《日本の政治》共産主義より数千倍、軍国主義の可能性がある日本 極めて危険な現実 (2) | |
[日本の政治] | |
2021年10月15日 22時50分の記事 | |
昨日の本ブログ「《日本の政治》共産主義より数千倍、軍国主義の可能性がある日本 極めて危険な現実」(2021年10月14日)の続きです。
◎ 共産主義より数千倍、軍国主義の可能性があるのが実相 日本の国民のかなりの数は、立民・共産を中心とする共闘勢力が、議席を伸ばすことは予想しても、今回の選挙で政権を取る可能性は低いと考えているでしょう。そして、実際、その考えは正しいでしょう。 であるのに、甘利発言に観られるように、どうしてここまで立民・共産を中心とする野党共闘に過剰に反応するのか? 明らかにここがポイントと考えますが、その過剰反応の真意に、かつての『治安維持法』がオーバーラップします。 1925年に制定された治安維持法は、最初、そのターゲットを共産主義にするのです。そして、その後は、軍国主義、国家神道に反するものを弾圧していくわけです。要するに、軍国主義、国家神道という圧政をする上で、最初のターゲットを共産主義にすることをとっかかりとして、その後は共産主義とは関係のない言論・思想も、弾圧していくということなのです。 現在のように、民主主義、人権なんて口にしたらすぐに『アカ(赤)』とレッテルを貼られて、投獄されてしまうわけです。今の日本だったら間違いなく95%以上の日本人がこの治安維持法の弾圧の対象です。このように、自分たちと違うものを何でも「アカ」として、攻撃する反応は、今の右翼、ネトウヨと実は同じなのです。 上記の甘利発言の真意が、共産主義を攻撃し、何でもアカと決めつけて弾圧した、かつての治安維持法の時代とオーバーラップして考えるのは、決して、私だけのことではないでしょう。歴史をしっかりと踏まえていれば、当然の帰結なのです。甘利氏の発言の真意が、かつての『治安維持法』であるのなら、その本質は野党共闘への過剰反応などではなく、これからの右翼自民党による圧政の入り口と考えるべきでしょう。 1925年の治安維持法制定は、同時期の張作霖爆殺事件(1928年)、そして1945年の敗戦までの15年戦争の発端となった柳条湖事件・満洲事変(1931年)とセットであり、その後、日本は、国家神道・軍国主義の道をひた走り、亡んでいくわけです。 日本軍の中国・大陸への侵略と同時に、国内では治安維持法、右翼テロなどで日本人の思想を弾圧して国家神道・軍国主義一色にし、内外ともに軍国主義・国家神道を固めて行くわけです。その発端が、治安維持法の反共産主義ということなのです。やはり、今回の甘利発言はそういうものを何の疑問もなく彷彿とさせます。自民党の政調会長は明らかな戦前復古の右翼ではないですか? この戦前の時代、反共産主義のための『軍国主義』が正当化され、国家神道・軍国主義が暴走していくのです。そして、その結果、反共産主義の『国家神道・軍国主義』で国が亡んでいるのですから、基本的にアホのような話しでしかないのです。 日本の歴史の中で厳然として断言できることは、共産主義より軍国主義の方が圧倒的に害があったと言うことなのです。これは変えようがない事実です。『共産主義は危ない、危ない』と絶叫している輩が、実は最も危ない奴で、結局、国を亡ぼしたというのが、1925年以降の日本の真実であるわけです。本当にアホらしい話しです。 しかし、どんなに愚かしいことであっても、このことは、絶対に忘れてはならない事実なのです。なぜなら、右翼自民党は、その『アホ』の時代に、何の反省もなく、戻そうとしているからです。 私は共産主義を支持するわけではありませんし、これまで共産圏での圧政や虐殺を肯定するつもりは毛頭ありません。しかし、現在の日本においては、右翼自民党が、戦前復古、軍国主義・国家神道の時代、この『アホ』の時代に、何の反省もなく、戻そうとしていることが、何よりも危険であると考えているのです。 日本の歴史においては、共産主義より軍国主義・国家神道の方が圧倒的に災厄と害をもたらしている。このことを不問に付すつもりは毛頭ないですし、不問に付すべきではないと考えているのです。 (つづく) | |
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