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〈助太刀兵法42〉 北斎蛸踊り(4) (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2015年3月1日 14時41分の記事


【時代小説発掘】
〈助太刀兵法42〉 北斎蛸踊り(4)
花本龍之介



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 
 葛飾北斎と娘のお栄の仲の悪さと、住んでいる長屋のごみ屋敷ぶりに、あきれ返った早船飛十郎だったが。乗り込んできた兆吉に、百両渡せと言って脅される。それでも、したたかな北斎親娘は、そんな大金はないと突っぱねた。すると孫の孝太郎に刃物を突きつけた兆吉は、金を寄こさねば殺すといって姿を消す。その行方を知るために、飛十郎は北斎の弟子に花川戸の藤次を呼びにいかせる。役人嫌いで気むずかしい北斎と、岡っ引きの藤次が気が合うか心配した飛十郎は、意外にも歌舞伎役者の話で盛り上がる二人を見て、ひと安心した。
        


【プロフィール】:
尾道市生まれ。第41回池内祥三文学奨励賞受賞。居合道・教士七段。
現在、熱海に居住している。


これまでの作品:

〔助太刀兵法31〕御家人馬鹿囃子
〔助太刀兵法32〕御家人馬鹿囃子(2)
〔助太刀兵法33〕御家人馬鹿囃子(終章)
〈助太刀兵法34〉夢泡雪狐仇討 ゆめのあわゆききつねのあだうち
〔助太刀兵法35〕夢泡雪狐仇討(2)
〈助太刀兵法36〉夢泡雪狐仇討(3)
〔助太刀兵法37〕夢泡雪狐仇討(4)
〈助太刀兵法38〉夢泡雪狐仇討(終章)
〈助太刀兵法39〉北斎蛸踊り
〈助太刀兵法40〉北斎蛸踊り(2)
〈助太刀兵法41〉北斎蛸踊り(3)



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【時代小説発掘】
〈助太刀兵法42〉 北斎蛸踊り(4)
花本龍之介



一 修羅場

「どうだ、恐れ入ったか。おれを騙そうたってそうはいかねえぞ。ざまあ見やがれ」
 勝ち誇ったように言い放った兆吉を見て、お栄の目が吊り上がって声が裏返った。
「孝太郎! おまえだね。身内の大事をべらべらしゃべりまくって、恥をお知り!」
 気の弱い孝太郎も、子供の頃から甘えてきたお栄には強いのか、兆吉に匕首を突きつけられたまま言い返した。
「な、なんだよう。おれだって、この話は今朝知ったばかりだよ。お栄おばさんが、酒に酔って居酒屋で口を滑らせたんだろう。仲間にそう聞いたぜ」
 北斎が、あぐらをかいたまま、じろりと娘を睨み上げた。
「そういやあ、お栄。縄のれんで呑んだと言って真夜中すぎに、べろんべろんになって帰ってきやあがったな」
「あ、あれは、お父っつあん……」
 お栄の顔が、さっと青ざめたが地黒なので、さほど変わらない。
「あれは、もくそもあるか! この馬鹿女が。いい年をしおって、ちょっと金が入ったら浮かれて近所でしゃべり散らす。いつも、これだ。わしや孫に迷惑ばかりかけおって」  これ以上ないほど苦い顔をすると、北斎は吐き捨てるように言った。
「なんだい。孫に迷惑たって、孝太郎は兆吉の仲間じゃないか。こんなやつ、さっさと刺されちまえばいいんだよ」
「何をぬかす。刺されりゃいいのは、おまえのほうじゃ」
 あきれ顔で北斎とお栄を見ていた兆吉が、たまりかねたように口をはさんだ。
「いいかげんにしろ。この修羅場に親娘喧嘩かよ。かりにも孝太郎は、てめえたちと血がつながった孫と甥っ子だろうが」
「その通りだ。北斎どのも、お栄も、ここはひとまず喧嘩をやめて、すこし頭を冷やしたほうがいい」
 草履を脱ぎ捨てて座敷へあがると、飛十郎は大手を広げて睨み合っている四人の間に割って入った。
「兆吉、おまえも冷静になれ。ここは、気を落ち着けて全員で話し合えば、なんとかなると思うぞ」
「なにを、太平楽なことをいってやがる。いいか、約束を守らねえと、孝太郎はこうだぞ」
 せせら笑いながら、兆吉は孝太郎の喉元を、軽く匕首の先端で突いた。
「いてっ! 痛えよう。おばさん、助けてくれよう。このままじゃ、躰中の血が流れ出して、死んじまうよう」
 喉にやった指が、血で真っ赤に染まる。その自分の血を見て、孝太郎は悲鳴を上げた。「ちっ、情けないねえ、この子は。それっぽっちの血で、死ぬわきゃないよ」
 お栄が鼻の先で笑う。
「おばさんよ、たしかに人間はこんなもんじゃ死なねえ。だがな、あんたもこの兆吉のことは生まれた時から知っているはずだ」
「ああ、同じ棟割り長屋にいたからねえ。おまえの、おっかさんのことも、ようく知っているよ」
「おふくろのことは、言うんじゃねえ!」
 一度見開いた兆吉の目が、すぐに細くなった。瞳の奥に刃物のように光りが一瞬見えたが、たちまち火が消えたように暗くなった。これほど暗い人の目を、飛十郎はこれまで見たことがなかった。


二 雲竜図

「わかったよ、兆吉。もう言わないよ」
 鳥肌が立ったような声で、お栄が言った。
「そのほうがいい。おめえさんも、この爺さんも、かっぱらいや置引きにはじまって、ついには盗みや人殺しと、自慢じゃねえが悪いことでやってねえことは、一つもねえってこともよく知っているはずだ」
「知ってるよ。あんたが、ぐれはじめた、きっかけもね」
 兆吉は、にんまりと笑った。
「なら、おれという男が、やるといったことは必ずやるということも、知ってるな」
 お栄は、ごくりと音を立てて唾をのみ込んだ。
「まったく……、立派な悪党になったもんだよ」
「へらず口をたたくんじゃねえ。おいらは、もう長屋の路地を走り廻ってたような、餓鬼っちよじゃねえんだ」
「そうだろうな、兆吉」
 それまで黙って見ていた北斎が、ふいに口を開いた。
「その腕に入れた彫り物だが、誰に下絵を描かせたんだ。そいつはなんだ? みみずか」 さすがは江戸一番の浮世絵師、ちらりと覗いた刺青の図柄を素早く見取ったとみえる。「ふざけるな! どこの誰が、みみずを腕に入れる。のぼり竜だ」
「ふん、へたくそな竜じゃの。背中にも彫っているのか」
「背中には、まだ入れちゃいねえ」
「そうかい。小さな頃、莨の火を押し当てられた火傷のあとを、ごまかす気で入れたのじゃろうが、うまく消えておらんな」
「それがどうした。てめえにゃあ、関係ねえだろうが!」
 孝太郎の首に匕首を押し当てたまま、兆吉はわめき声を上げた。
「関係ないこともないぞ。どうだ兆吉、ものは相談だが、この画狂人北斎が、おまえの背中に彫る雲竜の下絵を描いてやらないでもないぞ」
「なんだと?」
「なにを言ってるんだよ、お父っつあん」
 あっけに取られた顔を、お栄はした。
「自分がなにを言ってるのか、わかってるのかい」


三 古狸

 これは、お栄の言い分が正しい。徳川将軍家の菩提寺・東叡山寛永寺の本堂天井に描く大雲竜図。金は望み次第に与えるという幕府の依頼を、気がのらないという理由で北斎が断わったということは、江戸中の評判になったから飛十郎も知っていた。
「寛永寺をことわっといて、こんなやくざ者の背中に雲竜を描いたことが知れたら、御公儀からどんなおとがめがあるか知れないよ」 
「そんなことは百の承知さ、お栄。だから、わしもただじゃ描かん。兆吉、おめえに竜をやるには、条件がある」
 北斎の目が、じろりと動く。油断のならない目付きだ。
「なんでえ、その条件てのは」
 兆吉の目が、ぎらりと光る。同じように油断のならない目である。
「簡単なことだ。孝太郎を離せ。そうすりゃ、たった今から筆をとって、おめえの背中に誰も見たことがねえような、見事な雲竜の図柄を描いてやるぜ」
 あぐらをかいた北斎が、腕を組みながら言った。
「そうおしよ、兆吉。将軍さまの申し出を、平気で蹴った葛飾北斎の竜の絵なら、百両以上の値打ちがあるよ」
 すかさず横からお栄が、ずるそうな顔で口を出した。
「たしかに天下の絵師、いま江戸で評判の北斎の雲竜図が背中にありゃあ、仲間が目をむいて驚くのは間違いねえ。悪党のあいだで幅がきくのは、たしかだろうが……」
 兆吉は、考え込んだ。あれこれ思案しているのが、見ていてもよくわかった。
「……残念ながら、やっぱり駄目だな、おばさん」
 にやりと笑って、兆吉はお栄から北斎へ視線を移した。
「ふ、ふふふ。なあ、煮ても焼いても喰えねえ古狸てのは、てめえのことだな爺さん。おいらは。やっぱり百両のほうがいいや。今さしせまって金がいるんだ。あいにくだがな」 お栄はそれを聞いて、気落ちしたように肩を落とした。
「やい、北斎。語るに落ちるたあ、このことだ。孝太郎の話じゃ、いつもはろくに小使いもやらねえで、冷たく当たってるそうだが。今のことで、てめえもやっぱり人並みに孫がかわいいのが、よくわかったぜ。こいつは百両どころか、孝太郎を手元に置いときゃ、もっと金をしぼり取れそうだ。楽しみにしてるぜ」
 匕首を孝太郎の首にあてがったまま、兆吉は庭に転がっている仲間のほうを見た。
「野郎ども! いつまでそんな所で、のたうち廻ってるんだ。引き上げだぞ」
 孝太郎の襟がみを掴んで引き寄せると、匕首の切っ先を脇腹に押し当てた。
「動くんじゃねえ!」
 飛十郎とお栄が身動きしたのを見て、兆吉は怒鳴りつけた。
「いいか、手出しをしたり、後を追ってきゃがったら、孝太郎のどてっ腹に大きな風穴があくと思え。じゃ、あばよ」
 そのまま孝太郎を引きずるようにして土間へ降りると、あっという間に姿を消した


四 天の橋立図

「やれやれ。世の中にはまだ尻が青そうな若者のくせに、とんでもない悪党がいるものですな」
 藤兵衛が入ってくると、気の毒そうな顔で飛十郎を見た。
「いつもながらの鮮やかな剣さばきで、たちまち四人を片ずけたのには舌を巻きましたが、あとが悪うございましたな」
 飛十郎が何か答える前に、お栄が金切り声を上げた。
「なに、のん気なことを言ってるんだよ! 安達屋さん、あんたがこの役立たずを寄こしたんじゃないか。すご腕の助太刀人が聞いてあきれるよ。こんなざまじゃ、三十六景の肉筆絵なんか、とてもじゃないが渡せないね」
「黙ってろ、お栄。飛さんは、よくやったよ」
 大声を出すでもなく、静かに北斎は言ったが、たちまちお栄は口を閉じた。
「いくら飛さんでも、孝太郎を人質にとられたんじゃあ、なにも出来るわけがない」
 その通りだ、というように飛十郎は、ごしごし顎をこすった。
「あのとき、へたに飛さんが手を出してみろ。兆吉のやつは、躊躇なく孝太郎を殺したろうよ」
「まさか、そんなことは……」
 信じられない、という顔でお栄は言った。
「だから、おめえは物ごとの判断ができねえ馬鹿女だってんだ。兆吉の目は、本気だったぞ」
 うなずきながら飛十郎が、激しく無精髭をこする。
「だって、お父っつあん。孝太郎と兆吉のやつは、まだこんな赤ん坊の頃から友だちだったんだよ」
 立ったままお栄は、膝のあたりを手で指した。
「馬鹿野郎っ。 世の中はな、その友だちってのが一番恐いんだぞ。いい年して、そんなこともわからねえのか」
「わかんないよ、爺い! わっちは、あんたの娘だからね。どうせ、出来そこないの大馬鹿だよ」
 お栄の北斎の呼び名が、お父っつあんから、また爺いに逆戻りした。どうしてこの親娘は、ことあるごとに角突きあって、いがみ合うのか。
――家族の喧嘩は、愛情の裏がえしだとも言うが。この二人は血が濃すぎるのだろうか……
「わからん」
 飛十郎は、首をかしげて考え込んだ。身内がいない飛十郎には、見当もつかなかった。 「何が、わかんないんだよう」
 すぐにお栄が、鉾先をむけてくる。
「いや、なに、こっちのことだ。それより、さっき兆吉が言っていた百両のことだが。本当なのか」
「そんなこたあ、あたしゃ、知らないね」
 紙屑の上にどしんと尻を落とすと、低い鼻先を雨しみのある天井へむけた。
「お栄、なんだその態度は。わしとおまえを守ってくれる助太刀人に、かくしだてしたって仕方がなかろう。飛さん、すべて本当のことじゃ」
「曲輪内の大名とは、いったい誰です」
「丹後の宮津藩七万石の松平伯耆守さまじゃ。屏風に天の橋立図を描く約束で、半金の百両をたしかに受け取った」
「では、その大金が、この家にかくしてある。というわけですかな」
 飛十郎は、伸びをするように背中をそらせて、あたりを見廻した。
「それ以上よけいなことを言わないほうがいいよ。この男は信用ならない。かくし場所を言ったが最後、あしたの朝になったら小判といっしょに、どろんするに決まってるんだ」


五 へちゃむくれ

 痛烈なお栄の言葉に、飛十郎は苦笑しながら頭を掻いた。
「あい変らず人を見る目がないの、お栄は。そんなふうじゃから、いつも男に騙されるんじゃ。飛さんの人相はな、物にまるでこだわりのない無欲な顔なんじゃ。この男はな、金にまったく興味がない顔をしとる。今どき珍しい人相じゃな」
 絵師特有の鷹のように鋭い目で、北斎は飛十郎を見据えた。
「嘘だと思うなら、飛さんの前に酒と女と小判を並べてみろ。もっとも女といっても、おまえみたいな、へちゃむくれは駄目じゃ。器量くらべの当世評判美人番附にのるような、売れっ子芸者や、茶汲み女や、小町娘でなくてはな」
「ふん、どうせ最後は、わっちの悪口だと思ったよ」
 しかめっ面で鼻に皺を寄せたお栄の顔は、唐渡りの愛翫犬の狆(ちん)にそっくりだ。笑いを噛み殺すのに苦労して、飛十郎はそっぽをむいた。
「なんだい、その顔は」
 すぐに突っ掛かってくるところも、狆ころによく似ている。
「お栄、ためしてみろ。飛さんは、ためらいなく酒に手をのばすはずじゃ。小判や女には、目もくれんでな」
「こんな世知辛い世の中に、そんな男が居るなんて信じられないよ。まったく、おめでたいね、お父っつあんは」
 あくまで飛十郎を信じようとしない娘に、北斎は舌打ちして紙にむかうと、すらすらと筆を動かした。
「ふうむ」
 北斎に見せられた紙の字を読んで、飛十郎は溜め息をついた。〔金百両は竈(へっつい)の内の灰の下〕浮世絵の落款で目にする達筆で、そう書いてあった。声に出さなかったのは、薄壁一枚の隣りの住人をはばかったからだ。
「お栄が、店屋物ばかり食べることで、思いついたのじゃ」
 なるほど、竈は薪や炭が燃える場所だ。まさか火の下の灰の中に、二十五両の切餅四つが埋められていようとは、誰も思いつかないだろう。
「いいか、お栄。この早船の飛さんが、あしたの朝までとは言わん。ここに居るあいだに百両と一緒に姿を消せば、この賭けはわしの負けじゃ。なんでも、おまえの言う通りにしょう。そのかわり、わしが勝ったら、二度と飛さんを疑うのはよせ。そして、そのひねくれ根性をやめて、もっと素直になれ。いいな」
 北斎は、お栄にむかって静かな声で言った。
「わかったよ。根性が悪いのは親ゆずりだ、ちっとやそっとじゃ直らないが、わっちが負けたら旦那を疑うのはよすよ」
 これ以上北斎に逆らえば、家を追い出されると思ったのか、意外におとなしくお栄はうなずいた。
「さて、北斎どの。孝太郎を救い出す算段を、いたさねばなりませんな」
「そのことだが。飛びさんに、なにかいい考えがあるかな」
 飛十郎にまかせておけば、ことはすべて片付くといった、のんびりした顔で北斎は聞いた。
「兆次たちの巣がどこにあるかわかれば、すぐに出むいて取り戻しますが」
 貸した傘を返して貰いにいくような、のん気な声で飛十郎も答えた。
「さ、そこだ。兆吉は宿無しだし、孝太郎もとっくの昔から、両親の家には寄りつかんしな。おい、お栄。兆吉の寝ぐらを知らんか」
「知るもんか。わっちは町木戸の番太や、御用聞きじゃないんだからね。おかど違いというもんだよ」
 立ち上がると、爪先に当たった折り詰の空き箱を、いまいましげに蹴りながらお栄は言った。


六 繁三郎

「そうか。今お栄は、いいことを言ってくれた。北斎どの、策がつきましたぞ」
 うれしげな飛十郎の声に、お栄はきょとんとした。
「知り合いに、捜しものが得意な男がいるのを思い出した」
「それは助かる。飛さん、すぐに引き合わせておくれ」
 やはり孫のことが心配だったのか、北斎の顔が明るくなった・
「使いを出せば、すぐに駆けつけるはずだが……。ただし、ちと金がいるが」
「なんだって、冗談じゃないよ! よけいな金は一文だって出せないからね」
 お栄は、たちまち目尻を吊り上げた。
「それでは、話にならんな」
 腕組をすると、飛十郎は北斎の顔に目をやった。
「黙っとれ、お栄。この世の中で、ただの物は一つもありゃせんぞ。まして、これには孝太郎の命がかかっとる。飛さん、百両までならすぐに出すぞ。いくら、いるのじゃ」
「なに、ほんの一両ほどだ」
 それを聞いて、お栄がほっと安堵の溜め息をついた。
「なんだ、一分銀四枚か。それっぽっちなら、灰を掘り返すまでもないわい。そのへんを捜せばあるじゃろう。遠慮せずに持っていきなされ」
散らばった紙屑に目をやると、北斎はまた蒲団に腹ばいになって、筆を走らせはじめた。「浅草へ使いを出したいのだが、誰にいえばいいかな」
独り言のような飛十郎の言葉を聞くと、いきなりお栄が壁をどんと叩いた。
「やい、繁公! いるんだろ。耳をすまして聞いているのは、わかってんだ。すぐに、きな!」
 もう一度壁を叩いて、お栄が怒鳴り声を張り上げると、入口からおずおずと若い男が入ってきた。ひょろりと痩せた、出来の悪い糸瓜(へちま)みたいな男だ。
「弟子の繁三郎だよ。このご浪人は、わっちとお父っつあんを守ってくださる、早船の旦那だ。お見知りおき願いな」
「へい」
 細く青白い顔で飛十郎を見ると、ぺこりと頭を下げた。
「早船飛十郎だ。ちょっと頼みがあるのだが……」
 用件を言いかけると、いきなりお栄が怒鳴り声を上げた。
「やい、繁! さっきは、なんだい。てめえは弟子のくせして、師匠の危難をとなりで聞いていやがって助けにこねえとは、どういう了見だよ」
「だって、姐さんも知っての通り。あっしは、からきし荒事のほうは苦手なんで」
 骨ばった細い腕をさすりながら、目を伏せる。
「なにが荒事だよ。いっぱしの芝居通の江戸っ子みたいなことを、言うんじゃないよ。ついこの間までは、三浦大根を洗ってた田舎者じゃないか。生意気な口をきくと、頬っぺたをつねり上げるよ」
 お栄の脅かしに、繁三郎はおびえた目をすると、恐ろしそうに頬を手でかくした。つねられたことが、あるらしい。
「ほう、三浦半島の生まれか」
 見かねた飛十郎が、助け舟を出した。
「ふん。半年ほど前に、爺いが金沢八景から浦賀にかけて、絵を描きに旅をしたときに、ひろってきたんだよ」
「浦賀か……。あのあたりの海は、また格別だろうなあ」
 無精髭をこすりながら、飛十郎は遠くを眺めるような目をした。
「なにを、のん気なことを言ってるんだよ、旦那。繁公に用事があるんだろ。早くしなよ」


七 画号商売

「そうだな。悪いが、浅草へ使いに行ってくれないか」
「へい。浅草は、よく知っております」
「それは、ちょうどいい。大川と仲見世の間の花川戸町だ。そこで、岡っ引きの藤次郎といえばすぐにおえわかる。ここへ顔を出すように伝えてくれんか。できれば一緒に連れてきてくれ。早いほうがいいからな」
長い顔を緊張させてうなずくと、走って行く気か着物の裾へ手を伸ばして端折りはじめた。
「ちょっと、まて」
 駆け出そうとする繁三郎を呼び止めて、紙屑の下から捜した包みから一分銀を出した。「駄賃だ。めし屋で、なにか喰っていけ」
「へ……」
 目を丸くして一分銀を見ていた繁三郎の顔が、ふいに泣き笑いのようにゆがんだ。
「ほら、早く受け取って、いかんか」
 飛十郎の手の上の一分銀を恐る恐る取ると、繁三郎は脱兎のごとく路地から飛び出していった。
「飛さんは、見かけによらずやさしいのう。お栄、爪の垢でものんだらどうじゃ」
 寝そべったまま、両手の上に顎をのせて眺めていた北斎が、にやにやしながら声をかけた。
「冗談じゃないよ、旦那。繁公に一分は、もったいないよ。五十文も渡しゃ、おんの字なんだ。弟子と言ったって、まだなんの役にも立たない下っ端なんだから」
 口をとがらせて文句をつけるお栄にむかって、飛十郎はさとすような口調で言った。
「そうではないぞ、お栄。北斎どのの古い弟子ならば名も売れ、おのれで稼ぐ才覚もあろうが、新弟子になって半年なら金を得る手立てもあるまい。まして江戸生まれならともかく、田舎からきたなら知り人もなかろう。下の者ほど気をくばって、かわいがってやらねばならんぞ」
「こいつは、一本まいった。わしも耳が痛いわい」
 北斎は、感じ入ったような声を出した。
「わしも十九歳のときに、役者絵の名手といわれた勝川春章の弟子になった。三日三月三年の言葉通り。最初の三日間が一番つらかった。そのあと、つらかったのは半年目じゃったかのう。そのつど、やめたいと思ったもんじゃ。ふ、ふふ、生意気じゃたからな。兄弟子には、えらくいじめられたもんじゃ。あの頃、わしも飛さんのような、やさしい人間に会いたかったのう」
 若い時のことを思い出したのか、北斎はしみじみした口調で言った。
「ふん。てめえが、もっと家族にやさしくすれば、よかったじゃないか。絵狂いのおかげで、女房や子供はひどい目にあったんだ」
 吐き捨てるように言うと、お栄は北斎を憎々しげに見た。
「そうじゃったかのう……。なにしろ遠い昔のことじゃ。悪いが、お栄、よう覚えておらん」
 とぼけた顔で天井を見上げると、北斎は飛十郎に目をやると、お栄に見つからぬように、ぺろりと舌を出した。見かけ通りの、したたかな老人であった。
「ときに北斎どの、お弟子は何人おられる」
飛十郎の問いに、北斎は指を折りかけて首をひねった。
「そうじゃなあ、七、八人もいるかな」
「十三人だよ!」
たまりかねて、お栄が口を出した。
「ほう、十三人もおられるのか。それにしては、この家にあまり顔を見せないようだが」「そりゃそうさ。うかつに顔を出したら、画号を押しつけられるからね。古手の弟子は、そいつを恐れて寄りつかないのさ」
 飛十郎は、ふに落ちない顔をした。
「しかし師匠の画号をゆずられるのは、弟子にとって名誉なことではないか。喜ぶはずだが」
「無料(ただ)ならね。爺いは、これまで二十も三十も画号を変えているが、そのつど前の画号を弟子に売りつけるんだ」
「なんだと。売るのか? 画号を」
 驚愕したように、飛十郎は北斎のほうを見た。
「ああ、ていのいい押し売りさ。師匠に買えといわれりゃ、弟子は逆らえないだろ。へたをすりゃ破門されるからね」
 お栄の言葉に、北斎はきっと顔を上げた。
「なにを抜かす、わしゃまだ画号を買わんという理由で、破門したことはないわい」
「しなくったってな。されるんじゃないかと思って、弟子はおびえるんだよ!」
 お栄の一喝で、部屋がしんと静かになった。
 両腕を袖に入れて、勝ち誇ったように肩をそびやかすと、お栄はあたりを見廻した。
「ところで、お二人さん。今夜の晩めしは八百膳の幕の内と、百川の会席弁当の、どっちがいいかい?」


八 花川戸の藤次

 幕の内だの会席弁当だのは、もちろん話だけで飛十郎と北斎の口には入らなかった。二人が食べたのは、通りを流していた鮨売りから買った巻き寿司と稲荷寿司だけだった。
 鮨を包んでいた竹皮を放り投げた北斎が、両手の指を舐め終ったとき、富岡八幡宮の時の鐘が暮れ六つ(午後六時)を打った。お栄は火打ち石を鳴らして種火をこしらえると、付け木で行灯の油皿の灯心に明りをともした。行灯を持つと、北斎の枕元へ運んでいく。外はまだそれほど暗くはなかったが、絵を描くには明りが不足しているのだろう。
 飛十郎が、竹皮に残っていた最後の巻き寿司をつまんで口にもっていこうとした時、たて付けの悪い腰高障子が音をたてて開いた。
「ただいま、帰りました」
 気弱そうな声と一緒に、繁三郎の顔が見えた。
「おう、ごくろう。花川戸はすぐにわかったか」
「へい。町はすぐにわかりましたが、旦那が言われた名まえでは、捜すのに大汗をかきました」
 飛十郎は竹皮の上に戻した巻き寿司を横に押しやると、刀を掴んで立ち上がった。
「そんなことはあるまい。藤次郎で間違いないはずだぞ」
「たしかに本名はそうですが、捕物のほうの通り名は藤次というそうなんで」
 どもに立ったまま繁三郎は、うらめしげな顔で飛十郎を見上げた。
「そうか。たしかに花川戸の藤次というのが御用のほうの名だったな。忘れていたよ。おれが悪かった。すまん」
 すまなさそうな顔で頭を掻くと、飛十郎は深々と頭を下げた。
「ちっ、あきれたねえ。やせてもかれても、旦那は侍のはしくれだろ。こんな吹けば飛ぶような弟子ふぜいに、頭を下げるんじゃないよ。みっともない」
 江戸の下町生まれのお栄は、相模からやってきたこの薄ぼんやりした若者がよほど気に入らないらしい。
「それは違うぞ、お栄。人を捜すように頼んだおれが、相手の名を間違えたのだ。侍だろうがなんだろうが、頭を下げてあやまるのが当然だ。おれは、そう思うがな」
「へえ、そう。なら、どうぞご勝手に」
 ひねくれた顔で、お栄はそっぽをむいた。 
「一本やられたのう、お栄。いや、どうして飛さんは、なかなか見上げたお人じゃ」
不満そうに頬を脹らませたお栄は、縁側から踏み石へ飛び降りると、下駄を突っかけて掘のほうへ駆けていった。
「ところで繁三郎、藤次はいつ顔を出すと言っていた」
「町内の入口にある、乾物屋の前までは一緒でした。先にお知らせしようと思って、あっしは駆けてきましたから」
「なに。では藤次は、すぐにきてくれたのか」
 うれしそうに言って、飛十郎が路地のほうを見たとき、
「ひさしぶりでございます、早船さま」
 そう声を掛けながら花川戸の藤次が、前と変わらぬきびきびした足取りで土間へ入ってきた。
 濃い藍色の太物織物の着物に、同じ色の裾の短い羽織をはおっている。切れ長の大きな目が、浅黒い顔をより精悍に見せている。軽く尻端折りをした着物の下に、やはり藍色の股引をはいて、誰が見ても恐もてのする江戸の岡っ引きだが、にっこり笑うとよちよち歩きの幼児が思わず寄ってくるような、やさしい顔になる。
「忙しいところだろうに、呼びだてして悪かったな」
「何をおっしゃいます。成田屋の旦那が、早船さまは清元延寿太夫の仇を討ってくだすったお人だ。ご恩返しをしなくちゃならねえ。お声がかかれば、必ずお役に立たなきゃならねえぞ。と、いつも耳にたこが出来るほどおっしゃいます。あっしにできることなら、喜んでやりますぜ」
 小腰をかがめて、紺の夏足袋にはいた麻裏草履の鼻緒に目を落としながら、歯切れにいい声で藤次は挨拶した。


九 駕籠と緋毛氈

「いや、そいつはありがたい。団十郎が、そんなふうに思っていたとは知らなかった」
 思い掛けなかったとみえて、飛十郎は首をすくめて身を縮めると、髷(まげ)の上に手を置いた。
「で、御用というのは、どんなことで」
 藤次はそう言いながら、座敷のほうへちらりと目をやった。よく動く目が、散らかり放題の紙屑の山や、竹皮や空箱や割り箸を見ているはずだが、毛筋ほども表情が変わらない。十手捕物術もさりながら、町道場で修練を積んだ剣の腕も、なかなかだという成田屋の言葉がうなずける。
「じつは、今おれはここで助太刀人をしているのだがな。画狂人どのの孫が、兆吉というならず者に連れ去られて困っておるのだ」
「画狂人というと、あの葛飾北斎先生でございますな。それは、それは……」
 素早く後へ手を廻すと、藤次は裾を降ろして軽く埃をはたいた。
「おぬし、知っているのか。北斎どのを」
 さすがは顔が広いな、と言いかけた飛十郎を藤次が手を振ってさえ切った。
「いえ、お目にかかるのは初めてで。けれど先生の評判は、ようく存じておりやす」
 江戸っ子なら誰でも知っておりますよ、といった顔でにやりと笑う。
「そうか。だが、土間に立っていては話もできぬ。まあ、あがってくれ」
「そうでございますか。では、遠慮なく」
 すっと座敷にあがると、飛十郎にうながされるまま北斎の前へいった。
「お公儀から十手捕縄をおあずかりしております、花川戸の藤次ございます。どうか、お見知りおきを」
 言うなり紙屑の山の上に、ぴたりと正座した。まるで新調したばかりの青畳に座っているかのように、身じろぎもせず涼しい顔をしている。
「ふう、ううむ」
 唸り声を発して、これ以上ないほど不機嫌な顔をした北斎が、しばらく藤次を睨んでいたが、手にした筆をからりと投げ捨てた。
「なんじゃ、岡っ引きか。わしゃ、御用風を吹かす小役人や、侍風を吹かす二本差しは大嫌いなんじゃ。だが、おまえは、なかなかいい面構えをしとる。気に入ったぞ」
「そいつはどうも。ありがとうございやす」
 どうなることかと、二人を心配げに見ていた飛十郎が、ほっと安堵の息をついた。
「ふわっ、ふわっ。だいぶ前のことじゃが。歌舞伎役者の尾上菊五郎が、まだ梅幸といっていた頃にのう。ご贔屓筋にくばる扇子に絵を描いてくれといっての、生意気に駕籠に乗ってきおった。座敷にあがったとたん、あまりの汚さにへきえきしておったが、すぐに外へ出おった」
「へえ、じゃ音羽屋は、そのまま帰ったんで」
 膝の上に両手を置いたまま、藤次は聞いた。
「わしも、そう思った。じゃが、違った。菊五郎はの、駕籠の中の緋毛氈を持ってくると、畳の上に敷きそこへ座って口上を言いはじめたのじゃよ」
 腕組をして聞いていた飛十郎が、これは面白いとばかりに身を乗り出した。
「で。北斎先生は、それからどうしなすったんで」
 なんともいえずいい間で、藤次は相づちをうつ。
「わしは顔をしかめたまま、そっぽをむいておった」
「そのまま、ずっとでございますか」
「ああ、ずっとじゃ」
 北斎は、うれしそうに頷ずいた。
「それじゃあ、音羽屋はさぞ困ったでしょうねえ」
 藤次の大きな目が、話をうながすように細かく動く。
「まあ、そうじゃな。最初はもじもじしとったが、わしが四半刻(三十分)も黙りこくってやると、そわそわしはじめて、しまいには顔に油汗をながしはじめてな、お白粉がまだらになりおった。ふわっ、ふわっ」
「ふむ。尾上菊五郎といえば、市川団十郎の成田屋とならんで、江戸の芝居町を背負って立つ二枚看板のひとりだ。えらく気位が高いと聞いているが、その音羽屋が困りきった顔を、おれも見たかったな」
 刀を杖のように突いて、両手を柄頭の上に置いた飛十郎が、にやにやしながら藤次を見た。
「へい、まったくで。音羽屋は、それからどうしなすったんで」
「どうもこうも、あるかい。わしが知らん顔で壁のほうを見ていたら、たまりかねたように立ち上がって、緋毛氈を忘れてまま外へ逃げ出しおったわ」
「尻に帆かけてってやつですかい。北斎先生」
「そうじゃ。まるきし、金毘羅ふねふね追手に帆かけてしゅらしゅしゅしゅ。という流行り唄の文句通りにな。ふわっ、ふわっ、ふわっ」
 よほど上機嫌なのか、唄まで入れた北斎が大声で笑いはじめる。すかさず飛十郎と藤次も、声を上げて笑い出した。


十 鯛の浜焼き

「は、ははは。そいつは面白うございましたな。けど、負けず嫌いで有名な音羽屋だ。そのまま黙って引っ込んじゃいなっかたんでしょうね」
 目尻に笑い皺を寄せながら、藤次が北斎に聞いた。
「さすがは、岡っ引きじゃの。よう見抜いた。あくる日すぐに、座元と頭取と金主が雁首を並べて、音羽屋にわびを入れろ。と言ってきおった。その金主というのがな、わしの浮世絵の板元に金を貸しておる男でな。これには、ちょとわしも困った」
「ははあ、そいつは弱りましたな。それで先生は音羽屋にわびをいいなすったんで」
「誰がわびるもんかい! ものを頼みに手前勝手にやってきて、あろうことか緋毛氈を敷いて座るとは無作法きわまる。無礼はどっちじゃ! といって怒鳴りあげてやったわい」「それはそれは、さすが先生は江戸っ子ですな。胸がすくような啖呵じゃございませんか」
「これ、藤次とやら。わしみたいな、よぼよぼの年寄りにむかって歯の浮くような世辞をいうな。わしゃ、ただの百姓・八郎右衛門じゃ」
 八郎右衛門というのは、数多くある北斎の画号の一つである。晩年好んでこの名を使ったが、この長屋の門口の上にも〔百姓・八郎右衛門〕と書いた木札を張り付けて、訪れる客を驚かせては喜んでいた。
「こいつは、どうも……。先生、どうかご勘弁を」
 藤次は愛敬のある目をぐるりと動かすと、頭の髷に手を置いてさも恐そうに首をすくめて見せた。
「それで、北斎どのが叱りつけたあと、その三人はいかがいたしたかな」
 飛十郎が横目で藤次を見ながら、助け船を出した。
「おう、飛さんにも見せたかったな。ほうほうのていで逃げ出しおったよ。ざまはなかったな」
「なある……」
 歯の無い口を見せて、腹をゆすって喜こぶ北斎を見ながら、藤次は感心したように首を振った。
「てえしたもんだ。北斎先生はやっぱり並みのお人じゃねえ。天下の音羽屋の使いを、鼻もひっかけねえで追い返すなんざ、誰にでも出来るこっちゃございませんよ」
「そうかのう。ま、そうほめるな。背中がむずかゆくなるわい」
 口とは裏腹に、北斎はどっしりした太い鼻柱を、得意そうにうごめかした。
「音羽屋は、もう二度とここへは顔を出さなかったでしょうね」
「ところがじゃ。それから三月(みつき)ほどたったある日の昼すぎにな、供の者に鯛の浜焼きを持たせた音羽屋が、また絵を頼みたいといってあらわれたんじゃよ」
「舞台の板の上で芝居をする役者だけあって、面の皮が厚うございますな。先生はすぐに追い返したんでしょうな」
「いやいや、その日の菊五郎はな、さっきのお前さんのように、歩いてやってくると履物をそろえ、わしの前へくると汚ない紙屑の上へ正座して、深々と頭を下げおったのじゃよ」
「へええ。そいつはまた、大変なかわりようじゃございませんか」
藤次は、大きな目を丸くした。
「まるで別人じゃ。もしかしたら、狐でもつきおったんじゃないかと思ったほどじゃ」
「それで、先生は絵をお描きになったんで」
「まあ、礼儀さえわきまえてくれれば、いいわけじゃからな。それに、お栄にやつが持参の大鯛を見て、よだれを流しそうになっておったしな。依頼された、幽霊の絵を描いてやったよ」
「え! 音羽屋に頼まれたのは、これの絵でござんすか」
 そう言って、藤次は両手を前にだらりと下げてみせた。
「そうじゃ。なんでも、今度やる怪談芝居の役の工夫にしたいと言っておったな。それからは、わしも菊五郎を見に芝居小屋へ足を運ぶ。菊五郎もわしを寺島村の屋敷へまねいてご馳走をしてくれる。というふうに、えらく仲良くなったもんじゃ。〔東海道四谷怪談〕で音羽屋が演じた、お岩さんも見にでかけた。考えてみれば、人と人の縁というものは不思議なもんじゃな」
 珍しくよく口を動かした北斎は、うれしげに頷ずきながら話をしめくくった。
「ふうん、そうですかい。菊五郎と仲良しにねえ……」
 藤次は、そっぽを向きながら言った。
「なんじゃ、その不服そうな顔は。わしが菊五郎の屋敷にいったのが、気に入らんとみえるな。ははあ、そうか。藤次、お前は成田屋が好きなんじゃな」
 藤次の顔を覗き込みながら、北斎はにやりと笑う。
「へい。あっしどもの家は、祖父の代から筋金入りの、成田屋贔屓でござんす」
 背筋をぴんと伸ばすと、江戸っ子かたぎ丸出しの歯切れのいい声で、藤次は言い切った。これには、飛十郎も閉口した。
「おい、藤次、なにを言いだすんだ」
 せっかく呼び出した腕ききの岡っ引きが、役者のことで北斎と喧嘩したのでは、たまったものではない。飛十郎は頭を掻きながら、渋い顔をした。
「ふわっ、ふわっ、ふわっ」
 意外なことに、飛十郎と藤次の顔を見くらべながら、北斎は大声で笑いだした。
「心配しなさんな、飛さん。わしゃ、この男が気に入ったよ。わしは、べつに芝居狂いというわけではないからのう。成田屋が嫌いというわけでもない。それどころか、わしも大江戸の飾り海老・市川団十郎は大の気に入りじゃよ」
 それを聞いて、しかめていた藤次の顔が、ぱっと明るくなった。
「ほれ、藤次親分。お前さんと同じ名の〔助六所縁江戸桜〕の、花川戸の助六。あの団十郎は、威勢がよくていいのう」
「いよっ! あの江戸前の粋がわかるとは、さすがは北斎先生だ。あれは、ほんとに絶品でございやすねえ」
 どうなることかと、はらはらして藤次と北斎のやりとりを聞いていた飛十郎は、ほっとしたように息をついた。
               了 〈助太刀兵法43・北斎蛸踊り―5―につづく〉




 




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