ブッダの悟りの瞬間とキリストとの違い | |
2014年12月31日 17時6分の記事 | |
年末スペシャルということで。 アカシックレコードから得た情報です。 物語として読んでください。
私が向かったのは、ブッダの悟りの瞬間でした。 なぜその瞬間になったのかはわかりません。 あえて言うならば、その瞬間こそがブッダがブッダたる所以(ゆえん)だからです。 それは明け方のことでした。 空が濃紺からオレンジに染まり始め、夕焼けだか朝焼けだか区別が尽きません。 ブッダはうっすらと目を開けつつあります。 誰かがブッダの近くを通り過ぎていきます。 この人物は、もうすでに働いていたのです。 ブッダはこの時寝ていたわけではありません。 自分の中であらゆる存在とのつながりを終えたので、目を開けたのです。 いつの季節なのかわかりませんが、明確な合図がありました。 それは、朝露が地面のようなところに落ちた瞬間です。 その瞬間に、あらゆる情報源とつながり、すべての存在を「わたしである」と感じ始めました。 どこからともなく次のようなインスピレーションが湧いてきます。 「知ることとわかることは、全く別のことである」と。 ブッダは単に「知った」のではなくて、「すべては私である」という存在それ自体に到達しました。 実際にすべての存在の中に入り込んで、「私である」となったのです。 ですが、これとは全く別の印象として、覚醒した瞬間の様子を伝えてきます。 言葉にするとこんな感じです。 「蓮の花は、咲いては散り、また咲きはじめる。」と。 つまり、物事はすべて、流転し、花のように咲いては散り、散ってはまた咲きます。 新たに咲いた花は、最初に咲いていた花とは異なっています。 しかし、本質的には同じものなのです。 これが、あらゆる生命に浸透しており、生命の実相そのものなのです。 つまりは、「生命の流転」これが森羅万象にいきわたっていることを、「つながった」瞬間に明確に観じたのです。 悟りの瞬間を言葉にできないという人がいたら、私はそれは違うと思います。 悟りの瞬間は、たとえそれがどんな形であれ、言葉にして人々に伝えることができると感じます。 ブッダ自身によれば、自分は何も高いレベルに到達したわけではないと言います。 むしろ逆で高いレベルに到達した自分が消えてなくなったのだといいます。 例えるならば、それは空気のようなものであり、あらゆるものに浸透している原子のようなものです。 そこに固有の価値はなく、またすべての価値を内包しています。 「自分は空気のようなものであり、あらゆるところに偏在している。」 これが最終的にブッダが到達した境地だったようです。 ブッダの修行期間は、7,8年程度だったと感じます。 自分を捨てた結果、すべてを自分だと見出したのがブッダでした。 対照的な聖者として、イエス・キリストがいます。 私の感応では、キリストはこれとは異なるアプローチをとりました。 キリストは、「私である」と感じ続けました。 あらゆるところに自分が偏在しているとは考えませんでした。 むしろ、偉大な王として自らの存在を認めました。 キリストは、エジプトで3年、インド(ネパール)で6年修行し、ヨルダンに立ち寄った後、イスラエルに戻ってきていると感じます。 その間、あらゆる者たちがキリストがその地を訪れることを準備していた通りに、キリストも行動しました。 つまりは、キリストは救世主という役割を演じ続けたのです。 有名な十字架にかけられる場面についてみてみると、キリストは十字架にはかけられておらず、身代わりの存在がかけられています。 この存在は、よく言われているキリストの弟ではないと感じます。 まったく世の中の人が知らない人物です。 ですが、キリストからかつて教えを受けた人物であり、霊性は高かったと感じます。 キリストは、死を恐れてはいませんでしたが、死を望んでもいませんでした。 そのために、そのキリストの弟子の意向をくんで、その者に身代わりとなってもらったのです。 その時にその身代わりとなった者がキリストに告げた言葉は、「あなたは永遠の命を授かった人」でした。 つまり、今ここで死ぬ人ではないということが言いたかったみたいです。 キリストはその難を逃れ、各地を放浪した後に、42歳頃に天に帰っていると感じます。 死後の復活は、文字通りの復活ではなく、彼は死ななかったのです。 キリストやブッダのように、普遍性や永遠性に到達しつつ「語り継ぐ」者は、地球上に10人もいなかったと感じます。 古くはマグダラのマリアや、最近ではラマナ・マハリシ、ラヒリ・マハサヤ、有名どころとしては、ダライ・ラマ14世がいると感じます。 ダライラマについては、現代ですからあのように政治家のような活動をされていますが、到達している意識は相当広大な領域だと、リーディングでは告げてきます。 マザーテレサや、ババジ、パラマサンダ・ヨガナンダなどは、ここには含まれていませんでした。 私が人物を知らなさすぎるので、キリストやブッダと同レベルに到達した存在はほかにもいたのかもしれません。 ただいえるのは、いわゆる悟りとは明確に叙述できる可能性がありつつも、そのアプローチは様々である可能性があるということです。 それは、「レベルの差などない、あるのは雲のようなただあるという存在のみだ」という印象を送ってきたブッダや、「わたし」を最後まで失わなかったキリストとの違いにしてもそうです。 我々から見れば、両方とも覚者であることには変わりはありません。 しかし、時代はもはや師を求める時代ではなく、自分自身が師となる時代に入りつつあります。 それは、数千年にもわたり封印されてきた時代です。 もうその時代は少しずつ始りつつあります。 自分自身の可能性を信じ始める時代です。 我々はまだ、ブッダのように、自分を手放す段階ではなく、自分を受け入れ、許し、認めていく段階です。 そうして初めて、自分自身を愛し、その可能性を信じ始めるからです。 2015年から、いよいよその時代が本格化していくと感じます。 Some rights reserved by ai3310X ![]() | |
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