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帰心の風 (無料公開) 
[【時代小説発掘】]
2011年10月2日 12時34分の記事


【時代小説発掘】
帰心の風
鮨廾賚


(時代小説発掘というコーナーができた経緯)



【梗概】: 
 遠州浜松からせつと駆け落ちした谷山与之助は、腰の刀を質に入れようとして竹松という妙な男と出会う。さらに、そこから木内静庵というりっぱな武士と知り合い、一刀流の道場を手伝うこととなるが、木内静庵はせつの母ふじと不思議な因縁があった。(先に公開した「あかね空」の前に来る作品です。)


【プロフィール】:
鮨廾賚此 昭和33年(1958)生まれ。大阪在住。平成22年(2010)第40回池内祥三文学奨励賞受賞。現在、新鷹会会員、歴史研究会会員、大衆文学研究会会員。


鮨廾賚困里海譴泙任虜酩福

秘太刀「一心の剣」
風烈廻り昼夜廻り同心朽木重四郎 
雲、流るる
猿御前
信綱敗れる 
中条流平法 
沼田法師 
女忍び無情
ぼろぼろ系図 


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【時代小説発掘】
帰心の風 
鮨廾賚



(1)質屋の前で

 その男が、目前に現れたのは、谷山与之助にとって絶妙の間合だったかも知れない。なぜなら、そのとき与之助は、おおいに迷って、迷い疲れていたからだった。
 露地の入り口左には〈質〉と書いた紺地の暖簾が、初夏の風にたなびいている。与之助には、それが逡巡している自分をあざ笑っているように思われた。すぐにでもその場を去りたかったのだが、すでに質屋も八軒目である。
 霊岸島の弥右衛門長屋を出たのが、朝の五ツ(午前八時)頃だった。足の向くまま、質屋を見つけては、腰の二刀と〈質〉の暖簾を交互に見交わして、迷い、ためらいながら、決断がつかずに、ずるずると次の質屋を求めて和泉橋を渡ったのだった。
 御徒町の通りを左に、佐久間町の路地を入ったすぐのところに質屋を見つけた。それがこの店なのだが、すでに日は西に傾きつつある。
 よし、と気合いを入れて、店に向かおうとするのだが、往来の人波に遮られては、はっとして足を戻す。腰の二刀を見ては、ため息が漏れる、の連続だった。
 はあ、と一際大きなため息をついて、与之助がうつむいたとき、その男が現れたのだった。
「何をお悩みなんですい。旦那」
 年齢の頃は二十五、六くらいか。丸顔に愛嬌のある目鼻立ちだった。流行の仲蔵縞を着くずした遊び人風の男だったが、五尺そこそこの身体には、険しさは微塵も感じられなかった。。
「もしや、七ツ屋に入ろうか、入るまいか、お悩みじゃありませんか?」
「う、うむ・・・・」
 七ツ屋とは質屋のことである。当たっているだけに与之助は言葉を濁したが、
「質草は何か知りませんがね。旦那、あそこはいけませんよ。この界隈じゃぁ評判が良くない」
「真か?」
 落とした声で、愛嬌いっぱいにささやく男の言葉に、与之助はつい釣られてしまった。 朝からずっと一人であれこれ悩んできたのだ。人恋しさが募っていたのも事実だった。武士とはいえ、与之助はまだ二十歳になったばかりである。
「おっと、ここじゃいけませんや」
 男は与之助の袖を引いて、和泉橋の方に戻ると、袂の柳の木の近くに誘った。風があるようで、垂れた木の葉が左右に揺れている。それが顔に掛かるのを払いのけながら、男は話を続けた。
「佐久間町の表通り近くに店を出す七ツ屋ですぜ。旦那みたいなお方は鼻も引っかけませんや」
「みたいな、は無礼であろう」
「あ、これはご勘弁を」
 詫びが入ったが、恐れいった風はまるでなかった。無理もない、与之助の盲縞の単衣はかなりくたびれていた。はなっから男は、与之助を呑んでかかっているように見える。だが、不思議と男の言動に嫌みは感じなかった。この男の持って生まれた質だろうか。
「あっしはね。この先の竹丁に住む、松吉というケチな野郎ですがね。竹丁の松吉こと〈竹松〉と呼んでくださいやし」
 みんなそう呼んでますから、とつけ加えた。
「ところで、旦那は何を質草にしようとしていたんですい。まさか、お腰のものじゃあ」「あ、いや」
 図星を指されて与之助は少し焦った。
 差している大小は元服のときに父与左衛門から贈られたもので、無銘だができは悪くないと思っている。質に入れれば間違いなく十両にはなるはずだ。浪人の身にとっては大金で、暮らし向きはぐっと楽になるはずである。だが、それをためらわせる事情が与之助の側にあるのだった。
 谷山与之助は、遠州浜松の産である。浜松の城主は、井上河内守といった。六万石を領する譜代大名である。谷山家はその井上藩で二百石を頂戴している。父は勘定奉行の要職にあった。ところが、同じ浜松の廻船問屋遠州屋仙兵衛の一人娘せつと駆け落ちして、一年ほど前に江戸に出てきたのである。与之助が十九歳、せつが十八歳のときだった。
 なんとか霊岸島の長屋に落ち着いたのだが、しばらくして生計を立てることの困難さを嫌と言うほどに思い知ることとなった。
 与之助は武士としてのこだわりを捨て、力仕事もやる覚悟なのだが、このところ仕事そのものが思うに任せないのだった。
 口入れ屋を訪ねては、すいませんねえ、と断られてばかりいる。だが、米びつは減っていく一方で、ついに、
(やむを得ぬか!)
 意を決しての質屋だったのである。
 二刀を質に入れるのは簡単なのだが、いっしょに駆け落ちしたせつは遠州屋の一人娘である。激怒したせつの父仙兵衛が、刺客を放ってくるかも知れず、そのためにはどうしても刀が必要なのである。
 実際、先月のことだが、刺客だという無頼浪人と生まれて初めて立ち合った。家伝の秘太刀を使って何とかその場はしのいだが、いつまた現れないとも限らない。とりあえず、小刀だけを質に入れるという手もあるが、与之助は二天一流を受け継いでいる。小刀のみというわけにはいかないのだった。
「お侍さまのお腰のものといやぁ、武士の魂じゃございませんか。そんな大事なものを質に入れちゃぁ、てえへんだ。ようがす、あっしが及ばずながら一肌脱いでさしあげましょう」
 そこまで言われては、いやでも竹松の言葉に引き込まれざるをえない与之助だった。
「お上のせいでさあ。近頃、江戸もめっきり金回りが悪くなりましてね」
 ときは寛政の改革の真っ最中である。奢侈を禁じ、質素を旨とする幕府の政策により、江戸は景気が悪くなり、賃仕事がめっきり減っていたのである。
「旦那だけじゃぁありませんぜ。みんな目先の費えを心配しているんでさぁ。何とかなりませんかねぇ」
 竹松のしんみりとした言葉で、気持ちが軽くなっていくような気がした。
(そうなのだ。仕事を得られないのはそれがしのせいではないのだ)
 与之助は仕事が見つからないことで、せつに対して後ろめたい気持ちを抱いていたのだった。だからこそ、
「それで、いくらご入り用なんです?」
 竹松からそう問われたときには、思わず、当座一両、と答えていたのだった。
「一両ですかい。そいつはちょうど良かった」
「何がちょうど良いのだ?」
「いえね。あっしはこれでも竹丁の松吉と呼ばれている男なんですよ。ちょいとその界隈じゃぁ顔でね。安く貸してくれる店を知ってるんですよ」
「なんだ、金貸しか」
 がっかりして、与之助が警戒するように言うと、
「そのとおりでやす。ですが、お刀を預けなくて済みますぜ」
 竹松は弱いところをついてくる。
「お見受けしたところ、お腰のものはなかなかごりっぱなもの。そんじょそこいらの七ツ屋に預けても、十両が二十両とはくだりませんぜ」
 おだて上げるのも堂に入ったもので、
「お主に分かるのか」
 いぶかりながらも、大小を誉められて、与之助も悪い気はしなかった。
「いよいよ困ったときにお預けなさいましな。先ほど、当座とおっしゃいました。当座は金貸しからでも良いのじゃございませんか。利子はあっしの顔でうんとお安くするように掛け合いますぜ」
「だが・・・・」
「ええい。じれってえな。旦那、あっしがついてますから」
 そう言って竹松は、渋る与之助の背を押して、強引に竹丁まで引っ張っていった。
 神田花房町寄りにあるその家は、ごく普通の仕舞た屋で、金貸しには見えなかった。そのうえ、主も五十がらみの実直そうな男だった。座頭でなければ、誰も金貸しとは思わないだろう。
「竹松の口利きじゃぁ、利子は一日百文にしときましょう。ですが、無理はいけませんぜ」
 主は愛想をいっぱいに浮かべて言った。商売っけの無いことを言うのにも好感が持てた。
「一日百文は安い。どうですい、旦那。かわいいお内儀さんも待って居なさるんでしょう。ここは奮発して二両借りちゃあ。簪の一つでも買っていったら喜びますぜ」
 初対面で女房がいることなど話していない。よく考えれば何かがおかしいと分かったはずなのだ。だが、そのときの与之助は、朝から当座入り用の金のことで頭がいっぱいだった。
(一日百文はやや高いが、一月で三千文なら、五、六日力仕事をすれば返せない額ではない。仮に仕事が見つからなくても、そのときこそ二刀を質に入れれば良いのだ)
 決心した与之助は一両借りた。一両あれば、せつと二人なんとか一月は暮らしていけるはずなのだ。


(2)不思議な出会い

 金貸しのところを出た与之助と竹松は、下谷御成街道を左に折れて、神田川に出た。川沿いに広い通りを和泉橋の方へ向かう。川の方から吹いてくる初夏の風が心地よかった。 与之助が礼を述べて別れようとすると、
「どうですい、旦那。あっしの言うことを聞いて損はなかったでしょう」
 と言いながら、なおも後をついてくる。そのとき、与之助にはひらめくものがあった。「いやこれは、気付かなかったそれがしが悪かった」
 与之助は懐を探ると、
「これは少ないが気持ちだ。少々先を急ぐのでな」
 竹松にいくらかの銭を握らせて、足を速めた。日はすでに西に傾いて、空があかね色に燃えつつあった。和泉橋はもう目の前である。
「そんな積もりでお世話したんじゃありませんよ。旦那、まだあっしのお節介は終わっちゃいませんぜ。どうです。これから、その一両を元手に二両、三両と増やして見ませんか」
 追いかけてきた竹松の言葉に与之助の足が止まった。
「良いところを知ってるんですよ」
 振り返った与之助の目の前で、竹松は右手で軽く壺を振る真似をした。
「礼はそこで二両、三両に増やしてからでけっこうでやすよ」
「博打だな。それがしはやらぬ」
「固いことは言いっこなしでさあ、旦那。必ず儲かりますから」
 与之助は少々うんざりしてきた。おそらくこれが目的で、初手から親切ごかして金貸しを勧めてきたのだろう。
「やらぬと言ったら、やらぬのだ」
「旦那。ここまで来て、それは殺生ですぜ」
「それがしは帰る」
 竹松はどこまでもまとわりついてくる気のようだ。与之助は少々持て余していた。
「旦那、ちょっとだけでも」
「お主、しつこいぞ」
 与之助が踵を返して和泉橋の袂に向かおうとすると、
「ほんのちょっとで良いんですよ。お手間は取らせませんから」
 ぴょんと飛ぶように前に回って、竹松が与之助の袖を引いた。さすがにむっとして、
「やいのやいの言うなや。やっきりこくが」(ぎゃあぎゃあ言うな。怒りを覚えるぞ)
 ついに堪忍袋の緒が切れて、つい故郷の地の言葉が出てしまった。
 一瞬の沈黙があった。その後で松吉が弾けるように笑い転げた。
「へへへ。浅黄裏(あさぎうら)の地がでなすったね」
 笑いが治まると、急に小馬鹿にしたような態度になった。浅黄裏とは田舎侍を嘲っていうときの言葉である。
「こちとら江戸っ子でえ。若造の浅黄裏になめられたとあっちゃあ、竹松の名前がすたるってもんだい」
 急に威勢がよくなったのである。
 ところが、である。
「なんだ。そこに居るのは竹松ではないか」
「ひっ!」
 竹松の態度がまた変わった。ころころとよく変わる男である。
「これは、これは。誰かと思ったら練塀小路の先生じゃありませんか」
 竹松が声のした方を向いて慇懃に頭をさげた。揉み手をするかのように両手を合わせて腰を低くしている。与之助が視線を向けると、そこには五十年配の恰幅の良い武士が、にっこりと笑って立っていた。黒地の紋付き羽織が目に眩しかった。
「お主、また良からぬことを言って博打に誘っているのではあるまいな」
「と、とんでもねえ。おっと、急な用事を思い出したぜ。じゃ、あっしはこれで」
 言ったかと思うと、逃げ足早く行方をくらましてしまった。
「はっはっは。とんだ災難であったな。あの男は〈変わり身の松吉〉といって、相手次第でくるくる態度を変える男だ。正業にもつかぬ遊び人でな。あまり信用せぬ方が良いぞ」「あまりのしつこさに難渋しておりました。ありがとうございます」
 与之助は丁寧に礼を述べた。
「ほう。若いに似ず礼儀正しい。ところで、先ほどそなたが使った言葉だが、そなた、もしや遠江の出ではないか」
「お恥ずかしいところをお目にかけました。それがしは、遠州浜松の生まれでございます」
 与之助は赤面しながら答えた。
「やはりのう。さきほどの浜松弁、懐かしく聞いたぞ」
「御貴殿も浜松の生まれでございますか!」
 同郷の者かも知れない、と思うと、懐かしさで与之助の声が、つい高くなった。
「いかにも。といっても、それがしが故郷の浜松を出たのは二十五年も前だが・・・・」
 そう言って、恰幅の良い武士は遠くを見るような目をした。
「それがしは・・・・」
 与之助は丁寧に自分の姓名を名乗った。嬉しさでやや胸が弾んでいる。
「わたしの名は木内静庵。下谷練塀小路で一刀流の小さな道場を開いておる」
 そのとき、さっき竹松が呼んだ言葉を思い出して、
「ああ、それで練塀小路の先生と」
「いかにも。おお、そうじゃ。久しぶりに故郷の者に会うたのだ。それがしの家に寄っていかぬか。なに、すぐそこじゃ。浜松の話を聞かせてくれ」
 木内静庵と名乗った武士は、ぜひに、と与之助を誘った。人品骨柄卑しからぬ人物である。落ち着いた物腰といい、与之助は何か惹かれるものがあった。それに同郷の者と出会った喜びも手伝って、
(遅くならなければ良いか)
 心の内でせつに言い訳をしながら静庵の後に従った。
 静庵の道場は、下谷練塀小路の入り口松永町寄りにあった。確かに大きいとはいえないが、それでも門に樫板の看板を掲げたりっぱな道場だった。檜をふんだんに使った造作もしっかりしていた。浜松でもこれほどの道場は一つしかない。
「今日、道場は休みでな。あいにく下働きも帰ってしまったようだ。あり合わせのものですまぬが、遠慮はいらぬ。勝手にやってくれ」
 道場の奥が座敷になっていて、羽織を脱いだだけの静庵が、自ら徳利と盃を持ってきた。こうして見ると、先ほどとはうって変わって、ざっくばらんな感じである。与之助はさらに親しみを覚えた。
「何か肴になりそうなものを買ってくれば良かったか」
 静庵は神田の市橋壱岐守の上屋敷を訪ねての帰りだったらしい。
「こんなものしかないが」
 肴にしよう、と言って、乾海苔と塩辛を台所から持ってきた。
「お一人でございますか?」
 失礼なとは思いながらも、静庵の気さくさに釣られてつい口にしてしまった。その後で、与之助は激しく悔いたが、静庵は気にする風もなく、
「いかにも。わたしはずっと独り身でな。慣れてしまうと、けっこう気楽で良いものだぞ」
 さあ呑め、と徳利を差し出した。
「そなた谷山与之助と名乗ったが、浜松の谷山与左衛門どのの親戚かな」
「父でござります。父をご存じですか?」
「何!」
 与之助の答えは予想外であったらしい。静庵は吃驚して、
「浜松藩に谷山の姓は一家のみのはず。ご当主与左衛門どのは、勘定奉行を務めておられたが、二十二年前、それがしの上役であった」
「真でござりますか!」
 今度は与之助の方が吃驚する番だった。
 勘定奉行は算勘の才を必要とする。幼い頃からその能力を発揮した与左衛門は、若くして勘定奉行に登用され、すでに三十年以上もその職にある。二十二年前といえば、与之助が生まれる前のことである。
 その後、静庵は浪人して江戸へ出てきたという。
「ううむ。縁とは面白いものよなあ」
 静庵は感心するように言うと、
「谷山家は確か、禄二百石、物頭のお家柄。そのご子息がなにゆえ江戸に・・・・?」
 不思議そうに眉宇を寄せた。明らかに浪人体の与之助を訝しんでのことであろう。
 与之助は、せつと駆け落ちしたことを正直に話した。わずかな時間だが、静庵に接して、その人柄は信頼するに足るものと思われたからである。
「そうか。それはまた思い切ったことを・・・・」
 と言ったきり、静庵はしばらく口をつぐんでしまった。
「似たようなことをするものよ・・・・」
 ややあって、遠くを見るような目つきで、静庵が小さく呟いた。だが、与之助はその言葉がよく聞き取れなかった。
「は?」と、問い返すと、
「あ、いや。それで、そなた生計(たつき)は立っておるのか?」
 話を変えるように逆に問うてきた。その言葉には、与之助の心に構えを抱かせない親身なものがあった。
「お恥ずかしながら、江戸に身寄りもなく、その日その日を食うや食わずの暮らしにござります」
「さもあろうなあ。駆け落ちした者にとって凌ぎやすい世の中ではないからのう」
 感に堪えぬ、というふうに言って腕組みした。だが、それは決して与之助を蔑んで言っているわけではなかった。
「そなた。それがしの道場を手伝わぬか」
「ええっ!」
 突然の静庵の申し出に与之助の方が面食らってしまった。


(3)似た話

「そういえば確か、谷山家には家伝の剣術があったように記憶しているが」
「はい。二天一流でございます」
「そうか・・・・」
 静庵は一瞬困ったような顔をしたが、
「お、そうだ。若衆組を教えて欲しいのだが、良いか?」
 若衆とは、元服前の子供たちのことである。
「朝から昼にかけて若衆組を教え、昼から夕方にかけて青壮の者を教えているのだが、若衆は苦手でな。むろん、相応の礼はする。暮らしの助けには十分だと思うのだが」
 それは与之助にとって願ってもないことだったが、
「二天一流のそれがしに勤まりましょうか」
 不安はそのことだった。
「ふむ。わたしもそれが少し不安だが、まずは礼儀作法や剣術の基本を教えてもらえば良い」
 それは決して押しつけがましいものではなく、憐憫に発したものでもなかった。静庵の申し出には、与之助の窮状を知って、何とか力になってやろう、という真情に溢れていた。もしかしたら、かつての上役の息子が困っているから助けてやろう、という気持ちがなかったわけではないだろうが、与之助は、同郷の大先輩の好意に甘えることとした。もしかしたら父の若い頃の話が聞けるかもしれない、という気持ちが動いたのも事実である。「と言うわけで、木内清庵どのの道場をお手伝いすることになった。そのうえ、過分な支度金まで頂戴したのだ」
 その夜、与之助は少し遅くなって帰ったが、静庵のことを上機嫌に話すと、
「よかったじゃありませんか。お前さんの好きな剣術が役に立って」
 妻のせつも喜んでくれた。
 翌日から与之助は、静庵の道場に通った。
 静庵を助けて木内道場に通ううち、与之助はむしろその人柄に強く惹かれていった。
 午前中は十歳から十五歳くらいの少年十人ほどに剣を教え、午後は青壮年十五人ほどに指南していた。いずれも旗本御家人、大名家の江戸詰め家臣の子弟たちである。道場がそれほど大きくないので、曜日によって分けているという。静庵の指導は熱心で親切だった。小さいながらも人気のある理由が分かる気がした。
 始めは静庵の指導を真似ながら少年達に教えていたが、やがて一刀流の剣術にも優れている面があることが分かってきた。そのうち与之助は、静庵の弟子になった。少年たちを教えるにもその方が都合がよいと思ったからだった。静庵も喜んでくれた。
 静庵の日常は、規則正しく厳格だった。飯炊きの下女と身の回りの世話をする下男がいたが、極力自分でできることは自分でこなしているようだった。時間があれば書物に目を通し、贔屓にしてくれる大名屋敷に通いで稽古をつけにいくこともあった。
(御内儀どのはいかがされたのだろうか。早くに身罷ったのだろうか。まさか今まで独り身ということもあるまいが・・・・)
 与之助の胸の内に小さな疑問が湧いていたが、なかなか聞けるものではなかった。
 一月ほど過ぎたある日、与之助は静庵の書斎の整理を手伝っていた。
 静庵は剣術だけでなく、学問にも秀でていて、書斎には与之助の知らない書物が山と積まれていた。
(父上も書物が好きではあったが・・・・)
 与左衛門は軽妙な質で、読本や黄表紙の類を好んだ。だが静庵の書棚は、漢学や古学など硬い書物が多い。知らず父と比較している自分に気付いて苦笑をもらした。
「何がおかしい?」
 静庵の問いは、咎めるというよりも、話のとりつきを求めるような感じだった。
 与之助はまさか父と比べていたとも答えられず、言葉に窮した。すると、書棚に牡丹唐草の巾着型の小さな匂い袋が一つ大事そうに置かれているのが目に入った。右側の壁側に書籍一冊分の空きをつくり、手のひら四方の布地の上に大切そうに置かれていたのだ。だが、相当に古いものらしく、すでに色は褪せていて、顔を近づけてみたが香りも失せていた。元はどんな香りだったのだろうか。
 静庵の背丈は、与之助と同じ五尺七寸ほどである。立ったときにちょうど顔の位置にあって、それは前から気づいていたのだが、明らかに女もので静庵の暮らしぶりからみて不釣り合いなものだった。何か曰くがありそうに思われた。
「先生。この匂い袋はずいぶん古いものとお見受けしましたが」
「場違いであろうな。そなたそれを見て笑うたのか?」
 今度の問いは、むっとしているような口ぶりである。
「滅相もありませぬ。つい思いだし笑いをしてご無礼仕りました。ですが、こちらの匂い袋は以前から気になっていたものですから・・・・」
「良い。それは思い出の品なのだ」
 静庵はやや考え込むようにしばらく黙っていたが、
「同じ浜松の出。そのうえ、駆け落ちを図った者どうし。話しても良いかもしれぬな」
 静庵は意を決したように口を開いた。座るように促された。
「先生、もしや・・・・」
「いかにも・・・・」
 与之助は、静庵に不釣り合いな匂い袋の存在と、もったいぶった言い方におおかたの察しがついた。先日、せつから聞いた木戸番の源兵衛爺さんのことが頭をよぎった。爺さんも昔駆け落ちをして羽州久保田から出てきたと聞いていた。
「それがしは、二十二年前に駆け落ちをするつもりで家を出た」
 やはり、と与之助は思った。
「二十八になっていた。父を早くに亡くし、一年前に母を亡くすと、木内家はわたし一人となった。誰憚ることなく、好いた女と江戸へ駆け落ちする約束をしたのだ。そのときの約束に取り交わしたのが、あの匂い袋だったのだ」
 そう言って、静庵は書棚の方を見た。
「女はふじといった。浜松の小料理屋の娘で、そのとき十七であった。だが、約束の刻限にふじは現れなかったのだ」
「ええっ!」
「二刻(四時間)待った。駆け落ちのことが漏れたのではないかと思い、一度は小料理屋へ行こうとも考えた。だが、すでに出奔を決意していたそれがしは、日が高く昇ったこともあって、そのまま一人江戸へ旅立ったのだ」
 静庵は号で、本名を木内庄兵衛といい、家禄は五十石。そのとき勘定所下役として出仕していた。御用向きで店を利用したときにふじを見たという。
「それがしの一目ぼれであった」
 やや照れながらの言葉に、普段の静庵との落差を見て、与之助は内心くすりとした。
 その後は、裕福な暮らしではなかったが、なんとか金を都合しては店に通った。その誠意が通じたのか、ふじも庄兵衛のことを憎からず想うようになったらしい。二人の仲はうまくいくかと思われた。
 だが、ふじに縁談が舞い込んできたのである。相手は遠江国でも有数の廻船問屋遠州屋仙兵衛の跡取り息子で祐介といった。
「えっ。遠州屋!」
 聞いて、与之助はまたも吃驚してしまった。
(もしやせつの親父どのではないのか?)
 祐介もまた店にきたとき、ふじを見初めたのだという。二人の男に想いを寄せられたのである。その器量は想像がつこうというものだ。
 小禄とはいえ木内庄兵衛は武士である。ふじの両親は、身分違いを盾に庄兵衛との関係を認めてくれなかったが、祐介との縁談はおおいに乗り気であった。そのため、窮した二人は駆け落ちを約したのである。
 日時と落ち合う場所を決めて、互いにそのとき身につけていた物を交わして誓いをたてた。そのときふじからもらったものが匂い袋であり、庄兵衛から渡したものが印籠であったという。
 日が高くなり、人に見とがめられるのを恐れた庄兵衛は、後からふじが追ってくることを願って、そのまま浜松藩を出奔した。当然、その後木内家は断絶となった。
「お父上にも迷惑をかけたかもしれぬなあ」
 静庵はしんみりと詫びるように言ったが、与之助の生まれる前の話である。実感は湧かなかった。
「だがのう。そなたたちの駆け落ちと同じく、それがしにも江戸に出て成算があったわけではない」
 確かにその通りであろう。身寄りもなかったに違いない。
「江戸に出たそれがしは、すぐに路銀が底をついた。食うに困ってのう。そして、孤独であった」
 絶望と虚無を抱いて江戸の町をさすらったという。その苦しさは、今の与之助には十分過ぎるほどによく分かる。
「貧すれば鈍す、とはよく言ったものよ。それがしはこの道場の先代の主堀場伝左衛門どのに道場破りをかけたのだ」
「道場破りですか!」
「いささか腕に覚えのあったそれがしは、弱そうな道場主なら誰でも良かったのだ」
 そのときの静庵は、古藤田の流れをひく一刀流であった。堀場伝左衛門は溝口派の一刀流で、同じ一刀流だということが、好都合だと思ったという。
「それがしは用心棒しか思いつきませんでした」
「それはそなたの心根が純粋だからであろう。そのことを恥じることはない。伝左衛門どのは、そのときすでに齡六十を越え、ひょろひょろに痩せておった。それゆえ、与しやすいと思ったのだ。道場主を破り、押し掛け師範代になれば、ねぐらと食物は手にはいる。だが、それがしの考えは甘かった。見事に堀場先生にひねられてしまった。もう自死するよりないと、絶望した気持ちを抱いて道場を出ようとしたとき、堀場先生が『そなた、行く当てはあるのか』と問われた。きつい言葉ではなく、真っ直ぐそれがしの心に突き刺さるような優しい言葉であった。それを聞いて、胸の内に溜まっていたものが一気に溢れ出てしまったのだ。熱いものが一気に込み上げてきて、泣きじゃくりながら、弟子にして欲しいと頼み込んでいた・・・・」
「そうですか」
「その後、それがしは堀場先生のもとに住み込んで、一から修行をやり直した。先生は身罷る間際に当道場をそれがしに譲られたのだ」
 それからはがむしゃらに道場の経営に精を出した。周りは旗本御家人屋敷で、もともと地の利もある。やがて、界隈では名のある道場となった。その後、縁談を進める者もあったが、庄兵衛はかたくなに拒否したという。
「恥ずかしい話だが、いまだにふじを待っているのだ。いつかはそれがしを追って、ここに現れるのではないかと。そのためにその匂い袋は大切にとってあるのだ」
「先生・・・・」
 与之助に次の言葉は続かなかった。
「女々しいと思うか。だが男というものは、性根の奥底は弱く女々しいものなのかも知れぬ。わたしはそれでも良いと思っている」
 確かに普段の一刀流師範木内静庵からは想像もできないことである。道場主として堂々の貫禄を有し、ものに動ぜず、泰然自若とした武士の鑑、と思い定めていた与之助にとって、その話は驚愕の連続であった。
 だが、と思う。剣は己の弱さを自覚して初めて強くなれるのである。人格もまた剣と同じく己の心の内の弱さを深く認識してこそ、初めて強く雄々しくなれるのではないだろうか。それは木内庄兵衛という武士の身の上話と言うよりも、師木内静庵の訓示として受け取った。


(4)母来る

 ちょうど同じ頃、弥右衛門長屋では、せつが隣のみねから針を習っていた。
 みねは今年二十八になるが、亭主とは一回り離れているという。その亭主は、豆腐を商う棒手振(ぼてふり)で、高く澄んだ良い声の持ち主である。その声で同業の倍は売るんだ、というのがみねの自慢だった。
「せつさんはえらいねえ。大店の娘を捨ててこんなどぶ板長屋に」
「いやだおばさん。ご自分の住む長屋を」
 みねはせつと与之助の身の上を知ってから、何かと親切にしてくれる。だが、せつさんはえらいねえ、が口癖になっていて、その言葉が出る度に、せつは背中がこそばゆい思いをする。やめて欲しいと思っているのだが、なかなか言い出せなかった。
「そうだねえ。雨露しのいで、亭主と子供と何とかやっていけるのもこの長屋のおかげだからねえ」
「そうですよ」
 二人は針を使う手を止めて、くすくすと笑った。みねは女ながらも竹を割ったような性格で、ちょっとしたことでよく怒り、よく笑う。そのときである。
「谷山与之助さんのお住まいはこちらですかい」
 低く重い声が響いたかと思うと、腰高障子が勢いよく引き開けられた。
 せつが声のした方を見ると、明らかに人相も柄も悪い三十がらみの男が二人立っていた。一人は口に楊子を咥えている。
「なんだいお前さんたちは?」
「ばばあは温和しくしてな」
「な・・・・」
 せつより早く尖った声をあげたみねをおさえて、
「谷山与之助は留守にしております。わたくしは妻のせつと申しますが、主人になんのご用でしょうか?」
 凜とした声音で訊ねた。こんなときこそ、武士の妻としての自覚が必要なのだと自分に言い聞かせていた。
「へっ。良い度胸だ。だがな・・・・」
 さらに何か言おうとする男を、後ろの男が肩をつかんで止めた。前に出て、銜えていた楊子をぺっと吐き出すと、
「お内儀さん。あっしらは独眼竜の五郎蔵の身内の者でござんす。あっしは辰三、こいつは留吉といいやす。実は旦那が竹丁の金貸しから金を借りましてね。ですが、もう一月も経とうてえのにまだ返してもらってねえんですよ。あっしらはその金貸しに代わって、今日はその金を返してもらうために来たんですよ」
 辰三と名乗った男は、言葉は丁寧だったが、鋭く光る眼はせつを捕らえて放さなかった。
 独眼竜の五郎蔵と聞いてせつには思い当たることがあった。駆け落ちしたせつを連れ戻すために、父親の仙兵衛の息がかかっているはずなのだ。
「そんなことは知りませんし、聞いてもいません。それに主人は出かけて留守です。改めて主人の居る日においでください」
 せつの毅然とした態度に、
「こっちには証文があるんでえ」
 凄もうとする留吉を、待て、と再び制して、
「お内儀さん。今日のところは帰らせてもらいますよ。だが、利息も含めて二両、早く返すようにご亭主に伝えてくだせえ。利息は毎日膨らんでいきますんで、早いにこしたことはねえと思いますよ。おっと、返せないときは、親分からお内儀さんをお連れするように言いつかってますんでね」
 最後のところは、どすを利かせてすごむように言ってから、わざと腰高障子を荒々しく閉めて、二人の男は引き上げていった。
「せつさん。どうするんだえ」
 ふう、と息をついたせつに、みねが急き込んで訊ねた。
「どう、と言っても・・・・。とにかく本当に借りたのか、うちのひとに確かめないと」
 せつも半信半疑である。気を張ったせいかひどく身体がだるかった。
 それを見てみねが、喉が渇いたねえ、と流しの横の土瓶を見に立った。そのときである。
「谷山与之助さまのお宅はこちらでございますか。せつという者がいっしょに暮らしていると聞きましたが」
 上品な女の声が、腰高障子の外から聞こえてきた。
 せつはその声に聞き覚えがあった。
「あれ。今日はよく客のある日だねえ」
 みねが妙な感心をしている。
「失礼しますよ」
 今度は男の声がした。やはり聞き覚えのある手代の利助のものだった。腰高障子がゆっくりと引き開けられる。
「おっ母さん!」
 せつが叫声がした。そこには紛れもなくせつの母親ふじの姿があった。
 ふじは細面にすっきりとした顔立ちの美人である。今年四十二歳になる。年齢相応に小皺が増えて、肌の張りの衰えは隠せなかったが、化粧に濃く紅を引いた面差しは、江戸にいても道行く人をはっとさせる美しさをまだ持っていた。それは大店のお内儀としての気品もあったかもしれない。せつはふじの血を引いたようだ。二人はよく似ている。
「ごめんなさいよ」
 ふじが土間に入ってきた。続いて、三十過ぎの実直そうな男が続いた。利助である。
「帰ってください。浜松には戻りません」
 せつの尖った声を聞いて、みねは気を利かしたつもりなのか、ちょっと用事が、と言って、そそくさと出て行った。
 しばらくの沈黙があった。せつの険しい顔に比べてふじの顔は穏やかだった。
「ごめんなさい。狭いところだけど、あがってください。お茶でも入れます」
 母親の顔を見て、連れ戻しに来たのだ、と思ったせつは、つい感情が高ぶってしまったが、落ち着いてみると懐かしさで胸の内が溢れた。
「お嬢さま。お茶はてまえが淹れます。お内儀さんとつもるお話を」
 せつが立ち上がろうとするより早く、利助が気軽にへっついに寄っていった。
 ふじは履き物を脱いでせつの前に座ると、
「お前、こんなに手が荒れて・・・・」
 白く透き通るようなふじの手は、真っ先にせつの手をとった。ほつれ毛の目立つ髪でもなく、やつれた面差しでもなかった。それはたった一冬とはいえ、しもやけで腫れあがり、あかぎれの亀裂跡も生々しい、かさかさになった手だった。
「苦労をおしだね」
 ふじは我が子の手を両手で包むようにして、感に堪えぬように呟いた。目が潤んでいるように見えた。
 その言葉に、張り詰めていたせつの気持ちがいっきに緩んでしまった。
「おっ母さん!」
 一声叫んで、せつはがばとふじに抱きついた。そのまま嗚咽で次の言葉が出てこなかった。
「せつ・・・・」
 ふじは我が子の名前を優しくなぞるように言うと、そのままぐっと抱きしめた。涙が両眼から線を引いていた。
 そんな二人の傍らにそっと白湯を置いた利助ももらい泣きしていた。せつはお茶といったが、茶の葉はなかったのである。それは精一杯の見栄だった。そのことも理解しての利助の涙だったろうか。
「お前、いまのままで良いのかい?」
 ひとしきり涙にくれた後で、ふじはせつを引き離しながら言った。咎める口調ではなく、やさしく包むような感じだった。
「ごめんなさい。恥ずかしいところを見せてしまって」
 せつは着ている小袖の袂で涙をぬぐうと、
「おっ母さん。いまの暮らしは苦しいけど、悔いはありません」
 きっぱりと言った。
「浜松にいれば何に困ることのないものを・・・・」
「与之助さまと二人覚悟でしたことです」
「お前が心配で来てみたんだが・・・・。浜松には帰るまいねえ」
 ふじの声は小さくなった。下を向いてしばらく考え事をしていたが、
「わたしはお前を見ていると、ときどき羨ましくなることがあるよ」
 顔を上げてせつの目を見ながら、せつなさそうに言った。
「血は争えないねえ」
 母の目に自分の目が映っていた。そこには疑問のまなざしをしている自分の目があった。
「わたしも昔、駆け落ちをしようとしたことがあったのだよ」
「えっ・・・・!」
「もう、二十二年も前になるかねえ。相手はやはり浜松藩のお侍さまで、木内庄兵衛さまとおっしゃった。剣術の強い男らしい方でねえ、二人で浜松を出ようと約束したんだよ」 ふじはそこでいったん言葉をきった。
 せつにとってそれは初めて聞く話だった。しばらくは言葉がでなかった。
 ややあって、もしかして、と問うせつに、
「そうなんだよ。約束の刻限に行かなかったんだよ。その頃、旦那さまとの縁組みの話が進んでいてね。気配を察したんだね。双親に『好いた惚れたで苦労は乗りきれるものじゃあない。女は望まれて輿入れするのが幸せというものだ』と懇々と諭されてね。それで今の旦那さまと夫婦(めおと)になったのだよ」
 旦那さまとは、せつの父遠州屋仙兵衛のことだ。その頃はまだ先代の仙兵衛が健在で、父は祐介と名乗っていたはずである。その後、先代が亡くなって父が後を継いだ。十五年くらい前のことである。遠州屋は代々当主が仙兵衛と名乗っている。せつの父で五代目のはずだった。
「おっ母さんはそれで幸せなの?」
 それはせつの当然の疑問だった。
「幸せだよ。だって、お前を授かったんだもの」 
 ふじはきっぱりと言った。
「おっ母さん・・・・」
 せつの両目に再び涙が光った。
「でもねえ。幸せだからこそ、若い頃のもう一つの生き方の行方を思うのだろうかねえ・・・・」
 ふじはため息をついた。
「木内さまと駆け落ちを約束したあのとき、その気持ちを違えぬようにとお互いに身につけていたものを交わし合ったのだよ。わたしは匂い袋を差し上げて、木内さまからは印籠をいただいた。木内さまはまだわたしの匂い袋を持っていてくださるかねえ。それとも・・・・」
「おっ母さんは、印籠を大切に持っているの?」
「いいや。旦那さまに嫁ぐ夜に捨ててしまったよ。未練を抱いたまま嫁ぐのは、失礼というものだろう」
 ふじは遠くを見るような目で言った。
 おっ母さんは本当に木内さまを好いていたのだろうかと、とせつは思った。いままでの話しの中で、相手のことを気遣う言葉は全くでてこなかった。おそらく、木内さまは母に待ちぼうけを食わされ、傷心を抱いて江戸へ出たことであろう。身も知らぬ他国で生きていくことがいかに困難であるか、この一年せつは嫌と言うほどに体験していた。
 いや、その頃は確かに慕っていたのかも知れない。でも、好いた惚れた、という不確かなものよりも、遠州屋という確かなものを選んだのだ。親の意見を容れて。
 せつはふじの生き方を一人の女の生き方としてあり得ることだし、あっても良いと思った。だが、一年前のせつだったらどうだっただろうか。果たして母の生き方を一人の女の生き方として、いまのように肯定できただろうか。
 涙の乾いたせつの脳裏は、意外に冷静であった。


(5)与之助の後悔

「なに! 借金取りが・・・・」
 しまった、と与之助は心底から思った。
 一月前に竹丁の金貸しから借りた一分金四枚は、手つかずで懐の巾着に入ったままだった。あの日、木内静庵と出会ったことで、金貸しから借りたことなどすっかり忘れていたのだった。
 せつから人相の悪い借金取りが現れたと聞いて、与之助は自分の迂闊さを恥じた。
「また来る、とすごんでいたから、この次はお前さんの居るときに来るんじゃないかしら」
「怖い目に遭わせてすまぬ」
 与之助は借金したわけを正直に話して聞かせた。
「お前さんの気持ちは信じてました。これを使ってくださいな」
 そう言ってせつは、小判二枚を与之助の前に出した。
「こ、これは! こんな大金を、ど、どうしてお前が持っているんだ」
 驚愕と疑念で、与之助の言葉はつかえていた。
「昼間、おっ母さんがここへ来たんです」
「浜松のか?!」
 それもまた与之助が驚くに十分なことだった。
「ええ」
 せつは軽く答えて、ふじが長屋を訪ねてきたときのことを話して聞かせた。
 ふじはせつを連れ戻しに来たのだが、せつの覚悟を意識したのか強くは勧めなかった。「また、来るよ」
 利助と長屋を出ようとしたとき、せつは思い切って声をかけた。
「おっ母さん。きっと返しますから、何も聞かずに二両貸してくださいな」
「何も聞かずにって。お前、苦しくても与之助さまと二人で地道に生きていこうとしているのじゃないのかい」
 ふじの顔に怪訝な表情が浮かんでいた。
「そうですけど・・・・」
 せつの声が沈んだ。
「二両といえば、わたしにも出せないお金じゃない。でも、わけをお言い」
 ふじの厳しい目を見て、やむなくせつは金貸しが長屋にやってきたことを話した。
「その男たちは、独眼竜の五郎蔵の身内と名乗ったのだね?」
 ふじは厳しい目をせつからそらさず、問い詰めるような口調で訊ねた。
(そうよ。きっと、お父っつあんが裏で頼んでいるのよ)
 ふてぶてしく言い返そうと思ったが、せつは喉元まで出かかった言葉をかろうじて飲み込んだ。母も係わっているかは分からないのだ。それを言ってしまっては、互いに重い気持ちを抱いて別れなければならなくなるだろう。久しぶりに会った母と子である。せつは戻って欲しいという母の気持ちを痛いほどに感じたが、ふじはそれを強いなかった。
 せつが強く顎を引いたのを見たふじは、利助に命じて小判二枚をせつに握らせた。
「与之助さまへのお前の気持ちはよっく分かった。でもね、お前がそこまで想うほどのお方なのかえ。金貸しから金を借りるなんて、そんな浅はかな男といても幸せにはなれないよ。浜松に帰っておいで」
 最後は命じるように、凛とした声で言い放つと、ふじは利助を促して長屋から出て行った。
「浅はかな男とな!」
 与之助はむっとしたように声を荒げた。
「ええ。でも、なぜ金貸しからお金なんか借りたんです?」
 それはさっき話したじゃないか、と思わず言い返そうとしたが、せつの悲しそうな顔を見て、与之助の気持ちが急に萎えた。
「すまぬ。ひょんな成り行きから借りてしまったのだ。だが、取り立ての男たちは、確かに独眼竜の五郎蔵の身内と名乗ったのだな」
 せつが頷くのを見て、
「そのすぐ後にふじどのが来るのも間合いがよすぎるような気がするが・・・・」
 独眼竜の五郎蔵は、上野から湯島一帯にかけて縄張りを持つ博打打ちである。だが、同時に十手を預かり、お上の御用を勤める男でもあった。その顔の広さを活かして、表裏の稼業を使い分けているとも噂されていた。
 与之助は一度その五郎蔵のために痛い目にあっている。勢田兵庫乃介という無頼浪人と立ち会ったのである。その男はせつの父仙兵衛が、五郎蔵を通じて放ってきた刺客だった。かろうじて立ち会いには勝ったのだが、
 ――これで終わりと思うなよ。
 不気味な言葉を残して、兵庫乃介はこと切れたのだった。そのことはせつも知っている。
 与之助はあのときの勝負を鮮やかに思い出した。
「まさか、お父っつあんが・・・・。でも、おっ母さんは知らないような気が・・・・」
「いくら遠州屋のお内儀とはいえ、手代を供に江戸くんだりまで来るどんな用向があるというのだ」
「それは・・・・」
 わたしを連れ戻しに、と言いかけてせつは口をつぐんだ。
「それと、分からぬのは二両のことだ。それがしが借りたのは、一両で利子が一日百文のはず。一月で倍の二両になるはずがない。だが、二両返さねば、また人相の悪い二人組が長屋に取り立てにくると言ったのだな」
 せつはこくんと頷いた。
 先日、竹松の紹介で借りた一両は、与之助の懐の巾着の中に収まったままだ。木内静庵との出会いによって、結局その一両を使うことを忘れていたのだった。何かが与之助の脳裏に引っかかっている。思えば御徒町の通りの質屋で、まとわりつくように馴れ馴れしく言い寄ってきた竹松もいまとなっては疑わしい。竹丁も練塀小路も上野や湯島のすぐ近くである。
(もしや、あの男も・・・・。まさか、先生までも・・・・)
 そうなると木内静庵との出会いも怪しくなってきた与之助だった。
(裏で仕組んでいる者がいるのだろうか・・・・)
 だが、ここ一月ほど身近に接し、その人となりを十分理解したつもりの与之助は、
(いや。先生は関係ない)
 自分の考えをきっぱりと否定した。そうであれば、逆に静庵は頼りになる人物なのではないだろうか。
「そうだ。先生に相談してみよう」
「練塀小路の木内さまにですか」
「そうだ。先生ならば、今度の不審を解いてくれるに違いない。これから行ってくる」
「お前さん!」
 すでに刻限は五ツ(午後八時)を過ぎている。これから練塀小路へ出かけては、帰りは木戸の閉まる四ツ(午後十時)を過ぎてしまう。
「それに、夜分遅く訪ねては、先生にご無礼では」
 確かにその通りである。
「それに明日も明けの五ツに先生の元へ行くんじゃありませんか」
「だが、それがしのいない間に、また取り立ての男たちが来ては・・・・」
「大丈夫。簡単にそんな不審な人達の言うことをききやしませんよ」
「だが・・・・」
 心配の消えぬ与之助に、
「任せておいてくださいな。いざとなったら長屋の人達の助けも借りますから」
 せつは強引に承知させてしまった。
 与之助はその夜ほど夜明けが待ち遠しいことはなかった。


(6)決着

 夜が明けるのを待ちかねた与之助は、しらじら明けを待って、静庵のもとを訪ねた。六ツ(午前六時)には練塀小路の木内道場に着いていた。
「早いな」
 静庵はすでに起きていた。日課である朝の素振りを行っている最中だった。
「先生。ご相談が・・・・」
 与之助の顔にただならぬものを感じたのか、素振りを途中でやめて、静庵は与之助の話を聞いてくれた。
「その金貸しには、おそらく五郎蔵の息がかかっていたのだ。むろん、竹松もぐるだ」
 話を聞いて、静庵はきっぱりと言った。
 竹丁は五郎蔵の縄張りのうちであるらしい。
「この練塀小路も五郎蔵の縄張り内でな。それがしも彼奴には何度か会ったことがある。お上の御用も勤めて幾度か手柄をあげたこともあるが、根は博打打ち。決して真っ当な人物とは思えない、というのがそれがしの考えだ」
「では、やはり、竹松が」
「間違いあるまい。そなたが金を借りるように仕向けたのだ。さらに、その金で博打に誘い、負けが込んだらせつどのを借金のかたに連れていく所存だったのであろう。そのまま、せつどのを遠州屋の出店(でだな=支店)に届ければ、五郎蔵としては遠州屋との約束が果たせるからな。だが、博打へ誘う手はそれがしが現れたことで潰えた。そのため、今度は借金取りが現れたのだ」
「ううむ。何という周到な」
「そのようだの。それほどに遠州屋の執念が勝っているのだろう」
 そう言って静庵は、考え込むように腕を組んだ。
 与之助はふじのことを静庵に話さなかった。わざと避けたのである。だが、もしかしたら静庵は、せつの母がふじであることを、うすうす感付いているのではないだろうか。
「遠州屋か五郎蔵を何とかしなければ、さらに災難が降りかかろう」
「先生!」
「そなたたちの気持ちはよく分かる。それがしもかつて駆け落ちを図ったことがあるゆえにな。だが、この歳になって思うのは、やはり駆け落ちはいかんということだ。どうだ、浜松に帰って正々堂々と遠州屋にせつどのを申し受けてみては」
 与之助は下を向いた。それができるくらいなら、江戸に駆け落ちなどしない。
 だが、与之助は直接仙兵衛に会って、せつを嫁に欲しい、と申し出たことはない。父と母に反対され、せつの両親も反対していると聞かされて、どうしようかと混乱してしまったのだ。そのとき、もう駆け落ちしかないのよ、というせつの誘いに乗ってしまったのである。今から思えば、余りにも大人げない短絡的な発想だったと思う。いかに身分違いとはいえ、二人が結ばれる可能性は無いわけではないだろう。与之助は江戸に出て世間の大きさを知るとともに、人が生きていくためには何が必要であるかを学んだと思っている。 与之助は決心した。膝においた手で袴の裾を強く握ると、
「分かりました。それがしもいまのままで良いとは、思っておりませんでした」
「うむ。よくぞ決意した。だが、金を借りたのは事実だ。借金の方は決着をつけねばなるまい。相手は十手を持っているのだ」
「ですが、それがしが借りたのは一両のはず。何故に一月で二両になるのでしょうか?」 それはせつの話を聞いてから、ずっと考えていたことだった。
「証文を見なければ何とも言えぬが、おそらく利息に利息を加算する仕組みになっていたのであろう」
 利息に利息を加算する仕組み、とは今日で言う複利計算のことである。一両は銭でおよそ四千文、一日の利息が百文であれば、二十九日で倍になる。
「証文は五郎蔵のところにあろう。利息が一日百文ということは、おそらく日借りになっていたのであろう。このままでは、日に日に利息が加算されていくばかりだ。返すのは早いほうがよい」
「迂闊でした。竹松の調子の良さにつられて、つい・・・・」
 与之助は考え込んでいたが、やがて、、
「それがしは五郎蔵のもとに参ります。直に談判して、浜松の遠州屋どのに話をするゆえ、今後は我らに手を出すなと約束させます」
「よくぞ申した。刃物を持っての喧嘩出入りとは違う。理非を分けて話せば、あるいは五郎蔵も聞き入れてくれよう」
 そう言って、立ち上がった静庵は、戸棚から小判三枚を出して懐紙にくるみ、
「これを使うが良い。これはささやかながらそれがしからの餞別じゃ。二人の前途を祈っての」
「先生・・・・」
 与之助は懐紙に包んだ物を押し頂いて、深々と頭を下げた。
「それがしが五郎蔵の家まで案内しよう。だが、決着はそなたが一人でつけるのだぞ」
「はい。谷山与之助は、浜松の武士にして木内静庵の弟子にございます」
 その言葉を聞いて、静庵が嬉しそうににっこりと笑った。

 独眼竜五郎蔵の家は、下谷御成街道と湯島天神の裏門坂通りが交わる上野町にあった。木内道場からそれほど遠くない。
 地理的に近い上に、剣名も高いことから、門弟に用心棒の口が掛かるらしいのだが、木内静庵はそれをはねつけているらしい。ゆえに五郎蔵とは、あまり良好な関係とはいえないのだ、と笑いながら、道々話してくれた。
 道場は早めに来た門弟に預けて、与之助と静庵が五郎蔵の家に着いたのは四ツ(午前十時)を少し過ぎたころであった。
 その日はよく晴れていて、梅雨入り前の日差しには真夏に劣らぬ力があった。
 五郎蔵の家は大きな構えである。以前は商家だったのだろう、南に向いた玄関は板戸を外し、開け放してあった。
「竹松お手柄だったな。うまくいけば、親分からたんとほうびがもらえるぜ」
「留吉、無駄話はそれくれえにしろ。それより、そろそろ霊岸島へ出かけるぞ」
 奥で男たちの大きな声が聞こえた。
(やはり、謀られたか。竹松の奴め、許さぬ)
 と、思いながらも、
「御免。独眼竜五郎蔵どののお宅であろうか」
 怒りを抑えながら、与之助は訪いを入れて中に入った。奥で話していた三人の男たちが、ぴたりと押し黙って、いっせいに与之助の方を振り向いた。
 その中に竹松の顔があった。
「へっ。浅黄裏が親分に何のようでぇ」
 強気に言って、与之助の側に寄ってきたが、外にいる木内静庵に気付いたのか、
「へへ。先生もごいっしょですかい」
 慌てて二人の男たちの後ろに隠れてしまった。
「借りた金を返しにきた。五郎蔵親分に取り次いでもらいたい」
 与之助の声は澄んで高かった。ゆっくりとそこまで言うと、不思議に気持ちが落ち着いてきた。木内道場で学んだ成果であろうか。荒々しい博打打ちの家に乗り込んでいながら、全く恐怖は感じなかった。
「親分はお忙しい。お前みたいな若造のさんぴんなんぞ相手になさらねえ」
 どすをきかせてそう言ったのは、与之助は知らなかったが、せつのもとへ借金の取り立てにきた辰三という男だった。二本差し何するものぞ、という気負いが感じられて、与之助には可笑しかった。頬が緩んだのが分かったが、それほどに余裕が出てきたということだろう。
「何が可笑しい!」
 辰三が怒ったようにすごんだとき、
「辰! 谷山さまをお通ししろ」
 奥から低いが腹の底に響いてくるような声がした。五郎蔵の声であろう。
 その声を聞いた辰三は、急に態度を改めて、こちらへ、と与之助を促した。
 居間であろうか、辰三に案内されて入った部屋は六畳ほどで、長火鉢を前に恰幅の良い五郎蔵と思しき男が座っていた。縞の単衣に黒い絽の羽織を無造作に羽織っていた。
 後には神棚があって、見ると十手が大切そうに置かれていた。房はついていなかったが、磨き込まれてぴかぴかに光って見えた。それはお上の御用を預かる五郎蔵の心意気を表しているようでもあった。与之助は五郎蔵という男が、はたして噂されるような男なのだろうか、とふと思った。
 与之助の後ろには、まるで退路をふさぐように留吉と竹松がいた。
「座布団をお出ししろ」
 五郎蔵の命令で、へい、と答えて、辰三が座布団を出してきて前に置いた。
 そこに正座した与之助は、改めて姓名を名乗り五郎蔵を正視した。
 五郎蔵は五十前であろうか。肩幅がいかついがっしりとした体躯だった。かっと見開かれた右目は爛々と光っているように見えた。左目は閉じられたままだが、目の上下に長さ三寸ほどの凄惨な刀傷があった。その傷故に独眼竜と呼ばれているのだろう。
「わっちが独眼竜の五郎蔵だ」
 一つしかない右目でぎろりと睨むような視線を向けてきた。気の弱い者ならそれだけで身が竦んでしまうだろう。
(剣の立ち会いといっしょだな)
 五郎蔵は剣客ではない。だが、弾きあう合う目と目は、まるで視線で斬り合っているかのようだった。与之助は下腹に力を入れた。静庵が、負けるなよ、と励ましてくれたような気がした。
「竹丁の金貸しから借りた金を返しに来ました」
 与之助は懐紙に包んだ三両を取り出すと、五郎蔵の右目から目を離さずに前に広げて置いた。
「それがしとせつは近々浜松に帰って遠州屋どのに会うつもりです。仙兵衛どのに何を頼まれたか分かりませんが、向後我らに関わり合うことは無用に願いたい」
「ほう。それっぽっちで手を引けというのかい」
 小判三枚を認めた五郎蔵は不機嫌な体で与之助に言った。視線はじっと与之助を捕らえて放さない。
 与之助はだんだんと息苦しくなってきた。だが、負けるものかと、
「それがしが借りたのは一両、一日百文の利息ということでした。一月を少し過ぎていること、一両がおよそ銭四千文であることから三両で十分と存じます。それに我らは遠州屋どののもとへ行こうというのです。不足はあるまいと思われますが」
 丁寧な言葉だが、視線は負けじと気合いを込めて五郎蔵に返した。
 まるで火花が散るかと思われるほどの二人の睨み合いだった。濡れ縁に座った子分たちも固唾を飲んで見守っているのが、痛いほどに感じられた。
 ややあって、五郎蔵がふっと目線を外して、近くの子分の一人に顎をしゃくった。
「あっしが」
 竹松がしゃしゃり出て、与之助の前の三両を五郎蔵に渡した。
「若いがなかなかの度胸だ」
 突然、五郎蔵の声が変わった。厳しい顔がくずれて、人なつっこい顔に変わった。
「わっちも独眼竜と二つ名をとる男だ。お前さんの心意気に感じようじゃねえか」
 与之助も険しい視線を納めて「かたじけない」と、一礼した。
 証文を受け取った与之助は、早々に五郎蔵のもとを辞した。
 与之助が部屋を出て行くと、子分を制して五郎蔵は奥の部屋の障子を開けた。
「これでようございますかい」
 五郎蔵の視線の先にふじがいた。声音は抑えめである。
「ありがとうございます」
 ふじは手を仕えると、深々と頭を下げて礼を述べた。
「今日はお内儀さんのたっての頼みでわっちが折れた。だがね、勘違いしないでおくんなさいよ。頼んできたのは遠州屋仙兵衛さんだ。いかに遠州屋の御内儀(おかみ)さんの頼みでも、これっきりですぜ」
「分かっております」
 ふじの顔が曇った。
「浜松へ帰ると言ってましたぜ」
「聞いておりました」
「わっちが遠州屋さんに頼まれたのは、無事にお嬢さまをお店にお返しすること。ですがね、あのさんぴんが、お嬢さまを浜松まで送っていきなさるんだ。それまで、わっちの出る幕はありますまい」
「せつは、わたしが連れて帰ります」
「そうですかい。それには及ばねえと思いますよ」
 五郎蔵はきっぱりと言って、
「それにしても、あのさんぴんは良い度胸をしてやがる。やっとうで鍛えたからだろうが、お嬢さまの相手として不足はねえと思いますがねえ。あの目には実がありましたぜ」
 ふふ、と含み笑いをした。
「親分・・・・」
 ふじがはっとしたように五郎蔵を見た。その顔がぱっと明るくなっている。慌てて立ち上がると、玄関へ向かって急いだ。
 与之助が五郎蔵のもとを辞して玄関へ現れたとき、そこには木内静庵が待っていた。
「少し気になってのう」
 与之助を認めると、やや照れたように腕を組んで框から腰を上げた。
「堂々としていて見事であったぞ」
「聞こえていましたか」
「ふふ。気になってな。聞き耳を立てていた」
「お恥ずかしい」
 二人は目を合わせて、どちらからともなく笑みをもらした。
「だがのう。この度は上首尾であったが、いつもこのようにうまく行くとは限らぬぞ」
「心しております。先生が見守ってくれているかと思うと心丈夫でした」
「参ろうか」
 二人が玄関を出ようとしたとき、ちょうどふじが出てくるところだった。
 ふじは与之助に言葉をかけようとして足を止めた。与之助といっしょにいる男の声に聞き覚えがあったからだ。
(もしや・・・・)
 ふじは柱の陰に隠れると、こっそりと聞き覚えのある男の顔を覗き見た。そこには、二十二年という星霜を経たかつての木内庄兵衛の姿があった。
 二人は五郎蔵の家を出ると、御成街道を筋違御門の方へ肩を並べて歩きだした。後を追って玄関を出たふじは、二人の後ろ姿を眩しそうに見つめていたが、与之助も静庵も全く気付かった。
「浜松に帰って、遠州屋の許しを得られるか?」
「せつと二人、やるだけです」
「残念だのう。せっかく、道場の跡継ぎができたと思うたに」
「これから妻帯されてはいかがですか」
「こいつ。それがしの胸に、ふじどのへの想いが、まだ残っているのを知っていて申すか」
「ははは・・・・」
 後ろ姿の男二人の朗らかな笑い声に、ふじの胸の内がくしゅんと痛んだ。
 そのことを男たちは知るよしもなかった。
                  (了)






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11/15 15:30 〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8) (無料公開)
10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
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10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
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09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
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09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
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09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
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