アカシックレコードから見た花の美しさの秘密とは | |
2014年6月10日 16時57分の記事 | |
今日は、花の美しさをきっかけに、美しさと強さの霊的な出所の同一性、花や自然界に表われる美や強さが自分に対してもたらしてくる意味について、考察していきたいと思います。
菖蒲(しょうぶ)、紫陽花(あじさい)に共通するのは、艶(あで)やかさです。 単なる美しいとも違う、品のあるたたずまいをしています。 花自体にフォーカスすれば、それは命の輝きでもあります。 花という表彰を超えたところに、生命の躍動があり、火のように燃える生命力が花というシンボルとして現れているのが霊的真相です。 他方で、艶やかさとは、周りと完全に調和した結果であり、周りに溶け込みつつ、自分自身は個性的である時に生まれてきます。 周りと溶け込みつつ個性的であるというのは、逆説的にも感じますが、一つの自然現象における真実でもあります。 自分らしさを出していけば、人に嫌われるのではないか。 多くの日本人はそのように考えるかもしれません。 しかし、あなたらしくある時、周りとの調和(ラポール)が生まれるのが一つの真実です。 周りと対立が生じたとき、それはすなわち本当のあなたらしさではないことを意味しています。 すべてのものは、自分自身を映し出す鏡としての特質を備えていますが、花を見たときにそれを美しいと感じているのはほかでもない、自分自身の神性な部分に対して美しいと感じています。 女性は、美しくありたいと思うものですが、そう望む場合、美しいものを見ることが大切です。 美しいものを見ると、自分自身の内面の美が活性化されて生き、それが実際に現象化して現れてくるようになります。 表情、思念、言葉、行動、そういったものににじみ出てくるのが、内面の美です。 一方、男性は強くありたいとどこかで願っています。 それは、強さが男らしさの象徴だと人類は考えているからです。 こういった、女性性的、男性性的な部分は、単に肉体の性別によって分類できるものではなく、一つの表現方法の選択にすぎません。 もっというと、美しさ、強さは、同じエネルギーを別の視点から見たものにほかなりません。 それは何かというと、愛です。 美しさも、強さも、愛の別の表現にすぎないからです。 紫陽花(あじさい)を見たとき、我々は誰しも紫陽花だなと認識します。 ところが、実際には人によって異なる美を見つめています。 忙しい人は、あじさいには目もくれないかもしれません。 花が好きで時間がある人は、紫陽花を見つめます。 ですが、同じ紫陽花を見ても、その人の内面がどれだけ紫陽花と共鳴しているのか、どれだけ紫陽花に自分自身の美を投影しているのかによって、魂の共鳴度が異なり、結果として、目の前にある紫陽花から受け取る美しいと感じられる程度が異なってきます。 そうです、紫陽花の美とは、あなた自身の美の現れに他ならないからです。 同じようなことは、強さについても言えます。 真に強い人は、優しい人でもあります。 それは、見た目が筋骨隆々としているかどうかではなく、その人の内面からくる芯の強さが、思念や言葉、態度としてにじみ出てくるからです。 時折、自然界の野生動物が人間に対して服従する様子を見せることがあります。 それは、動物は動物的直観によって、その人物のやさしさ(=強さ)を瞬時に見抜くからです。 視点を変えてみると、本当に強い人は、大自然の強さを知っていますから、大自然(たとえば山)と対峙した時、大自然に対して敬意を表します。 昔の日本人は、自然に対する畏怖心(いふしん)を持っていましたが、それは、自分と同じように神である自然界に対する敬意がそこに現れています。 目の前に現れている現象に対して、自分がどのように感じるか。 それは、自分自身に備わる羅針盤であり、自分自身の真の姿を教えてくれるものでもあります。 そういったわけで、花でも、山でもかまいません、大自然と対峙してみて、そこから何を感じるかを体感してみることをお勧めいたします。 | |
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