「出来事が同時に存在している」の多次元的意味について | |
2013年10月15日 2時26分の記事 | |
>さっそくですが私が記事にして欲しい、というか知りたいことにもなるのですが・・・。 それは「時間」についてです。 よく非物質世界には「時間」がないと言われていますよね。 過去も未来も現在も同時に存在している、というような・・・。 次元が重なっているとも。 この時間の概念が本を読んでみても、どうしても理解できないのです。 過去も今にあるとしたら、私たちが過去だと思ってきた出来事とはどのように存在しているのでしょうか? 例えば、この世に生まれた瞬間の過去、小学生だった頃の過去、高校生、5年前、1時間前、1秒前・・・・・。 このように過去だと思っている出来事は、どう存在をしていることになるんでしょう? 時間という概念の世界で生活している私は、今このようにパソコンでメッセージを打ち込んでいる間も「時間が流れている」と感じています。 「時間」とは流れているものではない、ということになるのでしょうか? ぜひ、この「時間」の概念について非物質世界からの見解などを記事にしていただけたらと思います。
以下は、セスとのチャネリングと私独自の情報源からの情報を加味したものをまとめたものです。 セス曰く、時間と空間は、もともと同じ「素材」から作られています。 おおもとは、意識群と呼ばれる、我々の三次元空間を超えた潜象世界に源を発しています。 それが、電磁的エネルギー群という、よりエネルギー密度の凝集したものにある時点において変化します。 それが、時間と空間の生まれる元の「素材」です。 ですから、あらゆるものは、突き詰めると、同じ素材からできていることになります。 この三次元宇宙も、我々の肉体も、星も、動植物も、多次元宇宙も。 ですから、多次元的視点から見れば、我々の知る時間も空間も実体を伴ったものということになります。 ですが、それは、我々の知る三次元世界においてのみあてはまることであって、別の次元からみれば、我々の知る時間も空間も実体としての意味は持ちません。 そのことを幻想というかはともかく、およそ実体とは、絶対的なものではなく、相対的にしか把握できないということになってきます。 ですが、繰り返しになりますが、三次元世界においては時間と空間は実体の伴うものであって、意味を持っており、我々がそれに対して拘束されることを同意しているがゆえに、我々は時間も空間もその存在を感じ取ることが出来ます。 もっとも、時間は目に見えないものであって実体が伴っているとは言えないのではないかと思われるかもしれません。 しかし、時間は、我々の世界の物事を通して、間接的にその実体を現してきます。 例えば、人間を考えてみてください。 赤ちゃんはやがて子供になり、大人になり、最終的には年老いていきますよね。 そういった、赤ちゃん→子供→大人→老人といった一連の流れとして、時間は実体化していることになります。 それが「間接的に」時間が実体化するという意味です。 他方で、全ての出来事は同時に存在しているという言い方は、三次元的な見方ではなく、多次元的な見方であって、我々の感覚からすると、直観的に把握した結果です。 それは論理的な証明を超えていて、ただそうであると感じられる、こんな表現がぴったりです。 多次元的な視点は、具体的なエネルギー場を超越しており、いかなり次元においても、何らかのものに拘束されるということがありません。 基本的に自由なのです。 それが、同時に存在するととらえた場合の状況です。 すべてが同時に存在するイメージは、次のようなものです。 「すべてなるもの」から、あらゆる次元において同時に物事が進行しています。 なぜなら、「すべてなるもの」から見ればすべて「自分」のなせるわざだからです。 この「自分」のとらえ方の相違は、「すべてのものが同時に存在する」ということの理解が難しくなっている理由の一つでもあります。 あらゆる次元において、その次元内にあるルールによって物事が進行しています。 例えばそれは、三次元世界での「時間」や「空間」などもそうです。 それに対して、「すべてなるもの」は、そういったあらゆる次元をも超越した存在です。 「すべてなるもの」は、すべての次元、すべての物事の総和以上の存在です。 そういった究極的な視点から見れば、あらゆる出来事は同時に進行していると把握されます。 つまり、全ての物事が同時に進行しているという事実は、三次元的視点を超えて多次元的視点、もっというと、「すべてなるもの」の視点に立って初めて把握されうるものなのです。 Some rights reserved by nikunok | |
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◆この記事へのコメント(投稿順) | ||
1. 花まる 2013年10月15日 8時38分 [返信する] こんにちは 無知で、説明の下手なあたしの出る幕ではないのですががんばってみます 過去は思い出すと改ざんされてしまうことがあります でも「今」の自分を造っている経験は 思い出す必要もなく「今」の自分にそなわっています 未来も今も一瞬です 次の今は無数にあります それをあたしは絶えず選択します それは「未来」という言葉で説明すると誤解を呼びますよね 一瞬づつの今を選ぶということです 時間とはそのように存在していると感じています それは「流れ」という感覚ではないのです わかりにくくてすみません でも、、、いみみさんは知りたいと思っている そこから一時的にでも既成概念などの知的抵抗を外して、ゆだねてみたら いみみさんにはこんな下手な説明は不要になります 時間を感じるのは感覚なのです 稚拙な表現ですみません こんなんじゃわかりませんよね、、、 2. いみみ 2013年10月15日 9時23分 [返信する] 花まるさん コメントありがとうございます。 感覚というのは、人それぞれですから、個々人の感覚にゆだねればいいわけですね。 今問題にしている時間についても一緒です。 問題は、それを多次元的にみた場合にどうとらえることが出来るのかという視点です。 3. いみみ 2013年10月15日 9時45分 [返信する] もう少し補足しますと、今回の読者からのご質問の要点は、時間は我々の感覚からすれば流れているように感じるけれども、多次元的にみればすべてが同時に存在していると言われる。でも、そこのところが感覚的にはわからないということです。 ですが、私のお返事の要点は、ごくごく簡単に言うと、我々のもついかなる感覚をも超えたところに時間や空間の真実があるということなんですね。それは、「自分」についての意識をもっともっと拡大していくと、答えらしきものが見つかってくる。それが究極的な存在である「すべてなるもの」の視点から見えてくる真実だということです。 前半のセスからの情報は、時間や空間をなぜリアルに感じているのかという点についての多次元的真実を説明するものです。
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