| 宿志の剣 九（完結） （無料公開） | |
| [【時代小説発掘】] | |
| 2014年6月29日 11時31分の記事 | |
【時代小説発掘】 宿志の剣 九 �鮨廾賚� （時代小説発掘というコーナーができた経緯） 【梗概】： 上野国大胡の領主上泉信綱は、養子秀胤に城を譲り、兵法流布のため回国の旅に出ようとしていた。そのとき５８歳。第２の人生を自らの創始した新陰流とともに生きようと考えたのだ。だが、その頃の上野国は、武田、上杉、北条の争奪の渦中にあった。そしてまた信綱にしつこく付き纏う飛びの段蔵の陰があった。 【プロフィール】： �鮨廾賚此�昭和３３年（１９５８）生まれ。平成２２年（２０１０）第４０回池内祥三文学奨励賞受賞。現在、新鷹会会員、大衆文学研究会会員、歴史研究会会員、歴史時代作家クラブ会員。 これまでの作品： 宿志の剣 一 宿志の剣 二 宿志の剣 三 宿志の剣 四 宿志の剣 五 宿志の剣 六 宿志の剣 七 宿志の剣 八 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
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郷左衛門と呼ばれた人物は、信君の不機嫌そうな様子を見てとって、すぐに出てこれなかったものと見える。 信玄の命を受けて、柿色の忍び装束に身を固めた一人の忍びが、庭にすっと現れて控えた。頭巾は被っていない。 郷左衛門と呼ばれた男は五十歳くらい。痩せている。丸顔で額が大きく真っ白な髪を総髪にして肩まで垂らしていた。それは、富田一法斎とうり二つであった。 武田忍びは三ツ者と呼ばれているが、実はこの者こそ三ツ者の総帥富田郷左衛門だったのである。そして、郷左衛門は富田一法斎の実の弟でもあった。 「いかがであった」 信玄は上機嫌で問うた。 「上泉伊勢守の隠居は間違い有りませぬ。近々、新陰流兵法を広めるため、城を出て旅に立つようでござりまする」 「････！」 郷左衛門の報告を聞いて、信君がびっくりしている。 「そうか。北条と意を通じた似非狂言かと思うておったが、案外に生真面目な爺よな」 「御屋形様････」 信君が何か言おうとしたが、 「しかしながら、跡継ぎの秀胤は、北条に心を寄せている模様にござります」 そんな信君にかまうことなく、信玄と郷左衛門のやりとりは続く。 「ふむ。たかだか上泉一千貫の領主じゃ。信綱なければ何ほどのことがあろう。北条にくれてやろうわい。上州はもう良い。信綱の居ない上州など源左衛門がおれば静かなものよ」 源左衛門とは箕輪城代工藤祐長のことである。祐長が武田家譜代の名門内藤家を継ぎ、内藤修理亮昌豊を名乗るのは、二年後の永禄十一年のことである。 「それほどまでに信綱どのを買っておられましたか」 と、横から信君が口を挟んだ。 「うむ。逸材よ」 そこで、いったん言葉を切った信玄は、しばらく考える風であったが、 「年齢はくろうておるが、我が麾下に欲しかった」 ため息をつくように言った。 「ならば、何故に隠居の許しなど」 そこで信君は言葉を切った。与えたのか、と言いたかったのだろうが、繰り言になると察したのだろう。 信君は、信玄にはまだ未練がある、と思っている。自身に相当の思い入れがあるだけに、余計に諦めきれないのである。 だが信玄は、その話しはもうよい、とでも言いたげに、 「ところで、〈新陰流陰の流れ〉の方はどうじゃ」 と、さらに次の問いを発した。 「探りましたが、それらしき形跡はありませぬ。また、それらしき者どもも居りませぬ」「〈新陰流陰の流れ〉とはいったい何でござりますか。ついぞ聞いたこともござりませぬが」 信君が怪訝な顔で訊いた。 「ほう。そなたは知らなんだか」 信玄がからかうように言った。 「今日の御屋形様は、少々人が悪うござりますな」 信君が拗ねると、 「はっはっは。むきになるな。信綱のこととなると、放っておけないようだな」 機嫌良く言って、 「新陰流とは剣、槍、軍学など、いわゆる兵法の一つの流派のことをいう。他の流派には、組み討ちや体術などを含むものもある」 「存じておりまする」 「まあ、聞け」 信君をたしなめて、 「それを表の武芸とするならば、信綱には裏の武芸がある。それが〈新陰流陰の流れ〉という忍びの術なのだ。忍びの術もまた体術の他に剣術、手裏剣術など様々な武器を使った異形の術からなる。信綱の兵法は、新陰流と〈新陰流陰の流れ〉という表裏一体の武芸なのだ」 「なんと！」 信君の目が大きく見開かれた。 「驚きました。初めて知りました」 「さもあろう。新陰流と〈新陰流陰の流れ〉には謎が多い。わしも知ったのは、つい五年ほど前のことだ。山本勘助から聞いたのだが、聞いてすぐにあやつは川中島で死んでしもうた。惜しいことをしたものよ」 そう言って、信玄は庭の彼方を見た。ややあって、 「箕輪落城の折りにそのことを思い出しての。謎の多い〈新陰流陰の流れ〉が使えるものか、そうでないか、わしにも判断がつかぬ。それゆえ、此度のことのついでに探らせてみたのだが」 「申し訳ありませぬ」 郷左衛門は下を向いて応えた。 「時が少なすぎたか」 「いえ。そのようなことは」 郷左衛門は下を向いたままである。実兄富田一法斎が現れたために、途中で調査を切り上げたとは、とても言えないことだった。 「まあ、良い。それよりも駿河じゃ」 信玄は〈新陰流陰の流れ〉には、すでに興味を失った様子で、 「郷左衛門、その足で氏真の周辺を探るのじゃ」 と、命じた。 氏真とは言わずと知れた、駿河の領主今川氏真のことである。 「それにしても、富田一法斎などという兵法者に化けたのは芸のないことよの」 「！････」 郷左衛門は瞠目して信玄を見た。 （なぜ、殿がご存知なのか） 目はそう問うていた。 その目を冷ややかに見返して、 「もう良い。去（い）ね」 （ううむ。殿は怖いお人じゃわい） 信玄は有能な臣下を登用するのと併せて幅広く情報収集を行っている。 郷左衛門は忍びらしくもなく脇の下にじっとりと汗をかきつつ、はっ、と低く答えて消えた。 とはいえ、信玄の郷左衛門と三ツ者に対する信頼に揺るぎはない。 「〈新陰流陰の流れ〉が如何ようなものであろうとも、わが手元には三ツ者が居るわ。三ツ者ある限り、他に遅れを取ることはあるまい」 「御屋形様。いよいよ････」 「うむ。そなたも信綱のことは忘れよ。上州は祐長に任せておけば良い。〈新陰流陰の流れ〉のことも忘れよ」 「ははっ」 信君はその場に手を仕えた。 信玄の眼中にもはや上州はなかった。その目は京に向けられていたのである。事実、二年後の永禄十一年、信玄は駿河に侵攻することとなる。 二 因縁の対決 その夜、信綱はなかなか寝付けなかった。 信綱はまだ迷っていたのである。 新陰流は紛うことなく信綱が創始した兵法である。信綱は松本備前守に鹿島新当流を学んだが、なお不満であった。 その不満を言葉にすることは難しい。強いて表現しようとすれば、若くさらに伸びようとする才能が、小さくまとまることを拒んでいた、とでも言えば良いだろうか。 だが、そのとき信綱は上泉城主であった。城を出て、鹿島に赴いてさらに兵法修行を続ける余裕はなかったのである。関東は風雲急を告げていた。 そんなときである。流浪の愛州移香斎と出会ったのは。 移香斎は猿御前から続く陰の流れに、さらに創意工夫して、新たな兵法を創りあげていた。 信綱の脳裏に移香斎と初めて出会った頃のことが鮮やかに思い返された。 あの頃秀綱と名乗っていた信綱は、いつものように上泉城を出て、修行のために十日ほど赤城山に籠もっていた。 五月ーー。 新緑の最も美しい頃だった。そこにひょっこりと移香斎が姿を現したのである。 ――あの頃、師はいったい何歳だったのであろうか？ 移香斎は小柄で痩せていて、背も低く、そのうえ顔も手も足も真っ黒に日焼けしていた。ただ、髪の毛は真っ白な総髪で、獣の皮で作った袖無しを羽織っていた。信綱は始め変わり種の猿が現れたかと思ったのである。 「うるさいのう。昼寝の邪魔をするのは誰じゃい」 移香斎は無造作に言って、木の上から下りてきた。 「や。これはご無礼を仕りました」 信綱は慇懃に詫びて、己の姓名を名乗った。目前の異形の人物にただ者でない気配を感じ取ったからである。 「ほう。お主が武蔵守秀継の子の秀綱かい」 と言って、親父よりも使うようだな、と目を細めた。 「父上をご存じですか？」 「おうよ。よく知っておるわ。わしの弟子ゆえにな」 そのとき信綱は、目前の異形の人物こそ愛州移香斎であることを覚ったのだった。 父秀継の剣の師が、愛州移香斎だということは知っていた。だが、会うのは初めてある。 「それがしにも先生の兵法をご教示いただけませぬか」 信綱は威儀を改めて移香斎に頼み込んだ。 「よかろうわい」 移香斎は二つ返事で肯うと、自らの兵法を残らず信綱に伝えたのである。 それが陰流の剣であった。むろん。十日で終わろうはずがない。断続的に続くこととなった。 移香斎の陰流は、飛んだりはねたり、鹿島新当流にはない型を備えていた。 ――忍びの術か？ と、始めは思っていた信綱だったが、やがて、陰流兵法のしなやかに流れるような剣の動きに魅入られていった。 乾いた真綿が、あっという間に水を吸い込むように、信綱は移香斎の兵法を吸収していったといってよい。 「驚いた。親父よりも覚えが早いわい。もう、わしの教えることは何もない。後は己で技を磨くがよい」 だが、信綱は満足しなかった。 「陰の流れを教えていただきとうござります」 「そなた。知っておったか」 「すぐには分かりませなんだ。しかしながら････」 父秀継の書き残したものから陰の流れの存在を知ったのだ、と言った。 それは、ずっと信綱の胸に秘めていたものである。陰の流れという奇異な兵法に大いに興味を引かれた信綱だったが、話そうにも、そもそも陰流を知る者がいなかったという事情があった。 「よかろう。教えてやろう。だが、陰の流れはいわば邪剣。わしも長い間封じていたものだ。生かすも殺すもそなた次第ぞ」 そう言って、さらに移香斎は、信綱に陰の流れを教示した。初めて会ってから三年の歳月が経っていただろうか。 「そなたは天才じゃ。これで、本当にわしの教えることは何もない。その証しに、そなたにこれをやろうわい」 いつものように、無造作に言うと、一巻の巻物を信綱に放ってよこした。 「これは、陰流の････」 「ではない。陰の流れよ。その巻物は、陰の流れの全てではないが、猿御前から連綿と我が愛洲家が受け継いできたものじゃ。何かの役には立つであろう」 そして、さらば、と別れを告げると、いずかたともなく去っていった。 以来、ようとしてその行方は知れない。 信綱は移香斎が残した巻物をもとにさらに修行に励んだ。 そして、移香斎が言った、 ーー陰の流れはいわば邪剣。 という意味が、何となく分かったとき、信綱は新しい自分の兵法が造れるような気がしたのである。 やがて、さらに修行に精を出した信綱は、赤城山に籠もって最後の修行をしたとき、すなわち、身の回りの世話いっさいを文五郎が勤めたあのときのことである。信綱は自らの新陰流を完成したのだった。 （うん････！） そのとき信綱は、不審な気配を感じた。 すでに深更の頃おいである。 寝間の横は書見の間になっている。そこから盛んに自分に送られてくる気を感じたのだ。それは、あたかも信綱を誘っているかのようだった。 暗がりの中、信綱は寝着の白小袖の上から、手早く袴のみを身に着けた。刀架から太刀を掴むと、境の襖をがらりと引き開けた。 「何者？」 書見の間には人の気配があった。 「〈新陰流陰の流れ〉の奥義書はどこにある」 信綱の誰何をいなすように、暗がりの中から老人らしいしゃがれた低い声があった。 闇に目をこらすと忍び装束の者のようであった。 「加藤段蔵か？」 「愛州移香斎より受け継いだという奥義書はどこだ。大胡城も上泉城も隅々まで探したが見つからぬ」 一方的に言ったその男は、加藤段蔵に間違いないようだった。 「そなた、わざとわしに気を飛ばしたな」 奥義書が見つからず、故意に行った、ということであろう。 「どこにある。奥義書は？」 段蔵は再び繰り返した。 「そのようなものはない。我が師移香斎どのより受け継いだ物は、剣術の伝書のみ」 「ならばそれを見せてもらおう」 「断る」 信綱はきっぱりと拒否した。 「やむを得ぬ。〈新陰流陰の流れ〉はここで絶えるがよい」 「それも断ろう」 「〈新陰流陰の流れ〉が勝つか、我が〈飛びの術〉が勝つか。かつて、箕輪の城でその見事な術を見て以来、いつか一度は手合わせをしてみたいと思うておった」 段蔵はそう言うやいなや、懐から信綱目がけて手裏剣を飛ばしてきた。 信綱がその手裏剣を避けたとき、忍び刀を抜いた段蔵が迫ってくるところだった。 ガッ、という鈍い音がした。信綱は柄で段蔵の忍び刀を受けると、そのまま寝間の戸を破って外へ出た。 廊下があって、その横は小さな庭になっている。その先は板塀で囲ってあるが、塀の外側は空堀で烈しい崖になっていた。 信綱に続いて段蔵も外に出てきた。 すでに雪は止んでいたが、ところどころに雪が積もっているのか、うっすらと白くなっている。 雲も晴れているのか、冬の夜空には冴え冴えとした弓なりの三日月があった。そして、その月に従うかのように綺羅星がおのおのの光を投げていた。 「殿。何事でござりますか」 「曲者じゃ」 宿直の武士が、寝間の変事を知ったようだ。 「邪魔が入るか。どうだ信綱、この段蔵と勝負をつけぬか」 「やむを得まい」 「ふふ。ついてこれるか」 そう言って、段蔵は高く飛び上がると、いったん板塀の上に止まり、そのまま堀の方へ飛び降りていった。 「大殿ぉ〜」 「お変わりありませぬか」 宿直の武士が廊下に駆けつけてきた。その中には疋田文五郎の姿もあった。 「大事ない。去れ」 信綱は文五郎のみ近くに呼び寄せると、耳元に何事かを囁いた。聞いた文五郎の目が大きく見開かれた。 「頼んだぞ」 宿直の武士が引き上げた後で、信綱は小さく文五郎にそう言うと、近くの枯れ木を掴むと、大きく跳躍した。 「大殿。ご武運を････」 後には文五郎のみが残された。 三 飛びの術破れたり 「遅かったではないか」 段蔵は詰るように言った。 「歳はとっても、いささかも耄碌はしておらぬようだな」 「それはお互いさまじゃ」 段蔵はうっすらとした笑みを浮かべている。 ここは藤沢川の河原である。さらさらとした川の流れが聞こえてくる。 空堀の崖を一気に駆け下りた段蔵を追って、信綱も太刀を持ったまま駆けつけた。二人とも見事な体術だった。高齢とはいえ息一つ乱れていない。 空にかかった三日月と星明かりで河原は意外なほど明るかった。ここにもうっすらと雪が残っている。 「段蔵。わしは人前で陰の流れの術を遣ったことなどついぞない」 「虚言を申すな。ならば、弘治三年に箕輪城でわしが見た術は誰が遣ったのだ。あのとき、海老茶の忍び装束がいなくなったとき、業正のもとにすぐに駆けつけたのはそなたではなかったのか」 「そうか。あのときの････」 「いかにも。まさか、湛光風車とは言わせぬぞ」 湛光風車とは、東国暮露（この頃はすでに「薦僧」と呼ばれていた）の総帥である。 「ふふ。あのとき信濃守どののもとへ駆けつけた者はもう一人いたはず」 信綱のその言葉を聞いて、段蔵が、あっ、と小さく叫んだ。信濃守とは長野業正のことである。 「まさか、秀胤か？」 「いかにも」 「ううむ。迂闊であったわ」 段蔵は口惜しさを滲ませた。 「だが、あの秀胤は最早この世にはおらぬ」 「その通りよ。それゆえ、陰の流れはわし一代限りとする所存」 「馬鹿な。唐土の武芸者を震え上がらせた陰の流れを消し去るつもりか」 「いかにも。師愛州移香斎どのは仰せられた。『陰の流れはいわば邪剣』だと。わしもその通りだと思う」 「笑止なことよ。お主、まさか忍びの術を剣や槍より劣るものと思ってはおるまいな」 「陰の流れは陰流と表裏一体をなす。だが、所詮は忍びの技。殺人、戦のための兵法じゃ。人を欺き、疑心を募らせ、反間を呼ぶもの。略奪を目的とした海賊（倭寇）の中でこそ用いられたもの。だが、元来、剣とは人を活かすためのもの。それは亡き移香斎どのの教えでもある。それゆえ、陰流から陰の流れを切り離し、さらに創意を加えて完成したものこそ我が新陰流なのだ」 「理でくるか。ふん、よう見たら似非君子面をしておるわ。陰の流れとて、猿御前の頃から海賊が遣っていたわけではあるまい。陰流から切り離したのであれば、お主に陰の流れは要るまい。わしに寄越せ」 「世に知られた加藤段蔵の飛びの術。いまさら陰の流れは不要であろう」 「当たり前じゃ。わが飛びの術は天下無敵よ。わしが得るのではない。武田信玄への手土産にするのよ」 「何！ そなた武田に仕えるか」 「いかにも。上杉への遺恨を晴らすには、武田を利用するのが近道よ」 加藤段蔵の上杉謙信への恨みは、かなり深いようである。 「それは無駄であろう」 「なぜだ？」 「信玄どのの眼中に、もはや上杉はない」 目は京に、と言いかけて、信綱はその言葉を飲み込んだ。段蔵に言っても聞く耳を持たないであろう。 「戯言（ざれごと）を申すな」 その言葉が聞こえたとき、すでに跳躍した段蔵の忍び刀が信綱に迫っていた。 信綱は余裕を持って、段蔵の切っ先をかわした。 「いかに邪剣として陰の流れを封印しようと、諸国の大名がそれを求める限り、忍びの術が無くなることはない」 その言葉は、忍びの術を否定した信綱への怒りが込められているように思われた。 「諸国の大名が血で血を洗う戦国の世はいつか終わる」 それを成すは武田か上杉か北条か。それは分からない。 「いつかはのう。だが、まだ終わらぬ。いや、終わってはならぬのよ」 叫びつつ段蔵が走る。その後を信綱が追った。 二人は二間ほどの距離を置いて河原を横に走った。藤沢川の浅瀬に足が入った。冷たい川の流れだった。 「ふふ････」 段蔵が笑みを浮かべたように見えた。 「用意周到なことよの。そなた、陰の流れ猿飛の術を封じるためにこの河原を選んだな」 猿飛の術は森や林の木を利用して行う術である。 「いかにも。今頃分かったか」 「だが、それはそなたの飛びの術を封じることでもあろう」 「ふふ、それはどうかな。わしの飛びの術は〈飛び〉だけのものではない」 段蔵はさっと後ろに飛び退ると、手裏剣を投げた。 「むっ！」 段蔵の手裏剣は正面からのはずであった。そして、それは確実に払った。だが、横合いから飛んできた手裏剣は避けるのが精一杯だった。それほどに正面からの手裏剣との呼吸がぴったりと合っていた。 （乱れ投げか？） 信綱は段蔵と向かい合っている。その差はおよそ四間。横合いから飛んでくるはずはない。 「我が飛びの術をよくかわしたな。だが、次はないぞ」 段蔵は正面から信綱目がけて手裏剣を投げると、自身大きく跳躍して、上から忍び刀を振り下ろした。と同時に、左横と後ろから手裏剣が飛んできた。右手は藤沢川の深みである。これも三方からの呼吸はぴたりと合っていた。 「新陰流陰の流れ、破れたり」 ガッ、と鈍い音がした。確かな手応えを感じた段蔵だった。 「しまった････！」 信綱が立っていた地に着地したとき、忍び刀は一本の枯れ木を真っ二つにしていたに過ぎなかった。片方には手裏剣が刺さっている。 「変わり身の術か！」 段蔵が四囲に目を向けたとき、五間ほど先に信綱が悠然と立っていた。鮮やかな術であった。 「ううむ。陰の流れ、なるほど見事な術よ」 段蔵の感に堪えぬというような声だった。だが、信綱はその言葉に対して応えず、 「飛びの術破れたり」 大きな声で叫ぶように言った。 と同時に、右に一間ほどするすると進むと、手にした太刀を雪の上から地面に突き刺した。 段蔵の目が大きく見開かれた。 ぎゃっ、という叫び声が聞こえて、ぼこっ、という奇妙な音がした。と、地面から忍び装束をまとった男が一人飛び出てきたのである。しかも、その男は加藤段蔵と瓜二つだった。出てきた男は、 「済まぬ」 と、一言だけ言って、よろよろと二、三歩歩くと、その場にばったりと倒れた。信綱がその男の側によると、すでにこと切れていた。火薬の臭いが鼻についた。 信綱は慌ててその男の顔を払った。髪と顔の肉が剥がれて、老人の顔から若い男の顔が現れた。その顔は信綱は知らなかったが、大胡城を見晴るかす草地で風魔小太郎と対したあの男であった。 だが、信綱の払いは場所が違ったようだ。慌てて顔を背けた。やがて、ボン、という小さな音がして男の顔がぐしゃぐしゃになった。忍びは己の最後を覚ったとき、死に顔を晒さないように、火薬を仕掛けて己の顔を潰すといわれている。真に潔い最期であった。 信綱は男に軽く手を合わせると、今まで戦っていた段蔵の方に向かって、 「加藤段蔵は二人で一人か！」 と、叫んだ。厳しい言葉だった。 「いかにも。老齢のわしと若年のその男と二人で加藤段蔵よ。世人は一人と思う。その油断につけ込むのが、我が飛びの術よ。だが、その男を失っては、段蔵もただの忍びに過ぎぬわ」 その男は段蔵の弟子だと言った。最も腕の良い弟子だったと。 「二度とそのような弟子は現れぬ」 段蔵はがっくりと肩を落とした。 「潔く負けを認めるがよい」 「うう････」 段蔵は自らの顔を覆った。そこには非情な忍びとしての段蔵の姿はなかった。優秀な弟子の死を悲しむ師の姿があった。 （わしの新陰流は誰に伝えればよいのか？ 疋田文五郎か神後伊豆守か、いや丸目蔵人佐か。否････） そのとき信綱には己の兵法流布の目的がもう一つ加わったような気がした。 信綱は段蔵の前に一巻の巻物を放った。 「奥義書か！」 「奥義書はない、と言うたはず。それは我が師愛洲移香斎から受け継いだ、たった一つの巻物よ。そなたと戦う中で覚ったことがある。もはやわしには不要の物じゃ。そなたが好きに使うがよい。わが新陰流は陰の流れとは無縁の兵法ぞ」 信綱はきっぱりと言って、 「もはや会うこともあるまい。最後に、早苗のこと、感謝しておるぞ」 「知っておったか」 「さらば」 そう言ったときには、信綱の姿は藤沢川の河原には影も形もなかった。 信綱に敗れた加藤段蔵は、弟子の遺骸を抱いてその場を後にした。念願の陰の流れに関わる巻物を手に入れた喜びはなかったであろう。 四 〈新陰流〉と〈陰の流れ 信綱はひっそりと寝間に戻った。 「ご無事で････」 そこには疋田文五郎が起きて待っていた。 近くに灯り用の小さな蝋燭が一本燃えていた。 「宿直にはそれがしからよく申しておきました」 今夜のことは他言するな、ということであろう。 信綱は、うむ、と肯いて、刀を文五郎に預けると袴を脱いだ。 文五郎はその袴を受け取りながら、 「一つだけ聞いてもよろしゅうござりまするか」 と、意を決したように問うた。 「何じゃ」 「今の勝負は〈新陰流陰の流れ〉の奥義書を巡って争われたのではありませぬか？」 「いかにも。そなた知っておったか」 信綱に動ずる気配はない。 「はい。うすうすは････。教えてくださりませ。〈新陰流陰の流れ〉の奥義書とは真にあるものなのでござりましょうや」 しばし思案していた信綱は、 「そなたには、しっかりと話しておいた方が良いかも知れぬな」 厚手の胴着を受け取って、腰を下ろすと、文五郎を差し招いた。 袴をたたみ終えた文五郎が、信綱の近くに寄った。 「良いか。これからわしの申すことは決して他言無用ぞ」 「はっ！」 信綱は厳かに言って、文五郎も神妙に答えた。 「世人は〈新陰流陰の流れ〉と言うが、そのようなものは無い。なぜならば、〈新陰流〉と〈陰の流れ〉は別物だからじゃ。〈新陰流〉とは、そなたも知っての通りわしが創始した兵法。〈陰の流れ〉は、師愛州移香斎殿に受け継がれてきた忍びの術じゃ。いや、その頃は〈忍びの術〉という言葉はなかった。もとは〈念流〉から分かれた兵法の一つの流派じゃ」 「では、念大慈恩どのの････」 「慈恩和尚の高弟猿御前の創始したもの。それが愛州家に伝わったわけは、わしも詳しくは知らぬ。愛州一族が唐土や琉球で交易を行う頃には、すでに陰の流れを会得していたらしい」 「海の兵法ということでござりまするか？」 海賊と兵法、文五郎は、にわかには信じかねるという体である。 「うむ」 信綱は一度肯いてから、 「だが〈陰の流れ〉はもともと陸の兵法だ。昔ながらの体術や呼吸法を活かしたものよ」 と、文五郎の疑問に答えた。 「移香斎どのも〈陰の流れ〉を受け継がれた。だが、移香斎どのはそれに満足せず、さらに工夫を加えて新たな兵法を完成させた。それが〈陰流〉といわれるものだ。そのとき、移香斎どのは〈陰の流れ〉を捨てたわけではない。したがって、〈陰流〉と〈陰の流れ〉は、表裏一体のものということができるかも知れぬ」 「表裏一体！」 「わしが新陰流兵法流布の旅に出るのは、いわば宿願といって良い。鹿島の地で松本備前守どのに兵法を学んだとき、いつかは一介の兵法者として生きたいと思い続けてきた。だが、愛州移香斎どのから教えを受けた〈陰流〉と〈陰の流れ〉に魅力を感じたのも事実だ。その強烈な術に兵法者としての血が騒いだのだ。それゆえ、一度はその術を我がものとし、いったんは秀胤に引き継いだ。なれど、加藤段蔵と戦いながら、我が〈新陰流〉には〈陰の流れ〉が不要だということをはっきりと覚ったのだ。移香斎どのが仰せになった〈陰の流れは、すなわち邪剣〉の意味がようやくわしにも分かった。〈陰の流れ〉の奥義は、人を殺め、人の弱いところにつけいるための術と言って良い。その術こそ戦に有益なもの」 「しかしながら、兵法も戦でこそ使うもの。武士に代々受け継がれ、磨かれてきたものでござりまする」 「そなたの言う通りかもしれぬ。わしも〈陰の流れ〉が兵法でない、というつもりはない。念流の流れをくむのは間違いのないところ。かつての猿御前が、戦のために創始したとも思えぬ」 「はて････？ 殿が仰せの内意が、それがしには掴めませぬ」 文五郎は合点がいかないようだ。 「兵法は戦のためのものだが、兵（つわもの）、すなわち武士のためのものでもある」 「武士のため････？」 「戦という合戦のためではなく、人のためのもの」 「人のため････？」 文五郎は益々分からなくなったようである。顔が苦渋に歪んで、とうとう、 「殿。それが新陰流の奥義でありましょうか？」 と、泣きそうな表情で訊いてきた。 「ふふふ。師移香斎どのから受け継いだ巻物は、加藤段蔵に渡したぞ。段蔵の弟子をわしが殺めてしもうた。弟子を失った段蔵の悲しみを見ていたら気の毒になっての」 信綱は薄い笑みを浮かべて言った。 「なんと！ もしや、それこそ奥義書なのではござりませぬか」 文五郎は信じられないといった口ぶりである。 奥義書とは、弟子のうち後継たるべき一人に相伝するべきものである。現に信綱も〈陰流〉の後継者であるからこそ移香斎から巻物を譲られたのではないのか。文五郎は師信綱の言を聞き、自分が益々取り乱しているのを自覚せずにはいられなかった。 信綱はそんな文五郎の混迷を愉快そうに見ながら、 「まあよい。話を〈陰の流れ〉に戻そう。わし以外に〈陰の流れ〉を遣う秀胤は、先年国府台の戦で死んだ。秀胤の死は残念だが〈陰の流れ〉の正統が絶えたということは、師移香斎どのの思し召しであろうと思うている。わしが封印すれば、二度と〈陰の流れ〉が世に出ることはあるまい」 「しかしながら、奥義書が････」 「段蔵に渡した巻物は、奥義書ではない。もともと兵法に奥義書などというものはないのだ。剣の奥義は、厳しい修行に耐えて、心身ともに満ちたとき、口伝によって伝えるもの。段蔵もそのことは承知であろう」 「ですが、殿････」 「もうよい。忍びの術は、例えて言えば裏の兵法であり、陰陽の陰の武芸よ。表の武芸、すなわち陽の武芸ではない。〈陰の流れ〉こそ、せんずるところ戦のためのものじゃ。裏切り、不意打ち、離反、反間、人の隙に乗じ、虚を用い、人間のあらゆる弱いところを利用する。その術を遣うことによって多くの不幸をもたらす。すなわち、殺人のための術と言っても良い」 ゆえに〈陰の流れ〉こそ〈忍びの術〉であるということだろう。 「だが、わしの創始した新陰流は違う。剣の修行を通じ、己の心身を鍛え、剣を交えることなく勝負を決することを理想とする。すなわち、人を活かすための術じゃ。兵法とは古来そうなくてはならないのだ。それは松本備前守どの、愛州移香斎どのの教えでもある。秀胤を除いて、そなたにも他の誰にも〈陰の流れ〉を伝授しなかったのは、それゆえなのだ。いま我が宿志叶わんとしているとき、わしは今一度その決意を新たにする。やっとわしは〈陰の流れ〉を捨てる決心がついたのだ。向後〈陰の流れ〉のことを口にするでないぞ」 かつて、念流の祖念大慈恩が、筑紫安楽寺で剣に開眼し、見事、敵討ちを成就しながらも、なにゆえに城主として残らず、新たに禅僧として廻国したか、信綱はようやくその理由が分かったのだろう。 「はっ」 信綱の決意を知り、自然と文五郎の頭が下がった。気付いたときは、三歩退いて平伏していた。 月が変わって十二月になった。 その日はいつになく赤城颪の吹きすさぶ日だった。 「殿。殿････」 疋田文五郎が慌てたように信綱の居室にやってきた。 いつも冷静な文五郎が、このように慌てているのは珍しい。 「如何いたした？」 「加藤段蔵が、武田信玄公に殺された由にござります」 「何！」 さすがに文五郎のその報告には、信綱も驚いた。 「詳しく話すがよい」 「正しくは武田信玄公に命じられて穴山信君殿が殺したとのこと」 文五郎は信綱の前に座ると、先ほど得た知らせを語り始めた。 段蔵は信綱から〈陰の流れ〉の巻物を受け取ると、直ちに武田信玄のもとに赴いたらしい。 ――わしを雇うてくだされ。決して損はさせませぬぞ。お雇いあらば、上泉信綱の〈新陰流陰の流れ〉の奥義書を献上いたしましょう。 段蔵は信玄に見（まみ）えると、図々しく言ったらしい。 「殿からもらった巻物を、段蔵は奥義書と信じていたようでござりまする」 文五郎は冷ややかに言った。 「いや。段蔵のことじゃ。奥義書と信じたのではなく、奥義書と偽ったのであろう」 ふふふ。と信綱は笑いながら言った。目で話の続きを促している。 ――謙信が恐れた技を見せてみよ。 信玄の命に、段蔵は飛びの技を披露した。 ――うむ。とても六十を過ぎた者とは思えぬ。よし。我がもとに仕えよ。 と、言ったという。 段蔵が喜んだのは言うまでもない。信玄を使って上杉謙信に、自分が殺されそうになった意趣返しをしようと思っていたからである。 だが信玄は、そのとき段蔵が手土産として献上した奥義書には目もくれなかった。 ――それはその方が持っておれ。わしが持っていても宝の持ち腐れよ。 段蔵は信玄のその言葉をむしろ喜んだという。なぜならば、正確には〈新陰流陰の流れ〉の奥義書ではなかったからである。 だが、段蔵の優れた技とともに〈新陰流陰の流れ〉の奥義書を持っているという噂が、風のように、またたくうちに躑躅が崎の城下に広まった。やがて、段蔵の元に弟子入り志願の者が、引きも切らない状態になった。そのうえ、武田の家臣だけではなく、百姓の若者までが、競い合って教えを請うようになったという。 当の段蔵は、信玄に雇われても、特段の命令もなく、やむなく弟子入り志願の者に稽古をつけていた。 ところが、しばらく経ったある日のこと。穴山信君に図られて、厠に入ったところをあっさりと殺されたという。 「ふうむ」 聞いて、信綱は考え込んでしまった。 「なにゆえ、信玄公は段蔵を殺したのでござりましょうか？」 文五郎もその理由までは聞いていないらしい。 「考えられることは、謙信公と同じく、その優れた技を恐れた、ということになろうが････」 だが、武田信玄であれば使いこなせただろう、と思う。使い方によっては、信玄の役に立つ忍びであることに間違いない。 「いま少し、詳しいことを探って参りまする」 「うむ。頼むぞ」 文五郎は恐縮しながら、信綱のもとを辞した。 やがて、文五郎の必死の情報収集の結果、武田信玄と穴山信君の交わした話を得ることができた。 それによると、当初信君は、段蔵暗殺に反対だったらしい。 信玄に強く命じられて、やむなく暗殺したのだが、それでも心の内にわだかまるものがあったという。 暗殺後、信玄のもとを訪ねた信君は、 「惜しい。実に惜しい忍びを殺しましたぞ。御屋形様はあやつが寝返ることを恐れたのでござりまするか？」 と、聞いたという。 「あやつの望みは武田と上杉を咬み合わせて、己の恨みを晴らすことにある。いまのところ、上杉に対抗できるのは、わしか北条だが、北条には風魔がいる。わしから寝返ることなどあり得ぬ」 「では、あやつの術を恐れたので････？」 「呆れ者め。わしは謙信ごとき小心者とは違うぞ」 信玄はぐっと信君を睨んだという。 「ご無礼仕りました。若輩者ゆえ御屋形様の真意がわかりませぬ。存念をお聞かせくだされませ」 「忍びがいかに忍びの術に長じていようとも、しょせんは忍び。独り技ではないか」 「は････？」 「そなたも我が武田家の一族にして一軍の将。いずれわしが天下をとれば、そなたも王侯将相となる身。よいか、その心構えをよく覚えておけ」 信玄のいつにない厳しい声に、 「はっ」 信君に緊張が走ったという。 「我が領地で米を作り、縄をなう百姓が、戦になったときいかに勇猛に戦うか、その力を引き出す者が将であり、将の力を引き出す者が候となり、王となる」 信玄はきっぱりと言った。 「いかに秀でた技を持とうと独り技は一人。我が武田家には三ツ者がいる」 「上泉信綱の剣も独り技ではござりませぬか」 「そなた、まだ信綱にこだわるか」 信君の言葉に、信玄は顔をしかめた。 「いかにも剣もまた独り技であろう。わしは兵法者としての信綱に用はない。武将としての信綱が欲しかったのだ」 「しかしながら････。しかしながら、信綱のごとき、段蔵のごとき術者を何人も雇えば････」 信君はさらに抗ったという。 「兵を全て段蔵や信綱にせよと申すか」 「御意。さすれば天下最強の精兵ができまする」 「ふうむ。度し難い呆れ者よな。誰が米を作り、縄をなうのだ。段蔵や信綱のごとき技を得た者が、おとなしく百姓に満足すると思うか」 「あっ････」 と、信君は声を上げたきり押し黙ったという。 加藤段蔵は、穴山信君ではなく、馬場信春（または土屋昌次）に暗殺されたという説もある。暗殺の年も永禄十二年とも伝わっている。 余談ながら、この頃の大名はみな兵農未分離である。尾張国の織田信長を除いては････。 「独り技か････」 文五郎からその話を聞いて、信綱は小さく呟いた。 「巻物は暗殺のどさくさに紛れて、無くなった由にござりまする」 文五郎が残念そうに言った。 終章 旅立ち 信綱は、いくつかの郭を出て大手門へ向かった。 年末を控えた慌しさの残る日だったが、その日ばかりは、年末の準備も控えて城中は静かであった。雪ばかりが原因ではなかったのである。てるの方はじめ城中の主だった者が見送りに出た。 志願する者は引きもきらなかったが、信綱の供は、疋田文五郎と神後伊豆守の二人のみと決められていた。 その日の穏やかな日和は、まるで信綱一行の旅立ちを祝しているようにも思われた。 「父上。お健やかに」 てるの方は気丈に見送りの言葉を述べた。 「行ってくる。秀胤を困らすでないぞ」 「父上の意地悪････。いつでも、お戻りをお待ちしておりまする」 隣の城にでも出かけるような信綱の別れの言葉に、てるは泣きそうな顔を堪えて言った。 それぞれが別れの挨拶を述べて、信綱一行は大手門を後にした。 やがて、城が見えなくなった辺りで、 「何故に信玄公は忍びなどを遣わされたのでしょうか」 疋田文五郎が尋ねてきた。偽の富田一法斎のことである。それは、かねてからの疑問であったようだ。 （あのときは不意のことであった） 東山道で出会いながらも取り逃がしたことに、文五郎は今でも悔いが残っている。 「御使者を陰ながら守る役目だったことは間違いないであろう。謁見の際にわしが隠居を申し出たことが、真なのか謀なのか判断に迷うたのではあるまいか。そのため、使者が襲われることを考えたのであろうて」 「しかし、誰が襲うのでござりましょうか。上泉は殿と若殿のお二人がともに降伏を申し出ておりましたのに」 これは伊豆守の問いである。 「むろん上泉の手の者と考えたのであろう」 「しかし、我らが御使者を殺せば武田家と戦を起こすことになりましょう。武田と北条は同盟の間柄でもあり、あり得ないことです」 事情を知らない伊豆守は断言したが、全てを知っている文五郎は、あえて沈黙を守った。 「おそらく上杉殿のことを考えたのよ。実際、すでに沼田まで来ているが、あのとき越後からの出陣を読んでおられたのだ。上泉城を巡るどさくさで、漁夫の利を攫われるかも知れぬ、と思われたのであろう。上泉はそれまで上杉に属していたからのう」 伊豆守は、あっ、と小さな叫び声をあげた。 「信玄公はわしの隠居を許すことで上野国に波風が立たぬと読んだのだ。なぜなら、これ以上上野国にかかずらわっておられぬからのう」 「では････」 これは文五郎の口をついて出た言葉だ。 「うむ。おそらく目は駿河国、そして東海道から京へ向いておろう。なぜなら、京へ上るのが信玄公の〈宿志〉だからのう。だが、隠居を許したのは、信玄公の器の大きさと単純に思って良いのではないか」 と言って、信綱は高らかに笑った。 （天下を取るという宿志を持つ信玄公なればこそ、わしの宿志を覚り、許したのだ） すぐに笑いを収めた信綱は、改めて心の内で信玄に感謝した。 そんな信綱にかまわず文五郎が続けた。 「武田殿は天下を取れましょうか？」 「率直な問いだのう。古来、天下を取るには天の時、地の利、人の和が必要であるといわれておる。信玄殿の場合は････。さあて、わしには分からぬよ。はっはっは」 伸びた顎髭をしごきながら、信綱は再び高らかに笑った。 「なぜでござります？」 急き込んで尋ねたのは伊豆守である。 「わしは一介の兵法者だ････」 信綱は静かに言って、苦い顔になった。 文五郎には、独り技の剣では、天下のことは分からぬよ、というその後の言葉をわざと呑み込んだように見えた。 もはや、武将ではない。ということであろう。文五郎は信綱の気持ちが何となく分かるような気がした。伝え聞いた、京入りの先駆けを勤める、という武将としての欲も、もはや無いであろう。 「ところで、何故に信玄公は家督のことに触れられなかったのでしょうか？」 文五郎は話題を変えた。 「信玄公は秀胤どのが、北条氏康どのに心を寄せていることを、ご存知だったのではありますまいか」 これは神後伊豆守の言である。 「伊豆どのはそのことをご存じであったか」 文五郎は吃驚して尋ねた。 「うすうすは感じておりました。秀胤どのの他にも北条に心寄せるものは上泉の一族には多いように思われまする」 「やはり、箕輪での戦いが尾を引いているのであろうか」 文五郎が目を落とした。 「分からぬ。だがわしは隠居の身、上泉領と上泉家の行く末は当主秀胤が決めることじゃ。小なりといえど、秀胤とて戦国の世に立つ武将の一人じゃ。眼前の定めからよもや目をそらすことはすまい。秀胤は秀胤なりに己の定めを甘受し、己の力で乗り越えて行くであろう」 信綱は文五郎と伊豆守に向かってきっぱりと言い切った。 「きな臭い話はもうその辺りで良かろう。さて、これから我らはどのような兵法者に出会うであろうかな。ふふふ」 信綱の顔には微笑が浮かんでいた。その脳裏には、一介の兵法者として生きる喜びが溢れているように見えた。 上泉伊勢守信綱は、ようやくにして宿志実現の第一歩を踏み出した。 ときに齢五十八――。 この時代にしては、第二の人生としては遅い旅立ちであった。 （了） （注）前回、章立てが間違っておりました。「第七章 敵討ち」の誤りです。お詫びとともに訂正させていただきます。 （主な参考文献） 「群馬県史 通史編３ 中世」（群馬県） 「兵法秘伝考」（戸部新十郎、新人物往来社） 「上泉信綱伝 新陰流軍学『訓閲集』」（校訂：赤羽根大介、解説：赤羽根龍夫、スキージャーナル株式会社） 「日本城郭全集 ３」（大類伸監修、人物往来社） 「決定版 『忍者』のすべて」（歴史読本１９９１年１２月臨時増刊号、新人物往来社） 「日本武芸小伝」（綿谷雪、人物往来社） 「日本剣豪百選」（綿谷雪、秋田書店） 「武芸流派百選」（綿谷雪、秋田書店） 「正伝新陰流」（柳生厳長、島津書房） 「戦国 関東三国志」（ムー歴史シリーズ２、学習研究社） 「歴史群像シリーズ６、８、１４、６８」（学習研究社） | |
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