全体自己について | |
2015年5月11日 20時36分の記事 | |
先にこちらのご質問にお答えします。 >インディヴィジュアリティ(全体自己)としての本質を持っています。 >それがトータルセルフとしての自分です。 とありました。 よくほかのブログでも見るのですが、人間の進化の方向としては、 個人の意識はなくなり、全体的な自己を持つだとか、 だからその時の興味としては自己ではなく全体になるだとか、 この記事にも自然を神に近い存在だと思うようなニュアンスがあるのですが、 いろんな説明を読むことがありますが、 それはたとえば八百万の神な意味での神になる、 空間を取り仕切る神というような意味での神になる というようなことでしょうか。 神への解釈があいまいなのですみませんが。 進化への道のあたりさわりのない範囲で説明をお願いします。 また進化への道は、生まれ変わり、または進化への道、 どちらを選ぶかは選べるのでしょうか。
日本では、自然の山や川など、あらゆるものに神が宿っていると考えますよね。 八百万の神がもしそのような自然霊のことでしたら、ここでいう全体自己とはちょっと異なっていると思います。 また、空間を取り仕切る神というのは、この宇宙を作り出した創造主のことだとしたら、それもちょっと全体自己(トータルセルフ、エンティティ)とは異なると感じます。 いわゆる全体自己とは、どちらかというと今の我々に近いものだと感じます。 ただし、今の我々(パーソナリティ)も、一要素として含んだ、さらにより大きな自分自身です。 セスなどの信頼できる情報に基づけば、全体自己にも個性があると考えられます。 (セスについての説明は、過去の記事をご覧ください) 例えばセスは全体自己を自覚しています。 時折、「私は・・・」という言い方ではなく、「私たちは・・・」という言い方をすることがあります。 セスは、個々の転生(パーソナリティ)のそれぞれを自覚しつつも、より大きな自分自身というものを自覚しています。 セスによれば、例えば彼のチャネラーだったジェーンロバーツにしても、セスから見れば全体自己として見ています。 全体自己としてジェーンロバーツを見た場合、「ルバート」という名前に変わります。 この場合、ルバートにも個性が残っていると思われます。 ですが、地球上にいたジェーンロバーツよりもはるかに大きな「自分」として顕現している可能性があります。 同じことは、ジェーンロバーツの夫で速記者だったロバートバッツにも当てはまります。 ロバートバッツの全体自己は、セスによれば、「ジョーゼフ」という名前です。 (ちなみに、セスはルバートやジョーゼフが全体自己だとは言っていませんが、私が読んだ時そのように感じたので、そのように述べています。) セスも、ルバート(ジェーン)も、ジョーゼフ(ロバート)も、同程度の進化レベルにあるとすれば、おそらく5次元以上の存在であることは間違いないでしょう。 ここでいう全体自己とは、ですから、いわゆるトータルセルフのことだと考えていいと思います。 トータルセルフは、一般的には数百〜数千のパーソナリティに相当する意識の総和以上の存在(ゲシュタルト存在)であるとされています。 ゲシュタルトとは、トータルセルフが部分(パーソナリティ)の総和以上のものを指すものだと仮に考えてください。 つまりそれが、全体自己(エンティティ)であり、我々の本質なのです。 それを神と呼ぶことも、可能ではあると思います。 有名な本『神との対話』の神とは、おそらくこのトータルセルフ(エンティティ)を指すものだと思います。 ですから、八百万の神とは本質的に異なりますし、万物を生み出した創造主でもないわけです。 後半の「また進化への道は、生まれ変わり、または進化への道、どちらを選ぶかは選べるのでしょうか。」ということですが、これは、ある程度は選べると思います。 ですが、死後に我々はそのほとんどが、再び地球上に生まれかわる選択をとることはないとされています。 つまり、再生はしないということです。 (ですから、生まれ変わりは、トータルセルフの別側面の自分がすることになります) ほとんどすべてのパーソナリティは、死後もそのバイブレーションに見合った体を持ち、生前とほぼ変わらない生活をしていくとされています。 それが、我々の三次元的な感覚からして相当長い年月続くと考えていいと思います。 その後、やがて「第二の死」が訪れるとされています。 自我の死です。 今我々が「自分である」と考えているパーソナリティの枠に縛られなくなり、トータルセルフ全体を「自分である」と感じるようになるとされています。 トータルセルフは数百から数千のパーソナリティに相当する意識の集合体であると考えられますから、そのすべてを「自分である」と考え始めることになります。 (転生する自己は数百と考えられますが、トータルセルフの全体のエネルギーの中では転生によって外面(地球や他の惑星等)に現れない部分も多く、それは単にエネルギーとして存在していると思われます。おそらくは、そのほうがトータルセルフ全体の中では大部分であり、それゆえにトータルセルフは「ゲシュタルト存在」と呼ばれることがあります。) この状態は、リーディングによれば、地球上でブッダが到達した意識状態に近いと感じます。 ですから、ブッダの悟りとは、地上で生きながらにしてトータルセルフやそれ以上の集合意識として生き始めたのだと感じます。 このすべてを「自分である」と考えるようになるというのは、例えば個々の転生があったとして、その転生の全部または一部を追体験したり、すべての転生の情報を融合してそこから自由に叡智を引き出すことができるということを示しています。 また、転生していない自分自身の深淵な部分に気づき、そこからインスピレーションや叡智として自由に情報やエネルギーを引き出すことができる状態でもあると考えられます。 それが、死後に進化の方向性を目指した場合のある段階における終着点だと感じます。 ですが、進化の道はそれだけでは終わりではなく、さらなる深遠なる進化の旅が待ち構えています。 たとえばそれが、自分が創造主として生命を生み出すといったことも行われるとされています。 これは、セスからの情報です。 ただし、セスは「その気になれば」という風に述べて、生命を生み出すことは責任が伴うので、めったには行わないということを述べたことがあります。 この段階に至っても、「自分である」と感じる意識は存在しているようです。 ただ、それは我々が「自分である」と感じている意識よりもさらに広い範囲に及んでいて、すべての転生、蓋然的自己、全体自己のありとあらゆるエネルギーにまで「自分である」と感じています。 この全体自己は、我々のような永続的な町や建物、国などをもたないとされています。 それはおろか、体も持たないようです。 これらの象徴的シンボルは、全体自己にとっては自分自身を表現するためになくてはならないものではなく、それらを作り出してもよいし、作り出さなくてもよいのです。 つまり、我々の想像をはるかに超えた自己表現の方法が、全体自己には備わっているとされています。 同時に、我々が今感じている喜びよりも数段大きな歓喜を感じるようになるみたいです。 この段階に至って、例えば「語り手」と呼ばれる存在は、自分自身の分身をあらゆるタイムラインに同時に出現させて、他の全体自己のためにも貢献するようになります。 それが、歴史上で名高いイエスキリストやブッダ、あるいはセスなんかもそうです。 過去も、現在も、未来も、あらゆる蓋然的現実も、すべて同時に進行しているとされていますが、語り手と呼ばれる存在達は、かなりの広範囲にわたって自分の分身をタイムライン上に出現させて、ある特定の目的のために地球人類に接触し、その進化を促進する手助けをすることがあるみたいです。 それは、おそらく、より大きな統合化されたトータルセルフレベルの人格によって統一的な視点でなされている可能性があります。 あるいは、我々の地球圏以外の領域で、我々とは全くことなる認識形態を持っている宇宙存在の手助けもするようになるとされています。 つまり、トータルセルフは、活動範囲が極めて広く、その自己表現の手段は我々の想像できないことにまで及んでいる可能性があるのです。 これも、ゆくゆくは我々が進化成長していったときに体験できる自分の人生です。 | |
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