存在は、意識も、時間も超えたところにある | |
2014年4月7日 21時21分の記事 | |
>imimiさん、いつも興味深くブログ拝見しています。 Fさんのように、自分の過去世がガイドになることもあるようですが、一方で、過去も現在も未来も同時に存在する、とセスは語っていて、ごく単純に考えると矛盾していなくもないように感じられます。 過去世がガイドになることもあるとすれば、現在の自分も(無意識部分では?)未来世のガイドになっていたりするのかな?と思ってしまうのですが、この辺り、imimiさんはどのように解釈されていますか? 前々から気になっていましたので、もしよろしければお願いします。 (素朴な疑問であって、決して疑う訳ではありません。)
コメントありがとうございます。 それは、時間というものに対するとらえ方に誤解があるためです。 例えるならば、我々は今生きているすべての存在がビルディングの同じ階の上に存在していると考えています。 したがって、たとえばビルの1階が2014年だとすると、地下1階はある人物の過去世(たとえば江戸時代)に相当します。 地下2階は18世紀かもしれません。 地下3階は17世紀。 逆に、地上の2階はある人物の未来世(たとえば22世紀)かもしれません。 3階は23世紀。 ・・・・・ こんな風に考えてみると、1階とそれぞれの階は別々の時間が流れているのは明らかです。 我々は仲の良い友達と好きなことをしているときには時間が短く感じられたり、逆にやりたくない仕事や勉強をしている時には時間が長く感じられたりしますよね。 時間というのは、主観に影響されるものであって、それがあたかも統一的な時間が流れていると感じるのは、時間という概念をルール化して(たとえば世界時間の標準時を定めることで)、そのルールを皆で共有しているからにほかなりません。 ですから、異なるグループに属している人とは主観的な時間の流れが異なりますし、ましてや違う階(時代)に住んでいる人ならなおさらです。 まずはここまでの話はご理解いただけますでしょうか。 さて、次からが問題です。 今までの話は、個々の意識、パーソナリティから見た視点であって(たとえば我々なら我々個人個人からみた時間の感じられ方です)、この個々の意識の視点を超えた視点というのが存在します。 「個」にとらわれない視点です。 これが、集合意識とか、全体意識とでも呼ぶにふさわしい意識です。 我々の一人一人の「個」を超えた何かです。 これを、ハイアーセルフとか、トータルセルフなどと言ったりします。 人によってはオーバーソウルという人もいるかもしれません。 ハイアーセルフもトータルセルフもオーバーセルフも皆同じものを指しているとここではお考えください。 あくまで人間が作り出した言葉の定義上の問題ですから。 それでは、個を超えた全体意識からは、時間というのはどう映るのでしょうか。 これは意識を拡大してみても、感覚的にしかわかりません。 ただあるという状態、これが安定的に、穏やかに、継続的に支配している状態です。 そこには、永遠の今しかありません。 永遠の今、ただあるという感覚だけが支配している状態です。 これを仮にビジョンで表すことができるとするならば、光の点(創造主)から一斉に四方八方に光の枝が無数に、枝状に伸び始めている状態かもしれません。 その枝の一つ一つが、個を持った我々一人一人かもしれません。 それが、中心から同時に、あらゆる方向に向けて、あらゆる時代に向けて、あらゆる次元に向けて一斉に伸び始めているような状態です。 そして、その中心(創造主)自身も、同時に進化・成長し続けているような状態です。 これが、すべてのものが同時に起きているという状態です。 これが、過去も、現在も、未来も、同時に存在しているという状態です。 この状態の時、「過去世」は自分のガイドでもあり、自分は「未来世」のガイドでもあります。 また、未来の自分が今の自分のガイドであることもあります。 ガイドは自分自身であり、別のどこかでかつて生きていた自分であり、自分自身の意識の断片でもあります。 我々が意識できる範囲が限られているために、あたかも自分と他人(ガイド)のように把握していますが、本当は自己と他という分け隔てなどなく、すべてはより大きな「自分」という意識です。 さらに意識を拡大していくと、どんどん「自分」の範囲が広がっていき、やがては人類全体が「自分」に感じられるかもしれません。 このような場合、我々は「同一の時代に」生きている別の誰かを意識の上で助けるかもしれません。 まるで母親が子供を守るかのように。 それは、三次元的に見える形だけではなく、見えない意識間で、互いに助けたり、助け合ったりという協力関係がなされるかもしれません。 我々はそれらの助け合いを、時間という幻想の枠組みの中でとらえようとしますが、本当は我々というのは、三次元世界で作り出した時間というルールには収まり切れないほどの、より深淵で多次元的な意識存在です。 時間という概念を超越した視点から眺めてみたとき、そこにはやはり、「ただある」という感覚しかありません。 過去も、現在も、未来もなく、あらゆるものを包含した「ただある」という感覚のみが横たわっています。 それを仮にビジョンとして表現すれば、光の中心から一斉にあらゆる方向性に向かって枝が伸びていくような状態です。 その枝一つ一つが個としての我々であり、固有の意識をもっています。 矛盾が生じるように感じられる理由が、なんとなくおわかりいただけたでしょうか。 我々がとらえるところの自分というものが、我々にはほとんどよくわかっていないのです。 しかも、我々は、時間を超えたものを時間という枠組みを通して見よう、見ようとしているがために、矛盾しているように「映っている」だけなのです。 Some rights reserved by pfly | |
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1. 王蟲 2014年4月8日 18時2分 [返信する] imimiさん、ご丁寧にご説明いただき、どうもありがとうございます。 1+1を理解できる能力も無いのに、相対性理論を理解しようとするようなもので、完全に理解することは中々難しいですが、それでも感覚的にはおおむね理解できました。 パーソナリティとして認識している現在の自分も、実はパーソナリティの数パーセントにも満たない断面であって、認識されない部分においては、他の時代のパーソナリティと交流することもあれば、そのガイドになっていたりすることもあるのだと一応理解します。まぁ正確に言えば「認識されない部分においては〜」と分けて考える必要は無いのだとは思いますが…。 余談ですが、一般常識の染みついた視点から見れば、セスの語る内容は難しすぎて、難しい授業を聞いているときのように、時々意識が”飛んで”しまっていることがあります。おそらく極力簡単に説明しているんだろうとは思いますが、あえて難しく表現して、無理やり(ある意味での?)変性意識にもっていこうとしているんじゃないか、とふと思ってしまうことがあります。
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