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〈助太刀兵法39〉北斎蛸踊り (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2014年9月28日 11時35分の記事


【時代小説発掘】
〈助太刀兵法39〉北斎蛸踊り
花本龍之介



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 江戸の大川に架かった両国橋の上で、早船飛十郎は行きかう人々を眺めていた。よく晴れた青空の下で、欄干にもたれた飛十郎は、飽きもせず来る人去る人の顔を見ていた。そのうち、傍にいた見知らぬ中年女に声を掛けられる。驚いたことに飛十郎に、自分の父親の用心棒になってくれと言うのだ。助太刀なら受けるが、用心棒はやらないと言って飛十郎はにべもなく断わる。中年女は恐るべき口の悪さでののしると、無理に近くにあるおでん屋台に連れて行く。そして酒には弱い飛十郎は、中年女の話を聞いているうちに思わぬ騒動に巻き込まれることになるのだが……。


【プロフィール】:
尾道市生まれ。第41回池内祥三文学奨励賞受賞。居合道・教士七段。
現在、熱海に居住している。


これまでの作品:

〈助太刀兵法21〉尾道かんざし燈籠
〈助太刀兵法22〉尾道かんざし燈籠(2)
〔助太刀兵法23〕尾道かんざし燈籠 (3)
〔助太刀兵法24〕尾道かんざし燈籠 (4)  
〔助太刀兵法25〕 尾道かんざし燈籠(5)
〔助太刀兵法26〕尾道かんざし燈籠(6)
〔助太刀兵法27〕尾道かんざし燈籠(終章)
〔助太刀兵法28〕室の津綺譚
〔助太刀兵法29〕室の津奇譚(2)
〔助太刀兵法30〕室の津奇譚(終章)
〔助太刀兵法31〕御家人馬鹿囃子
〔助太刀兵法32〕御家人馬鹿囃子(2)
〔助太刀兵法33〕御家人馬鹿囃子(終章)
〈助太刀兵法34〉夢泡雪狐仇討 ゆめのあわゆききつねのあだうち
〔助太刀兵法35〕夢泡雪狐仇討(2)
〈助太刀兵法36〉夢泡雪狐仇討(3) 〔助太刀兵法37〕夢泡雪狐仇討(4)
〈助太刀兵法38〉夢泡雪狐仇討(終章)




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【時代小説発掘】
〈助太刀兵法39〉北斎蛸踊り
花本龍之介 



一 行く人来る人

 両国橋の上を行く人の姿を眺めていると、人間の一生の縮図を見るような気がする。早船飛十郎は、そう思いながら橋の欄干に寄り掛かった。
 見上げると、空が広い。むくむくと湧きあがった入道雲と、ぬけるように晴れた空を、 大川の水がゆったりとした流れに写し出している。
 大きく伸びをした飛十郎のはるか上空を、一羽の鳶が江戸城の方角へむかったほうがいいか、木場のほうへいったほうがいいか迷ったように、いったりきたりしている。
 鳶へちらりと目をやると、飛十郎は無精髭をこすりながら視線を橋の上に戻した。侍が行く、町人が行く、僧侶が行く、その一人一人の表情を飛十郎はしげしげと目で追った。 顔の造作が、面白いほど違う。人の顔の中には、目と鼻と口しか無いのだが、橋の上に一日立って数え切れぬほどの人を見ても、男も女もすべて顔が違う。よくもこれほど違う顔を考えられるものだと感心するほどだ。
「ふうむ……」
 飛十郎は首をひねると、また無精髭をひとこすりした。
 武家の奥方が供を連れて行く、風呂敷包みをかかえた町女房が行く、水茶屋の茶汲み女が髪の簪(かんざし)を直しながら行く、その化粧の濃さが皆ちがうのを飛十郎は興味深く眺めた。
「危ないっ」
 思わず声を出すと、飛十郎はふところ手を袖から抜き出した。
 広小路のほうから歩いてきた老婆が、若い男に突き当たられて、背中の荷物ごと倒れそうになったからだ。よろよろと前のめりになった老婆は、手にしていた杖をついてなんとか倒れずにすんだ。若い男は腰が曲がった老婆には目もくれず、足早やに歩き去った。老婆は悲しげな目で若者を見送って、腰を拳で何度か叩くと、口の中でぶつぶつ呟やきながら橋の上を歩きはじめた。
「いかん。年寄りと子供には、親切にしなくてはいかん」
 怒りの声を上げた飛十郎、若者のあとを追おうとしたが、ごったがえす人込みにはばまれて、すぐに姿を見失った。
「そうですよ、弱いんですもの。老人とちっちゃい子は、大切にしなくちゃいけないわよね」
 話しかけた女の声に、飛十郎はぎょっとして振り返った。しゃがれ声にふさわしく、女はとうに四十は越えたと思える古年増だった。
「ところで、あの老人はどう思います?」
 中年女が指差したのは、反対側の欄干に寄り掛かって、飛十郎と同じように長いあいだ通り過ぎる人たちを眺めていた老爺であった。
「いや。あれは、老人とはいえぬ。がっしりした躰に、あの眼光するどい目くばりは、ただ者とは思えん」
「あれでも、今年めでたく古稀(こき)になったんですよ」
 悪戯っぽい目で、中年女は飛十郎を見た。
「七十歳だと、信じられんな。まれに武芸の奥義にたっした名人に、ああいった老人がいるが……。ならば、町人の姿をしているがあれは武家の隠居であろう」
「ざんねん、大はずれ」
 ぺろりと舌を出すと、中年女は飛十郎と同じ姿勢で欄干に寄り掛かると、ふところ手をした。
 からかわれた飛十郎がむっとすると、中年女は平気な顔で話をつづけた。
「ねえ。お侍さんは、画狂人という名を知ってますか」
「画狂人だと……。おう、知っているぞ」
 飛十郎は、半年ほど前に絵草子屋で買った〔富岳三十六景・神奈川沖波裏富士〕の力強い絵を思い出していた。
「たしか浮世絵の名手、葛飾北斎のことだったな」
「その北斎ですよ。あの老人は」
「北斎か。ふむ、なるほどな」
 顔こそ古稀という年齢にふさわしく皺だらけだったが、背が高くがっしりとした躰つきは、新しく流派を起した剣客が隠居したといっても通る姿である。
「なにごとによらず、一芸に達した名人というものは、すべてあい通じるものと見えるな」
 飛十郎の感心した声を聞いた中年女は、ふんといった顔をすると欄干から身をのり出して、ぺっと川面にむかって唾を吐いた。
「とんでもねえ。あんなやつは、ただの小汚い爺さんですよ。なにしろ、めったに湯屋にもいかないんですから」
 この暴言には飛十郎も、少なからず驚いた。葛飾北斎といえば、十一代将軍徳川家斉が、浅草寺本坊・伝通院におもむいたおり、画壇の天才といわれた谷文晁と共に御前に呼び出され、長巻紙を広げて太筆で藍色の線を一本描き、かねて用意の鶏の足に朱肉を押し、藍の上を歩かせた。家斉はじめ一同が何事なるや、と首をひねったとたんに北斎が口を開き、
「大和の国の、竜田川に紅葉が乱れ散るの図にございます」
 これには将軍家斉も、あっと感嘆の声を上げた。といわれるほどの絵師であった。
 いわば江戸八百八町の名物男といわれている人物を、これほど遠慮なくこきおろす人間に、飛十郎は初めて会った。
「絵の好き嫌いは人それぞれだろうが、それほどののしるとは、おぬしは北斎老人によほどひどいことでもされたのか」
「ああ、されましたねえ。出来ることなら、あのくそ爺い、わっちの手で締め殺したいぐらいさ」
 こやつ、もしかすると頭が変になった女ではないか。という思いが胸をよぎると、飛十郎は半歩うしろへ下がった。
「おや、わっちから身を離しなすったね。ふ、ふふ、あの年寄りより、わっちのほうが狂人だと思いなすったね」
 中年女は、大川の風にぼさぼさに乱れた髪の根に、爪が黒い太い指を差し込むと、かゆそうに顔をしかめて掻きはじめた。
「いや、べつにそういうわけではないが。あの北斎によほどの恨みを持っているな、と思っただけだ。いったい、どんなことをされたのだ」
「ひと口じゃあいえませんねえ。教えてやりたいけど、なんせこっちは四十年も上も、ひどい目にあわされているんだからねえ」
 けろりとした顔で、女は言ってのけた。
「なんだと、それほど長年のあいだ、ひどいことをされたというのか」
 あきれた顔をして、飛十郎は無精髭に手をやった。女はどう見ても四十過ぎである。ということは生れ落ちて、すぐにひどい目にあわされれた、ということになる。


二 出戻り女

「ふむ……。ということは、」
 飛十郎が、あることに思い当たったとき、
「ご浪人、そこな女をくどいても、とうてい無駄じゃぞ。そやつは、ひどいあばずれのうえ、煮炊きと拭き掃除はまるで苦手じゃ。それに大の男嫌いときている。やめとけ、やめとけ」
 橋のむこう側にいた老人が、いつやってきたのか飛十郎のすぐ横に立って、大声で話しかけてきた。傍で見ると、飛十郎と肩が並ぶほど背が高い。筋肉が逞(たくま)しい腕に、五尺あまりの天秤棒の折れさしをもっている。殴られるかと思って、飛十郎が身構えたのを見て、老人は愉快げに大声をあげて笑い出した。
「わは、はは。心配するな、わしは百姓じゃ。お侍を殴りはせん」
「あたりまえだよ。そんなことをされたひにゃ、商談がおじゃんだよ。それに、このご浪人は居合の腕っこきだ。殴るどころか、親爺の腕が、ばっさりと斬り落とされるのがおちさ」
 不服そうに小鼻をふくらませると、中年女は無精に手摺りに寄り掛かったまま老人にくってかかった。
「そいつは困る。手を失ったら、絵が描けんからなあ。くわばら、くわばら」
 怖そうに首をすくめて見せると、老人はにやにやしながら天秤棒を杖がわりに突いて歩きはじめた。
「お栄、今夜のめしはどうする。わしが出前をたのんでおいてやるぞ。天ぷらと鰻のどっちがいい」
 足を止めると、やさしげな顔で中年女に問いかけた。
「天ぷらだよ! きのう鰻をくったばかりじゃないか。馬鹿野郎、食いものの話をするときだけ、やさしそうにしゃがって。邪魔なんだよ、とっとと帰っちまいな」
 お栄と呼ばれた中年女は、腹立たしげな声を出すと、犬でも追い払うような手付きをした。
「そうかい。じゃ、先に帰って天ぷらと一緒に待っているからな。ふ、ふふ、お栄早く帰るんだよ」
 ふくみ笑いをしながら前を向いたとたん、足早やに歩いてきた若者が突き当りそうになった。危ないと飛十郎が思ったとき、天秤棒を持った太い腕が若者を突き飛ばした。
「なにを、しゃがる!」
 怒鳴り声を上げた若者は、怒りで赤くなった顔で老人のあとを追おうとしたが、二、三歩行っただけで、あきらめたようにすごすごと引き返していった。
「なにが、ふ、ふふ、だよ。古稀がきいてあきれるよ。年寄りは、年寄りらしくしろってんだよ。もう少し爺いらしくすりゃあ、親身に面倒みてやろうってもんだ」
 お栄が、いまいましげに遠去かっていく老人のほうを見た。
「いや、それにしても驚くほど元気なご老人だな。ということは、おぬしは葛飾北斎の娘ごか」
 飛十郎は、しげしげとお栄の顔を見た。
「ふん、娘ごってたいそうな、もんじゃないけどさ。画狂人北斎の娘にゃ違いねえよ。出戻り女のお栄ってんだ。おぼえて、おいてくんな」


 
三 赤富士

 大川の流れを見おろしながら、面映ゆそうにお栄は初めて自分の名を言った。目の下を屋形船の大きな板屋根が、佃島のほうにむかって滑るように動いていく。船が両国橋をくぐり抜けたとたん、わっと三味線や太鼓の音が鳴りはじめた。
「そうか。名のられたら、こっちも名を言わねばならんな。おれは、早船」
「飛十郎さんだろ。とうに知ってるよ。助太刀人が、仕事だってこともさ」
 お栄は低い鼻をうごめかしながら、得意そうに飛十郎を見た。色が黒いのは関東女の特徴の一つだが、それにしても見事な黒さだ。太い鼻柱と分厚い唇は父親の北斎ゆずりだろうが、げじげじ眉毛と金壺眼はどうやら母親ゆずりのようだ。
「そういえば、居合の腕がどうのこうのと言っていたが。おれのことを、なぜ知っている」
 吹きつける風が、お栄の赤茶けた癖っ毛を、かき乱して過ぎていった。その髪を撫でつけようともせず、お栄は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ふふん……。お前さんが、本所松阪町の安達屋とつながっていることなんざ。気のきいた江戸っ子なら、誰でも知っていることだよ」
「なるほど。安達屋へいって、藤兵衛からおれのことを聞いたわけか。で、おれに何か用か」
「さっきも言ったろ。商談だよ。けど、そのまえに早船さん、一つ確かめたいことがあるんだ。うちの親爺の絵は、好きかい」
 くるりと振り返って、背中を橋の欄干にあずけると、お栄はひどく真剣な表情で飛十郎の目を覗き込んだ。
「こいつは、今度の一件にとってひどく重要なことなんだ。性根をすえて返答をしてくんな」
「うむ。そうだな……」
 無精髭をこすりながら、飛十郎は江戸湾にむかって、ゆっくりと落ちていく大きな夕陽を眺めた。大川の表面が、きらきらと金色に輝いて見える。その川面を上り下りの数え切れないほどの舟が、滑るように動いていく。
「じれったいねえ。わっちは気が短いんだ。嫌いか好きか、言えばいいんだよ」
 腹立たしげに、お栄は両国橋の手摺りを拳でどんと叩いた。飛十郎を殴りかねない勢いだった。
「好きだ。北斎の絵はいい」
「へええ。どの絵が好きなんだい」
 さしてうれしくもない顔で、お栄はためすように聞いた。
「やはり、〔富岳三十六景〕だな」
「そうかい。じゃあ聞くけど、あの三十六枚揃いの中では、どの絵が気に入ってるんだよ」
 手元にあるのは神奈川沖波裏だけだったが、絵草紙屋の店先で、ほとんどの富岳図は目にしていた。飛十郎は、夕焼け空に目をやった。さっきまで金色だった雲が、すっかり真っ赤に染まっている。
「〔凱風快晴〕だな。一番好きなのは」
「へえ、赤富士がねえ。見かけ通り変わってるよ。おまえさんは」
「そうか。おれは変わってるか」
 うれしそうに、飛十郎はにやりと笑った。
「ああ、そうさ。あの絵は、ちっとも売れなかったんだ。だけど、」
 言葉を止めると。お栄は見直したような顔で、飛十郎をじろじろ眺めた。
「だけど、なんだ」
「少なくとも、絵を見る目は持っているようだね。旦那は」
 呼び方が、おまえさんから旦那に変わった。心に感じたままを、率直に口に出す女らしい。
「あの赤富士は、親爺が一等気に入ってる出来物(できぶつ)なのさ」


 
四 写し絵

 夕陽に照らされた両国橋の上を、家路を急ぐ町女房や物売りや職人たちが、珍しいものでも見るように二人を見ながら通り過ぎる。
 色が変わった黒紋付きの着物に、よれよれの古袴の浪人者と、盲縞の木綿の単衣(ひとえ)を着た中年女の取り合わせだ。よほどおかしいのか、口に手を当てて、くすくす笑いながら小走りに駆け去る町娘もいる。
「ばか! なにを笑うんだい。てめえの面のほうが、よっぽどおかしいやい。この、おかちめんこの、鼻ぺちゃの、お多福おんなが! おとといきゃがれ、すっとこどっこい」
 お栄の見事な毒舌啖呵に、飛十郎は苦笑いをしながら頭をかいた。
「ふん、てめえだって長屋住いのくせして、同じ長屋暮らしの貧乏人を小ばかにして笑うなんざ太え了見(りょうけん)だよ。ねえ、旦那」
 長屋住い、というお栄の言葉に反応して、飛十郎の脳裏に北斎の一枚の絵が浮かび上がってきた。
「忘れていたが、もう一枚好きな絵があった。〔深川万年橋下〕だ」
 お栄が見そこなったかな、という顔で首をひねった。
「けど、ありゃあ何のへんてつもない平凡な出来だよ。あんな絵の、どこがいいのかねえ」
「は、はは、あの絵はな、お栄。おれの部屋から毎日眺めている、そっくりそのままの景色なんだ」
「えっ。じゃ、旦那の住いってのは、小名木川の川っぺりですかい」
「そうだ。海辺大工町の裏長屋が、おれの家だ」
「なら、あの絵が好きなわけだ。馴染みってわけだ」
「まあ、そうだな」
 お栄は腕を組んだまま、欄干に肘をつくと目を細めるようにして新大橋のほうを見た。万年橋がある小名木川は、新大橋を越した先にある。
「もう五、六年も前になるかねえ。親爺のお供で、よくあのあたりにゃ絵を写しに行ったもんだよ」
 遠くを見るような眼差しをすると、お栄はしんみりした声を出した。
「絵を写す、だと。それは、どういう意味だ」
 耳なれない言葉である。
「てめえの目で見た景色を、筆を使って紙に写す作業をいうんですよ」
「ふむ、わかった。それであの絵は、あれほど真にせまっていたのか。橋を渡る人も、その下の荷舟と竿をあやつる船頭も、岩の上で釣りをする男も、大川のむこうに見える江戸の町や火の見櫓も、おれが毎日目にする風景と、まったく違わないのに驚いたものだが」「そりゃそうですよ。あれを仕上げるのに、親爺は二十回近く海辺大工町へ通いましたからねえ」
「なんと、絵一枚を仕上げるために、二十回もいったというのか」
「そりゃ半端でなく、しつこくて、しぶとい爺さんだからね。気がすむまでは、二十回だろうと三十回だろうと通いつめるんだ。まったく、あきれるよ」
 二の腕を垢がたまった爪で、ぼりぼり掻きながらお栄はぼやいた。
「いや。そうでなけりゃ、あれほど素晴らしい富士の絵は描けないだろうなあ」
 素直な飛十郎の感想に、初めてうれしそうにお栄は笑った。
「だろう。やっぱり、餅屋は餅屋さ。ねえ旦那」
 お栄のような造作の悪い顔でも、笑えばなんとなく愛嬌だ出るから不思議だ。
――女は愛嬌、というのは本当だな……
 ちらりとお栄を見た飛十郎は、無精髭をこすりながら思った。


五 地声

「ようし、気に入った。わっちは旦那に、北斎野郎を助けてもらうことにしたよ」
「なに。北斎を助けるだと。いったい、どういうわけだ」
 お栄と肩を並べて、大川の下流を眺めていた飛十郎が、驚いて声をあげた。
「あいつ、誰かに命を狙われてるんだよ。あんな、くそ爺いでも、とりあえず父親だからな。見殺しにゃ出来ないじゃないか」
 画狂人・葛飾北斎といえば、将軍家斉に拝謁して御前で絵を描いたほどの当代一流の絵師である。人気でも江戸の町人たちに、抜群の喝采を博していた。
「聞かなくては、わからないものだな。葛飾北斎を殺そうとしている者がいるとはな」
「まあ、人間長く生きてりゃ、いろんなことがあるんだ。誰かに恨まれることもあるさ」 若者を突き飛ばしておいて、憎く憎くしげに睨みつけた北斎の顔を、飛十郎は思い浮かべていた。
「わけは、旦那にくわしく話すよ。だけど、こんなとこで立ち話も色気がないじゃないか。この先の一つ目橋のたもとに、ちょっとうまいおでん屋が出てるんだ。一杯やりながら、聞いてもらおうじゃないか」
 飛十郎は、渋い顔をした。
――この女のほうが、よっぽど色気がない……
 それにお栄なんかと呑むより、一人で呑んだほうが酒がうまいに決まっている。
「ちょと、まて。お栄」
 袖から抜き出した指で、ごしごし髭をこすりながら、飛十郎は思い切って言った。
「おれの商売は助太刀人だ。用心棒はできんぞ」
 たちまち、お栄の眉が吊りあがった。
「べらぼうめっ。なにをいってやがるんだい。困った人のために剣を振るのが、助太刀じゃないか。早船飛十郎の居合は、人助けの剣だって、安達屋がいってたのは、ありゃ嘘かい。ふざけんじゃないよ!」
 お栄の金切り声に、両国橋を行く人たちの足が止まった。
「おい。あまり大声を出すな」
 飛十郎は、閉口して空をあおいだ。綿をちぎって投げたような夕焼け雲の横で、早くも一番星が明るく輝いている。
「地声だよっ。いいから、黙ってついてきな」
 見物している町女房を、ぐいと脇へ押しやると、お栄は弥次馬たちを睨みつけながら歩き出した。
「どきな。見世物じゃないんだよ。邪魔しゃあがると、踏み殺すよ!」
「ううむ……」
 こいつは、まいった。というように頭を掻くと、それでも飛十郎はお栄の後をついて、ぶらぶらと歩きはじめた。


六 引っ越し魔

 一つ目橋は、名の通り大川から見て、竪川に架けられた一番目の橋であった。飛十郎が橋のたもとにある、おでん屋台に着いた時には、すでにお栄は茶碗酒を景気よく、ぐいぐいあおっていた。
 嫌な予感を覚えながら、飛十郎はお栄のとなりの空き樽に腰をおろした。
「おやじ。おれも燗酒だ」
「遅いねえ。遠慮なく、先にやらしてもらってるよ」
 早くも空にした錫(すず)の銚釐(ちろり)を茶碗の上にかざして、最後の一滴のしずくを入れようとしているお栄から、おでんが山盛りになっている大皿に目をやって飛十郎は、ぎくりとした。蛸足、烏賊、海老、帆立と、飛十郎が日頃喰いなれない高級なおでん種ばかりだった。
「旦那は、めっぽう酒が強いんだってね」
 串に刺した蛸の太い足を丈夫そうな歯で噛みちぎると、お栄は満足げにげっぷをした。「いや。それほど強くはない。好きなだけだ」
「謙遜するこたあないよ。好きこそ上手の初めなり、ていうじゃあないか」
――こやつ、絵と酒を間違えてるんじゃないか。それにしても高い品ばかり注文しおって……
 苦い顔をしながら、飛十郎は運ばれてきた茶碗酒を喉に流し込んだ。
「ご浪人さま、おでんは何を差しあげましょうか」
 おでん屋の声に、飛十郎は四角なおでん鍋の中を覗き込んだ。
「そうだな。玉子と、厚揚げと、ちくわぶと、蒟蒻と、はんぺんだ。そいつを、たのむ」
「ちょいと旦那。けちな物ばかし頼んでないで、わっちのように豪勢なのを喰いなよ。ちくわぶ、なんか人間の食べるもんじゃないよ」
 酒に濡れた分厚い唇を、手の甲でぐいと拭うと、お栄は小馬鹿にしたような声を出した。
「よけいなお世話だ。人の喰えないものが、おでん鍋にあるものか。おれは昔から、おでんの中では、ちくわぶが一番好きなんだ」
「へええ、噂通り風変りな浪人だよ。それじゃ、お好きなものを何でもお喰いなよ」
「あたりまえだ。おれが自分の口に入れるものを、きさまの指図はうけん」
 ついに飛十郎は、腹にすえかねた声を出した。
「おい、おやじ。ちくわぶを、あと二つ追加だ!」
 おでん屋がうれしそうな顔で、追加のちくわぶを皿に盛り上げた。銚釐から茶碗へ酒をつぐと、ひと口喉へ流し込む。じんわりと腹に浸み入る酒の味に、飛十郎は思わずうまいと声をあげそうになった。おでん屋なぞに、さほどいい酒が置いてあるはずがないのに、屋台の酒は妙にうまいから不思議だ。目の前に置かれた皿から、ちくわぶを箸ではさんで噛みしめる。
「うまい。やはり、おでんの中では、これが一番だな」
 わざとらしい声で、飛十郎がつぶやいた。
「わかりましたよ。旦那、わっちが悪うございましたよ。人さまの好物にあれこれ、けちをつけてごめんなさい」
 ここで飛十郎を怒らせてはまずいと判断したのか、お栄は屋台の置き板の上に手をついて深々と頭を下げた。
「そうか。いや、あやまればそれでいい」
 そこは飛十郎、いつまでもうじうじと根に持つ性格ではない。あっさりしたものだ。はんぺんを口に入れて、これもいけるぞ。などと呟やいている。
「じつはね、旦那。北斎爺いには、孫がいるんですよ。えらく不出来な孫で、こいつが今度の大騒動の発端なんでさあ」
「ほう、北斎どのには孫がいるのか」
 口に運びかけた茶碗の手を止めて、お栄の顔を見た。
「わっちの姉の、ひとり息子ですがね。この悪がきのために、これまで親爺はさんざんっぱら悩まされてるんですよ。あんなに引っ越しをしたのも、ひとつはそのせいかもしれませんねえ」 
 北斎の引っ越し好きの噂は、飛十郎も耳にしたことがある。
「これまでに、どのくらい越したんだ」
「そうさねえ。今年になって、五回、いや六回したかな」
 これには、さすがの飛十郎もあきれた。
「なんだと。まだ五月になったばかりではないか」
「そんなことをいったって、爺いは気にいらないとなると、待ったなしなんだ。これまでに、もう七十回は引っ越しをしてるんじゃないかな」
「なんと、七十回もか。奇人だとは聞いていたが……」
 箸を置いて腕を組むと、飛十郎は思わず溜め息をもらした。
「なんせ、一生のうちに百回越すのが夢だってんだから、あきれ返るじゃありませんか。ちったあ家族の迷惑を考えろってんだ」
 いまいましげに茶碗酒をあおると、お栄は帆立を口に放り込んだ。
「一番短い引っ越しは、何日だった」
 好奇心に満ちた顔で、飛十郎が聞いた。
「住んでからかい。三日というのがあったよ」
「三日!」
 唖然として、飛十郎は声を上げた。
「そうだよ。大家の声と顔つきが、気に入らないといっていたな」
「ふうむ。そいつは大変だなあ」
「たまったもんじゃないよ。けどねえ、引っ越しなんざ小さなこった。あの爺いと暮らしてりゃ、ほんとの大変ってのがどんなことか、骨身にしみてわかるってものよ」
「そういうものか」
「ああ、なにしろ万年床の蒲団から首だけ出して、夜明けから暗くなるまで休みなしに絵筆を動かしているんだ。朝めしも、晩めしも、寝そべったまま喰らうという騒ぎさ。蒲団から出るのは小便と糞をする時だけだってんだから、ありゃ本物の絵描き馬鹿だよ」
 酒を呑むのも、おでんを喰うのも忘れて、飛十郎は夕空を見上げた。空の高みには早くもいくつか星の煌(きら)めきが見えるが、家々の屋根のあたりはまだ暮れ残した明るさが見えている。
「なるほど……。絵描き馬鹿か」
 人間は、寝食を忘れて一芸に打ち込む時期がある。それを他人は、役者馬鹿、相撲馬鹿、料理馬鹿、茶の湯馬鹿、釣り馬鹿などと呼んで笑う。
――そういえば、おれも居合馬鹿と呼ばれたことがあったな……
 若い時代、居合に熱中して朝から晩まで剣を抜いていたのを、飛十郎はほろにがく思い出していた。
――そのあげく、わかったのは居合の剣は技ではなく、心がすべてということだけだった……


七 悪い虫

「なにを黙り込んでるんですよう、旦那」
 お栄の声に、われに返ったように飛十郎は、茶碗を取りあげて酒を喉に流し込んだ。
「あ、蝙蝠だ。もう夏なんだねえ」
 屋台の横の柳の木を見上げると、夕闇がせまった江戸の空に蝙蝠が二、三匹、ひらひらと飛びかっているのが見えた。一つ目橋に目をやると、家路をたどる人影がさっきより数を増したように見える。駕籠屋が足を止めて、屋台の親爺から火を借りて先棒にぶら下げた提灯に明かりをともした。その傍を風車を手にした子供が母親に手を引かれて、むずかりながら橋を渡っていく。
 しみじみとした人の日常に、妙に心なつかしくなった飛十郎は、銚釐を持ち上げてお栄に向けた。
「どうだ、お栄。一杯やらんか」
「おや、旦那。すいませんねえ」
 指で乱れたおくれ毛を軽く押さえると、お栄はうれしそうに茶碗で酒を受けた。
「ところで、さっき北斎どのの命が狙われているといったが。その出来そこないの孫と、なにか関わりがあるのか」
 おでん屋の親爺に目顔で、銚釐のおかわりを頼むと飛十郎はお栄を見た。
「そうさ。あのくそったれ孫の孝太郎のおかげで、わっちは大迷惑。北斎爺いなんぞは、もう何回も命を落しかけてるんだから」
 どうやら北斎の孫の名は、孝太郎のようだ。
「その孝太郎とやらは、年はいくつで、どのような男なんだ」
 親爺が持ってきた新しい銚釐から、熱い酒を自分とお栄の茶碗にそそぐと、飛十郎は無精髭をひとこすりした。お栄のあまりの柄の悪さに、この話には乗らぬと思い決めていたのだが、このままでは相手の術策にはまって、騒ぎに巻き込まれそうな気がしていた。
「いま十七歳。親に孝行してくれるように孝太郎と名付けたらしいが、名は体をあらわすどころか、とんでもない厄介者に育っちまった。ありゃあ、親の因果が子に報いたねえ」 呑むほどに舌の滑りがよくなるのか、お栄は茶碗酒をあおりながら油紙に火がついたようにしゃべり出した。
「ふむ。人相(かお)はどうだ。悪いのか」
 にやにや笑いながら、飛十郎も酒を口にふくんだ。
「そいつが大違い、いいんですよう。誰が見ても一目で好意を持つってやつで。色白で、まつ毛が長くて、指が細くて、おとなしやか。だから皆んな孝太郎のやつに騙されちまうんですよう」
「ふ、ふふ……。そうか」
 鼻息荒くののしるお栄の剣幕に、こやつ甥の孝太郎にかなりな金額を、せびり取られたに違いない。と飛十郎は思っていた。
「まったく、あのでこすけ野郎、赤ん坊の時にしめ殺しちまえばよかったよ。おしめまで取り替えてやった、わっちを騙しにかけるんだからね。罰当たりったら、ありゃしないよ」
「十七歳になるまで、そやつは何をしていたのだ。親のすねかじりか」
 武家の嫡男か大店の跡とり息子のほかは、寺子屋を終える十歳頃から、ほとんどの町人の子供は働きに出される時代である。
「とんでもない。ちゃんと奉公に出したさ。十一の時に鏡師の家に修業に出たのを手はじめに、貸本屋の手伝いをしていたかと思えば、彫り師の見習いに、絵師の内弟子なっちまう。あげくの果てに、兄弟子と大喧嘩して飛び出す。ぐれ始めがそれで、あとは呑む打つ買うの三拍子さ。あ、ははは!」
 指を折りながら孝太郎の仕事を数えていたお栄が、いきなり狂ったように笑い出した。「なにが、そんなにおかしい」
「これが笑わずにいられるかってんだ。孝太郎がたどった十七年の人生は、そっくりそのまま北斎爺いがやったことと同じなんだよ。ああ、腹が痛い」
 目に泪を浮かべて笑っていたお栄が、苦しそうに胃のあたりを押さえた。
「なに。それでは鏡師にはじまり、絵師の弟子になったというのは、北斎どのがたどった道と同じだというのか」
 あまりに驚きに、飛十郎は口に入れかけた、ちくわぶを皿に戻した。
「そうさ。北斎は、鏡師の息子に生まれたんだ。それが家業を嫌って、家を飛び出したんだ。あとは孝太郎がやったことと、そっくり同じさ」
「ふうむ……。事実だとすれば、不思議なことだな」
 溜め息をつくと、飛十郎は夜空を見上げた。母に背おわれた赤児が思わず手を伸ばすほど、星が近く見える。
「だからさ。爺いの因果が孫に報(むく)いたんだよ。ざまあないよ」
 星空に見入った飛十郎の視線の先で、星が一つ流れて消えた。
「けどねえ。孫とちがって、北斎爺いは死ぬまで絵筆を離さなかったてことだ。もっとも、まだくたばっちゃいねえけどな」
 男まさりに、ふところ手になると、お栄は茶碗酒をひと息で呑み乾した。
「なるほど。そのたった一つの小さな違いが、最後には巨大な差のなるということだな。しかし、孫どのはまだ十七歳だ。その気になれば、なんでも出来る年頃ではないか。いくらでも取り返しがつくだろう」
「さあ、ねえ……。普通なら出直しもきくだろうが、なにしろ孝太郎には、えらくたちの悪い虫がついているからねえ」
 首をかしげると、お栄は顔をしかめて言った。
「悪い虫だと。岡場所の女とでも、くっついているのか」


八 厄病神

「岡場所の女郎なら、まだ始末のしょうがあるさ。旦那、相手は男なんですよう」
「なんだと。では孝太郎は、衆道(しゅうどう)にはまっているというのか」
 衆道とは、陰間とも男色とも言って、つまりは男と男が契りを交わすことをいう。
「さてね。孝太郎が男と色の道に落ちているかどうかまでは、わっちも知りませんがね」 衆道と聞いても、お栄は眉一つ動かすことなく、平然と飛十郎の銚釐を取り上げて自分の茶碗へそそぎ入れた。
 色気づいた若者の頃から、必要があれば吉原の小見世の遊女を買うか、岡場所の女郎を買ってきた飛十郎には、素人女との色恋沙汰や男同志が裸になって抱き合うことなど、とんと不案内であった。
「ただ、これだけはいえまさあ。十三の頃に知り合った狂い犬の兆吉のせいで、孝太郎が悪の道に首までどっぷりと漬かっちまってることだけはね」
「ほほう。孝太郎の相手は、狂い犬の兆吉というのか。いかにも悪党らしい名だな」
「ねえ旦那。爺いに聞いたとこじゃ、兆ってのは、きざしとか、しるしの意味じゃないですか。じゃあ兆吉ってのは、悪くない名でござんすよね」
「そうだな。その名をひっくり返せば、吉兆だからな。悪くないどころか、えらく縁起のいい名まえだぞ」 
「へ、そうでござんしょう。吉兆ってのは、吉事の前ぶれって意味だそうじゃないですか。ところが兆吉ってのは、とんだ厄病神だ。いや、死神だよ。孝太郎のやつを、地獄に落そうって男だからね。おかしいじゃありませんか」
「あまりいい名を付けると、逆目になるというからな」
 そう答えながら、酒をあおるごとに目がすわってくるお栄に、こやつからみ酒かもしれぬ。と思って、飛十郎は内心、舌打ちをしていた。
「旦那、知ってるかい。兆域(ちょういき)ってのはさあ、墓場のことなんだってね。兆吉の心の中には、冷たい墓石がずらりと並んでいるに違いないね」
「兆域か。おぬしは、むずかしい言葉をよく知っているな」
「なあに。爺いが、滝沢馬琴てえ読本作者の挿絵を、長いこと描いていたからねえ。手伝ってたわっちも、自然と小むずかしい漢語が頭に入っちまったんですよう」
 曲亭馬琴の、〔南総里見八犬伝〕や〔椿説弓張月〕は庶民におおいに読まれ、書物嫌いな飛十郎でさえも本をめくったことがあった。特に馬琴と北斎が手を組んで出した、〔新編水滸伝〕は宋末を舞台にした挿絵が実に見事だったことが記憶に残っている。
「そういえば、最近は馬琴の読本に北斎どのは絵を添えていないようだが」
 腕組みをしたお栄が、ふんと鼻を鳴らした。
「そいつが、お笑い草だよ。あの二人、くだらねえことで大喧嘩をしてさあ。今じゃ、道で会ってもそっぽを向いて、口もきかねえありさまさ」
「ふむ。そいつは、残念だな。北斎どのの挿絵があればこそ、滝沢馬琴の名文も生きるというのになあ。その喧嘩とやらの、原因はなんだ? おぬしは知っているのか」
「そりゃ知ってますよ。喧嘩をおっぱじめたとき、傍にいましたからねえ。読本の中で大暴れする豪傑の立ち回りの場面で、その主人公に落ちていた草鞋を口にくわえさえてくれ。と馬琴先生がおっしゃったんですよう」
「ほう、おもしろい。いい絵になりそうではないか」
「でしょ。わっちも、そう思いましたよ。ところが、うちの爺いは愛想もなしに、そいつをはねつけたんでさあ。かりにも天下に名の知れた豪傑が、道に落っこちて泥だらけになった、汚ねえ草鞋なんぞを口にくわえて敵と闘うなんて、べらぼうなことがあるけえ。おれは描かねえよ! そう啖呵をきって、持っていた絵筆を壁にたたきつけたんだ」
「ほほう。相手は、天下の滝沢馬琴だ。そいつは、見ものだったろうな」
 うれしげに無精髭をひとこすりすると、飛十郎は茶碗を取り上げて、がぶりと呑んだ。「なんたって、自分の名に曲亭とつけるほどの、へそ曲がりだよ。ただで引っ込むわけがねえさ」
「そうだろう、そうだろう。で、曲亭先生は、そのあと、どう出た」
 ふところから手を出すと、飛十郎は揉み手をするように、両の手をこすり合わせた。
「なにを、ぬかす! 泥まみれの草履をくわえさせるには、そうさせる必然的な意味があるのだ。それも理解できずに、きさまはこれまでおれの本の挿絵を描いてきたのか。馬鹿め! きさま程度の三流町絵師に、この馬琴の絵を描かせてきたのは、一生の不覚だ。てめえなんぞにゃ、もう二度とおれの本の挿絵は描かさん」
「ふむふむ、なかなか威勢のいい啖呵だ。さすがは一流の読本作者だけあるな。お栄、それから、どうなった」
「それだけだよ。馬琴先生、よほど頭に血がのぼったのか、下駄を履き忘れて裸足のまま表へ飛び出していったよ」
 面白くもない顔で、お栄は言った。
「なんと、下駄を忘れていったか。下駄だとて安くはないぞ。あとで、取りにきたろうな」
「顔も見せないよ。あの先生は、無名で喰えない頃に、下駄屋に養子で入った人だからね。売るほど、あるんじゃないかい」
「ほほう。今や天下に文名高い滝沢馬琴先生も、若い頃にはかなり苦労したようだな。小糠二合あれば入り婿にいくな、という諺(ことわざ)があるほどだからな」
「そうさ。そのうえ婿入り先の下駄屋の女房というのが、けちん坊で、がみがみ屋で、げじげじ眉毛の焼きもちやき、ときている。馬琴先生それで、ひどいへそ曲がりになっちまったんだね」
 ひとりで頷ずくと、お栄は意地悪げな薄笑いを顔に浮かべた。

               了 〈助太刀兵法40・北斎蛸踊り―2―につづく〉








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