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薩摩いろは歌 雌伏編(九)吉之助帰藩(無料公開)
[【時代小説発掘】]
2011年5月15日 11時28分の記事


【時代小説発掘】
薩摩いろは歌 雌伏編(九)吉之助帰藩
古賀宣子


(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


これまでのあらすじ: 
 大久保利通の原点はお由羅騒動ではなかったか。斉彬派に属し、喜界島遠島に処せられた父次右衛門は、「激しては負け」との言葉を残し、果たせなかった志を、正助(大久保利通)と吉之助(西郷隆盛)に託していく。一網打尽と思われた処分に、四人の脱藩者が判明し、敵方(庶子派)は探索の目をゆるめない。昨年はとうとう吉之助が斉彬出府に随従し江戸へ。そのほか多くの会読仲間も。一人取り残された正助を脇から支援する錦屋源助(黒田家隠密)。心の柱は郷中教育で叩きこまれた日新公いろは歌だ。


梗概: 
 三年ぶりに帰藩した吉之助は斉彬公に召し出され、視野も広まり、その言動は充足感で溢れている。
 が、輝きの奥底には蔭があり、その蔭を弟に押し付けたままの自分を、吉之助は見据えている。(本文より) 


作者プロフィール:
古賀宣子。年金生活の夫婦と老猫一匹、質素な暮らしと豊かな心を信条に、騒々しい政局など何処吹く風の日々です。新鷹会アンソロジー『武士道春秋』『武士道日暦』『花と剣と侍』、代表作時代小説『剣と十手の饗宴』などに作品掲載。
 当コーナー【時代小説発掘】では、編集担当。



薩摩いろは歌 雌伏編(一)
薩摩いろは歌 雌伏編(二) 血染めの裃(かたぎぬ)
薩摩いろは歌 雌伏編(三)島からの手紙) 
薩摩いろは歌 雌伏編(四)十六夜の空)
薩摩いろは歌雌伏編(五)慈父の眼差
薩摩いろは歌 雌伏編(六)耳目の門(みみめのかど)
薩摩いろは歌 雌伏編(七)父の生還
薩摩いろは歌 雌伏編(八)心の駒



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【時代小説発掘】
薩摩いろは歌 雌伏編(九)吉之助帰藩
古賀宣子



一 江戸の空気

 あの背の高い男はひょっとして・・。
 高麗町橋の袂で盛んに手招きしているのだが、何かいいことでもあったのだろうか。待ちきれずに迎えに出てきたといった風情で、曇天を跳ね返すような腕の振り方である。
「正助」
 少しくぐもった声とあの僅かに間延びしたような抑揚。あれは吉之助さんだ。
「戻ったのですか」
 昨年密かに届き、読んだらすぐ燃やすよう記された書状には、来年は殿様もいよいよ帰藩なさるが、自分は扈従できるかどうかまだ判らないとあったので、期待はしていなかった。
 昨日まで降り続いた五月雨で、道はぬかるんでいる。正助はふんごみ袴に泥がはねるのも構わず、足をとられぬようほどよい歩幅で踏みしめていく。
 二月下旬に正助は近在詰の田地方(でんちかた)検者に転属になり、これまでのように長い間家を空けることはなくなった。今回も数日間、谷山筋周辺を山川まで回り、溝や用水の沙汰と道や橋の修復状況などの見分をしての帰りであった。
「いつ戻った」
「二十四日だ」
「一昨日じゃなかか、まだ何かと落ち着かぬであろうに」
「昨日、源助がきて、正助の戻う日を教えてくれた」
 源助の正体を知っているのは、吉之助と二人だけであったが、最近になって樺山三円等数人の仲間が加わっている。
「手紙では書けぬこっもあうしのう」
 これを聞くや正助は、今日は夜を徹して語ろうと誘った。

 旅装を解くと正助は、座敷で書を読む父に帰宅の挨拶をし、吉之助が戻ったと告げる。 吉之助は、喜界島に立たれる朝以来だと懐かしみ、無事の帰還を祝し、ご壮健なご様子慶賀に堪えませんと頭を下げた。
 愛しむような眼差しで頷く父。積もる話もあろうと、気を利かせ、二人を促した。
 小座に落ち着いた二人は、途中、夕食の膳と白湯の入った薬缶を、家僕平吉が運んできた以外は、誰も寄せ付けずに、話し込んだ。
「それにしても、源助は吉之助さぁが戻うと、ゆうと分かったな」
「我々が四月に江戸を発った数日後の日付で、黒田斉溥様からの知らせが届いたそうだ」「黒田様にな本当に感謝をしてもし切れぬほどの御恩を受けており」
「そいどん、我等ごときは大大名に御礼を尽くす身分でもない」
「眞だ。それよっか斉彬公のために一身をなげうつだけだ」
「それがなあ、江戸で他藩の有志と交わっとうと、藩の枠はもう壊れかかっておう」
「壊れかかうとは・・」
「考えがだが、日本国のために藩政をいけん改めていくか。目線はそっちに向いておう」「そうであった」
 正助は藩主の言動を少しでも理解できればと、記録所奉行に島津家の歴史と将軍家や摂関家との関わりについて学び、源助から伝えられる江戸の空気に耳を傾けてきた。そしてそれらを反芻することで、解ったつもりになっていたのだが・・。
「やはい、直に触れぬとなあ。沁み込み方が違う」
「そろそろ正助も出てこいよ」
「やっと一息つけたとこいじゃっでんう」
 江戸遊学という道もあるが、許可が難しく、たとえ許可されても自費で行かねばならない。今の状況では、とても無理である。
「次右衛門は回復したかと、殿様が気遣っておられたぞ」
 先ほど言えば良かったのだが、懐かしさが先にたち、思い及ばなかったと、吉之助はこめかみのあたりを指先で叩く。
「眞か。よくご存知で」
 二年前の三月十四日、岸壁迫る海沿いで、御赦免船を出迎えたときの光景が甦る。正助は待ちきれずに岸へ下りていったが、あまりの変わりように言葉を失ったのだった。横たわっていた父を、水主の手を借りて背負ったときのあの臭い。物乞いが放つような臭気に、一瞬息を止めてしまい・・。
「源助から伝わっておうのだろう。それにしても、殿様は己れのために闘ってくれた藩士を大切にしておられう。間近に接しておうとつくづく感ずう」
「父がどれほど喜ぶこっか」
 これまでの辛苦が吹き飛ぶほどに舞い上がりかけたが、正助は辛うじて思い留まった。「それよい吉之助さぁの方こそ、いろいろあった」
 安政元年の上府以来、三年四ヶ月振りの帰藩だが、その間に、妻すがとの離縁と下加治屋町の屋敷の永代売りという苦難を乗り越えている。
「吉二郎は勘定所書役に昇進しておった」
「そや良かった」
「あいつは世事に長けておうゆえ、すっかい面倒をかけておい」
 吉之助は口ごもり、両手で顔を撫でると、肩で大きく息をした。視線を落としつつ、自宅でも見せないあの体の構えが出た。
 左肘を広げた膝頭につけて顎を支え、右手は腕を突っ張らせたままもう片方の膝頭に載せる。安心しきって心身を弛緩させたときの姿勢である。
 吉之助はいまや藩主に召し出され、密書を水戸家へ持って行かされるほどに信任を得ている。
 それだけではない。名だたる諸名士を訪問しては教えを乞い、視野を広めてきたようだ。
 三年前の吉之助とは明らかに違う。ごく自然に自信が滲み出ており、その言動は充足感で溢れている。
 西郷家の詳しい事情を知らない者は、それが吉之助の全貌と受け止めるに違いない。が、輝きの奥底には陰があり、その陰を弟にすべて押し付けたままの自分を、吉之助は見据えている。
「あん晩のこっ、憶えておうか」
 笑顔を交えて語り合える話題のうちで、最も新しいのといえばこれしかない。
「渡唐口の加世田屋でんこっだろう」
「拙者を見うない吉之助さぁの表情が固まったからな」
 参勤交代で扈従する吉之助を、正助は密かに国境まで見送ったのだった。
 吉之助とは水上坂で別れたので、吉之助自身は何も知らないまま出水街道を進んでいる。
 当初は要所々で行列を、特に吉之助が加わる後方の列を見送るつもりであった。
 ところが、伊集院で立ち寄った妙円寺境内で、源助が待ち伏せていて、神之川河口から思いも寄らない海路の旅となった。
 そして川内川南岸の渡唐口にある加世田屋で、源助の手引きによって吉之助と再会できたのだった。
「あん時は驚いたさ。水引郷の人が来とっとちゅうから、例の豪商が貸した金の催促に来たかと・・」
「大きな目を見開いたまま、焦点が定まらぬような眼差しじゃった」
「特に何かについて話し合ったわけじゃなかが、中身の詰まった時を過ごしたちゅう感じが確かに残っておう」
「翌早朝、例の庶子派の密偵を見たと吉之助さぁが報せてくれたお陰で、源助が国境までを海路に変更してくれたことは、手紙に書いた通りだ」
「加世田屋が知り合いの漁師に頼んで手助けしてくれたのだろう」
「船番所の厳しか監視の間隙を縫ってのう。いろんな人々の力添えを心底思った」
「正助が黒田様のご恩をどれほど感じておいやしか、ゆうと解う」


二 斉彬の施政

「積もう話をどっからすうか・・」
「篤姫様入與の際の御仕度は大変であったろう」
「器具装飾などの調整の任にあたったが、何せ貧乏育ちゆえ、初めは見うものすべてが立派に思え、一から学んだな」
「値の張うもんが必ずしも風格があうとも限らぬのであろうし」
「細緻精巧な鼈甲や金銀漆器の装飾具を鑑識すう知識をいけんにか得うこっが出来た。人間本気になれば何とかなうものだ」
「それでは戸惑う間もなかったわけなあ」
 東上した仲間から、藩邸で暮らし始めた頃は戸惑いがあったと、正助はよく聞かされていたので、それを話題にした。
「拙者も同様で、己れの受け取い方によってはいけなふういも感じられうと痛感した。あん時ほど日新公いろは歌を心強く思ったことはなか」
「聞くことも又見ることも・・ですか」
「それだよ」
 二人はどちらからともなく諳んじた。

 聞くことも又見ることもこころがら
           みな迷ひなり みなさとりなり


「二才衆は言っていた。同じよな状況も受け取う側の心がけでいけなふういも変わうものじゃぁ」
「全くだ。藩邸の糾合方で学ぶ者にも色んなのがおうのでは。我を通したい、僻んだいと」
「何事も謙虚に吸収すうこっで人は成長すうと教わったが、近頃そん通いだとつくづく思う。拙者は不器用ゆえ、あちこちにぶつかってばかいおう」
「ぶつかっても構わぬじゃなかですか。ぶつかった痛みが強いほど悟いも深くなう」
「謙虚に吸収すうにな、先ずは己れを失わぬこっが肝要だ。そう解っただけでん収穫さ」「謦咳に接しておる斉彬公の話を聞きたい」
「聞いた傍から忘れてくれよ」
「手紙を燃やすごと、だろう」
 吉之助は我意を得たように肯いた。
「穴があったら入いたいような思いをしたこっがあったな」
「何のこっやら、想像がつかんが」
 首を傾げる正助に、吉之助の視線が引き締まる。
「郡奉行の相良角兵衛が提出した農政調書があっとだが」
「徴税法が不公平になっとうちゅう、あれなあ」
「殿様からそれについて意見を求められたのだ」
 差し出した上書のなかで享保検地を批判し、郷士を衆中に戻すよう提案した。すると斉彬は、ひと呼吸の間をおいて質してきた。
「近頃の米価は何ほどか、とね。一瞬、言葉に詰まい、米の値段はいっこうに不案内ですと答えざるを得なかった」
「それで穴があったら入いたくなった」
「そん通いさ。偉そうにお奉行の調書批判をしながら、肝心のこっが答えられん」
「斉彬公は何と申されたか」
「米価は無論のこっ末々の評判善悪の説も聞きだせ」
とかく下情に通じないと政治に不当な処置がおこり、それが国家の存亡にかかわることとなる。
「日頃の言葉の端々に漂っとうのは、海外を見据えた上でん危機感だ。じゃっでゆうと仰せられう。近年はまさに治にいて乱を忘れずちゅうべき時節と思われうと」
「日本の各所に異国船がきておい、特に琉球にな、もう十数年以上とどまっておうものなあ」
「それだよ」
 こういうときに諸士困窮におよんでは、万一異国船がきたならば、心では充分にわかっている者達も、なかなかそこまでは至らないであろう。
 またかねて風俗礼儀を守るように申し付けておいても、眼前に飢渇が迫っては、志ある面々も学問武芸はそっちのけで、たとえ悪意はなくとも、よんどころなく不正行為を働かないともかぎらない。
「そんごとゆうと仰せだ」
「藩主になられ、初めて入国なさった年、あれは確か」
「嘉永四年の五月だった」
「そう、そん年だ。拙者はまだ謹慎処分が解かれてなかったが、十月に設置された常平倉(じょうへいそう)は、そういったお考えの表れじゃったわけだな」
 一定した米価対策を講ずるため、藩費で米価の安いときに買い入れておき、高いときに安く放出して米価の安定をはかるものだ。
「調所笑左衛門によってはじめられた御内用囲米(ごないようかこいまい)に似ておうが、あれは不作や飢饉のときの予備に、各所倉庫に蓄えておき、年々新旧を交換すう仕方じゃあ」
「御内用囲米といえば、あん前年は台風によう農作物の被害が大きくて、品薄になった」 帰藩早々、斉彬公は二度にわたり、合わせて九千石の蔵米を救助用として米商人に払い下げたと、源助から聞いた覚えがある。
「商い衆が売り惜しみしたこっもあって、米価が高騰したゆえ。殿様は以前から米価には注目しておられたごとだ」
 在国の際は必ず諸色方や側近の方から、米そのほかの物価を毎日報告させておられるという。
「両者の調べが違っとうと、表方を戒められんごっ。役人はいい加減なことをいうのであてにならないとも。善悪の説を聞いて斟酌すうのが政務の要点だと言われた」
「斉彬公の姿勢が分かう逸話だ」
 ここ数年、正助は郡奉行配下の職務についてきた。その日々がまるで報われたような思いだ。耳たぶから爪先にいたるまで、えもいわれぬ温かな情感が広がっていく。
「他いも何かあうか」
「こんたびの京では、地勢を盛んに見ておられた」
「地勢を・・。何のために」
「実はな」
 これもと、吉之助は右耳から左耳へと両手で抜ける仕草をして念を押す。
「分かっておう」
「三年前、帰藩しておられた殿様が上府なさった年、禁裏が炎上したであろう」
「四月であった。参勤交代の一行が江戸に着くころではなかったか」
「後で分かったこっだが、大いに憂えた殿様は密かに供御の御用に五千両を献上なさった」
「くご、ちゅうと天皇の日々必要な品々だな」
「いかいも。食事、衣服に調度といった物のための費用だ」
「天皇のお喜びはいかばかいであったか」
「翌年の新春に、そん志を嘉尚あらせられ、近衛家に宸筆を下賜なさい、伝えよという仰せがあったごとだ」
「つまい、近衛忠熙様から斉彬公へ書面が送られてきた」
「詳細に述べうならば」
 飛脚便だけでなく、江戸と京、大坂の藩邸を毎月定められた日に往来する使番の役目を果たす者がおり、その折、必ず近衛家にも挨拶の礼をとっている。この時は有馬次郎右衛門が訪ねており、格別の叡慮にて宸簡を賜った旨を、密かに伝えるよう得浄院(幾島)を通して命じられたという。
「主上の叡慮に感激なさった殿様は、こん度、帰藩の途中に京に立ち寄られて御所を拝し、深く感じられうこっがおあいになったごとだ」  
 後日のためにと、東山に地勢を相して邸宅の地を選定したという。さらに近衛、三条等の公卿に謁し、国事を談じ、つぶさにその意
見を陳述した。勤皇の志固い内容に感激した近衛忠熙が主上に奏上した経緯があったようだ。
「それを聞こし召された天皇はどのように」
「深く嘉し賜れ、有事の日には、速やかに兵を率いて上京し、京師を警衛すべし、と」
「内勅を賜ったのか」
 思わず声が高くなり、正助は座敷に視線を投げた。
「どれほど感激なさったか、我等など思い及ばぬ」
 同感と頷く正助は、これから行われる藩政の数々を想像した。そしてその核心部分が見えたようだった。


三 聞くことも又見ることも

 平吉が朝餉を運んできて、二人は夜が明けているのに気づいた。薬缶はいつ空になったのだろうか。咽喉は渇ききっており、二人とも声がかすれている。
「湯呑みの白湯だけでは足いん」
 そういって、正助は薬缶を平吉に手渡した。
 味噌汁をすすり、沢庵を麦飯にのせ、薬缶の湯をたっぷりかけてかき込み、ようやく潤ってきた。
 その二日後、藩庁から呼び出しがあり、正助は下加治屋町方限取締を命じられた。
「取締、でござおいもすか」
 聞きなれぬ名であった。
 方限とは行政上の単位で、城下以北を上方限、以南を下方限といい、その中にさらに小方限がある。
 下方限に居住地のある御小姓組は、諸士を一番から六番に分け、各組に御小姓組番頭をおいている。因みに下加治屋町方限は岩下佐次右衛門の配下にある。
「斉彬公は歴代藩主に比べ、ことのほか郷中教育に強い関心を示されておい、組頭衆の中から郷中取締人が任命され、各方限取締はそん下にあう」
 藩庁の役人は簡潔に語る。
「郷中教育の振興と充実をはかろうとしておられうのですなあ」
 斉彬が目指す藩政の一端に触れた思いである。
 昨年、まだ西目外場の蔵役を勤めていた時である。川内川沿いの長屋に源助が訪ねてきて、江戸のようすを伝えてくれたことがあり、正助は一言一句も聞き漏らすまいと必死だった。
 大きな渦の中で他藩の者達と国家の行く末を語り合えたら・・。
 吉之助をはじめ、江戸で働く郷中仲間を羨ましくないといえば嘘になる。しかしそれは今の自分には無理なこと。それならば命じられた職務に専心し、国許の基礎を固める駒となろう。そう言い聞かせてきた。
 そして一昨日の吉之助の話が甦る。
 斉彬は在国の際、諸色方や側近に、米をはじめその他の物価を毎日報告させていると。藩主への信頼が強まる一言だった。
 下加治屋町方限取締に任じられたことと言い、我等は見捨てられてはいない。
 郷中では二十四、五歳以上の長老を大人衆(おせんし)といい、二才衆で扱い兼ねることが起こったときの相談にのっている。
 めったに持ちかけられることはないが、あれは蔵役になって間もない頃、厄介な出来事が一度あった。
 問題を起こしたのは、元服をその前年に済ませたばかりの者で、錦江湾に突き出た琉球島の商家に入り浸たり、連れ戻すのに往生したのがいる。厳しい女色禁制の日々では味わえない艶やかな琉球娘の魅力に一目惚れしてしまったのだ。
 郷中の掟のどれもこれもが己れを縛り付けるだけで、その先には一條の光も見えない。相手は掟の一つ一つ取り上げてはけなしていった。
 女の姉妹に囲まれて育った正助にとって、一面では女色は日常の暮らしに溶け込んでいる。それゆえ相手の言い分も、男として解らぬわけではないが、違和感も否めない。
 話し合いに限界を感じ、最後は暁の祇園之橋の袂で殴り合いになった。相手の背を桜の幹に押し付けるや、鳩尾に拳を打ち込んだ。その振動で舞い落ちてきた花びらが数片、正助の睫毛を掠め、くずおれた相手の髷を覆う。
 ほとんど変わらぬ背格好の相手を背負い、その足で家に戻った。何事かと驚く家族を尻目に小座に座らせ、日新公いろは歌を琴線に触れる一首が見つかるまで詠じさせてみた。 三度読み終えたころであったか、相手は啜り泣き、机に突っ伏した。涙と鼻水で面を上げられない。
「見つかいました」
「詠んでみよ」
 正助は感情を押し殺して言った。
「聞くことも又見ることも・・・」
 肩を震わせつつ相手が諳んじたのは「き」ではじまる歌だった。
 先日、正助はこの話も吉之助にしている。国事について語った後だったので、それは良かったと、軽く相槌を打って終わるかと思ったところ、吉之助は意外にも真剣な表情で受け止めた。
「江戸の薩摩屋敷でん、守衛たちが、近くの品川に毎夜遊びに出て風儀が乱れ、殿様が困っておられた」
「品川といえば、東海道の最初の宿場であろう」
「宿場女郎目当てだよ」
「今でんそんよな状況が続いておうのか」
「拙者が初めて江戸に出たときの話しゆえ」
「安政元年か」
「調べたら国分や加世田、串木野の郷士たちじゃった」
「当然、何らかの処置が取られたであろう」
「聞かん者達は帰国させよと命じられた」
「郷中の厳格な監視の眼がなくなうと、さすがの兵児二才(へこにせ)たちもなあ」
「品川遊里へ行くのは郷士たちだけじゃなか。我等の仲間とて同じだが、節度を守っておう」
「いつぞやの吉之助さぁの手紙に、品川遊里へは一人行かなかったとあいもしたが、背景がつかめました」
「あん時、正助からきた返信は、疑いと冷やかしで溢れておったぞ」
 家人の手前、二人は声を殺して笑いあったのだった。


四 生き急ぐ斉彬

 六月に入って数日たった頃であった。国分方面へ出向いて戻ってくると、父が戸口に立っていた。
「何か良かちゅうことでもあいもしたか」
 思わずそう声をかけたくなったほど、父の顔は晴れやかだった。
「倅に続き、親父いも、藩庁から呼び出しがあってのう」
 後は中でゆっくり、と軽やかな足取りで座敷へ。
「御所の警衛をいけなふうにすべきか探求せよと命じられた」
 軒先から伝わる風鈴の音が心地よく、団扇をつかう手が止まる。
「警衛」吉之助から聞いた話が甦った。
 天皇の内勅を受け、早速、動いておられる・・。一瞬、心に光が射しかけたが、微かに頭を振り、唇を固く閉じた。聞いた側から忘れろといわれた内容だ。
「お一人で、なさうのですか」
「八田知紀殿等、とだ」
 八田知紀はお由羅騒動で謹慎処分を受け、正助と同じく、嘉永六年五月の恩赦で赦免になった一人だ。処分当時、八田知紀は御広敷番頭を勤めていたが、赦免の後は役障となっていた。
「先ずは記録所で書物をあたうこっになった」
「あそこの御奉行は伊地知季安様です」
「眞か。流罪になられたときは、まだお若かったときく」
「記録奉行任命は、おいが赦免されう前年でした由」
「義父上様から聞いた話だと、三年後にな鹿児島に帰還したものの自宅謹慎が続いたごとだ」
「再任官は十年前にようやく」
「独力で藩内の史料や、書籍史料の博捜に勤めておられたとは、漏れ伝わっていたが」
 正助は再び記録所勤めを始めた朝の出来事を父に語った。
「出迎えて下さったのが前任者の隈岡五助様じゃったのだな」
「困窮の噂は耳にしていたが、何の力いもなれずと涙ぐまれ」
「しかしなあ、切腹の後、士分を取い上げられた高崎家や近藤家などを思うと愚痴など・・」
「おいもそう申し上げ、大島遠島になったご嫡男方の心情に一頻り思いを馳せました」
 隈岡五助に伊地知季安を紹介されたのは、その直後だった。
「隈岡五助様も粋な計らいをなさう」
 父は以前のように、色白の頬を顔一杯に広げて笑った。
       
 同じ頃、源助を通して斉彬の様子が伝わって来た。
「まうで生き急ぐごと藩政の不備改めや施設造営に着手しておられうとか」
 我を忘れたように勤しんでいるらしい斉彬の姿勢を、源助はこのように評した。
「昨年秋に着手した二基目の反射炉じぁんどん、最近竣功したと聞いておいもす」
「反射炉二基ということは四竃になう」
「つまい一度に二十四貫(九十キロ)の台場長砲に必要な鉄を熔解でくうごとになったです」
「すうと数十門の製造が可能になう。あん時、建築を中止なさらずに良かったちゅうわけだ」
「ああ、初めてん大竃が失敗した、あれなあ」
「五千両が無駄にない、相当に非難の声もあがったごとだが」
「確固としたもんがおあいゆえ、再度建築を命じられた」
「まさしゅ鋭意して、なさっておられうわけだ。教育は国家興隆の基礎じぁっし、兵備は一国独立の要素たい。これが斉彬公のお考えと吉之助さぁからも聞いておう」
「常に世界のなかの日本を見据えておられるゆえで。それだけのお考えを持つ者は、多くの大名や旗本のなかでん数えるほどで、そん筆頭が老中阿部正弘様と斉彬公といわれておいもす」
 その阿部正弘の訃報が、源助によって伝えられたのは、七月にはいってからだった。
「亡くなられたのは先月十七日だそうです」
「体調を崩しておられうのを、殿様が気になしておられたが」
 同席していた吉之助の言葉にみな黙り込んだ。
 盛んな蝉の声だけが遠く大気に染み渡っていた。


(続く)





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12/06 12:26 江戸浅草物語14「月こそ心よ花こそ心よ」 (無料公開)
11/15 15:30 〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8) (無料公開)
10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
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