悟りを超えたところにあるもの | |
2014年3月13日 22時10分の記事 | |
今回は、自我の話をしたいと思います。 自我と言っても、人によっていろんな考えがあるかもしれませんが、ここでいう自我とは、「今自分であると感じている意識」のことを言うとお考えください。 私たちは普段、自分を意識したことはあるでしょうか? 今自分であると感じている自分です。 これは、空気のようにあって当たり前のものであって、それについて考えることはしませんよね。 この点、悟りとか覚醒によって、この自分であると感じている自分がなくなる経験をするかもしれません。
シルバーバーチは以前、第二の死についての話をしたことがありました。 我々がよく知っている肉体の死は第一の死です。 死んで、肉体という衣を脱ぎ捨てて、非物質界に行きます。 ところが、シルバーバーチによれば、人間の死はこれだけではなくて、第二の死があるというのです。 それが、自我の死です。 死んで、どのくらいの意識の上での期間が経ったあとかはわかりませんが、ある時、今我々が自分であるという自分を脱ぎ捨てて、より大きな「自分」として生き始めるようになると言います。 こういったものは、地球上にいても、一瞬、覚醒だとか悟りだとかといった形で体験はできるものの、それほど強固かつ持続性のあるものではなく、やがては覚醒した意識から通常の意識に戻って日常生活を始めます。 その時の覚醒した意識状態が、ずっと続いている状態、これが第二の死なのかもしれません。 我々はどこか、変化し続ける存在でありながら変化を恐れるところがあったり、あるいは自分がなくなるということに漠然とした恐怖心を持ったりします。 死んで自分がなくなるのだとすれば、それはものすごい恐怖なのかもしれません。 しかし、多くの臨死体験や、死後の霊界通信などの報告にもあるように、死んでも我々が今自分であると感じている自分(自我)は、継続します。 継続して、地球圏や霊界の旅を続けます。 そのようにして、何事もなかったかのような生活をし続けているうちに、ある時、自我の死が訪れるのです。 別の言い方をすれば、大いなる「自分」への帰還、融合、吸収であり、新たなる「自分」として生き始める瞬間です。 でも、シルバーバーチ曰く、どんなに大霊(大いなる「自分」)と融合したとしても、自我は決してなくならないと言います。 ただそれにフォーカスしなくなるだけです。 したがって、存在とはある意味、永遠の今に生きる存在であって、それは形を変え、フォーカスするポイントを変えて、常にどこかにあり続けていくものだということが言えると思います。 自我があっての我々の生活なんだということをもっと自覚していくべきではないかなと最近感じます。 江原啓之さんの指導霊である昌清霊が、地球上の人生とは所詮、イモ洗いのようなものであって、自我にそれほどレベルの差はもともとないんだよという話をされたことがあったということを本で読んだことがあります。 私は非常に的を得ているなと感じます。 今できることで最善を尽くしていく、そこにこの世で生きる意味がある気がします。 与えられた環境で、限りある命に気付き、命が与えられていることに感謝し、人々に助けられ、また時には自分が助けながらお互いに協力して生活しているこの世の真相。 それは、まさに自我の産物なわけです。 しかし、それら自我の体験はやがて全体の「自分」に融合され、貴重な経験として生き続けていきます。 セスは「パワーポイントは現在にある」と言います。 これはまさに、我々の知るところの「今」に意識を向けつつ、日々の生活を大切にしなさいという意味でもあります。 日々の生活の中で得られる体験は、悟りの連続でもあります。 悟りとは、一回きりのものではなくて、自我の体験によって支えられた第二の死に至るプロセスだからです。 そのプロセスの一部を、人生という巨大なタペストリーの中に織り込んでいるまさに最中が、「今ここ」の人生だということになります。 Some rights reserved by Joelk75 | |
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