チャネリングメッセージの捉え方、本来のスピリチュアルな生き方 | |
2015年10月13日 10時23分の記事 | |
スピリチュアルをやっている人は、自己犠牲とか奉仕が大好きです。 かくいう私もかつてはそうでした。 ただ、ここには誤解があります。
確かに、いわゆるチャネリングメッセージ、とりわけ長い間世界的に評価されてきたシルバーバーチやホワイトイーグルなどは、奉仕精神を発揮しなさい的なニュアンスがメッセージの中に散りばめられていましたし、最近出回っているチャネリングメッセージにも、おそらくそういうものが多いはずです。 ですが、ここには欧米の個人主義とアジアの集団主義という文化圏の違いもあります。 つまり、いわゆる伝統的なチャネリングメッセージは、個人主義の西洋諸国の人々向けのメッセージなので、奉仕精神が説かれやすいといった特徴を持っているところがあります。 他方で技術的な視点からみると、一口にチャネリングといってもいろんなやり方があります。 大きく分けてフルトランスかコンシャスチャネリングかでまず分かれます。 フルトランス状態のチャネリングとは、チャネラーさんの顕在意識が一時的になくなり、高次の存在のメッセージが一方的に伝えられるものです。 これに対して、コンシャスチャネリングは、チャネラーさんが顕在意識を保ったまま、伝わってきたメッセージを伝達するものです。 要は、チャネラーさんの顕在意識(今自分だと感じている意識)があるのか、ないのかに、違いがあります。 ですが、ここで注意が必要なのは、フルトランス状態のチャネリングといっても、純粋な意味での高次の存在からのメッセージというのはほとんど存在しないことです。 というのも、高次側に伝えたいことがあったとして、それをチャネラーに通したときに、チャネラー自身の潜在意識を必ず通過し、チャネラーの持つ語彙によって変換されるからです。 つまり、伝えたいことを言葉にする際に、チャネラーの生き方や物の考え方に影響される可能性があるわけです。 20世紀の初頭から半ばにかけて、多くの高次の存在は霊団を結成して、メッセージを何人かのチャネラーに伝えていたとされています。 それによってある場合にはモーゼスの『霊訓』という書が編纂され、別の場合にはホワイトイーグルとしてメッセージを降ろしてきた場合もありました。 ちなみに、ホワイトイーグル霊団の場合は、イエスの12使徒の一人であった聖ヨハネが中心霊であるとされています。 シルバーバーチ霊団は、その中心霊を明らかにしませんでしたが、メンバーはやはりかぶっていた可能性が高いです。 つまり、何が言いたいかというと、背後の霊団は大げさに言えば同じなのに、それを伝えるチャネラーによって説教くさくなったり、ならなかったりする場合があるのです(笑)。 その点、フレデリック・マイヤースの伝える書(ex.『永遠の大道』)などは、昔の本なので文体が読みづらいことを除けば、割と客観的に書かれてあったりします。 説教くさくないんですね(笑) 要するに、まず高次と我々との間で「自分」というもののとらえ方に食い違いがありますから、自分と他人という区別が明確になされる三次元世界において、そのまま奉仕の精神を持ちだすと、ほぼ100%誤解されていくことになります。 本来、スピリチュアルな生き方というのは、日常生活と切っても切れないものであり、現実世界に深く根差した生き方だと私は考えています。 超能力とか霊能力、UFO、宇宙人、スプーン曲げ、そういった奇怪なものだけがすべてであるようなうがった見方とは無縁のものだと感じます。 つまり、人間としての本来の生き方を説けば説くほど、二重にも三重にもねじ曲がってしまうところに、今の我々のものの見方・捉え方がいかに一面的であり、社会によって洗脳されているかが逆に見て取れます。 社会の洗脳が強ければ強いほど、社会を維持する考え方に染まっていき、それとは真逆の価値観なり捉え方を持つものを斜めから見たり、真っ向から否定します。 なぜなら、かつての日本の鎖国制度のように、ある特定のものの見方・考え方(鎖国の場合はキリスト教、ここの文脈ではスピリチュアル)を認めてしまうと、社会の基盤が崩れてしまう「のではないか」という不安感や恐怖心、社会への執着心を一部の支配者、ひいては社会を維持しようとする集団(組織、共同体、国家…)が頑なにもっているからです。 でも、もうそんな時代じゃないんですよね。 本来のスピリチュアルは、自分たちの考え方を多角的にして、物事を一面的でなく複数の視点から眺めることによって、より楽に、より柔軟に現実世界を生きられるようになるツールだと思うのです。 単なるツールですから、それを採用するもしないも、そもそも自由ですし。 幽霊が見えたとか、UFOが見えたとか、そんなことはどうでもいいことだと思います。 もちろん、UFOが見えたり乗れたら楽しいとは思いますよ(笑) ですが、そういうことが言いたいのではなく、スピリチュアルをうがった目で見るのは、もうやめましょうということを言っているわけです。 現実世界をいかにして生きるか、それが私たちが今ここにいる主目的であることは変わりがありません。 誰だってそうですよね。 面白おかしく生きたい。 それも結構。 何か自分なりにこれだといえることをやり遂げたい、。 それも結構。 家族を大切にして、みんなで楽しく暮らしたい。 それも結構。 突き詰めると、本来のスピリチュアルな生き方というのは、上で述べたような自分自身がこうしたい、こうありたいという生き方ができるようにするためのアドバイスというかノウハウの提示だと思うのです。 ですから、証明なんてかたっ苦しいことは不要ですし、やってみてうまくいったらそれでいいわけですね。 より楽に、自由に、望み通りに、自分の理想とする現実を生きていくこと。 それはいけないことじゃないし、夢物語でもないです。 それは現実に可能ですし、そうしていいのだと思います。 Some rights reserved by midorisyu | |
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◆この記事へのコメント(投稿順) | |
1. aohaku 2015年10月13日 12時43分 [返信する] ものすごく!!共感します。 いわゆる”スピリチュアル”な世界の方って、使命感が強かったり、一生懸命だったり、明らかに偏ってたりして、どうも違和感を感じることが多いのでかえってあまり興味がなくなりました。それも、その方にとっての通る道なのかな、と思ったりしますが。 でも、ヘミシンクから入られた方は、比較的バランスがいい方が多いような気がします。
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