般若心経後段の霊的意味について(PART2) | |
2013年11月29日 11時30分の記事 | |
前回の話の続きのご質問がありましたので、ちょっとだけお話ししたいと思います。
それは、後で付け加えたとされる、「ギャーテーギャーテー」の部分が、それ以外の部分とエネルギー的にどのように違うのかという点についてです。 エネルギーの知覚方法は様々ですし、一概に言うことはできません。 また、本来多次元的(非物質的な)エネルギーですから、それを五感に変換して我々にもわかるようにする時点で、そもそもの問題があります。 なぜから、我々にはそうするしか人に説明する方法がないからですね。 まあ、テレパシーを使うという方法もあるわけですが(笑) それはともかく(笑)、私は普段どのように非物質的エネルギーを知覚しているのかについては、今までいろんな形でブログで書いてきましたし、ここでは省略します。 ただ、注意しなければいけないのは、エネルギー的知覚というのは、主観によって左右されやすいということです。 それは、非物質的情報が誰のものであろうとも主観的事実にすぎないことと同様です。 ですから、本来、エネルギーに良い、悪いもないですし、そのどちらかであると自分が受け取った場合、自分も同じエネルギーを持っている可能性があります。 それが波長の法則ですから。 だから、その辺を考慮したうえで、以下の話をお読みください。 まず、問題となる「ギャーテーギャーテー」の部分ですが、エネルギーをビジョンに変換すると、立体的な幾何学模様がゆっくりと動いている様子が感じられてきます。 フラワーオブライフの立体版みたいな感じです。 それが、たぶん複数合わさっていて、しかもゆっくりといろんな方向に同時に動いている、そんな印象があります。 これが何を意味しているのか? おそらく、これだけを見ていたんではわからないんだと思います。 そこで、般若心経のそれ以外の部分のエネルギーもビジョンに変換して観察してみることにします。 すると、私には、突き抜けるような大地と空が見えてきます。 どこまでも、どこまでも続く、開放感のある風景です。 この大地も空も、エネルギーの象徴としての意味を持っています。 ですが、大切なのは、すべてが解放に向かっている点です。 閉じられたエネルギーではなく。 ここに、「ギャーテーギャーテー」の部分との本質的違いがあります。 あの部分はおそらく、結界としての意味合いを持っていると感じます。 言い方を変えれば、他の次元とのエネルギー的遮断です。 それがいいか悪いかは別として。 あらゆるものは、「なにかになろうとしつつある状態」であるとされています。 人であれ、動植物であれ、鉱物であれば、物であれ、惑星であれ、銀河であれ、宇宙であれ、創造主であれ。 すべてが「何かになろうとしつつある」のが森羅万象の本質なわけです。 それを進化・成長とわかりやすく置き換えてもいいかもしれません。 そうすると、結界をもうける、それ自体に良い悪いもありません。 誰かが良かれと思ってやっただけのことですから。 たまたまその人が、マカバを再構成して、曼荼羅としての意味合いを真言の中に封じこめ自在に使える能力があっただけのことです。 別にそれがすごいわけでもなく。 でも、般若心経の場合、多くの人がそのことを知らないまま、何らかのご利益があると考えて無意識に使っているところに問題があります。 自分の意思で、これを選ぼう、これは選ばないでおこうとする際には、情報が必要ですよね? でも、般若心経が作られてどのくらいたつのかわかりませんが、そんなことを考えることのできないくらい、現代人はある意味退化してしまっていますし、そこに意識を向けようとする気すらないのが現状です。 それは、ただなんとなく生きているからです。 でも、もし自分自身というものにもっと目がいくようになったとき、そういうある意味進化した時代がこれからやってきたとき、人々はふと、何で般若心経なんか唱えてるの?という疑問が湧いてくるかもしれません。 別にいらないじゃん?みたいな。 結局は、自分を救えるのは自分以外にいないわけですから。 そういった意味では、我々の身の回りには、我々が何とも思っていないことでも、なぜ?と思える現象がたくさんあります。 でも、それとは別に、自分自身がいかに生きていくかといった、いわば根源的な問題に直面しつつあるのが、今の変革期の状態なんだろうと思います。 今回リクエストのあった「般若心経後段の霊的意味について」も、そういった意味においては、自分自身を見つめなおすきっかけとして、今後に生かすことが出来るように思います。 Some righta reserved by mynameisharsha | |
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◆この記事へのコメント(投稿順) | |
1. アシカビヒコ 2013年12月1日 15時39分 [返信する] 前回と今回の般若心教、素晴らしい内容で驚き、感動しました。この通りだと思います。そして結界構造を設定した人物を人類史的にどう評価するかという問題はありますが、この結界構造が必要ない時代に我々は突入していて、今回のような情報を得ることができる時代にいることの意味のほうに注目したいところです。 2. オカモト 2013年12月5日 21時55分 [返信する] 般若心経の問題についてこれほど具体的に言及されたことは かつてなかったのではないでしょうか。とても貴重な指摘だと思います。 ですが、今まで般若心経に様々なご利益を求めてきた人々の思いを思うと複雑です。 3. いみみ 2013年12月8日 23時41分 [返信する] コメントありがとうございます。 般若心経も、それ自体が悪いものではなく、要は使い方なんでしょうね。意識の置き方といいますか。 我々は普段、般若心経の中身までは知りませんし、僧侶の方ですらその状態かもしれません。 むやみに現世ご利益的な効果・効能をそれ自体に期待することや、何かいいことありそうだからただなんとなく唱えているだけでは、駄目なのかもしれないという、問題提起として今回の記事を読んでいただければ幸いです。 釈尊は、「ジャスミンの花が落ちるように比丘(僧侶)よ解脱しなさい」と言ったそうです。このジャスミンの花というのは、煩悩のことだとされています。 そうすると、我々は煩悩に囲まれつつ、煩悩を一枚一枚脱ぎ捨てながら霊性進化の道を進んでいくことになりますが、そこにお経というアイテムは必須ではないように思います。 では、何が必要かというと、自灯明なんでしょうね。ちなみに、法灯明というのは、仏典を指しているわけではないと思います。もっと根源的な、アートマンのような自然法則、宇宙法則を指しているように感じられます。 トータルにみてこの世的な結界構造が明らかにされる時代に入ったことを鑑みれば、自灯明、法灯明に目覚めつつ、ジャスミンの花のように煩悩を脱ぎ捨てる時代が近いうちに個々人の内面で実現されていく、そういった時代に入りつつあるのかもしれませんね。 4. アシカビヒコ 2013年12月9日 21時59分 [返信する] 法灯明、自灯明の二つの光源の螺旋的相互浸透で、煩悩の衣が照らし出されて脱落し、最後には宗教という衣さえも脱ぎ捨てる時代になってきましたね。ミロクの時代なのだろうと思います。
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