脳を超える意識と、叔母の思い出 | |
2015年8月16日 11時9分の記事 | |
お盆スペシャル企画ということで(なんとなく名前をつけたくなります(笑))、意識の不思議さについて、気の向くままに書いていきたいと思います。
我々の意識というのは、脳が作り出したものではなく、肉体をはるかに超える存在だと、私は考えています。 当然ながら、現代の科学で証明可能な事実ではありません。 しかし、それは現代の科学レベルで証明不可能なだけであり、だからといって意識や非物質世界が存在しないということにはなりません。 ただし、間接的に、傍証として、例えば臨死体験などの報告や、リーディングなどによってその存在を知ることはできます。 この点、私の役割が仮にあるとすれば、不完全ながらも間接的に非物質世界の存在を多くの人に知ってもらうことなのかもしれません。 要は、使いっぱしりなわけです(笑) でも、極論すれば、すべての人は必要があってこの世界に存在しているのであり、この世界にいる必要があるから、居るのだと思います。 意識が脳をはるかに超えるからこそ、エべン・アレグザンダー医師のように高次の脳機能がほぼ完全に停止した状態でも臨死体験が起こりますし、以前ご紹介したように、イギリスのスコールグループなどでは科学的に心霊現象が調査され、結果が出ています。 あとは、これらの現象をどう「科学的に」説明できるかといった、科学側の問題なのだと思います。 リーディングする側の立場から言わせてもらえば、非物質界が存在するのは明らかなので、それを科学的に説明できても、出来なくても、どちらでもかまわないと思っています。 また私は、リーディングが我々の日常生活に役に立ちますから、全国各地いろんなところで指導させていただきますが、そうかとって無理に押し付けようとするつもりはありません。 つまり、宗教ではないので、多くの人のおうちに押しかけて、「ぜひ神のお告げの冊子を読んでください!」という風にするつもりはないです(笑) ですから、信じるか信じないかというより、その事実を受け容れるか受け入れないかという「選択の問題」な気がします。 非物質界を完全否定し、「人間死んだら終わりだ!」と考えるのも自由なのだと思います。 ですが、私なんかから言わせてもらえば、それって感覚的におかしくないか?と思ってしまいますが。 つまり、我々は、証明可能な事実や結果だけで生きているのではなくて、感覚を持って、感覚を使って、日々生きているのです。 なぜお盆にお墓参りに行くのか? 習慣だからですか?(笑) 違うはずです。 日本人は昔から感覚的に鋭いところがあって、人間死んだら終わりではないというのを「感覚的に」知っているからです。 かくいう私も、若い頃は左脳人間で、論理的に物事を考えるタイプでした。 でも、それでも、感覚的に生きる部分も持ち合わせていました。 それは、例えば若い頃から絵画や音楽が好きだったことに現れていたり。 あるいは、旅行が好きで自然の風景の中に身を置くのが好きだったり。 あるいは、神社仏閣に何か神秘的なものを感じて、神社仏閣を巡って見たり。 それはもう、大学時代からです。 あとは、性格的に信心深さというのが私にはあった気がします。 例えば、墓参りです。 20才ぐらいの時から、私は若くして亡くなった叔母と、小さい頃かわいがってもらった祖父の命日を必ず思い出すようにしていましたし、可能であればお盆以外にも墓参りにもよく訪れていました。 お寺さんには、「若いのに感心だね〜」などと言われたりしていましたが、私としてはごく普通のことだったのです。 なんでこのような話をしているのかというと、今日が37年前に亡くなった叔母の命日であることを思い出したからです。 亡くなった時、私はたしか4歳でした。 叔母は私の母の姉にあたる人で、確か40歳ぐらいの若さで卵巣癌で亡くなりました。 卵巣癌が見つかった時にはすでに手遅れで、自宅療養をしていた時期がありました。 その時によく、地震でもないのにものが揺れたりといった不思議な現象が起きたといいます。 それからほどなくして亡くなる病院に入院することになりましたが、小さかった私と母は頻繁に病院を訪れては、叔母を元気づけていました。 叔母はその時にはお腹に大量の腹水がたまっていたんですが、幼いながらも私は、叔母さんの大きなお腹を37年たった今でも覚えています。 それから約30年後、私はへミシンクという音響技術を使って、亡くなった叔母に会いに行くようになりました。 その時の体験記は、記事でも何度か取り上げてきました。 その時の体験の信ぴょう性については私は全く考える必要はないと思っているのですが、気になる方は私のリーディングの検証記事をご覧いただき、現在のリーディングの精度から推し量ってください。 非物質的な情報の解釈能力、分析能力が向上しただけで、情報自体の信頼性は今も昔も変わらないからです。 叔母は、亡くなる直前、幼い娘を残して死ぬのがつらくて、よく泣いたと言います。 そのせいか、私が非物質的に叔母に会いに行ってみると、叔母は再婚して、子育てをしていました。 その時の印象では、まだ子供は小学生ぐらいで小さかったような印象があります。 叔母は、健康で、生きて、普通の生活がしたかったのです。 その延長上を、私はF27にいる叔母に見たんだと思います。 Some rights reserved by TANAKA Juuyoh (田中十洋) | |
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◆この記事へのコメント(投稿順) | |
1. ふーみん 2015年8月16日 18時20分 [返信する] 戦争に故人(お盆繋がりで)、8月は何かと、「普段忘れていた事」を思い出させてくれる月でもありますね。僕は両親よりも、おじいちゃんおばあちゃん子で、二人とも亡くなっているため、早くヘミシンク上達して会いに行きたいです。 2. ポンスカル 2015年8月16日 19時6分 [返信する] 研究者としては、せめて「意識現象が科学で説明できる性質のものではない」ということを科学的に実証したいものです.... 3. ふーみん 2015年8月16日 23時35分 [返信する] 本日放送のドラマ(実話を元に再現したノンフィクション)『妻と飛んだ特攻兵』観ました。非常に心に響くものがありました。彼・彼女らの日常の覚悟に比べたら、私たちは、いかに『当たり前の日常』が幸せであるのかを気付くべきで…。また、私たちの日常的な不満が、いかに傲慢であるべきかを気付かされました。 今のこの感覚を胸に刻みつけ、なるべく忘れずに生きていきたいです。
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