直観とは何か | |
2015年6月7日 8時52分の記事 | |
今回は、直観とは物質を超えたものであるという話と、直観はより大きな「自分」からもたらされていること、直観を使うには決めること(意図すること)だけであること、直観は感性に通じるものであり、いわゆる芸術家は非物質的な能力を使っていること、このようなことをお話したいと思います。
そもそも直観とは何でしょうか。 いわゆる「科学的な」思考をすれば、直観とは知識や体験が累積する中で生み出されてきたものという見方をするかもしれません。 つまり、以前どこかで見たり聞いたり、あるいは体験したものが潜在意識下で蓄えられていたものが、何らかの瞬間に表面化したものであるという見方です。 しかし、私はそう考えてはいません。 直観とは、現実世界を越えたところからもたらされる超感覚です。 現実世界だけから生じたデータではありません。 私なりの言い方をすれば、より大きな「自分」からもたらされたもの、それが直観であるということになります。 今我々が「自分である」と感じている自分。 それよりも、より大きな意識のまとまりである「自分」というものが存在している。 こう考えることによって初めて、全く見たことも聞いたこともないものが直観としてもたらされたり、あるいは論理的な思考からは得られない回答が得られ、近未来にそれが「正解」であることがわかったりすることが説明できます。 いわゆる科学的な思考の最も特徴的なものといえる「証明」は、いわば針の穴に針を通すような作業であり、それを一つの検証プロセスとすれば、針の穴には通らなかったけれども同程度の真実性があるものも存在し得ます。 つまり、科学的な思考は、針が針の穴に通った場合「だけを」真実であるとみなし、それ以外はすべて切り捨てるのです。 しかし、私が携わっているリーディングでは、こういった思考形態をとりません。 あらゆる事象は、偶然性から成り立っていると考えます。 蓋然性と言い換えてもいいです。 科学的に証明されていても、いなくても、数多くの可能性から偶然そうなったと考えます。 他にも可能性レベルでは事象が存在しているのです。 ですから、問題は、どの可能性を我々が選択するのかということになってきます。 ですから、針を針の穴に通す選択だけ「しか」存在していないのではないのです。 他にも無数の選択肢が存在しているという状態から出発します。 その上で、我々はじゃあ、どの選択肢を選択する可能性が高いのかを見ていくのです。 これがリーディングで生じる確率的偶然性の考え方です。 ですから、リーディングの結果とは可能性レベルで生じうる蓋然的現実であって、唯一絶対の現実ではないのです。 ミクロレベルにおける素粒子のふるまいに少し似ています。 素粒子は、場所的な位置を特定することができず、確率的に存在する範囲が特定できるにすぎません。 たった一つの現実を点によって示すことができず、存在可能な状態を範囲によって示すことしかできないからです。 リーディングにおける蓋然的現実も一緒です。 その蓋然性(=可能性)に対する読みは、いったいどこから生み出されてくるのかというと、それが直観のなせるわざなのです。 ですから、単なる知識や体験の積み重ねではないのは、この辺からもわかります。 現代科学では証明されていませんが、意識と物質との間には連続性があります。 意識は物質をはるかに超えていて、グラデーション的に、意識だけの状態から、強固に物質的な状態まで連続的にその状態が変化している可能性があります。 我々の世界は、強固に物質的な状態です。 ですが、それは物質だけで存在しているのではなく、イメージ的には、意識の周囲に物質をまとっているような状態です。 ですから、今この瞬間においても、我々の意識は物質とは独立して存在しているのです。 もちろん、我々の意識とは別に、物質を形成している意識というのもありますから、話は複雑なのですが、それについてはここでは割愛します。 とにかく、私がここで言いたいのは、我々の意識というのは、肉体、脳といった物質的なものによって生み出され、縛り付けられているものではなくて、肉体をはるかに超越し、体外離脱によって自由に別次元に出入りし、そこから情報を持ちかえることができる神的存在なのです。 その意識(=神的存在)は、単独で存在しているのではなくて、ネットワーク構造として存在し、あるいは別の表現をすれば仲間が存在し、より大きなグループが存在しています。 それが、冒頭で申し上げたより大きな「自分」という状態です。 これを私は常々、「トータルセルフ」と申し上げています。 我々が自分であると意識している個別意識に対応する、集合意識とでもいえるものです。 我々の現実世界には、社会生活というものがありますよね。 学校、職場などで、共通の目的を持って皆で話し合いながら、協力しあいながら生活をしています。 このような社会生活は、人間一人の力で成り立っているものではなく、多くの人達の協力関係によって成り立っている側面があります。 トータルセルフは、この状態に似ているのですが、メンバーの構成員がまるで自分の分身であるかのように、自分自身との間で密接な関係性を持っています。 霊的な家族であり、親友であり、恋人・夫婦、そういった親密な関係性を彷彿とさせるものです。 ですが、それは我々が知っている家族や親友や恋人・夫婦とは似て非なる関係性です。 さらに言えば、トータルセルフには、全く人間としての経験をしていないエネルギー的部分が存在しています。 地球での体験(あるいは別の惑星での体験)をするかどうかは、トータルセルフの自由であり、してもしなくてもよいものです。 ですから、輪廻転生の回数についても、トータルセルフ間でだいたいの共通性はあるものの、まちまちです。 少ないもので10数回、多いもので数千という転生回数があります。 ただ、今までのリーディング結果からみると、通常の人であれば転生回数はだいたい300〜400ぐらいだと感じます。 私は現代科学を否定するつもりはありません。 ただそれが完全ではないという立場に立っています。 完全どころかまだまだ発展途上にあるために、視野が狭いのです。 つまり、物質世界しかフォーカスしておらず、非物質界が存在していることを黙殺しているからです。 物質を超えた直観の部分を切り捨てているからです。 こういった能力をまずは認めて、それを使っていくと、我々は今まで以上にもっと自分自身の生活を有意義におくれる気がします。 それは単に、自分自身でそうすると決めるだけなのです。 これを「意図する」という言い方で私はいつも表現しています。 直観という能力を使えるか使えないかは、生まれつきのものではなくて、本来的に誰にでも備わっているものなので、ただそれを使うと決めるか、決めないかの違いだけなのです。 直観を感性と言い換えてもいいかもしれません。 いわゆる芸術的な能力は感性と表現されるかもしれませんが、感性もそのほとんどが、物質を超えたところに源泉があり、芸術家・作家はそれらを引き出して創作活動をしたり、パフォーマンスを発揮しているとされています。 これについては、セスという存在からの情報です。 セスとはどういった存在なのかについての説明は、今までなんどもしてきましたので、ここでは割愛します。 今日は、直観とは物質を超えたものであるという話と、直観はより大きな「自分」からもたらされていること、直観を使うにはそれを使うと決めること、さらには直観は感性に通じるものであり、いわゆる芸術家は非凡な能力をトータルセルフから引き出しながら使っていること、このようなことを今回はお話しました。 Some rights reserfved by Eddy Tsai | |
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◆この記事へのコメント(投稿順) | |
1. ponskal 2015年6月7日 10時59分 [返信する] いつも拝見させております。数年前、imimiさんに意識は脳が生み出すものでなく、意識が脳を生み出すと教わり、とても新鮮な思いをしました。それを証明というか、少しでも科学的に示唆できればいいと常日頃考えておりますが、具体的なことは何も出来ません。直感に教えて欲しいところですw
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