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〈助太刀兵法16〉 十五夜石舞台 (無料公開)
[【時代小説発掘】]
2012年3月24日 20時10分の記事


【時代小説発掘】
〈助太刀兵法16〉 十五夜石舞台
花本龍之介 



(時代小説発掘というコーナーができた経緯)


梗概
 三輪へたどり着いた飛十郎は、お日美に祖父である造り酒屋の三諸屋勘右衛門の屋敷へ案内された。目の前に見える箸墓にまつわる蛇神の奇怪な伝説と、耶馬台国の女王・卑弥呼の話を聞く。その夜、三諸屋は盗賊に襲われ土蔵が破られる。飛十郎の活躍で賊を撃退するが、勘右衛門から満月が出る十五夜の日、お日美を石舞台へ連れて行ってくれと頼まれる
 

【プロフィール】:
尾道市生まれ。第41回池内祥三文学奨励賞受賞。居合道・教士七段。
現在、熱海に居住している。



これまでの作品:
[助太刀兵法1]鎌倉しらす茶屋  
[助太刀兵法2]人助けの剣
[助太刀兵法3]白波心中
[助太刀兵法4]おとよの仇討 
[助太刀兵法5〕神隠しの湯
〔助太刀兵法6〕秘剣虎走り
〔助太刀兵法7〕象斬り正宗 
〔助太刀兵法8〕討ち入り象屋敷 
〔助太刀兵法9〕夜桜お七
〔助太刀兵法10〕夜桜お七 (2)
〔助太刀兵法11〕柳生天狗抄 (1)
〔助太刀兵法12〕柳生天狗抄 (2)
〈助太刀兵法13〉柳生天狗抄(終章)
〈助太刀兵法14〉山の辺道中
〈助太刀兵法15〉山の辺道中(2)

猿ごろし

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【時代小説発掘】
〈助太刀兵法16〉 十五夜石舞台
花本龍之介 



一 薬井戸         

 山の辺の道は、大和の国・奈良から飛鳥道の出発点となる桜井宿までの、六里半(約二十六キロ)のことをいう。その名のごとく、大和盆地を取り巻く青垣のような、山脈の裾を巡る古代の街道である。
 早船飛十郎は、ふとした縁で旅の道連れになった、お日美と二上山の向こうに夕陽が沈んだ直後に、三輪明神のすぐ傍にたどり着いた。
「そろそろ喉が乾いてきた。そこの茶店で休もうではないか」 
 飛十郎が止めた足の先に二軒の茶店が見え、手前の店から出てきた小女が、軒先の提灯に火を入れたところだった。道は茶店の間で二つに分かれ、右にむかう道はゆるやかな下りの坂道になっている。
「なんや、もう休むのかいな。早船さんは侍のくせに、ほんまに足が弱いなあ」
 お日美は、あきれたように飛十郎の顔を見た。
「そういうな。おれが弱いのではない、おまえの足が達者すぎるのだ」
「そんなこと、あらへん。うちは、普通や」
 そう言いながら、お日美は左に見える小さな鳥居の奥を覗き込んだ。
「そうや。この狭井明神さんには、大和の国一番という、おいしい水が涌き出るんや。茶店へ入るなんて、お金の無駄や。その水を飲みなはれ、早船さん」
「なんだと、水を飲めというのか」
 ふところ手を胸元から出して無精髭をこすると、飛十郎は顔をしかめながら、鳥居の先に見える石段に目をやった。
「薬井戸ゆうてな、三輪山から涌き出す、ありがたい霊水や。どんな難しい病いでも、ぴたりと直るんやて。早船さんの喉の乾きなんか、たちどころや」
「ううむ……、水か」
うなるような声を、飛十郎は出した。
「そこの茶店も、薬井戸の水でお茶をたててるんや。おんなじことやないか。さ、いこ」
 飛十郎の袴の紐をつかむと、お日美は強引に歩き出した。
 せまい参道に立ち並ぶ石燈籠の中の燈明皿に灯された火が、ちらちらと揺れ動き、空を真っ赤に染めた夕焼け雲とともに、柄にもなく飛十郎に人恋しい思いをいだかせた。
 石段を上がり、二本の杉の神柱(かんばしら)の間に張られた注連縄の下をくぐって、すぐに足を止めた。
「ほら、そこから三輪山へ登るんやで」
 拝殿へむかう途中に、人ひとりがようやく通れるほどの細い山道が、杉木立の暗がりに消えているのが見える。
「名高い三輪山なら、おれも登ってみたいものだ。なにしろ三輪明神は、酒の神だというからな」
「それは無理や。この三輪明神さんは、日本で一番古い神社や。伊勢神宮や出雲大社より古いんやで。そのうえ、お山そのものがご神体や。普通の人が登れるわけないやろ」
 見ると山道の入口にも注連縄が張りめぐされ、杉板で作られた木戸には錠が掛けられている。
「もう何千年ものあいだ神官さん以外誰ひとり登った者は、おらへんゆう話や」
「しかし長いあいだには、一人や二人はこっそり山へ入った者がいるだろう」
「たしかに、いたそうや。けど山頂にある岩座にたどり着いたとたん、雷に打たれて黒焦げにならはったそうや。いまでも大きな岩のあいだに真っ黒い骨が、ぎょうさん散らばってるそうやで。おお、怖わ」
 首をすくめながら、お日美は森の闇の中に消えている山道を見あげた。
「なるほど……。雷に打たれたか」
 そう飛十郎はつぶやいたが、恐らくこの霊山に仕える神人たちが、禁足地を浸した不届き者を捕らえ、見せしめのために火刑にしたに違いない。と思っていたが、いずれにせよ何千年も昔のことである。
「そんなことより、早ようご神水を飲みにいこ」
 本殿の前で足を止めたお日美は、軽く頭をさげて小さな両手で柏手を打つと、さっさと左の奥にある薬井戸のほうへ歩いていった。
「これが有名な狭井のご神水や。喉が乾いてるんやろ。早よう飲みなはれ」
 慣れた手付きで薬井戸の釣瓶を引き上げると、水をすくった柄杓を飛十郎の顔の前へ突き出した。
「うむ。では、馳走になろう」
 お日美から受け取ったご神水を、飛十郎は一息で飲み乾した。
「ほんまなら、綺麗な巫女さんが汲み上げて、飲ませてくれはるんやで」
「ほう。その巫女は、今どこにいる」
 あたりを見廻しながら、飛十郎はお日美に柄杓を返した。
「さあ。たぶん早船さんが、神さんを信じてへん不心得もんやから、どこぞへ姿をかくしはったんやろ」
「ふ、ふふ、そうかもしれんな」
 飛十郎は苦笑いをしながら、がっしりした石組みの苔むした薬井戸を覗き込んだ。さぞ井戸の底は深かろうと思っていたのが、予想に反してすぐ目の下に水面が見える。満々と霊水をたたえた古井戸は、泉のように地底から涌き出ているのか、青く透き通った水の表面が盛り上がっていた。
 まさしく大和の国一番、と呼ばれるにふさわしい名水である。この清水で醸(かも)した酒ならば、さぞうまかろう。飛十郎は、思わず生唾を呑み込んだ。
「ああ、おいしい。ほんまにここのご神水は、いつ飲んでも冷めとうてうまいわ。早船さん、もう一杯おかわりどうや」
「いや、水はもうけっこうだ。それより音にきく三輪の旨酒(うまざけ)を早く味わいたい。さっきの茶店で待っているぞ」
 右手を袖に入れて振りむくと、飛十郎は歩き出した。
「ふん、なんや、狙いはやっぱり酒かいな。そんなに急がいでも、お酒は逃げへんよ。うちのお爺ちゃんは、造り酒屋やで。茶店なんかで呑まんかて、酒蔵にはなんぼでも、おいしいお酒があるやないか」
 ぶつぶつ言いながら、お日美は飛十郎のあとを追いはじめた。


二 いにしえの京

〔そうめん・甘酒・めし・かん酒〕と染め出した奈良晒しの麻のれんを、かき分けて入ろうとした飛十郎に追いついたお日美が、刀の鞘の先を掴んで、山の辺の道へ引き戻した。
「なんだ。あいかわらず無茶なやつだな。刀が抜けたら、どうする」
 あきれ顔で舌打ちすると、飛十郎は腕組みをして、お日美を見おろした。
「そやけど、どうしても早船さんに見てほしいもんが、あるんや」
「しかし、今でなくともいいだろう。すこし茶店で休ませろ」
「駄目や、今でなきゃあかんのや。」
 お日美は、二軒の茶店の間の狭い道を下りはじめた。
「おい、山の辺の道はこっちだろう」
 茶店の麻のれんを未錬気に振り返ると、茶店の前を真っ直ぐに伸びて、杉木立を抜ける道のほうを飛十郎は眺めた。
「ちがう、そっちは薬道や。三輪明神さんの境内へ入ってしまう。こっちのほうが山の辺の道や」
 下り道で立ち止まったお日美は、手招きすると右にある小高い岡にむかって登りはじめた。
「まいったな……。こんどは山のぼりか」
 ぼやきながら、飛十郎は仕方なくその獣道のような、細い山道を上がっていった。
「早よう、早よう!。二上山が綺麗やで、まるで燃えてるようや」
 夕暮れ時の山道は、ひどく暗い。つまずかぬよう用心をしながら、折れ曲がった山道を歩く飛十郎にむかって、お日美が叫んだ。
「ひと息つかせてくれ。息が切れて、かなわん」
江戸には、山が無い。旅に出るようになって箱根山をはじめ、さまざまな山に出会ったが、そのたびに閉口した飛十郎である。
「おう、これは……」
 お日美を追って、どうにか岡の頂きにたどり着いた飛十郎は、目の下に広がる光景に思わず息をのんだ。
「ここは、柿山ゆうてな。三輪の町と飛鳥の里を見るのは、ここが一番なんや。綺麗やろう」
 両手を腰に当てて胸を張ると、お日美は自慢げに飛十郎を見た。
「そうだな。お日美、いいところへ連れてきてくれた」
 二上山の向こうに沈んだ夕陽はすでに見えなくなっていたが、残光が空を茜色に染めて、たなびく細長い雲を黄金色に縁取っていた。
 生駒から信貴、葛城から金剛へと続く山並みの中では、雄岳と雌岳が仲良く並ぶ二上山が、やはり目を引く。雄岳の頂きには、謀叛の疑いで処刑された大津皇子の墓があると言われている。その山々の底に、黄昏どき特有の淡い藍色に染められた集落が見える。ところどころで立ちのぼっている白い筋は、夕餉を炊ぐための竈(かまど)の煙りであろう。その中で、ひときわ高く屹立しているのが、三輪明神の巨大な鳥居だった。
「ほら、あれが一の鳥居やで。その左むこうに見える姿のええ小山が、耳成山(みみなしやま)や。耳成の右どなりが畝傍山、左どなりが天の香具山や。有名な大和三山やけど、遠すぎて香具山さんはよう見えんなあ」
 小手をかざししながら、お日美は言った。
「ところで、飛鳥はどのあたりに見える」
「そら無理や。飛鳥は、ここからは見えへん。もっと、ずうっと先や」
「というと、あの耳成山のむこうあたりか」
 ふところ手を袖から出すと、飛十郎は形のいい小山の先を指差した。
「ちがうわ。耳成のむこう側にあったのは、藤原京や」
「藤原京? なんだ、それは」
「奈良の平城京の前にあった、天皇さんの住む都や」
「ほほう。二つとも都か……。なるほど」
 飛十郎は、首をひねりながら言った。
「まさか、早船さん。平城京を知らんことはないやろな」
「む。どこかで聞いたことがある、ような気がするが」
 頭をかいて振り向くと、飛十郎は三輪山へ目をやった。
「あきれて、ものもいえんわ!。それで、よう山の辺の道を歩きたいとか、飛鳥へいきたいとかいえるわ」
 憤然として、お日美は飛十郎を睨んだ。
「まあ、そう怒るな。飛鳥へは、酒船石とやらを見にいくだけだ。ついでに、その藤原京というのも見物してもいいが」
 思わず、お日美は溜め息をついた。
「藤原京ゆうのはなあ……。耳成山の近くにあった言い伝えが残っているだけで、今いっても何もあらへん。あたり一面、田圃があるだけや。ほんまに早船さんは、なんにも知らんなあ」
「すまん。たしかに、おれはこのあたりのことは、なにも知らん」
目の前に広がる、いかにも大和の国らしい風景を眺めながら、飛十郎は苦笑いを浮かべた。
「ほんまに、うちのほうが、よっぽどもの知りや」
「その通りだ。なにもかも、お日美に教わらなくてはならぬ。たのむぞ」
 飛十郎は、そう言って頭を下げた。
「へんな人や。うちみたいな子供に、侍のくせして頭を下げたりして……。まあ、そこが早船さんの、ええとこや思うけどな」
 二人のはるか下に見える三輪明神の一の鳥居の両側に、ぽっと火がともった。常夜燈に明りが入ったようだ。あちこちに点在する集落にも、ちらちらと明りがまたたきはじめた。
 ―――あの灯火(ともしび)の一つ一つにも、それぞれの家族の暮らしの、喜びや悲しみや苦しみがあるのかもしれぬ………
「お日美、三諸屋はここから見えるのか」
「無理や。ほら、あそこに、こんもりした森があるやろ。あの森のむこう側やから」
 急速に光を失っていく黄昏の風景は、すぐに海の底のように青一色になって、いくつも見える森のどれがお日美の言った森か、飛十郎には見分けがつかなかった。
「なあ、もう行こ。三輪明神さんへお参りするのは、朝早くか暗くなる前の今頃が、一番ええのや」
 お日美は、岡をくだる坂道にむかって歩き出した。
「けど、感心に酒船石のことだけは、よう知っとったもんや」
「江戸の本所松阪町に住む、安達屋藤兵衛という男に教わったのだ。大和の国の高市郡にある飛鳥には、酒船石や石舞台という名所があり、ほかにも見たことがないような珍しい石造りの像があるといっていたな」
「ふうん。きっと藤兵衛さんは、飛鳥へ行ったことがあるんやな」
「ああ。見世物や旅役者の一座といっしょに、飛鳥へは何度もいったそうだ」
「このあたりには、京や大坂の芝居もよう廻ってくるからなあ。そういえば、うちも江戸からのぼってきた旅の一座を見たおぼえがあるわ。藤兵衛さんも、いたかもしれへん」
「いや、藤兵衛がこのあたりへきたのは、何十年も昔のことらしい。えらく若い頃だったというからな」
「ほな、ちがうわ」
 そう言って坂道の最後にある細い溝を、ぴょんとお日美は飛び越えた。
「さあ、この山の辺の道をくだった先が、二の鳥居がある参道や。うちは、ここまでくると、もう家に着いたような気になるのや。どうしてかな?」
 お日美は首をかしげて言うと、山の辺の道のゆるやかな坂を歩きはじめた。
 ―――どうしてかわからんが、人には誰しもそういった場所があるのかもしれぬ。おれの場合は、それは川と橋だ。どこへ行こうが、大川の水を眺めて、両国橋や新大橋を渡る。あるいは万年橋や高橋などの小橋を渡れば、たちまちのうちに小名木川に面した海辺大工町にある裏長屋の、わが家に帰ったような気になる。
「ふむ……。あれは、どうしたわけだろうな」
 暗くなりつつある山の辺の道から目を上げた飛十郎は、思わずはっとして走り出した。
「まて! お日美」
 十間(十八メートル)ほど先の民家の角を曲ろうとしたお日美は、飛十郎の声に驚いたように足を止めた。
素早く駆け寄ると、飛十郎は立ちすくんでいるお日美を、背後に押しやった。
「あまり離れては困る」
「なんやの。ここまでくれば人も多いし、心配あらへん」
「いや、油断はできぬ。二度あることは三度ある、というからな」
 十三歳のお日美を二度までも襲撃させた、楠公の政五郎という顔役の執拗さに、飛十郎はただならぬものを感じていた。


三 犬の術

 歩きはじめようとするお日美を手で制すると、飛十郎は曲がり角から顔を出した。夕闇があたりを包みはじめて、一筋の白い道が伸びているのは見えるが、左右の家々はすでに暗くなっていた。
「む。あれは、なんだ」
 右手に連なる家の二軒ほど先に、神職のものらしい屋敷があった。そのひときわ立派な門の内に、黒々とうずくまっている物が見えた。
「そこを動くな」
 お日美に声を掛けると、飛十郎は足元に落ちている小石を拾い上げて、門にむかって放り投げた、
きゃんと声を上げると、太い尾を丸めた黒犬が門から飛び出すと参道にむかって逃げていった。
「ふん。なんや、野良犬やないか」
 飛十郎の後ろから顔を出したお日美が、鼻を鳴らして言った。
「ちがう。あれは、目くらましだ。あの奥にまだいるぞ」
 刀の鯉口を切ると、飛十郎はのっそりと道の真ん中に出ていった。
「出てこい! そこにいるのは、わかっているぞ」
 飛十郎は、軽く両拳を握ると脇におろした。これは、何時でも抜き討ちが出来るという、後の先の構えである。
「ふ、ふふふ……」
 不気味なふくみ笑いとともに、暗闇の底から黒い影が、滲むように浮き上がってきた。同時にそれまで消していた気配が、一転してさすがの飛十郎もひるむほどの、凄まじい殺気となって襲ってきた。
「きさまが、早船飛十郎か。うわさ通り、なかなか出来るな」
 ふらりと道に出て来たが、参道に立っている常夜燈の明りのために、逆光になって姿がはっきり見えない。古来より兵法の心得の一つに〔日輪を敵の背におわせるべからず〕というのがあるが、それと同じ状況になったわけである。
――これは、まずい……
 舌打ちする思いで、飛十郎は周囲に目をやった。家の奥で物音はするが、外に出てくる様子はない。参道のあたりを行き来する参拝者の人影は見えるが、やはり山の辺の道に入ってくる者はいない。
 斬られるかもしれない。そう飛十郎が思った時、黒い影がゆらりと前へ動いた。
「おぬし! 妙な術を使うではないか」
 後ろへ下がりながら、飛十郎は大声で言った。
「術だと、なんのことだ」
 ありがたい、話に乗ってくれた。
「犬を使って、気配を消したであろう」
「ふ、ふ。きさまこそ、犬に石なぞ投げて、けしからんやつだ。生き物というのはな、こうやって」
 短く口笛を吹くと、黒犬があらわれて男の足にじゃれつきはじめた。
「可愛がってやらねばならぬ」
 手を伸ばして犬の耳の後ろをくすぐりながらも、飛十郎に放射する殺気はますます強くなった。
「おぬしは、やはり狂っている。犬は可愛がるが、人は平気で殺すだろう。どんな育ちか知らぬが、性根がねじ曲がったな」
「ふざけたことを―――。黒、いけ!」
 激怒した男が、ひゅっと口笛を吹くと、それまで遊んでいた黒犬が、うなり声を上げると牙をむき出して飛十郎に突進してきた。
「これは、いかん」
 身をひる返えして逃げようとした飛十郎の耳に、待ちかねていた音が聞こえた。
 外の騒ぎに気付いた住人たちが、表座敷で火打ち石を打ったのだ。家の窓や長屋門の障子が、明るくなった。それまで黒い影でしかなかった男の顔と犬の姿が、はっきりと照らし出された。
「待て、黒」
 口笛が鳴ると、犬は反転して男の足元へ駆け戻っていった。
「命びろいしたな、早船飛十郎」
「かも、しれぬ」
 低く腰を落とした居合の構えのまま、飛十郎は答えた。
「その黒犬を斬っても、つぎに襲ってくるおぬしの剣は、かわすことが出来なかったろう」
「おれも、そう見た。だから犬を止めたのよ。きさまを斬っても、黒が殺されてはなんにもならぬからな」
 黒紋服を着流して、刀を落とし差しにした男は、削(そ)げた頬にうっすらと冷たい笑みを浮かべた。家紋は、三日月に星を組み合わせた珍しい図柄である。
「おぬし、剣は相当できると見たが。これまでに、何人斬った」
「ふ、ふ、数えきれぬほどだ。いちいち、覚えてはおらぬ」
 男は、にやりと笑った。
「そんなおぬしが、犬を斬られるのは、それほど嫌か」
「今のおれには、この黒のほかに失うものはない」
 男はそう言って、凄みのある笑いを浮かべた。が、目は笑わない、冷たく冴えた視線のままである。
「おかしいか、早船」
「いや、おかしくはない。なにを大事に思うかは、人それぞれだからな」
「ほう、面白いことを聞く。これまで、おれが黒に執着するのを見て、笑うやつはいたが、そんなことをいったのは、きさまだけだ」
「こんなことで、おれは笑わんさ」
 飛十郎は、そう言って無精髭をこすった。
「そうか、近いうちにまた会おう。きさまとは、剣の決着をつけねばならんからな」
「どうしても、やる気か」
 これまでの相手と違い、この男と刀を抜き合わせれば、必ずどちらかが命を落とすだろう。と飛十郎は思った。 
「おう。きさまが、その小娘を守っているかぎりはな。そいつを攫うか殺すのが、おれの仕事だ」
「ならば、仕方がない。おれは、このお日美を守るのが、仕事だからな」
「聞いたぞ。二朱で請け負って、五両を蹴ったそうだな。ふ、ふふ、面白いやつだ」
「ひとつ訊ねるが、楠公の政五郎はどうして、この娘にこだわる」
 ずっと疑問に思っていたことを、飛十郎は口にした。
「なに? 楠公政なぞ、おれは知らぬ。おれを使っているのは、もっと大物だ。きさまなど想像もつかぬ雲の上の人間だ」
「誰だ。そいつは」
「それがわかるのは、きさまが死ぬ時だ。安心しろ。とどめを刺す前に、雇い主の名は教えてやる」
 三輪明神の参道にむかって、黒が低くうなり声を上げた。飼い主と同じように、暗く凄味のある声であった。
 このあたりの住人か、賑やかな声とともに四、五人ほどの人影が山の辺の道に入ってきた。殺気に満ちた浪人の姿と、不気味な犬のうなり声に、ぎょっとして立ちすくんだ。
「これまでだ。あばよ、早船飛十郎」
 袖をひる返すと、参道にむかって歩き出したが、すぐに足を止めて飛十郎を見た。
「その構え。居合と見たが、流派は?」
「無双直伝英信流だ。おぬしは」
「陰流」
 言い捨てると、男は町人たちには目もくれず歩き出す。黒犬は、ぴったりと足に寄りそっている。
「まて。おぬしの名は」
「土雲典膳、覚えておいてもらおう」
 足早やに歩き出すと、典膳の姿は闇の中へ溶け込むように消えてしまった。ぞっとして顔を見合わせると、恐る恐る町人たちは家へむかって歩き出した。
 飛十郎は、ようやく肩の力を抜いた。刀に掛けていた手を離すと、指でひたいに浮かぶ汗をぬぐった。
「ああ、気味がわる。犬が吠えかかった時には、噛み殺されるかと思うたわ」
 よほど恐かったのか、お日美の顔色が変わっていた。
「大丈夫だ。おれがついている限り、あの犬にそのようなことはさせぬ」
「思うたより早船さんもだらしないな。あんな男、やっつけてしまえば良かったのに」
「そう手軽にはいかん」
 苦笑しながら、飛十郎は夜空を見上げた。思ったより近くに星が光っているのが見えた。
「けど、昼間は七人もいたのに、あっという間にやっつけたやないの。大きな黒犬はいたけど、さっきはたった一人やないの」
「わからぬか、お日美」
 飛十郎は一番星から、勝気そうだが何処となくあどけなさの残る、お日美の顔に目を移した。
「あの七人は、人に食べられる雑魚たちだ。しかし、さっきの男は、人を喰う獰猛な鮫なんだぞ」
 三輪明神の参道に見える常夜燈にむかって、飛十郎はゆっくりと歩きはじめた。


四 三輪の神

「ほう、一日のうちに三度も襲われましたか。それは難儀なことでございましたな」
 軽く眉をひそめると、三諸屋勘右衛門はにこやかに笑って、飛十郎の盃に酒をついだ。
 ――不思議な男だ……
 孫娘が、ならず者たちに攫われかけたというのに、さほど衝撃を受けていないように見える。よほど胆が太いか、前もって襲われることを予期していたかの、どちらかだろう。
 勘右衛門から視線をはずすと、飛十郎はあらためて客座敷を見廻した。江戸の大店の家作もたいしたものだが、酒の神を祀る三輪明神のお膝元、三輪の町でも一、二といわれる酒造りの老舗だけあって、三諸屋の家屋敷も見事なものだった。まず二、三万石の大名屋敷に匹敵する広大さであろう。
「む。これは、うまい」
 酒を口にふくむと、飛十郎は思わず感嘆の声をあげた。まずいはずがない。蔵元が孫娘の命の恩人にふるまう、蔵出しの酒だ。
「お口に合いましたかな」
 勘右衛門は、うれしそうに銚子を持つと、すかさず盃につぎたす。口に合うどころの騒ぎではない。だが、少々強い。水臭い安酒と違って、とろりとした濃さがある。
「三輪の旨酒、という名でございます。お気にいりましたら、いくらでもどうぞ。なにしろ――」
 言葉を切ると、勘右衛門は何度も披露した、気に入りの冗談を言うときの顔になった。
「うちの蔵には、それこそ売るほどございますからな。は、ははは」
「いや。まことに名の通り、じつにうまい酒ですな」
 飛十郎は呑み乾した盃を置くと、豪奢な金蒔絵の高足膳にのせた料理から、鯉の洗いを取りあげると口に入れた。
「大和はご覧の通り山国、江戸とは違って粗末な料理しかなくて、まことに恥ずかしゅうございます」
「なんの。こちらは江戸といっても、深川の裏長屋住まい。このような馳走はひさかた振りで、胃の腑のやつが目を廻している」
 盃になみなみと注がれた酒を一気にあおると、飛十郎は早くも酔いが発した目で、膳の上を見渡した。
「鮎の塩焼きと、胡麻豆腐と、どじょうの筏焼きも絶品であったが、とくに小鉢の海鼠腸(このわた)がいい。それに、これは鱲子(からすみ)だと思うが、じつにうまい。それから、この塩辛だ。鮎の腹わたを塩漬けにしたものだが、名はなんといったかな? たしか」
「うるか、でございますか」
「それだ! うるかだ。じつにもって、どれもが酒によく合う肴だな。さすがは大和一番といわれる造り酒屋だけのことはあるぞ、三諸屋」
「かたじけのうございます。ところで早船さま、一の宮の三輪明神には参拝なさいましたかな」
「おう。まいったぞ、お日美どのと一諸にな」
 酔いが醒めたような顔をすると、飛十郎は三輪山のほうへ目をやった。開け放った障子のむこうは広い池になっていて、その水面(みなも)を吹き渡る風は、まことに心地よい。その池の先はこんもりと茂った森にさえぎられて三輪明神は見えなかった。
「いかがでございました」
「うむ。正直いって驚ろいた。森厳といっていいか、荘厳といってよいか。まさに、すぐそこに神々がいる、という感じだったな」
感心して首を振ると、飛十郎は料理膳の左右に置かれた行灯の明かりを眺めた。座敷にある行灯は二つだけではない。勘右衛門の横に一つ、残る一つは二間はあろうかと思える広い床の間の前に置いてあった。
 せっかくの料理が見えぬのは味がない、座敷が暗くて陰気なのも面白くない。といって勘右衛門が召使いたちに、なんと四つも行灯を持ってこさせたものだ。
 この時代、油は安くはない。この屋敷は菜種油を使っているようだが、飛十郎などは煙りと臭いの強い魚油を使っている。それも半刻(一時間)も灯せば、もったいないような気がして、あわてて吹き消して寝床にもぐり込むありさまだ。
「なんといっても三輪明神は、わが国で最古といわれておりますからな。いにしえの昔は社殿など一つもなく、神に仕える者たちは山に分け入って、祭祀をおこなったそうでございます」
「最古とか、いにしえの昔とかいわれても、よくわからん。いつ頃のことだ、三諸屋」
「さよう、はっきりとはしませぬが。ま、およそ二千年ほどは前のことでしょうな」
「ふうむ……」
 飛十郎は思わず溜息をもらすと、無精髭をなぜ廻した。
 東照大権現家康が、江戸に幕府を開いてほぼ二百数十年あまり、それでも充分に長すぎると思っている飛十郎だから、二千年といわれると雲を掴むような話で、唸(うな)るしかない。
「しかし、いまは立派な神殿があるではないか」
「ああ、あれは拝殿でございます。なにしろ御神体は、神名備山たる三輪山でございますからな。神殿はありません。あの拝殿とて何度も建て直されて、最初の創建はいつの頃やら、てまえには見当もつきませぬが。恐らくこのあたりを治めていた大王家が造ったものでしょうな」
「大王とは、聞きなれぬ言葉だな。なんだ、それは」
 鮎の身を箸でつまむと、口の中で味わいながら飛十郎は、目の前の池を眺めた。風が吹くたびに寄るさざ波が、かすかに見える。
「のちの世の、帝(みかど)のようなものですな。ですが早船さまもご存知のように、政事(まつりごと)の実権が武家がたに移行いたしますと、その時々の権力者が拝殿を修築いたしました。ご覧になられたのは、四代将軍家綱さまが建てられた拝殿でございます」
「おう、家綱がな」
 盃の酒をぐいと呑み乾すと、飛十郎は威勢のいい声を出した。銘酒など呑みつけぬ躰に、予期した以上に酔いが廻ったようだ。
「名高い三輪の〔三つ鳥居〕は、ご覧になりましたかな」
「いや、それがな、拝殿の奥を覗いてみたが、なにぶん暗くてよくわからなかった」
 頭をかきながら、飛十郎は答えた。
 三つ鳥居というのは、鳥居の両側に小形の鳥居を半分づつ組み合わせた、日本でも三輪明神しかない珍しいものらしい。
「だが、巳(み)の神杉は見たぞ。拝殿の右手にある、立ち枯れた杉の巨木の洞(うろ)に蛇が住む、というあれだ。洞の前に参拝の者たちが供えた生卵や酒が、いくつも置いてあったな。そうだ、酒といえば拝殿正面の軒下に吊り下げてある〔酒ばやし〕も見たぞ。江戸の酒問屋で見る小さなものではなく、あれの五、六倍はありそうな巨大な杉玉だった」
「なにしろ日の本で初めて酒を醸(かも)したのは、三輪山の神だといわれておりますからな。冬になれば、神杉の葉を束ねて酒ばやしを作り、全国の造り酒屋へ送るのも三輪明神の巫女たちの大切な仕事のひとつでございます」
「ふむ……」
 飛十郎は酒を口にふくむと、じっくり味わうかのように軽く目を閉じたあと、勘右衛門を見た。
「杉玉というのは、江戸の酒屋へ新酒が入ったという目印だが。それが三輪明神で作られていたとは知らなかった」
 そう言って飛十郎は、床の間に目をやった。
「見事な蛇の木彫だが。三輪明神と、なにか関わりがあるのか」
「はい。これは左甚五郎の作だと、言い伝えられております」
 は勘右衛門は、大蛇の置物を見た。大きな蛇がとぐろを巻き、三尺(一メートル)あまりの高さに鎌首を持ち上げ、牙をむき出してかっと口を開けて、今にも人を呑もうとしている。
「伝承では、三輪山のご神体は大蛇(おろち)だといわれております。山を八巻する巨大な蛇で、お山には千谷あると言い伝えられていますが、これまでに九百九十九谷しか見つけた者はおりません。残る千谷目   に、その大蛇が住んでいるというのです」
「そいつは、面白い話だな」
 飛十郎はふところ手になると、もう一度かっと口を開いた恐ろしい形相の蛇を見た。
「この蛇神さまには、わが家でも不思議なことが起きております。毎年大晦日になると、この床の間に注連縄を張り、新年一日には一升枡になみなみと酒を入れて供えますが、三が日のあいだに必ずその枡が空になります」
 ごくりと喉を鳴らして、飛十郎は身を乗り出した。


五 箸墓

「つまり、真夜中になるとこの蛇が動き出して、一升枡の酒をぺろりと平らげるのだな」
「さようで。このことは三輪の里から桜井宿にかけて、有名な話でございます。また蛇神さまといえば、三輪山には奇怪な伝承がございます」
 勘右衛門は振り返ると、夜風にざわめく鬱蒼とした森を指差した。
「あれに見えます森は、箸墓と呼ばれております」
「箸とは、また変わった名の墓だな。なにか由来があるのか」
「ございます。あの箸墓は、大和でも最古の陵(みささぎ)ですが、埋葬されているのは倭迹迹日襲姫(やまとととびももそひめ)さまといわれております」
「何者だ。その舌を噛みそうな名の姫ぎみは」
 顔をしかめて、飛十郎は聞いた。
「十代崇神天皇の大叔母といわれているお方です。宮中に祀られた神に仕える巫女であり、国家に重大事が起きれば神依りの儀式をおこない、わが身に神を宿らせて、おのが口から神託を告げたといわれております」
「たいした、お人だったのだなあ。あの陵に眠る姫ぎみは……」
 飛十郎は、里芋の煮っ転がしを口に放り込むと、星空を背にして黒々とうずくまる陵墓を見直した。
「まことに。その百襲姫さまの寝所へ、夜ごと笹百合を手にしてあらわれる、若き貴人がいたそうです」
「なに。若き身分のある男が、夜な夜な姫ぎみの寝床へだと。いったい誰なのだ」
 やにわに興味をそそられたとみえて、勘右衛門のほうへ身を乗り出した。
「どこの誰なのかわかりませぬが、月あかりや星の光りでおぼろげに見える、お顔やお姿はまことに凛凛しくご立派だったそうでございます」
「ふむ。その若者、おそらく有力な大豪族の王子だったかもしれぬな」
「はい、百襲姫さまもそう思われたそうで。ひと目で気に入られ、夜明けまで睦み合われたそうでございます」
「すぐに寝床へ入れ、朝まで睦んだだと? そいつはまた、思い切ったことをなさる姫ぎみだな」
 飛十郎は、あきれたような顔をした。
「まだ女が日輪だった時代のことですよ、早船さま。ともあれ、おたがいを深く気に入られたお二人は、それから幾度も枕をかわされたそうです」
「つまり、その若き王子は、毎晩姫ぎみのところへ通いつめたわけだな。平安の頃まであったという通い婚のようではないか」
 うらやましげな声を、飛十郎は出した。
「ところが、そんな仲睦まじい日々を過ごされて、幸せの極みであられた百襲姫さまにも、たった一つだけご不満がありました」
「なになに。凛凛しくて、立派で、金持ちで、高貴な若い美男が、寝部屋へ毎晩訪れてくれるというのに、まだ満足しないというのか。女というのは、まことにわがままな生き物だな」
 舌打ちをすると飛十郎は、ぐいと酒を呑み乾した。
「わけをお知りになれば、早船さまもそんなおっしゃりようは、なさるまい。百襲姫さまの夫である若き貴人は、寝所に明りを灯すことをひどくお嫌いになり、姫さまがうっかり火をつけようとなさると、きつくお叱りになったそうです」
「それは、またどうしてかな」
「てまえの話を聞けば、それがわかります。通ってくる夫は、来るときは真夜中、帰るときは一番鶏が鳴く前。妻がいとしい夫の顔を、じっくり眺めて見たいと思う。これは男に身をまかせた女なら、当たり前ではございませぬか」
 勘右衛門にそう言われて、飛十郎は盃を膳に置くと、腕を組んで首をかしげた。
「たしかに、当たり前だ。しかし、そこは百襲姫どののことだ。一計を立てて、ぱっと明りをつけでもしたのではないか」
「とんでもない。そんな無茶なことをすれば。怒った夫はもう二度と妻の前にあらわれますまい。百襲姫さまは、それを恐れられたのです」
「まさか、それはあるまい」
「いえいえ、前にもこんなことがありました。夫がどこにすんでいるか、知りたく思われた姫さまは、召使いや兵士たちに何度も後をつけさせましたが、きまって山の辺の道のあたりで、ふっと姿を見失います。早船さまのいう一計を立てた姫さまは、帰る夫の衣服の裾に、苧環(おだまき)に巻いた赤い糸をむすびつけ、明るくなってから跡をたどったところ、やはり山の辺の道でぷっつりと切れていたそうです」
「山の辺の道では距離が長すぎて、ちと住まいの見当がつきかねんな」
「見当どころか、妻のこの行いを怒った夫は、何か月も姿を見せなかったそうです。百襲姫さまは不安のあまり、気が狂わんばかりだったといわれております」
「なかなか気むずかしい夫だな」
「その気難しい夫も、しばらくするとまた姿を見せるようになったそうです。やはり姫さまを、いとしく思われていたのでしょうな。また元のように仲むつまじい夜がつづきました」
「そいつは、良かったではないか」
 盃を上げて口に酒をふくむと、飛十郎はこの物語の主(ぬし)が眠るという箸墓を眺めた。
「しかし、月日が流れると百襲姫さまは、また夫の顔をはっきり見たくてたまらなくなりました。今度はへたな策略など立てず、正面から夫に懇願されたそうです」
「無理もない願いだな」
「はい。夫もそう思われたのでしょう。初めは拒まれていましたが、妻のたび重なる頼みに、ついに一つの約束を守るならば姿を見せてもよい。と申されたそうです」
「で、その約束とはなんだ」
「姿を見ても、けっして声をあげて驚いたり、笑ったりしないこと。だったそうで」
「まあ、それも無理はないな。姿を見せたはいいが、妻に大声で笑われたり、びっくりされでもしたら、夫としてもかなわんからなあ」
 飛十郎は、長屋の女房たちが、亭主のだらしない姿を見て大笑いしたり、稼ぎの少ないのを怒鳴ったりしていたのを思い出していた。
「百襲姫さまは、どんな姿を見ても声をあげたり驚いたりしないと、かたく誓われたそうです。そこで夫は、あたりが明るくなったら、そこの櫛笥(くしげ)を開けてごらん。なかに私がいるから、といってお帰りになられました」
「なんだ、その櫛笥というのは」
「そうですな。紅やおしろいや櫛なぞを入れる、化粧箱のようなものですな」
「ふむ。人ひとりが入るというからには、姫ぎみの化粧箱はよほど大きな物だろうな」
 珍らしく理にかなったことを言った飛十郎の顔を、ちらりと勘右衛門は見た。
「さあ。ですが、姫さまが手に持たれたというから、さほど大きなものではありますまい。夜が明けて、三輪山の端しから日が昇ると、姫さまはさっそく宮居の扉をひらかせて、明るい光の中で櫛笥の蓋をあけました。すると中には、虹色をした美しい一匹の蛇がひそんでいて、頭をもたげて姫さまをじっと見ているではありませぬか」
 さっと風が吹きつけると、行灯の火が揺れ動いて、池の水面が大蛇が泳ぎ渡っているかのように、白く波立った。
「思わず、あっと声をあげた百襲姫さまは、不覚にも手にした櫛笥をとり落としてしまいました」
「そいつは、まずかったな」
目を閉じて、その場の情況を思い浮かべていた飛十郎は、思わず声をもらした。
「はい、じつにまずうございました。鏡のようにみがかれた床に、どさりと投げ出された蛇は、恐怖におののく姫の顔をうらめしげに眺めていましたが、やがて鎌首をもち上げると、ぱっと白い煙を立てて、毎夜姫の寝所を訪れる貴人に変化いたしました。それは百襲姫さまが闇の中で想像していた以上に、凛凛しく高貴で美しい、若き王子の姿でございました」
「悲鳴をあげて投げ落としたのでは、気むずかしい夫はさぞ怒り狂ったろうな」
「怒りましたな。泪を流してあやまる妻を冷ややかに見おろして、そなたは誓ったではないか、どんな姿をしていようが、けっして驚かないと固く約束した。なのに私を見て大声をあげ、あまつさえ私が入った櫛笥を投げるとは……。私はこれまで、これほど恥ずかしい思いをしたことはない。もう二度と、そなたに会うことはないであろう。そういって若き貴人は、たちまち雲を踏んで三輪山へもどって行かれたということでございます」
「まて。雲を踏む、とはどういう意味だ」
 飛十郎は、首をひねった。
「雲は空にあるものですから、それを踏むというのは空を歩く、あるいは飛行するということでしょうな。とにかく、三輪山へお隠れになってからは、そのお姿を見せたことはなかったそうです」
「姫ぎみは、声を出したことを後悔して、さぞ嘆き悲しまれたことだろうな」
 眉の間に皺をきざんで、飛十郎は盃をあおった。
「それはもう……。誓いを破ったわが身を責められ、お嘆きのあまり狂ったようになって、ついには箸で自分の陰(ほと)を突いて、おなくなりになったそうです」
「まさか。陰を箸で突いて死ぬなど、聞いたこともないぞ。たしかなことだろうな」
 信じられぬ、といった目で飛十郎は勘右衛門の顔を見た。
「たしかでございますとも。この伝承のため、あの陵は箸墓と呼ばれるようになったと、ちゃんと書いてありますぞ」
「いったい、何に書いてあるのだ」
「はい。日本書紀という古い書物の、崇神天皇紀のところに、はっきりと記載されております」
「日本書紀だと。知らんな、そんな書物は」
「わが国で、最初の歴史書でございますよ。飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)で即位された、天武天皇の詔(みことのり)で編修された正史で、神武から持統天皇までの各朝廷に伝わった神話や伝承や諸記録をまとめた書物です」
「なに。その天武天皇とやらは、飛鳥で即位したのか」
 飛鳥と聞いて、たちまち飛十郎は酔いが醒めたような顔をした。
「はい。兄君の天智天皇つまり中大兄皇子が、琵琶湖のほとりの近江京へ遷都されたあと崩御(ほうぎょ)されると、兄の子の大友皇子を攻め滅ぼした大海人皇子こそ、飛鳥で即位された天武天皇でございます。
この兄弟をお生みになったお方が、かの有名な斎明女帝です」
 むずかしげな言葉と、なにやら似たような名がつづくと、飛十郎は頭が痛くなってくる。
「いや、なかなか面白い話であった。しかし勘右衛門、おれは飛鳥に案内するようお日美に頼まれているのだが。飛鳥のどこへ連れていけばいいのか、まだ聞いていないのだ」
「明後日、八月十五夜の暮れ六つ(午後六時頃)に、石舞台までお連れください」
「うむ。石舞台というのは奈良でも耳にしたが、すぐにわかる場所なのだろうな」
 道に迷ったらかなわぬ、という顔を飛十郎はした。
「ご心配には、およびませぬ。石舞台は名高い場所、飛鳥に住む者で知らない者はおりません。それに桜井宿を飛鳥道に抜け、飛鳥の集落をさらに進めば、いやでも石舞台にたどり着くようになっております」
「わかった。それなら安心だな」
 手に持っていた盃を、飛十郎は裏返しにして膳の上に置いた。
「おや早船さま、もうお呑みになりませぬので」
 いぶかしげに、勘右衛門が聞いた。
「その気になれば、いくらでも呑めるが、このあたりが切りあげ時だ。これ以上やると、剣が使えなくなる。お日美どのどころか、自分を守ることも出来なくかるからな。ま、助太刀人の心得のひとつだ」
「よい、お心がけでございます。そういえば早船さまは、お日美に二朱で雇われなすったそうですな」
 勘右衛門は、ふところから紙包みを取り出すと、飛十郎の膝の前に押しやった。
「二十両ございます。失礼ながら、これからは三諸屋勘右衛門が、早船さまをお雇いいたします。そのかわり何があろうと八月十五夜の月が昇る前に、お日美を石舞台までお連れいただかなくてはなりませんぞ」
 行灯の火が風の揺れると、そう言い切った勘右衛門の目がぎらりと光った。そのせいか、表情が一変したように見える。
「よかろう。ひき受けた」
 すっと手を伸ばすと、飛十郎はあっさりと紙包みを、ふところに入れた。
「それにしても気がかりなのは、口笛ひとつで黒犬を自在にあやつる土雲典膳という浪人者ですな」
「なにか、心当たりがあるのか」
「いえ、ありませぬ。ありませぬが、気になるのは土雲という名でございます」
「ほう、土雲がどうかしたか。たしかに珍しい名だが」
「はるかな昔、天皇家の祖先が、この大和の国へ初めて来られた頃のことでございます。激しく手むかった者たちのなかに、土蜘蛛一族というのがあったそうです」
「土雲に土蜘蛛か。なるほど、同じ読みの名だな」
「地面にいくつもの深い穴を掘り、その穴とほかの穴を地下の道で結び、たがいに行き来して住み暮らしていたそうでございます。長く従わなかったようですが、ついには最後の戦に敗れ、そののちは朝廷に仕えて忠実なしもべになったやに聞いております」
「なんだと。土蜘蛛というのは、いまでも京の朝廷に仕えているというのか」
 驚いて、飛十郎は声を上げた。
「さあ、それは定かにはわかりかねまする。ですが、その浪人者は陰流を使うそうですな。あの流派は、かなり古うございましょう」
「古流だ。愛洲移香斎が、日向(現・宮崎県)の鵜戸の岩屋に参籠して、奥義を悟り開いたといわれている。陰の流れの技ともいい、洞窟に出入りする獣たちや、巣を張る蜘蛛の動きに妙を得て、剣のさばきを編みだしたとも伝えられている」
「ほほう。洞穴で、蜘蛛と一緒に暮らしたわけですな。なにやら土蜘蛛の伝説と、あい通じておりますな」
 感心したように、勘右衛門は首を振った。
「ともあれ陰流というのは、のちに上泉伊勢守の新陰流となり、さらには柳生石舟斎に伝えられて柳生新陰流へと発展して、ついには徳川将軍家のお家流となるわけだが……。陰流は、近頃とんと耳にせんな」
「これは噂でございますが、早船さま」
 勘右衛門は、声をひそめた。
「なんでも室町の頃、その愛洲さまというお方はひそかに御所へ参内し、その剣の妙技を帝に上覧したてまつったと言われております」
「ふうむ」
「それ以来、ひと知れず御所のなかで、陰流が伝えられているとの噂でございます。本当でしょうかな」
「俗に、火のない所に煙りは立たぬ。と申すからなあ。が、雲の上のことだ。おれにはわからん」
 飛十郎は腕を組んで、天井を見あげた。
「早船さま、陰流に忍びの技はまじっておりましょうや」
 身を乗り出すようにして、勘右衛門は聞いた。
「そうだな。新陰流の流れをくむ柳生新陰流には、たしかに忍びの術らしい不思議な剣技があった。ならば、その源(みなもと)となった陰流には当然、忍びの技がふくまれているだろうな」
「それならば、ふに落ちまする。古来より天下が乱れ、一朝ことあらば恐れ多くも禁裏の奥ふかくあらせる、かしこきあたりから勅(ちょく)をおびて全国へ散る、陰の舎人(とねり)がいるという噂でございます」
「ふむ。陰の舎人、というのか。知らなかったな」
「いずれも、陰流の手錬れだということです」
「あの土雲典膳も、その陰の舎人のひとりだというのか」
 凄まじい殺気を放ちながらも、黒犬に深い愛着を持つ、あの異様な痩身の浪人剣客を、飛十郎は思い浮かべていた。
「それは、手前にもわかりませぬ。陰流と聞いたもので、朝廷にかかわりのある陰の舎人を思い浮かべただけでございます」
「そうか。いずれにしても、あの典膳という男、あなどれないことは確かだ」
「あなたほどの剣客がそうおっしゃるなら、かなりな使い手でしょうな」
 口ではそう言ったが、勘右衛門の表情にはわずかな怯えの色も見えなかった。
「おれの目がふし穴でなければ、おぬし相当武術ができると見たが。どうだ」
「は、はは、武術といえますかどうか。一族に伝わる、青竜剣と矛(ほこ)の術は、子供の頃から修行しております。いずれも、わが国の武術とはまったく違います」
「なんと。それでは勘右衛門、おぬしの家は異国の出自(しゅつじ)なのか」
「はい。およそ千五百年の昔、百済(くだら)から渡来した者の末裔にございます」
「ふうむ……。渡来人のな」
 飛鳥に都が置かれ、日本が国として形をととのえつつあった頃、文字をはじめ金工、木工、石工、染色、織物、鍛冶、革細工にいたるまで、当時の先進文化が大陸からの渡来人によってもたらされた。
「わかった。おぬしの祖先というのは、酒造りの技をもって渡来してきたのだろう。三輪明神にまつられている酒の神は、その先祖に違いあるまい」
「さあ、いかがなものでしょうか」
 色白の穏やかな顔の口元に、謎めいた微笑を浮かべた勘右衛門を見ているうちに飛十郎は、お日美に初めて会った時のことを思い出していた。
 見る角度によって青くなる瞳に、抜けるような白い肌。栗色がかった明るい色の髪に、すらりと長い手足。それが南蛮古渡りの、異国風の柄の着物によく似合っていた。しかし、それが葡萄蔓文狩猟図という波斯(ぺるしゃ)から絹の道を通って唐の国を経由し、さらには百済の渡来人によって飛鳥にもたされたもので、同じ模様の織物が東大寺・正倉院にあることなぞ、もとより飛十郎は知らない。
「そろそろ寝るか。いや、勘右衛門、馳走になった」
 背後に置いた刀を、飛十郎は膝元ヘ引き寄せた。
「離れ屋の、お日美の部屋のとなりに、寝床を用意しております」
「うむ。ひとつ頼みがある。水をたっぷりと枕元に置いてもらいたい」
「心得ております。酔いざめの水ほど、おいしいものはございませぬからな」
 勘右衛門はそう言って、離れに案内するために立ち上がった。


六 夜盗

「む」
 飛十郎は枕から、むくりと頭を上げた。寝返りをうつと、右手で掴んだ刀を左手に持ち替えながら、起き上る。箸墓のあたりから聞える夜行性の獣や水鳥の鳴き声にまじって、ほんのかすかに戸を打ち壊すような音が聞えたからだ。枕元に置かれた、ぎやまんの水差しを取り上げると、一気に飲み乾した。
「うまい」
 喉をたれる水滴を拭いながら立ち上がると、襖を開けてお日美を揺り起こした。
「おきろ。曲者だぞ、お日美」
 寝ていた部屋へ引き返すと、飛十郎は手早く着物と袴を身に付けた。
「この離れに、身をかくす場所はないか」
 指で目をこすっているお日美の耳元で、飛十郎は低い声で聞いた。
「ある」
 お日美は、部屋の隅にある押し入れを指差した。
「そこや。その上が、隠し部屋になっている」
 押し入れの襖を開けると、跳ね上げ式の段梯子が見えた。隠し部屋にあがって梯子を引き上げれば、押し入れの天井にしか見えない仕組みだ。
「よし。すぐに隠れろ。いいか、おれか勘右衛門がむかえにいくまで、絶対に下へおりるな」
 こくんと頷くと、お日美はすぐに足音を忍ばせて、隠し部屋へ登っていくと段梯子を引き上げた。
 刀を帯に差すと、飛十郎は母屋へ向かう渡り廊下を、ゆっくりと歩きはじめた。恐らく土蔵を破ってい
るのだろう。遠くの物音は、間断なくつづいている。
「荒っぽい連中だな」
 が、まずは勘右衛門の安否を確かめるのが先だ。座敷をつぎつぎに開けるが、誰もいない。恐らく賊は全員を一部屋に集めて、見張っているに違いない。
―― ならば、厨(くりや)か ……
 広くて飲み喰いが出来て、見張りがしやすい。そこまで見当がついたが、なにしろ初めて泊まった屋敷だ。どこに厨があるのか、まるでわからない。廊下に立っている飛十郎の耳に、かすかな水音と釣瓶のきしむ音が聞こえた。しめた、とばかりにその方角に踏み出そうとした飛十郎の刀の鞘を、闇の中から伸びた手が、ぐいと掴んだ。
「お静かに、早船さま」
 勘右衛門の小声が聞えた。
「おう。無事であったか、心配したぞ。ほかの者はどうした」
「不覚でございました。てまえは、庭先に逃げるのが精いっぱいで、使用人たち十五名は賊にからめ捕られて、手足を縛られ猿ぐつわをかまされて厨に押し込められております」
「見張りは、何人だ」
「五人。ほかの二十人の賊は、金蔵と道具蔵を打ち破るのに夢中になっております」
「では、まずその見張り五人を片付けよう」
 先に立って歩き出した飛十郎は、すぐに足を止めた。
「案内してくれ、勘右衛門。厨がどこか、さっぱりわからん」
厨を覗きに行った飛十郎は、すぐに引き返してきた。
「おぬしのいう通り、見張りは五人。三人が板の間の上で、ふたりが土間にいる。ありがたいことに縛られた人質に、抜き身を突きつけている者はいない」
「どうなさいます、早船さま」
「なに、すぐに片付けてくる。おぬしは、ここにいろ」
「そうはいきませぬ。てまえは、この家の主人でございます。使用人たちを救い出す責任があります」
 勘右衛門は、きっぱりと言い切った。
「よかろう。ならば、一諸にいこう」


七 喰いつめ浪人

 無雑作に板戸を引き開けると、大きく伸びをしながら飛十郎は台所へ入っていった。
「う、ううむ。いやあ、よく寝た。おい誰か水をくれ。いやに喉が乾いた」
 板の上で胡坐(あぐら)をかいて、茶碗酒をあおっていた男が、仰天した顔で飛十郎を見た。
「だ、誰だ、きさまは!」
「おれか? おれはな……」
 慌てて立ち上がろうとする男の眉間を、刀の柄頭で突き叩く。
「この三諸屋の、助太刀人よ」
 崩れ落ちるように倒れ伏した男をまたいで、飛十郎は次の盗賊の手元に付け入った。刀を抜きかけた男の右腕を掴むと、どこをどうやったものか男の躰は、もんどり打って羽目板に叩きつけられた。
「ちと、あらわれるのが遅かったがな」
「こ、こやつ」
 井戸端で水を飲んでいた男が、驚愕した顔で釣瓶を放りだした。あたりに水が撥ね散ると、滑車のきしむ音が響いて釣瓶桶が落下する音がした。
 残った男が、右八相の構えから、鋭い太刀筋で斬りおろしてくる。下がると見せて半歩前に出た飛十郎は、目にも止まらぬ速さで抜きあげて剣を受け流しながら、くるりと背後に廻ると男の右肩を切り裂いた。
「うっ!」
 肩から血を吹き上げながら倒れ込む男に目もくれず、飛十郎は土間に降りて行った。足を地面につける短い間に、刀はすでに鞘の中に納められている。
「居合だぞ。油断するな、寺原!」
 二呼吸半のあいだに三人も倒されては、油断もなにもあったものではない。
「とう!」
 気合を掛けながら大上段に構えた刀を振りおろしてくるのを、ふわりとかわすと飛十郎は逆手抜きにした刀の切っ先を、ぐさりと相手の太股に突き刺した。
「うわっ」
 刺された痛みに、刀を放り出すと、男はがくりと土間に膝をついた。股から刀を引き抜くと、飛十郎は逆手に持った刀を手の内でくるりと廻すと、井戸端に立ちすくむ残る一人の喉に突きつけた。
「た、助けてくれ。おれは金でやとわれて、見張りをするように頼まれただけだ。この者たちを傷つける気など、最初からない」
 寺原と呼ばれた男の手から、刀が音をたてて地面に転がった。
「喰いつめ浪人が、金ほしさでやっただけだというのか。だがな寺原さん、盗賊の手先になるのは感心せんな。せっかく、どこかの道場で剣の修行をしたろうに。腰の両刀が泣くぞ」
「わ、わかった。もう二度と盗賊の手先などにはならん」
「さてと、どうするかな」
 無精髭をこすりながら、飛十郎は刀の切っ先を、寺原の喉から胸へゆっくりとおろした。
「たのむ。おれには、妻と三人の子供がいるのだ」
 寺原は震えながら、両手を合わせた。飛十郎は顔をしかめた。
「悪いが、頭を冷やしてもらおうか。寺原さんは泳げるかな」
 意味がわからないらしく、寺原は目を丸くして飛十郎の顔を見た。
「まあいい。泳げなかったら、しばらく釣瓶の縄につかまっていてもらおう」
 胸に押し当てた刀を突き出すと、思わず一歩下がった寺原は、あっと声をあげて井戸の中へ落ちていった。
「お見事な、居合でございますな。早船さま」
 勘右衛門が、後ろから声を掛けた。番頭や手代や小僧たち、それに召使いや下男たちも縛られた手足が自由になって、血を流して倒れている盗賊たちを恐わ恐わと覗き込んでいた。
「まだ、二十人残っている。土蔵が破られる前に、なんとかせねばならん」
「今度は、手前もお手伝いしましょう」
「おれと一緒に戦うというのか、勘右衛門」
「年寄りの冷や水と思われるでしょうが、猫の手よりは役に立つかもしれませぬぞ」
 言いざま背後に持っていた剣を、くるくると水車のように廻したかと思うと、脇の下でぴたりと止めた。
「直刀だな。唐渡りの剣か」
 珍しげに飛十郎は、勘右衛門の剣を見た。
「わが一族に千五百年このかた伝わる、環頭の太刀でございます」
「両刃(もろは)のようだが、重くはないのか」
「かなり重うございますが、幼き頃からの修行で、いまでは自在にあやつれます」
 真剣をもっての勝負は、刀さばきの速さがものをいう。一瞬の遅速が、生死の分かれ目ともなる。勘右衛門の太刀の動きは役に立つと見た。
「心きいたる小者ふたりを、三輪明神と桜井宿の番所へ走らせております。武器を手にした神人たちと町役人どもが、駆けつけてきますぞ」
「では、その前に片を付けるとするか。いくぞ、勘右衛門」
 左手で鍔を押さえて腰を落とすと、飛十郎は広大な敷地の裏に立ち並ぶ土蔵にむかって走り出した。
 最初は遠慮がちだった土蔵破りの音も、数をたのんでの安心からか傍若無人な大音響に変わっている。
早くも土蔵の一つは破られ、中から木箱を運び出して大八車に積み込んでいた一団が、走り込んできた飛十郎を見て、はっと顔を見合わせた。
「く、曲者だ! 油断するな」
 駆け寄りざまに、たちまち三人を斬って捨てる。
「血迷うな。曲者はきさまたちだ」
 あわてて長脇差を抜いて振りかぶる四人の賊の刀の下に躍り込むと、ふたりの腰と足に斬り付け、すれ違いざまに残るふたりの肩と背中を切り裂いた。
「まて。こやつ、出来るぞ。おれにまかせろ」
 土蔵の横に立って指図していた頭領らしい浪人者が、そう声を掛けて前へ出た。それでなくとも仲間をあっという間に七人も斬り倒されて、浮き足だっていた盗賊たちは、ざざっと後へ下がった。
「お頭(かしら)ひとりに、まかせるわけにもいくめえ。おれたちも手伝うぜ」
 浪人ふたりが、頭領につづいてのっそりと前へ出る。
「きさまが、早船か。二朱にしては、いい腕ではないか。安売りはもったいないぞ」
「あいにくだが、後金二十両を受け取ったぞ」
「二十両二朱というわけか。それなら相場だな」
 言いながら頭領はじりじりと腰を落とすと、左指で鯉口を切った。いうまでもなく居合の構えである。
「お頭。噂ではこの男も居合を使うらしいぜ。どうする」
「おぬしたちは抜刀して、おれの両脇に並べ。おれは居合で立ちむかう。居合は抜かせれば弱いというからな」
 にやりと笑って飛十郎を見る。これまでに何人も殺したような、凄味のある目であった。
「考えたな。おぬしの居合で、おれに刀を抜かせたところを、このふたりに斬らせるわけか」
「そういうことだ」
「おれは無双直伝英信流だが、おぬしの流派は?」
「無外流」
「土蔵破りになり下がるとは、流祖・辻月丹どのが泣くぞ」
「ほざくな! 大口は、おれを斬ってからたたけ」
 両手を脇にたらして、するすると進んだ飛十郎が間合いに踏み込んだ刹那、獣のように歯をむき出した頭領の抜き放った刀が、凄まじい刃音をたてて下から斬りあげてきた。
 上段からの斬り込み、あるいは左右の脇から胴を狙う打ち込みは、かわしやすいし受けやすい。だが地面すれすれからの斬り上げを受けるのは、至難の技である。
 飛十郎は、強風にしなる柳の枝そのままに軽くのけぞると、顎の先一寸(約三センチ)で相手の切っ先を見切った。かわされた刀が反転して、ふたたび飛十郎の頭上を襲ってくる前に、まず左脇の浪人の足を突き刺し、引き抜きざまに右脇の浪人の腰に刀を打ち込んだ。
「ぎゃっ!」
 瞬時に浪人ふたりが、悲鳴をあげて倒れ込んだ。
「む」
 頭上に斬り込む頭領の刃筋はさすがに速く、片膝をついた飛十郎は、危うく刀の鎬(しのぎ)で受け止めた。金属が打ち合う鋭い音があたりに響くと、龕燈が照らす明りの中で火花が飛び散った。同時に、ふたりは三間(約五メ―トル半)の距離をおいて向かい合った。
「やるな、早船飛十郎」
 うめき声をあげている仲間を見ながら、頭領が薄笑いを浮かべる。
「おぬしもやるではないか。おれの名を知っているなら、じぶんも名のれ」
「馬鹿をいうな。押し入った盗賊が、名のるわけはあるまい」
「それもそうだ。おれが斬った連中は、いずれも浅手だぞ。早く手当てをすれば助かるが、遅れれば血を失って死ぬぞ」
「これまでだな。どうやら邪魔がはいったようだ」
 舌打ちをすると、頭領は母屋につづく門のほうを見た。戸を打ち破る激しい音と、人声が聞えてくる。三輪明神の神人たちが駆け付けたとみえる。
「ひけ!」
 頭領の声とともに、賊たちは汐が引くように姿を消した。傷ついた者には肩を貸して、手際よく引きあげて行く。
「まて、土雲典膳という浪人、まさか仲間にいないだろうな。犬を使う男だが」
立ち去ろうとする頭領に、飛十郎は声を掛けた。
「犬を使う男だと。知らんな」
 勘右衛門が太刀を片手に走って来た。息を切らしている。
「四人倒しましたぞ、早船さま」
「三諸屋、これですむと思うなよ。この土蔵、いずれ空(から)にして見せるからな」
 殺気のこもった目で、じろりと勘右衛門を睨むと、頭領はふところ手をすると、低く謡(うたい)をうなりながら、闇の中に姿を消した。
「あやつ、なかなかに人を喰った男だな」
 見送りながら、飛十郎は苦笑いを浮かべた。

  了   〈十五夜石舞台−2−につづく〉



      

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