人生とはすでに決まっているのか、それとも決まっていないのか? | |
[つぶやき] | |
2013年8月6日 0時8分の記事 | |
今生の私達の人生は、すでに決まっているものなのか、それとも決まっていなくて自由に選択できるものなのか、どちらなのでしょうか? しかし、このすでに決まっているとか、決まっていないという言い方、考え方の中に、我々特有の時間軸に拘束された考え方が内在していると感じます。 それは、我々が過去世から今世、来世へと順々に生きていくのと同様に(これ自体そうではないとされています。すべてが同時に起きているのが真相です)、我々も誕生から徐々に成長して、子供から大人になり、学校で勉強して、成人して就職して、結婚して、・・・といったように、物事が流れるように進んでいきます。 しかし、いろんな過去世が同時並行的に存在しているのと同様に、我々の今生での人生も、いろんなバージョンの人生が同時並行的に存在し、それらいくつかのバージョンの人生のうちからたった一つを「選び出して」我々は今この瞬間を生きているという側面があります。
ですから、人生とは常に、「今」を基準とした選択の連続なわけです。 あらかじめたった一つの人生が決まっているわけではなく。 いくつかの選択を用意してあの世からこの世にやってきている可能性はあります。 ですが、それは大まかなものであって、細部は「今」を基準として、我々は瞬間瞬間に選択しつつ生きていると感じられるのです。 あらかじめすべてきめられた人生を歩んでいるのではなくて。 だから、人生とは常にエキサイティングな側面があります。 しかも、どうするかの選択権は常に自分自身にあります。 様々なパターンの人生が、この今生においてもあり得ます。 10歳くらいで病気で亡くなるパターン。 Aさんではなく、Bさんと結婚して生きるパターン 今の職業ではなく、別の職業をしているパターン。 等々。 これらはすべて、リアルに、同時並行的に存在していて、そのうちのたった一つを、我々は選択していることになります。 しかも、それぞれのパターンの人生に生きる私達は、別のパターンに生きる私達との間で、エネルギー的なつながりを持っているとされています。 互いに影響を与えたり、与えられたりしているのです。 ですから、別のパターンの蓋然的現実において10歳で私達がなくなったとします。 すると、その10歳の体に宿っていた生命エネルギーは、もはやその蓋然的現実では不要となり、そのエネルギーは他のパターン、例えば我々の人生に流れ込んできます。 あるいは、それぞれのパターンの人生において現れる人間模様などは、形を変えて、他の蓋然的現実の中に表れてくることがあると言います。 例えば、Aという蓋然的現実で車のセールスと話したとします。 するとそれは、例えばBという蓋然的現実で、車のセールスは医師として登場し、風邪をこじらせた時にたまたま行った救急病院で医師と患者という形で再会する可能性があります。 これはたとえですが、例えばこういった形で、ある蓋然的現実が、他の蓋然的現実との間で複雑に交差して互いに影響し合っているのだということが言いたいわけです。 でも、いかに事情が複雑であっても、大切なのは「今ここ」にフォーカスすることです。 今ここの現実から、すべてを変えていけるからです。 それを学ぶために、我々は現実世界に生きている、そう感じる今日この頃です。 皆様、応援の方、よろしくお願いします ↓ポチッとお願いします(^0^)/) Some rights reserved by Living in Monrovia 最終編集日時:2014年7月31日 18時29分 | |
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