太陽瞑想と紅葉 | |
2013年12月3日 0時14分の記事 | |
まずは、今朝の太陽瞑想から。 感じたことをつらつらと書いていきますね。
太陽光線を浴びながら瞑想しました。 ハイハートに強烈なエネルギー。 太陽は、分け隔てなく、惜しみなく愛を与えます。 自分もそういう存在になりたいと本当に思いました。 そしてある人がそれを気づかせてくれました。 私は毎日は太陽瞑想をしません。 この前したので明確に覚えているのは、東京ミニワークの時の11月16日早朝だったんですが、この時と今朝の太陽からくるエネルギーは、明らかに異なりました。 あらゆる事象は主観的事実としての意味を持ちます。 たとえそれが、我々にとって客観的事実であると思えることであったとしても。 我々は、客観性が存在すると考えますが、実はそうではなく、現実とはそれを見る人によって微妙に異なっています。 いわば、世界とは、自分自身の感覚という窓を通した世界でしかないわけです。 それを前提に読みすすめていただきたいんですが、主観的には、11月16日の太陽と今日(12月2日)の太陽とは、明らかに異なっていました。 エネルギーがです。 ですが、これは、太陽のエネルギーが変わったのではなく、私が変わったのだと思います。 あらゆる外的事象は、内面の鏡としての性質を持ちますから。 その意味で、外的事象に観る主観的事実というのは、実は自分自身の内面の表れでもあったりします。 今日、目にするものは、どれも素晴らしい美しさでした。 それを最も象徴していたのが、私にとってとても身近なところで見た紅葉でした。 今まで気づきませんでした。 こんな身近なところで素晴らしい紅葉が見れるなんて。 そこは神社の中に日本庭園があるところなんですが、神職の方が抹茶を入れてくださいます。 私は、その空間にいた時、どこか自分の内面の中にいる錯覚を覚えました。 言葉で表現すると、自分の静寂な内面の部分を空間で表すと、こんなたたずまいになるだろうなといった感じです。 室内の静けさや、空間の存在感、外の紅葉の景色、それらが混然一体となって自分の目の前に現れていた、そのたたずまいです。 私は、日本人のすごさは、何もない空間に存在感を与えることではないかなと思います。 それがとてもうまいのは、日本庭園や日本家屋の何もない間(ま)だったりします。 間の存在感が、景色全体の存在感を高め、その場に自分自身を溶け込ませるのを手伝っています。 つまり、間とは、自分そのものなんですね。 景色=自分なわけです。 それを今日、抹茶をいただきながら感じていました。 自分とは、本当はちっぽけな存在ではなく、深淵な存在であり、いろんなものとかかわりや、つながりがあり、より大きな存在なんだということを、空間やその美しさが教えてくれます。 本当は、空間が美しいのではなく、自分自身が美しいのです。 でもそれは、自分「だけ」ではなく、生きとし生けるものすべてに共通することです。 最近私は、バランスを取り戻しつつあります。 意識の自由化から、バランスを取り戻すことへ。 意識の自由化、次元上昇とは個々人で個別に進行するものです。 私は明確に、昨日から今日にかけてそれを感じました。 我々は何かに変わろうとする必要はなく、ただここにあるという感覚に生きています。 そこから外れると、とたんに不安感にさいなまれたり、ぶれたりします。 しかし、それらが幻想であると気づくと、そうか、自分はただここにあればいいんだということがわかります。 あとはすべて幻想ですから、すべて手放して、より大きな「自分」におまかせです。 それでいいんだという風に、「今」、感じています。 | |
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