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初吉原(無料公開) 
[【時代小説発掘】]
2011年7月31日 11時11分の記事


【時代小説発掘】
初吉原
篠原 景


【梗概】: 
女に対する興味だけを募らせている若者二人。轟音の花火から始まる半月ばかりの物語。

【プロフィール】:
篠原 景。
2000年より大学で史学に没頭、時代小説の道へ。敬愛するのは東西のロックの神様。日本文芸学院客員講師。


これまでの篠原 景の作品:
「かまきりと遊女」
「遊女の絵筆」 
「廓の子供 」
「春の床」
「花魁のねずみ」
「土人形」
「幕末吉原の猫」
「化け狐」


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【時代小説発掘】
初吉原
篠原 景 



(一) 両国川開きでのこと

 腹に重く響く音とともに、大輪の火の花が開く。歓声が上がる。
 嘉永四年、今年も江戸中が待ちに待った川開きの日。両国はすさまじい人出で、橋の上のみならず、橋の西詰、東詰ともに、押し合う人々の昂り、汗のにおいが、湯気となって見えるかのようだ。
「なあ、幸ちゃん。暑くて喉がからからだ。西瓜でも食いてえよ」
「そんなこと言ったって、この人ごみンなかで、わざわざ西瓜を探して歩くのも面倒だ。そこの麦湯で我慢しろい」
「さっきあったぜ。そら、そっちだ」
「なら、さっさと言えってんだ。馬鹿野郎」
 幸造と宇之吉は、霊岸島富島町にある同じ裏長屋に生まれ、今年揃って十八になる幼馴染だ。
 長屋育ちの男は十八ともなると、商家に奉公に出ていたり、職人の親方に弟子入りして修行している最中だったりで、親許を離れている者が多い。そうなれば、住み込みの身であるがゆえに、幼馴染とつるんで遊び歩くなど出来ようもない。
 しかし、幸造の場合、天秤棒を担いで青物を商っていた父親と、料理屋に通いで働きに出ていた母親が、苦労を重ねた挙句、表通りに青物屋を持つ出世を遂げ、家を出る必要がなくなった。金を貯めることばかりに夢中だった親たちが、少々息子を甘やかし過ぎたきらいはあるが、当人としては上々吉の暮らしを送っているところである。
 もう一方の宇之吉はと言うと、十二のとき、足袋職人の親方に弟子入りして、一度家を出ていたのだが、三年前、父親が急な病で亡くなった。母親は、宇之吉が幼い頃に、既に亡くなっている。結果、残された祖母、父親の母親にあたる祖母が、息子を亡くした悲しみと、一人で過ごす夕飯時の侘びしさに耐えかねて、飯も喉を通らぬ、当人のお迎えも間近の有り様となった。
 その様子を伝え聞いた宇之吉の親方が、実に気の良い男であったことから、宇之吉は特別に、通いでの修行を許されたのだ。
 勝手なもので、息子より可愛い孫が家にいるようになったことで、祖母はみるみる元気になった。しかし祖母は、宇之吉を手放したくなく、宇之吉は、以前よりも修行を厳しくはされたものの、夕方になれば家に帰れる安楽な暮らしからは離れ難かった。
 宇之吉と祖母は、周囲をやんわりと騙しながら今に至っている。
 つまり、幸造と宇之吉は、同じ長屋で育ったのみならず、少しばかり甘ったれという共通点があるのであって、仲が良いのも当然と言える二人なのである。
「まったく、どいつもこいつも。女連れ、女房連れに餓鬼連ればっかじゃねえか。何で俺ア、宇之吉なんかと。色気がねえ」
「そいつア、言いっこなしだぜ。おいらだって、いい娘(こ)がいりゃア、幸ちゃんなんかと」
「おめえにゃ無理だ。頭のてっぺんから爪先まで、ろくでもねえ。せいぜい、ばあちゃん孝行の噂を聞きつけて、そんならあたしのことも大事にしてくれるかも、なんて思い込む娘が出てくるのを気長に待つこった」
「ちぇっ。……ん? ……おいっ、幸ちゃん。あれ、あれっ」
「なんだよ……おっ、米松じゃねえかっ」
 間に人が五、六人ばかり入る距離にある鮨の屋台、鮨をつまんでいるのは、こちらも同じ長屋育ちで、今は大工の修行中の米松だった。
「なあ、米ちゃんの隣……」
 米松の隣には女が一人いて、笑いあっている様子を見れば、二人の関係は言うまでもなく分かる。
 人の流れに流されながらよくよく目をこらすと、「鮨」と書かれた提灯に照らされた女の姿は、すらりとしており、目鼻立ちも整っている。何より、慎ましいながらも甘やかな色気が、こちらにまで匂って感じられる女だった。
 何度も振り返りながら、幸造たちはその場を離れた。
「ちぇっ、暗くて分かりにくいが、ありゃきっと年増だぜ」
「顔もなんだか貧相だったな。おいらは御免だ」
「それにしたって、米松のあのにやけた面ア見たか?」
「笑っちまうぜ」
 口では威勢のいいことを言いながらも、二人ともどこか白けた気持ちでいた。米松を見かける前にも、女連れでないことを愚痴ってはいたが、実際に幼馴染みが女連れでいるのを目の当たりにすると、少々堪えるものがある。
 幸造と宇之吉は、今まで、いわゆる女というものにはまったく縁がないままできている。
 女の体には、尋常ならざる興味があるのだが、仕来り一つ分からず岡場所なぞに足を踏み入れて、笑われたりあきれられたりするのを思い浮かべると、身が縮む思いがする。
 そしてその身が縮む思いは、唯一無二の親友にさえ決して悟られてはならぬと、お互い思っているのである。
 何となく黙りこくってしばらく経ち、先に口を開いたのは幸造だった。
「おめえが西瓜、西瓜とうるせえから、こうして西瓜売りなんざ探すはめになったが、さすがにこうして女子供にまみれているのも飽きたぜ。なあ、近いうちによ、ちょいと足を伸ばして、吉原見物にでも行かねえか」
「吉原ア? ちと遠いなア……。それにおいらの懐にゃア、吉原で遊べるような金なんかないぜ。幸ちゃんのおごりかい?」
「馬ア鹿。さらっと素見(ひやかし)をして、さっさと帰るのが当世の粋ってもんだ」
「そうだな。当世の粋だな。粋ってもんだ。……なあ、幸ちゃん、吉原と言やアさ、おりよの奴、花魁になりたがってたな」
「……おりよか……」
 おりよは、幼馴染のなかでは唯一の女の子だった。年は幸造たちより二つ下なのだが、成長が遅く、また頭もあまり良くなかったので、いつまでも幼く見え、周囲の子たちのからかいの対象となっていた。
 しかし当人は全く気にしておらず、あきらめの悪い性格だったこともあり、何がなんでも男の子供たちの遊びについていこうとした。
 幸造も宇之吉も、子供ながらに、そんなおりよを密かに好いていた。
 おりよが急に花魁になりたいと言い出したのは、八つのときだった。その頃話題だったに違いない花魁を色鮮やかに刷り上げた錦絵を、どこからか手に入れてきて、
「あたしは大きくなったら、こんな花魁になるのよ」
と宣言したのだ。
 子供たちのなかで、いっぱしの大人ぶった連中が、
「おい、おりよ。花魁ってえのは、何をするのか知ってるのか?」
と、にやけ顔で訊くのにも、
「うんときれえなべべを着て、頭にたくさんの簪を挿すの」
と誇らしげに胸を張る。
 そして困り顔の大人たちには、自分が着たい着物の柄を、事細かに語った。
 おりよが風邪をこじらせて亡くなったのは、翌年の正月のことだった。
「……おりよの奴、何が花魁の着物だ。てめえは肩上げも取れねえうちにおっ死(ち)んでよ」
「まったくだ……」
 めいめいに、おりよが息を引き取った雪の日に思いを馳せている若者二人の頭上で、大輪の火の花が咲いている。


(二) 中宿というところ

 夏の陽射しに照らされていた目が慣れるまで、少しばかりの間があった。
 座ったまま、ろくに目も合わせぬ老婆から、茶と煙草盆を受け取り、お峰は勝手知ったる様子で階段を上っていく。幸造は顔を伏せたまま、黙って後に続いた。
 近所で長唄の師匠をしているお峰から、突然声をかけられたのは、両国の川開きから五日ほど経った、西陽のぼんやりとした暮れ時のことだった。
 家と家の間の細く薄暗い路地で、
「あら幸造さん。この前は手拭いありがとうね」
と、幸造には全く覚えのないことを言いながら追いかけてきたお峰が、急に幸造に体を寄せた。そして黒目がちの美しい目で幸造を見上げ、
「ねえ幸造さん、……あたしじゃあ、嫌かしら?」
と囁いてきたのだ。
 今年二十五になるお峰は、道行く人が振り返るほどの優れた容姿の持ち主で、なおかつ男出入りの噂の絶えない女だった。しかしお峰の噂の相手はもっぱら、通ってくる弟子のなかでも金持ちの親父連中に限られていたはずだった。
 幸造は、自分のような若く、自由に出来る金もない男にわざわざ声をかけてきたことに、お峰という女の真情を見た、と強く思った。そして、しかめっ面を作り、待ち合わせの時と場所を告げる声に頷いていたのだった。
 老婆に告げられたのは、階段を上がってすぐの狭苦しい部屋で、部屋のなかには、澱んだ堀のような独特のにおいが籠っていた。
 敷かれた夜具の縁に腰を下ろしたお峰は、幸造に茶を勧めながら、
「外も家ん中も暑いねえ……ねえ、もっと打ち解けておくれよ」
と鼻にかかった声を出した。声に笑いが含まれているのが分かる。
「こういうところは初めてかえ?」
「中宿、は、初めてじゃねえ」
 夜具からもお峰からも目をそらしたままで、幸造は、中宿、という言葉を強調した。何も知らないと思われたくなかった。
「そうかい、さすがは幸さんだ。そこいらの若造とは違う」
 呟くような声とともに、お峰が、首筋や胸元にうっすら浮かんだ汗のにおいとともに、身を投げ出してきた。
 それからのことは、終始、お峰に導かれるままだったと言っていい。
 ただ、汗まみれの幸造の体の下、はだけた襦袢一枚のお峰が、眉を寄せて幸造にしがみついてきたとき、それまでは行為の一つ一つに夢中だった幸造は、急に胸のなかに言い知れぬ勝利感が沸き上がるのを感じた。お峰という女がこの上なく愛おしく見え、自分こそがこの女を最も理解し、慈しんでいるという心持ちになった。
 しかし、事が終わった後のお峰は素っ気なかった。幸造に笑顔を向けてはいるのだが、汗を拭いつつ、煙草をくゆらしながら、
「先に出てちょうだいな。払いはあたしがしとくから」
と言う。幸造にしてみれば、あまりに物足りない。
 いらいらしてきた幸造は、しずくとなっている汗にも構わず早々と着物を着ると、無言で部屋を後にした。階段を下りて、入ってきたところから外へ出ようとしたところ、先程の老婆が、
「お帰りはあちらからどうぞ」
と裏口を指し示す。
 老婆までもが自分を嘲っていると感じた幸造は、増してくる腹立たしさを抑えながら外へ出て、今が昼であったことを思い出した。
 強い陽射しのなか、変わらぬ日常と暑さにすっかり疲れきって見える男たち女たちとすれ違い、歩くうちに、心の荒れは徐々に収まっていった。そして代わりに幸造を満たし始めたのは、自信だった。
 自分はもうこれまでとは違う、もう一人前の男なのだと思う。
 どうしても思い浮かぶのは、近々一緒に吉原に行く約束をしたばかりの宇之吉の顔だった。
 (俺ア、宇之吉の野郎とは違う。あんな餓鬼たア違うんだ)
 笑い出したい気持ちだった。


(三) 岡場所というところ

 職人の世界には厳然たる上下関係がある。弟子たちはそれぞれが親方に仕事を教わるのではない。兄弟子の仕事を見様見真似で覚えるのだ。ゆえに兄弟子は、弟弟子に対し、毅然とした態度を保たねばならない。宇之吉のように、温情で特別を許されているような者なら尚更だ。
 しかし宇之吉の兄弟子たちは、どうにも宇之吉に厳しくなりきれずにいた。当人の仕事ぶりが至って真面目であることに加え、叱りつけても、叱られた内容は受けとめるが、落ち込むということが宇之吉にはない。頭を殴りつけても、痛みが去れば忘れているといった顔つきなのだ。
 自分たちがこれまで経験してきたのと同じ悔しさ、焦燥を宇之吉に味あわせようとして、万策尽きた兄弟子たちは、何となく宇之吉を可愛がってしまっている。
「おい、馬鹿宇之。おめえ、その腑抜けた面じゃア、今まで女の手エひとつ握ったことがねえってとこだろ?」
 両国の川開きから十日後、その日の仕事を終えて、帰り支度をしている宇之吉に、薄ら笑いを浮かべて話しかけてきたのは、一番年嵩の兄弟子である長次だった。
「そう口をねじ曲げんなって。どうだ、明日あたり、俺がいいところに連れて行ってやろう。ばあちゃんが淋しがるから嫌か?」
「そんなこたアねえです」
 兄弟子の言わんとするところを飲み込んだ宇之吉は、首を振って夢中で答えた。
「よしよし。おめえ、どんな女が好きなんだ」
「ええっと、顔はきれいじゃなきゃ嫌です。そんで、声がちょっと高くって、髪がたっぷりあって、話も面白くって、後は??」
「分かった分かった。色が白くって、ほっそりした体つきで、情け深(ふけ)え女ってとこだろう? よしよしおめえ好みの女を探しにいこうじゃねえか」
「分かりやしたっ」
 仕事を言いつかったように甲高い返事をする宇之吉の肩を、長次は苦笑いをしながら叩いた。
 翌日、宇之吉は仕事を終えるや否や、湯屋に行って体を洗い清め、汗くさい着物を、祖母に隠れて持ち出した新しい物に替えた。
 待ち合わせ場所に現れた宇之吉を、しばし眺めた長次は、笑いを噛み殺すのに必死なようだったが、それは知らぬふりをした。
 長次が宇之吉を連れて行ったのは、掘割と岡場所だらけの深川の、新地と呼ばれる一帯だった。ここには長次の馴染みがいるらしい。
 海が近いので潮の気配が強い。
 足早の長次を追いかけるように歩いていると、箱屋を連れた芸者と、肩が触れそうなほど近くで擦れ違った。つい、と、軽く頭を下げた様が頭から離れない。
 道行く男たちの雰囲気も、何やら独特で、上等なものに思われてくる。他でもない宇之吉も、その一人なのだ。
 もはや料理屋の二階から聞こえてくる三味線の音だけで、宇之吉はすっかり舞い上がった心地でいた。
 新地は、特に大新地と呼ばれるあたりに、名の通った料理屋がいくつかあることで知られる。だが、職人として一人前ですらない長次と宇之吉に、料理屋に女を呼ぶような遊び方が出来るはずはなく、辿り着いたのは、女たちが自ら客を呼び込み、相手にする一画だった。通りは狭く、嬌声を上げる女たちの動きも客の動きも慌ただしく、宇之吉はすっかり気後れしてしまった。
 しかしながら、長次に背を押され、歩いているうちに、いつの間にか腕を掴まれ見つめ合っている女がいて、「この女がいいのか?」という長次の声に、夢中で頷いていた。
 すると長次は、女に金を握らせて、
「こいつア今日が筆おろしだ。この先、筋金入りの女好きになるくれえ、いい思いさせてやってくれ」
と楽しそうに言い残し、さっさとその場を後にする。
 気前良く払ってくれた金に感謝すれば良いのか、いらぬ言葉に怒ればいいのか、戸惑っているうちに、宇之吉は女に二階屋の中へと引っ張り込まれた。
 女に背を押され、足を踏み入れた部屋は、暗い行灯でも分かる狭苦しさ、みすぼらしさで、酸っぱいような、黴臭いようなにおいが充満している。敷かれた夜具も湿っぽく、何もかもが、昨日から今日ここに来るまで想像していたのとはあまりに違った。だが、不思議と気にならなかった。
 丸顔気味で目の大きな女の顔も、好みなのかそうでないのか、よく分からない感じではあったが、厚く白粉を塗った肌が暗がりのなかで浮き上がって見えて、笑顔の唇の端が可愛いと思った。
「ふふ、今日が筆おろしだって?」
「……違う」
「いいじゃないか。あたしゃ嬉しいよ。男なんざ、すれて訳知り顔になっちゃアお終いさ」
 女はそう言うと、宇之吉を強く抱き締め、頬擦りをした。
「……姐さん、名前は?」
「くみ」
「おくみさんか。もっと角張って仰々しい名前かと思った」
「はは、高尾だの若紫だのってえやつかい。ここはア吉原じゃねえよ」
「知ってらあ」
 その後、おくみに導かれて過ごした時は、ほんの僅かな間であった。しかし、終始緊張していた宇之吉にとっては、短過ぎたという感じは決してなかった。
 女の体、というより、人の体にこんなにもしっかりと触れたのはいつ以来だろうと思ったが、思い出せないままだった。ふと、祖母も、記憶も朧な母親も女だったと気付き、少し気持ちが悪くなった。だが、すぐに頭の中は、脂粉と汗の混ざり合った匂いと、女の体温の重みでいっぱいになった。
 体を離した後、おくみが事後の始末をしているのを前にしながら、宇之吉は、とてつもなく幸福な大仕事を終えたような気持ちになって、急にだらしなく笑い出した。
 あきれ顔のおくみに、
「もう出とくれよ。長居するなら、その分のおあしをいただかなきゃなんなくなる。さアさ。でもまた来てくんなきゃ嫌だよ。あんたはあたしの可愛い男サ」
と、冷たいのか優しいのか分からない言葉で追い出されてもなお、宇之吉は笑い続けた。 思い浮かぶのは幸造の顔である。
 (おいらはもう、幸ちゃんとは違う。一人前の男サ)と心の中で呟く。そして幸造には、兄弟子がいない。
 (手間がかかるぜ、幸ちゃんは。今度おいらが、幸ちゃんの兄弟子代わりになってやろう)
 歩きながら、何度も人とぶつかり、そのたびに怒鳴りつけられたが、それも一向に気にならない。浮き立つ心は、まるで女のうなじの後れ毛のように軽やかであった。


(四) そして訪れた吉原は……

 一年を通じてハレの場を誇る吉原仲之町、吉原の中心を貫く、この遊里の顔とも言うべき通りに、幸造と宇之吉はいた。
 広い通りの左右には、客と遊女を取りもつ引手茶屋が、びっしりと軒を連ねている。いずれも似た造りであることが、通りの眺めを一層壮観なものにしている。
 実に多くの灯で満たされた通りは、とにかく明るい。そして実に多くの男たちが、楽しげにゆったりと歩いている。ざわめきが柔らかな風となって、灯を揺らしているかのようだ。
 先日の、両国の川開きとは賑わいの質がまったく違う。それでも、(まるで祭りじゃねえか……)と思わずにはいられない華々しさが眼前には広がっていた。これこそが、お上が江戸市中で唯一、公(おおやけ)に許した歓楽街、吉原の格と力であった。
「桜の木はねえんだな」
 通りの彼方に目を凝らしながら宇之吉が呟く。
 吉原を描く錦絵の類は数多いが、なかでも仲之町は、桜の時期を描かれることが多い。宇之吉はそれを思い浮かべていたのだ。
「馬ア鹿。吉原の桜は、咲く頃に植えて、咲き終わったら、すぐ取っ払うたア、江戸っ子の常識じゃねえか。何を寝ぼけてやがる」
「木を丸ごとか? 知らなかったぜ。大層豪気だな」
 いつもなら躍起になって何とか言い返そうとする宇之吉が、素直に感心していられたのは、心のなかに、幸造に対しての余裕があったからだった。
 一人前の男の自覚があるので、先日の岡場所行きを喜び勇んで親友に話す気はない。ただ、些末な知識はなくとも、自分の体は女を知っている、という思いが大きな自信となって、宇之吉の振る舞いを変えていた。
 一方、幸造の方も、いつもならここぞとばかりに宇之吉をからかうのだが、今日は、
「ああ、豪気なもんだな」
と頷くに留まっている。
 幸造の心の内も、宇之吉と似たようなものであった。
 それぞれ隠し持つ余裕が、お互いに対する態度を優しくさせていた。
「おい、茶屋ばっかり眺めてたって仕方がねえや。さっさと花魁見物に行こうぜ」
 幸造が顎で指し示したのは、江戸町一丁目と呼ばれる通りに入る木戸である。江戸町一丁目は、格が高く有名な見世が多い。
「はあア。てえしたもんだな……」
 赤い格子の向こうに、ずらりと女が居並んでいる。後光のごとく挿した簪も、色とりどりの着物も、どれほど金のかかったものなのか、想像もつかない。そして煌々と照らされる白い顔は、美貌の者が多かった。
「てえしたもんだな……」
「まったくだ……」
 仲之町では、通りの景色をしみじみ眺めていられた幸造たちだったが、江戸中の男が憧憬の対象とする女たちを目のあたりにして、さすがに平静を失っていた。足取りが不規則になり、溜息をついたり、首を傾けたりして、一人一人の顔に見入ってしまう。
 そうして、江戸町一丁目の通りもそろそろ終わろうかというあたりだった。一人の女の顔に見とれ、思わず足を止めた幸造に、後ろからぶつかってきた男があった。
 「おわわっ」と奇妙な声を上げて男は仰向けに倒れ、よろけた幸造は男の胸の上に尻餅をついた。
「痛(いて)えっ。何しやがんだっ」
 派手な柄の着物を着た、一目で遊び人と分かる男が、半分声の裏返った悲鳴を上げ、傍らで、男の連れらしい二人が大声で笑い出した。
「よう、大層な立回りだなア」
「こりゃア、今日は女共に大もてだア」
 一人は同じように派手な柄の着物を着て、もう一人は少し年嵩らしく、地味な着物だが、わざとだらしなく着付けている。どちらも遊び人に違いない。
 笑われて頭に血が昇ったらしい男は、飛び跳ねるように立ち上がると、幸造に詰め寄った。
「てめえ、ただじゃおきゃしねえ。着物も台なしだ。どうしてくれる」
 すっかりうろたえた幸造は、つい、
「ぶつかってきたのは……そっちだ」
と口走った。
 途端に、笑っていた二人の顔色が変わった。
「なんでえ、その言い草はよ」
「詫びの言葉一つ知らねえのか」
「これ以上、つまんねえことほざきやがったら、承知しねえぞ」
 「おいなんだ?」「喧嘩か?」と周囲がざわめき始めたが、仲裁に入る者はいない。
 男たちの怒りの矛先は、幸造に寄り添うようにしていた宇之吉にも向けられ、倒れたのではない方の、派手な柄の着物の男が、
「餓鬼が二人して、素見(ひやかし)なんぞに来てんじゃねえ」
と言いながら、宇之吉を突き倒した。
「宇之吉っ」
 転んだ宇之吉が、地面に尻と手をつく。顔を上げた宇之吉は、思わず、
「素見じゃねえっ」
と叫んでいた。
「なんだなんだ、素見じゃねえなら、おっかあに、やっとこさ貯めた銭を握らせてもらって、女郎買いか。こいつアいよいよ、いけすかねえ」
「そんなんじゃねえっ。おいらは……おいらは……おりよに会いに来たんだ」
 口をついて出たのは、宇之吉自身、思いがけない言葉だった。だがついの瞬間、
「そうだっ、おりよに会いに来たんだ」
と幸造も叫んでいた。
「おりよは、俺と宇之吉とおんなじ長屋で育った、幼馴染なんだっ」
「二つ下で、女のくせに負けず嫌いで……おりよは花魁になったんだっ」
「きっと、紅さして、簪もたくさんで、勿論着物も凄くってよ。おりよは、うんときれえになったはずなんだ」
「だからおいらたちは、きれいになったよって褒めてやりに行くんだっ」
 気がつくと、三人の男たちは、途方に暮れたような、何とも言えない表情になって、幸造たちを見下ろしていた。間を置いて、年嵩の男が、宇之吉の腕を掴んで立たせる。
「……その、おりよって娘がいる見世は分かってんのか?」
「……いいや、分からねえ」
「そうか……。なら、とっとと帰(けえ)りな。会わねえで帰(けえ)るのも優しさってもんだぜ」
 顔を見合わせた幸造と宇之吉は、次の瞬間、男たちに背を向け、来た道を走り出した。 走りながら、徐々に笑い声が止められなくなっていく。恐ろしさから解き放たれた弾みで、楽しくて仕方がない気持ちになっていた。
 そして同時に、あの雪の降る正月に死ななかったおりよが、吉原のどこかで、簪と着物を喜んでいるような気もしていた。
 吉原の明かりと賑わいの真んなかを、子供が二人、無心に駆けて行く。

                           了

参考
花咲一男『江戸岡場所遊女百姿』(三樹書房、平成四年)
花咲一男『江戸の出合茶屋』(三樹書房、平成八年)
永井義男『江戸のフーゾク万華鏡』(日本文芸社、平成二十一年)

 



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10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
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