このブログのトップへ こんにちは、ゲストさん  - ログイン  - ヘルプ  - このブログを閉じる 
〔助太刀兵法9〕夜桜お七(無料公開)  
[【時代小説発掘】]
2011年7月3日 10時27分の記事


【時代小説発掘】
〔助太刀兵法9〕夜桜お七 
花本龍之介 



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 向島土手へ夜桜見物に出た飛十郎は、満開の桜よりも美しい女と出逢う。女は前を行く酔っ払いを刺そうとするが、飛十郎がとめる。このことから思わぬ大喧嘩に巻き込まれる。江戸一番の小町娘に助太刀を頼まれた飛十郎の、腕と策略はますます冴えわたる。 

【プロフィール】:
花本龍之介。尾道市生まれ。居合道・教士七段。現在逗子に居住している。


これまでの作品:
[助太刀兵法1]鎌倉しらす茶屋  
[助太刀兵法2]人助けの剣
[助太刀兵法3]白波心中
[助太刀兵法4]おとよの仇討 
[助太刀兵法5〕神隠しの湯
〔助太刀兵法6〕秘剣虎走り
〔助太刀兵法7〕象斬り正宗 
〔助太刀兵法8〕討ち入り象屋敷 

猿ごろし


↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓   ↓  ↓  ↓  ↓



【PR】占いシステムの開発なら経験と実績があります。


************************************************************
当サイトからの引用、転載の考え方
・有料情報サイトですが、引用は可能です。
・ただし、全体の文章の3分の1内程度を目安として、引用先として「ニュースソース・NewsSource(有料版)」と必ず明記してください。
・ダウンロードしたPDFファイル、写真等は、透かしが入っている場合があります。これは情報管理上のことです。現物ママの転載を不可とします。ただし、そこから情報を引用しての表記は可とします。その場合も、全体の3分の1内程度を目安として、「ニュースソース・NewsSource(有料版)」と引用先を必ず明記してください。
・商業利用の場合は必ず、連絡下さい。
 メールは、info*officematsunaga.com
(*を@にかえてください)
************************************************************

【時代小説発掘】
〔助太刀兵法9〕夜桜お七
花本龍之介


一 十手風

 夜桜には危険な香りがある。 
 早船飛十郎は、重なり合った桜の木の下を歩きながら、理由もなく首筋に冷やりとするものを感じた。飛十郎は、さり気なく袖の中から、手を出した。ふところ手をしていては、抜き打ちが出来ない。
「これは………」
 ただの殺気ではなかった。頭上の、爛漫と咲き誇っている夜桜を見物するように、飛十郎は立ち止まった。足を止めれば、殺気はたちまち消えうせる。が、歩き出せば、ふたたびじんわりと、重苦しい殺気が飛十郎の五躰を包み込むようであった。
「ふうむ」
 雪洞(ぼんぼり)の灯りの横で、飛十郎はまた足を止めた。前方に見える大屋根が、梅若塚のある木母寺であろう。となれば享保のころ、八代将軍吉宗が命じて植えさせたという、染井吉野の桜並木もここで終わりだ。
 月に雲がかかったのか、あたりがまた暗くなった。ここまで来れば、さすがに花見客の姿も、ちらほらとしか見えない。左手の細い道をくだれば、大川の水辺に降りることが出来る。そのあたりに水神の森があって、若い男女が好んでいく場所だと聞いている。
 その小道の暗がりから、ふいに男があらわれると、よろけるように飛十郎に突き当って来た。風に吹かれる羽根のように、飛十郎はふわりと身をかわした。
 つんのめるようにして、たたらを踏んだ男は、振り返って飛十郎を、じろりと睨みつけると、またふらりふらりと千鳥足で歩きはじめた。男の行く方角から、三味線や太鼓の音やそれに合わせて囃し立てる、賑やかな花見客の声が聞えてきた。
 月を隠していた雲が離れていったのか、あたりがまた明るくなった。飛十郎の目の前に、大きな枝に見事な花を咲かせた桜の巨木が、一本ぽつんと立っているのが見えた。名高い向島の墨田堤の桜並木もいいが、ひとり孤独に花を咲かせている桜も、
「なかなかの、風情(ふぜい)だ」
 そう呟きながら、その一本桜に近よろうとした飛十郎は、驚いて足を止めた。木の影から、桜の精のような若い女が姿を見せたからである。
 朧(おぼろ)な月の光に照らされながら、歩いてくる女の顔を目にして、飛十郎は思わず息をのんだ。
「ううむ」
 まさに、なにかの化身のような、この世のものとは思えぬ、美しさであった
 女は、その場に誰もいないような無関心な表情を見せて、すぐ横を通り過ぎて行った。瞬間、飛十郎は首筋に冷やりとするものを感じた。
 ―――これだ。あの女は夜の桜のような、危険な香りがする…………
 そう思いながら振り向くと、飛十郎は女の後をついて歩き出した。
 今を盛りの夜桜である。土手道に茣蓙(ござ)や毛氈を敷きつめ、職人、商人、侍が入り乱れての花見酒の最中だ。桜並木に吊り下げられた花提灯に照らされて、芸者が唄いながら三味線を弾けば、幇間が太鼓を打つ。それを見て、酔っぱらいが踊り出す。目の前の大川に浮かぶ屋形舟や屋根舟の連中が、負けじとばかりに鳴り物を鳴らしだした。
 女は桜や酔客には見向きもせず、足早に人込みをぬって歩いて行く。その足取りが、ふいにゆるくなった。
「ほう。さっきの男ではないか」
 飛十郎に突き当りそうになった千鳥足の男が、女のすぐ前を歩いていた。
 千鳥足の酔っぱらいと、その後をつける女、そのまた女の後をついて行く飛十郎は、白髭明神を通り過ぎて寺島村を抜けると、桜餅で有名な長命寺の前に差しかかった。ここを過ぎると、三囲稲荷まで桜並木が途切れる。月あかりだけの土手道を、ふらりふらりと千鳥足の男が、牛の御前までやって来ると、ふぃに女が足を早めて、男の背後へ寄って行った。
「よせ」
 飛十郎は、ぴたりと女の手を押さえた。声に気づいた男が振り向くと、飛十郎と女を見た。
「なんでえ、おめえ達は」
 女は押さえられた手を振りほどこうと、身をよじった。
「なんでもない、おぬしには関わりはない。行け」
 月が女の顔を、濡れたような銀色の光りで、冷ややかに照らした。
「お、こいつは……。たまらねえほど上玉だ」
 男の目が、ぎらりと光った。
「おい、侍(さんぴん)。関わりがねえのは、おめえの方じゃねえのか。女が嫌がってるぜ。いいから、こっちに渡しな」
「そうは、いかん」
 女の手を掴んだまま、飛十郎は言った。
「とっとと消えな。その女の面倒は、おれが見る」
見かけほど酔ってはいないようだ。躰を丸めると、腰を落として右手をふところの中へ入れた。
「いい度胸をしているな。町人のくせに、二本差しのおれとやるのか」
 飛十郎は、あきれたような声を出した。
「ふん。度胸がいいのは、おめえのほうだ。これを見ろ」
 男はふところから、手を出した。月に照らされて、ぎらりと光った。
「なるほど、十手持ちか」
 飛十郎は、女の顔に目をやった。
「道理で、威勢がいいわけだ」
「うるせえっ! おや、てめえ、これを見ても驚かねえな」
「十手を見て、いちいち驚いていては、江戸の町は歩けぬからな」
 逃げようとする女の手を、飛十郎はまだ離さない。
「それに、この季節の風は、大嫌いでな」
「なんでえ、その風ってのは」
 十手を顔の前にかざしたまま、男はきょとんとした。
「わからんか。おぬし、相当頭が悪いようだな」
 恐る恐る寄って来た花見客たちが、遠巻きにして見物している。
「この野郎、ふざけやがって。しょっぴいて、番屋へ放りこむぞ!」
「その御用風が、おれは嫌いだといっているのだ。きさまのくだらん風で、せっかくの夜桜が散りでもしたらかなわんからな。わかったか」
「くそっ!」
 叩くと見せて、いきなり十手で飛十郎の顔を突いてきた。なかなかの手際だったが、むろん飛十郎の相手ではない。
 素早く横に顔を振ると、耳元まで伸びてきた十手を握った右腕を、指でつかみながら飛十郎は、さっと身を沈めた。同時に、絶妙の間で、足をすくい上げる。
 男は、もんどり打って土手の斜面を転がり落ちると、水音も高く大川に飛び込んでいった。
 袴についた泥を手ではたき落としながら、飛十郎はあたりを見廻した。遠巻きにして見物していた野次馬たちは、十手持ちと浪人者の喧嘩に関わり合いになるのを嫌ってか、そそくさと散って行く。
 桜の精のような女の姿は、何処にも見えなかった。
「ふうむ………」
 とんだ夜桜見物になってしまった。飛十郎は、無精髭をこすりながら、墨田堤のほうへ目をやった。花提灯や雪洞に照らされた満開の桜並木が、まるで薄桃色の雲のように、霞んで見える。
 水面のあたりで、男の怒鳴る声と、舟の艪のきしむ音がした。大川に放り込まれた十手持ちは、近くにいた猪牙舟(ちょき)に救い上げられたようだ。艪を漕ぐ音は、対岸の山の宿(しゅく)河岸のほうへ消えていった。
――― それにしても、世の中には美しい女がいるものだ………
 夜桜の下から幻のように現れて、また夜桜の中へ消えていった美しい女の顔を、思い浮かべようとしたが、どうしたものか思いだすことが出来なかった。
 頭をかいて、ふところ手をすると、飛十郎は三囲稲荷のほうへむかって、ゆっくりと歩きはじめた。


二 芸者と茶汲み女

 あくる日――、江戸は朝から雨だった。
 飛十郎は、寝床にもぐり込んだまま、すぐ横を流れる小名木川の河面(かわも)を打つ、雨の音を聞いていた。
「この雨で、あの桜も散ってしまうか」
 昨日のうちに向島へ、夜桜見物に行って良かった。ような悪かったような………。顔をしかめると、飛十郎は、天井を見あげた。板屋根を打つ雨音が高い。いつも騒々しい長屋も、雨の日は妙に静かだった。ときおり、どぶ板を踏む下駄の音が、通り過ぎるだけだ。「さて、と」
 寝ていたいのだが、焼けつくように喉が渇く。深酒のせいだ。十年前は、あれしきの酒で頭が痛くなるようなことはなかった。
「もう歳かな」
 ふらつきながら土間へ降りると、水甕に入れた柄杓(ひしゃく)で、一気に水を飲む。
「いや、酔いざめの水は価(あた)い千金。とは、よくいった。甘露、甘露」
 顎にたれた水の雫を手の甲でぬぐうと、もう一杯、今度はゆっくりと飲んだ。
 八軒長屋の、どぶ板を踏む軽やかな足音が、飛十郎の家の前で止まったかと思うと、いきなり腰高障子が、がらりと開いた。
「おや、早船の旦那、二日酔いですか。なんです、だらしがない。もう昼過ぎですよ。お天道さまに申し訳ないじゃございませんか」
 立て板に水の調子で、しゃべりながら入って来たのは、深川櫓下の芸者・小吉だった。「ごめんなさいよ」
 そう断わって、びっしょり濡れた蛇の目傘の水を切って土間の隅に立て掛けると、さっさと上がる。
「あいにくの雨だ。お天道さまは、出ておらん」
「なんですね、袴がくしゃくしゃですよ。着たまま寝たんですか」
「よく覚えておらんのだ」
「男やもめは、これだから嫌ですよ。そんなとこへ突っ立っていないで、お上がんなさいよ」
「いわれなくても上がる。おれの家だからな」
「きのうは夜桜見物ですか。それにしても、ずいぶんお呑みになったんですねぇ。その顔色じゃ」
「うむ、ちと呑みすぎた。まず駒形で、どぜう鍋を肴に一杯。これが口切りでな。次に並木町で蕎麦をすすりながら一杯。つづいて大川橋(吾妻橋)のたもとの屋台で、おでんをつつきながら一杯やった」
 飛十郎は、小吉の前を通ると、布団を器用にくるくる丸めながら言葉を続けた。九尺二間の狭い棟割り長屋だ。寝床を片付けなければ、座る場所がない。
「それでやめておけばよいのに、調子にのって風雷神門から仲見世を突っ切って奥山へでると、水茶屋でまた一杯。その勢いで聖天横丁までのすと、煮売り酒屋で一杯やったあと、大川端へ出たのが悪かった。対岸の向島の花提灯や雪洞の浮き立つような灯りと、三味線太鼓の騒ぎ声に引かれて、つい竹屋の渡しに乗り込んでしまった」
「もう、けっこうですよ。旦那が、何軒いこうが、どれだけ呑もうが、あたしには関係ありませんからね」
 小吉は眉をしかめると、手を振った。
「そんなことより旦那、これに見覚えがあるでしょうね」
 帯の後ろに手をやると、抜き出した物を飛十郎の前に置いた。
 丸めた布団に寄り掛かるようにして、あぐらをかいていた飛十郎は、驚いたように目を見張った。
「これは………、十手ではないか」
「そうでござんすよ。旦那がきのうの夜、向島で大立ち廻りをしなすった時に、ご覧になった十手ですよ」
「それを、なんで小吉、おぬしが持っている」
 飛十郎は、不思議そうな顔をすると、腕を組んだ。
「なんですよう。鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、みっともない。いま種明かしをしますよ。お七ちゃん、もういいから、おはいんなさいな」
 小吉が声を掛けると、待っていたように腰高障子が開いて、若い女が恥ずかしげに肩をすくめて入ってきた。
 お七と呼ばれた女は雨音の中を、外に向かって蛇の目傘の水をきると、小吉の傘の横に立て掛ける。それを見て飛十郎が、もう一度鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
「おう。おぬしは、向島の、夜桜の女ではないか」
「はい……。そのせつは、本当に、ご迷惑をおかけいたしまして……」
 身の置き場もない、といった儚げな細い声で言って、お七はまたうつむいた。だが、奇妙なことに、お七が立っているだけで、薄暗い土間に、ぱっと一輪の花が咲いたような感じを、飛十郎は受けた。
「う、うむ」
 掃きだめに鶴、とはこの事かもしれぬ。
「何をうなってるんですよ、旦那。気味が悪い。お七ちゃんも、そんなとこへ立ってないで、早くおあがりなさいな。こんな狭苦しい汚いとこだけどね、遠慮しなくていいからさ」
―――勝手に押しかけてきて、その言い草はないだろう………
 飛十郎は、腹の中でもう一度うなり声を上げた。が、狭くて汚れているのは本当だから文句も言えない。
「では、ごめんください」
 消え入りそうな声で言って座敷へあがると、お七は後ろ向きになって、駒下駄をきちんと揃えて置いた。初めてということもあるだろうが、塗下駄をぬぎ散らかしてあがった小吉とは大分育ちが違う。
「あの……、お七ともうします」
 きちんと正座すると、飛十郎を真っ直ぐみつめながら、三つ指を突いて挨拶した。
「あ、いや、早船飛十郎だ。以後、よしなにな」
 慌てて腕組みをほどくと、頭をかきながら膝に手を置いた。
「何を、どぎまぎしているんですよ、旦那。ああ、おかしいったらありゃしない。お見合いじゃあるまいし、二人とも、もじもじして」
「無礼なことをいうな小吉。べつにおれは、もじもじなんかしておらんぞ」
「ふん、いいですけどさ。たいていの男は、お七ちゃんに会うとそうなるんだから。いったい、そうしてなんでしょうかねえ」
 そりゃ、おまえのような、お多福と違って美しいからではないか。と言いかけて、飛十郎は慌てて口を閉じた。
「おや。何かいいたそうな顔じゃあございませんか、早船の旦那」
 口は禍(わざわい)の元だ。飛十郎は、そっぽをむいた。
「だいたい、深川に住んでいて、お七ちゃんのことを知らないのが変なんですよ。いま江戸で大評判の深川小町・八幡お七を聞いたことがないんですか」
「すまん。どうも、そういったことには、うとくてな、おれは」
「富岡八幡宮境内にある、花本宮(祭神松尾芭蕉)そばの水茶屋で働いていて、浮世絵の一枚絵になったこともある美人茶汲み女なんですからね。この、お七ちゃんは」
 小吉はそう言いながら、帯の間から小形の綴じ本を取り出すと、飛十郎に渡した。
「なに〔当世美人評判女名寄草〕だと。なんだ、これは」
「その表紙絵になっているのが、ここにいるお七ちゃんですよ」
 見ると八幡宮らしい境内の水茶屋で、腰掛け床几に座った若侍に、盆にのせた茶を運んでいるお七の姿が、木板摺りの表紙になっている。
「ほら、本をめくってごらんなさいな。最初にお七ちゃんの名がのっているから」
 いやに熱心に、小吉が覗き込むようにして、頁をめくるようにうながす。
「ほう。〔大極上々吉・深川八幡お七〕か、これはすごいな」
「それはもう大変な評判で、ほかの水茶屋は閑古鳥が鳴いてたって、お七ちゃんがいる湊屋さんだけは、押すな押すなと客が詰めかけて行列ができる騒ぎなんですから」
「たいしたものだな」
「でしょう。ほら次をめくって、次を」
「ふ、ふふ、いやに息込んでいるが。まさか小吉、おまえがのっているのではないだろうな」
「あら、いやだ。ほ、ほほ、まさか、こんなあたしが………。そんなわけ、ないでしょっ」
 などと言って、小吉は袖で飛十郎をぶつ振りをして見せる。そのはしゃぎ振りを見て、飛十郎は嫌な予感を覚えながら、頁をめくった。
「お、〔大上々吉・深川櫓下小吉〕とあるではないか。これは、おまえのことか」
「まあ、ちっとも知らなかった。けど櫓下の羽織芸者で、小吉といえば一人しかいませんからね」
「そうか。いや、たいしたものだ、小吉」
「そうですよ。旦那、今日が雨降りでようござんしたねぇ。これが晴れてたりしたら、この長屋も近所の男たちがあたしたちの顔を拝みに集まって、とんだ騒ぎになるところですよ」
「そうだろうな。なにしろ江戸の大極上々吉と、大上々吉が二人も、この狭苦しくて汚いおれの家に来てくれているんだからな」
「おや。あたしのいったことが、気にさわったような、口振りじゃございませんか」
 とたんに小吉の目尻が、きりりと吊り上がった。はらはらしながら、二人のやり取りを聞いていたお七が、たまりかねて小吉の袖を引いた。
「小吉姉さん。お願いですから、早くその十手のことを、お頼みしてくださいな」
「そうだ、お七どののいう通りだ。喧嘩はあとだ小吉。その十手は、どうした?」
「そうですねえ。そのために、わざわざやって来たんだから。どうもいけない、早船の旦那の顔を見ているとくってかかりたくなってしまう。どうしてだろ」
 両の手で頬を押さえるようにして、小吉は首をかしげた。
「いえね。このお七ちゃんとは、幼な馴染でござんしてね。家もあたしのとこが、一の鳥居横の門前仲町なら、お七ちゃんの家はすぐ隣の黒江町と同じ深川育ちなんですよ。それに、うちの兄貴は旦那もご存知のように、南・二番組の小頭をやっていますけどね。お七ちゃんのお兄さんも三番組の火消しなんですよ。それも花形の纏(まとい)持ち。どうです旦那、おどろいたでしょう」
「おまえと、お七どのの因縁はよくわかった。それより、この十手のことだ。こっちの因縁のほうを、早く話せ」
 飛十郎は、そう言いながら十手を取り上げた。房飾りもなにもない、岡っ引きが使う鉄の十手である。
与力や同心が持つような、真鍮銀流しの二尺(六十六センチ)の朱房の紐をつけた立派な十手ではない。
「そうか。おれがあの男を投げ飛ばした時、手から十手を落としたのか。そいつを拾って家に持って帰ったのか」
 お七が黙ったまま、うなずいた。
「それにしても不思議なのは、向島の夜桜見物のあの人込みの中で、よくあの浪人者がおれだとわかったことだ」
「それは、この小吉のお手柄ですよ。今朝のまだ夜も明やらぬ七つ半刻(午前五時)に、いきなりお七ちゃんが、あたしの家の格子戸を叩いたんですよ。わけを聞くと、どうもそのお侍というのが、髪形、人相、着物の紋から、無精髭といい、頭をかく癖といい早船の旦那にそっくりじゃありませんか。そこで、取りあえず連れて来たんですよ」
「よく気がついてくれた。さすがは、深川一の辰巳芸者の小吉だけのことはあるな」
 飛十郎にほめられて、小吉が珍しく素直に、うれしそうな顔をした。
「お七どの。ひとつだけ訊くが、なぜ昨夜あの十手持ちを、おぬしは刺そうとしたのだ」 ずばりと、飛十郎は切り出した。
「あの男は………。兄の仇の、片割れでございます」
 白魚(しらうお)のような指を、ぎゅっと握りしめると、お七は目に泪を溜めて、悔しそうに唇をかんだ。
お七がうなだれると、朧月夜の下で雨に打たれている白百合のような、風情がある。
「う、うむ」
 無精髭をこすると、飛十郎は軽く目を閉じて、天井を見上げた。
「何をうなって天井を見ているんですよ、旦那。お七ちゃんの兄さんの新さんはね、ふた月ほど前に、よってたかってなぶり殺しという、そりゃあひどい死に方をして洲崎弁天の沖に浮いていたんですよ。なんとか助けておあげんなさいな」
――― お七が白百合ならば、小吉は大嵐にも敢然と立ち向かう大輪の牡丹というところか ………
 そんなことを考えながら飛十郎は、小吉の顔に目をやった。


三 笠森お仙

「そうはいってもな、小吉。この一件を安達屋藤兵衛は知っているのか。こういったことは、仇討宿を通してもらわねば困る。旅先ならともかく、江戸ではおれの勝手にはならんのだ」
「安達屋さんには、あたしからきちんと筋を通します。そんな他人行儀なことを、いわなくたっていいじゃありませんか」
 小吉は、女だてらに腕を組むと、ぷいと横をむいた。
「それに金もかかる。お七どの、気の毒だがこういったことには、けっこう金が必要でな」
「ふん、お金ですか。見そこないましたよ、旦那。ようござんす、金の心配ならいりません。痩せても枯れても、この深川の小吉は、宵越しの銭は持たないんだ。躰を質に入れたって、あたしが立て替えますよ」
 腕まくりをしかねない勢いで、小吉は啖呵(たんか)を切った。
「いったい、その助太刀料ってのは、いくらです。この小吉が、すっぱり用立てようじゃござんせんか」
「そうだな………。まず、最低二十両はかかる。相手の人数によっては、三、四十両は覚悟しなくてはなるまい」
 目を閉じたまま飛十郎は、思い切って金額を口に出した。無料でこの美しい娘を助けてやりたいのは山々だったが、それをしては藤兵衛への義理を欠くことになる。
「悪いが、お七どの。これが、おれの商売でな」
 顔をしかめると、頭をかきながら飛十郎は、お七を見た。人情と義理の板ばさみ、という辛いところだ。
「いいえ、早船さま。よくわかっています」
 にっこりと、お七は飛十郎に笑いかけた。愁いをふくんだお七もいいが、花が開いたような笑顔も、またいい。飛十郎は、思わず手にしていた十手を落としそうになった。
「小吉ねえさん、お気持だけはいただいときます。でも、五十両あまりなら、なんとかなるんです」
 心をきめたように、きっぱりとお七が言った。
「だめよ、お七ちゃん! あの話にのるつもりなんでしょう。おやめなさい」
 小吉が、取り乱した声を出した。
「なんだ。あの話というのは」
「引き抜きですよ。大極上々吉の八幡お七の人気に目をつけた悪い連中が、夜桜稲荷の水茶屋へ鞍替えしろと、この間から掛け合いにきてるんです。その支度金が、たしか五十両よね。お七ちゃん、行くつもりなんでしょう」
「あたし……、もう、どうなってもいいんです。兄さんは、あんなふうに殺されたし。母親だって、病いでもう長くはないんです。あと四、五か月の命だって、お医者さんがいっていたんです。そうなれば、どうせひとりぼっちだし……」
 そう言って、お七が目を伏せると、長く黒い睫毛のあいだから、大粒の泪がぽろぽろと零れて落ちた。
「ひとりぼっちじゃないわよ。あたしだって、深川の人たちだって、いっぱい居るじゃないの。やけになっちゃ駄目よ、お七ちゃん」
「お七どの、小吉のいう通りだ。人は、けっして、ひとりではない。心を静めて、廻りを見れば、助けてくれる仲間たちが、たくさんいるはずだ」
「そうだよ、お七ちゃん。あら、早船の旦那も、たまにはいいことを言うじゃないの」
「おれではない。これは、たった今おまえが言ったことではないか。ところで、その夜桜稲荷というのは、どこにあるのだ」
「十二社権現ですよ。淀橋の角筈村の先にある」
「なに。淀橋といえば、たしか内藤新宿のさらに先ではないか。また、えらく遠い所にあるな」
「そうなんですよ。あたしだって、四谷の大木戸のむこうなんて、まだ一度も行ったことがないのに。そんな所へいくのはやめなさいと言ってるんですよ」
「あのあたりに、桜の名所があったかな」
 飛十郎は、首をひねった。まだ雨は降りつづいているが、小名木川を打つ雨音は少し弱くなった。
「なんでも、権現社のそばに大きな池があって、そのほとりに茶店や料理茶屋や出合い茶屋が、たくさん並んでいるそうなんですよ。旦那は、笠森お仙という名を知ってますか」「うむ。手鞠唄にまでなったという、当時評判の美人だったそうだな」
「ええ。向こう横丁のお稲荷さんへ、一文あげて、ざっと拝んでお仙の茶屋へ、腰を掛けたら渋茶を出した、というあれですよ」
 途中から、小吉は唄い出す。さすがは芸を売る辰巳芸者だけあって、いい声だった。
「あたしも、お七ちゃんも子供の頃、この唄でよく遊んだものですよ。谷中の笠森稲荷の境内にあった鍵屋という水茶屋の娘お仙が、美しいと大評判となり、春信という浮世絵師の一枚絵が売り出されるや、江戸中の男たちが押しかけて大繁昌になったそうです」
「うちの死んだお婆ちゃんがいってたけど、お爺さんが若いころ何度も谷中へお仙の顔を見にいき、その
たびにぼおっとなって帰ってきたそうです。
「ほう、よほどの江戸美人だったのだな」
 お七の言葉に、飛十郎が無精髭をなぜながら答えた。
「たいしたものですよ。百姓の娘で茶汲み女のお仙が、将軍さまのご家来の御休息お庭番支配・倉地政之助という、お旗本の奥さまに成り上がったんですからねえ」
「しかし、いくら昔とはいえ百姓の小娘が、れっきとした幕臣の嫁になることは、ちと無理だろう」
「それがなっちまったんですから、女は綺麗に生まれると得ですよ」
 自分のことのように言って、小吉は鼻を高くした。
「では、誰か仮親を立てたのだろうな」
「どんぴしゃり。西の丸御門番頭の馬場善五兵衛という人を仮親に頼んで、無事に輿入れしたそうですよ」「だが、俗に美人薄命、と申すからな。美しさゆえに玉の輿に乗ったものは、短命であまり幸せではないというぞ。あ、いや、これはお七どのを前にして失礼だったかもしれぬ」
 飛十郎は、頭をかきながら、お七を見た。     
「ふん、お七ちゃんだけじゃなく、この小吉にだって、大変失礼ですよ。あいにくですがね、笠森お仙は倉地家の妻になったあと、桜田御門内の御用屋敷に住んで、跡継ぎの子供を何人も産んだあとも、夫婦仲むつまじく暮らして、七十七才まで長生きしましたとさ。旦那、残念でした」
「ふ、ふふ。べつに残念ではないが。それにしても小吉、よくそんなことを知っていたな。では、とんだ茶釜が薬缶に化けた。という言葉も知っているだろうな」
「もちろんですよ。とんだ茶釜、というのは、こんな江戸もはずれの田舎の茶店に、目もさめるような美女がいること。薬缶に化けた、というのは、そのお仙が嫁入りしたことを知らずに、谷中まで押しかけた助平男たちが、美女を拝むはずが案に相違して、頭の禿げた薬缶頭の親爺が茶を運んできたので、びっくりした。という意味でしょう」
「うむ、よく知っているな。たいしたものだ」
「種あかしをしますとね。お座敷でお会いした木場の材木問屋のご隠居さんに、聞いたばかりなんですよ」
 笠森お仙の逸話を聞いて、飛十郎はもう一度、見直すようにお七の顔を見た。
「つまりは、このお七どのを、角筈村にある夜桜稲荷の水茶屋に引き抜き、笠森お仙の時のように、江戸中の男たちを呼び寄せ、一攫千金の大儲けをたくらんでいる悪党どもがいるというのだな」
 気の毒げに、飛十郎はお七に目をやった。
「そうなんですよ旦那。その引き抜きの手附け金が、五十両。けどねえ、なんといっても場所が江戸御府外の青梅街道の成子宿の先ですよ。それに仕掛けた連中の魂胆は、お見通しなんだ」
「どういう魂胆だ、小吉」
「笠森お仙のむこうを張って、夜桜お七の評判で客を取ろうというたくらみよりも、いずれは出合い茶屋躰を売らせる地獄づとめか、色ぼけした豪商の旦那衆に大金を積ませて、妾奉公させるつもりに違いないんですよ」
「ふうむ……、お七どのの美しさを利用するなら、そのほうが手っとり早いというわけか。ゆるせんな。それで、これに反対していた兄上が悪党一味に殺されたというわけだな」「たしかにそれも原因のひとつだけど、ほかにも新さんが殺されたわけがあるんですよ」 兄のことを言われて、お七がまた下をむいた。
「旦那は火消しに、定火消しと、大名火消しと、町火消しがあるのを知ってますか」
「いや、くわしくは知らぬ」
 何を言い出すのだ。という顔で飛十郎は小吉を見た。
「そりゃ、普通のお人は知りません。けど、あたしは兄貴が火消しの小頭ですからね。定火消しは、若年寄御支配で大身旗本が役頭になって、お城と武家地を消します。江戸の中心部十か所に火消し屋敷があって、与力五騎、同心三十人が付き、臥煙と呼ばれる火消し人足がそれぞれ三百人付いています」
「若年寄支配ということは、幕府の火消し組織ということだな」
 飛十郎は顎をこすりながら、むずかしい顔をした。
「大名火消しというのは、名の通り諸大名お抱えの火消し組織。有名な前田家百万石の加賀鳶もその一つだし、殿中松の廊下で吉良さまに斬りつけた浅野内匠守さまも、火消しの殿様で有名だったそうですよ」
「それで、大石以下四十七士が吉良邸に討ち入ったとき火事装束を着ていたのか。ならば、亡き主君への追善供養ということになる」
 興味を引かれたように、飛十郎は身を乗り出した。
「ま、それもあったでしょうけど。何十人もの侍の集団が夜なかに江戸の町を走るとなると、大名火消しの姿をしていれば、番屋にも咎められませんからね」
「火事だといえば、町内の木戸も通してくれるわけだ」
「一番あとに出来たのが、町火消し。ご公儀は将軍さまのお城と、大名屋敷と、旗本屋敷さえ火から守れば、町人風情が住む町屋どうでもよかったんでしょう。権現様が江戸へお入りになってから、なんと百年間も町方は火消しもされずに放っとかれたんですよ。旦那、ひどい話じゃありませんか」
「うむ、まことにひどい話だ。だから、おれは浪人なのだ。小吉」
「そうでしょうね。旦那が、ご立派なお武家だったら、この小吉はひと言も口をききませんよ」
 にっこり、小吉は笑った。
「町火消しが出来たのは吉宗公の頃で、名奉行大岡越前守の手によってだと聞いているが」
「その通りですよ。最初に、いろは四十八組が出来たんだけど、へ組、ら組、ひ組、ん組の四つは語呂が悪かったり、縁起が良くないというので、かわりに百組、千組、万組、本組になったんです。そのほかに大川のこちら側の本所・深川が、南組、中組、北組の三大組にわけられて、その下にまた十六組がいるってわけです」
「なるほど。その南組の二番組に小吉の兄がいて、三番組にお七どのの兄もいたというわけだな」
 お七と小吉が、同時にうなずいた。
「火事と喧嘩は江戸の華といわれて、この二つが大江戸の名物になっているのは、旦那もご存知でしょうが。火事はもとより、喧嘩がなにより好きなのが火消し人足なんですよ。町火消し同志もそうですが、特に仲が悪いのが大名火消しと町火消しなんです。火事場で消し口を争って喧嘩は当たり前、通りや盛り場で顔を合わせただけで、たちまち大喧嘩がはじまります」
「どうして、それほど仲が悪いのだ」
 腕組みをすると、飛十郎は首をひねった。
「よそはともかく、この深川の町火消しは、大名火消しの臥煙たちに、そりゃひどい目にあわされてるんですよ。旦那は永代橋と新大橋の真ん中あたりにある、伊達さまのお屋敷をご存知でしょうね」
「ああ、仙台堀の上の橋脇にある下屋敷だろう。この長屋の近くではないか」
「ええ。でも、あたしたちは怖いから佐賀町のほうは通らず、少し遠廻りになるけど海辺橋を渡って霊岸寺門前町を抜けて、高橋の前からこの海辺大工町へ入ったんですよ」
 小吉とお七のふたりは、眉をひそめるようにして、うなずき合った。美しい女が顔をしかめると、露骨に嫌だという感じになる。
「怖いというからには、深川の町火消し南組の喧嘩相手というのは、仙台藩・伊達家の大名火消しなのだな」
 こいつは面白い、というように飛十郎は、また身を乗り出した。
「まあ聞いてくださいな、旦那。一年ほど前になりますが、木場の吉永町から火が出たんですよ。あたりは材木だらけの木置場だ。燃え広がって悪くすりゃ富岡八幡宮までが危ない。じゃんと半鐘が鳴って、いの一番に目の色を変えて火事場に駆けつけたのが、」
「小吉の兄がいる南二番組、というわけだな」
「うちの兄貴が、纏持ちの辰吉を先頭に火元の屋根に上がって、見事に消し口を取ったんですよ。火の粉をあびながら纏を立てた辰吉を見て、ほかの組の連中は、さあ消火は二番組にまかせよう、とおとなしく引き下がったんですよ。ところが、消し口を寄こせとばかりに横車を押してきたのが、仙台さまの大名火消しなんです」
 悔しげに、小吉は唇を噛んだ。
「どうして、そんな無茶をいってきたのだ」
「火事場が、木場ですからね。おおかた材木商の大店から、金をむしり取る算段でもしたんじゃないんですか。あの仙台堀にある火消し部屋の臥煙たちは、特別に柄が悪くて深川の鼻つまみなんです」
 小吉は、また鼻に皺を寄せた。
「それで、木場の火事はどうなった」
「もちろん、そんな奴らに消し口を渡す、南二番組の辰吉じゃありませんよ。旦那は知らないかもしれないけど、火消しの纏持ちというのは、家が焼け落ちそうになろうが、火事半纏が燃えようが、髷が焦げようが頭(かしら)が、さがれ!というまで屋根から、びくとも動かないんだ。男の中の男の、命がけの稼業でござんすよ」
 それを聞いて、飛十郎は興奮したように、ごしごしと無精ひげをこすった。
「たいへんなものだな。それで辰吉は、どうした」
「辰吉は屋根の上で、夢中になって火の粉を躰にあびながら、纏を振り回す。その下じゃ火事をそっちのけにして、臥煙たちと町火消したちが、鳶口を振り回しての大喧嘩だ。そのうち屋根の辰吉が、あっとひと声あげて、纏もろとも地面に、まっ逆さまに落っこちた」
「死んだか、辰吉は。かわいそうに」
「なにをいっているんですよ旦那は。まだ生きていますよ辰吉は。けど、かわいそうなのは本当。両足と腰の骨を折って、まだ寝込んでいますよ」
「だが纏持ちともあろうものが、屋根から墜ちるとは、ちと不覚ではないか」
「とんでもない。あとでわかったんですが、臥煙頭の生首の松五郎という悪い奴が、こっそり屋根にのぼって、不意を襲って辰吉を突き落としたんですよ」
「ううむ。ひどいことをするもんだな、火消しというものは」
 飛十郎は、うなり声を出した。
「火消しじゃありませんたら。その生首の松五郎が悪いんです」
 むきになって、小吉は言った。
「だが生首とは、すごい二つ名だな。女の生首の刺青(いれずみ)でも入れているのか」
「大当たり。背中に、桜の枝を口にくわえた、美しい女の彫り物をしているそうなんです」
「ほほう。それは珍しい……。一度でいいから見てみたいものだ」
「のん気なことをいってる場合じゃありませんよ、旦那。嘘か本当か、松五郎は背中の生首は、お七だ。どんな汚い手を使っても、お七を自分の女にしてみせる。そういいふらして歩いているそうですよ」
「まあ、気味が悪い。もし、そんなことになったら、あたし舌を噛んで死にます」
 身震いすると、お七は膝に置いた手を、ぎゅっと握り締めた。
「冗談じゃない。そんなことは、この小吉がけっしてさせませんとも。ねえ、そうでしょう早船の旦那。お七ちゃんを助けてくれますね」
「うむ。こうなったら乗りかかった船だ。助太刀を引き受けるしかあるまい」
 もったいぶった口調で言ったが、なに飛十郎は、とうに助太刀をする腹はきめていたのだ。
「ありがとうございます、先生。これで殺された兄も浮かばれます」
 お七は、涙のまじった声で言った。
「おい、その先生はやめてくれ。背中に鳥肌が立つ。早船の飛びさんでよい」
 頭をかくと、飛十郎は助けを求めるように、小吉の顔を見た。
「よかったねえ、お七ちゃん。この旦那はね、この通り見かけは悪いけどさ。助太刀の腕は江戸で一番なんだ。大船に乗ったつもりでいるといいよ。かならず新さんの仇を討たせてくれるからね」
 小吉はそう言って、胸のあたりを、ぽんと叩いた。
「ところで、お七どの。兄上の新さんと生首の松五郎の関わりあいを、もっと聞きたいのだが。その岩五郎というやつ、どうもお七どのに惚れて、つきまとっているだけのようには思えんのだが」
「はい。八幡さま境内の湊屋に押しかけて、脅したりすかしたり、しつこく言い寄ってきたのは確かですが。ほかにも、気になることがあるんです」
「それだ。そのことを、くわしく聞かせてくれ」
 腕を組み直すと、飛十郎は耳をかたむけた。
 雨は小降りになったらしい。小名木川を行き来する、舟の艪の音が高くなった。風向きによって、船頭たちの話し声が遠くなったり近くなったりした。
「兄の新次は、三番組の纏を持っておりましたが、殺される三日前に不思議なことを口にしておりました。火消しは、地元深川はもちろん本所、向島はおろか永代、新大橋、両国の橋むこうだって半鐘が、じゃんと鳴りゃあ纏をかついで駆けつける稼業だ。遠場はともかく、深川、両国の火事の消し口は、三度に二つは必ず取るこの新次が、ここ五度ばかしは、ひとつも取れねえ。つい先だっての木場の茂森町の火事だって、目と鼻の先の近場だってのに、すっ飛んで行ってみりゃ、松五郎の仙台組の纏持ちが得意そうに馬簾(ばれん)を振り回していやあがる。こんな奇妙なことはねえ。と首をひねって不思議がっておりました」
 つらそうな声で、お七は言った。
「あ、それ、あたしも新さんから聞いたことがある。三味線のお稽古帰りに八幡橋の上で、組の寄り合いから戻ってきた新さんと、ばったり逢ったとき。橋の下を通る猪牙舟(ちょき)に目をやりながら、不思議で仕方がねえから、ちょっと調べてみる。といっていたわね。あれが生きていた新さんと、言葉を交わした最後だった。ほんとに儚いものね、人の命って」
 溜め息をついて、小吉は目を伏せた。
「うむ。となると、この殺しの一件は、色と欲の二筋道が原因かもしれぬ」
「旦那、その二筋道とは、いったいどういう意味でござんす」
 小吉は、伏せていた目をあげて、飛十郎を見た。
「火事場の消し口争いという欲と、美しいお七どのを〔夜桜お七〕に仕立て上げて自分の女にしょうという色の、二つがからみ合って起きた、新次殺しだということだ。こいつはもしかすると、とんだ茶釜ならぬ、とんだ黒幕が影で糸を引いているかもしれぬ」
 小吉とお七が、恐ろしそうに顔を見合わせた。
「心配するな、おれがついている。お七どのに、指一本ふれさせん」
「そうよ。それに、この小吉と、深川南二番組と三番組の火消したち総勢三百七十人が、お七ちゃんの後ろに付いているからね。心配ないよ」
 飛十郎は、畳の上の十手を取ると、袴の背板と帯の間に差し込みながら、立ち上がった。
「小吉、この十手の持ち主の家は、どこだ」
「北割下水の近くにある荒井町ですよ。あのあたりで、岡っ引の蝮の権三といえば、知らない者はいませんよ」
「荒井町といえば、たしか大川橋の近くだったな」
「けど、旦那。権三の家を聞いてどうするんです」
「この十手を、蝮のやつに返してくる」
「え! だけど旦那が権三を大川に叩き込んじまったのは、昨日のことでしょう。はい、ありがとう、と届けた十手を素直に受け取る相手じゃござんせんよ」
「わかっている。だから蝮がどう出るか、見にいくのではないか」
「それにしても、無茶ですねえ。早船の旦那は」
 つくづくあきれた、という顔で小吉は飛十郎を見つめた。
「いいか小吉、これは町火消しと、大名火消しの争いだ。いわば、大江戸八百八町の町人たちと、大名家との大喧嘩だ。そうは思わぬか」
 小吉は、首をかしげて、頷いた。
「そうですねえ。そういわれれば、たしかにそうだ。お七ちゃんも深川八幡の水茶屋で一枚絵にかかれたほどの茶汲み女、あたしだっての辰巳芸者で一枚看板を張った小吉姉さんだ。おまけに二人とも、町火消しを兄貴に持ってるんだ。相手が大名の殿様だろうが、鬼より怖い臥煙だろうが、深川の女として引っ込んじゃいられませんよ」
「ようし。さすがは江戸っ子芸者。その意気だ。では、お七どのは、まかせたぞ」
「いいですとも。すぐに駕籠を頼んで、病気のおっ母さんとお七ちゃんは、とりあえずうちの兄貴の家へ運び込んでおきます。あそこなら二番組の若い衆が、ごろごろしているから、用心にはもってこいですよ」
「それでいい」
 刀を帯に差しながら土間は降りると、飛十郎は振り返った。
「喧嘩相手は、伊達家六十二万石だ。相手にとって不足はない。こいつは、面白くなるぞ」
 にやりと笑うと、飛十郎は外へ出て行った。


四 北割下水

「蝮の権三は、いるかっ」
 飛十郎は、しゃれた格子造りの戸を引き開けて、玄関に入っていった。
 岡っ引にしては、なかなかいい家に住んでいる。どうせ大店の弱身を握って、ゆすりや脅しで手に入れた金で建てた家に違いない。町方同心が渡す御手当ては、月に一分二朱という話にもならぬ端した金だ。これでは子分たちに、ろくに酒も呑ませられぬと言うのは、世間では誰でも知っている。
「蝮に、あいたい!」
 飛十郎の声が、奥座敷に通ったとみえて、廊下を走る足音がすると、喧嘩っ早そうな若い男が、三人顔を出した。
「よお。いるのか、蝮は」
「やいやい。親分のことを蝮、まむし、と呼び捨てにしやがって。太え侍(さんぴん)だ。誰だ、てめえは!」
「おれか、おれは早船飛十郎というものだが、蝮の親分にはわからんだろう。向島の夜桜で、ぶつかった浪人者だといったほうが早いだろう」
 ふところ手をしたまま飛十郎はそう言って、目の前で湯気が立つほど怒っている若い男の顔を、無精髭をなぜながら見た。
「ふ、ふふ。青筋が立ってるな。あまり短気だと、長生きが出来んぞ。いいから早く蝮に取り次いでこい」
「この野郎! もう我慢ができねえ。喧嘩を売りにきやがったな。おう、買ってやろうじゃねえか。表に出ろい!」
 先頭に立っていた兄貴分らしい若い男は、腕まくりすると、両脇の男たちに目くばせした。
「やはり、やるか。いいだろう、外で待っているぞ」
 玄関前の道のむこう側は、幅が三間(約五メ−トル半)はあろうかという北割下水である。雨は降りやんでいるが、道はひどくぬかるんでいる。飛十郎は、割下水の黒い水面を背にして立つと、袖から出した手を両脇にたらした。
 捕り物道具の六尺棒を二人が持ち、残る一人は木刀を持って出てくると、素早く飛十郎を取り囲んだ。
「親分も水が好きだったが、子分も好きだとみえる。春とはいえ割下水の水は、まだ冷たいぞ。風邪をひかぬよう、用心するんだな」
 その言葉が終わらぬうちに飛十郎は、左の男が振り上げた六尺棒の手元に付け込むと、鍔に左右の手を添えて、目にも止まらぬ速さで柄頭(つかがしら)を男の脇腹へ叩き込んだ。立膝・颪(おろし)の変化技であった。
「ぐえっ」
 男の躰が、崩れるように地面に倒れ込む。同時に、正面の男が振りおろした六尺棒を、ふわりとかわすと飛十郎は、握った柄をくるりと回転させて、地面を撃った男の額を柄頭で打ち突いていた。
「うわ!」
 六尺棒を放り出すと、両手で額を押さえて地面を転げ回った。
「しゃらくせえ。てめえ、居合だな」
 最後に残った兄貴分は、木刀を青眼に構えた。町道場へでも行っているのか、少しは剣術の心得があるようだ。
「うむ。無双直伝英信流だ。覚えておいてもらおう。おぬしの流派は」
「お、おれは、あれだ。本所の、喧嘩流だ!」
「ふ、ふ。師匠の名を出さぬのは、いい心掛けだ。ほめておこう。だが、おしいな。ついている親分が悪いとみえて、剣先が曲がっているぞ」
「うるせえ」
「そうか。ならば、来い。頭を冷やしてやる」
 柄から手を離すと、飛十郎はだらりと両脇にたらした。次の瞬間、にやりと笑うと、木刀にむかって歩き出した。
「おっ」
 慌てて木刀を上段に振りあげると、飛十郎の頭にむかって、うなりをあげて振りおろされた。
 すっと身を沈めた飛十郎は、左に体を開くと、木刀の切っ先が地面に届く前に、男の両手を掴んで投げ飛ばしていた。男の躰は、空をきって一回転すると、激しい水音を立てて割下水の中へ落ちていった。
 英信流奥・組太刀の位〔拳取り〕の技である。いつの間にか、飛十郎の右手に木刀が握られていた。三人を倒すあいだ、飛十郎は一度も刀を抜いていない。刀は鞘の内に納まっていた。
「おおい、蝮の権三。そんな所で見てないで、出てきたらどうだ」 
 格子戸の間から覗いている人影にむかって、飛十郎はそう呼びかけた。

「旦那も、お人が悪い。これを届けにいらしたなら、最初からそうおっしゃってくれたらいいんですよ」
 飛十郎が、畳の上に無雑作に放り投げた十手を見ながら、権三は首筋に手をやった。
「そのつもりだったが。お前がいるか、と聞いたとたん、いきなり表へ出ろだからな」 「へ、へ、そりゃ旦那が、あっしのことを蝮と呼んだからですよ」
 長火鉢の前に座ると、権三は上目使いで飛十郎の顔をうかがった。この手合いは、相手が弱いと見るや、とことんいじめにかかるが、自分より強いとなると、とたんにぺこぺこする。
「仕方がなかろう。道をたずねた連中が一人のこらず、お前のことを蝮の親分と呼んでいたのだからな。人間四十を越すと、生き様が顔に出るというが……」
 じろじろと権三の顔を、飛十郎は見た。
「よく見ると、権三。お前はどことなく蝮に似ているぞ」
「ご冗談を。けど、ありがてえ。この十手は、お奉行所からの預かりものでしてね。なくしたとなると、この首が飛んじまうかもしれねえんで。夜が明けねえうちから向島へいって、血眼になって捜しまわっていたんですよ。助かりましたぜ」
 十手を取り上げると、袖口で二、三度ぬぐうようにして、権三は帯に差した。
「あいにく女房(かかあ)が出てますんで、ろくな物はねえんですが。旦那、まず一杯」
 長火鉢の猫板に置いた盃に、権三は銅壺から抜き出した銚釐(ちろり)の燗酒をついだ。「ふむ。目刺しと、するめか。どっちも大好物だ。見ての通りの貧乏浪人、あんまりいい肴(あて)を出されては、口のほうがびっくりするからな」
 盃を飲み乾すと、飛十郎はじろりと権三を見た。
「いい酒だ。こんな酒が呑めるとは、十手持ちというのは、よっぽどいい稼業とみえるな。いたぶられた弱い者の、泪の味がするぞ。おい、権三。きさまには、この酒より大川の水のほうが似合ってるぞ。そうは思わぬか」
 権三は、慌てて手を横に振った。
「いえ。そいつは、もうたくさんで。それより旦那、これを納めなすってくだせえ」
 神棚の下の引き出しから、ずっしりと重そうな紙包みを取り出すと、権三は飛十郎の前に置いた。
「なんだ、それは」
「へえ。あっしの大事な十手を、わざわざお持ちいただいた、お礼で」
「ふん、金か。いくら、ある」
「へ、へ。お恥ずかしいが、ほんの十両ばかしで」
 小判の匂いに尻尾をふる野良犬と思ったのか、権三はあざけるような目で飛十郎を見た。
「十両、とは落し物を届けた謝礼にしては、ちと多すぎるではないか」
 頭をかくと、飛十郎はうれしげな声を出した。
「ですが旦那は、いい腕をしていなさいますねえ。見ていて、ほれぼれいたしやした。これをご縁に、ぜひお近付きになりたいもんで」
「近付きになりたいとは、どういう意味だ、権三」
 とぼけた顔で、飛十郎は聞いた。
「ですから。この権三がひと声かけたら、ぜひその腕を用立てていただきたいので。これは、ほんの手付けの金でございます」
「ことわる」
 膝の横に置いた刀を取ると、飛十郎は刀のこじりで紙包みを、権三のほうへ突きやった。はずみで紙包みが破れると、なかの小判十枚が音をたてて散らばった。
「たとえ、酒を呑む金にこと欠いても、この早船飛十郎、まだ蝮の用心棒になるほど落ちぶれてはおらぬ」
 顔色を変えた権三が、思わず腰の十手に手をやった。
「旦那、いい啖呵だが。あんまり、あっしを怒らせねえほうが、身のためですぜ。あっしの後ろにゃ、奉行所が付いてるんでござんすからね」
「金で駄目なら、今度は脅しか。きさまは本当に蝮だな。ふん、与力・同心が怖くて八百八町を歩けるか。相手になってやるから、いくらでも呼んでこい。権三、向島で会った夜桜の女が誰か、きさま知っているのか」
「なんだと。あの女が、どうした」
 権三の顔が、怪訝そうになった。お七のことは、本当に知らないらしい。
「馬鹿め。あれはな、生首と蝮が一諸になって殺した、深川南三番組の纏持ち新次の妹だぞ。あの時、きさまを刺そうとしたのを、その場にいたおれが止めたのだ」
 一瞬、真っ赤になった権三の顔が、今度はさっと青くなった。
「ふ、ふふ、どうやら心当たりがあるらしいな。生首の松五郎に、よくいっておけ。自分で火を付けておいて、その消し口を取るとは、江戸の火消しの風上にも置けぬ人間だ。そのあげく、それを知った新次をなぶり殺しにするとは、とんでもない悪党どもだ。火付けは火あぶりの刑、人殺しは磔・獄門だぞ。それを手伝った蝮、きさまも同罪だ。松五郎に、首を洗って待ってろと伝えておけ」
 飛十郎は、さっと立ち上がると畳に散らばった小判を踏みながら、玄関へむかって歩いて行った。


五 伊達鳶

「じゃあ早船の旦那は、新次が殺されたのは生首の松五郎のやつが、消し口を取りたい一心で火付けをした現場を、見たためだとおっしゃるんですかい」
 絵に描いたような、町火消しの小頭の家の奥座敷。御神灯をさげた神棚の下の長火鉢のふちで、煙管の雁首を、ぽんとはたくと小吉の兄の小平次は驚いた顔で飛十郎を見た。
「そうだ。お七の話から考えた、おれの当て推量だが、まむしの権三の顔色から見て、まず間違いはない」
 若い者が運んで来た茶碗の冷や酒を、遠慮なくすすりながら、飛十郎は目の前に座っている小平次を見た。引き締まったに躰に浅黒い顔、よく動く目に、きびきびした動作。そのどれもが、いったん火事になれば、命がけで火の中へ飛び込んでいく、大江戸の花形といわれる町火消しの小頭にふさわしく見えた。
「そうですかい。いえね、あっしも、へんだとおもってたんでさ。深川・両国で火事があるたびに、何度駆けつけても、仙台堀の大名火消しの纏が消し口を取っていやがる。あんな馬鹿なことはねえって、仲間うちの寄り合いでも不思議がっていたんですよ」
 小平次は腕組みをすると、濃い眉をしかめて、くやしそうに唇を噛んだ。
「自分たちで火を付けて、その火事を自分たちで消す。火消しにとって、こんな楽な仕事はあるまい」
「ゆるせねえ。江戸中の、いやこいつは日本中の火消しの面汚しですぜ。相手が大名火消しの伊達鳶だろうが、かまうこっちゃねえ。新次の仇討ちだ。旦那、深川の町火消しは、総出で立ち上がりますぜ」
 飛十郎は、小平次を見ると、ごしごし無精髭をこすった。
「深川の町火消しというのは、何人ぐらいいるのだ」
「へい。深川南組が四百七十人、中組が四百六人、北組が四百四人でございます」
「たいそうなものではないか。相手の大名火消しは何人ぐらいだ」
「生首の松五郎が仕切っておりやす伊達鳶だけですと、総勢三百五十人ぐらいでございますが。旦那もご存知のように本所深川両国だけでも、阿波・徳島藩、下総・関宿藩、御三卿の一橋さま、田安様、御三家の紀伊さまに、肥後熊本の細川さまの、下屋敷がございます。そこの火消し部屋に巣くっておりやす臥煙どもを合わせると、やはり千二、三百人になると思います」
「ということは、町火消し千数百人と大名火消し千数百人の、大喧嘩ということになるな」
「面白くなってきやしたぜ、旦那。腕が鳴るじゃあござんせんか」
 興奮で赤くなった顔で、小平次は火消し半纏の袖をまくり上げた。
「ひとつ聞きたいのだがな、小平次。火事場のおける、火消しの一番たいせつな心構えは、なんだ」
「へ? そいつは、まあ、色々とありやすが」
こんな時に妙な質問をする、といった訝しげな表情で、小平次は飛十郎を見た。
「そうか。いや、たずねかたが悪かったかもしれぬ。では小平次、火事を消す秘訣があるだろう。それを知りたい」
「ははあ。火事を消すこつですか。ございますよ。なんといっても、火事が大きくならねえうちに消すことです」
「つまり。火の手が燃え広がらぬ、まだ火事が小さいうちに手早く消す。ということだな」
 なるほど、と言うように飛十郎は、頷いた。
「へい。まあ、そういうことで」
 刻みを詰めた雁首を、長火鉢の炭に押し付けながら、小平次は答えた。
「それだ小平次。おれも今度の一件を、そのように納めたい。町火消しと大名火消しが、本気でぶつかれば、これはもう喧嘩というものではない。合戦に近くなる。そうなれば、幕府が黙ってはいないぞ」
 無言のまま、小平次は莨をくゆらしていた。香りのいい煙りが、あたりに漂よった。
「どうだ、小平次。こいつは、お七の仇討ちだ。おれが助太刀をして、かならず兄の新次の恨みは晴らしてやる。それまで火消し同志の大喧嘩は、おれに預からせてくれぬか」
「そうだよ兄貴。旦那のいいなさる通りだよ。ここはまず、お七ちゃんの身の安全と、新さんの仇討ちじゃないのさ。火消しの喧嘩は、そのあとにしておくれ」
 いつの間に外から帰って来たのか、小吉が立ったまま障子から顔を出すと、小平次の方を見た。
「うるせえ、女はすっ込んでろ!」
 小吉を怒鳴り付けると、小平次は飛十郎にむかって頭を下げた。
「ようがす。ここは旦那のおっしゃる通りにいたしやしょう。新次は、かわいい幼な友達の弟分だ。お七ちゃんが、旦那の助太刀で仇討をするというなら、だまって見ていやしょう。ただし………」
 と言って腕を組むと、小平次は鋭い目で飛十郎を見た。
「む。ただし、なんだ」
「伊達鳶三百五十人が動き出すとなると、あっしら深川南の二番組三番組の、二百七十人も押し出しますぜ」
「よかろう。ま、それまでに、火を消してみるつもりだが。こればかりは、風しだいでどうなるかわからんからな」
 ふところ手をすると、飛十郎は小吉を見た。
「お七どのと、母親の様子はどうだ。落ちついたか」
「ええ、どうにか。あたしも、ほっとしましたよ」
「そいつは、ご苦労だった。いい医者を寄こすよう、藤兵衛にいっておこう」
「それは、あたしが。旦那の足より、猪牙舟のほうが早ようござんすからね。それに、お七ちゃんの助太刀のことも、安達屋さんに話さなきゃいけませんしね」
 小吉は頷くと、身軽に玄関にむかって歩きはじめた。
「すまんが、たのむぞ。まだ小吉のことは知られていないと思うが、蝮と生首のことだ。油断はならん。気をつけて行ってくれ」
 飛十郎の言葉を聞いて、小平次が身をのりだした。
「おい、小吉。そのへんにいる若い者を、二人ほど連れていけ。ひとりで出歩くんじゃねえぞ!」
「うるさいねえっ。言うにゃ及ぶ、念には及ばないよ。わかってるよ!」
「は、はは、さすがは辰巳芸者と火消しの兄妹だな。啖呵まで、よく似ておる」
 笑いながら、飛十郎が無精髭をこすった。
「まったく、たった一人の妹だと思って甘やかしたら、この始末でさあ。止めるのもかまわず、さっさと芸者になっちまって、てんでおれのいうことなんざ、聞くもんじゃねえ」 小平次は、精悍な顔をしかめた。
「そういうな。あれで、なかなか良いところがある。気風(きっぷ)と張りで、櫓下でも一番の売れっ妓だというではないか」
「なあに、木場の旦那がたが面白がって、座敷に呼ぶんでさあ。自分じゃ、小股の切れ上がったいい女のつもりかも知れねえが。ああ男まさりで無鉄砲じゃあ、誰も嫁の貰い手がございませんよ」
「そうかな」
 兄としては、頭が痛い。という顔の小平次を、にやにやと飛十郎は見た。それを、ちらりと見返して、ぽんと小平次が手を打った。
「どうです、旦那。小吉のやつを貰ってくれませんか。見たとこ、さすがのあいつも旦那には頭が上がらねえようだし、旦那もまんざらじゃなさそうだ。こいつはいいや、あっしを助けると思って、小吉のやつを嫁にしてくだせえよ」
「ま、まて、それは困る」
 刀を掴んで立ち上がると、飛十郎は慌てて外にむかって逃げ出した。
「早船飛十郎ともあろうお人が、敵に背中を見せるんですかい。は、はは、こいつは愉快だ。小吉が戻ってきたら、金毘羅ふねふね追い手に帆かけてしゅらしゅしゅしゅ、と旦那が逃げたといっときますぜ」
「こらっ、小平次。くだらんことを言うな。小吉には、内緒にしておけよ」
 格子造りの引き戸を、からりと開けると、飛十郎は往来へ逃げ出していった。
                         
                   了      〈夜桜お七・2へつづく〉








このブログへのチップ   101100pts.   [チップとは]

[このブログのチップを見る]
[チップをあげる]

このブログの評価
★★★★★

[このブログの評価を見る]
[この記事を評価する]

◆この記事へのコメント
コメントはありません。

◆コメントを書く

お名前:

URL:

メールアドレス:(このアドレスが直接知られることはありません)

コメント:


くる天
officematsunaga
速報情報は、オリジナル取材ネタも含めてtwitterで無料公開!
twitter

【オフイス・マツナガのブログ】

【CONTACT/連絡先】

カレンダー
<<2011年07月>>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
マーケット情報
by 株価チャート「ストチャ」


FX経済指標


会員制システム
会費は月額1000円で、すべての記事、すべての連載、バックナンバーを見ることができます。また、一般には入手困難な資料等をダウンロードできます。
 購読の規約に関しては、くる天 よくある質問を参考ください。


会費の支払い方・課金の仕方

1:くる天へ会員登録する。
2:ポイントを購入する。
3:記事を購入する 。
 という手順となります。
 初めての課金の申し込み方

返金システムに関して

なお、会費を支払い購読されて「これは課金に値しない」と判断された方には、すみやかに返金に応じます。詳細は、返金システムに関してを参考ください。

入稿後は加筆・修正しません

有料会員制度のサイトという性格と、くる天さんのシステムから、有料記事に関しては入稿後の修正、訂正はきかないようになっています。そのため誤字・脱字・錯誤が含まれる場合があります。誤字・脱字・錯誤等の修正に関しては、別途、指摘させていただく場合があります。誤字・脱字・錯誤  修正情報

皆様へのお願い

 申し込まれたアクセスコード、パスワードを他人に教えたり、譲渡する行為は犯罪行為です。すでに、第三者におしえてしまった!という方は、すみやかにパスワードの変更をお願いします。やむなき場合は、しかるべき対応をさせていただきます。
皆様へのお願い  
当サイト連載コラム
週刊日程表

本日のマーケット

今週の永田町

永田町レポート

本日のオフレコ情報

遠藤顧問の歴史だよ

時代小説発掘(無料公開)

カテゴリ
全て (3356)
2014衆議院選挙当落予想 (12)
無料公開記事 (7)
週間日程表 (154)
選挙 (26)
政治 (86)
経済 (6)
社会 (17)
永田町レポート (67)
今週の永田町 (326)
本日のオフレコ情報 (71)
本日の日経225 (29)
本日のマーケット (1654)
特オチ最前線 (75)
瘋癲老人のレイジーな日々 (25)
扱い注意 (38)
ネットでメシウマ!ウェブマーケティングの虚実 (32)
伊藤博一の事件の眼 (23)
鬼デスクの酔いどれ日記 (44)
アダルトサイト運営奮闘記 (3)
遠藤顧問の歴史だよ (30)
業界記者の覆面レポート (2)
真名のケーザイ探検 (27)
ホッピー・モツ焼・闇市の世界 (4)
ネットでビビるな!ネット音痴の業界人へ (14)
今週のマスコミがびびったネットネタ by 野次馬 (10)
アラカルター久里&占い軍団 (46)
コーヒーブレイク・エクササイズ編 (64)
コーヒーブレイク・ボイスエクササイズ編 (12)
医読同源 (1)
永田町奥の院を新人記者「僕」行く (12)
アンコール (2)
「永田町に棲んだ女たち」2 (13)
「永田町に棲んだ女たち」 (15)
ぼやき三毛猫 (49)
白川司郎訴訟関係 (4)
動画で go !!!! (7)
縄文だよ!!!! (4)
【時代小説発掘】 (204)
2009年 衆議院選挙  最新調査データ (26)
衆議院選挙 選挙区レポート (4)
島田が行く!報道現場の盲点 (2)
誤字・脱字・錯誤  修正情報 (6)
見落とすな!ネット情報・リンク先・保存先 (3)
「永田町に棲んだ女たち・特別番外編」 (8)
雑誌販売動向 (7)
最近の記事
12/06 12:26 江戸浅草物語14「月こそ心よ花こそ心よ」 (無料公開)
11/15 15:30 〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8) (無料公開)
10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
オフイス・マツナガのサイト
[現役雑誌記者によるブログ日記!by オフイス・マツナガ]

[オフイス・マツナガ書籍部]

[今週のキーワードbyオフイス・マツナガ]

[オフイス・マツナガのブログWordPress版]

[週刊日程表(アクセス規制有)]

[調査分析報道・資料倉庫]

【公にされない公の資料を公開】

【その他 オフイス・マツナガweb管理人】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最近のコメント
風雲 念流剣 七 (無料公開)(鮨廾賚此丙郤圈)
宿志の剣 三 (無料公開)(会話スキル★吉野)
週刊・月間誌 販売動向13年3月6-7日(管理人:kitaoka)
週刊・月間誌 販売動向13年3月6-7日(珈琲好き)
■この国の最大の問題点は「スパイ防止法案」がない点。マスコミだけでなく、政党にも外国勢力が跋扈。(珈琲好き)
イチローストレッチが止まらない!(バーバリー 時計)
■あまりにあっけなく、野田民主党惨敗。あまりにあっけなく、安部自民党大勝利(takeshi.komi)
時代小説発掘 !!!!!告知!!!!!()
〈助太刀兵法21〉 尾道かんざし燈籠 (無料公開)(モンクレール ダウン)
薩摩いろは歌 雌伏編(十一)痛撃(無料公開)  (株式の初心者)
ブログ内検索

RSS
携帯からも見られます!
QRコード対応の携帯で、このコードを読み取ってください。

Copyright (c) 2006 KURUTEN All right reserved