自我を捨てずに、自我に囚われずに生きる | |
2013年7月10日 2時41分の記事 | |
本当の私達(ハイアーセルフ、本来の自分)は、想像以上に厳しいところがあります。 基本的に、より大きな私達は、我々に解決できないことはないと考えています。 つまり、抱えきれるだけの悩みを受け入れつつこの世に生を受け、実際に悩み、そして死んでいきます。 悩みからの解放というのは、できればそれに越したことはありませんが、仮にできなくても、別に問題はないように思います。 自我からの超越を説く人もいますが、私は現段階ではそうは思いません。 自我をもち、自我を持つがゆえに悩みながら、あるいは喜びながら、人と切磋琢磨しながら、この人生を生き切ることを是とします。 もしかしたら、それは私の未熟さゆえかもしれません。
皆様、応援の方、よろしくお願いします ↓ポチッとお願いします(^0^)/) この点、興味深いのは、いわゆる聖人と呼ばれた人、例えばそこにはブッダなどがいますが、ブッダは悩みから解脱せよとは説いたみたいですが、自我から抜け出よとは言っていないように思います。 つまり、自我を捨て去って悟りの境地に到達せよとは言っていない気がするのです。 ですが、近年現れた聖者には、これに近いことを説く者がいます。 面白いことに、地上での聖人の叡智をはるかに超えるセスなんかは、自我を捨てよとは決して言いません。 セスは、独特の視点から、我々が現実世界を生きる上で有意義な視点を紹介しますが、むしろそれは自我にのっとった生き方があって、そこから現実は自分自身が作り出していることを正面から認めていくアプローチとなっています。 自我からの解放は決して説きません。 私がなぜ自我というものにこだわるかというと、最近、自我の働きなしには人間は生きられないということを様々な場面で知るようになったからです。 極論すれば、奉仕や人助け、思いやりや慈愛に満ちた行為も、自我の働きです。 私は、自我は決して悪いものではなく、むしろ進化、自己成長にとって不可欠なのではないかとさえ思います。 だから、我々は何をしたっていいし、それがどういう意味をもつのかは「その人自身が決める」ことなんだろうと思います。 だから、最近私が思うのは、なんでもOK、ということです。 だから、他人の宿題に手出しするなんてことは頭ではありえないことだと思ってますし、実際、たとえその人が何をしていようとも、「いいんじゃない?」と思えるようになってきました。 まあ、それがいいか悪いかは別としても。 逆説的ですが、自我からの解放は、自我を知り尽くして初めて可能となるように思います。 だからこそ、我々はまず、地球スクールにて、はじめの一歩を踏み出したところなわけです。 自我の大切さ、そこでの体験の重要さ、日々感じている今日この頃です。 最終編集日時:2014年7月31日 18時44分 | |
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