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2013年7月27日 19時22分の記事 | |
>こんにちは。 犯人が捕まってよかったです。 「ちょっと前の私なら、リトリーバルしに行っていると思います」と、お書きですが、今はそうなさらないのは何故ですか。 宜しければお聞かせください。 どのブログだったのか忘れたのですが、そのブログ記事によると、犯人は、父親の介護の為にその地に戻って以後、その集落で一番年齢が若かったため、周囲の全部のお宅の草刈りをさせられるなどを始め、寄ってたかって苛めを受けていたとのことです。
リトリーバル(救出活動)というのは、本来、自分自身のI/Tメンバー(トータルセルフ内の別側面の自分)を救出するものなんです。 その目的は、より大きな「自分」の進化、向上、全体的成長のためです。 少したとえ話をしたいと思います。 道を歩いていて、困っている人に出くわしたとします。 なんでも、道に迷っているのだとか。 そこで、私はその方に、目的地までの行き方を知っていればお話するかもしれません。 ですが、何も尋ねられないことも多いです。 なぜなら、道に迷われた方がご自分で携帯を使ってネット検索したり誰かに聞いたり、または道端の標識を頼りにしたりして、自力で目的地まで行かれることでしょう。 訪ねられれば道順ぐらいはもし私が知っていれば説明するかもしれません。 ですが、私も知らない可能性がありますし、知っていたとしてもただ説明して終わりです。 方角が一緒ですからといってご案内することはまれにあったとしても、普通はそこまでしません。 私が言いたいことが伝わるといいんですけど。 他人の宿題あるいは、単におせっかいになる可能性が大です。 我々の世界と大差ありません。 言葉にするとこんな感じになるんですけど、これでもうまく表現できていません。 最近では、リトリーバルというものに違和感を感じています。 助けなどいらないのではないか? 助けてくれと頼まれても、すべて助ける必要はあるのか? などと考えてしまいます。 本当に助ける必要があるなら、何も考えずにすぐに行動に出るはずです。 例えば、電車がもうすぐで入ってくるプラットホームに自分がいて、そのプラットホームから線路に落ちた人を助けるのに、迷っている暇なんて、ありませんから。 でも、そういうことはごくまれで、大部分は助けなんて必要がないことが多いです。 親しい友人から相談に乗ってほしいと言われれば、そりゃ親身になって相談にのります。 でも、道端ですれ違った人に、「何かお困り事はありませんか?」と聞くのも、変ですよね。 たとえるなら、そんな感じです。 亡くなった人には、ガイドもいるし、ハイアーセルフもいます。 ちゃんと適切なプロセスを経て、しかるべきところに行かれます。 ですから、ほとんどの場合、救出活動は不要です。 というか、なんか説明に困るんですが違和感があります。 「助けましょうか?」 「いや、そんなんじゃなくて・・・」 といった感じでしょうか。 お答えになっているでしょうか。 皆様、応援の方、よろしくお願いします ↓ポチッとお願いします(^0^)/) Some rights reserved by Romtomtom | |
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1. h3813 2013年7月27日 21時26分 [返信する] imimiさま リトリーバルの本来の意味はそういうことだったのですね。 おこたえ戴き、ありがとうございます。 例を挙げての丁寧なご説明に、ああ そうなのか 成る程そうだ、と頷くことしきりです。 自他の魂・人格を尊重するご意思が伝わり、厳粛な気持ちになりました。
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