このブログのトップへ こんにちは、ゲストさん  - ログイン  - ヘルプ  - このブログを閉じる 
〈助太刀兵法34〉夢泡雪狐仇討 ゆめのあわゆききつねのあだうち (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2014年3月2日 12時24分の記事


【時代小説発掘】
〈助太刀兵法34〉夢泡雪狐仇討 ゆめのあわゆききつねのあだうち
花本龍之介 



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 豆撒きの音が聞こえる節分の夜、退屈していた早船飛十郎の長屋に、今日引っ越ししてきた男二人がやってくる。これが佐吉と弥助との初顔合わせになるのだが、おかげではるばる備後尾道へ行くことになろうとは夢にも思わぬ飛十郎は、弥助が近くで鰻屋台を出していることを聞いて呑みにいく。のんびりと橋のたもとの屋台で枡酒を楽しんでいた飛十郎の耳に、女の悲鳴が聞こえてきた。主人の娘がかどわかされたと供の女に泣きつかれた飛十郎は、枡を放り出すと風をきって走り出した。

  
【プロフィール】:
尾道市生まれ。第41回池内祥三文学奨励賞受賞。居合道・教士七段。
現在、熱海に居住している。


〈助太刀兵法21〉尾道かんざし燈籠
〈助太刀兵法22〉尾道かんざし燈籠(2)
〔助太刀兵法23〕尾道かんざし燈籠 (3)
〔助太刀兵法24〕尾道かんざし燈籠 (4)  
〔助太刀兵法25〕 尾道かんざし燈籠(5)
〔助太刀兵法26〕尾道かんざし燈籠(6)
〔助太刀兵法27〕尾道かんざし燈籠(終章)
〔助太刀兵法28〕室の津綺譚
〔助太刀兵法29〕室の津奇譚(2)
〔助太刀兵法30〕 室の津奇譚(終章)
〔助太刀兵法31〕御家人馬鹿囃子
〔助太刀兵法32〕御家人馬鹿囃子(2)
〔助太刀兵法33〕御家人馬鹿囃子(終章)






 ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓   ↓  ↓  ↓  ↓





【PR】占いシステムの開発なら経験と実績があります。


************************************************************
当サイトからの引用、転載の考え方
・有料情報サイトですが、引用は可能です。
・ただし、全体の文章の3分の1内程度を目安として、引用先として「ニュースソース・NewsSource(有料版)」と必ず明記してください。
・ダウンロードしたPDFファイル、写真等は、透かしが入っている場合があります。これは情報管理上のことです。現物ママの転載を不可とします。ただし、そこから情報を引用しての表記は可とします。その場合も、全体の3分の1内程度を目安として、「ニュースソース・NewsSource(有料版)」と引用先を必ず明記してください。
・商業利用の場合は必ず、連絡下さい。
 メールは、info*officematsunaga.com
(*を@にかえてください)
************************************************************

【時代小説発掘】
〈助太刀兵法34〉夢泡雪狐仇討 ゆめのあわゆききつねのあだうち
花本龍之介 



一 蕎麦切手

「鬼は外ぉ、福は内ぃ」
 掛け声と一緒に、豆を撒く音がした。
 ごろりと横になって、肘枕をした早船飛十郎の耳に、遠く近く節分の鬼遺(おにやら)いの声が聞こえてくる。
「やっと、春か……」
 豆撒きにまじる子供の笑い声を聞きながら、飛十郎がつぶやいた。
 江戸八百八町の家々は、十二月下旬の立春の前日(今は二月三日)の灯ともす頃になると、厄除けに柊の枝に鰯の頭を刺して門口に立て、鬼打ち豆を撒く風習があった。これがすめば立春である。これより以降、最初に江戸の町に吹いてくる南風が、春一番ということになる。
――そろそろ、亀戸の梅屋敷へでもいってみるか……
 風流なことを思いついたが、なに梅の花を見るより、花の下の茶店で一杯やるのが目的だ。梅が咲いていようがなかろうが、飛十郎にとってはさしたる問題ではない。
 隣家の棒手振りの魚屋の夫婦には、子供が二人いる。妹の泣き声や母親のぶつ音や兄を叱る声、ときには夫婦喧嘩の声まで手にとるように聞こえてくるが、飛十郎はいっこうに気にならない。
――忘れ残りの、空っ風か……
 戸口の腰高障子を、がたがたと揺する音を耳にして、飛十郎はそう思った。
「旦那、夜分すいません」
 どうやら戸を揺すったのは、空っ風ではないようだ。
「誰だ」
 小名木川に面した障子に向けた顔を、ぐるりと廻して飛十郎は土間のほうを見た。
「へい。おむかいの長屋へ引っ越ししてまいりました、佐吉という者でございます」
 そういえば去年の春に越していったまま。向いは空き部屋になっていた。
「かまわん、開けて入ってくれ」
 起き上ると右膝を立てた姿で、飛十郎は刀を左膝の横に引き寄せた。言うまでもなく、この形は無双直伝英信流居合〔立膝〕の構えである。
 立て付けの悪い引き戸が音をたてながら開くと、小粋な遊び人風の男が、きびきびした動作で土間の中に入ってきた。
「どうも、旦那。せっかく、おくつろぎになっているところを、申しわけありやせん。ごあいさつが終われば、すぐに退散いたしやす」
 地味な竪縞の着物に黒の股引き、細工物の居職人とも船頭とも見えるが、飛十郎は佐吉という男は堅気ではないと見た。 
「ふむ。節分の夜に越してくるとは、なかなか洒落たことをするではないか」
 無精髭をひとこすりすると、飛十郎はにやりと笑った。
「へ。こいつは、恐れ入りやした。たまたま、そうなっちまっただけでして、旦那」
 佐吉は、平気な顔で笑い返すと首の後に手を当てて、ぺこりと頭をさげた。
「今日は、厄落としの節分だ。昼間は風もなくいい日和だったが、陽が落ちると急に寒くなった。いつまでも外にいたら気の毒だ、連れを入れてやれ」
 飛十郎の言葉に佐吉は振り向くと、舌打ちして開けたままの腰高障子から外へ顔を突き出した。
「おい。そんなとこで、ぐずぐずしてねえで早く入れ。もうとっくに入っていると思ってるじゃあねえか」
 連れを叱りとばすと、佐吉は飛十郎を見て愛想笑いをした。
「へ、へへ。どうも旦那、どじな野郎でして。弥助っていうんですがね。あれで鰻を裂いてるってんですから、笑わせるじゃありませんか。ねえ」
「ほう、鰻屋で働いているのか」
 土間の端にひっそりと立って、消え入りそうにうつむいている弥助のほうを、飛十郎は見た。
「いえ、旦那。それが、自分の店を持っているんですよ」
 腕組をして首をひねった飛十郎を見て、慌てて佐吉は言葉をつづけた。
「と、いっても。吹けば飛ぶような、お粗末な屋台店ですがね」
 それはそうだろう。立派な表店の鰻屋の主人が、こんな裏店の棟割り長屋に住むはずはない。
「そうか。で、どこに屋台店を出している」
 飛十郎は、弥助の顔に目をやった。おずおずと何か答えようと顔を上げた弥助を無視して、佐吉がしゃべり出す。
「旦那は、八幡さまの近くにある閻魔堂橋ってのをご存知ですかい」
「ああ、知っている。そばに三角屋敷というのがあったな」              「ございます。あの橋のたもとに、毎晩出しているんですよ鰻屋台を。そりゃ、もう海からの風が吹きっさらしの、ひでえところで」
「酒は、あるのか」
 飛十郎は、おだやかな声で弥助に聞いた。目が合って一瞬どぎまぎした弥助は、それでもうれしそうに、こくんと頷ずいた。
「よし、わかった。呑みにいこう」
「そんな、旦那がいくようなとこじゃねえんで。鰻なら、あっしがいくらでもいい店に、ご案内いたすやすよ」                              「いや、けっこうだ。おれは、弥助が焼いた鰻を喰ってみたいんだ」
「そうですかい。旦那も、まったく物好きでござんすねえ。……ほんとに、噂の通りだよ」
「ふ、ふふ。おれの噂がどうかしたか、佐吉」
 ふところに手を入れた飛十郎が、胸元から出した指で顎の先をかきながら言った。  「いえ、なんでもござんせん。こっちのことで。それより旦那、これをお納めなすってくだせえ」
 小腰をかがめた佐吉は、懐中から出した物をあがり框(がまち)の板の上に置くと、さっと引きさがった。
「なんだ、これは」
「へい。引っ越しのご挨拶の蕎麦切手と、手拭いでござんす」
「そいつは、丁寧なことだな」
 飛十郎がこの長屋へ越してきた時にもこんなものは出さなかったし、ほかの者も誰一人として配らなかった。
「けど考えてみりゃ、旦那には酒切手のほうが、よござんしたねえ」
 揉み手をしながら、佐吉が笑う。
「いや。そろそろ、おれも腹が北山だ。それに一杯やる前は、なんといっても蕎麦が一番だ。これは、ありがたく頂いておこう」
「そいつをうかがって、あっしもほっとしやした。では、あっしらはこれで……」
 ぼんやり立っている弥助を追いたてるようにして、佐吉は外へ出ようとした。
「まて。弥助が鰻を焼いているのはわかった。ところで佐吉、おまえの稼業はなんだ?」


二 際師

 振り向いた佐吉が、ふいに笑い出した。
「あっしの稼業ですかい。は、はは、旦那、いってえなんだと思います。当ててみてくださいよ、商売を」
「それが、どうも見当がつかん。ただ、」
 と言って、飛十郎は無精髭に手をやった。
「ただ、なんです、旦那に?」
「堅気の商売ではない、ということだけはわかる」
 佐吉は、にやりと笑った。
「は、はは、当たりでさあ、旦那。まるきし、その通りで。あっしは際師(きわし)ですよ」
「際師だと……。いったいなんだ、それは」
「際物(きわもの)を売る、商売ですよ」
「どうも、おまえがいってることは、さっぱりわからんな。その際物というのは、どういうものだ」
 まいった、というように飛十郎は頭をかいた。
「そうでさあ。お侍さんが知らねえのは当たり前だ。際物ってのは、これからなら女の節句に飾る雛人形。それが終れば五月の男の節句の、鎧、兜、鍾馗などの武者人形。旦那、そういった品を売る稼業を、際師と呼ぶんでさあ」
「ふうむ。初めて聞く仕事だが……。ならば、十軒店(じゅっけんだな)に店を持っているわけだな」
「とんでもねえ」
 佐吉は、慌てて顔の前で手を横に振った。
「あっしみてえな道楽者が、店なんぞ持てるわけがねえんで。人形問屋に頼まれて、仮店で売るだけでござんすよ」
「仮店だと? ああ、道の真ん中に店を出している、あれか」
 江戸の日本橋・室町の先にある十軒店には、節句人形や破魔弓・羽子板を扱う人形屋がずらりと並んでいる。二月下旬に仮店が出揃う時期には、花やかに着飾った女たちが集まることで有名な、江戸の年中行事の一つになっていた。
「へい。そういったことで……。ま、自分の店を構えているということじゃ、弥助のほうが、あっしより立派かもしれませんねえ」
 苦笑いをしながら佐吉は、背後にひっそりと立っている弥助を見返った。
「そうか、わかった。おれは早船飛十郎という、よろしくな。しかし佐吉、おまえの商売は、なかなか変わっているな」
 感心したように、飛十郎は首を振った。
「なにをおっしゃいますやら。へ、へ、旦那の商売のほうが、よっぽど風変わりじゃございませんか。あっしのような際師はけっこうおりますが、お江戸広しといえど助太刀屋ってのは、早船の旦那おひとりかもしれませんねえ」
 皮肉そうな、ふくみ笑いを佐吉はした。
「ふむ。佐吉、それを誰に聞いた」
「なあに、引っ越しのご挨拶は、こちらが最後ですから。ことさら聞かなくたって……」 意味ありげに、佐吉は左右を見廻した。
「人の口に戸は立てられぬ、といいたいのだな」
 向う三軒両隣りには、口さがない女房たちが揃っている。飛十郎はふところ手になると、笑いながら弥助を見た。
「それにしても、今夜は鰻は休みだろうな」
「い、いえ……。出します」
口ごもりながら、弥助が初めて答えた。
「ほう。越したばかりだというのに、えらいな」
 飛十郎にほめられて、弥助はうれしそうに頷ずいた。
「そうなんでさあ。今日ぐらいは休みなといったんですが、きかねえんで。まったく、律儀なだけが取り柄の男でして。銭をためて一日でも早く表通りに鰻店を出して、おふくろと妹を呼ぶってのが、この弥助の夢ってんだから笑っちまいますよ」
「けっこうではないか。最後に勝つのは律儀者だぞ、佐吉。おまえとおれは、少し弥助の爪の垢を煎じて飲まねばならんかもしれんな」
 飛十郎は、にやにや笑いながら佐吉を見た。
「へ。ご冗談を、旦那」
「弥助、おまえと佐吉が越してきた向いの部屋はな、働き者の八百屋が住んでいたが、めでたく表店を買い取って引き移ったという縁起のいい部屋だ。一心にはげめば夢は必ずかなう。それを信じて、しっかりやってみろ」
 びくりとして顔を上げた弥助の小さく細い目に、みるみるうちに涙が浮かんだかと思うと、真っ黒に日焼けした頬をこぼれ落ちた。情の込もった飛十郎の言葉が、よほど思い掛けなかったとみえる。
「しょうがねえなあ。いい年をして、泣くなよ。拳骨でこすっちゃ汚ねえじゃねえか。ほら、これで拭きな」
 あきれた顔をしながら、それでも佐吉は腰の手拭いを抜いて弥助に渡した。
「それにしても、奇妙な組み合わせだな。とうてい気が合うとは思えぬが。佐吉、どこで弥助と知り合
ったのだ」
「え、あっしと弥助ですかい。へ、へ、皆んな不思議がりますがね。こいつとは、切っても切れねえ仲なんでして……。旦那は、備後の尾道ってとこをご存知ですかい?」
「尾道……。いや、知らんな」
 飛十郎は無精髭をなぜながら、遠くを眺めるような目をした。名は聞いたことがある気がしたが、むろん行ったことはない。
「えらく遠いところで、江戸から百九十五里あまりもありますからねえ。瀬戸内に面した、ちっぽけな港町ですがね。とにかく魚がめっぽううまくて、江戸前の魚なんか目じゃありませんよ」
「つまり、ふたりともその尾道で生まれ育ったというわけか」
「そういうわけで。おたがいに竹馬に乗って遊びまわった口ですよ。こんな田舎は性に合わねえと、十六になった夏に尾道を飛び出して、大坂で五年しんぼうして、江戸へ出てからもう八年。とんだ男同志の道行でしたが、どうにか死にもせずこの海辺大工町の長屋へ流れ着いたというわけで。早船の旦那、よろしく頼みまさあ」
「うむ、わかった。この長屋へ流れ着いたのは、おれも同じだ。まあ、仲良くやろう」
 飛十郎は、刀を帯に差しながら立ち上がった。
「おや、旦那。これから、お出かけで」
「せっかくだからな。この切手で、引っ越し蕎麦を、ごちそうになるつもりだ」
 佐吉と弥助のあとにつづいて外へ出ると、飛十郎はさて何処の蕎麦屋へいったものか、と考えていた。


三 鰻屋台

 笊(ざる)蕎麦は、深川・洲崎弁天前の〔伊勢屋〕が初めて売り出したと言われている。寛政三年(1791)九月の大津波によって、弁天社もろとも伊勢屋も跡形もなく海に消えてしまったが、笊蕎麦だけは残った。
 海辺大工町の表通りにある駕籠蕎麦の、入れ込み座敷にあがった飛十郎は、いまや江戸名物になった笊蕎麦を肴に、二合ほどの燗酒をゆっくりと呑みはじめた。浅田屋という
のがこの蕎麦屋の本当の名だが、かご虎という駕籠屋の隣りに店があったので、誰がいいはじめたのか知らないが、土地(ところ)の人間は駕籠蕎麦としか呼ばない。
 よく水をきった蕎麦切りを小笊に盛って、その上に焼き海苔を細かくしたのを散らす。山葵(わさび)と葱の薬味を利かした辛めの垂れを、蕎麦に軽くつけて喉の奥にすすり込む。
「うまい」
 飛十郎は、思わず舌を鳴らした。へたな肴などとうてい敵わないほど、蕎麦は酒によく合う。蕎麦屋の上酒を守っているらしく。酒も吟味されて、なかなかおいしかった。
 暖簾を手ではね上げると、爪楊枝を口にくわえた飛十郎は、高橋にむかって歩きはじめた。高橋のたもとには、勝小吉と初めて会った団十郎親爺の武蔵屋がある。飛十郎は、その煮売り酒屋の灯を横目でみながらふところ手をすると、さっと右に曲がった。
 通りを真っ直ぐ行くと、霊岸寺と下総関宿藩五万八千石・久世大和守の下屋敷の長い塀のあいだに出る。
ここを抜けると、仙台堀に掛けられた海辺橋を渡る。橋を渡りながら、飛十郎は欄干越しに水面に目をやった。
 元禄二年(1689)三月、松尾芭蕉はこの橋の下から舟に乗り、大川を遡(さかのぼ)って奥州街道の第一宿である千住宿へむかった。『奥の細道』への旅立ちである。河岸道から小桟橋に降りる石段を見おろしながら、飛十郎は芭蕉庵を出るときに詠んだという〔草の戸も住み替わる代ぞ雛の家〕の句を思い浮かべていた。
――なるほど、小さいから雛の家。それに旅に出た三月の雛の節句を、かけたわけだ…… それにしても、百四十年も前のことである。弟子の曾良を連れての二人旅とはいえ、四十五歳の芭蕉にとっては死を覚悟した大旅行であったろう。
 口から抜き取った爪楊枝を、飛十郎は仙台堀にむかって放り投げた。川風の吹かれて、寒そうにふらふらと落ちていく爪楊枝が、どうしたものか際師の佐吉の顔に重なった。
「む。雛の句のせいか」
 歩き出した飛十郎は、そうつぶやいていた。
 海辺橋を渡れば、道は深川寺町に入るが、片側が万年町や平野町の町屋つづきだから、足元はそれほど暗くない。突き当りに流れている油堀川に架かっているのが、弥助が鰻屋台を出している閻魔堂橋であった。寺町に並ぶ寺院は、昼間のうちに追儺の行事をすませたとみえ、門内はいずれもひっそりと静まりかえっている。だが商家では、この時刻が鬼遺いのたけなわらしく、軒下を歩く飛十郎の耳に鬼を追い福を
呼び込む声が、すぐ近くで聞こえてきた。
「厄払いましょう」
 節分の夜とあって人の通りは少なかったが、厄年の者がいる家にいって災難を祓う厄落し屋が、寒さに震える呼び声をあげながら、飛十郎とすれ違っていく。飛十郎も、油堀から吹きつけてくる川風の冷たさに、思わずぶるっと身を縮めた。
 二間半(約四メ−トル)の橋のたもとに、ぽつんと光る角行灯の前に立つと、熱心に渋団扇(じぶうちわ)で炭火をあおいでいた弥助が顔を上げた。
「あ、旦那。ほんとに、きて下さったんですね」
「約束だからな。いい屋台ではないか」
 ふところから手を抜き出した飛十郎は、珍しげに屋台の中を覗き込んだ。
「熱燗ですね、旦那。鰻串は、ひと通り焼きますから、味を見てください」 
 返事も待たず、弥助は一升徳利から銚釐(ちろり)へ酒を移すと、湯の中へ沈める。返す手で台の下から
串に刺した鰻を取り出すと、焼台の金網に並べて団扇であおぎ出す。たちまち、あたりに鰻を焼く、うまそうな匂いが広がった。
「旦那、酒が出来ました」
「ほう。早いな、弥助」
 杉の一合升を皿の上に置くと、湯気の立つ熱燗を溢(あふ)れるほど注いで、わざと皿にこぼす。酒好きにとっては、たまらない瞬間だ。升のほうに口を寄せて酒をすすり込む。燗の加減も申し分ない。
「弥助、おまえも一杯やったらどうだ。引っ越し祝いに、おごるぞ」
 酒も灘の下り酒とはいかないまでも、地酒のいいのを選んである。酒の味のわかる男と飛十郎みた。
「どうした。酒が呑めぬはずはなかろう」
「へい。好きなんですがね、わけがあってやめております。お気持ちだけを、ありがたく頂いておきます」
 答えながらも、弥助の手は一瞬も止まらない。炭火の上の鰻の切り身を焦がさないように、休みなく裏返す合間に瓶に入った垂れの中に漬けると、すぐにそれを焼台の上に戻す。商売とはいえ、見事な動きだ。
 これが飛十郎の家の土間で、うすぼんやりと突っ立っていた男とはとても思えない。
「ふむ。酒断ちをしているとは、なにか願掛けでもしているのか」
「へい。お恥ずかしゅうございますが。表通りに鰻店を出して、田舎(くに)からおふくろと妹を呼び寄せるまでと思って、酒を断っております」
「そうか……。で、どこに願を掛けた?」
「深川の八幡さまと、浅草の観音さまです」
「ふ、ふふ、すごいな。二つも願を掛けたのでは、一滴も酒は呑めんな、弥助」
「へい。呑めば、たちまち天罰がくだります」
「よし、わかった。では仕方がない、おまえの分までおれが呑むことにしょう」
「ありがとうございます。旦那、えりが焼けました。食べてみてください」
 こんがりとほどよく焦げた切り身の串を二本、弥助は皿の上に置いた。竹筒に入れた山椒と、一味唐辛子を横に並べる。
「ほう……。えり、というのか。これは」
見なれぬ切り身に山椒をひと振りして、飛十郎は口に入れて噛んだ。
「お、これはうまい。えりというのは、鰻のどの部分だ」
「へい。顎のまわりの身で」
 かすかに苦みのある香ばしい味が、熱燗の酒にぴたりと合う。飛十郎が生まれて初めて口にする
味だ。
「弥助、酒のおかわりだ」
「そうくると思って、もうつけてあります」
 すぐに熱燗が、一合枡から皿にあふれる。
「気がきくな」
「へい、旦那。つぎが出来ております」
「そうか。これは、なんだ」
 焼き上がった切り身をひと目見るなり、飛十郎の背中をぞくりと悪寒が走った。丸い切り身が四つ、串に刺してある。口と目があるから、これは誰が見ても鰻の頭であろう。
 武士は、縁起をかつぐ。花の落ちるのが、首が切られるのと似てるといって、椿を庭に植えないほどだ。合戦で負ければ首を取られるし、太平がうち続く江戸の世でも、屋敷を朝出て行った侍が夜帰ってきたときは駕籠の中で自分の首を抱いている。ということも、ありえぬ話ではない。飛十郎には、串にずらりと刺されている鰻の頭が、生首に見えた。それで、わかり切ったことを弥助に尋ねたのである。
「こいつは、旦那。兜(かぶと)首でございます」
 弥助はことさら声を張り上げて、威勢よく答えた。思わず飛十郎は、膝を叩いた。
「でかした、弥助。武士に、兜首とは縁起がいいぞ。それに今夜は厄落しの節分だ」
 飛十郎はそう言って、鰻の首を口に入れた。
「この兜首を喰って、おれも厄も落ちたぞ」
「じゃ、早船の旦那は来年が厄年で」
「まあ、そんなところだ」
 笑いながら飛十郎がそう言ったとき、閻魔堂橋を渡った先の黒江町のあたりから、
「御厄(おんやく)払いましょうっ!」
 という縁起屋の呼び声が流れてきた。
「まったく旦那。芝居ならここで、ちょんと拍子木(き)が入るところでございますねえ」「ふ、ふふ。柄にもなく粋なことをいうではないか、弥助」 
 枡酒を口にふくんだ飛十郎が、まてよというように首をかしげた。
「長屋で、おれに挨拶にきたときには、ろくにものをいわなかった口べたなおまえが、ここではよくしゃべるではないか。どうした、まさか鰻の煙りのせいではあるまいな」
「へ、へへ、さようで……」
 油で真っ黒に汚れた団扇を動かしながら、弥助は煙そうに目を細めた。


四 ひと通り

「そうか。佐吉のせいだな」
「当たりです。あいつは餓鬼の頃からよく口のまわる子供でして、佐吉の横にいると面倒なもので口が動かなくなってしまいます」
「なるほど。そんなものかもしれんな」
 鰻の頭もこうして喰えば、なかなかいける。弥助の焼き加減がいいのか、骨もさほど堅くなくて口のなかでばりばりと砕ける。
「ですが佐吉はああ見えましても、なかなかいいやつで尾道の気の荒い漁師の小倅たちに殴られているときには、いつも助けてくれたものです」
 そう言って、弥助は新しく焼き上がった串を三本皿の上に置いた。
「次ができました。きもと鰭(ひれ)でございます」
「きもは一本か。鰻肝は人気があるからな」
「それに、一匹の鰻から少ししか取れませんので」
「ふむ。ひれというのは、鰻の鰭のまわりの肉というわけだな」
 鰻肝はあと廻しにして、飛十郎はひれを手に取った。鰻の背中そのままの色をした不気味な肉片が、皮ごと串に巻きつけてある。ひと呼吸おいて、飛十郎は口に入れた。
「そうでございますが、背鰭に尾鰭それに胸の鰭を八匹分も、串に巻いております」
 奇怪な見かけによらず、これがうまかった。飛十郎は、この鰻鰭が一番気に入った。
「ひと串に鰻八匹もの鰭とは、なかなか大変だな」
「へい。手間はかかりますが、蒲焼き屋では、えりもひれも頭も捨てる所でございます。元がただですから、安くも売れれば利もあがるというわけで」
 弥助がそう言ったとき、橋を渡ってきた中間風の男が声を掛けてきた。
「おい、ひと通り頼むぜ。用足しをしたら、取りにくるからな」
 ちらっと飛十郎に目線を飛ばすと、男は橋を引き返すと門仲のほうへ曲がっていった。「阿波さま(徳島藩二十五万七千石)のお中間でございます。いつも、ご贔屓にあずかっております」
「蜂須賀家の下屋敷は、たしか江戸湾をのぞむ海っぺりだったな。ところで弥助、ひと通りってのは、なんのことだ」
 焼台の上の串をあおぎながら、弥助は屋台の横の板を指差した。〔ひれ二本八文、えり二本八文、きも一本八文、一口一本十文〕たどたどしい字でそう書いた紙の横に、やはり同じ弥助の字で〔ひと通り六本三十文〕と書いた紙の札がはってある。
「旦那、最後のひとくちが焼けました。これで、ひと通りでございます」
 見ると、鰻の身を小さく切って四つほど串に刺してある。
「ふむ。ひとくちとは、一口蒲焼のことか……。しかし、これで三十文とは安いな、弥助」
「安くして、たくさんのお客さまに喜んでいただく。薄利多売でございますよ、早船の旦那。これでも前に黒船橋に店を出していた時より、常連がずいぶん増えました」
 弥助が、うれしそうに言った。
「その橋の近くに、黒船稲荷というのがあったな」
 飛十郎がそう聞いたとき、橋際の河岸の石段を上がってきた猪牙舟の船頭が、弥助に声を掛けた。
「おう、二通りたのむぜ。舟で待ってるからな。親方がお待ちかねだ」
「毎度すいません。そろそろくる頃だと思って、あらかた焼いております」
「そうかい。あい変らず弥助さんは、真面目だねえ」
 船頭はそう言い捨てて、飛び跳ねるような軽い身のこなしで石段をおりると、すぐにまた姿を見せた。
「こいつは親方が書きなすった、来月の狂言の番付けだ。いつものように知り合いに配ってくんな」
 番付けを弥助に渡すと、竹の皮に包んだ串焼きを受け取って、船頭はきびきびした身のこなしで石段の下へ消えていった。
「ほう、〔盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)〕か。いまの船頭は、上得意のようだな」
「へい。鶴屋南北の親方には、たいそうご贔屓にあずかっております。旦那がおっしゃった黒船稲荷に、親方のお屋敷がありますので」
「南北は夏狂言の東海道四谷怪談を見たが、なかなか面白かった。とくに民谷伊右衛門の暮らしぶりが真にせまっていた。本所あたりには、ああいった御家人は掃いて捨てるほどいるからなあ」
 飛十郎は手にしていた芝居番付けを屋台に置くと、仙台堀川のほうを覗き込んだ。深川の料理茶屋や岡場所へ行く遊客を乗せた猪牙舟が、そろそろ多くなる頃だ。船首の小さな舟行灯の蛍のような明かりが、闇につつまれた川面に美しく揺れて見えた。
「四谷怪談といえば、すぐそこの三角屋敷が出てまいりますね」
「はて、そうだったかな」
 鰻肝を口に運びながら、飛十郎は弥助が指差したあたりに目をやった。
「へい。直助権兵衛という鰻掻きが住む家が、あの三角屋敷になっております。てまえの商売にかかわりがありますので、面白く見物しました」
「だが、直助権兵衛とは妙な名だな」
「実際にいた悪党だそうでございます。三角屋敷に住んでいた町医者の家に、直助という下男がおりまして、ある夜その男が主人夫婦を斬り殺して金を奪って逃走したそうでございます」
「芝居の直助もひどいやつだったが、本物も相当の悪党(わる)だったんだな」
「まったくで。奉行所から人相書きが出て、数年後に江戸で働いていたところを捕まったそうです」
 酒をひと呑みすると、飛十郎はあきれた顔をした。
「したたかなやつだな。土地を売りもせず、そのまま江戸にいたのか」
「へい。なんでも小石川あたりの搗米屋で、権兵衛という名で米つき男をしているのを、顔見知りに見られてお縄になったそうです」
「ふうむ……。それで、直助権兵衛というわけか」
 飛十郎は感心したように言った。
「主人殺しの大罪ですからな。裸馬に乗せられてお引き廻しのすえ、鈴が森で磔(はりつけ)獄門になったそうですよ」
「それを南北が芝居に取り入れて直助権兵衛という小悪党に仕立てあげ、狂言まわしの役をふったわけだな。たいしたものだ」
「ですが、あの東海道四谷怪談ほど面白い趣向の芝居はありませんね。親方はあれから大南北と呼ばれるようになったそうです」
「そうか。弥助、もうひと通り焼いてもらおうか」
 飛十郎は、注文しながら三杯めの枡酒に手を伸ばした。
「へい、すぐに。鰻串が旦那の口にあったようで、ほっといたしました。食べられないお人も、けっこういますので」
 弥助はうれしげに、また渋団扇を動かしはじめた。


五 鰻談義

「今夜は不思議と、酒がすっと躰に入っていく。肴がよほど酒に合っているのか、酒が躰に合っているのかのどっちかだろうな。こんなことは年に何回もないことだぞ、弥助」
 枡の熱燗をすすると、飛十郎は焼き上がったばかりの串を口に入れた。
「じつに、うまい。弥助、このひれ焼きというのは、絶品だな」
「ご存知のように享保の頃に上方から、裂いた鰻を蒸して油気を抜き垂れをつけて焼いた料理法が伝わってから、江戸でも大はやりいたしました」
「うむ。蒲焼というやつだな。たしかに、あれはうまい」
「へい。今では鰻屋といえば、すべてそれでございます。ですが、もともと鰻というものは船頭や荷揚げ人足や、木場や石置場で力仕事をする人夫が精をつけるために、好んで食べたものなんです」
 皿の上の鰻の串焼きを、飛十郎は感にいったように眺めた。
「たしかに、これは精がつくだろうな」
「初めは裂いたりせず、頭と尾鰭を切り落とし、まるごと串に刺し通して焼いたそうです。その形が蒲の穂に似ているから、蒲焼と呼ばれるようになったそうで」
「ふうん、そうだったのか。だが丸ごと焼けば、さぞ油と煙がものすごかったろうな」
「そりゃもう旦那、ごらんの通りですよ」
 弥助は顔をしかめて屋台の天井を見上げた。鰻の油と煙り、それに埃がいりまじったのか、べっとりとした得体の知れない黒いかたまりが、氷柱(つらら)のようにぶら下がっている。
「ですから、人足や人夫しか喰わなかったんで。味噌をまぶしたそうですが、油っ気が濃すぎて普通の人間はとても食べられなかったそうですよ」
 弥助が、蒲焼の由来を話し終わったとき、縞木綿の筒袖に半纏を引っ掛けた木場の人足らしい二人連れが、寒そうな顔で屋台の前に立った。
「熱いやつを、一杯ずつ頼むぜ。それに、ひと通りな」
 飛十郎を見なれない浪人とみて敬遠したのか、人足二人は離れるように屋台の端に移った。
「弥助、前に黒船橋に屋台を出していたそうだが、あそこは門前仲町に近い。まさか、櫓下の小吉という芸者は知らないだろうな」
 手早く燗酒を人足たちに出して、戻ってきた弥助に小声で飛十郎は聞いた。
「小吉姐さんなら知ってますとも。南北の親方とご一緒に、よくお寄りになりました」
「ううむ……」
 飛十郎は腕組みをすると、首をすくめる心持ちで周囲を見た。
――噂をすれば影、というからな。油断はできんぞ……
「早船の旦那は、小吉姐さんとはお知り合いで」
「まあな、ちょっと引っ掛かりがあるだけだ」
 口を濁(にご)すと、飛十郎は振り向いて寺町のほうを眺めた。
「この橋の名も、深川閻魔堂にちなんで付けられたそうだな」
「へい。有名なお閻魔さまは、すぐそこの法乗院にいらっしゃいます。毎年七月十五日の藪入りには、江戸中の奉公人たちで、たいそう賑わいます」
「地獄の釜の蓋も開くという盆の入りだ。ふ、ふふ、さすがの閻魔さまも、のんびり休んではいられないだろうな。この屋台も、さぞ忙しいだろうな、弥助」
 飛十郎がそう言って、枡酒に手を伸ばそうとした瞬間、腰の袴板のあたりを棒でしたたかに突かれた。
「うっ」
 不覚であった。これが本身の槍であれば、飛十郎の命はなかったであろう。
「おほ、ほほ、飛十郎の旦那。嘘をおつきになっちゃあ、そのお閻魔さまに舌を引き抜かれますよ」
 振り向くまでもなく、飛十郎はその声の主が誰かわかった。
「こ、小吉。いつから、ここにいた」
「ふん。旦那が、あたしの悪口をいっている頃からですよ」
「馬鹿をいうな。おまえの悪口など申してはおらん。それに嘘などついてはいないぞ」
 派手な座敷着の上に、紋付の黒羽織を着た小吉が、それを聞いて手に持っていた長い竹竿で、地面をとんと突いた。その竿で飛十郎を突いたらしい。
「忘れたんですか。勝の旦那の仇討のときですよ。あたしが石場の辰巳屋で、岡場所の女郎の身がわりになって、首尾よく本懐をとげたあと、いったじゃないですか」
「そうだったかな?」
 ここは、とぼけるに限る。首をかしげると、忘れたような顔で飛十郎は小吉を見た。
「いいましたよ。落着いたら、礼に一杯ご馳走してやるって。それが何か月たっても、音沙汰ないじゃありませんか。いったい、どうなっちまってるんですよ」
「すまん」
 飛十郎は、いさぎよく小吉にむかって頭を下げた。
「いや。どうも、あれから忙しくてな。そうだ、ちょうどいい。この屋台で鰻串を肴に一杯やらぬか、おごってやるぞ」
「駄目ですよ。今夜は、お座敷がかかってるんですから。猪牙舟(ちょき)で通りかかったら、旦那がいい気持で弥助さんと話してるのを見かけたから、そこの桟橋から上がってきたんじゃないですか」
「ではその竹竿は、猪牙舟の船頭が使う竿なのか」
 突かれた腰を撫ぜながら、飛十郎は顔をしかめた。
「あたり前ですよ。誰がこんな長い竿を持って歩く、間抜けがいますか。あたしがご馳走になりたいのは、大川端の料理茶屋ですよ」
「う、むむ――」
 小吉のいう料理茶屋へいって一杯やるとなると、目の玉が飛び出るほどの勘定を支払わなくてはならぬ。
「なにを、うなってるんですよ。あたしだって、どうせなら二階のお座敷で大川を眺めながら、旦那のために三味線を弾いて端唄のひとつも口ずさんでみたいじゃありませんか
「そうか……。よし、小吉の気持はよくわかった。なんとか、都合をつけようではないか」
 小吉の顔が、ぱっと明るくなった。
「うれしいっ。本当ですよ。もし嘘だったら、お閻魔さまじゃなく、小吉が早船の旦那の舌を抜きますからね」
 そう言って小吉が飛十郎を睨んだとき、遠くで男の怒鳴り声と、女の高い叫び声がした。
「おや。旦那、あれは」
「うむ。並みの声ではないな」
 飛十郎と小吉をはじめ弥助や木場人足たちも、悲鳴が聞えてきた暗がりのほうに目をやった。


六 竹竿剣法

「誰かっ、助けて!人さらい……」
 声がしたかと思うと、髪を振り乱した中年女が、屋台の行灯めがけて駆け寄ってきた。 「お侍さま、人さらいでございます!お、お嬢さまが、かどわかされました。どうか、お助けを」
 飛十郎の袖に取りすがった女はそう言いながら、走ってきた道のほうを指差した。
「人さらいとは、おだやかではないな」
 暗闇を覗き込むと、叩き落とされた提灯が燃え上がったらしく、三十間(約50メ−トル)ほど先の路上が、ぼっと明るくなった。
「む。誰か倒れているぞ」
「はい、お供の手代と小僧でございます」
「助けておあげなさいよ、旦那」
 小吉に言われるまでもなく、そのつもりだ。飛十郎は刀の鍔を左手の親指で押さえたまま、腰を低く落して走り出した。右手は軽く柄の上に置いている。走りながら敵を抜き討ちに出来る、無双直伝英信流居合〔追風〕の構えであった。
 燃えている提灯の傍で膝をつくと、手代の口に手を当てた。かすかだが、息がある。どうやら当て落さらしい。
「大丈夫だ。この二人は、まだ生きている」
 追ってきた女中に声をかけると、飛十郎はあたりを見廻した。堀川に面した片側町は、材木問屋が軒を並べている。対岸の門前仲町とは違って、夜になれば人通りはほとんどなかった。
「娘が乗せられたのは、駕籠か?」
 人をかどわかすには、駕籠を使うのが一番手っ取り早い。
「い、いえ。舟でございます」
 飛十郎は、河岸へ駆け寄った。この堀は、先へ進めば永代寺と富岡八幡宮の背後を抜けて、木場へ入っていく。逆に進むと、弥助の屋台の横を通って、油堀川から大川へ出る
「その舟の舳先(へさき)は、どっちにむいていた」
「あちらの方角でございます」
 女中はそう言って、閻魔堂橋のほうを指差した。飛十郎は舌打ちをすると、竹竿を持って立っている小吉の傍へ駆け戻った。
「小吉、大川へ急ぐ舟を見なかったか」
「さあねえ、ここから川面は見えませんから。でも、ついさっき二丁櫓を漕ぐ音が、油堀のほうへむかうのは聞きましたけどさ」
「それだ」
 飛十郎は手を伸ばすと、小吉の竹竿をぐいと掴んだ。
「娘がさらわれたのは、その舟だ。小吉、竿と舟を借りるぞ」
「ようござんすとも!」
 橋脇の石段を駆けおりる飛十郎の背中にむかってそう叫ぶと、小吉は橋板を鳴らして欄干に駆け寄った。
「新公っ、早船の旦那に舟を貸したからね。お役に立っておくれ」
 吸っていた煙管(きせる)を投げ出すと、船頭はすぐに立ち上がって櫓をつかんだ。
「旦那、その新次は深川で一番の腕きき船頭だよ。二丁櫓だろうがなんだろうが、すぐに追いつくから娘さんをきっと助けておあげよ」
「こころえた! 娘は、きっと救ってみせるぞ」
 石段を駆けおりた飛十郎が、そう答えて猪牙舟に飛び乗ったのと、新次が櫓を漕ぎはじめたのが同時だった。
「早船飛十郎だ。さきほど通り過ぎた舟で、娘がかどわかされた。大川に出る前に捕まえたい。新次、たのむぞ」
「へい。なあに二丁櫓たって、あの舟には男が三人に娘が乗っておりやす。油堀でかならず追いつきます。おまかせなすって」
 なるほど櫓が一つ多くとも、四人も乗り込んでいれば舟足は遅くなる勘定だ。あとは櫓を漕ぐ船頭の腕で、勝負が決まる。小吉が請け合った通り、新次の猪牙舟は早かった。遠くに見えていた曲者の舟影が、みるみるうちに近くなってきた。
「旦那、あの舟を漕いでいる二人は、素人ですぜ。まるきし呼吸が合っちゃいねえ。は、はは、もたもたしてまさあ。このぶんじゃあ、すぐに追いつきますぜ」
 矢のように追いすがってくる飛十郎の舟を見て、悪党たちも慌てたのか、ますます舟足が遅くなった。
「どうします旦那。このまま艫(とも)へぶつけましょうか。それとも追い抜きましょうか」
 飛十郎を見た新次の顔には、汗ひとつ浮かんでいない。
「そうだな。出来れば、船尾にぶつかると見せて、並走してもらいたい。無理ならいいが」
「なあに、簡単でさあ。いいですかい、いきますぜ」
 深川一と言われるだけあって、新次は櫓さばきに名人芸を見せた。追いついた舟に、舳先をこつんと当てると、身をひる返すような軽さで、すっと相手の舟の横に並べた。
 立ち上がった飛十郎が竹竿を大きく振ると、櫓を握っていた二人の男が、あっと声をあげて水の中へ落ちていった。
「ちくしょう。てめえは、誰だ? これ以上近ずきゃがると、この娘の命はねえぞ!」
 最後に残っていた男が、振袖姿の娘を抱きかかえると、匕首の先を喉に押し当てた。それを見た飛十郎は、大声で笑い出した。男は度肝を抜かれたように、飛十郎を見た。
「な、なにを笑やあがる」
「あは、はは、好きにしろ。おれには縁もゆかりもない娘だ。赤の他人がどうなろうと、痛くもかゆくもない。だがな、今その娘を殺せば、きさまは間違いなく打ち首のうえ、さらし首だぞ。それでもいいんだな」
「く、くそ!」
 相手の動揺を見逃す飛十郎ではない。匕首の切っ先がわずかに娘の喉からそれた瞬間、竹竿の先端がぴしりと音を立てて男の手首を打った。舟から舟へ跳躍した飛十郎が、男の横に膝をつくのと、宙を飛んだ匕首がくるくると回転しながら水面へ落ちたのは同時であった。大きく揺れた舟の動きがおさまった時には、男の右手は背後にねじ上げられていた。
「なにをしやがる。は、離しゃがれ!」
 声だけは威勢がいいが、飛十郎の膝で背中を押さえ付けられた男は、身動きひとつ出来ない。
「おとなしく舟板でなめていろ。ふ、ふ、どうだ、塩味がきいてうまいだろう。きさま、なぜこんなことをした。誰かにたのまれたのか」
「誰にもたのまれゃしねえ。この大仕事は、おれが考えたことだ」
「馬鹿め。なにが大仕事だ、笑わせるな。どうせ、かどわかした娘を岡場所にでも、売り飛ばすつもりだろう。男三人がやることか。恥をしれ」
 男は驚愕したように、目を剥いて飛十郎を見た。
「てめえ! なにも知らねえで追ってきたのか。この娘は、越後屋のひとり娘だぜ」
「ふん、どこの越後屋だ」
 江戸の商家の屋号は、伊勢屋が一番多いと言われているが、越後屋もいたるところにあった。
「きまってるじゃねえか。日本橋は駿河町にある、大越後屋だ。身代金五千両の大仕事だぜ」
 これには飛十郎も驚いた。
「ではこれは、三井家の娘か……」
 駿河町の越後屋といえば、江戸城大奥をはじめ諸藩の呉服御用達はおろか、こっそりと金の融通もし大藩の勘定方や家老は、越後屋の主人や番頭には頭があがらぬと言われているほどの大店である。
 延宝一年(1673)三井高利が京都と江戸に呉服屋を開業、それまで年二回の節季掛け売りだったのを『現金掛け値なし』の新商法を行った。これが江戸の町人の気性に合って当たりに当たった。のちに両替業と米売買にも手を広げて、徳川幕府の為替御用を請け負うなど、江戸きっての豪商にのし上がった。
「ううむ」
溜め息をつくと飛十郎は、舟板の上に横たわっている若い娘の、血の気を失った白い顔を眺めた。
「そうか。よし、三井の娘ならば、やりようが変わってくる。よろこべ、きさまは役人には渡さんぞ」
 飛十郎は、男の右手をさらに力を込めてねじ上げた。
「ただし、このままではすまさん。当分のあいだ、悪さの出来ぬ躰にするぞ」
 右腕の肱(ひじ)のあたりで、枯れ枝が折れるような音がした。
「うわっ!」
「きさまも仲間のあとを追って、くさい水でも飲め」
 腕を折られた男の躰が、もんどり打って水に落ちていった。

            了 〈助太刀兵法35・夢淡雪狐仇討−2−につづく〉








このブログへのチップ   100100pts.   [チップとは]

[このブログのチップを見る]
[チップをあげる]

このブログの評価
★★★★★

[このブログの評価を見る]
[この記事を評価する]

◆この記事へのコメント
コメントはありません。

◆コメントを書く

お名前:

URL:

メールアドレス:(このアドレスが直接知られることはありません)

コメント:


くる天
officematsunaga
速報情報は、オリジナル取材ネタも含めてtwitterで無料公開!
twitter

【オフイス・マツナガのブログ】

【CONTACT/連絡先】

カレンダー
<<2014年03月>>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
マーケット情報
by 株価チャート「ストチャ」


FX経済指標


会員制システム
会費は月額1000円で、すべての記事、すべての連載、バックナンバーを見ることができます。また、一般には入手困難な資料等をダウンロードできます。
 購読の規約に関しては、くる天 よくある質問を参考ください。


会費の支払い方・課金の仕方

1:くる天へ会員登録する。
2:ポイントを購入する。
3:記事を購入する 。
 という手順となります。
 初めての課金の申し込み方

返金システムに関して

なお、会費を支払い購読されて「これは課金に値しない」と判断された方には、すみやかに返金に応じます。詳細は、返金システムに関してを参考ください。

入稿後は加筆・修正しません

有料会員制度のサイトという性格と、くる天さんのシステムから、有料記事に関しては入稿後の修正、訂正はきかないようになっています。そのため誤字・脱字・錯誤が含まれる場合があります。誤字・脱字・錯誤等の修正に関しては、別途、指摘させていただく場合があります。誤字・脱字・錯誤  修正情報

皆様へのお願い

 申し込まれたアクセスコード、パスワードを他人に教えたり、譲渡する行為は犯罪行為です。すでに、第三者におしえてしまった!という方は、すみやかにパスワードの変更をお願いします。やむなき場合は、しかるべき対応をさせていただきます。
皆様へのお願い  
当サイト連載コラム
週刊日程表

本日のマーケット

今週の永田町

永田町レポート

本日のオフレコ情報

遠藤顧問の歴史だよ

時代小説発掘(無料公開)

カテゴリ
全て (3356)
2014衆議院選挙当落予想 (12)
無料公開記事 (7)
週間日程表 (154)
選挙 (26)
政治 (86)
経済 (6)
社会 (17)
永田町レポート (67)
今週の永田町 (326)
本日のオフレコ情報 (71)
本日の日経225 (29)
本日のマーケット (1654)
特オチ最前線 (75)
瘋癲老人のレイジーな日々 (25)
扱い注意 (38)
ネットでメシウマ!ウェブマーケティングの虚実 (32)
伊藤博一の事件の眼 (23)
鬼デスクの酔いどれ日記 (44)
アダルトサイト運営奮闘記 (3)
遠藤顧問の歴史だよ (30)
業界記者の覆面レポート (2)
真名のケーザイ探検 (27)
ホッピー・モツ焼・闇市の世界 (4)
ネットでビビるな!ネット音痴の業界人へ (14)
今週のマスコミがびびったネットネタ by 野次馬 (10)
アラカルター久里&占い軍団 (46)
コーヒーブレイク・エクササイズ編 (64)
コーヒーブレイク・ボイスエクササイズ編 (12)
医読同源 (1)
永田町奥の院を新人記者「僕」行く (12)
アンコール (2)
「永田町に棲んだ女たち」2 (13)
「永田町に棲んだ女たち」 (15)
ぼやき三毛猫 (49)
白川司郎訴訟関係 (4)
動画で go !!!! (7)
縄文だよ!!!! (4)
【時代小説発掘】 (204)
2009年 衆議院選挙  最新調査データ (26)
衆議院選挙 選挙区レポート (4)
島田が行く!報道現場の盲点 (2)
誤字・脱字・錯誤  修正情報 (6)
見落とすな!ネット情報・リンク先・保存先 (3)
「永田町に棲んだ女たち・特別番外編」 (8)
雑誌販売動向 (7)
最近の記事
12/06 12:26 江戸浅草物語14「月こそ心よ花こそ心よ」 (無料公開)
11/15 15:30 〈助太刀兵法46〉北斎蛸踊り(8) (無料公開)
10/26 08:49 「本日のマーケット」(FX編)・・・今週は日米の金融政策イベントに注意。
10/26 08:40 「本日のマーケット」(株式編)・・・ 続伸後に日経平均株価が1万9000円台を回復。
10/21 08:39 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円ちょうどの壁を意識。
10/21 08:25 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、方向感の出づらい展開。
10/19 08:33 「本日のマーケット」(FX編)・・・午前11時に発表される中国の一連の経済指標に注目
10/19 08:23 「本日のマーケット」(株式編)・・・午前11時、中国経済の指標しだい。
10/14 08:48 「本日のマーケット」(FX編)・・・昨日に続き中国の経済指標。米9月小売売上高。
10/14 08:31 「本日のマーケット」(株式編)・・・前日の動きが継続し軟調な展開。
10/13 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・ドル円は120円大台を中心に方向感に欠ける動きが当面続きそう
10/13 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・5日線(前週末9日時点で1万8218円)が下値を支え
10/05 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京タイムではドル円やクロス円は押し目買いが優勢
10/05 08:34 「本日のマーケット」(株式編)・・・続伸後、日経平均株価が1万8000円に迫る。
10/04 12:07 江戸浅草物語13「天海僧正の結界が破られる時、魔界の者たちの進撃が始まるのか」 (無料公開)
10/02 08:44 「本日のマーケット」(FX編)・・・米雇用統計を控えた様子見姿勢
10/02 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・週末要因や米雇用統計を前にポジション調整
10/01 08:47 「本日のマーケット」(FX編)・・・9月日銀短観、9月中国製造業購買担当者景気指数(PMI)などが材料。
10/01 08:35 「本日のマーケット」(株式編)・・・欧米株式の上昇を受けて買いが先行後、もみ合い。
09/30 08:52 「本日のマーケット」(FX編)・・・日中は119円後半のもみあい
09/30 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・反発後、上値が重い展開。
09/29 08:55 「本日のマーケット」(FX編)・・・株安・円高パターンの継続はドル高圧力を後退
09/29 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落後に落ち着きどころを探る展開。
09/28 08:46 「本日のマーケット」(FX編)・・・東京時間のドル/円は120円半ばを中心にもみあい。
09/28 08:36 「本日のマーケット」(株式編)・・・手掛かり材料難のなか、もみ合い。
09/25 08:53 「本日のマーケット」(FX編)・・・・朝方、イエレン米連邦準備理事会(FRB)議長が年内利上げが適切との見方を
09/25 08:44 「本日のマーケット」(株式編)・・・引き続き弱含みで推移。直近の安値1万7415円61銭を意識。
09/24 08:37 「本日のマーケット」(FX編)・・・・連休明けの東京時間のドル/円は120円前半を中心にもみ合う展開。
09/24 08:26 「本日のマーケット」(株式編)・・・続落スタート。連休中にNYダウが軟調に推移。
09/20 10:55 〈助太刀兵法45〉北斎蛸踊り(7)(無料公開)
オフイス・マツナガのサイト
[現役雑誌記者によるブログ日記!by オフイス・マツナガ]

[オフイス・マツナガ書籍部]

[今週のキーワードbyオフイス・マツナガ]

[オフイス・マツナガのブログWordPress版]

[週刊日程表(アクセス規制有)]

[調査分析報道・資料倉庫]

【公にされない公の資料を公開】

【その他 オフイス・マツナガweb管理人】

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最近のコメント
風雲 念流剣 七 (無料公開)(鮨廾賚此丙郤圈)
宿志の剣 三 (無料公開)(会話スキル★吉野)
週刊・月間誌 販売動向13年3月6-7日(管理人:kitaoka)
週刊・月間誌 販売動向13年3月6-7日(珈琲好き)
■この国の最大の問題点は「スパイ防止法案」がない点。マスコミだけでなく、政党にも外国勢力が跋扈。(珈琲好き)
イチローストレッチが止まらない!(バーバリー 時計)
■あまりにあっけなく、野田民主党惨敗。あまりにあっけなく、安部自民党大勝利(takeshi.komi)
時代小説発掘 !!!!!告知!!!!!()
〈助太刀兵法21〉 尾道かんざし燈籠 (無料公開)(モンクレール ダウン)
薩摩いろは歌 雌伏編(十一)痛撃(無料公開)  (株式の初心者)
ブログ内検索

RSS
携帯からも見られます!
QRコード対応の携帯で、このコードを読み取ってください。

Copyright (c) 2006 KURUTEN All right reserved