連のスパイ「ゾルゲ」の影響があったものと推察されます。近衛文麿は長男をソ連に留学させていましたが、第二次大戦末期に殺され、自身も終戦後「東京裁判」召集前に自殺しました。 このように日本は中国戦線で戦力が分散・延伸しているにも関わらず太平洋戦争へ投入していきます。 続く 参考; ウイキペディア 「近衛文麿」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF ウイキペディア 「日中戦争」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89 | |
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