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〔助太刀兵法8〕討ち入り象屋敷(無料公開) 
[【時代小説発掘】]
2011年5月22日 11時48分の記事


【時代小説発掘】
〔助太刀兵法8〕討ち入り象屋敷
花本龍之介


(時代小説発掘というコーナーができた経緯)

梗概: 
 ひょんなはずみで、象を相手の仇討の助太刀を引き受けた早船飛十郎は、しぶしぶ品川宿へ乗り込んだ。品川一の遊女屋・土蔵相模で出会った居残り金次と月見酒を呑んだあと、いよいよ象屋敷へ斬り込むが、名刀正宗は見事に象を斬ることが出来るかどうか。あっと驚く意外な結末………。   

【プロフィール】:
花本龍之介。尾道市生まれ。居合道・教士七段。現在逗子に居住している。


これまでの作品:
[助太刀兵法1]鎌倉しらす茶屋  
[助太刀兵法2]人助けの剣
[助太刀兵法3]白波心中
[助太刀兵法4]おとよの仇討 
[助太刀兵法5〕神隠しの湯
〔助太刀兵法6〕秘剣虎走り
〔助太刀兵法7〕象斬り正宗 

猿ごろし


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【時代小説発掘】
〔助太刀兵法8〕討ち入り象屋敷
花本龍之介


一 御殿山桜

 品川・御殿山の名の由来は、元和の頃大坂方の人質として、淀君を迎えようとして御殿を建てたとも、徳川将軍家の品川御殿があったため、とも言われている。ともあれ文政の頃は、飛鳥山や向島墨田堤と並ぶ桜の名所として、江戸庶民が押し寄せて大いに賑わった。
「なかなか立派な桜の樹だな。花見どきには、さぞ見事に咲き揃うことだろうな金次」
 桜の巨樹のあいだを歩きながら、飛十郎が言った。
「そりゃあもう全山花爛漫で、綺麗なもんで。江戸から、どっと男どもが、花見見物にやってきます。もっともお目当ては、品川宿の女郎衆だと思いやすが」
「そうなのか」
「へい。なにしろ女郎の数が千三百人といいますから、そりゃたいしたもので。吉原とくらべたって、ひけを取るもんじゃございません。もっともその吉原も、浅草寺参詣を口実にして、仲之町へくり込む連中が多いというから、同じようなものでござんすがね」
「ほう、千三百人も女がいるのか」
「東海道の宿場では、一番の数でございます。ご承知のように、旅籠付きの飯盛り女という名目になっておりますが、じつは女郎で。とくにこの品川は、吉原より少し格が落ちるが、街道すじの飯盛りよりずんと格が上がるといわれ、もう立派な遊女でございますんで」
「ということは、土蔵相模も旅籠屋ということになっているが、妓楼に近いというわけか」
「へ、へ。まあ、そんなところで」
 将軍家の御殿があったというだけあって、広大な敷地である。
「しかし、この桜、だいぶ古いな」
 飛十郎は、地を這う太い根や、樹肌にさわりながら金次を見た。
「そうですな。ま、百年はたってるでしょう。なにしろ享保の昔、八代将軍・吉宗公に命じられて植えたそうでございますから」
「ならば、飛鳥山や、向島と同じだな」
「吉宗さまというのは、よっぽど桜がお好きだったんですな」
「みたいだな。金次、あそこに見える目黒川沿いの州にある神社はなんだ」
 目の下に見える、品川宿の家並みのむこうに広がっている海を眺めながら、飛十郎が訊いた。
「ああ、品川・洲崎猟師町の弁天さまですよ。ここから深川の洲崎弁天さまの間の海が、いわゆる江戸前といわれる海ですな」
「そうか。……いや、いい気持ちだ。やはり海はいいな。左手に霞がかって見えるのは、房総の山々だな」
 桜の樹に片手を置いたまま、飛十郎は大きく伸びをした。
「早船の旦那、物見遊山にきたんじゃないんですぜ。いま頃は、森本さまと小島さまは、ご苦労なさってるんじゃないですかね」
「あの二人。張り切って、ろくに朝めしも食べずに、土蔵相模を飛び出していきおった」 飛十郎は苦笑いをした。
「御殿山を裏側から登ってみる、といって出かけたそうですな」
「うむ。遠廻りになるが、黒門横丁を登って東海寺まで行くといっていた。それから山門の手前の道を畑までくだって、御殿山の裏へ出て象屋敷までいける道があるかどうか、調べてみるといっていた」
「そうですかい。あのお二人が、搦め手から攻め込もうってんなら旦那、こっちは正面から攻めようじゃありませんか」
 昼下がりの陽射しに、まぶしく光る品川の海から目を離すと、金次はそう言って坂道を登りはじめた。
「あっしは、まだ見てないんですがね。象のための屋敷が、御殿山に建てられるってんで、宿場中の大評判になったことがあります。なんでも、この山の頂きの裏手だそうですから、こっちの方角だと思いやす」
 そう言いながら坂を登りきると、金次は道を右に曲がって、立ち並ぶ桜の樹の間を歩きはじめた。
「たしか、このあたり聞きましたが。ああ、あれだ」
 御殿山の裏を少し下がった、ひっそりと目立たない場所に、建てられたばかりの真新しい象屋敷の板塀が見えた。
「しかし高い塀でござんすね。旦那、これじゃあ中がからきし見えませんや。まいりましたね」
「三島宿で象が暴れ出して、死人が出たのにこりて、これだけ頑丈な塀囲いをめぐらしたのだろう。みろ、金次。まるで小伝馬町の牢屋敷の格子のように、太い材木で組んであるではないか」
「へっ。あっしは、まだ牢格子なんぞ見たことはねえが。たしかに旦那のいう通り、めっぽう丈夫そうな塀でござんすね」
 感心したように、金次は首を振った。
「そうだ。門もまるで城門のように、がっしりした構えだ」
「こいつは、討ち込むのは、ちっとばかり骨ですぜ、早船の旦那」
「ふむ」
 組んだ腕の左手で、無精髭をこすると、飛十郎は象屋敷を見廻わした。
「まあ、今日のところは下見だ。長居をして怪しまれてもつまらん。どうだ金次、見物はこれぐらいにして、どこぞの茶店で一杯やらぬか」
「あきれたね。さっきから、旦那はそればっかりだ。ようがす、この先に見晴らしのいい茶店がありやすから、そこへご案内しやしょう」


二 問答河岸  

 その日の夕暮れ時………。
 飛十郎は、ほろ酔い気分で、ふところ手をしながら土蔵相模へ帰ってきた。
「おや、早船さま、金次はどういたしました」
 帳場にいた番頭が、飛十郎が一人なのを見て、いぶかしげに声をかけた。
「おう、居残りか。あいつは、近所の八百屋に用があるといって、すぐそこで別れた。なに、すぐに帰ってくる」
「なら、よろしゅうございますが。これから忙しくなりますからな、金次がいないと困るんですよ。あ、それから、飛脚が早船さまへと、この書状を届けてまいりました」
「そうか。たしかに受け取ったぞ」
 さすがは品川一といわれる土蔵相模である。二人が立ち話しをしている間にも、次から次へと客が入ってくる。侍もいれば職人や商人もいる。それを店の若い者が独楽鼠(こまねずみ)のように働いて手際よくさばいていく。一階の奥にある台所で夕餉をすませた女郎たちが、客のあとを追って階段を元気のいい足取りで上がっていく。妓楼に活気があふれてくる時間である。
「早船さま、今夜も妓(おんな)はいりませぬか」
 番頭が、念を入れるような顔をして訊いた。勝五郎から事情を聞いていないらしい。むろん秘密を守るためには、そのほうが都合がいい。
「ああ、いらん。それより酒だ。出歩いて喉が渇いた」
 仇討にきて、まさか女郎買いもできぬ。刀を帯から抜いて番頭に渡すと、飛十郎は階段のほうへ歩いていった。
「遅いっ! こんな時刻まで、なにをしていた」
 よほど待ちくたびれたのか、飛十郎が障子を開けるなり、部屋の真ん中につくねんと座っていた藤次郎が、噛みつくように怒鳴った。
「まあ、そう怒るな。せいては事を仕損じるだ。落着け、品川宿を偵察してきた」
「偵察? なんのためだ」
「引くも進むも、まず地の利を知らねば話しにならん。これ兵法なり、だ。かりに仇を討てたとしてもだ、敵に捕まればそれで終わりだぞ。なにしろ幕府の屋敷に押し入って、将軍御目見得の象を殺したのだからな。家斉が、たちまち真っ赤になって怒り出すのは必定。おれ達は、ひとり残らず切腹だ。いや、打ち首獄門かもしれぬ。なにしろ、鈴が森の処刑場がすぐそこだからな。そうならぬよう、逃げ道を調べてきた」
「それで早船さま、いい逃げ道がございましたか」
 開け放した窓から、品川の海に沈む夕日を眺めていた弥一郎が、振りむいて飛十郎に声をかけた。
「いや、まだだ。なにしろ品川といっても広い。さすがは街道一の宿場といわれるだけある。それに、寺だらけだ。きょうは北品川宿のはずれにある海雲寺までいってきた。あそこの千躰荒神は、えらくご利益があるそうだぞ」
「寺や荒神堂なぞ、どうでもいい。早船どの、もう少し真面目にやってくれなくては困る」
 不満げな声を、藤次郎は出した。
―――なにを言やあがる。これでも、せいぜい真剣にやっているつもりだ。仇討のことなら、おれにまかせておけ……… 
 飛十郎は、じろりと藤次郎を睨んだが、すぐに、にやりとした。商売、商売、ここで藤次郎を怒らせれば、金五十両がふいになる。
「わかった。森本どののいう通りだ。ところで、御殿山へ裏から登る道は見つかったかな」
「はい。いずれも畑の中の細い道ですが三筋ほどありました。ですが早船さま、あの象屋敷とっくりと拝見しましたが、忍び込むのは容易なことではありませぬな。それに中のありさまが、さっぱり知れません。さっきから、藤次郎さまがいらいらされているのは、そのせいでございます。
「だまれ、弥一郎、よけいなことをいうな。これしきのこと、覚悟は出来ておるわ」
 藤次郎が、むっとした顔で腕組みをすると、天井を見上げる。
「だが、金次に調べさせたが、警護の侍は三十人はくだらぬそうだぞ。それに、昼夜を問わず半刻(一時間)おきに、屋敷の内外を見廻りしているそうだ」
「しかし、象を飼う屋敷にしては、いやに警戒が厳重ではございませんか。もしや、われらの動きを察知されたのではないでしょうな、早船さま」
「いや、それはない。ま、そいつも気になって、品川宿をうろうろして来たんだが、宿場役人や目明しの不審な動きは、感じられなかった。もし幕府が察知していれば、御殿山へ登った時点でわれわれは捕縛されていた。三十人は、象が暴れ出した時にそなえての手配りだろう」
「この品川宿の目明しは、どんな男でござる」
 黙ったまま、二人のやり取りを聞いていた藤次郎が、ふいに口を開いて飛十郎を見た。「ああ、金次に聞いたのだが、このすぐ近くで八百屋をやっている問答(もんどう)の徳三というのが、そうらしい」
「問答、とはなんのことでござる。妙な名ではないか」
「さあて、おれも知らぬ。そういえば、不思議な名前だ。あとで金次に訊いてみよう」
飛十郎が首をひねりながら答えた時、
「ええ、旦那。ただいま帰りやした」
と言って金次が声をかけながら、座敷へ入ってきた。
「ちょっと待て、金次。勝五郎にたしかめたいことがある。お前もきてくれ」
 金次を廊下へ押し出すようにして、飛十郎は外へ出た。
「いったいなんです、旦那」
 大階段の上で足を止めると、わけ知り顔で金次は小声になった。
「さっきな、番頭に酒を頼んだのだが、今はちとまずい。あとにするよう、いってきてくれ」
「酒なら、あっしが運んできましたが。旦那と藤次郎さんの雲行が怪しいんで、いったん下げておきましたよ」
「ふむ。おぬしは、やはり気がきく。いや、助かった」
「じゃ、旦那。もう座敷へ戻ってようござんすね」
「どうも、ああ侍風を吹かす男は、肩がこっていかん。ちょっと待て、ついでに厠(かわや)で用をたしてくる。すぐに戻っては、怪しまれるしな」
 飛十郎と金次が、揃って座敷へ入っていくと、むずかしい顔をした藤次郎が、じろりと見上げた。
「森本どの、問答の名の由来がわかったぞ。金次、教えてさしあげろ」
「へい。なんでも寛永の頃、三代将軍・家光さまが、ご自分の禅の師である沢庵という偉いお坊さんに〔万松山・東海禅寺〕を建立になり、たびたびこの品川へおみえになられたそうでございます」
「ああ、その寺には今朝ほど行ってまいった。さすがは京洛・大徳寺派禅宗の、江戸触れ頭のひとつだ。塔中(たっちゅう)が十七もある、じつに立派な大伽藍であった」
 元幕臣の息子らしく、うやうやしく藤次郎が言った。
「その沢庵というのは、あの大根の漬物を考え出した和尚のことだな。なんでも墓は沢庵石だそうではないか」
「へっ、へっ、そんなところで」
「馬鹿を申すな。沢庵石などではない。あれは見事な自然石を、禅宗にふさわしく墓石に見立てたものだ。人間本来無一物、という禅の境地をあらわした尊い石でござるぞ」
禅の心を持たぬ者は仕方がない、という顔で藤次郎は、金次と飛十郎の顔を見た。
「とにかく、将軍家光さまが品川から江戸のお城へお帰りになるため、御座船にお乗り込みになるとき、船着き場のある河岸で、お見送りににきた沢庵和尚に〔これほど海が近くにあるのに東海寺(遠海寺)とは、これいかに〕と、禅問答を仕掛けなすったそうです」
「ふうむ。面白いな金次、まるで落語ではないか。で、その、こころは」
「そのとき和尚は、すぐさまこう切り返しなすったそうで〔大軍を従えても、将軍(小軍)というが如し〕これを聞いた家光さまは、手にした扇をぱらりと開き、やんや、やんやと、お誉めになったそうですな」
「やんや、やんやは、ちと怪しいが。つまりは家光と沢庵が禅問答をした船着き場のことを、後世宿場の人たちが、問答なんとか、と呼ぶようになったのだろう」
「問答河岸でございます。そこで八百屋をやっている目明しが、問答の徳三親分で」
「その徳三親分とやらは、二つ名の通り、沢庵和尚に負けぬほど、機知に富んで頭が切れ、しかも話のわかる男なんだろうな」
 飛十郎が、にやりとして金次を見た。さっき別れた金次が何処へ顔を出したか、ぴんときたらしい。
「さあ、そいつはどうかわかりかねますが。世間の評判じゃ、それほど阿漕(あこぎ)な目明しじゃないといってますぜ」
「早船どの。たしかに説話としては面白いが。仇討に関わりのあることなら格別、そうでないなら問答の徳三とかいう宿場目明しのことを聞いても仕方がない。早く象屋敷に斬り込む手立てを、考えようではござらぬか」
「さあ、それだ森本どの。ひとりで、くよくよ考えても、よい思案は浮かばぬものだ。三人寄れば文殊の知恵といってな、こうやって雑談をしているうちに、いい策がわいてくるものだ。なあ、金次。一杯やれば、もっといい考えがでてくると思わぬか」
 いわずと知れた酒の催促だが、飛十郎の言葉をきいても金次は膝の上に左腕をつき、その肘のあたりを叩きながら動こうとはしなかった。
「へい。酒はすぐにお持ちしますが、その前に皆さまに聞いてほしいことがございます」「ほう、金次、あらたまってどうした」
「どうも、町人風情が出すぎた真似を、と叱られるんじゃねえかと早船さまにも、つい言いそびれちまいましたが。ちょいと、あっしも策というのを思いつきましてね」
 手の平で頭をなぜながら、金次は首をすくめるようにして、三人の顔を見廻した。
「かまわん、遠慮するな。どう出すぎたか、聞いてやろう」
「いえね。その象ってのが、江戸へむかう途中この品川宿を通りすぎた時、あっしも土蔵相模の前で見たんですがね。人込みの中で、あの象って動物は、図体にふさわしく一日数百貫も餌を食べるが、なんでも野菜や果物にかぎる。と、見物衆がしゃべっているのを小耳にはさんじまって。そいつを、ふと思い出したんで」
「おれと別れて、八百屋の徳三のところへ行ったというわけか」
 飛十郎は無精髭をごしごしこすると、感心したように首を振った。
「へい。八百徳へ顔を出して、奥にいた問答の親分にかけ合ったところ。明日の朝、象屋敷へ運ぶ餌を乗せた大八車の、あと押し役に使ってやる。と、まあ、話がきまりました」 これを聞いて、藤次郎と弥一郎の表情がさっと変わった。
「つ、つまり、居残り、いや金次どの。お、おぬしが、象屋敷の中へ入れる。と、いうことだな」
 藤次郎の声が、しどろもどろになった。
「へ、へ、まあ、そんなわけで」
 金次は首筋に手を当てると、ちらりと飛十郎の顔を見た。
「いや、これはお手柄ではございませぬか。これで、象屋敷の建物の配置がわかるというもの。特に象がいる小屋と、警護の侍が詰めている番屋の位置が知りたい」
 弥一郎が、声を弾ませると、金次にむかって頭を下げた。急に座敷の雰囲気が、明るくなった。藤次郎も、ひそめていた眉を開いた。
「ようし。でかしたぞ金次、よくやった。では、明日さっそく絵図面を書いてもらうぞ。そのつもりで、よく見てきてくれ」
 飛十郎の目くばせで、金次は部屋から出ていった。大階段の上で、追ってきた飛十郎が、ぽんと金次の肩を叩いた。
「おい、金次。八百徳にいくら渡したんだ。一両か」
「とんでもない。あっしに、そんな持ち合わせはございませんや。旦那からいただいた、一分銀二枚で」
「そうか。ちと鼻薬が少ないかもしれぬ。あと二分ばかり渡しておけ。御殿山では、何が起こるかわからんぞ。けちけちしていては、いざという時、身が危ないぞ」
 そう言って飛十郎は、ふところから取り出した小判を一枚、金次の袖の中へ放り込んだ。


三 妓楼風呂

「これが、象屋敷の絵図面でございます」
 金次はそう言って、半紙四枚をつないで書いた図面を、一同の前で広げて見せた。
「おお。これは、よく出来た。ここが象小屋で、これが世話係の小屋か。それに番小屋がこれだな。いや
金次どの、ご苦労でござった」
 藤次郎は両手を畳の上に突いて、しげしげと図面を覗き込んだ。
「はい。まるで、手に取るように塀の中がわかります。これならば藤次郎さま、象屋敷へ忍び込むのは、容易(ようい)でございます」
 弥一郎も図面を眺めながら、うれしそうな声を出した。
「たしかに、金次のこの図面のおかげで、象小屋へたどりつくことは出来そうだが。象を斬り倒したあと、逃げ出すのは大変だぞ。象も黙って殺されはしないだろうからな」
 飛十郎の、水を差すような言葉に、藤次郎は苦い顔をして弥一郎のほうを見た。
「警護の武士は、三十人。象がひと声鳴いて騒げば、全員どっとくり出して来るぞ。そうだ金次」
「さようで」
「そうなると、囲みを破って逃げ出すのは骨だな。兵は迅速をとうとぶ、だ。見廻りの合い間の、半刻ほどで片を付けなくてはならん」
「そればかりではございません。大変なことを聞いてまいりました」
金次が、図面から顔をあげて、飛十郎を見た。
「いえね。番屋の軒下に、象の形をした大きな板木(ばんぎ)が吊り下げてあったので、そばにいた侍に聞いてみると象が暴れ出して大騒ぎになったら、これを叩くんだそうで」
「ふむ。叩けばどうなる、金次。品川中の宿場火消しが、すっ飛んでいくのか」
「そんな、やわなことじゃあないんで。旦那もご存知の通り、高輪から御殿山にかけて大名の下屋敷だらけでございます」
「それがどうした」
「板木が、かんと鳴りゃ、すぐ近くにある因幡・鳥取藩三十二万石、出雲・松江藩十八万六千石、近江・水口藩二万五千石、それに真打ちは仙台・伊達家六十二万石の下屋敷から、おっ取り刀の侍たちが象屋敷へ駆けつけることになってるんで。え、どうします早船の旦那」
 金次にそう聞かれると、飛十郎はあぐらをかいたまま、頭をごしごし掻きながら藤次郎と弥一郎の顔に目をやった。
「はて、急にそういわれてもなあ。おのおの方(がた)どうしますかな、もしそんなことになったら」
「……………」
 ふたりとも目の前の図面に見入ったまま、何も答えない。
「返答なし、か。しからば、おれは」
 と言って、飛十郎は立ち上がった。
「旦那、いったい、どちらへ」
「風呂だ。あわてても仕方がない。二、三日動かずとも、御殿山の象はどこへも逃げはせん。こんな時は、ゆっくりと湯につかるにかぎる」
「たしかに風呂にでも入れば、いい知恵がわいてくるかもしれませんな」
「そういうことだ」
 飛十郎は、手摺りにほした手拭いを取ると、さっさと部屋から出て行った。
「おい。金次、いっしょに来い。背中を流してやる」
「え、あっしもですかい」
驚いたように、金次が顔を上げた。
「そうだ。そのかわり、おれの背中も流してくれ」
 金次の顔が、うれしそうに笑った。
「では、ごめんなすって」
 藤次郎と弥一郎に声を掛けると、いそいそとした足取りで、飛十郎を追って廊下へ出て行った。
「ふん。武士が町人の背中を洗うなどとは。いくら浪人とはいえ、けしからぬとは思わぬか。世も末だ」
「そこが、早船どののいいところだと思います」
「もしかしたら、弥一郎。われわれは、とんでもない男に助太刀を頼んだかもしれぬ」
 首をかしげながら、藤次郎は暗い声で言った。
「そうは思いません。早船どのは少し無作法なところはありますが、なかなかいい人だと思います」
「いやに肩をもつではないか」
「肩をもつわけではありませんが。象を討つなどという破天荒なことは、ああいった少し風変わりな人間でないと出来ないと思っているだけです」
「少しどころではないぞ。大変わりだ。とにかく、あの男から目を離さないほうがいい。なにを仕出かすか、わからぬからな」
 藤次郎と弥一郎が話している頃 ―――。飛十郎は、湯殿でのんびりと金次に背中を流させていた。
「のんきですねえ旦那は。鼻唄なんぞうたって、いったいこれからどうするんです。なにか策とやらはあるんでしょうね」
「そんなものは、あるもんか」
 糠袋で肌をこすられて、飛十郎は気持よさそうに目を細めた。
「じゃ、どうするんです。あの象の板木を叩かれたひには、そこら中の大名屋敷から槍を片手に数百人が、押し寄せてくるんですよ」
「だから、そんなことはない」
「え。そいつはまた、どうしてです」
 金次が、きょとんとして、糠袋の手を止めた。
「ことは簡単だ。叩かれるから大騒ぎになる。ならば、その前に板木を取りはずして、どこかへ隠してしまえばよい」
 ぽんと額(ひたい)を打って、金次が舌を巻いた。
「なある………。あっしとしたことが、気がつきやせんでした。こいつは、まいった。旦那のいう通りだ」
「なに、感心するほどのことでもない。さっきは、ああいって少しおどかしておいたのだ。あの二人、ちと融通がきかなさすぎるからな」
 しぼった手拭いを折りたたんで、頭に乗せながら飛十郎が言った。
「そうですかい。けど、あの森本藤次郎ってお侍は、あっしは好きですがね。当節の侍はちゃらちゃらして、どうも気に入らねえや。それに比べたら、いいじゃござんせんか。あの四角ばった頑固さは。武士は、ああでなくちゃいけませんや」
「なにやら、耳が痛くなってきたぞ金次。おれが武士らしくない、といわれているようでな」
「と、とんでもない。けっして、そんなつもりでいったんじゃございません」
 あわてて金次が、糠袋を振った。
「は、はは、気にするな。どれ、今度はおれが背中を流してやろう。糠袋をよこせ」
 金次の手から糠袋を奪うと、飛十郎は背中をごしごしと流しはじめた。
「旦那、おてやらかに。こう見えても、あっしの背中は、やわでござんすからね」
「わかっておる。まかせておけ。それにしても、あの絵図面はなかなかよく出来ていた。書くのは大変だったろう」
「あんなのは、たいしたこっちやないんですがね。苦労したのは、象の野郎の餌運びでさ。なにしろ、およそ四十貫はあろうかという重さの野菜や果物を大八車に積み込んで、御殿山あの坂を登るんですからねえ。こいつには、まいりましたよ」
「ほう。象というのは、どんなものを食べるのだ」
「へい。あっしが運んだのは、人参、茄子、薩摩芋、里芋、大根といった野菜に、柿、栗、葡萄なんかでしたが。なにしろ一日の量が、一頭約十貫目というから、びっくりでさ。二頭で二十貫、その二日分を八百徳から届けるってんですからね。一度でこりごりしましたよ」
「そうか。それで、どういって、問答の徳三に掛け合ったのだ」
「へ、へ、あっしは生まれついての動物好きで、それも象に目がねえ口でございます。ぜひ一度すぐ近くで見たいもんで、といって袖の下をつかませたんでさ」
「なるほどな。金次やはりおまえは、たいした奴だ。おれの目に狂いはなかった。どうだ、これから料理茶屋へくり出して、湯あがりの一杯をつきあわぬか」
 ざっ、と音をたてて湯に入りながら、飛十郎が言った。
「あれ、ここで呑むんじゃないんですかい」
「ここも悪くないが、ほかの座敷の三味線や太鼓の音がうるさいからな。それに、あの二人の辛気(しんき)くさい顔を見ながらでは、酒がまずい。金次、どこか気のきいた見世はないか。海を眺めながら一杯やりたい」
「そうですかい。じゃ、旦那こうしましょう。せっかく品川へ来たんだ。小舟に酒と肴を積み込んで、沖で一杯やりましょうや。さいわい月も十三夜だ。潮風に吹かれて、波に揺られながらの酒も、おつなものでござんすよ」
「うん、それはよい。よし、そうときまれば金次、躰なぞ洗っているひまはない。すぐ、出かけるぞ」
 飛十郎は勢いよく湯から出ると、脱衣場へむかって歩いて行った。
「へ、旦那、がってんで」
 四、五人は入れようかという大きな湯船へ、どぼんと飛び込むと、鴉の行水よろしく金次は飛十郎の後を追って、すぐに湯殿から出て行った。


四 月見舟

「いい月じゃございませんか。旦那、ごらんなすって」
 品川沖へ出ると、櫓をこぐ手を休め、潮の流れに船をまかせて、金次は空を見上げた。雲ひとつ無い夜空に、降るような満天の星が煌めき、その下で大きな月が明るく輝いている。
「うむ。月もいいが、舟で呑む酒もまたいい。金次のいう通りだ。品川の遊びは、海へ出なくてはわからんな。ほら、見ろ。土蔵相模があんなに小さくなった」
 土蔵相模だけではない。海岸の石垣の上に建ち並んだ料理屋や茶屋、それに旅籠の二階座敷で踊ったり唄ったりしている酔客たちの姿が豆粒のように見える。
「ここまでくれば、こっちのもんだ。旦那、三味や太鼓も、ほんのかすかしか聞こえませんぜ」
「金次も呑め。だが、思ったよりたくさん舟が出ているものだな。おどろいたぞ」
「へい。なにしろ、夜舟で一杯やるのと、夜釣りが品川名物でございます。それに、ちょうど今夜が後(のち)の月(陰暦九月十三日の月)に当たるもんで、ことさら舟が多うございます」
「ふうむ、後の月か。おぬし、なかなか風流なことを知っているな」
「なあに、女郎衆の受け売りでござんすよ」
「あれは、なんだ。舟のあいだを走り廻っている、あの小舟は」
「物売りの、うろうろ舟でございます。ああやって月見舟へ寄って行っては、鮨や、天ぷらや、おでん、それに酒や団子を売って廻ってるんで」
「おもしろいな。初めて見た」
「旦那。月に照らされた江戸の町は、なかなかおつでござんすね」
「そうだな。こうして波に揺られながら眺めていると、八百八町も綺麗に見えてくるから不思議だ。どうだ金次、そろそろ江戸へ帰りたくなってきたか」
「へ、へ。あっしは、どうも品川が性に合っているようで。魚はうまいし、空気はいいし、とうぶん離れられまやせんや」
「ま、それもよかろう。住めば都というからな」
「こうやって見ていると、江戸ってのはずいぶん広うございますね。空の星の数に負けねえほど、灯りがまたたいてますぜ。あのあたりが、早船の旦那が住んでいる深川じゃないですか」
 立ち上がると金次は、江戸湾の奥まったあたりを指差した。
「あんまり灯りが無い、あの一段高くなったところが、お城じゃございませんか。あそこのご本丸の先にある、大奥ってとこに将軍さまが住んでるって噂ですがね。旦那、家斉さまは今頃なにをなさっているんでしょうね」
「うむ。将軍といえど、おれたちち同じ人間だ。おおかた、ひと風呂あびたあと、一杯やっていると思うぞ。こら金次、つまらんことをいってないで、おまえも呑め」
「へっ、ちげえねえや。じゃ旦那、ごちになりますぜ」
「名月を見ながらの酒は、また格別だ。そう思って一升徳利を、二本も持って来たのだ。じゃんじゃん、やれ」
「そうはいきませんや。陸(おか)ならともかく、ここは波の上でござんすよ。酔いつぶれでもしたら、流されて大変なことになりまさあ」
「いいではないか。舟が流されて、潮に乗って八丈島あたりにたどり着けば、面白くなるぞ」
「冗談じゃねえ。まったく、旦那にあっちゃ、この金次もかなわねえや。あ、御殿山が見えますよ」
「なに御殿山、いやなことを申すな。せっかくの酒がまずくなる」
「けど、早船の旦那。いったい、いつになったら象屋敷へ討ち入るんです」
 金次の言葉に飛十郎は盃を置くと、波間で光っている月を見た。
「よし、きめた。二日後の夜半だ」
「えっ! 二日あとっていえば、月は変わるが十五夜じゃございませんか」
「足元が暗くては、とうてい御殿山では働けぬ。月が中天にかかった頃あいをみて、斬り込む。金次あの二人のために、空が晴れるように祈ってやれ」
 飛十郎はそう言って、夜空で皓々(こうこう)と輝いている後の月を見上げた。


五 波打ち桜

 土蔵相模の奥庭をぬけ、裏木戸の石段をおりて、船着き場に四人が集まった時には、空に十五夜の月が明るくあたりを照らしていた。
 夜が遅い品川宿も、さすがに丑の刻(午前二時)を過ぎれば、しんと静まり返って物音ひとつしない。聞こえるのは、猫の鳴く声と、石垣に打ち寄せる波の音だけである。
「四人は、目立つ。ふた手に別れよう。早船どのは、金次と御殿山へむかっていただきたい」
 緊張した声で言うと、森本藤次郎は三人の顔を見廻した。
「それはいいが、どこで落ち合う。象屋敷の前か」
 飛十郎が、海を見ながら聞く。この時刻になれば、あれだけいた月見舟もとうに帰ったのか、一艘の舟も見えない。
「いや、あそこは見廻りがくるから危ない。少し離れたところに、波打ちの桜という名木がある。その下で会おう」
 飛十郎はふところ手をすると、黙ったまま金次の顔を見た。
「へい、知っておりやす。満開のとき、咲いた桜が潮風に吹かれて、大波が打ち寄せるように見えるので有名な老木です」
「それに波打ちは、討ちに通じてまことに縁起がよい。では早船どの、われら二人は東海寺を抜けて、裏から登ることにする。お先に、ごめん」
 討ち入りを前にして気負っているのか、月光に照らされた藤次郎と弥一郎は、青白くこわ張って見える。
「大丈夫ですかね、あの二人。声が震えてましたが」
 表通りへ去っていく後姿を見送りながら、金次がささやくような声で言った。
「生まれて初めて、真剣を使うのだ。それも相手は象だからな。少しばかり声や足が震えても、仕方があるまい。それにしても金次、いい月だな。日の出は高輪、月の出は品川、といわれるだけのことはあるな」
「のん気なことをいってる場合じゃありませんぜ、旦那。あっしらも、そろそろ押し出そうじゃありませんか」
「おう、まかせる。案内しろ」
 小桟橋の棒杭に腰をおろしたまま、まだ飛十郎は月を見上げていた。

「旦那、あれが波打ちの桜ですよ」
 御殿山の頂上を過ぎたあたりに立つ、見事な枝ぶりの桜の巨樹を金次は指差した。
「なるほど、これが満開になれば、さぞ立派だろうな。来年の春、花見に来たいものだ」「へ、鬼が笑いますぜ。ほら、先発のお二人がもう着いてますよ。藤次郎さんが、手を振っていなさる」
「金次、振りかえすな。あれは、おれが遅いので、早く来いといって怒って振っているのだ」
 飛十郎が言った通り、藤次郎はいらいらしながら待っていたらしい。
「遅いっ! 早船どの、そちらの道のほうが近いというのに、なにをしていたのだ。ぐずぐずしていると夜が明けるぞ。待ち切れずに、弥一郎と二人で斬りこもうとしていたところでござるぞ」
 藤次郎と弥一郎は、手足に手甲と脚絆を付け、足拵えもしっかりとした草鞋ばきだ。そのうえ頭に鉢巻きを締め、刀の下げ緒できっちりと襷(たすき)がけまでしている。それにひきかえ飛十郎のほうは、いつもと同じ、よれよれの袴に雪駄(せった)ばきだ。
「まあ、そうあわてるな。仇討に、あせりは禁物。いきなり斬り込んでも様子が知れねば、失敗するぞ。返り討ちになってもいいのか」
 返り討ちと聞いて、藤次郎と弥一郎が不安そうに顔を見合わせた。
「それより、刀の目釘を確かめるんだな。いざという時、柄(つか)が抜けでもしたら話にならんぞ。いいか、ここは助太刀人の、おれにまかせろ。それ金次、早くあれを持ってこい」
 月の光の中で、あわてて目釘を見ていた藤次郎と弥一郎が、気を呑まれたように飛十郎にむかって、うなずいた。何処かへ駆け出して行った金次が、すぐに長い梯子を肩にかついで戻ってきた。
「お、その梯子をどこで」
 藤次郎が驚いて声を上げた。
「へ、へ、この近くの茶店の裏にあったんで。この前、下見にきたとき、当たりをつけてたんでさ。あの高い塀をこすには、こいつがなくちゃ無理でござんすからね」
「この梯子で、まず金次とおれが象屋敷に入る。おぬしたちは合図をするまで外で待っていてくれ」
「いったい、どれくらい待てばいいのでござる」
「なに、すぐだ。ただし、いっておくが、もし手違いがあって番屋の板木が鳴れば、ただちに御殿山から退去して、さっきの船着き場に帰ってもらいたい。いいか、これだけは守ってくれ」
「どうして、船着き場なのだ」
「おれたちの敵は、警護の三十人だけではない。板木が打ち鳴らされれば、ちかくの大名屋敷から、どっと手勢が御殿山に押しかけてくる。その数、五百人だ。捕まればどうなるか、おぬしたちのほうがよく知っているだろう。追ってからのがれるのは、海が一番だ。おれと金次がいくまで、桟橋につないである舟に乗って待っていてくれ」
 藤次郎と弥一郎は、また心細げに顔を見合した。
「そういうわけだ。象屋敷の門の前にいてくれ、いいな。では、お先にごめん」
金次をうながすと、飛十郎はさっさと歩き出した。
「ま、待ってくれ。早船どの合図といったが、どんな合図でござる」
 飛十郎は立ち止まると、頭をかきながら藤次郎を見た。
「口笛、だ。おれが口笛を吹いたら、おぬしたちは門内へ突入してくれ」

 飛十郎と金次が、息をひそめて太い木陰に身を隠しているすぐ前を、提灯を持った侍たちが通り過ぎて行った。
「七人もいましたぜ。旦那、危のうございましたな」
 くぐり戸が閉まって、見廻りの侍たちが見えなくなると、金次がほっとしたように声を出した。
「うむ、思った通りだ。見廻りは、侵入してくる敵に対してのものではない。象が暴れ出して、品川宿へ逃げ出すのを防ぐためだ」
「なるほど。それで槍を持っていたんですね」
 塀の内側で、しばらく人の声と歩きまわる足音がしていたが、やがてしんと静まり返った。
「いくぞ、金次」
 塀に駆け寄ると、立てかけた梯子を、するすると金次が上がっていった。すぐに、くぐり戸が内側から開く。
「旦那っ、早く!」
「そう急ぐな。あと半刻は、見廻りには出ぬ」
 知り合いでも訪ねたような足取りで、飛十郎はくぐり戸を抜けて象屋敷の中へ入って行った。
 長屋造りの番屋からは、灯りがもれて、かすかに話し声がしている。足音を忍ばせて前を通り過ぎると、奥の象屋敷のほうへ歩いて行った。
「こちらで、旦那」
「ふたつ、小屋があるな。どっちが、仇の象だ」
「へい。むこう側のほうが、牡(おす)の象だそうで」
「そこにあるのが世話係の小屋か。よく寝ていると見えて、静かだな」
「二人いるそうですが、餌をやるだけでも大苦労でさ。今頃は疲れ切って、白河夜船でさあ」
「おい、金次。ちょっと耳をかせ」
 なにやら金次にひそひそと囁いた飛十郎が、すぐに門にむかって歩きはじめた。金次は番屋の軒下に吊ってある板木をとりはずすと、小脇にかかえて足音を忍ばせながら、象小屋の裏のほうへ姿を消した。

「藤次郎どの。さ、お入りなされ。これが、仇の象がいる小屋だ」
 手まねきをすると、飛十郎はさっさと小屋の中へ入って行った。壁に常夜の角行灯が掛けられ、窓から月の光が流れ込んでいるから、さほど暗くはない。人の気配を感じたのか、大きな影がゆらりと動く。目がなれてくると、広々とした小屋の中の様子が、はっきりと見えてきた。
 藤次郎が弥一郎をうながして、小屋へ入ってくる。象の姿を見ると、はっとして足を止めた。
「おのれ、父上の仇。弥一郎、ぬかるな」
 すらりと正宗を引き抜くと、藤次郎は刀を右八相に構えた。弥一郎も慌てて刀を抜くと、こちらは青眼に構える。月光に二本の刀身が、きらりと光ったが、いずれも小きざみに震えているのが見えた。飛十郎は、退路を断つ気か、ゆっくりと象の後ろへ廻った。
 野獣の本能で危険を感じ取ったのか、象は耳を大きく動かして、長い鼻を天井にむかって振り上げた。
「やっ!」
 押し殺した気合い声を出すと、藤次郎は右袈裟に大きく刀を振りおろした。が、生まれて初めて刀を抜き、象とはいえ動いている生き物を斬ったのである。誰でもそうだが、あと半歩ほど踏み込みが足りなかった。刃鳴りの音を響かせて仇にむかった正宗は、わずかに切っ先が象の皮膚を斬っただけで、血も出なかった。
 瞬間、象の尻のあたりで刀身が煌(きら)めいたかと思うと、鍔鳴りの音がした。床に落ちた物を拾い上げると、飛十郎は素早くふところにねじ込んだ。
 とたんに象が前足を振り上げると、夜気を震わせて鳴き声を放った。
「や、弥一郎、どうした、ひと太刀あびせろ! お、臆したか」
 藤次郎に叱咤されても、弥一郎は刀を青眼に構えたまま、一歩も動こうとしなかった。 その時、象小屋の裏で板木を打ち鳴らす、高い音が響き渡った。
「む、まずい。逃げろ! すぐに警護の侍たちが駆けつけてくるぞ。さあ、二人とも早く行け。捕まるぞ」
 二人の肩を押すようにして象小屋の外へ出ると、飛十郎は裏手へ走って行った。
「いるか、金次」
「へい、旦那。裏門はこっちです」
「よし、ここはおれが食い止める。この二人を連れて、御殿山をおりろ。おれは、あとから追う」
「まかせておくんなせえ。じゃ、旦那も、お気をつけなすって」
 抜き身を持ったまま、茫然とした藤次郎と弥一郎を追い立てるようにして、金次は裏門を開けて外へ出ると、御殿山の裏道をなれた足取りで東海寺の方角にむかって歩きはじめた。


六 大木戸駕籠

 静かな夜である。聞こえるのは、海岸に打ち寄せる波の音だけだ。
 夜遊びから帰ってきたような足取りで、飛十郎は土蔵相模の石段を降りると、桟橋を舟のほうへ歩いていった。
「心配してましたぜ、旦那。ご無事でしたかい」
 舟にうずくまっていた金次が、うれしそうに立ち上がった。
「ああ、連中は象が何事もないのを見て安心したらしい。塀の廻りを調べただけで、追っ手は出さなかった。役人の事なかれ、というやつだ。大騒ぎにはしたくなかったとみえる」
「おかげで助かりやしたね、旦那」
「まあな」
「早船どの、無念でござる。あと一息で、父上の仇が討てるというのに、果たせなかった」
 舳先(へさき)に腰をおろして、海を眺めていた藤次郎が、振りむくと泪声で言った。弥一郎は、うなだれたまま声も出ないようだ。
「そう気落ちするな。象は逃げはせぬ。これからも、討つ機会はある」
「そうでしょうか、早船さま。また出来ますか、仇討が」
 弥一郎は顔を上げると、声を振り絞るようにして聞いた。頬が濡れているところを見ると、悔し泣きをしていたらしい。
「出来るとも。この早船飛十郎が受けあう。そのために助太刀人として、雇われたんだからな。ただし、あの象がおぬし達の、本当の仇だとしたならば、の話だ」
 またか、というように藤次郎が、飛十郎をうんざりした顔で見た。
「だから、前にもいったでござろう。たとえあの象が直接手を下さずとも、幕府のご政道を正すためには、かわいそうだが象を討たねばならぬ。それが武士の筋道というものでござる」
「ちがうな」
 無精髭をこすりながら、飛十郎は海に目をやった。
「あの三島宿の変事は、象にとっても災難だったのだ。弥一郎どのの兄上がそうだったようにな。本当に悪いやつは、ほかにいる。今その証(あかし)を、おぬし達に見せてやろう」
「証とは、なんのことでござる。早船どの」
 藤次郎が、飛十郎を睨みつけた。
「金次、沖にある舟が見えるか」
「ええ、船行灯が見えますからね。さっきから、あっしも変だと思っていたんでさ。こんな時刻に、あんな沖に舟がいるなんざ」
「ご苦労だが、あの舟まで行ってくれ。わけは、あとで話す」
 飛十郎が舟に乗り込むと、金次は器用に艪(ろ)をあやつって、たちまち沖に停泊している小舟に漕ぎ寄せて行った。
「骨を折らせたな、伊蔵。これが、れいの荷か」
「さようで」
 そう言って、伊蔵は舟底に掛けてあった筵(むしろ)を撥ねのけた。
「うっ、何者だ。この男は」
 藤次郎が、思わず声を上げたのも無理はない。舟板の上に横たわっていた男は、手足を荒縄で縛られたうえに、手拭いで猿ぐつわを噛まされていた。
「三島宿の本陣の番頭だ。名は」
「与助でございます。飛脚で知らせたように、この者が尻を槍で突いたために、象が暴れだしたのです」
「自白したのだな」
「なかなかの強情者で、少々手こずりましたが、、海へ沈めると脅しつけましたところ、ようやく白状いたしました」
「よし、起こせ」
 伊蔵は縛られた男を引きずり起こすと、背中を船べりにもたせ掛けた。ゆらりと舟が揺れた。
「与助、この男はな目役の伊蔵といって、人を殺すことなど何とも思わぬ怖い男だ。槍で象を突いたというのは、本当だな」
 猿ぐつわをされたまま、与助は怯えた目で何回もうなずいた。
「いったい、どういうことでござる。何が何やら、さっぱりわからぬが」
 藤次郎が、弥一郎と顔を見合せながら言った。
「つまり、象がふいに狂ったように暴れ出したのは、象が悪いのではなく、この男のせいだということだ」
「それはわかり申したが。この与助という男はどうして、そんなことをしたのでござるか」
「よくある本陣あらそいだ。伊蔵、わけを話してやれ」
「へい。三島宿の本陣・加納屋仙右衛門は絹や米相場などの投機に手を出し、それがことごとく失敗、数年前から金繰りに苦しんでおりました」
「それにつけ込んだのが、脇本陣だな」
「困った時はおたがいい様、とかいって親切ごかしに仙右衛門に金を貸しつづけ、金高が数百両になったところで、本陣をゆずれと脇本陣をやっている山吹屋利兵衛が、かけ合いにきたそうです」
「ふむ。仙右衛門は金も返せず、本陣もゆずりたくない。そこで考えついたのが、今度の甲比丹象行列の大騒動というわけだ」
「へい、相場を張るだけあって、なかなか頭が廻ります。象を暴れさせれば、脇本陣の手落ちになる。うまくいけば山吹屋は三島宿に居られなくなる。とまあ仙右衛門は、考えたそうです」
「小ずるい奴の考え出しそうなことだな。それで本陣側のもくろみ通りにいったのか」
「どんぴしゃりで。将軍家御拝謁の象を暴れさせ、あまつさえ脇本陣内で人死にを出すなど、重々不行届きに付き、闕所(けっしょ・家屋敷財産をすべて没収)の上ただちに追放、という御公儀のお裁きがくだり、山吹屋は泣く泣く身ひとつで三島宿から出ていったそうでございます」
「身から出た錆びということか。それにしても、本陣の仙右衛門という奴もやり方があくどいな」
「へい。どっちもどっちでございます」
「まあな。そういうわけで、象は三島宿の欲深どもに利用されただけ、いうことになる。これから、どうなさる」
 頭をかきながら、飛十郎は藤次郎を見た。
「どうするといわれても、なあ弥一郎。やはり御殿山の象を斬るしか、武士の面目を立てる方法はあるまい。かわいそうだが幕府の御政道を正す道は、それしかござらん」
「幕府の間違いを世間に知らせ、将軍家斉に今度の処分を反省させればいいのだろう」
「さようでござる。だが、象を斬るほかに何か方法がござるか」
「ひとつ、ある。これだ」
 飛十郎はそう言って、ふところの中から掴み出した物を、藤次郎にむかって突きつけた」
「なんです、旦那。その牛蒡(ごぼう)の先に毛をくっつけたような、妙なしろものは」
たちまち金次が、横から口をはさむ。
「ふ、ふふ、象の尻尾だ」
「えっ、象の尻尾? じゃ、さっき象屋敷で斬ったんですかい」
 金次の目が丸くなった。
「そうだ。象小屋で斬り落として持ってきた。これを使って、家斉を反省させる」
 それまで黙ったまま、うなだれていた弥一郎が、はっと顔を上げた。
「早船さま。それを使って、幕府と家斉さまのあやまちを正すと、おっしゃいましたが。どうすれば、そんなことが出来ますので」
「明日の朝、象を暴れさせた下手人の与助と、この尻尾と、事の顛末をかいた書状を駕籠にのせて、江戸・龍(たつ)の口にある評定所へ送り込む」
「なるほど、考えましたね旦那。ご評定所へ象の尻尾を送りこみゃあ大騒ぎになりまさあ。日本広しといえど、今この国で象がいるのは御殿山だけだ。すぐさま役人どもが駆けつけるってわけだ」
 感心した顔で、金次は飛十郎を見た。
「いや、評定所はこれをもみ消すかもしれぬ。幕府のやり方は、すべてそうでござる。徳川家にとって都合の悪いことは、闇から闇へほうむってしまう。父上の時もそうでござった」
 くやしげに唇を噛みながら、藤次郎が言った。
「そうはさせぬ。江戸と品川宿に人を使って噂を振りまく。三島宿と品川御殿山の象騒動の真相を、瓦版に摺ってばらまく。いざとなれば、いろんな手がある。それに幕閣にはまだ人もいる」
「その人とは、誰のことでござる」
「たとえば、寺社奉行の脇坂淡路守がそうだ。それに名はいえぬが、若年寄にもひとり骨のある者がいる。この二人がいるかぎり、この一件を闇にほうむるようなことはない」
 自信ありげに、飛十郎は言い切った。
「この弥一郎は、早船さまの策に賛成いたします。もう象を斬るのは、いやでございます」
「だまれっ! 弥一郎。きさまは憎い兄の仇を前にしても足がすくんで、ひと太刀も斬り込めなかったではないか。この臆病者めがっ」
 藤次郎は、こめかみに青筋を立てて弥一郎を怒鳴りつけた。
「わたしは………、わたしは、たしかにあの象を目の前にして、足がすくみました。しかし、それは臆したからではございませぬ。あの、つぶらで、小さな、黒い目と目が合ったとたん、なんというか………。とにかく、あの象の目が、とてもやさしかったのです。あの罪もない動物を刀で斬り殺すことなど、自分にはとても出来なかったのです………」
 夜明けが近いのか、海から吹く風が急に強くなった。二隻の舟は、上下に大きく揺れた。弥一郎の言葉の小さくなった語尾が、風に飛ばされたように消えていった。
「罪がないだとっ。 あの象のおかげで、おまえの兄は踏み殺され、おれの父上は切腹させられたのだぞ」
「ちがう。おぬしたちの肉親を殺したのは、人間の醜い欲望と憎悪だ。そうは思わぬか、藤次郎どの。本陣と脇本陣の、欲がからんだ争いに象が利用され、たまたま近くにいた弥一郎どのの兄上が、巻き込まれて死んだ。いわば、これは災難だ。象に罪はない」
「旦那。あっしも、そう思いますよ」
 思わず口に出した金次の言葉に、伊蔵もうなずいた。その二人を、藤次郎がじろりと睨んだ。
「それから、将軍だ。権力の美酒の酔いしれていた家斉は、異国からはるばる海を渡ってやってきた象が、三島宿であろうことか、自分の部下である長崎奉行の与力に斬られた、と聞いて激怒した。そのうえ大奥の女たちや、世継ぎや、御三家に約束していた日から、十日も到着が遅れると知って、面子(めんつ)が潰されたと感じた家斉の怒りは、深い憎悪に変わった。松の廊下で刃傷した浅野内匠守に対する、綱吉の憎悪と同じ感情だ。つまり、百三十年をへだてた二人の将軍が、似たような刃傷事件に、まったく同じ愚かな処分を下した。取り調べなしの、即日切腹というな」
 飛十郎が言葉をきると、しばらく誰も身動きをせず、口もきかなかった。
 風が弱まったらしく、さっきまで立っていた白い波がしらが消えて、寄せてくる波がゆるやかになった。
洲崎弁天のあたりから、鴉の鳴き声が聞こえてきた。
「いま、何刻(なんどき)だ。金次」
「月の傾きようから見て、暁七つ半(午前五時)を過ぎた頃じゃありませんかね」
「伊蔵、駕籠はどこに待たせてある」
「へい、高輪の大木戸で落ち合うように、友蔵にはいっておきましたが」
 飛十郎はうなずくと、藤次郎を見た。
「さあ、どうなさる森本どの。おぬしは、まだ象を斬るおつもりなのか」
 無言のまま腕組みをして考え込んでいた藤次郎が、肩を落とすと膝に手を突いた。
「わかり申した。早船どのの、いわれるようにいたそう。考えてみれば、悪いのは人間でござる。あの象に罪はない」
 膝に置いた手の甲に、大粒の泪が落ちた。
「よかった。藤次郎さま一諸にご評定所まで行きましょう。駕籠の中の与助と象の尾を見れば、かならず家斉さまも、このたびの処分を後悔なさるに違いありません」
 弥一郎は、藤次郎の手を握りしめて言った。
「よく聞きわけてくれた。江戸三十六見附(みつけ)の門が開くのは、明け六つ(午前六時)だ。それまでに評定所に一番近い、呉服橋御門まで行っていなくてはならん。金次、すぐに舟を高輪までやってくれ」
 豆絞りの手拭いを取り出すと、金次はねじり鉢巻きをした。
「がってんでさあ。旦那、しっかり舟につかまっててくだせえよ。すっ飛ばしますぜ」


七 品川鴉   

 金次と伊蔵が漕ぐ二隻の舟が、無事に大木戸横の岸壁に着くと、すぐに友蔵が石段を駆けおりてきた。
「早船の旦那、おひさし振りで」
「おう。このたびは、いろいろと面倒をかけるな」
「旦那、水くさいことは、いいっこなしだ。駕籠は、すぐそこの積み石のそばで待たせております」
「よし、それでは、すぐに与助を駕籠に乗せてくれ」
 伊蔵と友蔵、それに金次も手を貸して、与助を担ぎあげると駕籠に押し込んだ。
「さあ、あとは評定所まで突っ走るだけだ。伊蔵、藤次郎どのと弥一郎どのを、よろしく頼むぞ」
「お待ちくだされ。このお二人は、いったいどういう方たちでござる」
 いぶかしげな顔で、藤次郎は飛十郎を見た。
「そうか、まだ引き合わせていなかったな。舟に乗っていたのが、目役の伊蔵。駕籠を連れてきたほうが、耳役の友蔵だ。名の通り助太刀人の、目とも耳ともなる重要な役割を果たす、安達屋藤兵衛の腕ききの手の者だ。まことに頼りになる連中だ」
「では、早船どのが三島宿に不審をいだかれ、このお二人を差しむけられたのか」
「ま、そういうことだ」
「さようか。しかし箱根の関所は、名にしおう厳しさだと聞く。与助やらを連れて、よく越せたものでござるな」
「さすがは藤次郎どの。よくそこに気がつかれた。だが、それはおれにもわからん。伊蔵、どうやって関所を越えたのだ」
 飛十郎は、無精髭をこすりながら、伊蔵に声をかけた。
「なあに、蛇(じゃ)の道はへびでして。いえね、三島の漁師に金をつかませて、舟で熱海の近くまで行きました。それから先は駕籠でございます」
 伊蔵が、尻端折りをしながら答えた。
「念を押しておくが、おぬしたちが駕籠を見とどけるのは、評定所の門の前までだ。あとは伊蔵たちに、まかせてもらいたい。あとは、お二人の自由だ。どこへでも立ち去ればよい」
 藤次郎は、振りむいて弥一郎の顔を見た。
「わたしは長崎へ行き、甲比丹のへンスどのに会って、兄のあとを継いで蘭語を学び通詞になろうと思っています。そのあとは蘭学の道に入り、これはもちろん夢ですが、いずれはヘンスどのについて阿蘭陀国へ渡りたいと思っています」
「ほう。それはまた雄大な夢だな。藤次郎どのは、どうなさる」
「象を討つことばかり考えていたので、まだ何も頭に浮かばぬ………。だが、江戸にいても仕方がない。なにかやることが見つかるまで、弥一郎と一諸に長崎へでも行こうかと思うが。かまわぬか、弥一郎」
「行きましょう、長崎へ。藤次郎さま」
「それはよかった。どうだ金次、おまえも行きたいだろう」
 ふところ手をすると、飛十郎は金次を見て、にやりと笑った。
「とんでもねえや。あっしは、そんな遠くへは、とてもじゃねえが………。けど、よろしゅうござんしたねえ」
 たまらなくなったように、頭の鉢巻きを取ると、金次は目をぬぐった。
「早船どのは、これからどうなさる」
「おれか。おれは品川が気に入った。もう少し、金次と土蔵相模に居残ることにした。なにしろ、魚と酒がめっぽうおいしいからな」
 頭をかきかけた飛十郎の手が、上にあがった。
「では。これで、おさらばだ」
「お待ちくだされ、早船どの」
 そう言って、藤次郎が懐中から紙包みを出した。
「お約束の後金、二十五両でござる」
 金次の目が丸くなった。
「そうか。だが約束は象の仇討の助太刀だ。まだ象を討ち果たしてはおらん。受け取るわけにはいかぬ」
「同じことでござる。象は討たずとも、上様にご反省を願えれば、仇討を果たしたも同然、草場の陰の父もさぞ喜んでいることでござろう。ぜひ、お受け取りくだされ」
「いや、それは困る」
「それでは、こちらが困る」
「すいませんが、旦那がた。急いでいただかなくちゃあ、夜が明けます」
 伊蔵が、たまりかねたように、口をはさんだ。
 飛十郎は、品川宿にむかって走り出すと、足を止めて振りむいた。
「長崎までは遠いぞ。その金は、路銀に使ってくれ。あまったら蘭語の書物を買えばいい。気をつけて行ってくれ」
 金次が、その横で手を振りながら、つけ加えた。
「それでもあまったら、なんでもいいから、長崎名物を送ってくださいよう!」
 藤次郎は、紙包みを押しいただくようにして、弥一郎と一諸に頭を下げた。
「かたじけない。早船どの、このご恩は一生忘れぬ」
 何処からとも湧いてきた朝靄(もや)が、二人の姿と、大木戸の石垣と、傍の高札場を、白く隠しはじめた。黒い影のように、伊蔵と友蔵が、駕籠と一諸に江戸へむかって走り出した。
「さて、金次。少しばかり、腹が空いたな」
「へっ。そのあとは、喉が渇いた、とくるんでやんしょう。けど旦那、こんな時刻じゃ、まだどこの
茶店も戸を開けていませんぜ」
「仕方がない。土蔵相模で、呑むとするか」
「また、台所から盗み酒ですかい。早船の旦那にあっちゃかなわねえや」
「夜になったら、また月見舟で、海を眺めながら一杯やろう」
「あ、いけねえ。舟を忘れてきた」
「放っておけ。舟は逃げはせん」
「ちげえねえ」
 金次が、ぽんと手を打って言った。
「旦那にあっちゃあ、ほんとに、かなわねえや」
「行くぞ、金次」
 白々と明けはじめた品川宿にむかって、飛十郎はゆっくりと歩き出した。
 海添いの小さな茶店の屋根にとまっていた鴉が、遠去かっていく二人の後姿を、首をかしげて見送っていたが、一声高く、かあ、と鳴くと黒い羽根を広げて御殿山へむかって飛んでいった。
                                         
 了



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