信念や感情体験を手放して現実を変えるためにはどうすればよいのか? | |
2015年1月4日 19時8分の記事 | |
ご質問からです。 >imimiさん新年になりました、お邪魔します。 習慣慣習の文化や宗教ですが、自分自身が主体的に参加しているわけではないということかと思います。 それらから離れたいと考えることがありますが、少なくとも -それらを続けながらも認識は別として持続させる- -認識がもう別であるならばそれらからも離れる実践へ移る- -それらをそれらに於いて変えてみる- などの3方向があると思います。 自分としては、離れることができるなら、離れてみてもいいのではと考えるのですが、imimiさんはどう考えていますか? おそらく宗教 [宗教的ないし宗教組織という概念も勿論含まれると考えられること] を変えるのはもう無理と思いますし、もう変えている意味がないというか、そう思い考えています。
まず考える必要があるのは、我々の行動というのは複雑怪奇であって、完全に思いと行動が一致している人はまれであるということです。 また、思いについても複雑で、思い(感情)はいったいどこからきているのかということです。 いわゆる顕在意識だけなのか、それとも潜在意識まで含まれるのかという点です。 心理学ではどうとらえられているかわかりませんが、ここでいう顕在意識とは、我々が日常生活のレベルで意識できている意識です。 私は自分であると感じている意識です。 それ以外にも意識が存在していることが知られており、それをここでは潜在意識と呼ぶことにします。 なお、「潜在意識」と「無意識」を現代心理学では区別するみたいですが、セスは「無意識」なるものは存在しないとしていますし、私自身この両者を厳密に区別する必然性はないと感じていますので、ここでは「無意識」については考えません。 さて、我々が「今」、いかなる宗教に属していようとも、いかなる団体に属していてその慣習に従っていようとも、いかなる文化に染まっていようとも、 「過去」すなわち我々が以前生きてきた宗教や慣習や文化からの影響は深層意識内すなわち潜在意識にインプットされている可能性があります。 問題は、それが感情というものを通じて、ことあるごとに呼び起こされることです。 たとえ普段それらについて全く意識していなくても、です。 ちなみに、「今」も、「過去」からずっと同じ宗教的、慣習的、文化的影響を受け続けている場合があります。 その場合は、前者よりも強烈に、日常生活においていろんな場面で、我々の感情を通して自分自身の反応が生じてくる可能性があります。 それは主に、特定の人間関係や、行為と結びついている可能性があります。 たとえば、母親の顔を見たり声を聞いただけで、ある特定の感情がよみがえってくるかもしれません。 あるいは、過去に受験勉強で苦しんだことのある方なら、英語の勉強をしただけで当時の不安や恐怖などの感情がよみがえってくるかもしれません。 このように、自分が影響を受けている信念それ自体を観察するのは難しいですが、 ある特定の人間関係や行為における「感情」を通して、自分自身が影響を受けている感情ひいては特定の信念を観察することができるのではないかと思います。 そうしますと、「今の」我々の思考や行動を支配しているのは、「今」の我々の思考ではなく、「過去」の思考や行動ひいては信念であるという可能性があります。 したがって、顕在意識で何を考えようとも、それが潜在意識まで及ぶのはまれではないかと思います。 全く影響しないとは断言できませんが、思考が現実化するためにはかなりのエネルギーをそこに投入する必要がある気がします。 思考も、行動も、もとをただせばエネルギーのなせるわざであり、思考や行動の積み重ねが個人レベルでの習慣になり、集団レベルでの文化や宗教の形成につながっていくという点があるように思います。 ですから、慣習や宗教、文化から離れるとか離れないとかそういうレベルではない気がします。 もちろん、離れると決めれば離れるでしょうし、それを決めるのは私たちの今の顕在意識です。 しかし、今仮にそれを決めたからと言っても、タイムスパンの要素をそこに投入して考える必要があります。 つまり、「時間」というものの信念に我々は生まれながらにして強烈に支配されているからです。 今、慣習や宗教や文化から離れる決断をしたとして、それをある一定期間持続させる必要があるように思います。 どのくらいの期間それを持続できればそれらからの縛りが軽減されるのかは、人による可能性があります。 かつての慣習や宗教や文化から受けている縛り、ひいては特定の人間関係や自分自身の行為によって形成された感情から完全に解放されるのは、なかなか難しいかもしれません。 ですが、軽減させることは出来ると思います。 その軽減の程度がある程度の閾値を超えれば、我々は「以前ほどは」、ある人間関係や行為からかつて受けていた感情的ゆさぶりを受けにくくなる可能性があり、 ひいては日常生活においても、自分自身の行動パターンが「以前ほどには」かつての慣習や宗教や文化的要因、ひいては特定の人間関係や自分自身の行為から受けてきた影響を受けにくくなっていくのではないかなと思います。 ですから、あらゆるパターンが考えられますから、自分自身の生活パターンや環境、身体、これらを変えていくのは、簡単ではないと思います。 複雑な感情体験や信念が互いに影響を及ぼしあっている可能性があるからです。 ですが、ポイントは「感情体験」だとすべての事象をとらえなおすことだと思います。 そうすれば、これは慣習からの影響だなとか、宗教からの影響だなとか、そういったことを考える必要がなくなり、すべては自分自身の揺さぶられている感情を観察していけばいいからです。 強烈な感情は多くの場合、心臓の鼓動が早まったり、どこかの肉体に痛みが出るなどの副産物が生じてくる場合もあるかもしれません。 そういったものをサインにして、それらは自分が作り出した幻想であるとまずは自覚して、それらから自由になりたいのであれば自由になると決めることだと思います。 そのうえで、感情が自分自身の本質ではなく、自分自身の本質は別なんだということを再認識するために、今ここに意識を置く必要があります。 今ここに意識をおいて、自分自身が一番わくわくすることに身を任せてみます。 少なくともそこには、多くの感情体験に付随している不安感や恐怖心はないはずです。 その自分にとって心地よい波動が、新たな感情の羅針盤となり、その心地よい感情をもとに、あらたな行動パターンを作り上げていくことができます。 そのうえで、クリアリングなども試してみるのもいいかもしれませんし、瞑想などもいいです。 大切なのは、自分のペースで少しずつ心の解放、感情の解放を進めていくことだと思います。 感情は特定の信念と結びつきやすいですから、自分がどんな信念をもっているのかを観察するために、自分がふだんフェイスブックなどのSNSや他のサイトなどでチェックする記事がどういったものなのかを観察してみるのもいいです。 特定の主義主張に妙に共感しないかとか、それが100%正しいと思えても、それをいったん客観的に見つめてみることは可能か、などを確かめてみるといいと思います。 そうすると、徐々に自分の思考や行動が支配されている特定の信念がわかってきますし、それに付随して現れやすい感情もわかってきます。 あとは、自分がそれらを手放していくかどうかを決めるだけです。 そのままでいいならそのままでいいでしょうし、自分がもっと自由になりたいのであれば、そういった信念や感情を手放していくのもいいと思います。 その先は好きなようにしたらいいんだと思います。 問題なのは、我々は自分自身のことがまるでわかっていないということです。 我々の左脳がいくらフル回転させて観念操作しても、次の瞬間には3歳の時の感情体験に基づいて行動するかもしれません。 そのくらい根が深いものです。 自分の普段の行動が、まさか3歳の時の感情体験の影響を受けているとは、誰も思いませんから。 ですが、それでもなお、我々は自分が直面する現実は、自分自身で作り上げているのも事実です。 隣のおじさんやおばさんの思考や感情によって、私の思考や行動や人生が決まるわけではありませんから(笑)。 いずれにしても、大切なのは「今」にフォーカスすることだと思います。 これは私がよく言う多次元的な意味での「永遠の今」ではなく、文字通り我々が感じている「今」で十分です。 過去があるから今があるのではなく、今しかないという意味での「今」も、「永遠の今」の一部をなしていることには変わりありません。 ですから、我々は自分にできる範囲で、自分自身で作り出している過去の感情体験や信念と今の自分とを結びつけている鎖を断ち切り、自由になって、好きなように生きていけばいいのだと思います。 少なくとも、そのように意図することが大切だと感じます。 Some rights reserved by ai3310X | |
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◆この記事へのコメント(投稿順) | |
1. ビフォ 2015年1月4日 20時28分 [返信する] imimiさんありがとう。別のレベルですか。somethingelseになりますか。ヘビーやなあと思いました。問題のたて方自体も考え直しながら行ってみます。 2. 無題 2015年1月6日 22時28分 [返信する] わくわくするもの、とありますが、何を指すのでしょうか。 楽しみに思うものと解釈すると良いでしょうか。 例えばそれが犯罪や破壊的行為であっても可とするのでしょうか。 斜め読みの発言とは思いますが、今の時代は残念ながらわくわくとか楽しみ?を見失いがちな時代であり、それを探す為に彷徨う人が大勢いるとも感じます。 imimiさんも以前、心から楽しめない、今日は楽しむ、わくわくしてくる、を意識的にブログで頻繁に口にされていませんでしたか。 もしかしたら何かの外国語変換すると通じる表現かもわからないのですが、どういった状態を指すのかわからず、漠然的と感じましたので質問申し上げます。
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