遷宮後の出雲への旅 | |
[神社・旅] | |
2013年7月19日 2時27分の記事 | |
今回、遷宮後の出雲を訪れたわけですが、そのエネルギーを一言で描写すると、「穏やかであった」ということに尽きます。 奇をてらったものは一切なく、ハートチャクラにじんわりとやってくる、安心感のあるエネルギーでした。 ただ、やはり伊勢のエネルギーと比較してしまいます。 私の感応では、伊勢のエネルギーがなぜあのように神々しいのかを観てみると、それは神気を宿す人類側の「政策的理由から」伊勢に神々しい神気が宿っていると感じます。
私は、神々というのも、もとをただせば進化した人間であり、それらのエネルギーを宿すのは他でもない、今地球上で生きている人間だととらえているところがあります。 だから、表向きの象徴である伊勢(特に外宮、伊雑宮、瀧原宮)に高次元のエネルギーが降りてきているのを実際に現地を訪れた時に感じました。 これに対して、出雲も今回で3回目の参拝となりましたが、出雲に最も大きな変化が訪れたのは、去年の暮れで(2012年12月)、あの時期を境に大きなエネルギー的シフトが生じている可能性があります。 ですが、これも何度もお話していますが、神社とは我々の神的部分を映し出す鏡であり、実際には神社が変わったのではなく、我々が大きくシフトしたのだと思います。 もちろん、現象面では何も目立った変化がありませんから、多くの人は2012年12月のアセンションをイベント的に楽しまれたことと思います。 しかし、私は数年間前にブログに書いた通り、2012年12月のアセンションとは、精神的変化であり、それがその時期を境に生じてくるのは、その時期に我々が定めたからです。 そして実際、確かにあの時期を境に変わりつつあります。 我々の内面において。 すでに変化した後というのは、穏やかな静寂性が訪れます。 今回の出雲の静寂性は、そのような変化後の静寂性だったのではないかと個人的には感じています。 今年もおそらく、秋ごろに伊勢でオフ会がありますので、その時にぜひ伊勢のエネルギーを確かめてみたいと思います。 前置きが長くなりましたが、私は今回、出雲大社、出雲井神社、熊野大社、須我神社の4か所をおもにまわりました。 その中で最もエネルギー的に精妙だったのは、出雲井神社というところです。 出雲大社からすぐそばにある、とても小さな神社なのですが、ハートの奥深くに染み渡る、出雲大社以上に奥行きのあるエネルギーでした。 熊野大社は、エネルギー的にやばかったです。 ちょっときたない表現ですが、いろんな神社に行きましたが、初めて頭痛のする神社に行きました。 目玉の裏あたりがギューと締め付けられるような感覚です。 ここの表向きの神社のエネルギーは、高次によれば、エネルギー的な循環というか、かみ合わせというか、表現しずらいんですが、本来収まるべき状態に収まっていないために、このような頭痛を引き起すようなエネルギーになっているようでした。 その頭痛の基になっているのは、修行者のエネルギーだと感じました。 修行者の加持祈祷などから発せられる不調和な念が、明治期ごろの神社側の政策的転換と相まって、このような最悪のエネルギー状態になっているみたいでした。 ただ、この神社の境内には、イザナミ神社というのがあって、ここだけは別の次元になっている感じで、マカバを作っていると、地球が見えてきました。 これは私なりの見え方であって、ここが地球意識と深くつながっていることを示していました。 つまり、熊野大社は、本来は地球や源とつながる根源をもっているんですが、神社側の問題や修行者達の念によって、源とのつながりが断絶された状態だったのです。 あとは、出雲大社でのリーディングをご紹介したいと思います。 前回もお話したんですが、こんな印象がありました。 「出雲の地は、もともとは人が人を敬う場所であった。それが、いつの頃からか、祖先神を敬うようになった。」 これをさらに深めた結果が、以下の内容です。 出雲は、非常に古くから人が住んでいた場所なんですが、もともとは今から約9000年前にベーリング海を伝って人々が南下して出雲に住み着いたのが最初だと感じます。 ただ、出雲の歴史は大きく二つに分けることができ、一つは前期出雲とでもいうべき、上の9000年前に住み着いた人々でしたが、その後、後期出雲とでもいうべき時代に人々が朝鮮半島を経て出雲にやってきます。 この中に、スサノヲと我々が知る人物がいました。 この人物は、実在した人物で、高次によれば、「スサ」というのはもともとは古代のいずれかの地方の言葉で「鉄」を意味したのだと言います。 これが、「スサ」(=須佐)という地名として残り、須佐神社、須我神社という形で神社としても残りました。 スサノヲという人物は、今の我々の感覚からすれば侵略者だった側面があるんですが、それはいつの時代にもそういった人物というのはいるわけで、それよりももっと大きな功績は、この人物が鉄の製錬法を伝えたことでした。 (リーディング後、ウィキペディアで調べてみると、スサノヲの名の由来について次のような記述がありました。 「神名の「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノヲの行いは暴風雨の被害を示すとする)、 「進む」と同根で勢いのままに事を行うの意とする説[5]、出雲の須佐郷(現在の島根県出雲市佐田町須佐)に因むとする説(スサノヲは須佐郷の族長を神格化したものとする)、 州砂(=砂鉄)の王という説から、たたら製鉄の盛んであった意宇郡(おうのこおり)の首長とする説などがある。」) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%83%B2 スサノヲが鉄の製錬法を伝えたことは、様々な分野に大きな影響を与えました。 ちなみに、スサノヲが出雲を訪れたのは、紀元前600年頃だと感じます。 この時にスサノヲ達は、出雲を完全に征服します。 それまでに出雲にいた人々は、スサノヲのグループに取り込まれるか、散り散りになってしまいました。 その時の悲劇を伝えるのが、一子相伝として伝える富家の伝承だと感じます。 しかし、富家の伝承も、かなり歪んだものとなっています。 それは、およそ文章というのが、それを伝える側の意向がかなり反映されるものだからです。 歴史の勝者に対して、弱者はつきものです。 勝者、弱者のいずれが正しいのかなんて、誰にもわかりません。 もしかしたら、正しい者なんていないのかもしれません。 その後、紀元前2〜3世紀になって、天孫族と呼ばれる人々が九州から出雲の地にやってきます。 その後、出雲は彼らの影響下に入ります。 具体的には、天孫族が本拠地とした大和に、出雲の大王に訪ねさせたり、出雲の王室と政略結婚などをして天皇家(天孫族)の血筋が入るようになります(逆にみれば天皇家にも出雲の血が入ります)。 じゃあ、天孫族に成り代わった出雲は偽物なのかというと、そんなことはなく、現代までに出雲大社には脈々と神気が伝わってきています。 これが私の見た出雲の真相です。 全て本物なんです。 ですが、人間が移り変わり、歴史が塗り替えられるたびに、出雲もそれに応じて変化してきた、ただそれだけなんだと思います。 そして、日本全体で観たときに、今最も強い神気を感じるのは、やはり伊勢です。 それは、出雲より伊勢が優れているからではなく、時代の移り変わり、政策的な変化なのだと思います。 皆様、応援の方、よろしくお願いします ↓ポチッとお願いします(^0^)/) 空には、大量の龍が(笑) 下は、平安時代まであったとされる、巨大な神殿の復元モデルで、実物の10分の1です。 高さが48mあったとされています。 しかし、太古にあった神殿は、これの倍の96mあったとされているみたいです。 下は、平安時代の神殿跡から出土した、心御柱です。一つの直径が1.5mあり、これを3本束ねて1本の柱にしていたらしいです。 ものすごく巨大です。 昔の人って、すごいな〜(笑) 最終編集日時:2014年7月31日 18時38分 | |
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